皇位争乱

第三話 崇神すじん天皇
 出雲平定

 出雲の始祖の神、素戔嗚尊すさのおのみこと伊弉諾尊いざなぎのみことの子である。伊弉諾尊いざなぎのみことが左の眼を洗った時、御生まれになった神が天照大神あまてらすおおみかみであり、右の眼を洗った時、御生まれになった神が月読命つくよみのみことであり、御鼻を洗った時、御生まれになった神が素戔嗚尊すさのおのみことである。

 素戔嗚尊すさのおのみこと天照大神あまてらすおおみかみが治める高天原たかまがはらを訪れ滞在を赦されたが粗暴な行いが過ぎ八百万やおよろずの神々は天照大神あまてらすおおみかみに直訴したが天照大神あまてらすおおみかみとがめずにかばった。

 すると素戔嗚尊すさのおのみことはつけあがり前にも増して乱暴、狼藉を働き、神に奉る神衣を機織女はたおりめに織らせている機屋に皮を剥いだ馬を投げ入れた。

 機織女は驚きおさ 横糸を通す道具)陰部ほとを突いて死んでしまった。これを見て歎き、お怒りになった天照大神あまてらすおおみかみ天岩戸あまのいわとにお隠れになり天も地も永遠の暗闇となった。

 八百万やおよろずの神々が天の安河やすのかわの河原に集まり相談し思金神おもいかねのかみ(知恵の神)の発案で常世とこよの長鳴鶏を集めて鳴かせ、賢木さかきの枝に八尺瓊勾玉やさかにのまがたま八咫鏡やたのかがみ布帛ふはくを掛け、布刀玉命ふとだまのみこと(祭祀を司る神)が御幣として奉げ持ち、天児屋命あめのこやねのみこと(祭祀を司る神)が祝詞を唱え、力自慢の天手力男命あめのたぢからおのみこと(大力の神)が岩戸の陰に隠れ、天宇受賣命あめのうずめのみこと(芸能の女神)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし胸をさらけ出し、の紐を陰部までおし下げて女陰を顕わにし、手に持った笹葉を振って踊った。これを見た八百万やおよろずの神々は腹を抱えて笑い転げた。

 天照大神あまてらすおおみかみは何事かと岩戸を少し開けてご覧になった。その時、岩戸の陰に隠れていた天手力男命あめのたぢからおのみことが渾身の力で岩戸を一気に押し開き天照大神あまてらすおおみかみの腕を掴んで岩戸の外に引き摺り出し、布刀玉命ふとだまのみことがもう入れないように岩戸の入口に注連縄しめなわを張った。こうして天地が明るくなり八百万やおよろずの神々が相談して素戔嗚尊すさのおのみこと高天原たかまがはらから神逐かんやらい(神を追放する事)してしまった。

 神逐かんやらいされた素戔嗚尊すさのおのみことは子の五十猛尊いたけるのみこと(林業の神)を伴い神兵を率いて高天原たかまがはらから伽耶かや(新羅)の地の曽尸茂梨そしもり(牛頭山 大韓民国江原道春川市)天降あまくだりその地を治めていた。

 一族は製鉄の技術に長じ砂鉄から鋼を産していたが伽耶の砂鉄が枯渇し高句麗の圧迫も有り素戔嗚尊すさのおのみことは新天地を求めて海を渡る決断を下し、製鉄の技法に明るい金屋子神かなやこのかみを伴い、神兵を率いて出雲の鳥髪とりかみ船通山せんつうさん 鳥取県日南町と島根県奥出雲町との県境にある標高一一四二m)に天降た。しかし、出雲は既に八俣遠呂智やまたのおろちが支配し出雲に産する砂鉄を独占していた。

 八俣遠呂智やまたのおろち素戔嗚尊すさのおのみことより一足早く兵とたたらふいご(炉に風を送る道具)を用いて鉄を製錬する炉)の匠を率いて高句麗から能登に渡りこし国で砂鉄を求めたが得られず、砂鉄を求めて日本海を南下し出雲の地に至った。

 この頃、出雲は国津神くにつかみが治める地で有った。出雲には銅を精錬する高い技術が有り、兵は銅剣、銅矛を武器に近隣に威を張っていた。祭儀には銅鐸を用いて国津神に豊穣を祈る祀りを欠かす事の無い平穏な地であった。

