皇位争乱
第三話 崇神天皇
出雲平定
出雲の始祖の神、素戔嗚尊は伊弉諾尊の子である。伊弉諾尊が左の眼を洗った時、御生まれになった神が天照大神であり、右の眼を洗った時、御生まれになった神が月読命であり、御鼻を洗った時、御生まれになった神が素戔嗚尊である。
素戔嗚尊は天照大神が治める高天原を訪れ滞在を赦されたが粗暴な行いが過ぎ八百万の神々は天照大神に直訴したが天照大神は咎めずに庇った。
すると素戔嗚尊はつけあがり前にも増して乱暴、狼藉を働き、神に奉る神衣を機織女に織らせている機屋に皮を剥いだ馬を投げ入れた。
機織女は驚き杼(梭 横糸を通す道具)で陰部を突いて死んでしまった。これを見て歎き、お怒りになった天照大神は天岩戸にお隠れになり天も地も永遠の暗闇となった。
八百万の神々が天の安河の河原に集まり相談し思金神(知恵の神)の発案で常世の長鳴鶏を集めて鳴かせ、賢木の枝に八尺瓊勾玉と八咫鏡と布帛を掛け、布刀玉命(祭祀を司る神)が御幣として奉げ持ち、天児屋命(祭祀を司る神)が祝詞を唱え、力自慢の天手力男命(大力の神)が岩戸の陰に隠れ、天宇受賣命(芸能の女神)が岩戸の前に桶を伏せて踏み鳴らし胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて女陰を顕わにし、手に持った笹葉を振って踊った。これを見た八百万の神々は腹を抱えて笑い転げた。
天照大神は何事かと岩戸を少し開けてご覧になった。その時、岩戸の陰に隠れていた天手力男命が渾身の力で岩戸を一気に押し開き天照大神の腕を掴んで岩戸の外に引き摺り出し、布刀玉命がもう入れないように岩戸の入口に注連縄を張った。こうして天地が明るくなり八百万の神々が相談して素戔嗚尊を高天原から神逐(神を追放する事)してしまった。
神逐された素戔嗚尊は子の五十猛尊(林業の神)を伴い神兵を率いて高天原から伽耶(新羅)の地の曽尸茂梨(牛頭山 大韓民国江原道春川市)に天降その地を治めていた。
一族は製鉄の技術に長じ砂鉄から鋼を産していたが伽耶の砂鉄が枯渇し高句麗の圧迫も有り素戔嗚尊は新天地を求めて海を渡る決断を下し、製鉄の技法に明るい金屋子神を伴い、神兵を率いて出雲の鳥髪山(船通山 鳥取県日南町と島根県奥出雲町との県境にある標高一一四二m)に天降た。しかし、出雲は既に八俣遠呂智が支配し出雲に産する砂鉄を独占していた。
八俣遠呂智は素戔嗚尊より一足早く兵と鑪(鞴(炉に風を送る道具)を用いて鉄を製錬する炉)の匠を率いて高句麗から能登に渡り越国で砂鉄を求めたが得られず、砂鉄を求めて日本海を南下し出雲の地に至った。
この頃、出雲は国津神が治める地で有った。出雲には銅を精錬する高い技術が有り、兵は銅剣、銅矛を武器に近隣に威を張っていた。祭儀には銅鐸を用いて国津神に豊穣を祈る祀りを欠かす事の無い平穏な地であった。
この地に突然現れた八俣遠呂智は鉄剣を佩びた兵を従えて村落を襲い、出雲の兵は銅剣、銅矛で戦ったが武器の優劣は歴然で瞬く間に出雲を制圧した。
そして、八俣遠呂智は砂鉄を求めて出雲の南の山塊、鳥髪山に分け入り、簸の川(斐伊川)で良質の砂鉄を産する場所を探し当てた。更に、他の河川を調べさせ日野川、飯梨川の上流でも砂鉄を産する地を見つけた。
砂鉄を得た八俣遠呂智は鳥髪山の麓に館(鬼神神社 島根県仁多郡奥出雲町大呂)を構え、銅の精錬に熟達した出雲の工人を多数駆り集めて、風が吹き抜ける山間の地に炉を築かせた。
