皇位争乱

第十五話 蘇我氏の台頭

 継体けいたい天皇は越前三国で野望に燃えて雄伏していた頃、尾張連草香おわりのむらじくさかの娘、目子朗女めのこのいらつめを娶り、長子の勾大兄皇子まがりのおおえのみこ(後の安閑あんかん天皇)と一歳違いの次子、檜隈高田皇子ひのくまたかだのみこ(後の宣化せんか天皇)を授かった。

 二人の皇子は長じて後、共に父に従がって戦塵を駆け、父が皇位に就いた時は、四十一歳と四十歳の男の盛りであった。

 継体けいたい七年(五一四年)十二月、帝は即位を認めない大和との争そいの最中さなかに太子を定められた。太子には長子の勾大兄皇子まがりのおおえのみこが就かれ、筒城つづき(京都府綴喜郡田辺町多々羅)で立太子の儀が執り行われた。太子はこの時、四十七才の壮年であった。

 大和との和解に奔走する大伴大連おおむらじ金村と物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかいも太子には仁賢にんけん天皇の皇女、手白髪命てしらかみのみことがお生みになった、嫡子の天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみこと(後の欽明きんめい天皇)が就くものと思っていた。

 帝の意外な決定に大伴大連おおむらじ金村と物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかいは強く帝をいさめたが帝は聞き入れ無かった。二人は不快を覚えたが嫡子の天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことは未だ四歳と幼く、帝の威光も有り異論を挟まず帝の決定に従った。

 伝え聞いた大和の群臣、豪族は帝の決定に異議を唱え天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことを太子にする事を条件に和解を申し入れたが、帝は一度決した事をくつがえした先例はないと大和の申し入れを拒絶した。和解の道を絶たれた大和はますます反撥を強め溝を深め、帝の入京を遅らせる結果を招いた。

 帝が群臣の意向をないがしろにして太子を定めた事が後々、皇位継承の紛争を引き起こす火種となった。

 大和の群臣、豪族は継体けいたい十九年(五二六年)秋九月、帝が都を磐余玉穂宮いわれのたまほのみや(奈良桜井市)に遷した後も勾大兄皇子まがりのおおえのみこを太子として認めようとはしなかった。大和の群臣、豪族にとって太子は仁賢にんけん天皇の血を引く嫡子の天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことであった。

 継体けいたい天皇の二十三年(五三〇年)秋九月、大伴金村との政争に敗れ忸怩じくじたる思いで帝の即位を認めた許勢大臣男人こせのおおおみおひとこうじて一族の蘇我稲目宿禰が跡を継いだ。

 許勢大臣男人こせのおおおみおひとこうじて一年半の後、帝は後を追う様に継体けいたい二十五年(五三二年)春二月七日、八十二歳で崩御された。

 帝は在位二十五年の大半を戦乱の中で過ごした。大和との皇位継承の争いに始まり、筑紫の乱の平定と諸国の鎮撫ちんぶに二十年の歳月を要し、半島にも度々出兵を余儀なくされた。帝の一生は戦いと政争に明け暮れた生涯であった。

 大伴金村は帝が崩じ、当然の事として太子の勾大兄皇子まがりのおおえのみこ践祚せんそする朝議を開き群臣にはかった。しかし、先帝の出自に今もなを疑念を抱く臣は先帝の崩御を切っ掛けに太子の即位に難色を示した。

 蘇我稲目宿禰は一族の許勢大臣男人こせのおおおみおひとが最後まで継体けいたい天皇の即位に反対した如く、太子の勾大兄皇子まがりのおおえのみこが皇位に就く事を何としてもはばもうと考えていた。先帝が勾大兄皇子まがりのおおえのみこを太子と定めて十八年の歳月が流れ、当時四才の嫡子、天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことは二十二歳の若武者に成長していた。

 蘇我稲目は継体けいたい天皇の出自に今もなを疑念を抱き、勾大兄皇子まがりのおおえのみこを太子と認めぬ大和の群臣、豪族とはか天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことを皇位に就けるべく謀議を重ねていた。