 この地に突然現れた八俣遠呂智やまたのおろちは鉄剣をびた兵を従えて村落を襲い、出雲の兵は銅剣、銅矛で戦ったが武器の優劣は歴然で瞬く間に出雲を制圧した。

 そして、八俣遠呂智やまたのおろちは砂鉄を求めて出雲の南の山塊、鳥髪とりかみ山に分け入り、簸の川ひのかわ斐伊ひい川)で良質の砂鉄を産する場所を探し当てた。更に、他の河川を調べさせ日野川、飯梨川の上流でも砂鉄を産する地を見つけた。

 砂鉄を得た八俣遠呂智やまたのおろち鳥髪とりかみ山の麓に館(鬼神神社 島根県仁多郡奥出雲町大呂おおろを構え、銅の精錬に熟達した出雲の工人を多数駆り集めて、風が吹き抜ける山間の地に炉を築かせた。

 川にを通して池を造り砂鉄を集めさせ、炭を焼いて鉄の生産を始めた。産した鉄から剣を鍛え、兵を募り強大な力を誇示していた。そして、毎年、秋になると剣をびて村落を襲い、収穫した米を奪い女をさらい狼藉の限りを尽くしていた。

 一方、素戔嗚尊すさのおのみことは出雲の鳥髪とりかみ山に天降あまくだったが砂鉄を産する地は八俣遠呂智やまたのおろちが領有し砂鉄は得られず、仕方なく金屋子神かなやこのかみに命じ丹波、但馬、播磨に砂鉄を求めさせたが徒労に明け暮れていた。

 止む無く素戔嗚尊すさのおのみこと八俣遠呂智やまたのおろちに砂鉄を産する地を譲れと迫ったが八俣遠呂智やまたのおろちは従わず逆に兵を差し向け素戔嗚尊すさのおのみことを襲った。怒った素戔嗚尊すさのおのみこと八俣遠呂智やまたのおろちの兵を一撃の下に尽く斬り殺した。

 八俣遠呂智やまたのおろちの兵を撃退したと知った出雲の豪族、足名椎あしなづちは妻の手名椎てなづち(共に大山津見神の子)櫛稲田姫くしいなだひめを伴い素戔嗚尊すさのおのみことの元を訪れた。

 夫婦には八人の姫がいたが八俣遠呂智やまたのおろちに毎年、姫を差し出せと迫られ七人の姫を亡くしていた。そして、今年も娘の櫛稲田姫くしいなだひめを差し出せと迫っていた。

 足名椎あしなづち素戔嗚尊すさのおのみことに拝謁して申し述べた。「今年も又、八俣遠呂智やまたのおろちが年貢と称して米を奪い、女をさらい、狼藉の限りを尽くし、娘の櫛稲田姫くしいなだひめを差し出せと迫っております。姫を差し出せば八俣遠呂智やまたのおろちもてあそばれ身も心もさいなまれて七人の姫と同じように授かった命を散らすでありましょう。親として娘が不憫ふびんで夜も眠れぬ日々が続いております。願わくば、村の為、姫の為に、何卒、八俣遠呂智やまたのおろちを討ち果たして頂きたい。」と足名椎あしなづち手名椎てなづちの夫婦は地に額を押し付け、切々と素戔嗚尊すさのおのみことに懇願した。

 側に控える楚々とした麗人の櫛稲田姫くしいなだひめも目を涙で曇らせ、素戔嗚尊すさのおのみことに哀願した。夫婦の訴えを聞き終えた素戔嗚尊すさのおのみこと八俣遠呂智やまたのおろちの所業に心底から怒りを覚え討ち果たす事を約束した。

 翌朝、素戔嗚尊すさのおのみこと五十猛尊いたけるのみことと共に神兵を率いて八俣遠呂智やまたのおろちの館に攻め入った。来襲を知った八俣遠呂智やまたのおろちは門を開き、兵を従え自慢の鉄剣をびて素戔嗚尊すさのおのみことの神兵に襲い掛かった。鉄剣を振るい、立ち塞がる素戔嗚尊すさのおのみことの神兵を次々に斬り殺した。

 素戔嗚尊すさのおのみことは鬼神の如く振る舞う八俣遠呂智やまたのおろち十握とつかの剣(注一)びて自ら立ち向かった。八俣遠呂智やまたのおろち酸漿ほおずきの如き真っ赤な目を爛々と輝かせて剣を振るい素戔嗚尊すさのおのみことに一瞬の余裕も与えず間断なく襲って来た。