川に樋を通して池を造り砂鉄を集めさせ、炭を焼いて鉄の生産を始めた。産した鉄から剣を鍛え、兵を募り強大な力を誇示していた。そして、毎年、秋になると剣を佩びて村落を襲い、収穫した米を奪い女を攫い狼藉の限りを尽くしていた。
一方、素戔嗚尊は出雲の鳥髪山に天降ったが砂鉄を産する地は八俣遠呂智が領有し砂鉄は得られず、仕方なく金屋子神に命じ丹波、但馬、播磨に砂鉄を求めさせたが徒労に明け暮れていた。
止む無く素戔嗚尊は八俣遠呂智に砂鉄を産する地を譲れと迫ったが八俣遠呂智は従わず逆に兵を差し向け素戔嗚尊を襲った。怒った素戔嗚尊は八俣遠呂智の兵を一撃の下に尽く斬り殺した。
八俣遠呂智の兵を撃退したと知った出雲の豪族、足名椎は妻の手名椎(共に大山津見神の子)と櫛稲田姫を伴い素戔嗚尊の元を訪れた。
夫婦には八人の姫がいたが八俣遠呂智に毎年、姫を差し出せと迫られ七人の姫を亡くしていた。そして、今年も娘の櫛稲田姫を差し出せと迫っていた。
足名椎は素戔嗚尊に拝謁して申し述べた。「今年も又、八俣遠呂智が年貢と称して米を奪い、女を攫い、狼藉の限りを尽くし、娘の櫛稲田姫を差し出せと迫っております。姫を差し出せば八俣遠呂智に弄ばれ身も心も苛まれて七人の姫と同じように授かった命を散らすでありましょう。親として娘が不憫で夜も眠れぬ日々が続いております。願わくば、村の為、姫の為に、何卒、八俣遠呂智を討ち果たして頂きたい。」と足名椎、手名椎の夫婦は地に額を押し付け、切々と素戔嗚尊に懇願した。
側に控える楚々とした麗人の櫛稲田姫も目を涙で曇らせ、素戔嗚尊に哀願した。夫婦の訴えを聞き終えた素戔嗚尊は八俣遠呂智の所業に心底から怒りを覚え討ち果たす事を約束した。
翌朝、素戔嗚尊は五十猛尊と共に神兵を率いて八俣遠呂智の館に攻め入った。来襲を知った八俣遠呂智は門を開き、兵を従え自慢の鉄剣を佩びて素戔嗚尊の神兵に襲い掛かった。鉄剣を振るい、立ち塞がる素戔嗚尊の神兵を次々に斬り殺した。
素戔嗚尊は鬼神の如く振る舞う八俣遠呂智に十握の剣(注一)を佩びて自ら立ち向かった。八俣遠呂智は酸漿の如き真っ赤な目を爛々と輝かせて剣を振るい素戔嗚尊に一瞬の余裕も与えず間断なく襲って来た。
その鋭い切っ先は今までに感じた事の無い霊力を秘め、八俣遠呂智は剣に命じられるままに体を動かしている様に見えた。素戔嗚尊は八俣遠呂智の剣に鬼神が宿っていると思った。
素戔嗚尊は天神に祈り十握の剣を一閃して剣を持つ八俣遠呂智の二の腕を切り落とした。剣は空を切って天に舞い上がり地に突き立った。これを見た神兵が一斉に八俣遠呂智に襲い掛かり忽ちにして討ち果たした。
素戔嗚尊は地に突き立った剣を引き抜き天に翳た。その剣は今迄に見た事も無い見事に鍛え抜かれ、所持する者の心を映す剣で有った。素戔嗚尊はこの剣に天叢雲剣(注二)と名付け以後、自身が所持した。
八俣遠呂智を討ち果たした素戔嗚尊は櫛稲田姫を妃に迎え入れ、新居の宮を造る地を探し求め出雲意宇(島根県東部 安来市、松江市)の須賀に至り「ああ、この地はすがすがしい。」と仰せられこの地に宮を建てた。(島根県雲南市大東町須賀 須我神社)
そして、盛んに雲が立ち上ったので「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」とお詠みになった。(盛んに雲が湧きたち 八重の垣のようだ 妻を籠らせるために 雲が八重垣を作る すばらしい八重垣を)
