皇位争乱

第十六話 
 崇峻すしゅん天皇暗殺

 最大の政敵である物部を討ち滅ぼして朝廷の権力を掌中にした馬子は炊屋姫尊かしきやひめのみこと(推古天皇)はか泊瀬部皇子はつせべのみこ践祚せんそして第三十二代崇峻すしゅん天皇(在位五八七年八月二日~五九二年十一月三日)を即位させた。

 帝は先帝を河内磯長原陵かうちのしながのはらのみささぎ(大阪府南河内郡太子町)に葬り用明天皇のおくりなを奉り、都を倉椅柴垣宮くらはしのしばがきのみや(奈良県桜井市倉橋)に遷した。蘇我馬子は引き続き大臣おおおみとして権勢の座に就いた。

 用明天皇の跡を継いだ、崇峻すしゅん天皇は欽明きんめい天皇の第十二皇子で母は蘇我稲目そがのいなめの娘、小姉君おあねのきみで、敏達、用命、炊屋姫尊かしきやひめのみことの異母弟に当たる。馬子に殺された穴穂部皇子あなほべのみこは同母兄であった。

 帝は皇子の時から臣下の身で有りながら帝を凌駕りょうがする力を持ち己の意に添わぬ皇子の穴穂部皇子あなほべのみこを容赦なく殺害した馬子に限りない不信を抱いていた。しかし、馬子の権力には逆らえず苦汁を飲んで馬子に従って来た。

 皇位を望むべくも無い第十二皇子の身で皇位に就けたのも絶大な馬子の権力に迎合した結果であった。泊瀬部皇子はつせべのみこは面従腹背している己に嫌悪を抱き彦人大兄皇子ひこひとのおおえのみこの如く野心を捨て去り清貧に生きる道を選ぶべきと何度も自問自答した事もあった。

 しかし、馬子の前では心の内を微塵も見せる事はなかった。丁未ていびの変の時も馬子に促され戦に参加したが本意ではなかった。馬子に忠誠を尽くし、兄の穴穂部皇子あなほべのみこが殺された時も馬子に憎悪を感じたが平静を保った。

 戦は仏法護持に名を借りた蘇我と物部の権力争いで有り諸皇子が参戦すべきでないとの思いが強かったが馬子に逆らえず意に反して軍に加わった。

 諸皇子が馬子の軍に加わった事により物部は朝敵となり逆賊の汚名を着せられた。馬子の巧みな策謀と知りつつ拒む事は出来なかった。

 戦いの最中、仏法護持に強い使命感を抱く厩戸皇子うまやどのみこに倣い戦の前線に躰を晒した時は平静を装ったが内心では戦慄と恐怖が渦巻き、胆が縮む思いがした。戦が終結し馬子は厩戸皇子うまやどのみこを初め果敢な諸皇子の働きに賞賛の言葉を発したがその声も虚しく聞いた。

 戦が勝利した状況を振り返って見れば諸皇子を矢盾に使い守屋の攻めを封じた故であった。守屋は懸命に諸皇子を的から外し自ら墓穴を掘ったに過ぎなかった。

 守屋に馬子の冷徹な非情が有れば一撃で馬子の軍を一蹴していたで有ろうと思った。守屋は逆賊の汚名を被っても命を賭して諸皇子を守り自ら戦に破れた。

 馬子の謀略に嫌悪を感じ悩んでも、馬子の力をたのみ朝廷の中枢に参画したい野心をぬぐい去る事は出来なかった。心の葛藤かっとうを押さえ忸怩じくじたる思いを抱き続けながらも、心の内を秘匿ひとくし誰にも明かさず馬子をだまし続けて来た。

 馬子は泊瀬部皇子はつせべのみこの心の内を知る由もなく、日頃の態度、言動を信じ厚い信頼を寄せていた。泊瀬部皇子はつせべのみこなら次の帝に就けても蘇我を裏切る事は無いと確信していた。

