皇位争乱
第三話 崇神天皇
四道将軍
武埴安彦の乱を制し日子坐王も帰順し乱の勃発を未然に払拭した崇神天皇は積年の望みである四道に軍を発し、未だに帰順しない吉備と丹波を始め越(北陸)と東海の諸国を制して豊葦原瑞穂国の統一に着手する決意を固めた。
しかし、軍を興すについて帝に一抹の不安が有った。それは御殿の内に些細な争いが絶えず、乱の兆しではないかと憂いていた。武埴安彦の時も意味も無い里歌に疑念を感じた大毘古(大彦命)の機転で乱を鎮める事が出来たが御殿の内に争いが絶えなければ諸国の平定は覚束ないであろうと思った。
帝は軍を興すに先立ち争いの根元を再び百襲姫に占わせた。気高く神々しい程に年老いた姫は祭壇を設え神に祈った。姫は一心に祈りを奉げ、神懸かりして祭壇の中を瞬きもせず見続けた。そして姫は「帝が即位して直ちに御殿の内に祀った天照大神と倭大国魂命(出雲の神、(大物主神の別名)の二神が相い争っている。」と告げた。
御殿の内で起こる争いの根元は神が侍従や侍女を扇動し些細な争いを起こさせていた。些細な争いも嵩じれば憎しみを増し、いがみ合って徒党を組み乱を引き起こす切っ掛けに為りかねない。帝は神を鎮め後顧の憂いを断って軍を興そうと思った。
崇神四年(二五二年)、帝は御殿に祀る天照大神を幼い皇女豊鍬入姫(紀の国の豪族、荒河戸畔の娘、遠津年魚眼々妙媛の皇女)に託し大和の国中を一望できる笠縫邑(元伊勢の檜原神社 奈良県桜井市大字三輪)に御遷し堅固な石の神籬(神が降臨する所)を設え祀った。
倭大国魂命は誰に託して祀れば良いか、再び百襲姫に占わせた所、神託が下り市磯長尾市(倭直の祖)に祀らせよとのお告げであった。
神のお告げが有った市磯長尾市は神武天皇東征の折、水先案内を務めた椎根津彦の七世の孫であった。直ちに召しだし倭大国魂命を代々祀る事を命じた。帝が神を祀り終えてから御殿の争いはぴたりと止み平穏な政務が戻った。
即位して五年、大和と近隣を平定した帝は冬の訪れを知らす木々の色が緑から黄葉に変わる頃、再び四道に軍を発する決意を固め、兵を召集して軍旅を整えた。
冬十月二十二日、帝は神に戦勝を祈り四道に征討の軍を興した。大毘古は北陸に、武渟川別(大毘古の御子)は東海に、五十狭芹彦(吉備津彦)を西道に、日子坐王は丹波に、兵を飾り平定に出立した。
丹波の由碁理は未だに帝の即位に反対し、大和の意向を聞かずに丹波を乱した豪族、玖賀耳之御笠に兵を向けていた。帝は由碁理が丹波を制圧した後に近江の豪族、息長宿禰を後ろ盾にした日子坐王と結び、反旗を翻す事を畏れていた。帝は由碁理に帰順を促す使者を送らず、敢えて日子坐王に丹波平定を命じたのは日子坐王が真に帰服したか否かの踏絵であった。それと共に、丹波峰山に拠る出雲氏族を討ち、何れの日か出雲出兵の足がかりを築く事に有った。
出雲は素戔嗚尊が天降って以来、連綿と続く大国であった。北の出羽から南の筑紫に及ぶ日本海の航路を制し、鋼を武器に交易を通じて巨大な富みを持ち大和に比肩する力を持っていた。
帝も故国に居た頃から出雲の存在を聞き知っており、前回の四道派兵の折、出雲を治める国造、杵築の出雲振根に帰順を促す使者を遣わしたが従わなかった。
出雲氏族は丹波の峰山、吉備の北部美作にも一派が地を領し出雲振根の意向に従い大和に従わなかった。
帝は北陸の越と丹波を平定して日本海の制海権を握り、西海の吉備を制して巨大な力を持つ出雲を封じ込めようとしていた。四道の平定が終われば帝は口実を設け一挙に出雲に攻め込む魂胆であろうと日子坐王は思った。
日子坐王は御子の美智宇斯王と共に兵を率いて丹波平定に向かった。出雲は丹後の峰山に援軍を送るであろうか、特に丹後の峰山は出雲の海上交易の上で重要な位置を占め、丹後の北岸を制せられると出雲は円山川の河口と宮津、若狭、角鹿(敦賀)の寄港地を失う事となる。
日子坐王は出雲の大軍を相手に戦う事を思い浮かべていた。地の利に暗く不利は承知していた。出雲の援軍が到着する前に峰山に拠る出雲氏族を撃ち破らなければ戦は長引くであろうと思った。
日子坐王は兵の大半を美智宇斯王に授け短期間で丹波の由碁理討伐を命じ、自身は少数の兵を率いて丹波、由碁理の庇護下に有る峰山への道を急いだ。
そして、丹後半島一帯を領する出雲氏族の拠点、峰山の館を囲んだが日子坐王の来襲に備え櫓を築き出雲と丹波の由碁理に援軍を要請して館を固めていた。
峰山の出雲氏族は寡兵ではあるが半島との交易で入手した武器を所持し激しく交戦して来た。櫓には弩(石弓)が据えられ頭上から霰の如く石礫が降り注ぎ館に近寄れなかった。
日子坐王は寡兵で館を囲んだが攻めきれず美智宇斯王の到着を待った。
一方、丹波の由碁理は自身が攻められるとは思い及ばず丹波を荒らした玖賀耳之御笠に兵を向け、本拠の守りは薄くなっていた。そこに突然、錦の御旗を掲げた美智宇斯王が大軍を率いて攻め寄せ由碁理の館を囲んだ。
館を囲んだ美智宇斯王にしても帝の命とは云へ不本意な戦で有り、矢を射掛ける事無く由碁理に降伏を促す使者を送った。由碁理は戦況の不利を自覚し戦う事無く降った。
勢いを得た美智宇斯王は由碁理の兵を合せて若狭の青葉山に拠る玖賀耳之御笠を攻めた。玖賀耳之御笠は元は若狭に割拠する土蜘蛛の頭領であった。都で皇位継承の争いが勃発しその混乱に乗じて若狭を占拠し丹波に攻め込み乱暴狼藉を働いていた。
美智宇斯王に攻められ追い詰められた玖賀耳之御笠は西に逃れ由良川の西岸、志高(京都府舞鶴市志高)に陣を敷き待ち構えていたが美智宇斯王は盾を連ねて由良川を渡河し玖賀耳之御笠の陣を襲った。
激戦を繰り広げたが敵わぬと見た玖賀耳之御笠は由良川を下流へ敗走し与謝の大山(大江山)に逃げ込んだが多勢に無勢、捕えられて首を刎ねられた。
丹波を平定した美智宇斯王は峰山に急いだ。由碁理も自身の保身の為、峰山に兵を向けた。
日子坐王は兵の損耗を怖れ盾を連ねて石礫を避け館を囲んでいた。美智宇斯王の援軍が到着し日子坐王は総攻撃を掛けた。峰山の館は数千人の兵に攻められ、たちまち門は破られ、櫓は打ち壊され、館は火を放たれて炎上し、逃げ惑う峰山の兵は容赦無く斬り殺された。
出雲は峰山に援軍を送ったが海上から館が炎上する煙を見て出雲に引き返した。
丹後を制した日子坐王は由碁理の兵を合わせて但馬に攻め入った。但馬の出石には天之日矛の末裔、多遅摩比那良岐が館を構え近隣に威を張っていた。
