皇位争乱
第十五話 蘇我氏の台頭
丁未の変
用明天皇の崩御の後、皇位継承を巡って、蘇我馬子と物部守屋の対立は頂点に達し双方共に戦も辞さない状況に発展した。
蘇我氏は欽明、敏達、用明と三代の天皇に一族の姫を后、妃に入れ朝廷を蘇我の血で塗り固め、絶大な権力を握り朝臣は身の保全を図り馬子に靡いた。
そして、馬子に倣い仏法に帰依する群臣は後を絶たず、廃仏を主張する物部は朝廷で孤立を深め、一族の中にも離反する者が現れる程、窮地に立たされていた。
劣勢を挽回して権力を握るにはもはや蘇我氏と戦い倒す以外に道は無かった。守屋は用明天皇の崩御を受けこの機を捉えて蘇我氏と対決する姿勢を示した。
再び彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)を説いたが皇子はやはり応じなかった。守屋は止む無く次の帝には用明天皇と皇位を争った欽明天皇の皇子、穴穂部皇子を立てて蘇我氏に対抗する決意を固めた。
しかし、穴穂部皇子は馬子を怖れていた。馬子に楯突き選りに選って物部守屋に助力を乞い皇位を窺った事に馬子は激怒して何れ皇子を殺してやると側近に漏らしたと洩れ聞きこれ以上、馬子に逆らうと命が危ういと感じていた。
穴穂部皇子は三輪君逆の一件からも用明天皇即位に到る馬子の冷徹な力を見せ付けられ、今や天下は馬子が握っている。馬子に逆らえば命が危うい事を承知していた。守屋の説得を退け断り続けたが守屋も後が無く引き下がらなかった。
守屋は怒気を強めて皇子の弱腰を怒り、「皇位に就かなければ何れ馬子に殺される。命が惜しくば皇位を望め。」と脅迫した。
守屋はこの機会を逃せば二度と蘇我氏を打倒する道は開けないであろうとの思いが強かった。守屋は言葉を和らげ皇子に語った。「蘇我氏は武内宿禰の子孫と称し、出自は蘇我石川宿禰の末裔と名乗ているが、元々蘇我氏は渡来人との交わりが深く、蘇我稲目の時、欽明天皇の皇位継承に暗躍して地位を得た。蘇我稲目は渡来人の末裔との噂も有り、事実とすれば渡来人の末裔に大和の朝政を奪われる事は国を奪われたに等しい。大和は古来より神の御子である帝が治める国である。皇子は奮起して蘇我に立ち向かい天皇親政に復する決意を持って望めば神の加護があろう。天下の権を蘇我氏から奪い返し帝の親政に戻す機会は今を置いて無い、蘇我氏の横暴をこれ以上放置すれば大和は蘇我氏が支配する国と為り、神武天皇以来、帝を補佐する立場に有る物部の家としても黙認する事は始祖に申し開きが立たない。」と皇子の説得に努めた。
皇子も日頃から蘇我氏が朝廷をないがしろにした行いを苦々しく感じており守屋の言い分は解り過ぎる程に解っていた。だが一命を賭して天下を握る馬子と戦う勇気は無かった。馬子の権力は絶大で群臣は馬子を恐れ守屋に組みする豪族、群臣は現れないであろう事は明らかであった。守屋の劣勢を挽回する手立ても思い付かなかった。
皇子は馬子が恐ろしく守屋の説得を固辞した。守屋は皇子の豹変に怒声を浴びせ或いは恫喝して承諾を求めたが皇子は頑として応じなかった。
業を煮やした守屋は止むを得ず穴穂部皇子の意志に関わらず強引に引き込む策に出た。穴穂部皇子が皇位に上る意志を示した。馬子は怒って早晩、皇子に兵を向けるであろうと将士に語り、馬子から皇子を守れと将士に命じた。
守屋は皇子の館に兵を差し向け塁を築き壕を掘って館の守りを固めた。馬子は穴穂部皇子が館の防備を固めたと知り、守屋と結託して皇位を窺う姿勢を見せたと誤解した。
穴穂部皇子は馬子に事情を打ち明け助命を乞う為、夜半、密かに館を抜け出したが守屋の兵に見付かり連れ戻された。