 泊瀬部皇子はつせべのみこにとって奇しくも、用明天皇が崩御し穴穂部皇子あなほべのみこが殺されて思いもらず馬子の信任を得て第十二皇子の自分に皇位が巡って来た。

 幸運を掴み即位した泊瀬部皇子はつせべのみこは日頃から鬱積うっせきしていた馬子に対する不満が堰を切って奔流となり、成すべき事が次々に脳裏に浮かんだ。

 二十六歳で即位した帝は絶対的な権力を掌中にし、馬子の権力を削ぎ天皇親政に戻す理想に燃えた。

 帝は皇后を定めるに際し妃の小手子こてこを皇后に立てた。小手子こてこは大伴糠手連あらてのむらじの姫で大伴金村の孫娘に当たる。

 馬子は大いに怒り皇后には皇女を立てるのが習わしである。后には蘇我の血を引く皇女を皇后に据える事を強く望んだが帝は聞き入れなかった。誰の眼にも后には蘇我氏の血を引く皇女を避けた事は明らかであった。

 帝が大伴氏から皇后を立てたのには大いなる帝の思惑が隠されていた。大伴一族は道臣みちのおみ命を祖とし歴代の天皇に仕え物部と並んで連綿と続く由緒ある家柄であった。

 古の昔は物部と並んで皇軍の一翼を統べ代々近衛の任に就いていた。帝の御世も大伴氏は兵馬の権を握っていた。

 物部が滅んだ後、蘇我に対抗出来る氏族は兵を統べる大伴一族を置いて他には無いと考えていた。しかし、大伴氏は近衛の誇りを失い馬子の権力をおそれ、ひたすら馬子に迎合していた。

 大伴氏は馬子が差し向けた刺客により中臣勝海連なかとみのかつみのむらじが斬り殺された折り、守屋が馬子に報復の刺客を差し向けると見て昼夜を分かたず馬子の館の警護に励み馬子の歓心を買った。

 丁未ていびの変の折りも馬子の挙兵を聞き直ちに兵を率いて馬子に加担し戦陣の一翼を担った。帝はこの様な馬子と大伴氏の関係を承知し、馬子が激昂する事も意に会さず、大伴糠手連あらてのむらじの姫を后に迎えた。

 大伴糠手連あらてのむらじは蘇我稲目に失脚させられた大伴金村の子で家名再興を期して馬子に忍従していた。帝は馬子と大伴氏の間にくさびを打ち込み亀裂を誘った

 大伴氏は歴代の帝に一族から一人も皇后を出していなかった。まして糠手連あらてのむらじの父、大伴金村は欽明きんめい天皇の時、任那四県を割譲した批判を浴び責任を感じて悲憤の内に朝廷を辞した。金村は住吉すみのえの館に引きこもり病と称して出仕を拒んだ。度々、帝の出仕要請にも辞を低くして謝し帝の温情に涙したが出仕する事は固辞した。

 大伴金村は蘇我稲目の謀略をうらみ失意の内に病を得て亡くなった。爾来じらい、大伴一族の権威は失墜し朝廷において重き任に就けず家名は逼塞ひっそくしていた。大伴一族にとって朝廷で地位を得るには蘇我の軍門に降る以外に道はなかった。

 帝はこの様な大伴と馬子の間柄を逆用しくさびを打ち込む様に大伴氏から皇后を迎え、大伴氏が蘇我氏から離反する事を期待した。

 大伴糠手連あらてのむらじは初めて一族から后を出し、祖霊に報いた喜びと共に馬子の報復を恐れた。糠手連あらてのむらじにも帝の意図が薄々と感じられた。

 馬子と軋轢あつれきを引き起こす危険を十分に感じ取れたが外戚の地位に就き、父、金村の如く朝廷で権力を握る、またとない機会が訪れたと思った。

 糠手連あらてのむらじは喜びと同時に馬子と敵対して耐え得るか否か、物部の二の舞になりたくは無いと思った。これから先、時節が巡り来る迄、暫くの間、此れ迄と変わらず馬子に忍従の時を過ごそうと思った。時が至れば一気呵成に馬子を追い落とし父の怨みを晴らそうと思った。