多遅摩比那良岐の始祖、天之日矛は新羅の皇子として生まれ将来を約束されていた。しかし、最愛の妻、阿加流比売が突然姿を隠し、天之日矛は八方手を尽くして捜し求めたが見つからなかった。
海を渡って来たと聞かされた事を思い出し、意を決して国を弟の知古に托し、妻が残した八種の宝を携えて海を渡った。
荒波をくぐって角鹿(敦賀)に至り気比神宮(福井県敦賀市曙町)に詣で、妻が残した「胆狭浅の太刀」を奉納して神の助力を乞うた。神の神託を得て難波に至り妻を捜し求めたところ妻は難波の比売碁曾社(比売許曽神社 大阪市東成区東小橋)に坐す阿加流比売と言う神であった。
天之日矛の事を漏れ聞いた時の帝は天之日矛を召し、播磨の穴粟邑か淡路の出浅邑に住む事をお許しになったが落胆した天之日矛は宇治川を越えて近江に至り吾名邑に暫く留まった後、帰国を諦め近江から若狭を経て但馬の出石に入った。
出石で豪族の俣尾の知遇を得て客となり、残された七種の宝、「葉細の珠」、「足高の珠」、「鵜鹿鹿の赤石の珠」、「出石の刀子」、「出石の矛」、「日の鏡」、「熊の神籬一具」、を俣尾に見せ奉納する神を問うた。
俣尾は伊豆志の八前の大神(出石神社 兵庫県豊岡市出石町宮内)に祀る事を薦め七種の宝は伊豆志の八前の大神に祀られた。
天之日矛は俣尾の勧めに応じて娘の前津見を娶り、前津見は脱解(新羅四代の王)と多遅摩母呂須玖を生んだ。そして、天之日矛は但馬、播磨を席巻して穴粟邑(兵庫県宍粟市)に暫し留まり、砂鉄を産する地を見つけ新羅伝来の技法を用いて鋼を産み出した。
天之日矛の鑪の技を伝え聞いた出雲の国造は天之日矛を迎え入れ、新羅の鑪の技法である風を送る天羽鞴という皮袋の吹子を設えた鑪の技を修めた。以来、出石は出雲とも修好を保ち天之日矛の子孫、多遅摩比那良岐(多遅摩母呂須玖の子)は但馬一国を制していた。
兵を向けられた多遅摩比那良岐は丹波の由碁理が降ったと知り戦わずして恭順の意を示し日子坐王に降り、子息の多遅摩清彦を帝に仕えさせた。
但馬、丹後を制した日子坐王は帝の許しを得て御子の美智宇斯王に丹波を領する主として留まり出雲に備える事を命じた。
丹波に留まった美智宇斯王は丹波の豪族、川上の姫、麻須郎女を娶り垂仁天皇の后と為った日葉酢媛と沼羽田之入毘売、阿耶美能伊理毘売、円野比売の四人の姫を授かった。
西道の平定を命じられた五十狭芹彦は弟の稚武彦と樂樂森彦、留玉臣、犬飼健の三人の将を従え騎馬軍団を率いて中ツ道を北に進軍し木津から樟葉に至った。
樟葉で野営し翌朝、鵜河(淀川)を渡河し西国街道(旧山陽道)を西に進軍して摂津の三島(高槻、茨城、摂津市)、豊島(豊中、池田、箕面市)、武庫(西宮、尼崎、宝塚市)、菟原(芦屋市・神戸市東灘区・同市灘区)、八部(神戸市兵庫区・長田区・須磨区)で豪族の兵を集め、山陽道を西に進軍し山が海に迫る須磨の境川(摂津と播磨の境)に至った。
播磨を領する牛鹿臣(孝霊天皇の御子、日子寤間命の子孫)は印恵命の東征の途上を襲い反旗を翻したが印恵命に敗れ再起を期して野に臥していた。
入京した印恵命は即位して帝となったが暫くの間は叛旗を翻す豪族の討伐に明け暮れ、都の混乱は治まらなかった。
牛鹿臣はこの機を逃さず兵を挙げ瞬く間に旧地を回復し、近隣を襲って領地を拡大していた。勢いは日に日に高まり播磨の豪族を糾合して播磨一国を制する勢いを見せていた。都から帰順を促す使者が度々来たが丁重にもてなし追い返していた。
しかし、帝が播磨を支配する牛鹿臣を許すはずもなくいずれ征討の軍を差し向けられるであろう、その時は皇孫に繋がる身として一戦を交え意地を見せたいと思っていた。
案の定、都からの知らせで帝が征西の軍を発したと聞き敵うはずもないが戦わずして降るのを潔しとせず兵を集め迎え撃つ準備を整えていた。
征西の軍が摂津の高月(高槻)に至った時、なぜか征西の軍は都に引き返した。何事が有ったのかと不思議に思っていたら武埴安彦の叛乱が発覚し急遽、都に引き返したとの事であった。
武埴安彦の乱を鎮めた帝は再び四道に軍を発するとの詔があったとの報せが都からもたらされた。やはり、帝は帰順しない牛鹿臣に播磨の支配を許すはずがなかった。皇軍の来襲を知った牛鹿臣は播磨の豪族を糾合して兵を集め敵わぬとも皇孫の意地を見せたいと思った。
皇軍が葦屋を進発したとの報せを受け、播磨と摂津の境、須磨に布陣して待ち構えた。須磨は山が海に迫る狭隘の地で守るのに有利な地形であったが五十狭芹彦の騎馬軍団の猛攻と地理に明るい八部の豪族が山から攻め下り防ぎ切れずに敗退し、氷河(兵庫県加古川)に退き川を盾にして布陣した。
須磨で牛鹿臣を撃破した五十狭芹彦は播磨の氷河に至り、対岸に布陣する牛鹿臣と対峙した。
五十狭芹彦は戦いを前に戦勝を祈願して氷河に酒を注ぎ神に祈りを奉げた。祈り終えた五十狭芹彦は渡河を試みたが牛鹿臣も怯む事無く盛んに矢を射かけ渡河を許さなかった。こうして氷河を挟んで対峙し長期戦の様相を呈した。
五十狭芹彦は無益な戦を望んではおらず密かに牛鹿臣に加担する播磨の豪族に領地安堵を条件に帰順を促す使者を遣わし豪族の離反を誘った。領地安堵が功を奏したのか播磨の豪族は次々に離反し牛鹿臣の陣中で反乱を起こした。牛鹿臣の陣営は大混乱となり手兵のみとなった牛鹿臣は兵を引き飾磨の館に逃れた。
五十狭芹彦は易々と氷河を渡河し牛鹿臣の館を囲み降伏を促した。手勢のみとなった牛鹿臣は抗するすべもなく白旗を掲げて五十狭芹彦に降った。
牛鹿臣は縄を掛けられ五十狭芹彦の前に引き摺り出され斬首を覚悟していたが驚いたことに五十狭芹彦は「縄を解け」と命じ「既に皇位継承の争いは終わった。此度は孝霊天皇に繋がる皇孫ゆえ大赦を以ってこれを許す。今後、刃向えば許さぬ。」と告げ、牛鹿臣を誅する事無くこれを許し領地を安堵して兵を差し出させた。播磨の兵を合わせた五十狭芹彦は大軍を擁して播磨と吉備の国境、千種川に迫った。
吉備は百済に敗れた馬韓の小国の王子と名乗る温羅が支配していた。温羅は阿曽郷(岡山県総社市)の鬼城山(標高三九七メートル)に城壁を巡らした朝鮮式の山城を築き、鉄の生産を武器に吉備で巨大な勢力を保持していた。
そして、温羅は印恵命も斯蘆国(後の新羅)に敗れ海を渡って渡来した弁韓人である事を承知していた。それゆえ、印恵命が即位した大和も吉備、出雲と並ぶ倭の一国でありいずれ出雲と同様に友好を築こうと思っていた。所が即位間もなく大和から帰順を促す使者が到来した。