都では夜中に人馬の響きが轟き、すわ戦かと驚き身構えたが何事も起こらなかった。この後、夜半にしばしば人馬の響きに眠りを妨げられた。
穴穂部皇子は抜き差し為らぬ状況に追い込まれ困惑して宅部皇子(宣化天皇の御子)に使いを遣り守屋の説得に助力を頼んだ。宅部皇子は危険も顧みず穴穂部皇子の館を訪れ、「守屋の脅迫と恫喝に屈してはならぬ、馬子に刃向かえばいずれ殺されるであろう。守屋に兵を引かせ馬子に事の次第を申し述べ、有らぬ疑いを打ち消す事が先決である。」と助言した。
宅部皇子は物部守屋の卑劣な遣り方をなじり兵を引く事を強く求めたが、守屋は二人の皇子を前に語気鋭く告げた。「既に賽は投げられた後に戻る事は叶わない。群臣は穴穂部皇子が馬子に敵対して皇位を望み、物部が加担して穴穂部皇子の館に兵を差し向け館の防備を固めた。早晩、戦が近いと感じ取った。皇子は乾坤一擲、決断なされよ。」
穴穂部皇子は物部に兵を引く事を願ったが物部は聞き入れ無かった。「今、兵を引けばすかさず馬子が兵を差し向けこの館を襲うで有りましょう。もう、後に引けぬ状況に立ち至った事を認め如何にすれば皇位に就けるかを思案する時である。戦は始まった。馬子の横暴を嫌う群臣を調略して味方に付け馬子と対決して決着を着ける。諸国の豪族にも使いを出し都に兵を上らせる。」守屋は次々に命を発し家人を走らせた。
穴穂部皇子は万策尽きて仕方なく守屋に一命を託す事を約した。守屋は皇子の決意の程を確かめ、重大な事を口に出した。「馬子は彦人大兄皇子を推戴して皇位に就けても皇子は蘇我の血を引かず馬子の権勢は安泰とは言い難い。よって、敏達天皇の後を受けて用命天皇を即位させた。彦人大兄皇子が皇位に就けば物部としても蘇我を退ける好機となるが皇子は即位を固辞し用命天皇の皇太子に就く事も固辞された。この事は兄弟継承の流れを作った事となるので次の帝は泊瀬部皇子 (崇峻天皇)か穴穂部皇子に決したも同然である。従って、馬子は泊瀬部皇子 を次の帝に推戴する所存で有ろう。今、奇襲を掛けて泊瀬部皇子 を襲い殺せば、蘇我は窮地に立たされ和解を申し出て穴穂部皇子の即位を承知する事、間違い無い。泊瀬部皇子 の館はまさか兵を向けられるとは予想しておらず備えも無く容易く殺める事が出来るであろう。皇子の裁可が有れば守屋は直ちに刺客の兵を差し向け泊瀬部皇子 を討ち取って参ります。」
穴穂部皇子は思いも拠らぬ恐ろしい策謀に体が震えた。皇位継承を口実に物部と蘇我が覇を競い皇室がその争いに巻き込まれ皇子が互いに憎み合い殺し合う事態を知り戦慄を覚えた。戦いに身を晒す己を想像出来なかった。物部と同じ様に馬子も我が命を狙っている事に初めて気が付いた。
皇子は大義を得る御旗であり、互いに御旗を掲げて、皇子の知らぬ間に両者の戦は始まっていた。皇子は切迫した状況に思い至り何とか戦を回避したいと思った。
それには一旦物部に兵を引かせ馬子に戦の意志が無い事を示すべきと思った。「朝廷をないがしろにする馬子と云えども皇子の館をいきなり襲う事はあるまい。一旦兵を引き馬子の出方を待って事を進めたい。」と物部を説いたが物部は聞き入れ無かった。
守屋はこの館から兵を引けば馬子は時を置かずこの館を襲うと穴穂部皇子を説得したが皇子は聞き入れなかった。
守屋は状況の認識が甘い皇子に呆れ果てた。馬子は己の館が襲われる事を警戒して兵を伏せ館を固めているであろう。最善の戦略は戦の拠り所と為っている穴穂部皇子を殺す事に有る。
守屋は穴穂部皇子を守り抜かねば為らず、蘇我は泊瀬部皇子 を推戴して穴穂部皇子を除く事を謀るであろう。互いに皇子は戦の御旗であり御旗を奪った方が天下を握る。