 これから先は今迄以上に慎重に事を進め馬子に悟られぬ用心が肝要であると思った。糠手連あらてのむらじは将来の身の処し方に言い知れぬ不安と期待を感じた。

 帝が時を待たず早計に馬子と対立を深め、馬子から旗幟きしを鮮明にせよと迫られた時、大伴は如何に処すべきか苦渋の選択を迫られる時を思い浮かべた。糠手連あらてのむらじは帝が馬子と早計に軋轢あつれきを起こさない事を祈る外なかった。

 馬子は我が手で皇位に就けた甥の帝が恩義を忘れて豹変し蘇我一族に刃向かうのを見て苦々しく思った。帝も大いなる野望の前に馬子と軋轢あつれきを引き起こす愚を省みて馬子の言を入れ、形ばかりに蘇我の媛、河上郎かわかみのいらつめを妃に上げた。帝と馬子は即位の年から后妃を巡り反目する事となった。

 妃に上がった河上郎かわかみのいらつめは顧みられる事の無い哀れな立場に打ち捨てられ父の馬子に苦情を寄せた。馬子は親の情として帝に苦言を呈したが帝は河上郎かわかみのいらつめしとねを共にする事はなかった。馬子は血縁で縛れない大伴の血を引く多数の皇子が誕生する事を畏れた。

 馬子は帝に河上郎かわかみのいらつめがお気に召さねば望みの姫をお召願いたいと言上したが帝は河上郎かわかみのいらつめは良き姫であると仰せられ馬子の言に取り合わなかった。帝と馬子の后妃を巡る争いがこの後の熾烈な権力争いの萌芽であった。

 朝政に臨んだ帝は臣の立場を超えた馬子の専横を見るに付け、益々天皇親政に復する事を強く望んだ。一方の馬子は帝の権威を光背に頂き朝廷に君臨し続ける事が蘇我の使命であると考えていた。

 帝の即位の年、百済より仏舎利が献上され四人の僧が遣わされ合わせて建築、土木、瓦、画工の匠が招来した。

 馬子は百済の僧に受戒の法を請い、善心尼ぜんしんのあまらを渡海させた。馬子は百済到来の仏の教えを利用して民の関心を引き寄せ布教に努め、神の世から仏の世に変わると説いた。

 仏は絶大な力を持ち逆らえば身を滅ぼし、帰依する者は富を得る。仏法を介し一族を固め、豪族と繋がりを深めた。

 神武以来朝廷の内にあって常に隠然たる勢力を持ち続けた物部を倒した今、馬子の権力は巨大になり大和で並ぶ者は居なくなった。その権力は帝を凌駕し一族も高位高官に就いた。群臣は恐れ「瓜田かでんくつを納れず 李下りかに冠を正さず」と蘇我氏に疑いを持たれる事を恐れた。

 帝は馬子に事前の相談も無く、近江臣満おおみのおみみつを東国に遣わして蝦夷えみしとの境を巡視させ、阿部臣を遣わして北国の越を巡視させ、宍人臣雁ししひとのおみかりを東海に遣わして東方の海浜の国を視察させた。

 馬子は帝が自ら臣に命じ各地を視察させた事に強い反発を感じた。越も蝦夷と境を接しているが蝦夷が背いたとの話は聞かず帝が何故、東国と越と東海に巡視の臣を遣わすのか真意を測りかねた。

 馬子は帝が視察を装い諸国に使者を遣わし兵を都に向わせる事を企てているのではないかと疑った。馬子は巡視に異を唱えたが帝は使者を遣わす事により大和の権威を高め反逆の芽を摘む効果も有ると反論して譲らなかった。

