皇位争乱
第十五話 蘇我氏の台頭
蘇我馬子と物部守屋の対立
二十九代欽明天皇は三十二年(五七一年)夏四月十五日病に伏せ六十三歳で崩御された。死に際し、皇太子の渟中倉太珠敷尊(敏達天皇)に、新羅を討ち任那の復興を託くした。
敏達天皇は欽明天皇の第二子で母は宣化天皇の姫、石姫であり蘇我の血は受け継いでいなかった。欽明天皇は当初、嫡男の箭田珠勝大兄皇子を太子としたが太子は疫病に罹り崩じられ、後を受けて渟中倉太珠敷尊が欽明十五年(五五四年)一月七日、十六歳の時、皇太子になられた。
敏達元年(五七二年)夏四月三日、即位した三十代敏達天皇(在位五七二年四月三日~五八五年八月一五日)は物部弓削守屋(尾輿の子)を大連とし蘇我馬子宿禰を大臣とした。
帝は先帝を檜隈坂合陵(奈良県高市郡明日香村大字平田)に葬り欽明天皇の謚を奉り、都を百済大井宮に遷された。(百済大井宮は大阪府河内長野市太井とする説と奈良県広陵町百済とする説がある。)
敏達四年(五七六年)春一月、息長真手王の娘、広姫を立てて皇后としたが、后はその年の冬十一月、彦人大兄皇子を残して薨られた。
敏達五年春三月、帝は異母妹の炊屋姫尊(後の推古天皇、馬子の姪)を立てて皇后とした。炊屋姫尊は幼少の頃、額田部皇女と呼ばれ度々、神懸かりして神託を垂れた。先帝の御代から巫女として崇められ皇女を通じて神に問い神の声を聞いた。
皇女は霊感が強く人には見えぬ過去と未来を見た。皇女の予見は驚く程に正確で人の過去を言い当て、将来の運命を占い処世の術を授けた。皇女は聡明で驚く程の美貌の持ち主であった。ふっくらとした頬と透き通る様な白い肌、切れ長な目が人々を魅了した。皇女の口から発せられる言葉は澄んだ音色を響かせ琴の音の如く聴く者に心地よい安らぎを与えた。
敏達十四年春二月、蘇我馬子は病を得た。卜部に占わせたところ父の稲目が祀った仏に祟られていると告げられた。馬子は帝に病の元を奏上し難波の堀江に沈めた仏を探し求め祀る事の許しを願い出た。
馬子は先帝が勅を以って廃仏を命じ、物部尾興が難波の堀江に金銅の釈迦仏を沈めた後も仏法に帰依していた。
百済から鹿深臣が持ち帰った弥勒菩薩の石像一体と佐伯連が持ち帰った仏像一体を請い受け、司馬達等と池辺直氷田に命じて僧を探させ、播磨国で高句麗から渡来した僧恵便を見つけ仏法の師とし司馬達等の娘、嶋を出家させた。嶋は善信尼と云い、他に二人の娘を弟子として出家させた。一人は禅蔵尼と云いもう一人は恵善尼と云った。
そして、屋敷内の東方に仏殿を造営して弥勒菩薩の石像を安置し、石川の家にも仏殿を造営して佐伯連が持ち帰った仏像を安置した。
蘇我馬子、司馬達等、池辺直氷田は仏法を深く信じ仏殿に恵便と三人の尼を招いて法会を催し斎食(法要の時に供される食事)を供した。司馬達等の斎食の上に仏の舎利を見つけ馬子に献じた。馬子は大野丘の北に塔を建て塔の心柱の下に舎利を納めた。それから数日後、馬子は病を得た。
帝は馬子の願いを入れ先帝が勅を以って廃仏を命じ、物部尾興が難波の堀江に沈めた仏を祀る事を許した。許しを得た馬子は難波津に沈めた仏を探し、館に安置して朝に夕に金銅の釈迦仏を礼拝し病の癒える事を願った。
物部守屋は先帝の勅を軽々に覆した帝の処断を苦々しく思った。物部の家は代々、神を祀り、祭儀を司ってきた。大和は神が治める国であり異国の神を崇める事に物部は承服出来なかった。