蘇我に打ち勝つ為には蘇我の御旗である泊瀬部皇子 を除く事を穴穂部皇子は解っていない。身の危険が迫っている事も解っていない。
守屋は強引に仕掛け無理遣り納得させた負い目も有り、止む無く少数の兵を残し一抹の不安を感じながら館を退いた。
馬子の間者は守屋の兵が引き揚げるのを見届けすぐさま馬子に知らせた。馬子は守屋が我が館を襲うであろうと思い、密かに兵を集め館を固めていた。
守屋が何を思ったのか兵を引いたと聞き不審を募らせたが直ちに、炊屋姫尊(推古天皇)の館に赴き皇位継承を巡る戦が勃発したと告げた。「穴穂部皇子が叛乱を企て、兵を集め皇位を窺う姿勢を見せ、宅部皇子も加担した。穴穂部皇子は以前にも皇位を窺い、敏達天皇の崩御の時も喪に服す事をせず帝の皇子、彦人大兄皇子と竹田皇子に似せた木札を作り僧に命じて呪詛をかけた。又、皇后の炊屋姫尊を脅迫して勅を得ようと殯斂宮に押し入ろうとしたが果たせず、宮を守る逆を襲い斬り殺した。今又、用明天皇の崩御を受け物部と結託して兵を挙げ泊瀬部皇子 を討ち取る暴挙を企てている。何卒、帝に成り代わり炊屋姫尊を奉じて穴穂部皇子を討ち取りたい。」と願い出た。
馬子にとって政略の為には甥を殺すぐらい何程の事もなかった。炊屋姫尊も心底から信頼を寄せる馬子の言に疑いを差し挟まず穴穂部皇子に反逆の兆し有りと討伐の勅を下した。
勅命を得た馬子は佐伯連、土師連、的臣を将に任じ穴穂部皇子の館を襲った。穴穂部皇子と宅部皇子は馬子の兵が突然来襲した事に驚き慌てた。守屋が案じた通り守屋の兵が去ると時を置かず馬子の兵が襲って来た。
館を守る兵は僅かでたちまちにして馬子の兵に館は蹂躪されるであろう。穴穂部皇子は急ぎ館を去った守屋に救援の使いを出した。
馬子の兵が攻め寄せ穴穂部皇子は止む無く館の屋根に登り弓を取って応戦したが矢疵を受け館に逃げ戻った。二人の皇子は館の小部屋に潜み兵が引き揚げるのを待った。
馬子の兵は門を打ち破って乱入し二人の皇子を探させたが見つからなかった。馬子は館を抜け出せる筈は無い何処かに潜んでいると睨み館を隈なく探させた。兵は館の家人を捉え皇子の居場所を問い、答えられない家人を次々に斬り殺した。
穴穂部皇子はあまりに惨い仕打ちに耐え切れず宅部皇子と共に名乗り出て捕縛された。二人の皇子はまさか馬子が命を奪うとは思い及ばなかった。馬子の館に軟禁され泊瀬部皇子 が皇位を継げば釈放されると思っていた。馬子と云えども位が違うと思っていたが兵は盗賊を捕らえた如く縄で縛り上げ馬子の前に引き立てた。
家人も次々に捕らえられ二人の皇子の目の前で首を刎ねられた。馬子は二人を一瞥して、「叛乱を企てた罪により斬首の勅命が下った。」と告げ、家人に命じすぐさま二人の首を刎ねさせた。
物部守屋は皇子の館が馬子に襲われた報に接し危惧が現実に為った事態を嘆いた。館には警護の為に少しばかりの兵を留め置いたが反逆の勅を以って馬子が館を襲ったのであればこれから引き返しても間に合わぬであろう。馬子の素早い行動に驚き、情に流され戦の常道を逸した己の不覚を思い知った。
皇子を縛り挙げてでも館に留まるか渋川の館に伴うべきであった。後悔の念は止めど無く脳裏を過ぎった。
我が思いを遂げる為に嫌がる穴穂部皇子を説得し争いに巻き込み命を落とさせた。皇子もさぞ無念であろう、まして宅部皇子は巻き添えになり二人は守屋を怨んでいるであろう。
それにしても情に流されず非情を意に解さぬ馬子の惨い仕打ちに仏の仮面をかぶった鬼を見る想いがした。天を仰ぎ己の運のなさに呆れ返った。皇子の意見を尊重した己が敗れ神を畏れぬ馬子が勝った。一瞬の迷いが勝敗を分け馬子は勝ちに乗じて我に攻めかかるであろう。