温羅は印恵命の非礼に怒りを覚え使者に告げた。「友誼を結ぶにやぶさかでは無いが帰順を促すとは無礼である。帰って印恵命に伝えよ、膝を屈して非礼を詫びよ。」こうして使者を追い返したのでいずれ戦になるであろうと思っていた。
印恵命が征西の軍を発したとの報せを受けたが、出兵したのは即位に反対する播磨の牛鹿臣を誅する為であろうと高を括っていた。しかし、五十狭芹彦は牛鹿臣が降っても都に引き揚げず飾磨に留まって居ると知り赤穂の豪族に出兵を命じたが豪族は応じなかった。
飾磨を進発した五十狭芹彦は播磨と吉備の国境、千種川を挟んで戦になるであろうと思っていたが対岸に兵の姿が見えず何か策略が有るのではと疑い渡河を見合わせて有年原(兵庫県赤穂市有年原)に留まっていた。
そこに白旗を掲げた小舟が近づき五十狭芹彦に会見を申し入れてきた。使者は「皇軍が吉備に攻め入ると聞き赤穂の豪族は温羅の出兵要請に応じていない。将軍は速やかに千種川を渡河し軍を進められよ、我らも征西の軍にお加え頂きたい。」と申し述べた。
五十狭芹彦は赤穂の豪族に領地安堵を約束し直ちに千種川を渡河し吉備の国に入った。皇軍は有年原から現在の国道二号線を西に進軍し梨ヶ原(兵庫県赤穂郡上郡町梨ケ原)、船坂峠を越えて三石(岡山県備前市三石)に至った。三石から岡山県道九六号線(古代の山陽道)を吉永(岡山県備前市吉永)、和気(岡山県和気郡和気町)と進軍し吉井川に至った。
和気から吉井川の渡河地点を探して南下していると熊山(標高五〇八メートル 岡山県赤磐市と備前市の市境 山頂には高さ約三・五メートル、石を三段に積み上げた古代遺跡の小さなピラミッドがある。)に狼煙が上がった。
吉井川は吉備の東端に位置し熊山は古代山陽道の往来の監視に最適な位置にあった。狼煙を見た五十狭芹彦は温羅の支配地に足を踏み入れた事を知り、敵の来襲を警戒しつつ吉井川を渡河し万富(岡山県東区瀬戸町万富)に至った。
万富から温羅の本拠地、鬼ノ城まで凡そ六十里(この頃の一里は五三〇メートルであったと思われる。従っておよそ三〇キロ)、狼煙が上がり温羅も敵の来襲を知り近隣の豪族に出兵を命じた事であろう。万富から瀬戸まで凡そ一三里(七キロ)、山が迫る狭隘な地を抜けると吉備の穴海の海岸、瀬戸に至る。
この頃、児島湾は西の高梁川に繋がり児島半島は大きな島であった。岡山市、倉敷市の大半は海で山陽本線の辺りが海岸線であった。この本土と児島の間の海を吉備の穴海と称していた。その後、高梁川、旭川、吉井川の三大河川からの土砂の流入と干拓事業によって半島となった。
五十狭芹彦は敵の来襲を覚悟して馬を馳せた。予想通り道の両側の尾根から次々と騎馬軍団が襲い掛かってきたが撃退し敗走する兵を追って瀬戸の大廻山(標高一九六メートル)に至った。
大廻山は山陽道と吉備の穴海を見下ろす位置に有り温羅が監視の為に土塁を巡らした砦を築き、兵を配備していたのであろう。五十狭芹彦は敵が逃げ込んだ大廻山を囲み一斉に攻め上り砦に拠る兵を討ち果たした。
瀬戸から旭川の河口付近、龍ノ口山(標高二五七メートル)の南麓、賞田(岡山市中区賞田 この辺りまで海であった)を目指して進軍し才ノ嵶峠(岡山県岡山市瀬戸町宿奥)で温羅の軍に遭遇したがこれを撃破し敗走する温羅軍を追って賞田に至り、旭川の対岸、笠井山(標高三四〇メートル)に温羅の軍が見えた。
五十狭芹彦は龍ノ口山に布陣し旭川を挟んで温羅と対峙した。互いに渡河を試み攻め合ったが攻めきれず睨み合いが続いた。
時は冬十二月であった。寒い冬の早朝、大河に濃い霧が発生する事を知っていた五十狭芹彦は霧の発生を待った。夜明け前、気温が下がり、霧が出始めたちまち濃霧となった。五十狭芹彦はこの時を待っていた。合言葉を決め全軍に渡河を命じた。
河の防備を固めていた温羅の軍は霧の中から突然現れた敵の来襲に防戦も適わず笠井山に敗走した。五十狭芹彦は敗走する敵兵を追って笠井山を囲んだ。
温羅は持ち堪えられないと見て笠井山を退き本拠地の鬼城山(標高三九七メートル 岡山県総社市)の鬼ノ城を目指して撤退した。
五十狭芹彦は攻め上って笠井山の山頂に至ったがすでに温羅は退いた後であった。五十狭芹彦は撤退する温羅の兵を追って鬼城山の山麓に至った。
温羅の拠る鬼ノ城は鬼城山の山頂に築かれた山城である。温羅の故国、馬韓の城に倣い山頂のすり鉢型の地形を巧みに利用し土塁を巡らし、石垣を築いて城壁となし、東西南北四ヶ所に櫓門を構えていた。
五十狭芹彦は鬼ノ城に攻め上ったが頭上から矢を射掛けられ、大石を落とされ石垣に近付く事も出来なかった。無理に攻めると兵の損耗が甚だしいだけであった。
一旦、兵を引き軍議を開いていると矢部(岡山県倉敷市矢部)の豪族、夜目山主とその子、夜目麿が温羅を裏切って投降してきた。夜目山主は吉備の中山の地(岡山市北区一宮 吉備津神社 標高一七〇メートル)に本陣を構え、鬼ノ城を囲んで補給路を断ち兵糧攻めにするのが得策であると進言した。
長期戦を覚悟した五十狭芹彦は夜目山主の策を入れ樂樂森彦、留玉臣、犬飼健の三人の将に兵を授け鬼ノ城を囲み、補給路を断って孤立させた。
そして、使者を遣わして温羅に降伏を勧告したが、温羅は鬼ノ城の高見から中山に展開する万余の兵を見ても臆する事はなかった。鬼ノ城に籠もれば万余の敵も恐るるに足らずであった。櫓門に近付く使者の足元に何本も矢を突き立てて追い返し、徹底抗戦の姿勢を示した。
数ヶ月が経ち鬼ノ城では食に窮するようになったがそれでも温羅は白旗を上げなかった。
五十狭芹彦はそろそろ攻め時と見て本陣を片岡山(岡山県倉敷市矢部 楯築遺跡)に遷し石楯を築いて布陣し、攻城用の櫓を押し立て鬼ノ城に総攻撃を開始した。温羅も櫓門に上がり自ら弓を取って応戦した。
櫓の上から温羅の姿を認めた五十狭芹彦は弓に矢を番えて射たが温羅は石礫を投げて矢を防いだ。五十狭芹彦が何度矢を射ても温羅が投げる石礫に阻まれ射殺す事が出来なかった。
一計を案じた五十狭芹彦は弓に二本の矢を番え温羅に射掛けた。一本の矢は温羅の投げた石礫に阻まれたがもう一本の矢は見事に温羅の左目を射抜き血潮が噴き出した。その血潮は血吸川に滴り落ち下流の赤浜(岡山県総社市赤浜)まで血に染めた。
温羅が倒れ勢いを得た五十狭芹彦の軍勢は櫓門を打ち破り城内に雪崩れ込んだ。五十狭芹彦は「温羅を捕えよ。」と叫び温羅を追った。
温羅は城を逃れて山中に隠れ血吸川に身を投じた。血吸川は足守川に合流し五十狭芹彦が陣を敷く片岡山の麓を流れていた。