 太子の勾大兄皇子まがりのおおえのみこ践祚せんそする朝議の席で群臣の一人が進み出て申し述べた。「先帝の出自を問うは不敬に当たる事、重々承知しているが太子が皇位を継承するに当たり一言申し述べたい。先帝が即位のみぎり大和の群臣は出自を疑い一戦を交える覚悟を持って二度に亘り軍を興した。その時、大伴金村が奔走し大和の群臣、豪族を説いて軍を引かせ、帝の后に仁賢にんけん天皇の皇女、手白髪命てしらかみのみことを迎えて大和の群臣、豪族を説き帝の即位に理解を求めた。大和の群臣、豪族は后に御子が御生まれになれば当然の事として次の帝には仁賢にんけん天皇の血を引く御子が太子に就くものと了解していた。然るに、先帝は即位以前に尾張の豪族の娘、目子朗女めのこのいらつめに授かった勾大兄皇子まがりのおおえのみこを太子の御位に就けた。大和の豪族、群臣は帝の決定に再考を促したが拒絶された。激昂げっこうした大和は一戦を辞さぬ覚悟を固め帝の入京を拒んだ。今、改めて先帝の出自を問えばなを疑念を抱かざるを得ない。太子の勾大兄皇子まがりのおおえのみこは尾張の豪族の娘が生んだ子であり、先帝の出自に疑いの残るまま万世一系の皇統を太子に引き継ぐ事は如何いかがなものか。今、皇統をただす好機が到来した。先帝の皇后であり、仁賢にんけん天皇の皇女、手白髪命てしらかみのみことがお生みになった嫡子の天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことは御位に就くに十分な青年に達した。皇位を天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことに禅譲する事をはかられたい。」と申し述べた。

 朝議の場は騒然となりしばらくざわめきは収まらなかった。大伴金村は群臣の意見を制し、「太子を決めるは古来より帝がお決めに為り群臣はその言に従うのみ。帝の御言葉は神の啓示であり、古来より群臣が御言葉をくつがえし、帝の承諾も得ず事を成した事跡は無い。既に、先帝は崩じられた。改めて問う事は叶わない。まして太子が即位を拒み天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことに禅譲する事を強く望んでいるならともく、太子は先帝の偉業を継ぐと仰せられている。諸臣は先帝の定めに従い粛々しゅくしゅくと即位の儀を執り行うべし。」と強い口調で申し渡した。

 しかし、蘇我稲目宿爾が仕組んだ謀略が功を奏し、論議は紛糾し次々に群臣が言いたてた。「先帝は応神天皇の五世の孫と称して、越前三国よりお越しになり、大伴大連おおむらじ金村が出自も確かめず、群臣の反対を押し切り、天子の璽符みしるしである三種の神器じんぎ八咫鏡やたのかがみ天叢雲剣あめのむらくものつるぎ八尺瓊勾玉やさかにのまがたまたてまつり即位したのがそもそもの誤りである。誤りをただすに何を躊躇ちゅうちょなさるのか。」論は熱し、延々と互いに譲らず収拾が付かなくなった。

 太子の即位に異を唱える首謀者は蘇我稲目であると見抜いていた大伴金村は蘇我稲目の台頭に危機感を抱いていた。

 蘇我稲目の魂胆は即位に異を唱え混乱を増幅して大伴金村の失政を追求し権力の座から失脚させる事にあった。蘇我稲目の野望をくじき対抗する手段は群臣の反対を押しきり即位を強行するしか方策はなかった。

 群臣を扇動した蘇我稲目の陰湿な反対に業を煮やした大伴金村は物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかいはか勾大兄皇子まがりのおおえのみこ践祚せんそして、春二月七日、天子の璽符みしるしの鏡とつるぎと玉をたてまつり、安閑あんかん天皇(在位五三一年二月七日~五三五年一二月一七日)を強引に即位させた。帝が即位した時、六十五歳の高齢であった。

 帝は先帝を三島藍野陵みしまのあいぬのみささぎ(大阪府茨木市大田の茶臼山古墳)に葬り継体けいたい天皇のおくりなたてまつった。そして、都を勾金箸宮まがりのかなはしのみや(奈良県橿原かしはら市曲川町)に定め、春日山田皇女仁賢にんけん天皇の皇女)を皇后と定め、許勢男人こせのおひとの娘、紗手媛さてひめと妹の香香有媛かかりひめ、と物部一族の物部木蓮子もののべいたびの娘、宅媛やかひめの三人を妃に立てた。

 天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみこと欽明きんめい天皇)を推挙する蘇我稲目宿爾と大和の群臣は怒り、対決の姿勢を見せて天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみこと践祚せんそして欽明きんめい天皇を即位させた。