守屋は兵をまとめ急ぎ渋川の館(大阪府八尾市、物部は河内を領していた)に急いだ。帰り着くと兵に命じて館の周りに壕を掘り、稲城を築き、櫓を建てて戦に備えた。
物部守屋と蘇我馬子の二人は仏法の渡来以前は互いに親交を結び、馬子は守屋の妹、太媛を妻に迎え入れたほどの仲であった。(太媛は蘇我蝦夷と聖徳太子の妃となる刀自古郎女を生んだ。)
欽明十三年(五五二年)、百済から釈迦仏が到来し二人の仲は一変した。二人の権力争いは崇仏か廃仏かの争いに置き換わり激しく渡り合った。その都度、二人は軋轢を深め互いに憎み合う間柄となった。
用明天皇崩御(五八七年)の秋七月、丁未の変(干支の丁未の年、五八七年に起こった蘇我と物部の争い。)は起こるべくして起こった。用明天皇崩御を期に蘇我と物部の争いは頂点に達していた。
物部守屋は渋川の館に稲城を築き館の内には何時でも都に攻め上れる兵が詰めていた。馬子も兵を集め己が館を固めていた。
馬子は物部守屋が時を置かず攻め寄せれば兵力に優る守屋の前に敗北するであろうと感じていた。馬子は守屋が決起する前に兵を集め渋川の館を襲う他に道はなかった。
馬子は群臣を集め守屋が叛乱の兵を挙げたと偽りを述べ、諸皇子、群臣に奸臣の守屋討伐の軍を興す、速やかに兵を引きつれ渋川の館に向えと命じた。
紀宿禰、巨勢臣、膳臣、葛城臣、阿部臣、平群臣、坂本臣、春日臣も馬子に逆らえず兵を率いて馬子の軍勢に加わった。大伴連噛(大伴金村の子)、は馬子に取り入るべく一も二も無く同意し兵を引きつれ馬子の一翼を担った。
泊瀬部皇子 (後の崇峻天皇)、竹田皇子、厩戸皇子(聖徳太子)難波皇子、春日皇子も馬子の軍に加わった。泊瀬部皇子 にとって兄、穴穂部皇子を殺した馬子の陣に加わる事は苦渋の選択であった。加わらねば皇位はおろか下手をすれば馬子に嫌疑を掛けられ兄同様に殺されかねないと思った。難波皇子、春日皇子も同じ思いで馬子の陣に加わった。
物部の一族は諸皇子が馬子の陣営に加わったと知り、逆賊の汚名を被る事を怖れて守屋に加担する事を躊躇い援兵を送らなかった。
守屋は手兵のみで戦う事を余儀なくされ渋川の館を捨てて野が広がる衣摺の館(大阪府東大阪市)に移り、稲城(稲藁を高く厚く積み上げて敵の侵入と矢の攻撃を防いだ防塁。)を築いて馬子の軍を待ち受けた。
一方、蘇我馬子の軍勢は物部守屋の本拠、阿都の館(大阪府八尾市)に至ったが館に兵の姿はなかた。馬子は軍勢を率いて渋川の館(大阪府八尾市)に至ったが渋川の館も静まりかえっていた。馬子は物見の兵を出し守屋の居所を探させた。 守屋は衣摺の館に篭り稲城を築いて馬子の軍を待ち受けていると知り軍を進め、野に稲城を築いて陣を張った。
守屋の兵は木に登り上から馬子の軍を眺めて盛んに矢を射かけた。功を焦った大伴連噛は一軍を率いて攻め掛かったが守屋の兵に敢え無く敗退し陣に逃げ戻った。
馬子は功を戒め、全軍を指揮して一斉に攻め掛かった。守屋の兵は木の上から矢を雨の様に降り注いで進軍を阻み馬子の兵は次々に倒れた。守屋も自ら榎の大木の木俣に登り矢を射掛け寄せ手の兵を次々に射殺した。
馬子の兵は前進を阻まれ、間断なく降り注ぐ矢を防ぐのが精一杯で有った。突き崩す弱点を見付けられず馬子は三度攻めたが、兵は恐れをなして退却し軍を引かざるを得なかった。
戦は守屋の軍が優勢に戦ったが守屋には虚しい戦であった。皇位継承の資格を持つ諸皇子の全てが馬子の陣営に加わっていた。守屋が勝利しても守屋には推戴する皇子がいなかった。
この戦は守屋と馬子の私怨を晴らす戦で有ったが諸皇子が馬子の陣営に加わり守屋は逆賊の汚名を着せられる事となった。