温羅は血吸川に浮かぶ死体と共に流れ下り五十狭芹彦の陣を目指したが犬飼健の軍勢に見つかり激戦となったが矢が尽き刀折れて鯉喰神社(岡山県倉敷市矢部)の地で樂樂森彦に捕えられた。五十狭芹彦は温羅の首を刎ね、見せしめとしてその首をさらした。
温羅を討伐した五十狭芹彦は安芸から豊後に至り帝の即位に異を唱える豪族を誅し、筑紫から肥前に遠征して征討の旅を終え帝に復命した。
戦勝を報告した五十狭芹彦は帝の命を受け、弟の稚武彦と共に再び吉備に赴き出雲出兵に備えて吉備に留まり吉備津彦と称してこの地を治めた。
東海の平定を命じられた武渟川別は騎馬軍団を率いて初瀬街道(国道一六五号線)を東に進軍し、宇陀から名張に至った。
当時は名張川が畿内(当時の首都圏 山城、大和、河内、摂津、和泉)の東端であった。これから先、武渟川別が向かう東海には伊勢(三重県北部中部)、尾張(愛知西部)、参河(愛知東部)、遠江(静岡西部)、駿河(静岡中部、伊豆)、甲斐(山梨)、相模(神奈川)、武蔵(東京、埼玉)、総(千葉、茨城西部)、常陸(茨城中部東部)、陸奥(宮城中南部、福島、山形内陸部 仙台、福島、会津)の十ヶ国が有り陸奥の先は蝦夷の住する地であった。
武渟川別は名張川を渡河して伊賀の国に入った。伊賀も大和が治める地であり皇軍は粛々と進軍し阿保、比土、依那古の豪族も御旗を見て次々に恭順の意を示し兵を随従させた。
依那古を過ぎ伊賀上野から柘植川に沿って大和街道を進軍し佐那具に至った。佐那具は伊賀の中心地で大豪族の出迎えを受け数日留まった。佐那具から柘植を過ぎ山間の道を進軍して加太峠(三重県伊賀市と同県亀山市の間にある峠)を越え鈴鹿の柵を目指した。
鈴鹿の柵を越えた東の地、尾張は武諸隅の治める地であった。武諸隅の始祖は饒速日命の御子、天香具山尊である。
天香具山尊は父の饒速日命が長髓彦を裏切り謀略を以って殺害を計り、大和の国を神武天皇に明け渡した行為に怒りを覚え大和を後にして、不破の関を越え尾張に入った。そして、近隣の豪族を斬り従え美濃(岐阜南部)、尾張を支配する大豪族となり尾張一宮に居を構えた。
尾張を制した天香具山尊は大和の侵攻を警戒し大和から伊勢に抜ける鈴鹿の山間に鈴鹿の柵(三重県亀山市関町新所付近)を築き、近江から美濃に抜ける不破の地には不破の柵(岐阜県不破郡関町付近 関ヶ原)を築いた。
尾張、美濃を支配する武諸隅は天香具山尊の六世の孫に当たり両関を固めて尾張に君臨していた。
武諸隅は大和に政争が有り新たな帝が即位した事を知り、大和の侵攻を警戒して鈴鹿の柵と不破の柵を固めていた。
武渟川別は加太峠を越え鈴鹿川に沿って山間の道を進軍し鈴鹿の柵に至った。
鈴鹿の柵は観音寺山(標高二二四メートル)から城山(標高一五三メートル)を経て鈴鹿川に至る長大な土塁を築き、観音寺山と城山の狭隘の地に道を塞ぐように櫓門が築かれていた。
鈴鹿の柵を守る武諸隅の兵は城山の頂上から大和街道を監視していた。兵は遠くに皇軍を見つけ大声で敵の来襲を報せた。柵を守る将は直ちに門を閉ざして守りを固め、尾張一宮に早馬を仕立てて敵の来襲を報せ、援軍を要請した。
報せを受けた武諸隅は援軍を鈴鹿の柵に向わせた。それと共に環濠を廻らした尾張一宮の館に急遽、堅牢な稲城(稲わらを積み上げて、敵の矢を防ぐ防壁)を築き大和の来襲に備えた。
武渟川別は鈴鹿の柵に至り、使者を遣わして櫓門を開いて降伏せよと説かせたが柵を守る尾張の将は櫓門から矢を射掛けて来た。
やむなく武渟川別は攻撃を命じたが鈴鹿の柵は狭隘の地で攻め入る兵も限られていた。正面の櫓門に攻めかかったが櫓門と土塁の上から矢を雨の様に射掛けられ櫓門に近づく事も叶わなかった。
大軍を擁する武渟川別は守備の兵を分散させようと考えた。土塁の長さは凡そ七百メートル、数ヶ所から一斉に攻めかかれば突き崩せると考え、一隊を鈴鹿川の下流に向かわせ柵を背後から攻めさせた。櫓門の両翼の土塁に攻城用の梯子を持った兵を配置し、盾で降り注ぐ矢を防ぎながら土塁に近付き高さ三~四メートルの土塁に梯子を掛けさせた。
こうして三か所から一斉に攻撃し、抗しきれなくなった守備兵は土塁を離れ、梯子を駆け上った兵は次々に土塁を乗り越え、櫓門を開いた。寡兵では守り切れず救援の軍が到着する前に陥落し多数の兵が降伏した。
武渟川別は降伏した兵に柵の内に繋がれていた馬を与え「立ち返って主に告げよ、帰順すれば領地は安堵する。」と告げて解き放した。
鈴鹿の柵を攻略した武渟川別は兵を率いて尾張一宮を目指し亀山から井田川(三重県亀山市井田川)、加佐登(三重県鈴鹿市加佐登)、川曲(三重県鈴鹿市木田町)、朝明(三重県四日市市朝明)、榎撫(三重県桑名市多度町)と進軍し木曽川の渡河地点を探して美濃に入り、進軍を阻む美濃の豪族を討ち破り、駒野(岐阜県海津市駒野)から墨俣(岐阜県大垣市墨俣)に至った。
当時の木曽川は現在より北の境川が本流で墨俣付近で木曽川、長良川、揖斐川が合流して大河となり美濃と尾張の国境であった。
そして、木曽川を渡河するには上流から大井戸渡し(岐阜県美濃加茂市下古井付近 中農大橋)、鵜沼渡し(岐阜県各務原市鵜沼小伊木 犬山大橋)、池瀬渡し(岐阜県各務原市鵜沼大伊木 ライン大橋)、摩免戸渡し(岐阜県各務原市前渡 愛岐大橋)、稗島渡し(岐阜県羽島郡岐南町平島 川島大橋)があった。
武渟川別は墨俣から東に向かい渡河地点を探して進軍した。対岸には武諸隅の軍が布陣し、皇軍の動きに応じて軍を動かしていた。
大河が天然の要害となって武渟川別の進軍を阻んだ。何度も渡河を試みたが尾張の激しい反撃に遭い果たせなかった。夜陰に紛れて渡河を試みたり、数か所同時に渡河を試みたがいずれも反撃に遭い、川を挟んで両軍が対峙して一ヶ月が過ぎた。
兵の損耗を覚悟して一気に押し渡るべきか軍議を開いたが意見は纏まらず夜になり突然、大雨が降りだした。武渟川別は雨音にはっと作戦がひらめいた。
直ちに諸将を集め「明日は川が増水する。敵は渡河出来ないと見て油断するであろう。流れも速くなり危険ではあるが上流から馬筏を流せば渡河出来るやもしれぬ。」
馬筏とは流れの速い川を一騎で渡ると流されてしまうので強い馬は上流側に弱い馬は下流側に配置し、数頭の騎馬武者が互いの弓を握りしめて馬を筏の様に組み、隊列を作り、流れに乗って渡河する作戦である。