 帝は朝政の改革に着手し馬子に断りも無く馬子が定めた法を改め、群臣に示して遵守せよと仰せられた。その法は明らかに蘇我の専横を阻止する次のような法であった。

一、大事は一人で決してはならない衆と共に論ぜよ。

二、群臣の間でまいない賂を贈ってはならない。

三、百官はその職掌を全うせよ。

四、訴訟は双方の言い分を聞き公平に裁くべし。

五、詔勅を承れば必ず勤めよ。

六、信を以って事に対処せよ。

七、大臣は範を垂れ即日実行せよ。
と命じられた。

 帝は絶対的権威を盾に馬子の専横を許さず、朝議の時も群臣の意見を最初に問い大臣の意見を最後に聞き、裁可は帝が行うと定めた。この法に従えば馬子は朝議の主導権を帝に握られ独断を以ってまつりごとを進める事は、叶は無くなる法であった。

 諸国の貢ぎは大蔵の役所に納めさせ蘇我氏の自由にはならなくなった。朝臣が法を守れば馬子の権勢は失墜するかに見えた。

 事態を重く受け止めた馬子は帝の近臣が止めるのも聞かず帝に拝謁を願い出て苦言を呈した。蘇我一族の恩義を忘れ蘇我をないがしろにする帝の仕打ちに声を大にして怒った。「帝の定めた法は最もな法では有るが蘇我一族を標的にした定めである。すべからく臣の意見を問うはもっともな事では有るが、大臣おおおみから裁可の権を奪い、大臣も臣の一人として従えとは大臣の権威をないがしろにする定めである。帝が大臣の意見に重きを置かず退けて臣の意見を採り上げる事態となれば大臣の面目は失墜し大臣の立場を損なう法である。」

 馬子は延々と帝を問い詰めたが帝はたじろぐ事も無く馬子を見据え蘇我の専横の甚だしい行いをとがめ臣として有るまじき行為をただした。

 帝の言葉を聞いた馬子は激昂し激しい言葉を帝に投げつけた。「大和を支配しているのは蘇我一族で有る。法は馬子が定め帝は馬子の法を勅として布告するのみ。帝と云えども馬子に逆らって事を成せば速やかに除くのみ。」

 この言葉を聞いた帝は顔に青筋を立てて怒りを顕わにしたが馬子を除く手段も対抗する勢力もいなかった。帝はその場で斬り捨てたい思いを堪え忍んで席を蹴って退出した。

 翌日、馬子は朝議を開き帝に法を元に戻すと云わしめた。馬子は前にも増して独善的に振る舞い帝にはばかる事無くしばしば法を曲げて事を進めた。帝の法は馬子に踏みにじられ、対立の溝が深まった。

 帝は大伴糠手連あらてのむらじを召し、馬子に受けた屈辱を晴らすべく兵を挙げよと説いたが糠手連あらてのむらじは時期尚早である、今、暫し忍従の日々を過ごされよと告げた。

 帝は屈辱に耐えられぬと語りなを説得を続けた。「心ある臣は馬子の専横の甚だしさに内心忸怩じくじたる思いを抱いている。糠手連あらてのむらじが群臣を説き一丸と為って兵を挙げれば馬子に立ち向かえるであろう。馬子の専横を阻止するには兵を挙げて馬子を討ち取る以外に道はない。大伴一族は近衛の兵である、帝の苦渋に眼をつむり己が保身の為に何時まで蘇我のかげに隠れるのか。すでに蘇我は帝の権威を凌駕し、皇統を奪う野心を秘めている。今、立たねば時期を逸し大伴の栄達は蘇我に並ぶ事も叶うまい。大伴はすみやかに蘇我の傘を脱し我に味方せよ。」と説き続けたが、それでも大伴は馬子をおそれ帝に従って兵を挙げる事を躊躇った。

 大伴氏は帝の期待に反し馬子に反旗を翻さなかった。大伴氏を初め大和の群臣は帝の思いに同調しても一途に思い詰めた帝に不安を感じ、帝の呼び掛けに応じて挙兵する気配を見せなかった。