欽明天皇の御代に先代の物部尾興は百済の聖明王が朝貢した金銅の釈迦仏を見て何故異国の神を祀る必要があろうかと異論を唱え、欽明天皇の許しを得て異国の神を祀る蘇我氏の寺を焼き払い、仏を難波津の堀江に沈めた。今、又、馬子は帝に願い出て仏を祀る暴挙に出た事に怒りを覚えた。
物部氏は古来、神を司り、神事は物部の手に依って執り行われてきた。物部の存在は神と共に有り神を拠り所として物部の家を存続させ、その血は天皇家よりも純粋で饒速日命を祖として連綿と受け継がれていた。
神は畏怖の対象であり、あらゆる自然現象は神の意志であった。民が安らぎ五穀の豊な稔りも神の恵みであった。物部は節季毎に神を祀り神の怒りを招かぬ様に祭儀を欠かさなかった。
神を祀る事が物部の家にとって最も重要な行事であった。物部は神を介して皇室に隠然たる力を占め朝廷で重きを成してきた。
帝は神の象徴としての存在で現人神と呼ばれた。帝は神の代理人として神を崇め敬い神の名において諸国を制する事もあった。
崇神天皇も神を奉じて四街道に軍を発し、日本武尊も神の化身の草薙の剣を佩て、東国平定の軍を発した。いずれも大和の神に従わぬ豪族を攻め滅ぼし大和の神を広め、神を以ってこの国を治めて来た証である。
大和の神に従わぬ夷を北へ追いやり、南の熊襲を討ち、従う者は隼人と名付けた。神はあまねく諸国を駆け巡り瑞穂の国は大和の神が治める国となった。
物部は大和の神に仕え祭儀を取り仕切り大和の神をお守りして来た。今、異国の神を祀れば瑞穂の国は混乱して神の祈りは絶え、神の怒りを招く事は必定であろうと物部は考えていた。異国の神と戦わねばならない、蘇我に仏を祀る事を許してはならない、大和の神を守る誓いを立てた。
馬子が大野丘(奈良県橿原市)に塔を建て法会を開いた頃から一時治まっていた疫病(疱瘡)が再び流行し始めた。
敏達十四年春三月、物部守屋と中臣勝海大夫(物部の一族)は帝に廃仏を奏上した。「先帝の廃仏によって一時治まっていた疫病が再び流行し民が苦しむのは馬子が再び仏を祀り仏法を広めた事に神が怒りを顕わしたに相違ない、直ちに仏法を止めさせるべきである。」と奏上した。
帝は崇神天皇の御代、神は祀る事を滞った事に怒り、都に疫病を蔓延させた故事に思い至った。崇神天皇は疫病を鎮める為に天神 、地祗を祀り祈を捧げ、国の安寧を願って神籬山(金剛、葛城連山)に登り占って神意を乞うた。神は大物主神を祀る事を命じた。崇神天皇は意富多々泥古に命じて御諸山の地に大神を祀り、疫病を鎮められた。
帝は疫病の蔓延は物部の申す通り異国の神を祀った祟りであろうと思い定められた。崇神天皇に倣い速やかに天神 、地祗を祀り異国の仏を焼き払う勅命を下した。
物部守屋と中臣勝海大夫は直ちに兵を集め、馬子が建立した寺に赴き塔を打ち壊し仏と仏殿に火を掛けて焼き払った。物部守屋は鎮火した後も兵に命じ焼け残った仏像を集めさせ難波の海に投げ捨てた。
その直後に天候は急変し雷と共に屋根を穿が如き大粒の雹が降った。物部守屋は天の異変を畏れる事無く仏法に帰依した善信尼と二人の弟子、禅蔵尼と恵善尼を曳たて、法衣を奪い衆目に晒して鞭打の刑に処した。