 しかし、欽明きんめい天皇には天子の璽符みしるしである三種の神器じんぎがなく武を以て天子の璽符みしるしの鏡とつるぎと玉を奪い取らねば正統な天皇とは名乗れなかった。天子の璽符みしるしを所持せぬ帝を群臣、豪族が承知するはずがなかった。天子の璽符みしるしを奪い取れば後世に皇位簒奪さんだつの汚名が残り民のそしりを受ける事と為る。

 大伴金村と蘇我稲目宿爾が睨み合ったまま、二年の歳月が過ぎ、璽符みしるしを所持せぬ蘇我稲目は鉾を収め安閑あんかん天皇の即位を容認した。

 高齢で即位した安閑あんかん天皇は元来、躰が弱く対立に気を労し即位二年、蘇我稲目が認めて気が弛んだのか病の床に伏し、安閑あんかん四年(五三五年)冬十二月十七日、帝は七十歳で崩御された。

 帝に御子は無く、大伴大連おおむらじ金村、物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかい、は崩御を伏せて、直ぐさま帝の遺勅であると称して帝の同母弟の檜隈高田皇子ひのくまたかだのみこを太子とし、先帝を古市高屋丘陵ふるちのたかやのおかのみささぎ(大阪府羽曳野市大字古市字城)に葬り安閑あんかん天皇のおくりなたてまつった。そして、翌年の春一月、群臣の反対を押し切って檜隈高田皇子ひのくまたかだのみこ践祚せんそして宣化せんか天皇(在位五三六年一月二六日~五三九年三月一五日)を即位させた。この時、帝は六十九歳の高齢であった。

 皇位に就いた宣化せんか天皇は蘇我稲目と融和する道を選び、継体けいたい天皇の二十三年(五三〇年)秋九月、許勢大臣男人こせのおおおみおひとこうじて久しく定めていなかった大臣おおおみの位に武内宿禰を祖とする蘇我稲目宿爾を就け、大伴大連おおむらじ金村と物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかいも旧のままとし、阿部大麻呂を大夫まえつきみとした。

 そして帝は都を蘇我の領地であり渡来人の多くが住む桧隈の地に宮を築き、檜隈廬入野宮ひのくまのいほりののみや(奈良県高市郡明日香村)に遷された。

 この様に帝は蘇我稲目宿爾に大臣おおおみの位を与え蘇我の領地に都を遷し懐柔を謀ったが蘇我稲目は面従腹背して心底を明かさなかった。

 帝の即位に異を唱える群臣は足繁く蘇我稲目の館に集い謀議を繰り返していた。群臣の中には武を以て制すべしとの論も強く蘇我稲目は群臣を押さえ制する苦労が絶えなかった。

 蘇我稲目の脳裏には事を急いで兵を挙げれば国は二分され各地で戦乱が起こり、継体けいたい天皇が二十年の歳月を掛けて平定した苦労は無にするとの思いが強かった。天子の璽符みしるしを得ても再び天下平定の軍を興さねばならない。

 天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことも蘇我稲目宿爾も皇位継承に無用の混乱を来たし国が乱れる事を最も恐れていた。帝も大伴金村も物部鹿鹿火もののべのあらかいも高齢である、いずれ機会が到来するであろうと考えていた。継体けいたい天皇の命によって物部鹿鹿火もののべのあらかい磐井いわいの乱を平定したが半島の情勢が緊迫の度を増した事も一因であった。

 新羅は勢力を拡大し執拗に半島の統一に執念を燃やしていた。近江毛野臣が百済と新羅の和睦に失敗したが両国は一時休戦し小康を保っていたが新羅は再び百済を攻めた。百済の聖明王(在位五二三年~五五四年)は支えきれず大和に援軍を請う使者を寄越した。百済が滅べば任那も滅ぶであろう。

 安閑あんかん天皇の二年(五三二年)、任那の金海国は新羅に降り、新羅は金海国王とその皇族を高く遇し任那諸国の切り崩しを謀った。

 大和が皇位継承に揺れ動く間に新羅は着々と勢力を拡大し半島は切迫した状況と為っていた。これ以上傍観すれば任那の地を失う危機が迫っていた。

 天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみこと欽明きんめい天皇)も蘇我稲目も共に半島の情勢を注視していた。新羅の勢力が増し任那存亡の危機を迎えていた。最早もはや、帝の即位を云々して対立を深め時を浪費している時ではなかった。

 帝は重臣を集め任那救援の軍を発する事をはかった。重臣も任那が危急存亡の時を迎えている状況を承知しており早急に派兵する事を奏上した。重臣の賛意を得た帝宣化せんか天皇)は任那救援の軍を発する決意を固めた。