 弱小の群臣を僅かばかり味方に付けても馬子を脅かす力には到底及ばなかった。思い余った帝は地方の豪族に親書を送り蘇我の横暴を訴え、兵を引き連れ都に上れと促した。

 馬子は帝の親書を手にし、「乱を起こすお積もりか。」と帝に詰め寄った。馬子は権威を盾に親書を乱発して乱を挑発する帝にいつしか嫌悪の感情を抱き、恩義を忘れた帝の行為に怒りを覚えた。機会が有れば帝を殺し我が手で操れる帝を擁立する事を思い立った。

 帝と馬子は事々に対立を深め、二人の溝はますます深まるばかりであった。帝は天皇親政に復する事に執念を燃やし、寝食を忘れて謀略を練った。馬子を追い込み失脚させる手立てはないか、馬子を密かにあやめる手立てはないか、帝は日々考え続け天皇親政には蘇我一族を滅ぼす他に道は無いと思い詰めていた。虚しい期待では有るが大伴と大和の豪族を説き兵を挙げる日の来る事を願った。

 大いに期待して大伴氏から皇后を迎えたが案に相違して大伴氏は頼りにならず時期尚早と言い張り、早計に事を進めるべきでないと帝を戒めた。

 対抗出来る有力な氏族を思い浮かべ、思い詰めた帝は名を替え野にす物部の一族を探し出し今一度、我に味方して蘇我に立ち向えと説得を試みた。しかし、物部一族は守屋が死に一族は離散して束ねる主を失っていた。

 帝は四面楚歌の状況も顧みず密かに武器を集め来るべき馬子との戦に備えた。馬子は帝の行動を怪しみ間諜かんちょうを放って探らせた。間諜の調べでは度々、大伴を召し密議を交わし密かに武器を集めていると告げた。性懲りもなく反抗する帝に業を煮やした馬子は決断の時が迫ったと感じた。

 帝も身辺に危機が迫った事を感じ取り日々、用心を重ね見知らぬ者は刺客ではないかと疑い側近に調べさせた。

 帝は馬子の刺客に襲われる夢を度々見る様になった。馬子を畏れるが故である事は解っていても畏れを拭い去る事は出来なかった。

 古の昔、雄略天皇に殺された市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこは飼い葉桶に入れられて山野に埋められた。馬子も我がしかばねを闇に葬るであろうと思った。野に打ち捨てられ、獣に食われ骨は土にかえって朽ち果てる思いがした。

 墳丘に葬られてこそ冥界に住する事が叶う、帝は馬子に殺される思いを吹っ切る為に寿陵じゅりょうを築く事を思い立った。寿陵とは長寿を願って生前に築くみささぎである。帝は都に近い岡上おかがみの地に陵を築かせた。

 馬子は帝の奇怪な行動に懐疑の念を抱いた。帝は寿陵を築くと称しているが、もしや馬子の墳丘では無いかと疑った。

 帝は馬子にしいされても馬子を倒す希望を嫡子の蜂子皇子はちのこのみこに託そうと思った。大伴糠手連あらてのむらじも大伴の血を引く蜂子皇子はちのこのみこが太子に就けば蘇我と一線を画すであろうと思った。

 帝は何の前触れもなく朝議を開き皇太子を立てる事を群臣にはかった。朝議にのぞみ皇太子には小手子こてこの子、蜂子皇子はちのこのみこを太子にと告げた。

 馬子は帝の突然のみことのりに眉をひそめ、「余りにも唐突であり拙速に過ぎる。皇統は欽明天皇の御子、敏達、用明、崇峻と三代に亘り兄弟相続をもって皇統を引き継いで来た。太子とは次代の帝となられるお方をお決めする事であり、皇統の継承を父子相続と取り決めた訳では無い。次代の帝は欽明天皇の御子か順序から云えば敏達天皇の皇子、彦人大兄皇子ひこひとのおおえのみこが相応しい。よって、帝のみことのりを決するには時期尚早である。」と猛然と反対した。

 馬子は帝のお言葉も待たず、「太子の儀は論を尽くして決すべし。」と述べ朝議の散会を告げた。

 帝は憮然ぶぜんとして馬子に申し付けた。「蜂子皇子はちのこのみこは嫡子であり太子として何の不足が有る、大臣おおおみみことのり真摯しんしに受け止め太子の審議をはかれ。」と申されたが群臣は馬子を恐れ審議に入らなかった。