蘇我馬子は物部と一戦交えたい思いに駆られたが勅命ゆえに思いとどまり敢えて命に逆らわず物部守屋のなすがままに任せ嘆き悲しみ仏に謝し、仏に祈り、仏に許しを請い願い物部守屋に恨みを抱いた。
廃仏を行って暫く後に敏達天皇は疫病(疱瘡)に罹った。ここ数日の間、温気(蒸し暑い)が天を覆い厳しい暑さが続いていた。
疫病を患う帝を容赦無く暑さが襲い掛かり、帝の体力も気力も萎えさせた。帝は高熱を発し黄泉の国をさ迷った。この日も温気は強く風も絶えていた。宿直の臣は清水を汲み熱を冷まそうと試みたが帝は正気に戻らなかった。敏達十四年(五八五年)秋八月十五日、天寿を縮め四十八歳で突然、崩御された。
馬子は帝の死は仏の崇りであろうと固く信じた。馬子が近臣に帝の死は仏の崇りであると語った話しが人に伝わり噂となって都を駆け巡った。
帝の突然の崩御は塔を焼き仏を焼き、僧侶を苦しめた天罰を仏が示された。帝は仏の怒りに触れ病を得て命を縮めた、帝の死相は見るも無残に顔はただれ、あばたに覆われ、体の内なる邪鬼が暴れ回った後が現れていた。大和の八百万の神は仏の怒りを鎮められず帝を守る事も出来なかった。
民衆はこの噂を耳にして、仏像、仏塔を焼いた祟であろうと信じ仏に畏怖の念を抱き加護を求めて仏を崇めた。
敏達天皇の後を受けて敏達十四年秋九月五日天皇崩御から一月も置かず蘇我馬子は甥の橘豊日命(用明天皇)を即位させた。
第三十一代、用明天皇(在位五八五年九月五日~五八七年四月九日)は欽明天皇の第四皇子で母は馬子の姪の蘇我堅塩姫であり、蘇我氏の血を受け継いだ皇子が即位し馬子は外戚の地位を得た。
帝は異母妹の穴穂部間人皇女を皇后とし、蘇我稲目宿爾の娘、石寸名と葛城直磐村の娘、広子を妃に入れた。穴穂部間人皇女の母は蘇我堅塩姫の妹の蘇我小姉君であり、馬子は皇室を蘇我の血で固めた。皇后の穴穂部間人皇女は四人の皇子を授かり、その内の一人が聖徳太子である。
帝は先帝を河内磯長中尾陵(大阪府南河内郡太子町)に葬り敏達天皇の謚を奉った。帝は都を磐余池辺双槻宮(奈良県桜井市阿部)に遷された。この磐余池の辺は神功皇后が都とした磐余稚桜宮、清寧天皇が都とした磐余甕栗宮もこの磐余池の辺に営まれた。
用明天皇の即位に際し、皇位継承を巡る争いがあった。皇位継承に確たる原則は無く、帝が生前に皇太子を定める習わしであった。
帝が不幸にして皇太子を定める前に崩御された時は遺勅に従い、遺勅も無き時は重臣が相い諮って帝を推戴した。それ故に古来より皇太子の定めが無き時はしばしば皇位継承を巡る争いが生じ、有力氏族が己の権勢の為に皇位継承の主導権を争った。
敏達天皇は突然、疫病にかか罹り間もなく崩御された為、皇太子を定めていなかった。帝(敏達天皇)の側近の臣は前の后、広姫の御子で嫡子の彦人大兄皇子を望んでいたと朝議の席で申し述べたが、蘇我馬子は確たる遺勅は無かった事を理由に臣の申し出を退けた。しかし、物部守屋は引き下がらず臣の申す事は遺勅であると言い張り馬子と対立した。
守屋は蘇我一族を制し権力を握る為に蘇我が最も嫌う嫡子の彦人大兄皇子を次の帝に推挙して馬子の追い落としを計ろうとした。
蘇我氏が推す橘豊日命(用明天皇)は欽明天皇の第四子で母は蘇我稲目の姫、堅塩姫であった。馬子は蘇我の血を引く橘豊日命を皇位に就け物部を制して権力の維持に執念を燃やしていた。