 数年の長きに亘る戦になる事は明白であった。筑紫の屯倉みくら(直轄地)である財部、刑部、白髪部、小長谷部は去る年に磐井いわい君が乱に乗じて襲い兵糧、武器を奪い備蓄は底をついていた。

 帝は新たに筑紫那津に官家みやけを造り河内国茨田まった郡の屯倉みくら籾種もみだねを運ばせた。重臣も率先して是に倣い蘇我稲目宿爾は尾張連に命じ屯倉みくらの籾を運ばせ、物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかい新家連にいのみのむらじに命じ新家にいのみの屯倉みくらの籾を運ばせ、阿部臣は伊吹臣に命じて伊賀屯倉みくらの籾を運ばせた。諸臣、豪族も籾を献上し筑紫に運んだ。筑紫、肥、豊国の屯倉みくらの籾も筑紫那乃津(博多)に集めた。諸国に命を発し、兵を鍛え戦の準備を行わせた。宣化せんか元年秋七月、任那派兵の準備のさなかに物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかいが亡くなった。

 宣化せんか天皇の二年冬十月(五三七年)新羅が任那を侵したとの報せを受け帝は諸国に勅命を発し出兵を促した。

 大伴大連おおむらじ金村に命じ新羅討伐の軍を編成して渡海させた。軍の将には金村の子、大伴いわと大伴狭手彦さてひこがその任に当たり、軍船を連ねて壱岐、対馬から半島を目指した。

 半島の制海権は新羅に降った金海国に握られていた。二将は激しく金海国の軍船を襲い洛東江の河口を制した。二将は洛東江の東岸に上陸し新羅を攻めた。新羅の将は大和の軍を見て奪った任那の地を捨て去り兵を引いた。

 二将は逃げ去る新羅の軍を追撃し猛攻を加えた。新羅は自国の砦に篭り防戦に努めたが支えきれず和睦を申し出た。新羅の魂胆は大和の軍が長く留まらない事を見越しての事であった。

 新羅は兵を引き百済との戦を納め、任那を復興する事を誓約した。新羅は度々、約を違え半島の統一に執念を燃やしている事を承知していたが降伏を申し出た国を攻め続ける訳にもいかずかつ兵站へいたんが続かなかった。

 二将は停戦に合意する旨、使者を遣わして帝の許しを請うた。帝の許しを得た大伴いわと大伴狭手彦さてひこは軍を引き筑紫に引き揚げた。

 大和では帝に御子が誕生し欽明きんめい天皇を推戴する群臣は焦った。時を待つ時節は過ぎた。帝をしいし帝位を奪う時であると蘇我稲目宿爾に迫った。蘇我稲目宿爾は「今、国難の時である、皇統を争い国を失っては後世のそしりを受ける。宣化せんか天皇は六九歳で即位し、帝の唯一の御子、火炎ほのお皇子は幼く、病が絶えぬと聞くいずれ帝の血筋は絶えるであろう。しばし時を待ち、国難が去ってから策を打てばよい。時を待てば根は腐り、枝は落ち、朽ち木の如く倒れる、その時を待つ。」と群臣を説き自重を促し、天下の情勢を見据え忍耐強く時節の到来を待った。

 帝は老いが迫り日に日に体の萎えが目立ち始めた。大伴金村も老境に達していたが兵馬の権を握り矍鑠かくしゃくとしていた。蘇我稲目に付け入る隙を与えず相変わらず朝廷の実権を握っていた。

 老獪ろうかいな大伴金村は朝廷の権力を維持する為に、もしも帝が崩御すれば御子は幼く帝の任に耐え難く安閑あんかん天皇の后、春日山田皇女を践祚せんそして即位させようと目論んでいだ。

 宣化せんか天皇には三人の御子が居られた。后の橘之中比売命たちばなのなかつひめのみことの御子倉之若江王くらのわかえのみこ、妃の倉稚綾姫くらのわかやひめには二人の御子、火炎命ほのほのみこ恵波王えはのみこが居られた。

 帝は特に、橘之中比売命たちばなのなかつひめのみことが高齢を押して出産した倉之若江王くらのわかえのみこ、をこよなく慈しんだ。産後の肥立ちが思わしくない后の橘之中比売命たちばなのなかつひめのみことが心配であった。御子も早産のせいか泣き声もどこか弱々しく思えた。