 朝議の席は水を打った様に静まり返り帝は成す術も無く悄然しょうぜんと席を立った。太子の儀は沙汰止さたやみとなり帝の目論見は潰え去った。

 馬子は大伴の蜂起を警戒し、警護の名を借りて帝の身辺に眼を光らせた。帝は近衛の武士もののふを増やし馬子の刺客に備えた。

 帝は刺客を恐れ楽しみの一つであった狩りも催さず日夜、馬子を倒す事を考え続けた。側近の一人が帝を慰める話題として、都で噂の大猪の事を話した。

 側近の話では「丹波の山に巨大な牙を持つ大猪が時折り里に現れ畑を荒らし矢を射れば、背に矢を突き立てて猛然と射手を目指して襲いかかり牙に引っ掛けられて殺された者が後を立たない。この猪は大牙と名付けられ背には数本の矢が突き立っているとの由、誰が射殺すか、大和で聞こえた勇者が次々に丹波に向い競い合っている。」と語った。

 帝は話しを聞き終え、「都にも大牙に劣らぬ大猪が牙をいて日夜、館の中を駆け巡り気に入らぬ臣を次々に牙に掛けている。この都に住む大猪を鎮める勇者は現れぬものか。」と申された。

 或る日、噂の巨大な猪が帝の元に献上された。帝は猪の荒々しい顔と雄々しい牙を見て独り言の如く呟いた。「一夜に十里を駈けて丹波の山野を支配し、大牙と恐れられた猪もついに大和の勇者に討ち取られたか、大和の都に跋扈ばっこする老獪ろうかいな大猪は是非とも我が手でその首をはねて見たいものよ。」と申された。

 馬子が密かに遣わした側近の一人がこの言葉を聞き漏らさず帝に反逆の兆しが有ると馬子の館に駆け込み注進に及んだ。馬子は帝が武器を集め、諸国に勅を出し馬子討伐の兵を差し向けて来る時は近いと感じた。

 帝と馬子が疑心暗鬼になり互いにいがみ合っている最中に辛うじて命脈を保っていた任那が新羅に攻められ、大和に援軍の派兵を要請して来た。

 馬子は軍を編成する事を躊躇ためらいい任那派兵に反対した。しかし、帝は馬子の言を入れず諸国に勅を出して兵を募った。

 四年(五九一年)、帝は大伴連くい(大伴金村の子)紀男麻呂宿祢きのおまろのすくねを大将軍に任じ兵を授け筑紫に派兵しようとした。

 三韓への派兵は欽明八年(五四七年)に百済が高句麗こうくりに攻められ救援の兵を渡海させて以来、四十四年ぶりの事であった。

 馬子はこの軍を帝の企みではないかと疑った。

 大伴連くいは后の一族であり軍略に長けた勇者であった。馬子は大伴連くいが勅命を受け、軍兵を率いて筑紫に発つと見せかけ吉備の辺りで引き返し我を襲うのではないかと疑った。

 馬子は一族の巨勢猿臣こせのさるのおみ葛城烏奈良臣かつらぎのおならのおみに命じ兵を率いて筑紫派兵の軍に加わらせ大伴連くいを見張らせた。

 そして、馬子は大伴連くいが軍を率いて西に去った今が帝をしい(主君や父を殺す事)する絶好の機会と捉え一族を集め天皇の暗殺を謀った。

 馬子は蘇我一族を集めて思う所を申し述べた。「泊瀬部皇子はつせべのみこを蘇我一族の為に蘇我の手で擁立し皇位に就けたが、尽く蘇我の施策に反対し、隙あらば兵を挙げて蘇我を滅ぼそうと企んでいる。地方の豪族に親書を送り挙兵を促し、大伴氏にも蘇我とたもとを分かち蘇我を攻めよと迫っている。帝の位は一世と定められており帝の御歳から考えてこれから先、長きに亘り帝に翻弄される事となろう。帝は密かに武器を貯え、蘇我を討つ手筈てはずを着々と進めている。帝が存命中はしくじっても、しくじっても執拗に蘇我を討つ手立てを考えるであろう。蘇我にとって後顧の憂いを拭い去るには帝をしいする外に道は無い。蘇我一族を守る為に帝をしいする事に一同の理解と賛同を得たい。手筈は馬子が決め各自の持ち場は後日下地する。」と告げた。