こうして一軍を割き夜陰に紛れて上流に向かわせた。翌朝、雨は上がったが低く雲が垂れこむ曇天であった。昨夜の雨で木曽川の水量は増し流れも速く、尾張の兵はこの流れでは渡河出来ないので攻めてこないであろうと見て油断していた。そして、曇天でもあり対岸の兵が少なくなっている事に気付かなかった。
そこに上流から次々と馬筏が流れて来た。渡河した騎兵が次々と油断してくつろいでいる尾張の陣に斬り込み、尾張軍は大混乱におちいった。対岸の様子を窺がっていた武渟川別は馬筏を組んで全軍に渡河を命じ、尾張軍に攻め掛かった。
こうして尾張軍は敗走し武渟川別は追撃の手を緩めず尾張一宮の武諸隅の館(真清田神社 愛知県一宮市真清田)を囲んだ。
武諸隅は館を囲まれこれ以上、戦を重ねても勝ち目の無い事を悟り自ら白旗を掲げて武渟川別の陣に赴いた。陣に近づくと衛兵に誰何され、剣は奪われ近衛の兵に両腕を抱えられ鉾が交錯する隊列の中を進んで武渟川別の前に引き摺り出された。
死を覚悟した武諸隅は「我が身一つお裁きを。」と申し述べ平伏して沙汰を待った。武渟川別は「此度の事は許す。末永く帝に仕えよ、領地は安堵する。」と告げ、戦を不問に付した。
領地を安堵された武諸隅は平伏して申し述べた。「身に余るお裁き、帝の臣下となった証として妹の大海媛を帝の妃に奉りたいと存じます。」と申し述べた。
武渟川別は「それは何よりの証じゃ、帰還の折に必ず立ち寄るゆえ、その時、媛を伴って都に同道せよ。」と告げた。
尾張を制した武渟川別は武諸隅の兵を加え更に東を目指して軍を進めた。尾張一宮から熱田を過ぎ尾張と三河の国境、境川を渡河して参河に入った。
参河の青海(矢作川の西)、額田(矢作川の東)、宝飫(豊川の西)、八名(豊川の東)の豪族も尾張が降った事を承知しており恭順の意を示して皇軍を迎え入れた。
更に東を目指して進軍し遠江の遠淡海(浜名湖)、久努(磐田・袋井・掛川地方)素賀(菊川)の豪族も帰順し、大井川を渡河する金谷(静岡県島田市金谷)に至った。大井川を渡河すれば駿河の国である。
駿河国は富士川を境に西は廬原君が領し、東は珠流河君が領していた。真偽の程は別にして共に皇孫であると称し、廬原君は孝霊天皇の皇子日子刺肩別命の子孫と称し廬原(静岡県静岡市清水区廬原)に館を構えていた。珠流河君は神武天皇の皇子、神八井耳尊の子孫と称し沼津に館を構えていた。
武渟川別は大井川を前にして、廬原君は先の帝に繋がる血筋であり皇統が改まった事に反発し戦を仕掛けてくるかも知れないと考え帰順を促す使者を遣わした。
廬原君は尾張が降った事を聞き知っており使者に「大井川までお迎えに参上致します。」と告げ、使者と共に大井川で出迎え、地に伏し臣下の礼を取った。
廬原君の館を後にして更に東に進軍し富士川を渡河して珠流河君が領する地に入った。珠流河君も廬原君が臣下の礼を取ったと聞き及びそれに倣い恭順の意を示した。珠流河君の館で数日過ごし、相模国(神奈川)に向かった。
駿河国から相模国に向かうには横走(御殿場)から足柄街道(県道七八号)を進み竹之下(静岡県駿東郡小山町)から足柄峠を越えて相模国に入り矢倉沢(神奈川県南足柄市)、怒田(南足柄市)、佐牟多(神奈川県足柄上郡松田町)、千村(神奈川県秦野市千村)、曽屋(神奈川県秦野市曽屋)、伊勢原(神奈川県伊勢原市伊勢原)、厚木(神奈川県厚木市厚木)、国分(神奈川県海老名市国分)と進軍する事となる。
武渟川別は珠流河君の館を出立し横走から足柄峠を越えて相模国に入った。先駆けの兵が戻り「酒匂川の対岸に数百の兵が陣を敷いて待ち構えている。」と告げた。佐牟多の豪族は箱根の山を越えて大軍が押し寄せたと知り兵を率いて酒匂川に陣を敷いた。
季節は冬、川の水量も少なく武渟川別は全軍に渡河を命じ、怒涛の如く敵陣に斬り込み刃向う敵を蹴散らし敗走する兵を追って佐牟多に至り豪族の館を囲んだ。
佐牟多の豪族は恐れをなし白旗を掲げて降伏し御旗に帰順を誓った。豪族の話では箱根の険が東西を分かち往来も稀で東国(足柄峠より東の国)には都の噂も届いていない様子であった。
武渟川別は更に東に進軍し伊勢原に至った。相模川流域は寒川(神奈川県高座郡寒川町)に館を構える寒川比古が領していた。寒川比古は皇軍の来襲を聞き館の防備を固めていたが十重二十重に館を囲まれ攻する術も無く御旗に帰順を誓った。
武渟川別は更に東に進み、武蔵(東京、埼玉)、から荒川を渡河して総(千葉、茨城西部)の刀祢河(利根川)に至った。更に北を目指し刀祢河の支流、毛野川(鬼怒川)を遡り日光の今市から川治を過ぎ、山深い渓谷を更に遡り山王峠を越えて阿賀野川の支流、荒海川(阿賀川)を下って会津坂下に至った。
越(福井から新潟に至る地域を三つに分け越の久知(越前 福井、石川)、奈加(越中 富山)、志利(越後 新潟)と称していた)平定を命ぜられた大毘古は木津、宇治、大津と進軍し、琵琶湖の西岸を北上して海津(滋賀県高島市マキノ町海津)に至った。
海津から山越え七里半と云われる西近江路の小荒道、山中、駄口、と北上し疋田で角鹿(敦賀)、愛発の柵(敦賀市の南方、疋田?)に至った。柵を越えればその先が越の久知(越前)であった。
越の久知は饒速日命の姦計を逃れて大和を去った長髓彦の子孫、越比古が治める地であった。一九〇年の時を経ても長髓彦の怨念は受け継がれ、長髓彦が築いた愛発の柵を守って大和の侵攻に備えて来た。
愛発の柵は狭隘な地に土塁を築き三重の壕を廻らし櫓門が道を塞ぎ久知に進入する事を阻んでいた。今迄、一度も大和の来襲は無かったが柵の守備は連綿と続いていた。
愛発の柵に大毘古が率いる大軍が現れたのは突然の出来事であった。大毘古は御旗を掲げ柵に向えば、守備の兵は大軍を怖れ柵を開くであろうと高をくくっていた。御旗を掲げて先鋒の軍を柵に向かわせたが激しい抵抗に合い退却を余儀なくされた。
柵を守る将は皇軍を見て言い伝え通り大和が攻めて来たと断じ直ちに狼煙を上げ救援を乞う伝令を走らせた。
一刻(およそ二時間)の後、大毘古は全軍を指揮して柵に迫ったが壕に潜む兵に矢を射掛けられ柵に近付けなかった。大毘古は兵に命じて迂回の道を探らせたが大軍を動かせる道は見付からなかった。
やむなく大毘古は兵の損耗を怖れず柵を攻めたが柵の守りは固く破る事は叶わなかった。越の久知でこれほどの抵抗に遭うとは思っても見なかった。
大毘古は壕を死体で埋め尽くし、死人の山を築いても柵を突き破る決意を固め、翌日から昼も夜も柵に波状攻撃を掛け続けた。柵を守る兵を一時も休ませる事無く攻め続けた。