 齢、七十を過ぎた帝に御子をした喜びと憂いが同時に押し寄せ心労が日毎に心と体を蝕んでいた。夜も眠れぬ日々が続き、帝も病の床に就かれた。

 帝が病床に伏して大伴金村は皇位継承に頭を悩ました。何れの御子も幼く帝の重責を担う歳ではなかった。もしも帝が崩御したなら、御子が成長するまでの間、春日山田皇女に白羽の矢を立て皇位を委ねたいと目論んだ。

 帝も御子は幼く後顧の憂いが去らなかった。皇位継承の火種を憂いつつ日に日にやせ細り、病の床で大伴金村に後事を託した。

 大伴金村は先帝の安閑あんかん天皇の后、春日山田皇女に帝がもしもの時は皇位に就いて国政を司る事を奏上したが春日山田皇女は金村の不敬をなじり取り合わなかった。金村は帝のご意志であると引き下がらず春日山田皇女を説いた。

 しかし、聡明な春日山田皇女は「例え帝のご意志であろうと古来、女が帝位に上った前例は無く神功皇后も頑として皇位に上る事を躊躇ためらわれ、飯豊青尊いいとよのあおのみことも即位されなかった。帝にもしもの事が有れば御子は幼く帝の任に耐え難い、皇位を継ぐは天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみこと欽明きんめい天皇)が相応しい。」と言って固辞された。

 大伴金村は先年、先帝の安閑あんかん天皇が病に伏せた折りに天下のまつりごとを后の春日山田皇女が帝に代わり勅を下した事例を引き帝に相応しいと説き続けたが、春日山田皇女は帝位を巡る争いが絶えない事を憂い重臣の対立を嘆かれた。任那復興にも触れ軍を興し派兵の時が迫っている重大な時局を迎え女御に帝の重責は勤めがたいと仰せられた。

 大伴金村は言を左右にして固辞する春日山田皇女の下を一旦辞去したが日を改めて春日山田皇女を説得する手だてを考える事とした。

 蘇我稲目宿爾は帝が病に伏せ、大伴金村が帝にもしもの事が有れば春日山田皇女を説き皇位を宣化せんか天皇の御子に引き継ごうと謀っている事を知り腹立たしさを覚えた。

 帝が存命の内に皇位継承に決着を付けるべく蘇我稲目宿爾は大伴金村との和解の道を探った。蘇我稲目宿爾は宣化せんか天皇の皇女、石姫を天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことの后にと大伴金村に申し入れた。

 老いてなを権力に執着する大伴金村は春日山田皇女に即位を固辞され、火炎命ほのほのみこ恵波王えはのみこはまだ幼く打開の道を探っていた。蘇我稲目の申し出は一考に価する、今までの対立を水に流し和解の緒につく時が来ったと感じた。

 我が手で婚姻を結び二本の矢を束ね、抗争に終止符を打って、天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことに天子の璽符みしるしたてまつり、我が位を安らかにしたい。天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみことは帝の二人の姫、石姫と小石姫を娶り、御子を太子にする事を約した。大伴金村は蘇我稲目の申し出に応じ病床に伏す帝に許しを乞うた。

 宣化せんか天皇は即位四年(五三九年)春二月十日、歳七十三で崩御された。后の橘之中比売命たちばなのなかつひめのみことと生まれて間も無い倉之若江王くらのわかえのみこも帝の後を追う様にこの世を去った。

 帝の崩御から十ヶ月の後、宣化せんか四年(五三九年)冬十二月五日、大伴金村は天国押波流岐広庭命あめくにおしはるきひろにはのみこと践祚せんそして天子の璽符みしるしの鏡とつるぎと玉をたてまつり二十九代欽明きんめい天皇(在位五三九年一二月五日~五七一年四月一五日)が即位した。時に、帝は三十歳の若さであった。帝は大伴金村と物部一族の総領を継いだ物部尾興おこし大連おおむらじに蘇我稲目宿爾を大臣おおおみに任じた。

 欽明きんめい天皇は先帝を身挟桃花鳥坂上陵むさのつきさかのえのみささぎ(奈良県橿原かしはら市鳥屋町)に葬り、宣化せんか天皇のおくりなたてまつった。みささぎには皇后の橘之中比売命たちばなのなかつひめのみこととその孺子わくご(乳飲み子 倉之若江王くらのわかえのみこ合葬がっそうした。帝は元年秋七月、都を磯城島金刺宮しきしまのかなさしのみや(奈良県桜井市金屋)に遷された。

 欽明きんめい天皇は宣化せんか天皇の姫、石姫を后とした。石姫は箭田珠勝大兄皇子やたのたまかつおおえのみこ渟中倉太珠敷尊ぬなくらのひとたましきのみこと(後の敏達びたつ天皇)それに笠縫姫を授かった。