砂鉄を産する出雲の地を手に入れた素戔嗚尊は播磨国穴粟邑(兵庫県宍粟市)に天降って砂鉄を探し求めていた金屋子神(鑪の神)を呼び寄せ鑪を築く事を命じた。
金屋子神は白鷺に乗って出雲の西比田、黒田(島根県安来市広瀬町西比田 金屋子神社)の森の桂の木に降り立った。(金屋子神を尊び桂の木は神木として炭作りに用いない。)この地は炉を造る粘土が豊富に有り風が吹き抜けていた。山は木炭に適した木々で覆われ、砂鉄を産する地も近かった。
金屋子神は銅を精錬する高温の炉を築く技に長けた出雲の民を村下(技師長)として、風通しの良い山間を選び高殿(出雲では鑪を高殿と呼ぶ。)を築いた。高殿の内に炉を築き、風を送る天羽鞴という皮袋の鞴を設え鑪を造った。
金屋子神は大量の炭を焼かせ鑪に砂鉄を入れて三昼夜、木炭を燃焼させて良質の玉鋼を生み出した。新羅の製鉄の技法を伝授された出雲の村下はこの後、金屋子神を鑪の神として鑪の近くに祀った。
素戔嗚尊は鉄剣を武器に越後から周防に至る日本海沿岸を制し、鉄の交易で潤い出雲はかってない繁栄の地となった。
素戔嗚尊の後を継いだ五世の孫、大物主神は意宇の地を去って出雲の杵築(島根県出雲市大社町杵築 出雲大社)の地に館を構えた。
しかし、大物主神は出雲に飽き足らず、鉄剣を佩びた三十二神を率いて出雲を発ち、但馬の円山川を遡って播磨に入った。播磨の豪族と抗争を繰り返し、制した後に大和に入り中つ国を攻め、国を奪った。そして、大和の地を御子の事代主命に治めさせ自身は出雲の杵築に立ち帰った。
中つ国は天照大神が天神の御子に授けた国であった。それ故、怒った天照大神は建御雷神に布都御魂剣を授け出雲の稲佐の浜(島根県出雲市大社町)で大物主神に国譲りを迫った。
大物主神の子、建御名方神は建御雷神の強引な申し出に立腹し日頃の力自慢に慢心して力比べを申し出でた。建御雷神も天上では秀でた力を持ち、建御名方神の挑戦を受けて立った。
勝負したが建御名方神は信濃の諏訪湖まで放り投げられ、畏れ入った建御名方神は以後、諏訪の外に出ない事を誓い代々諏訪を治める事と為った。
これを見た大物主神は建御雷神に告げた。「大和は既に御子の事代主命に譲った。事代主命の意向を問い、改めて返答する。」
大物主神は大和に坐す事代主命が承知した事を知り大和の国を譲って事代主命と共に出雲の杵築(島根県出雲市大社町杵築)の地に立ち帰った。
天照大神は荒振る神の素戔嗚尊と大物主神を鎮める為に第二子の天穂日命を出雲に赴かせた。
出雲に赴いた天穂日命は炎を操り、鉄を産する鑪に感動を覚え、鑪の象徴で有る高殿に神霊が宿り炎の中で神が鋼を産み落としている。これは神の為せる技であると思った。
天穂日命は素戔嗚尊から連綿と続く鑪の技と砂鉄を守る為に金屋子神を鑪の側近くに祀り、素戔嗚尊の住した本貫の地、意宇(松江市)に社(熊野大社)を建て素戔嗚尊を祀った。
そして、杵築の地に高さ十六丈(約五〇メートル)に及ぶ巨大な高殿(出雲大社 旧社名杵築大社)を築き荒振る神、大物主神を祀った。
それと共に天穂日命は出雲の民に諸々の国津神を祀る事を禁じ、国津神の祭儀に用いた銅鐸と使われなくなった銅剣を神庭の地(島根県出雲市斐川町神庭)に埋めさせ国津神を地の中に封じた。