三日三晩に亘り間断なく柵に猛攻を掛け続け柵を守る将兵に寝食を取る時も与えなかった。苛烈な戦に耐えて柵を守った将兵も多数が死に、傷を負わぬ兵は皆無に等しい状況となり、ついに矢も尽き果て、今や遅しと待ち望んだ援軍も到着しなかった。
柵の門が打ち破られ大毘古の兵が一気に乱入し守兵を一人残さず切り殺して越の久知(越前)に雪崩れ込んだ。大毘古は休む事無く北上し角鹿(敦賀)から赤崎、杉津、元比田と進軍し、菅谷からホノケ山山麓を進み、瓜生野、大塩から武生に向かった。
武生を治める越比古の一族も大毘古の軍に蹂躙され、軍の行く手に在る村落を次々に襲い食を奪い男子は残らず徴用して兵に加えた。
一方、皇軍の来襲を知った越比古は直ちに伝令を走らせ越の久知に散らばる一族に出兵を命じ、愛発の柵に援軍を差し向けた。
援軍は元比田の山中で大毘古の偵察の兵に遭遇し柵が破られた事を知った。偵察の兵を斬り殺し三国の越比古の館に立ち帰り、衆寡敵せず愛発の柵が破られ守兵はことごとく討ち死にしたと報じた。
一九〇年の時を経て代々語り継がれてきた大和が来襲した。各地に散らばる一族に皇軍の来襲を報せ出兵の使者を走らせたが大毘古の軍は目前に迫っていた。越比古は手勢を率いて九頭竜川の渡河地点、鳴鹿、中ノ郷を見下ろす丸岡に布陣し大毘古を待ち構えた。
九頭竜川の下流は幾筋もの支流が入り組み氾濫を繰り返す暴れ川であった。川幅は広く冬でも豊かな水量を保ち滔々と流れていた。
大毘古は武生から鯖江と北上し足羽川を渡河して九頭竜川を臨む松岡に至り軍を止めた。対岸の丸岡に越比古の軍が陣を構えていた。大毘古は二本松山に布陣し越比古と対峙した。
白山に源を発する九頭竜川の水は冬の寒さを知らすが如く身を切る様な冷たさで流れも速く容易に渡河出来る河ではなかった。数日、対峙し数度に亘り渡河を試みたが成せなかった。
河を挟んで対峙した越比古は河を楯に援軍の到着を今や遅しと待ち望んでいた。兵に勝る大毘古が一気に渡河して攻めかかれば防ぎきれない事を承知していたが他に取るべき道はなかった。
一方、大毘古は対峙が長引けば越比古の援軍が集結して不利になると見て渡河を強行する決断を下し、三か所から渡河を敢行させた。上流の鳴鹿と下流の中角から馬筏を組み流れに乗って渡河し、中の郷では上流と下流の渡河を助けるべく川の半ばまで馬を乗り入れ盛んに矢を射掛けた。
越比古の軍は次々に矢を放って渡河を防いだが防ぎ切れず上流と下流から大毘古の兵が次々に押し寄せた。河原は戦場と化し凄惨な戦いが繰り広げられ多数の兵が射抜かれ、斬られて河原は血に染まった。越比古は支えきれず兵をまとめて三国の館に敗走した。
大毘古は伏兵を警戒しつつ三国の越比古の館に軍を進めた。越比古の館は土塁を築き、環壕を廻らした堅固な要塞であった。
館を囲んだ大毘古は帰順を促す使者を送り数日、越比古の出方を待ったが使者は帰還しなかった。大毘古は全軍に攻撃を命じ越比古の館を攻めた。兵は喊声を挙げて馬を馳せ館に迫ったが土塁の上から盛んに矢を射掛けられ容易に近づけなかった。
大毘古の将兵は倒れた兵を踏み越え我先に館に迫ったが環濠に阻まれ一旦兵を引かざるを得なかった。三度攻めたが環濠と柵に阻まれ館に迫れなかった。
大毘古は短期決戦を諦め館を囲んで時を待った。館に拠る兵も何れ食に窮し水に窮するであろう。しかし、十日が過ぎても降伏の旗は揚がらなかった。
館に拠る兵の士気は萎えず一兵まで闘う覚悟が感じ取れた。大毘古は諸将を集め軍議を開き待つべきか、攻めるべきかを諮った。諸将は冬の寒さを肌で感じ、過酷な寒さに耐えて露営するよりは決戦を主張した。
大毘古もこの地にこれ以上留まる余裕はなかった。此れから先、越の奈加(越中 富山)、志利(越後 新潟)に向わねば為らなかった。
大毘古は諸将に告げた。「翌朝、総攻撃を掛ける、死人の山を築いても館に攻め入り敵を皆殺しにせよ。」と命じた。
日の出と共に小雪が舞う中、総攻撃が開始された寄せ来る波の如く楯を連ねて壕を越え柵を打ち破って館に迫った。土塀に次々と梯子が掛けられ、兵が次々に乱入した。
櫓は火矢を浴びて焼け落ち、館にも火が燃え移り瞬く間に炎を吹き上げた。門を打ち破り雪崩れ込んだ兵は逃げ惑う敵を容赦無く斬り殺した。
戦が収まり大毘古は越比古の死体を捜させたが顔を知る者は誰一人居らず確認する事は叶わなかった。大毘古はこの地に暫し留まり兵を休め、都の帝に戦況を報じる兵を遣わした。
大毘古は御旗を掲げ北を目指して軍を進めた。寒風が肌を刺し、曇天が空を覆っていた。三国から吉崎(福井県あわら市吉崎)、潮津(石川県加賀市片山津町潮津)、安宅(石川県小松市安宅)、を過ぎ手取川を渡河して比楽(石川県白山市平加町)、田上(石川県金沢市田上)、深見(石川県河北郡津幡町)に至った。
数日間、吹き止まぬ吹雪と寒さに耐え、吹雪がおさまると小雪のちらつく中、軍を進めた。進軍中に獣を見付ければ獣を狩り、野営地に着くと兵は火を赤々と燃やして暖を取り、獣肉を火に炙り貪る様に食した。
兵はてんでに雪穴を掘り幾重にも獣皮をまとい眠りに就いた。猛吹雪に襲われると穴は雪に埋まり、吹雪が去るまで数日穴に籠る事もあった。
野獣の如く暮らす兵は一度戦闘の命が下れば容赦無く部落を襲い略奪の限りを尽くした。傷つき倒れた兵は捨て置かれ雪に埋もれて死んでいった。
大毘古は真っ白な雪原を北に向い、行く先々の村落を襲った。帰順を拒む村落には容赦の無い攻撃を加え、兵は獲物を襲う獣の如く殺戮を繰返し略奪して火を放った。噂は瞬く間に広がり行く先々の豪族は大毘古の軍が姿を現わせば進んで出迎え刃向かう事無く帰順した。
大毘古は深見から能登の羽咋に至った。羽咋には三韓の争いに敗れた将兵が海に逃れ、対馬海流を北西の季節風に乗って漂流し能登に流れ着いた渡来人が数多く住み付いていた。
滝埼には渡来人が徒党を組み城塞を築き、村落を襲い略奪、暴行を重ねていた。村民の窮状を知った大毘古は兵を差し向けて滝埼の城塞を襲い賊を皆殺しにした。
大毘古は羽咋から能登部に至った。能登部は豪族、能登比古が治める地であった。能登比古も皇軍来るの報せを受け御旗に帰順を誓った。
大毘古は能登部から能登比古の案内で七尾に至り数日滞在して越の奈加に向かう事にした。
越の奈加は現在の富山県に相当し、常願寺川を臨む岩峅(富山県中新川郡立山町岩峅野)に居を構える豪族の阿彦が倉稲魂命(穀物の神)の後胤と称し国主と僭称(身分を越えた称号を勝手に名乗ること。)して君臨していた。