 帝は秋九月、大伴金村、許勢臣稲持こせのおみいなもち、物部尾興おこしら群臣を伴って難波祝津宮なにわのはふりつのみや(兵庫県尼崎市東難波町 八幡神社)に入られた。帝は諸臣に任那の復興を図るべく派兵の可能性についてはかり、詔を賜った。 「いにしえの昔、神功皇后が三韓を征して以来、百九十年の間、百済は大和に貢船みつぎぶねを遣わし、新しい技術や知識を伝え、珍しい数々の品を届けてくれた。百済は大和にとって弟の国であり、歴代の天皇も百済と深い繋がりを保って来た。歴代の帝は百済の要請に応じ度々半島に万余の兵を出して百済の窮状を救って来た。今、百済は新羅に圧迫され国の存亡の危機を迎えている。任那の日本府の存亡も百済の盛衰にかかっている。宣化せんか天皇の二年、帝は大伴いわと大伴狭手彦さてひこに兵を授け新羅を屈服させ、任那復興を約させたが、大和が兵を引くと新羅は隙に乗じて約を違え百済、任那の地に兵を進めた。大軍を以って新羅に大打撃を与えない限り百済、任那の平安は訪れないであろう。宣化せんか天皇が軍を発してからすでに七年の歳月が過ぎた。諸臣は新羅討伐の軍を興す事をはかり奏上せよ。」と仰せられた。

 蘇我一族の許勢臣稲持は「百済と新羅が争い、又、安閑あんかん天皇の御代に任那の金海国が新羅に降った遠因えんいんは大伴金村が任那四県上多利おこしたり下多利あるしたり娑陀さだ牟婁むろを割譲して百済に与えた事にある。筑紫の磐井いわい君は大伴金村の独善的な処断に怒り乱を起こし大和に反旗を翻した。大伴金村は三韓に争いの火種を撒き、今、百済、任那が苦しめられている。任那復興の為に派兵を急がねば為らないが船と武器と糧食を調える事は容易な事では無い。」と暗に大伴金村を批判した。

 許勢臣稲持は大伴金村が独断で任那四県を割譲した責任に言及し大伴金村の失脚を謀った。群臣は許勢臣稲持の意見に同調し任那四県の割譲の是非に話題は集中した。

 物部大連おおむらじ尾輿おこしは議論を制し「はかるべきは任那復興の為の派兵を如何に対処すべきかにある。任那の復興は国の大事であり、派兵について論じられたい。」と群臣を制した。論は続いたが紆余曲折うよきょくせつを繰り返し、任那四県の割譲を蒸し返し派兵の可能性の結論は得られなかった。

 大伴金村は針のむしろに座らせられ身を削られる思いで群臣の議論を聞かされ、話しの端々に大伴金村、をそしる言葉が耳に入った。身の置き場も無く耳を塞ぎたくなる様な思いに駆られた。我慢の限界を超えた大伴金村は居たたまれず退席し館に戻った。

 沈痛な面持ちで館に戻った大伴金村は余人を近付けず一人、室にこもりたとえようのない失望感にさいなまれた。あの時は他に取るべき手段は無かった。大和の混乱を納めるのが先か、任那を救うのが先か、国を思う故に苦渋の決断であった。

 内政の混乱が納まった今、あの時の判断を朝政の場で公然とそしられ愚弄ぐろうされた己が余りにも惨めであった。遺恨を含んだ蘇我稲目の陰湿な謀略に敗れ、無念の思いが心をおおった。大伴金村は一睡もせずにたかぶる心を静め夜明けを迎えた。

 それ以来、大伴金村は恥じ入り朝廷に出仕せず自から病と称し住吉すみのえの館に引きこもった。帝は月日が過ぎても出仕しない大伴金村を心配して勅使を遣わして勅旨ちょくし(天皇のおおせ)を伝えた。「任那四県を割譲した事に批判を浴び思い悩んで出仕を差し控えて館に籠っている様だが、あの時は国が混乱の最中さなかにあり大伴金村の決断は止むを得ない事であった。己を責める事無く出仕して帝を助けよ。」と勅使は告げた。

 大伴金村は帝の言葉に涙を浮かべて勅使に謝し、身に余るお言葉に感激して涙が止めど無く流れた。そして、勅使に告げた。「されど国難を招いた責は我に有り、病、重く出仕為りがたい。」と勅使に告げた。