 その鋭い切っ先は今までに感じた事の無い霊力を秘め、八俣遠呂智やまたのおろちは剣に命じられるままに体を動かしている様に見えた。素戔嗚尊すさのおのみこと八俣遠呂智やまたのおろちの剣に鬼神が宿っていると思った。

 素戔嗚尊すさのおのみことは天神に祈り十握とつかの剣を一閃して剣を持つ八俣遠呂智やまたのおろちの二の腕を切り落とした。剣は空を切って天に舞い上がり地に突き立った。これを見た神兵が一斉に八俣遠呂智やまたのおろちに襲い掛かりたちまちにして討ち果たした。

 素戔嗚尊すさのおのみことは地に突き立った剣を引き抜き天にかざした。その剣は今迄に見た事も無い見事に鍛え抜かれ、所持する者の心を映す剣で有った。素戔嗚尊すさのおのみことはこの剣に天叢雲剣あめのむらくものつるぎ(注二)と名付け以後、自身が所持した。

 八俣遠呂智やまたのおろちを討ち果たした素戔嗚尊すさのおのみこと櫛稲田姫くしいなだひめを妃に迎え入れ、新居の宮を造る地を探し求め出雲意宇おう(島根県東部 安来市、松江市)の須賀に至り「ああ、この地はすがすがしい。」と仰せられこの地に宮を建てた。(島根県雲南市大東町須賀 須我すが神社)

 そして、盛んに雲が立ち上ったので「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」とお詠みになった。(盛んに雲が湧きたち 八重の垣のようだ 妻を籠らせるために 雲が八重垣を作る すばらしい八重垣を)

 砂鉄を産する出雲の地を手に入れた素戔嗚尊すさのおのみことは播磨国穴粟邑しそうむら(兵庫県宍粟市)天降あまくだって砂鉄を探し求めていた金屋子神かなやこのかみたたらの神)を呼び寄せたたらを築く事を命じた。

 金屋子神かなやこのかみは白鷺に乗って出雲の西比田、黒田(島根県安来市広瀬町西比田 金屋子神社)の森の桂の木に降り立った。金屋子神かなやこのかみを尊び桂の木は神木として炭作りに用いない。)この地は炉を造る粘土が豊富に有り風が吹き抜けていた。山は木炭に適した木々で覆われ、砂鉄を産する地も近かった。

 金屋子神かなやこのかみは銅を精錬する高温の炉を築くわざに長けた出雲の民を村下むらげ(技師長)として、風通しの良い山間を選び高殿(出雲ではたたらを高殿と呼ぶ。)を築いた。高殿の内に炉を築き、風を送る天羽鞴あまのはぶきという皮袋のふいごを設えたたらを造った。

 金屋子神かなやこのかみは大量の炭を焼かせたたらに砂鉄を入れて三昼夜、木炭を燃焼させて良質の玉鋼たまはがねを生み出した。新羅の製鉄の技法を伝授された出雲の村下むらげはこの後、金屋子神かなやこのかみたたらの神としてたたらの近くに祀った。

 素戔嗚尊すさのおのみことは鉄剣を武器に越後から周防に至る日本海沿岸を制し、鉄の交易で潤い出雲はかってない繁栄の地となった。

 素戔嗚尊すさのおのみことの後を継いだ五世の孫、大物主神おおものぬしのかみ意宇おうの地を去って出雲の杵築きづき(島根県出雲市大社町杵築 出雲大社)の地に館を構えた。

 しかし、大物主神おおものぬしのかみは出雲に飽き足らず、鉄剣をびた三十二神を率いて出雲を発ち、但馬の円山川を遡って播磨に入った。播磨の豪族と抗争を繰り返し、制した後に大和に入り中つ国を攻め、国を奪った。そして、大和の地を御子の事代主命ことしろぬしのみことに治めさせ自身は出雲の杵築きづきに立ち帰った。

 中つ国は天照大神あまてらすおおみかみが天神の御子に授けた国であった。それ故、怒った天照大神あまてらすおおみかみ建御雷神たけみかづきのかみ布都御魂剣ふつのみたまのつるぎを授け出雲の稲佐の浜(島根県出雲市大社町)大物主神おおものぬしのかみに国譲りを迫った。