大毘古は七尾から氷見に至り越の奈加に足を踏み入れた。阿彦に服属する氷見の豪族、柳田は皇軍の軍勢を見て恐れをなし御旗に帰順を誓った。大毘古は氷見に留まり阿彦に帰順を促す使者を遣わしたが阿彦は従わなかった。
大毘古は阿彦を討伐すべく先触れの兵を出し軍を進めて伏木に向かった。伏木の豪族も御旗に帰順を誓い小矢部川、庄川を渡河して射水(富山県射水市)に至った。
射水の豪族、伊弥頭も阿彦に服属していたが氷見、伏木の豪族も帰順したと知り恭順の意を示して大毘古を館に迎え入れた。
大毘古は氷見、伏木、射水の兵を加え阿彦討伐の軍議を開き伊弥頭の進言で婦負の見角(速星神社 富山県富山市婦中町速星)に本陣を敷き、先陣は婦負川(神通川)を渡河した岩峅の南に位置する新川の太田(山県富山市太田南町 刀尾神社)と岩峅の北に位置する中地山(富山県富山市中地山 中地山城)に布陣し堡塁を築かせた。
岩峅に拠る阿彦を攻める陣形を整えた大毘古は再び阿彦に帰順を促す使者を遣わした。阿彦も旗下の豪族に命じて兵を集め堡塁を築き岩峅の天嶮に拠って迎え撃つ準備を進めていたが放った斥候の報告を聞きとても敵わぬと見て帰順する事を承知した。
後年、垂仁天皇の時代に阿彦は乱を起こし越の奈加を席巻した。報せを受けた帝は大若子命に標剣杖(伊勢外宮摂社草奈伎神社に祀られている。)を授け阿彦討伐を命じた。
大若子命は弟の乙若子命と共に兵を率いて越の奈加に赴き大竹野(富山県富山市呉羽町姫本)に布陣し、豪族を糾合して岩峅の天嶮に拠る阿彦を攻めたが何度攻めても撃退された。
大若子命は陣の四隅を祓い浄め祠を建て天神、地祇を祀り戦勝を祈願された。すると姉倉比賣の神託があり神の命ずるままに幡を挙げて岩峅に拠る阿彦を攻めるとたちどころに攻め滅ぼす事が出来た。大若子命は神の加護を謝しこの地に社を建て姉倉比賣(姉倉比賣神社)を祀った。
復命した大若子命は幡を挙げて戦った事を称賛され大幡主命の尊称を賜った。
こうして越の奈加を平定した大毘古は婦負川(神通川)を渡河して布勢の海(富山湾)を臨み見る磐瀬(富山県富山市岩瀬)、水橋(富山県富山市水橋)、布施(富山県黒部市荒町)と進軍し黒部川の渡河地点を探し求め愛本(富山県黒部市宇奈月町船見)に至った。
愛本は黒部川の扇状地の扇頂部に当たる場所で古くから黒部川の渡河地点であった。無事に黒部川を渡河し佐味(富山県下新川郡朝日町)に至った。
佐味から狭隘な市振の地(新潟県糸魚川市大字市振 市振の関、親不知、子不知の地)を抜ければ越の志利(越後)である。大毘古はこの地に暫し留まり兵を休め、都の帝に越の久知(越前)、奈加(越中)を制した事を報じる兵を遣わした。
越の志利は天香具山尊が拓いた地であった。天香具山尊は饒速日命の国譲りに従わず大和を後にして尾張に向かい尾張を拓いた後、尾張を子の天村雲命に譲り自身は美濃から越に向かった。
越で長髓彦に再会し越の三国から船で越の志利に赴き野積の浜(新潟県長岡市寺泊)に上陸して越の志利を席巻し弥彦山の北(新潟県西蒲区)に割拠していた凶賊の安麻背を討ち、刈谷田川流域(新潟県見附市)を根拠地に周辺を荒らし回る九鵙を討ち、蝦夷を阿賀野川の北に追い遣り拓いた地であった。
大毘古は佐味を出立し越の奈加と越の志利の境、神済(境川 富山県と新潟県の県境を流れる川。)を渡河して市振の地に至った。
市振から蒼海(新潟県糸魚川市大字青海)まで山が海岸に迫り波浪が押し寄せる崖下の狭い浜の道を凡そ二六里(この頃の一里は五三〇メートルであったと思われる。従って凡そ一四キロ)親不知、子不知、犬戻り、駒返しの難所を通らねばならない。海が荒れると通行は不可能となり、道の途中で大波が押し寄せると波にさらわれないよう崖の窪みに身を潜めなければならない難所であった。
そして、市振には天香具山尊が大和の侵攻に備えて築いた柵があり、一八〇余年の時が過ぎても柵を守る兵が詰めていた。
大毘古は崖下を進むか、山を越えるか大いに迷った。冬の海は荒れ狂い海底の小石を巻き上げて昼夜の別無く海鳴りが轟いていた。山越えの道も深々と雪が降り積もり猟師の道案内を得ても難渋する事は目に見えていた。
市振の柵を偵察した兵の報告から柵は僅かばかりの兵が守るのみと知り、神の加護に懸けて馬を馳せ柵に突き進んだ。柵を打ち破り「一兵たりとも逃すな、皆殺しにせよ。」と叫んだ。守兵が援軍を呼びに戻り蒼海の出口を塞がれると全滅する。柵を守る兵を斬り殺し、逃げる兵を弓で射殺し、数人を捕えて難所の道案内をさせた。
大毘古は波が押し寄せる崖下の狭い道を慎重に進軍し親不知の天険を越え外波(新潟県糸魚川市大字外波 外波川河口)の集落に至り小休止を命じた。
外波から再び崖下の狭い道を進軍し歌(新潟県糸魚川市大字歌 歌川河口)の集落を過ぎると険阻な難所に差し掛かり馬も進めなくなった。
この地で駒を返し大毘古も兵と共に徒歩で行軍し蒼海川を渡渉して天下の難所を突破し蒼海に至った。
蒼海の豪族は天険を越えて大軍が押し寄せ抗する術もなく皇軍の御旗に帰順を誓った。この地に数日、駐屯して馬を集め、進軍して奴奈川(新潟県糸魚川市)の地に至った。
奴奈川は都で祭儀に使う翡翠の産地であった。古の昔、大物主神(大国主神)は翡翠を求め出雲から押上浜(新潟県糸魚川市大字押上 大和川河口)に上陸して奴奈川の地に入った。
しかし、奴奈川は俾都久辰為命が治め姫川で産する翡翠を独占していた。俾都久辰為命に一人の姫がいた。その姫の名は沼河比売と呼ばれ楚々とした美貌の姫であった。
この姫を一目見た大物主神は心を奪われ俾都久辰為命に乞い妃に迎えた。沼河比売は諏訪の神、建御名方神を生んだ。以来、出雲と奴奈川は親交を深め、都で祭儀に欠かせぬ翡翠も全て奴奈川から出雲人によってもたらされていた。
大毘古は奴奈川に留まり久比岐(上越地方 新潟県糸魚川市、上越市、妙高市)を支配する御戈に帰順を促す使者を遣わした。
蒼海も奴奈川も直江津の五智(新潟県上越市五智)に居を構える御戈の支配地であった。御戈は天険を越えて大和の皇軍が押し寄せたと知り来襲に備えていた。大毘古の使者が到着し口上を聞いた御戈は使者と共に奴奈川まで出向き御旗に帰順を誓った。
奴奈川から御戈の案内で日本海の海岸線を北上し能生(新潟県糸魚川市)、名立(新潟県上越市)を経て五智の御戈の館に着き数日、留まった。