 そして、大伴金村は帝の臣を思う心の篤さに感じ入り、見舞いの返礼として鞍馬かざりうま(美しい馬具で飾った馬)を仕立てて贈り厚く敬意を表した。

 蘇我稲目宿爾の暗躍と謀略が功を奏し、大伴金村は任那四県を割譲した責を自ら負い失脚して蘇我稲目が天下の実権を握った。

 朝鮮半島では三国が合従連衡を繰り返し争乱は激しさを増していた。蘇我稲目は半島の戦乱を逃れて大和に到来する百済、新羅の渡来人から半島の情勢を詳細に掴んでいた。

 百済は高句麗、新羅に圧迫され早晩、滅ぶであろうと予感していた。金海国も新羅に屈し新羅の力が増大していた。百済が滅べば海を隔てた任那を守る事は至難となろう。

 しかし、これら渡来人の噂を広言する事も朝議の席で述べる事もはばかられた。半島の情勢は日々刻々と変わり高句麗が勢力を増し半島の統一を目指して南下し百済、新羅を攻めた。

 百済は抗しきれず王都の漢城を失い国都を熊津に遷し、熊津も落されて、国都を扶餘ふよに遷して高句麗に抗していたが失地は回復出来ず存亡の危機を迎えていた。

 欽明きんめい天皇の八年(五四七年)夏四月、百済の聖明王(在位五二三年~五五四年)は高句麗に抗しきれず大和に援軍を乞う使者を遣わした。百済が滅べば任那も滅ぶ、帝は任那の復興を百済に託し援軍の派遣を了承した。

 大和の援軍を得た百済は高句麗に抗すべく敵対関係に有る新羅と結んだ。欽明きんめい十二年(五五一年)、百済の聖明王は任那、新羅の兵を率い高句麗を攻め王都の漢城を回復し軍を進めて平壌を討った。危機が去った百済の聖明王は任那の復興について新羅とはかったが互いに相手を疑い大和の期待は裏切られた。

 欽明きんめい十三年(五五二年)冬十二月、百済の聖明王は度々の派兵を謝し金銅の釈迦仏一躯と経論若干巻を帝にたてまつった。

 使者は聖明王の口上を申し述べた。「この法は遠く天竺からから国に至るまで広く崇められ、諸法の中で最も優れた法にして、無量無辺の果報を生じ、無上の菩提を成す。仏の意志に従い東に広まらん事を願い大和に伝えたいと思う。願わくば帝の力によりこの法を広め賜らん事を願いたてまつる。」

 献上された仏の顔は端麗で美しく未だかって見た事も無い美しさであった。仏は黄金に輝き秀麗な瞳は人の奥底を見透かし救いの手を差し伸べる様な慈悲の眼差しであった。分厚い唇は哀しみや苦しみを慰める言葉を発するが如く、何かに祈る姿は人の罪悪を一身に受け、全ての苦を払い永遠の楽土を祈る姿に見えた。

 帝は使者の言葉を聞き終わり喜びを隠せなかった。諸臣にこの仏を祀るべきかどうかをはかった。物部大連おおむらじ尾興おこし中臣連鎌子なかとみのむらじかまこは申し述べた。「大和は神の国であり帝も臣も天神あまつかみ国神くにつかみを春夏秋冬にお祀りするのが古来からの習いである、異国の神を崇め拝むことは国つ神をないがしろにする行いで有り、神の怒りを受ける事に為ろう。」と異議を唱えた。

 仏の事は渡来人から聞き知っていた蘇我稲目は「西の国の諸国は皆、仏を崇め拝でいるとの事、わが大和の国だけが仏の法に背を向け仏を打ち捨てる事が出来ましょうか。」と物部の意見に反論を唱えた。帝は裁可を下し、蘇我稲目に授け試しに仏を拝む事を許した。

 蘇我稲目は非常に喜び小墾田おはりだの館を清め、仏を安置して日々、仏を拝んだ。その後、疫病が流行はやり民は苦しみ病をいやす手立ては無かった。

 物部尾興おこしは蘇我稲目が仏を祀った事を神が怒り疫病を招いたと帝に奏上し一刻も早く仏を処分すべきであると申し述べた。帝も疫病を癒す手立ても無く物部尾興おこしの申す所を聞き入れ仏の処分を承知された。

 物部尾興おこしは直ちに蘇我稲目の館に急行し蘇我の止めるのも聞かず勅命であると称し仏を奪い難波の堀江に投げ捨て、仏を安置していた館も火を掛け焼き払った。この事があってから蘇我稲目と物部尾興おこしはことごとく対立を深めていった。