この時、橘豊日命は四十五歳の壮年であったが体が弱く病に伏せる事もしばしばであった。馬子は病弱を理由に固辞する皇子を強引に推戴して物部と皇位継承を争った。
蘇我氏と物部氏の権力争いは互いに一族の浮沈を掛けた争いであり、互いに弱点を探り策謀を巡らし陰に陽に父祖の代から争いは続いていた。
蘇我氏にとって彦人大兄皇子(敏達天皇と広姫の子)が即位すると蘇我稲目が築いた外戚の地位は水泡に帰し権勢を揺るがしかねない一大事であった。
物部氏が彦人大兄皇子に執着する理由は蘇我氏の血を受け継がぬ皇子は彦人大兄皇子唯一人であった。
父子継承であれば彦人大兄皇子と広姫の没後、皇后となった炊屋姫尊(馬子の姪)の子、竹田皇子、尾張皇子がおられた。
兄弟継承であれば、欽明天皇と蘇我稲目の娘の堅塩姫との間に生まれた橘豊日命(用明天皇)と欽明天皇と堅塩姫の妹、小姉君の間に生まれた、穴穂部皇子、泊瀬部皇子 (崇峻天皇)がおられた。
皇子の中でも特に穴穂部皇子が皇位継承に執着した。穴穂部皇子は敏達天皇の崩御を聞き次の帝は、彦人大兄皇子と竹田皇子のいずれかであろうと思い二人に似せた木札を作り僧に命じて呪詛をかけ殺そうとしたが効き目は顕れなかった。
穴穂部皇子は馬子の館を訪ね、膝を屈して推挙を頼んだが、馬子は言葉を濁し承知しなかった。
物部守屋は蘇我馬子の思うがままに皇位が継承される事に我慢ならなかった。馬子の権力をそぐためには彦人大兄皇子を推戴し我が手で皇位に上らせる必要があった。
彦人大兄皇子は敏達天皇の嫡子であり、母は息長真手王の姫で先の皇后、広姫で蘇我の血を引き継いでいなかった。
彦人大兄皇子は異母妹の小墾田皇女(敏達天皇の后炊屋姫尊の姫)と糠手姫皇女(敏達天皇の采女、伊勢大鹿首の娘、小熊子郎女の姫)の二人を妃に入れ蘇我一族とは距離を置いていた。
物部守屋にとって願っても無い皇子であり、しかも嫡子であった。蘇我の横暴が無ければ皇子の即位に余人は口を挟めない第一位の皇位継承者であった。
守屋は彦人大兄皇子を説き、遺勅に従い皇位継承に名乗りを上げる事を求めた。しかし、彦人大兄皇子は蘇我と物部の政争の道具にされる事を嫌い皇位に就く野心はなく政争を冷厳に見つめていた。
彦人大兄皇子は言葉を尽くして即位を説く守屋の申し出を固辞し守屋に告げた。「遺勅は近臣の戯言であろう、皇位を望む野心は無く、国の理想を描く知恵も気概も無く、蘇我に立ち向かう力も無い、物部と蘇我が天下の覇を競い帝の権威は失墜して覇者の飾りとなり、臣下の如く仕える愚に耐えられぬ。百三十年の昔も皇位継承を巡る争いがあった。履中天皇の御子、市辺押磐皇子が政争に巻き込まれるのを嫌い、長く政務に携わっている木梨軽皇子が相応しいと述べ皇位に就く事を拒まれた。その後、皇位を巡る争いが次々に起こった事件を例に取り時代が酷似している。」と語った。
彦人大兄皇子は更に言葉を続け、「古の昔も木梨軽皇子は穴穂皇子(安康天皇)に殺され、穴穂皇子は大草香皇子の御子、眉輪王に誅され、八釣白彦皇子と坂合黒彦皇子は、大泊瀬皇子(雄略天皇)の野心の為に殺された。争いの内に皇統は絶え、野に隠れすんで居た市辺押磐皇子の遺児、顕宗天皇が即位したが武烈天皇を以って皇統は絶えた。今、皇位は豪族の権力の象徴となり、蘇我と物部の主導権争いの道具と化し、数多の皇子も蘇我か物部と結託し皇位継承に野心を示し相い争そう事になろう。」と眉を顰、嫌悪の面持ちで嘆いた。