御戈は大毘古が米山峠を越えて蝦夷の地に踏み入ると知り、波多岐(新潟県十日町市)の豪族、素都乃奈美留に使いを出して五智に呼び寄せ大毘古に引き合わせた。
素都乃奈美留の出自は不明であるが能登の羽咋の民が盗賊に苦しめられていると知り盗賊を誅して民の尊敬を集めていたが領地を手に入れたい野望があった。能登では叶わないと思い船を出して直江津に上陸し縁あって御戈の食客となった。
この頃、久比岐も土蜘蛛(盗賊)や蝦夷が出没し御戈も手を焼いていた。素都乃奈美留は御戈の兵を率いて久比岐を転戦し土蜘蛛を誅し、蝦夷を北に追い遣り御戈の許しを得て波多岐を拓き豪族となった。
波多岐は久比岐の東に有り、信濃川の流域に拓けた地であるが元は蝦夷の住する地であったが素都乃奈美留が蝦夷を駆逐しあるいは懐柔して稲作を広めた地であった。それ故、素都乃奈美留も少しは蝦夷の言葉を解し兵の中には多数の蝦夷がいた。
兵を引き連れて参上した素都乃奈美留は御旗に帰順を誓い、御戈と共に従軍を申し出た。これから先、蝦夷の地に向かう大毘古にとって蝦夷と交戦した経験を持ち蝦夷の言葉を解する素都乃奈美留の従軍は心強い限りであった。
大毘古は五智から更に北を目指し佐味(新潟県上越市柿崎区柿崎)を過ぎ米山峠に至った。米山峠を越えるとそこは蝦夷の住する地である。
大毘古は米山峠を越え蝦夷と交戦しながら進軍し三嶋(新潟県柏崎市半田)から多太(新潟県柏崎市西山町妙法寺)に至った。
多太は草生水(石油の古称 燃える水、燃える土)を産し大毘古も不思議な水に火をつけた。大毘古はこの水を臭水と名付け、燃える土を袋に詰めて都に持ち帰る事とした。臭水は古来灯火に利用された事から文字の美化が起こり草生水に変化したものである。
大毘古は多太で軍を二軍に分ける事にした。一軍は大毘古が率いて北の弥彦を目指し、一軍は素都乃奈美留が率いて多太から東の長岡に向かい、長岡から信濃川を下って弥彦で落ち合う事とした。
そして、素都乃奈美留には未開の地ゆえ切り取り自由であると申し添えた。こうして素都乃奈美留は蝦夷を阿賀野川の北に追い遣り弥彦に至った。
大毘古は多太から大家(新潟県長岡市和島)、野積の浜(新潟県長岡市寺泊野積)と進軍し、蝦夷を駆逐しあるいは宣撫して兵に加え弥彦に至った。
弥彦で素都乃奈美留と再会し阿賀野川の南から信濃川の流域、高志深江を素都乃奈美留の支配地とし「この地に留まり柵を築いて蝦夷の南進を防げ。」と命じた。
大毘古は阿賀野川を臨み見る大形(新潟県新潟市東区大形)の地に至り、北の大地を見つめ滔々と流れる大河、阿賀野川の先にまだ大地は続いている。大地に果ては無いのかと昂然と北の大地を見つめ北伐の地も此れ迄と決断を下した。
御戈と素都乃奈美留に別れを告げたが二人は都まで同道したいと申し出た。大毘古は二人の願を聞き入れ帰還の途に就いた。そして、蝦夷との境、阿賀野川を見届けようと思い兵に加えた蝦夷を道案内に川を遡る事とした。
大形から阿賀野川に沿って新津、五泉、津川、鹿瀬、徳沢、野沢、縄沢と進軍し片門で只見川を渡河して会津坂下に至った。
この地で神の引き合わせか東海を平定した武渟川別と行き逢いこの地を相津(会津)と名付けた。親子は共に再会を喜び、ここを以って帝の命は遂げたと感じ入り兵を合して帰還する事とした。
そして、天津嶽(御神楽岳 一三八六m 新潟県と福島県の県境)に登り祠を建て天津神(伊弉諾尊・伊弉冉尊)を祀った。(伊佐須美神社 その後、福島県大沼郡会津美里町に遷座した。)
二人は相津から猪苗代湖を経て葦屋(福島県郡山市)に至り、葦屋から蝦夷の地を南下して磐瀬(福島県須賀川市)、雄野(福島県白河市旗宿)に至った。後年この地に蝦夷の防ぎとして白河の柵が築かれた。
雄野から古東山道を南下し毛野国、黒川(栃木県那須郡那須町伊王野)と進軍し寒井(栃木県大田原市寒井)に至り那珂川を渡河して黒羽(栃木県大田原市黒羽)、磐上(栃木県大田原市湯津上)、新田(栃木県さくら市氏家)から石神(栃木県塩谷郡高根沢町宝積寺)で衣川(鬼怒川)を渡河して田部(栃木県河内郡上三川町上神主)、三鴨(栃木県下都賀郡岩舟町新里)、足利(栃木県足利市梁田町)を過ぎ渡良瀬川を渡河して新田(群馬県太田市新田村田町)から佐位(群馬県伊勢崎市下植木町)に至った。
佐位から厩橋(群馬県前橋市)に至り刀祢河(利根川)を渡河して群馬(群馬県高崎市引間町)、野後(群馬県安中市安中)から坂元(群馬県安中市松井田町)に至った。
坂元から碓日坂(入山峠)を越えて信濃国、長倉(長野県北佐久郡御代田町)に至った。長倉から古東山道を進軍し佐久平、瓜生坂、望月(長野県佐久市望月)を経て蓼科山麓の雨境峠(長野県北佐久郡立科町大字芦田)に至った。振り返ると噴煙を上げる雪化粧の浅間山が見え、素晴らしい景色に圧倒された大毘古は先人に倣い祭祀を執り行った。(雨境峠祭祀遺跡群)
雨境峠から女神湖を経て大門峠を越え白樺湖を経て山浦(長野県茅野市)に至った。山浦から杖突峠(長野県伊那市高遠町と茅野市の境界にある峠国道一五二号が通っている。)を越えて宮田(長野県上伊那郡宮田村)、賢錐(長野県上伊那郡中川村)、育良(長野県飯田市殿岡)、阿智(長野県下伊那郡阿智村)から網掛峠と神坂峠を越える信濃坂(神坂峠)に向かった。
信濃坂は信濃と美濃の境に有り道は険しく古東山道最大の難所であった。峠に着いた大毘古は先人に倣い荒ぶる神の座す「神の御坂(神坂峠)」で祭祀を執り行い山の神を鎮め行軍の安全を神に祈った。(神坂峠遺跡)
神坂峠を越えて美濃の坂本(岐阜県中津川市駒場)に至り、坂本から大井(岐阜県恵那市大井町)、土岐(岐阜県瑞浪市釜戸町)と進軍し多治見から内津峠を越え、小牧から尾張一宮に至り武諸隅の館を訪れた。
武諸隅は盛大な宴を催して二人を歓待し、二人は数日留まって長旅の疲れを癒した。
夏四月、大毘古と武渟川別は武諸隅と妹の大海媛を伴って都に向かった。尾張一宮から弥冨、桑名、亀山、伊賀と進軍して出発から六ヶ月後の夏四月二十八日に都に帰還し帝に復命した。
都では大毘古が連れ帰った異俗の蝦夷を一目見ようと素都乃奈美留の兵舎に大勢の人々が押し掛けた。
帝は大毘古と武渟川別の長征を労い、武諸隅、御戈、素都乃奈美留の三人を謁見しそれぞれ尾張、久比岐、高志深江の領地を認め国造に任じた。武諸隅は妹の大海媛を帝の妃に奉った。
素都乃奈美留は領地に帰り沼垂(新潟県新潟市東区沼垂)に柵を築き、角田山(新潟県新潟市西蒲区にある標高四八一メートル)の麓を拓いて館を構えた。