 蘇我一族の中で重きをなす蘇我境部摩理勢さかいべのまりせは馬子のおそれ多い企てに驚愕し激しく異を唱えた。

 「臣下が帝をしいするは前代未聞である。馬子が権勢を誇り帝に就けたのは馬子の力と誇示ししいするのも馬子の意のままとおごたかぶれども帝は天の定めに従って就いたまでの事。馬子は即位に手を差し伸べたに過ぎぬ。帝をしいすれば蘇我の家は天の怒りを買い、何れ天の報復を受けて子孫は滅ぶであろう。蘇我一族は傲慢に走り帝をないがしろにして来た。帝が蘇我を除こうとする思いは冷静に蘇我の為した行いを振り返れば思い付くであろう。今、蘇我一族の為に馬子が成すべき事は帝の意を汲み如何に帝と融和を図るかに有る。思いを遂げる為の企ては即刻取り止め、まつりごとは帝の思いに任せ暫くは隠忍いんにん自重して帝の歓心を買うべきである。」

 一族の中で馬子に苦言を呈するのは蘇我境部摩理勢さかいべのまりせを置いて他にいなかった。境部摩理勢さかいべのまりせは必死に馬子を諌めたが馬子は聞き入れ無かった。

 日を改めて境部摩理勢さかいべのまりせは馬子の館を訪れ再び畏れ多い企てを取り止める様、説得したが傲慢な馬子は境部摩理勢さかいべのまりせに告げた。「帝をしいしなければ何れ大伴が外戚の地位を利し蘇我に対抗するであろう。そうなれば死闘を繰返して倒した物部に替わり大伴が台頭し蘇我は再び大伴と死闘を演じる事となる。大伴の拠り代である帝をしいすれば大伴は大義を失い蘇我に対抗する野望は潰え去る。次の帝には蘇我の意のままになる皇子を見定め帝位に就ける。二度とこの様な愚帝を擁立する失敗は繰返さない。」と強い口調で境部摩理勢さかいべのまりせに語った。

 境部摩理勢さかいべのまりせは馬子の論理に唖然あぜんとしたがこれ以上説得を試みても無駄と悟りいさめる事をあきらめた。

 馬子は着々と計画を練り、帝をしいした後の都の防備に万全を期した。帝がしいされたと知った豪族が蜂起し動乱になる事を未然に防がねばならなかった。最も、警戒を要する大伴は大伴連くいが兵を率いて西に去った。

 帝がしいされたと知り、大伴連くいが兵を返す素振りを見せれば派兵に同行する蘇我の兵が阻止するであろう。要は馬子の放った刺客に帝がしいされた事実を如何に隠すかに掛かっている。それには朝臣の居並ぶ面前で帝をしいし、直ちに刺客を捉えて口を封じねばならないと思った。

 計画は一分の隙も無いほど綿密に練られ実行に移された。刺客には東漢直駒やまとのあやのあたいこまに白羽の矢を立てた。東漢直駒やまとのあやのあたいこまは高句麗からの渡来人で武勇に優れているが我欲が強く、蘇我氏が地を与えたが満足せず隣地といさかいを起こし馬子に捕らえられていた。

 馬子は大和言葉も満足に話せず、帝の何たるかを知らぬ東漢直駒やまとのあやのあたいこまを蝦夷人に仕立て、帝をしいする事を謀った。東漢直駒やまとのあやのあたいこまに広大な地を与える事と引き換えに帝をしいする事を承知させた。