彦人大兄皇子はさらに続けて、「馬子は橘豊日命(用明天皇)を皇位継承者に推す考えであるとの噂も耳に入っている。互いに矛を収め橘豊日命を即位させては如何。」と守屋に告げた。
守屋は引き下がらず彦人大兄皇子に申し述べた。「次の帝は皇子を置いて余人に代え難い、歴代の帝は皇后の皇子が就き、皇后に皇子が授からなかった時のみ妃の皇子の中から践祚して皇位に上った。先帝は皇子の母である先の后、広姫が崩じて後、蘇我の血を引く炊屋姫尊(推古天皇)を后に迎え、竹田皇子、尾張皇子を授かったが二人は未だ幼く皇位に就く事は適わない。欽明天皇の三皇子、橘豊日命、穴穂部皇子、泊瀬部皇子 は共に蘇我の血を引く妃の皇子である。皇子こそ皇位継承の則に叶う皇子であり、唯一人、蘇我の血を引き継いでおりません。皇子も快く思っていない蘇我一族の横暴を制せられる唯一の皇子で御座います。今、皇子が即位を固辞し蘇我の横暴を許せば、皇子が申した如く市辺押磐皇子が皇位に就く事を嫌った為に招いた争乱が再び繰り返されるでありましょう。皇子が即位を固辞すれば皇位は蘇我の意のままと為り、蘇我の横暴は一層激しさを増すでありましょう。三皇子は疑心暗鬼と為り、大泊瀬皇子(雄略天皇)と同じ過ちを繰返す事が目に見えております。今、蘇我一族の横暴を断ち切らねば、皇位は蘇我一族に翻弄され何れの日か皇位は蘇我に奪われる事となろう。皇子は連綿と続く皇位を蘇我の手に委ねる事を承知なさるのか。馬子の野望を挫く為には皇子が即位する以外に道は無い。」と言葉を尽くして承知する事を迫ったが彦人大兄皇子は応じなかった。
彦人大兄皇子は物部守屋に明かさなかったが陰に陽に蘇我馬子の圧力を受けていた。穴穂部皇子に呪詛されていた事も知っていた。遺勅が有ったと申し述べた側近の臣は馬子に口を封じられ身の危険に脅えているとの噂も耳にしていた。
市辺押磐皇子と同じ運命を辿るやも知れぬとの予感もあった。その時は幼い皇子の田村皇子(舒明天皇)を守屋に託したい気持を押さえ、ひたすら争乱に巻き込まれる事を避けた。
彦人大兄皇子が皇位継承を固辞した事により守屋のもくろみは潰いえ去り馬子の策謀が功を奏し次の帝は橘豊日命(用明天皇)、穴穂部皇子、泊瀬部皇子(崇峻天皇)の三皇子の中から決せられる事となった。
このままでは、皇位は蘇我に握られ、蘇我馬子の意のままに帝が決せられる。馬子は帝を操り蘇我一族の天下は揺るぎ無いものとなる。
物部が蘇我に対抗する手段は尽き果てたが物部守屋は争いを誘ってでも馬子に対抗する手段を考えていた。蘇我一族を内部から崩壊する方策はないか守屋は思いを巡らしていた。
守屋は彦人大兄皇子に代わり物部の力となる皇子を思い浮かべた。穴穂部皇子は馬子に皇位継承を願い出たが一蹴され深い恨みを抱いたと聞く。
穴穂部皇子が臣下の馬子に膝を屈して皇位をせがむ姿を思い浮かべ、何と誇りを失った卑劣な行いであろうと思った。しかし、それ程までに皇位に執着する皇子であれば例え蘇我の血を受け継いでいても馬子に抗して物部の手先になるやも知れぬと思った。
守屋は家人を使って穴穂部皇子に近づき皇子の不満を挑発して馬子に反抗する事を唆した。