守屋は諸皇子に矢を向けるなと兵に命じていた。諸皇子を討てば例え勝利しても私怨による戦であると言い張れないと思った。守屋はこの戦に勝利して諸皇子と和睦を結び馬子を追い落とそうと考えた。
再び馬子は攻め掛かったが先程の戦で守屋の兵の勇猛さを知った馬子の兵は前に進む事を恐れ前進と後退を繰返した。嵩にかかった守屋の兵は館の門を開き矛を翳して馬子の軍に迫った。馬子の兵は虚を衝かれ怒涛の如く疾駆して戦場を駆ける騎馬軍団に驚き我先に退却した。
守屋の兵は中央を崩し、深追いせず馬を返して館に戻った。馬子の軍は館に迫る事も出来ず攻めても攻めても撃退され、その都度、兵を失った。三度攻めて、三度退いた。
物部の家は代々、軍事を司り蘇我氏は武内宿禰以来政を司って来た。守屋の家人には戦の巧みな者が揃い兵力の差を跳ね返す勇猛の士が多く捕鳥部万も百人の兵を指揮して館を守っていた。
戦局は傾き、捕鳥部万は「兵の士気は高く、門を開いて総攻撃を掛ければ馬子の軍は崩れるであろう。」と守屋に進言し決断を待ったが、守屋はこのまま守り抜くと主張し野に出て決戦する事を避けた。
乱戦になれば兵はいきり立ち諸皇子と云えども見境なく敵と見れば剣を振り下ろすであろう。守屋は諸皇子が傷つく事を畏れて馬子に決戦を挑まなかった。馬子が敗北を認め、兵を引く事を期待していた。
兵力に勝る馬子も物部の兵の強さをまざまざと見て敗戦を覚悟していた。一旦、兵を引き態勢を立て直して最後の決戦を挑む覚悟を固めていた。
馬子の軍に加わり後方に控えて戦の成り行きを見守っていた諸皇子も守屋の兵の強さに呆れ、敗色を感じた。
この戦に加わった厩戸皇子(聖徳太子)は父、用明天皇の薫陶を受け仏法に帰依する心が篤かった。厩戸皇子はこの時、弱冠、十五歳であったが広く仏法を修めていた。馬子からこの戦は崇仏と排仏の戦いで有ると告げられていた。戦を後方から眺めている厩戸皇子の眼に写った戦局は崇仏を唱える馬子の軍が無残な敗退を繰返す姿であった。
戦は馬子が大軍を擁して攻め掛かっても寡兵で戦う守屋の兵に勢いが有り、崇仏の馬子が逆に攻められ、じりじりと後退を余儀なくされていた。厩戸皇子の眼には敗色が濃厚と感じられた。
崇仏の軍が敗れるはずは無いと信じて疑わない厩戸皇子は我知らず仏に「我に勝たせたまえ」と祈願し、急いで霊木を切り、四天王を彫った。束髪の上に載せて、護世四王の為に寺塔を建てる事を仏に誓った。馬子も太子に倣い寺塔を建てる事を誓った。
祈りを終えて、厩戸皇子は居並ぶ兵の前に立ち、「諸天王は我に味方した、我が軍に敵の矢は空を射り、剣は甲を貫かず、隊伍を整え進撃せよ。」と命じ、自ら盾も持たず兵の先頭に立って敵兵の射程に歩を進め、矢面に躰を晒し霊木で彫った四天王を頭上に翳して守屋に向って我を射よと叫んだ。
守屋は無防備で矢面に立った厩戸皇子に驚き皇子を討つな脅しの矢を放てと命じた。守屋の兵は弓を引き絞り太子を狙って脅しの矢を射た。矢は太子の頬をかすめて地面に突き立った。
しかし、厩戸皇子は仏を念じ怯む事無く守屋の陣に歩を進めた。脅しの矢で逃げ去ると踏んでいた守屋は困惑したが射殺せとは命じられなかった。
守屋は兵に向い、太子を狙って脅しの二の矢、三の矢を放たせたが、太子は矢を避ける素振りも見せず歩を進めてきた。これを見た諸皇子は厩戸皇子の願いが仏に通じたと思い次々に厩戸皇子に従って仏を念じ最前線に進み出て兵を指揮した。
馬子の兵は仏を守護する諸天王の加護を受けたと歓喜し一斉に喊声を挙げ盾を構えて守屋の陣に向って駆けた。