 大物主神おおものぬしのかみの子、建御名方神たけみなかたのかみ建御雷神たけみかづきのかみの強引な申し出に立腹し日頃の力自慢に慢心して力比べを申し出でた。建御雷神たけみかづきのかみも天上では秀でた力を持ち、建御名方神たけみなかたのかみの挑戦を受けて立った。

 勝負したが建御名方神たけみなかたのかみは信濃の諏訪湖まで放り投げられ、おそれ入った建御名方神たけみなかたのかみは以後、諏訪の外に出ない事を誓い代々諏訪を治める事と為った。

 これを見た大物主神おおものぬしのかみ建御雷神たけみかづきのかみに告げた。「大和は既に御子の事代主命ことしろぬしのみことに譲った。事代主命ことしろぬしのみことの意向を問い、改めて返答する。」

 大物主神おおものぬしのかみは大和に坐す事代主命ことしろぬしのみことが承知した事を知り大和の国を譲って事代主命ことしろぬしのみことと共に出雲の杵築きづき(島根県出雲市大社町杵築)の地に立ち帰った。

 天照大神あまてらすおおみかみ荒振あらぶる神の素戔嗚尊すさのおのみこと大物主神おおものぬしのかみを鎮める為に第二子の天穂日命あめのほひのみことを出雲におもむかせた。

 出雲に赴いた天穂日命あめのほひのみことは炎を操り、鉄を産するたたらに感動を覚え、たたらの象徴で有る高殿に神霊が宿り炎の中で神が鋼を産み落としている。これは神の為せる技であると思った。

 天穂日命あめのほひのみこと素戔嗚尊すさのおのみことから連綿と続くたたらの技と砂鉄を守る為に金屋子神かなやこのかみたたらの側近くに祀り、素戔嗚尊すさのおのみことの住した本貫の地、意宇おう(松江市)に社(熊野大社)を建て素戔嗚尊すさのおのみことを祀った。

 そして、杵築きづきの地に高さ十六丈(約五〇メートル)に及ぶ巨大な高殿(出雲大社 旧社名杵築大社)を築き荒振あらぶる神、大物主神おおものぬしのかみを祀った。

 それと共に天穂日命あめのほひのみことは出雲の民に諸々の国津神くにつかみを祀る事を禁じ、国津神の祭儀に用いた銅鐸と使われなくなった銅剣を神庭かんばの地(島根県出雲市斐川町神庭)に埋めさせ国津神を地の中に封じた。

 二代、天穂日命あめのほひのみことの子、武日照命たけひなてるのみことが祭祀を引き継ぎ出雲に天降あまくだる時、天神より授けられた羸都鏡おきつかがみ邊都鏡へつかがみ八握劔やつかのつるぎ生玉いくたま死反玉まるがえしのたま足玉たるたま蛇比禮おろちのひれ蜂比禮はちのひれ品物比禮くさぐさのもののひれ道反玉みちがえしのたま十種の神宝とくさのかんだから杵築きづきの高殿に納めた。

 この十種の神宝とくさのかんだからをゆらゆらと振り、布瑠の言ふるのこと(ひふみ祓詞はらえことばを三度唱えれば死者も蘇ると言い伝えられていた。代々の国造こくそうはこの十種の神宝とくさのかんだからを高殿の奥深くに秘匿ひとく布瑠の言ふるのことを一子相伝で受け継いだ。

 それ以来、出雲は天穂日命あめのほひのみこと神裔しんえい国造こくそうと称し代々世襲して祭祀をつかさどり大和と一線を画して出雲の独立を成し、国を治めて来た。

 出雲氏族とは天穂日命あめのほひのみことの末裔であり帝の御代には天穂日命あめのほひのみことの十世の神裔しんえい出雲振根いずもふるね国造こくそうの地位に有った。そして、出雲に産する良質の砂鉄から鋼を造るたたらの技術を握り、強力な兵と神宝を擁して石見、出雲、伯耆、因幡の山陰を制していた。


 東国と越を平定し吉備を制した帝は次に出雲の平定を目指した。出雲は神代の昔、大物主神おおものぬしのかみとその御子、事代主命ことしろぬしのみこと天照大神あまてらすおおみかみの申し出を受け大和の国を譲り出雲に退いた。それ以来、出雲は天照大神あまてらすおおみかみの第二子天穂日命あめのほひのみこと神裔しんえいが祭祀を司り大和から独立して国を成していた。歴代の帝も出雲平定の軍を興さず、出雲も大和に兵を向ける事はなかった。