二代、天穂日命の子、武日照命が祭祀を引き継ぎ出雲に天降る時、天神より授けられた羸都鏡、邊都鏡、八握劔、生玉、死反玉、足玉、蛇比禮、蜂比禮、品物比禮、道反玉の十種の神宝を杵築の高殿に納めた。
この十種の神宝をゆらゆらと振り、布瑠の言(ひふみ祓詞)を三度唱えれば死者も蘇ると言い伝えられていた。代々の国造はこの十種の神宝を高殿の奥深くに秘匿し布瑠の言を一子相伝で受け継いだ。
それ以来、出雲は天穂日命の神裔が国造と称し代々世襲して祭祀を司り大和と一線を画して出雲の独立を成し、国を治めて来た。
出雲氏族とは天穂日命の末裔であり帝の御代には天穂日命の十世の神裔、出雲振根が国造の地位に有った。そして、出雲に産する良質の砂鉄から鋼を造る鑪の技術を握り、強力な兵と神宝を擁して石見、出雲、伯耆、因幡の山陰を制していた。
東国と越を平定し吉備を制した帝は次に出雲の平定を目指した。出雲は神代の昔、大物主神とその御子、事代主命が天照大神の申し出を受け大和の国を譲り出雲に退いた。それ以来、出雲は天照大神の第二子天穂日命の神裔が祭祀を司り大和から独立して国を成していた。歴代の帝も出雲平定の軍を興さず、出雲も大和に兵を向ける事はなかった。
出雲が支配する地は石見、出雲、因幡に及び因幡は但馬と接していたが海と山が迫り天険が侵攻を阻んでいた。南は吉備と接していたが中国山脈の山塊が要害を成し容易く兵を乱入出来なかった。
出雲は砂鉄を産し鉄の生産を握って、鉄から武器と農具を造り交易を通じて巨万の富を築いていた。地の利を得て北の海を制し筑紫から越まで海上交易を押さえ遠く半島の任那、新羅とも繋がりを持っていた。出雲氏族の一部は日本海を北上し信濃川、千曲川を溯って信濃、諏訪にも勢力を拡大していた。
豊葦原瑞穂国の統一を目指す帝にとって鑪の技を保持し鋼を握る出雲を何としても屈服させなければ国の統一は成し得ないと思っていた。
帝は戦を構える事無く出雲を併合したいと思い武諸隅を召し、杵築の高殿(出雲大社 旧社名杵築大社)に祀られている十種の神宝を見たいと仰せになった。
出雲が引き渡す筈も無い十種の神宝を奉れとの勅命を受けた武諸隅は容易ならざる事態に身を引き締め、戦を覚悟して帝に軍船の建造を願い出た。許しを得た武諸隅は尾張、度会の船大工を引き連れ丹波の宮津に赴き出雲攻略の軍船を建造した。
帝は武諸隅の出雲出兵に当たり天照大神を宇陀の笠縫邑(元伊勢の檜原神社 奈良県桜井市大字三輪)から丹波宮津(籠神社 京都府宮津市字大垣)に遷座して神の加護を祈り、「無闇に戦を引き起こしては為らぬ、出雲の出方を見て戦を避け穏便に事を運ぶべし。」と申し渡した。
武諸隅は軍船を率いて宮津から船出し出雲の簸の川(斐伊川)の河口、杵築浦(この頃、斐伊川の流路は宍道湖ではなく西に流れ神門の水海(神西湖)に流入し日本海に注いでいた。)に軍船を留め、出雲臣、振根に勅命を伝えるべく兵を率いて館に赴いたが出雲振根は筑紫に出立して不在であった。
武諸隅は留守を預かる振根の弟、飯入根を召し出し「勅命である。出雲に伝わる十種の神宝を帝に奉れ。」と申し渡した。
飯入根は高殿から神門の水海(神西湖)に浮かぶおびただしい軍船を見て抗する術が無い事を悟り、勅命を受け賜り十種の神宝を帝に奉ると申し述べた。そして、息子の宇賀都久怒と末弟の甘美韓日狭に十種の神宝を持たせ武諸隅と共に都に上り帝に奉った。