仏を念じて放つ矢に無駄はなく、次々に守屋の兵を射た。守屋の兵は先駆けとなって歩を進める諸皇子に邪魔され思う様に矢を射掛けられなかった。守屋の兵は必然的に射る矢数が減り敵兵の前進を止める事が出来なくなった。
勢いを得た馬子の軍は劣勢を挽回し退く事を忘れて守屋の館に迫った。今迄の戦が信じられぬ程、馬子の兵は豹変し死を怖れず猛然と攻め掛かってきた。敵の勢いに押された守屋の軍はたちまち崩れ戦意を喪失した。
馬子の兵は守屋の築いた稲城をなぎ倒し、柵を打ち砕き守屋の館に迫った。迹見首赤檮が木俣に拠る守屋を射落とし戦の形勢は逆転した。
館の門を打ち破り兵が乱入した。矢を引き抜いた守屋は寄せ来る兵に剣を振るって応戦し馬子の名を叫び続けた。
大勢は決したと見た馬子と諸皇子は無闇に殺すな逃げる兵は追うなと命じて館の外を固め戦の収まるのを待った。
戦は燃え盛る炎も時と共に勢いが萎える如く、守屋の兵は追い詰められ屍を築いて防いだが防ぎきれず館を後にして逃げ散る兵も現れた。守屋は雑兵に囲まれ奮戦したが一斉に矢を射掛けられ全身に矢を浴びて射殺された。
馬子と諸皇子は守屋が戦死したと知り逃げる者は追わず逃げるに任せた。降伏を申し出た者は武器を取り上げ釈放した。
戦は守屋一人を誅すればそれで良かった。守屋に従って戦に加わった若干の一族は散り散りに逃げ落ち、逃げ延びた一族は物部の名を捨て姓を改め野に隠れ住んだ。
守屋の近侍捕鳥部万は百人の兵を率い守屋の館を守っていたが守屋が討たれたと聞き馬に跨り館を逃れ山に隠れた。
捕鳥部万は守屋の忠臣でありその武勇は大和に聞こえ恐れられていた。馬子は捕鳥部万が館を逃れ行方をくらましたと聞き、捕鳥部万が刺客と為って襲って来る事を怖れた。守屋の臣下の中で捕鳥部万一人は他の臣下と同列に扱えなかった。馬子は数百の兵を出し捕鳥部万の行方を追わせた。
山中に隠れた捕鳥部万は一人草の褥に伏し守屋亡き後の馬子の横暴に思いを馳せた。馬子は帝をないがしろにして天下をむさぼ貪り、次の帝も馬子の専横を嫌い争う事となろう。一朝事有る時は守屋に代わり帝の矢楯となってお守りする事を神に誓った。
捕鳥部万は数日の後、乱が収まった頃を見計らい山を下りて里に向った。竹薮の先に数十人の兵を見て討手を差し向けられていた事を知った。 討手に見咎られ数十人の兵に追われ、竹林に逃げ込み、竹に縄を掛けて反対方向に逃れ縄を引いた。竹がさわさわと鳴り討手は欺かれて竹が騒ぐ方に向った。
捕鳥部万はやっと難を逃れたと思ったが前方に新たな討手が数十人現れた。捕鳥部万は弓を取り次々に矢を射た。瞬く間に数人の兵を射殺した。
無駄な矢は一矢も無かった。兵は恐れ援軍の到着を待って捕鳥部万を遠巻きに囲んだ。程なく捕鳥部万は数百の兵に囲まれた。捕鳥部万は討手の将に向って叫んだ。「馬子に逆らう積もりは無い、ただ帝の矢楯となってお仕えしたい、それが望みである。馬子に許しを乞う使いを差し向けよ。」と叫んだが将は耳を貸さず兵に一斉に矢を射掛けよと命じた。
捕鳥部万は剣を振るって矢を次々に打ち落とし三十余人を斬り殺した。しかし、多勢に無勢、捕鳥部万は剣で携えていた弓を三段に折、剣を押し曲げて川に投げ捨て、小刀で自ら頸を刺して果てた。
馬子は捕鳥部万の最期を聞き、「屍を八つ裂きにして、串刺しにして曝せ。」と命じた。屍を切り刻み、串刺しにしようとした時、雷鳴が轟き大雨が降った。そこに捕鳥部万が飼っていた白い犬が現れ屍の周りをぐるぐると廻って天に向かって吠え、捕鳥部万の首を咥えて逃げ去った。白い犬は捕鳥部万の先祖の墓に首を収め、首の傍に横臥して誰も近づけなかった。白い犬は一歩も動かず食を与えても食わず飢え死にした。