 出雲が支配する地は石見、出雲、因幡に及び因幡は但馬と接していたが海と山が迫り天険が侵攻をはばんでいた。南は吉備と接していたが中国山脈の山塊が要害を成し容易たやすく兵を乱入出来なかった。

 出雲は砂鉄を産し鉄の生産を握って、鉄から武器と農具を造り交易を通じて巨万の富を築いていた。地の利を得て北の海を制し筑紫から越まで海上交易を押さえ遠く半島の任那、新羅とも繋がりを持っていた。出雲氏族の一部は日本海を北上し信濃川、千曲川を溯って信濃、諏訪にも勢力を拡大していた。

 豊葦原瑞穂国とよあしはらみずほのくにの統一を目指す帝にとってたたらの技を保持し鋼を握る出雲を何としても屈服させなければ国の統一は成し得ないと思っていた。

 帝は戦を構える事無く出雲を併合したいと思い武諸隅たけもろすみを召し、杵築きづきの高殿(出雲大社 旧社名杵築大社)に祀られている十種の神宝とくさのかんだからを見たいと仰せになった。

 出雲が引き渡す筈も無い十種の神宝とくさのかんだからを奉れとの勅命を受けた武諸隅たけもろすみは容易ならざる事態に身を引き締め、戦を覚悟して帝に軍船の建造を願い出た。許しを得た武諸隅たけもろすみは尾張、度会わたらいの船大工を引き連れ丹波の宮津に赴き出雲攻略の軍船を建造した。

 帝は武諸隅たけもろすみの出雲出兵に当たり天照大神あまてらすおおみかみを宇陀の笠縫邑かさぬいむら(元伊勢の檜原神社 奈良県桜井市大字三輪)から丹波宮津この神社 京都府宮津市字大垣)に遷座して神の加護を祈り、「無闇に戦を引き起こしては為らぬ、出雲の出方を見て戦を避け穏便に事を運ぶべし。」と申し渡した。

 武諸隅たけもろすみは軍船を率いて宮津から船出し出雲の簸の川ひのかわ斐伊ひい川)の河口、杵築きづき(この頃、斐伊ひい川の流路は宍道湖ではなく西に流れ神門の水海かんどのみずうみ(神西湖)に流入し日本海に注いでいた。)に軍船を留め、出雲臣、振根ふるねに勅命を伝えるべく兵を率いて館に赴いたが出雲振根いずもふるねは筑紫に出立して不在であった。

 武諸隅たけもろすみは留守を預かる振根ふるねの弟、飯入根いいいりねを召し出し「勅命である。出雲に伝わる十種の神宝とくさのかんだからを帝に奉れ。」と申し渡した。

 飯入根いいいりねは高殿から神門の水海かんどのみずうみ(神西湖)に浮かぶおびただしい軍船を見て抗する術が無い事を悟り、勅命を受け賜り十種の神宝とくさのかんだからを帝に奉ると申し述べた。そして、息子の宇賀都久怒うかつくぬと末弟の甘美韓日狭うましからひさ十種の神宝とくさのかんだからを持たせ武諸隅たけもろすみと共に都に上り帝に奉った。

 帝は杵築きづきの高殿から出るはずも無い十種の神宝とくさのかんだからが献上された事に驚き、飯入根いいいりねの英断を称え、物部連伊香色雄いかがしこおに命じて十種の神宝とくさのかんだからを石上神宮に祀らせた。

 筑紫(筑前、筑後に分割する前の国名)から出雲に立ち返った振根ふるね飯入根いいいりねから武諸隅たけもろすみが軍船を連ねて杵築きづきに押し寄せ、出雲に秘匿ひとくする十種の神宝とくさのかんだからを帝に奉れと迫られ、抗する術も無く帝に奉げ奉ったと聞き、怒り心頭に発した。

 大和が出雲に兵を向けない理由は国譲りの故事だけではなく、出雲が神宝を保持しているからであった。大和が大軍を以って攻め掛かり出雲の兵を殲滅しても国造こくそうの地位に有る振根ふるね十種の神宝とくさのかんだからをゆらゆらと振り、布瑠の言ふるのこと(ひふみ祓詞はらえことばを三度唱えれば射殺された出雲の兵はたちまち生き返り再び敵に立ち向かって行く。神宝は死者を蘇えらせる霊験を具えていた。