帝は杵築の高殿から出るはずも無い十種の神宝が献上された事に驚き、飯入根の英断を称え、物部連伊香色雄に命じて十種の神宝を石上神宮に祀らせた。
筑紫(筑前、筑後に分割する前の国名)から出雲に立ち返った振根は飯入根から武諸隅が軍船を連ねて杵築に押し寄せ、出雲に秘匿する十種の神宝を帝に奉れと迫られ、抗する術も無く帝に奉げ奉ったと聞き、怒り心頭に発した。
大和が出雲に兵を向けない理由は国譲りの故事だけではなく、出雲が神宝を保持しているからであった。大和が大軍を以って攻め掛かり出雲の兵を殲滅しても国造の地位に有る振根が十種の神宝をゆらゆらと振り、布瑠の言(ひふみ祓詞)を三度唱えれば射殺された出雲の兵はたちまち生き返り再び敵に立ち向かって行く。神宝は死者を蘇えらせる霊験を具えていた。
帝は出雲に神宝が有る限り不死身の兵と戦う事と為り、打ち勝つ事は叶わないと承知しているからであった。出雲は神宝を保持して寡兵で国を守っていた。
振根は出雲を守る神宝を失っては国が立ち行かぬ、出雲に立ち帰るまで何を恐れて待てなかったのかと飯入根を責めた。飯入根はおびただしい軍船を連ねて攻め込まれては帝の命に逆らえぬと反論し兄弟は諍いを始めた。
数年に亘り諍いは続き振根の怨みは去らず飯入根を殺そうと思った。その機会を窺がっていた振根は真剣に似た木刀を差し「簸の川(斐伊川)の淵に藻が茂っているらしい。一緒に見に行こう」と飯入根を誘った。飯入根は和解の兆しかと感じたが剣を帯びて兄の誘いを受けた。
淵のほとりに着くと振根は久し振りに一緒に泳ごうと云い出し剣を置いて衣を脱ぎ淵に向かった。しかたなく飯入根も剣を置き、衣を脱いで水に入った。振根が一足早く陸に上がると飯入根の剣を佩び飯入根が淵から上がるといきなり斬りかかってきた。飯入根は振根の剣を握りしめ抜こうとしたが抜けなかった。こうして飯入根は兄に欺かれて殺された。
飯入根が殺され身の危険を感じた末弟の甘美韓日狭と飯入根の息子の宇賀都久怒は都に上り、「振根は飯入根が帝に神宝を奉った事を怒り、飯入根を殺し神宝を奪い返す企みを抱いている。」と帝に訴えた。
帝は振根が飯入根を殺害した事は大和への叛逆の意志を示したと捉え出雲振根を討つ口実が出来たと思った。今や、出雲に神宝は無く、出雲の兵は不死身の兵では無くなった。
帝は武渟川別(大毘古の御子)と吉備に留まる五十狭芹彦(吉備津彦)に出雲平定の命を下した。武渟川別は武諸隅と共に軍船を連ねて海路、宮津から出雲に向い、五十狭芹彦は兵を率いて吉備から出雲を目指した。
振根は帝が兵を向けたと知り、応戦すべく兵を集めて各地の砦を固め、軍船を集めて海上からの攻撃に備えた。しかし、戦は兵に勝る皇軍に攻められ、砦は次々に撃ち破られ皇軍の進撃を止める事は出来なかった。海上の戦いも数を頼んだ皇軍の前に振根の軍船は夥しい火矢を浴びせられ次々に炎上して沈められた。
振根は天穂日命が杵築の地に築いた神の坐す高さ十六丈(約五〇メートル)に及ぶ巨大な高殿に拠って皇軍に立ち向かった。振根は環壕に守られた高殿から盛んに矢を射掛けて皇軍の進撃を阻んだ。
武渟川別と五十狭芹彦は神宝を失った出雲の兵を恐れる事無く楯を連ねて環壕に拠る敵を撃ち、壕を埋めて高殿を十重二十重に囲んだ。皇軍の放っ矢に出雲の兵は次々に射抜かれ傷つき倒れた。