皇位を窺う穴穂部皇子のもとにも「馬子は橘豊日命の即位を望んでいる。」との噂が耳に入り焦りを覚えていた。守屋の策謀が功を奏し穴穂部皇子は皇位に就く事に強い執着を示し、自ら政争の中に身を投じて来た。
穴穂部皇子は最早躊躇う事無く、節操を捨て去り蘇我馬子に対立する物部守屋の力に頼る道を選んだ。
穴穂部皇子は危険な賭けに出て、守屋の誘いに乗り館を訪ねた。守屋は策には嵌まって来訪した穴穂部皇子に酒宴を開いてもてなし、素知らぬ顔で皇子の用向きを聞いた。皇子は態度を改め守屋に膝を屈し帝に上る助力を乞うた。
守屋は穴穂部皇子が異国の神を使って呪詛した事を詰り、「皇位を窺う皇子の為すべき事では無い、皇位は馬子と戦って勝ち取るものである。皇位を望むなら命を捨てて我が指図に従え。」と告げた。皇子は呪詛の非を詫び、馬子との縁を断ち切って今後、守屋の命に従う事を約した。
守屋は先帝の后であり、巫女として霊感の強い炊屋姫尊の存在は侮難いと皇子に語った。帝が崩御した今、帝に代わり勅命を発する事が出来るのは后の炊屋姫尊である。炊屋姫尊を奪い無理遣り穴穂部皇子を皇太子とする勅を発し即位の礼を執り行えば皇位に就けると告げ、殯斂宮に篭る炊屋姫尊を奪い取る計略を指し示した。
馬子は穴穂部皇子が事も有ろうに守屋の館を訪ね皇位に上る助力を乞うたと知らされ激怒した。側近に何れ時が来れば殺してやると怒気を含んだ声で呟いた。
敏達天皇の殯斂宮は広瀬(奈良県北葛城郡広陵町)に建てられていた。皇后の炊屋姫尊は帝の崩御を悲しみ殯斂宮(屍を葬るまでの間、棺に納め安置する宮)に籠り誄(死者の徳を称える言葉)を述べ、悲しみに打ちひしがれて別れの時を過ごしていた。
蘇我馬子は穴穂部皇子と物部守屋が炊屋姫尊を奪うべく殯斂宮を襲うであろうと思った。守屋の計略を封じるべく三輪君逆に命じて殯斂宮を守らせた。
三輪君逆は崇神天皇の御代、三輪の神大物主神を祀る祭主として召し出された意富多々泥古を祖とし、代々三輪の地を領し三輪の神に仕える家柄であった。
三輪君逆は敏達天皇に並々ならぬ恩顧を受け、帝を敬う心は神に仕える如くであった。三輪君逆は帝をお守りする最後の仕事を命じられ内心期する所があった。帝の屍をお守りして殉死の覚悟を固めていた。
三輪君逆は帝の生前ただひたすら帝に仕えた。三輪君逆の念願は帝の矢楯となって守り抜く事であった。帝を守る為なら何人も恐れなかった。常に毅然たる態度を保ち馬子にも守屋にもへつらう事は無かった。武勇に優れ、寡黙であったが帝を慕う心が体から滲み出ていた。帝も三輪君逆の礼節を曲げぬ愚直な性格を愛した。
馬子はこの様な三輪君逆の性格を知り抜いており警護を頼むに最適な人物であった。三輪君逆なら身を挺して炊屋姫尊を守り抜くであろうと見通し、「帝の屍をお守りする為、何人も殯斂宮に入れては為らぬ。」と命じた。三輪君逆は屈強な隼人を従え宮の警護に就いた。
物部守屋は炊屋姫尊を奉じて即位を強行すべく穴穂部皇子に命じて殯斂宮に向わせた。穴穂部皇子は喪に伏す炊屋姫尊を奪うべく殯斂宮に出向き誄(死者の徳を称える言葉)を述べに来たと告げ開門を迫った。
宮を守る三輪君逆は何人も宮には入れぬと穴穂部皇子の申し出を拒んだ。穴穂部皇子の再三にわたる開門の命を聞き入れず門を閉ざし続け、問いに答えて曰く、「帝に受けた恩顧を偲び、ただ一人で誄を読み宮の庭を鏡の如く掃き清めている、何人も入れられぬ。」と告げた。