 帝は出雲に神宝が有る限り不死身の兵と戦う事と為り、打ち勝つ事は叶わないと承知しているからであった。出雲は神宝を保持して寡兵で国を守っていた。

 振根ふるねは出雲を守る神宝を失っては国が立ち行かぬ、出雲に立ち帰るまで何を恐れて待てなかったのかと飯入根いいいりねを責めた。飯入根いいいりねはおびただしい軍船を連ねて攻め込まれては帝の命に逆らえぬと反論し兄弟はいさかいを始めた。

 数年に亘り諍いは続き振根ふるねの怨みは去らず飯入根いいいりねを殺そうと思った。その機会を窺がっていた振根ふるねは真剣に似た木刀を差し「簸の川ひのかわ斐伊ひい川)の淵に藻が茂っているらしい。一緒に見に行こう」と飯入根いいいりねを誘った。飯入根いいいりねは和解の兆しかと感じたが剣を帯びて兄の誘いを受けた。

 淵のほとりに着くと振根ふるねは久し振りに一緒に泳ごうと云い出し剣を置いて衣を脱ぎ淵に向かった。しかたなく飯入根いいいりねも剣を置き、衣を脱いで水に入った。振根ふるねが一足早く陸に上がると飯入根いいいりねの剣を佩び飯入根いいいりねが淵から上がるといきなり斬りかかってきた。飯入根いいいりね振根ふるねの剣を握りしめ抜こうとしたが抜けなかった。こうして飯入根いいいりねは兄に欺かれて殺された。

 飯入根いいいりねが殺され身の危険を感じた末弟の甘美韓日狭うましからひさ飯入根いいいりねの息子の宇賀都久怒うかつくぬは都に上り、「振根ふるね飯入根いいいりねが帝に神宝を奉った事を怒り、飯入根いいいりねを殺し神宝を奪い返す企みを抱いている。」と帝に訴えた。

 帝は振根ふるね飯入根いいいりねを殺害した事は大和への叛逆の意志を示したと捉え出雲振根いずもふるねを討つ口実が出来たと思った。今や、出雲に神宝は無く、出雲の兵は不死身の兵では無くなった。

 帝は武渟川別たけぬなかわわけ大毘古おおびこの御子)と吉備に留まる五十狭芹彦いさせりひこ吉備津彦きびつひこに出雲平定の命を下した。武渟川別たけぬなかわわけ武諸隅たけもろすみと共に軍船を連ねて海路、宮津から出雲に向い、五十狭芹彦いさせりひこは兵を率いて吉備から出雲を目指した。

 振根ふるねは帝が兵を向けたと知り、応戦すべく兵を集めて各地の砦を固め、軍船を集めて海上からの攻撃に備えた。しかし、戦は兵に勝る皇軍に攻められ、砦は次々に撃ち破られ皇軍の進撃を止める事は出来なかった。海上の戦いも数を頼んだ皇軍の前に振根ふるねの軍船はおびただしい火矢を浴びせられ次々に炎上して沈められた。

 振根ふるね天穂日命あめのほひのみこと杵築きづきの地に築いた神の坐す高さ十六丈(約五〇メートル)に及ぶ巨大な高殿に拠って皇軍に立ち向かった。振根ふるねは環壕に守られた高殿から盛んに矢を射掛けて皇軍の進撃を阻んだ。

 武渟川別たけぬなかわわけ五十狭芹彦いさせりひこは神宝を失った出雲の兵を恐れる事無く楯を連ねて環壕に拠る敵を撃ち、壕を埋めて高殿を十重二十重に囲んだ。皇軍の放っ矢に出雲の兵は次々に射抜かれ傷つき倒れた。

 振根ふるねには最早、振るうべき神宝を失い兵は生き返る事無く次々に死んでいった。神の加護を失った出雲の兵は喊声かんせいを上げて押し寄せる皇軍におびえ次々に戦列を離れた。振根ふるねも矢が尽き最早此れ迄と悟り壮大な高殿に火を放って火炎の中で果てた。

 そびえ立つ出雲の高殿は火炎に包まれ炎が高々と天を焦がし、巨大な火柱となって三ヶ日間燃え続け夜は辺りの闇を照らした。闇の中に燃え立つ火柱は風を呼び、雲を呼んで轟々ごうごうと唸りを上げて燃え続けた。