振根には最早、振るうべき神宝を失い兵は生き返る事無く次々に死んでいった。神の加護を失った出雲の兵は喊声を上げて押し寄せる皇軍に怯え次々に戦列を離れた。振根も矢が尽き最早此れ迄と悟り壮大な高殿に火を放って火炎の中で果てた。
聳え立つ出雲の高殿は火炎に包まれ炎が高々と天を焦がし、巨大な火柱となって三ヶ日間燃え続け夜は辺りの闇を照らした。闇の中に燃え立つ火柱は風を呼び、雲を呼んで轟々と唸りを上げて燃え続けた。
出雲の民は燃え上る高殿を見て、それは神が身を焦がす無念の怒りの声に聞こえ神は炎と共に身罷ったと感じた。
こうして出雲を平定した帝は飯入根の息子、宇賀都久怒を出雲国造に任じ出雲を治めさせた。宇賀都久怒は高殿の跡に小社を建て、新しい炎を熾し身罷った神を迎え入れた。
この後、出雲国造の地位は終生となり、新しい国造の継承には火継式という厳粛な儀式が執り行われた。国造を継承した者は新しい火を熾して神を蘇らせる火継式が現代まで連綿と継承される事となった。
帝は吉備も越も東国も治まり出雲を平定して即位以来、国を統一する悲願が叶った。神武天皇が豊葦原瑞穂国の中心であろうと思った大和がまさしく国の中心になった。
崇神十八年(西暦二六六年)夏四月十九日、帝は孝元天皇に繋がる大毘古の血筋を重んじ后の御間城媛(大毘古の娘)が生んだ活目入彦五十狭茅尊(後の垂仁天皇)を皇太子とした。
そして、皇位継承の争いを恐れ平定した地に次々と皇孫を送り込んだ。武勇に優れた長子の豊城入彦(母は荒河戸畔の娘、遠津年魚眼々妙媛)は帝の思いを察し遠く東国に赴く事を望み帝の許しを得て毛野国(群馬、栃木)に赴いた。
尾張の豪族、武諸隅の姫、大海媛が生んだ大入杵は後々、尾張の豪族武諸隅の後ろ盾を得て皇位継承の争いを興す事を怖れ遠く能登を治めよと命じられた。
同母妹の渟名城入姫は兄の大入杵が能登に赴くと聞き嘆き哀しんだ。というのも二人は兄妹の間柄以上に心を通わせていた。
渟名城入姫は意を決っして帝に兄と共に能登に赴く赦しを乞うた。帝は二人が一線を越えているとの噂を耳にしていたので赦す訳にはいかなかった。
しかし、死を覚悟して必死に懇願する姫の情念に打たれ能登に赴く事を赦した。二人の母、大海媛は帝の赦しを得て兄妹が能登に赴くと知り今生の別れであると嘆き哀しんだ。
能登に下向する二人は若狭の小浜から船に乗り、泊りをかさねて古代日本海航路の要衝であった能登の竹津浦(石川県羽咋市滝町 滝港)に着き、能登部(能登部神社 祭神 大入杵、能登比古 石川県鹿島郡中能登町能登部)の地に居を構えた。
日子坐王の子、丹波美智宇斯王に丹波を治めさせ、日子坐王の孫、曙立王を伊勢に赴かせた。大毘古の御子、武渟川別は阿部氏の祖となって越を治めた。
豊葦原瑞穂国から戦は去り、全国の平定を成し遂げ初めて安らぎを覚え、干ばつに備えて依網池を造り、軽の酒折池を掘った。
帝は崇神三三年(西暦二八〇年)冬十二月五日、六十三歳で崩御された。後を継いで即位した垂仁天皇は先帝を山邊道勾岡上陵(奈良県天理市柳本町)に葬り崇神天皇の謚を奉った。それと共に、帝の御代に国の統一が成った事に鑑み、崇神天皇の謚と共に御肇国天皇の謚も奉った。
注一
十握の剣 天羽々斬剣、布都斯魂剣 等々、刃渡りが拳の長さ十握りある長剣で刃渡りおよそ八〇センチ~一メートル 平均的な銅剣の長さはおよそ五〇センチ程度
注二
天叢雲剣 後にこの剣は日本武尊によって草薙剣と改称され、三種の神器の一つになった。