穴穂部皇子が何度命じても三輪君逆は殯斂宮の扉を開かず、「何人も入れぬ、たとえ皇子であれ大臣であれ、大連で有ろうとも何人も入れぬ。」と拒んだ。
穴穂部皇子は馬子の指図であろうと馬子の館に急行し事の次第を告げたが馬子は平然と関わりを否定し「穴穂部皇子の好きに為されよ。」と告げた。穴穂部皇子は三輪君逆の行いと馬子の返答に逆上し物部の館に急行し兵を貸せと迫った。
三輪君逆は穴穂部皇子が兵を引き連れ討ち取りに来ると察知し殯斂宮を兵馬で汚される事を恐れた。宮の門を堅く閉ざし、宮を守る隼人に「兵が攻め寄せて来たなら三輪君逆は本拠の三輪に逃れたと告げよ、何人も宮に入れては為らぬ。」と固く命じて三輪の館に去った。
三輪君逆は館に帰り着いて家人を集め間もなく兵が攻め寄せるであろう、責めは我れ一人に有り、我に忠節は無用である。館を去り、命を全うせよと告げ家人を無理遣り館から立ち退かせた。
穴穂部皇子と物部守屋は三輪君逆を討ち取るべく兵と共に馬を馳せ殯斂宮を囲んだ。宮を守る隼人から「三輪君逆は三輪の館に逃れた。」と告げられた。
二人は兵を返し、三輪に馬を馳せ三輪君逆の館を囲んだ。館は防備も施さず静まり反っていた。館の門を打ち破り兵が乱入しても応戦する者は一人も居なかった。穴穂部皇子はまたしても三輪君逆に逃げられたと思った。兵に命じ館の隅々まで探索させた。
三輪君逆は一室に籠り討手を待ち受けていた。守屋の兵は三輪君逆を取り囲んだが、三輪君逆の武勇を聞き知っており打ち掛かる事を躊躇った。
数人が一斉に打ち掛かったが三輪君逆の剣に跳ね返された。穴穂部皇子は一斉に矢を射掛けよと命じ自らも弓を引き絞り三輪君逆に矢を放った。
三輪君逆は飛来する矢を剣で薙ぎ払ったが数本の矢が脛に突き立ち三輪君逆の動きを止めた。三輪君逆は仁王立ちに為って剣を振るい切り掛かる兵をなぎ倒し穴穂部皇子の名を叫んだ。
穴穂部皇子が現れると三輪君逆は剣を投げ捨て非礼を詫び、将士として自害を願い出たが、穴穂部皇子は許さず兵に命じて首を刎ねた。
蘇我馬子は穴穂部皇子が三輪君逆を襲う事を知りつつ止める事をせず穴穂部皇子の為すがままに任せた。穴穂部皇子は己の権勢を保つ為には何人であろうと犠牲にしても平然と対峙する馬子に底知れぬ冷徹を感じた。
喪が明けると馬子は敏達天皇の后、炊屋姫尊を奉じて神意を占わせ橘豊日命(用明天皇)を即位させた。
用明天皇(在位五八五年九月五日~五八七年四月九日)は欽明天皇の第四皇子で母は蘇我稲目の姫、堅塩媛であった。帝は蘇我の血を引く異母妹の穴穂部間人皇女(欽明天皇と小姉君の皇女)を后とした。
蘇我稲目が次々に娘を帝の妃に上げ皇子に嫁がせ皇室を蘇我の血で塗り固めた血縁が功を奏し目論見通りやっと蘇我の血を引く帝が誕生した。
帝は病弱の身を承知で馬子が皇位に就けた魂胆を解り過ぎる程、解っていた。帝は皇位継承の争いは先帝が太子を定めなかった事に有ると考え即位の後ち、直ちに太子を定める事を蘇我馬子に求めた。
帝は十三歳になった聡明な厩戸皇子(聖徳太子、生没年五七四年二月七日~六二二年四月八日)が相応しいと考えていたが馬子は幼少を理由に反対した。
厩戸皇子は后の穴穂部間人皇女が生んだ嫡子であった。馬子にとっても申し分無い皇子であったが、馬子は余人に推し量れない深慮遠謀な考えを廻らし思いも拠らぬ皇子を太子に推した。