 馬子は館の内に謁見の場を設え、何度も東漢直駒やまとのあやのあたいこまに演じさせ作法を教え、符丁ふちょうを取り決めた。機会は一度しかない、過れば命は無い、必殺の覚悟で挑めと脅した。東漢直駒やまとのあやのあたいこまは短剣を研ぎ澄まし馬子の指示を待った。

 馬子は帝の近臣をだまし東国の使者の謁見を願い出た。蝦夷との境を巡視させた近江臣満おおみのおみみつが蝦夷の長と会見し、蝦夷の長は大和に帰順を誓ったとの報せを受けていた。

 近江臣満おおみのおみみつは未だ復命せず巡視を続けているが、この度、蝦夷の長はその約を違えず大層な貢ぎ物を携へ都を訪れた。蝦夷の使者は帝に謁見を願い出て親書を賜りたいと申し出ております。帝は蝦夷が帰順したと聞かされ謁見を許した。

 崇峻すしゅん五年(五九二年)冬十一月三日、刺客となった東漢直駒やまとのあやのあたいこまは蝦夷の衣服に改め頭髪を似せ蝦夷の使者に成りすました。馬子は東漢直駒やまとのあやのあたいこまを蝦夷の使者と偽り謁見の席に導き入れた。

 東漢直駒やまとのあやのあたいこまは平伏して使者の口上を述べたが誰の耳にも聞こえなかった。蘇我一族の一人が申し合わせた通りもう少し前に進み出て申し述べよと促した。

 東漢直駒やまとのあやのあたいこまはこの言葉を今や遅しと待っていた。近臣に促されゆっくりと立ち上がって、つかつかと帝に近づき隠し持った短剣を握り締めて一撃でしいした。

 帝は心の臓を貫かれ声も発せず東漢直駒やまとのあやのあたいこまに抱き抱えられる様に膝を屈して倒れ込んだ。謁見の場に参列した百官、群臣は驚きうろたえ東漢直駒やまとのあやのあたいこまを取り押さえる者はいなかった。

 馬子は時を置かず兵を乱入させ平然と立ち去る東漢直駒やまとのあやのあたいこまとらえ有無を言わさず即座にその首をねた。

 百官、群臣は馬子の謀略では無いかと疑いつつ、馬子に逆らう事は出来なかった。帝がしいせられたのは百数十年前、第二十代安康天皇が根使主ねのおみの偽りの言を信じて大草香皇子おおくさかのみこを殺し、大草香皇子おおくさかのみこの御子、眉輪王まよわのおおきみが父に報いて仇の帝をしいした例が有るのみ。まして、臣下が己の権勢を守る為に帝をしいした例は神武以来皆無であった。馬子が命じて帝をしいした事は誰の眼にも明らかであり群臣は馬子の暴挙に畏れを覚えた。

 日を置かず、東漢直駒やまとのあやのあたいこまが帝の妃、蘇我の媛、河上郎かわかみのいらつめを無理やり犯し、帝に露見する事を恐れて帝をしいしたとの噂が流れた。噂を信じる者は誰一人として無く、争乱の始まりを感じた。

 大伴一族と野にす物部が語らい、皇子を擁立して奸臣かんしん馬子討伐の兵を挙げれば争乱は各地に広がるであろう。

 馬子は一族に命じて素早く兵を繰り出し都の内外を固め、群臣、豪族の蜂起に備えた。大伴の館は特に厳重に蘇我の兵が詰め監視を怠らなかった。

 大伴は帝の再三に亘る要請を退け慎重を期したが馬子は大伴の想像を超えた暴挙に出て大伴の野望をくじいた。大伴は何事も無かった如く再び馬子の軍門に降り兵を挙げる愚行は行なわなかった。

 蘇我に反感を持つ群臣も馬子の素早い行動に成す術もなかった。馬子を非難する声は巷に満ちたが馬子を畏れ立ち上がる臣はいなかった。馬子も刺客を恐れ身辺の警護は厳重を極めた。


次のページ 女帝誕生

前のページ 丁未の変


objectタグが対応していないブラウザです。