 出雲の民は燃え上る高殿を見て、それは神が身を焦がす無念の怒りの声に聞こえ神は炎と共に身罷みまかったと感じた。

 こうして出雲を平定した帝は飯入根いいいりねの息子、宇賀都久怒うかつくぬを出雲国造こくそうに任じ出雲を治めさせた。宇賀都久怒うかつくぬは高殿の跡に小社を建て、新しい炎をおこ身罷みまかった神を迎え入れた。

 この後、出雲国造いずもこくそうの地位は終生となり、新しい国造こくそうの継承には火継式という厳粛な儀式が執り行われた。国造を継承した者は新しい火をおこして神をよみがえらせる火継式が現代まで連綿と継承される事となった。

 帝は吉備も越も東国も治まり出雲を平定して即位以来、国を統一する悲願が叶った。神武天皇が豊葦原瑞穂国とよあしはらみずほのくにの中心であろうと思った大和がまさしく国の中心になった。

 崇神十八年(西暦二六六年)夏四月十九日、帝は孝元天皇に繋がる大毘古おおびこの血筋を重んじ后の御間城媛みまきひめ大毘古おおびこの娘)が生んだ活目入彦五十狭茅尊いくめいりひこいさちのみこと(後の垂仁天皇)を皇太子とした。

 そして、皇位継承の争いを恐れ平定した地に次々と皇孫を送り込んだ。武勇に優れた長子の豊城入彦とよきいりびこ(母は荒河戸畔あらかわとべの娘、遠津年魚眼々妙媛とおつあゆめまくわしひめは帝の思いを察し遠く東国に赴く事を望み帝の許しを得て毛野けの(群馬、栃木)に赴いた。

 尾張の豪族、武諸隅たけもろすみの姫、大海媛おおあまひめが生んだ大入杵おおいりきは後々、尾張の豪族武諸隅たけもろすみの後ろ盾を得て皇位継承の争いを興す事を怖れ遠く能登を治めよと命じられた。

 同母妹の渟名城入姫ぬなきのいりひめは兄の大入杵おほいりきが能登に赴くと聞き嘆き哀しんだ。というのも二人は兄妹の間柄以上に心を通わせていた。

 渟名城入姫ぬなきのいりひめは意を決っして帝に兄と共に能登に赴くゆるしを乞うた。帝は二人が一線を越えているとの噂を耳にしていたので赦す訳にはいかなかった。

 しかし、死を覚悟して必死に懇願する姫の情念に打たれ能登に赴く事を赦した。二人の母、大海媛おおあまひめは帝の赦しを得て兄妹が能登に赴くと知り今生の別れであると嘆き哀しんだ。

 能登に下向する二人は若狭の小浜から船に乗り、泊りをかさねて古代日本海航路の要衝であった能登の竹津浦(石川県羽咋市滝町 滝港)に着き、能登部(能登部神社 祭神 大入杵おおいりき、能登比古 石川県鹿島郡中能登町能登部)の地に居を構えた。

 日子坐王ひこいますのみこの子、丹波美智宇斯王たにはのみちのうしのおうに丹波を治めさせ、日子坐王ひこいますのみこの孫、曙立王あけたつのみこを伊勢に赴かせた。大毘古おおびこの御子、武渟川別たけぬなかわわけは阿部氏の祖となって越を治めた。

 豊葦原瑞穂国から戦は去り、全国の平定を成し遂げ初めて安らぎを覚え、干ばつに備えて依網池よさみのいけを造り、軽の酒折池さかおりのいけを掘った。

 帝は崇神三三年(西暦二八〇年)冬十二月五日、六十三歳で崩御された。後を継いで即位した垂仁すいにん天皇は先帝を山邊道勾岡上陵やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ(奈良県天理市柳本町)に葬り崇神すじん天皇のおくりなを奉った。それと共に、帝の御代に国の統一が成った事にかんがみ、崇神天皇のおくりなと共に御肇国天皇はつくにしらすすめらみことおくりなも奉った。


注一

十握とつかの剣 天羽々斬剣あめのはばきりのつるぎ布都斯魂剣ふつのみたまのつるぎ 等々、刃渡りが拳の長さ十握りある長剣で刃渡りおよそ八〇センチ~一メートル 平均的な銅剣の長さはおよそ五〇センチ程度 

注二

天叢雲剣あめのむらくものつるぎ 後にこの剣は日本武尊やまとたけるのみことによって草薙剣くさなぎのつるぎと改称され、三種の神器の一つになった。


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