蘇我馬子は蘇我一族の権勢に不満を抱く物部と群臣の矛先を和らげる為に朝議の席で彦人大兄皇子を太子とする事を示唆し群臣に諮った。物部守屋は馬子の真意を計り兼ね彦人大兄皇子の館に赴いて馬子が太子に推挙した事を告げた。
皇子は驚きこれは馬子の策謀である。橘豊日命の即位を物部に納得させ、次の帝は物部の推す皇子を太子とすれば物部と穴穂部皇子の繋がりは断ち切られる。その後に太子を殺めれば物部は拠り所を失う事となる。
彦人大兄皇子は物部を追い落とす策謀に巻き込まれ命を落としたくは無いと太子になる事を固辞された。
物部は一命を賭して御命は守り抜くと皇子を説得したが皇子は頑として応じなかった。致し方なく守屋は朝議の席で彦人大兄皇子が固辞された事を告げ、太子の定めは先に延ばす事を建議した。
馬子は平然と彦人大兄皇子は敏達天皇の長子であり、ないがしろには出来ないと思い太子に立てたが皇子が固辞しては致し方ないと言い放って、太子の定めは見送られた。
数々の事件の後に橘豊日命は即位され用明天皇と為られた。帝は神を尊び仏を信じる信仰心の篤い天皇であった。仏法を信じ我が国に広めようと思われ、群臣を集め仏法に帰依する事を朝議に諮った。
蘇我馬子は勅命と受け止め仏法を広める方策を群臣に諮った。しかし、物部守屋と中臣勝海連(物部一族)は仏法を広める是非を論ぜよとの勅命と受け止め馬子の遣り方に反対し何故、国神に背き異国の神を祀る必要があろうかと申し述べた。馬子は勅に従い朝臣は粛々と事を進めるのみ、それ以外に何を為すのかと反論した。
馬子は仏を尊び仏法に帰依した帝を利用して、仏法の流布を朝議に諮らせた。馬子の予想通り廃仏派の物部、中臣氏は異議を申し述べた。
この期を捉え馬子は勅命を蔑ろにしたと怒り廃仏派の物部、中臣氏の非を論じ二人の失脚を目論んでいた。物部は仏法の是非を論ぜよとの勅命であると一歩も引かず応戦した。
論戦の最中に群臣の一人が密かに物部守屋に告げた。「馬子が刺客を潜ませ守屋を除く事を企んでいる用心を怠る事なかれ。」
守屋は身の危険を感じ厠に行く振りをして席を立ち、急ぎ御殿を辞して館に引き揚げ兵を集め館を固めた。
中臣勝海連は守屋が戻らない事に不審を抱きつつ、朝議の席を辞し別室に控える彦人大兄皇子を密かに訪れ打開の道を探ろうとした。馬子の放った刺客の舎人迹見首赤檮は後を付け廊下に潜み、中臣勝海連の退室を待ち受けて抜打ちに斬り殺した。
大伴比羅夫連は舎人が中臣を斬ったと聞き、物部守屋が兵を率いて馬子の館を襲うであろうと思った。大伴比羅夫連は家人を引き連れ、剣を佩び弓矢を携えて馬子の館に急行し昼夜を分かたず館の警護に勤めた。
物部氏は仏法を巡り蘇我氏が仕掛けた罠に嵌まり決定的な対立を見せた。互いに兵を養い、いつ戦が起こってもおかしくない状態が続いた。用明天皇は二人の争いに心を痛め仲裁の労をとり二人は一旦兵を引き休戦に応じた。
用明二年春、帝は風の病に罹り高熱を発して病の床に伏す日々が続き朝廷の実権は前にも増して蘇我馬子が握った。
帝の病(疱瘡)はいよいよ重くなり鞍部多須奈が出家して丈六の仏と脇時の菩薩を彫り、帝の快癒を仏に祈願したが願いは叶えられなかった。
用明天皇は即位二年(五八七年)夏四月九日、天命に逆らえず四十八歳で崩御された。