 高句麗の脅威が去ると新羅、百済の二国は再び戦端を開き新羅が百済を攻めた。欽明きんめい十三年、百済は新羅の攻めに抗しきれず漢城と平壌を捨て国都を再び扶餘ふよに遷した。

 欽明きんめい十五年(五五四年)、聖明王は再び帝に新羅を攻める援軍を要請し、帝は筑紫火君に命じて百済に援軍を送った。

 聖明王は大和の援軍を率いて、新羅しらぎ函山城かんむれのさしを攻めた。筑紫物部の臣に強弓を引く者が居り、この者が火箭ひのやを放ち城を炎上させて勝利をあげた。一方、聖明王の子、余昌は高句麗に大勝し両国に百済の強さを見せ付けた。

 冬十二月、敵対関係にあった高句麗と新羅は同盟を結び連合して百済に攻め掛かった。百済の聖明王は連合軍に攻められ再び存亡の危機を迎えた。聖明王は急ぎ大和に援軍を乞う使者を派遣した。

 使者は百済が瀕死ひんしの情勢に有る事を隠し聖明王の言葉を帝に告げた。「百済一国を守る戦なら撃退するはたやすい事であるが、有ろう事か高句麗と新羅が談合し二国の連合軍に攻めかかられ百済は苦戦を強いられている。百済が敗れる様な事になれば任那も存亡の危機を迎える事と為ろう、百済は任那防衛に一万の兵を派遣して任那の守りを固める所存であるが二国に攻められ苦戦の連続となっている。この様な戦況故、事に因れば任那防衛は為し難く、願わくば急ぎ筑紫の兵を援軍にお遣わし願いたい。任那を守るために伏してお願い申し上げる。」と使者は申し述べた。

 百済は任那防衛を口実に度々援軍を要請し大和はその度に万余の兵を渡海させて応じてきた。半島には高句麗と百済と新羅の三国が鼎立ていりつし数百年の長きに亘り互いに覇を競っていた。三国は、時に結び、時に離反して他の一国を攻め、しのぎ合っていた。

 任那は小国で任那の力で国を守る事は至難であった。大和は海を隔てた任那の守りを百済に頼らざるを得ない状況が続いていた。任那を維持するには百済か新羅の助けが必要であった。任那の安定には百済と新羅それに高句麗の三国が拮抗きっこうした状況でしか生き残れないのが実状であった。

 大和は神功皇后の三韓征伐以来百済と厚誼こうぎを結び任那を維持してきた。新羅が力を付け度々百済の地を侵しこの度、高句麗と連合して百済に攻めかかれば大和は任那防衛の軍を派遣せざるを得ない弱みを百済に握られていた。帝は百済の願いを入れ筑紫国造倉橋君に命じて救援の兵を派遣した。

 聖明王の子、余昌は大和の援軍を得て戦況を挽回し勢いに任せて次々に新羅の砦を落した。

 新羅の兵は激しく戦わず後退を繰り返して余昌を深く新羅に攻め込ませた。余昌は策に乗せられ新羅の奥深く侵攻し城を築いて新羅討伐の拠点を確保したと思った。しかし、新羅の策にまり、翌日、城から望見すると雲霞うんかの如く新羅の兵が野に満ち、城は新羅の兵に十重二十重に囲まれていた。

 退路を断たれた余昌は城に拠って防戦に努めたが戦いは日増しに激しさを増し兵は次々に討たれた。新羅は攻城の兵器を繰り出し昼夜を分かたず攻め余昌の苦戦が続いた。

 聖明王は余昌の窮状を知り、自から救援の軍を率いて新羅の地に入った。新羅の真興しんこう(在位五四〇年~五七六年)は聖明王自から出陣した事を捉え全軍を指揮して聖明王の軍を囲み退路を絶った。聖明王は数倍の敵に包囲され陣形を整える余裕もなく野戦を余儀なくされた。自らもつるぎを抜いて戦ったが雑兵の射た矢に射抜かれ聖明王は討死にした。城を囲む新羅の大半の兵が聖明王の軍に向って去っても余昌は囲みを破れず苦戦を強いられた。

 余昌を救ったのは大和の兵であった。筑紫国造の兵に強弓を引く者がいた。余昌の前に進み出て新羅の勇壮な者を次々に射落とし新羅の軍を退かせた。この隙に余昌は逃れる事が出来た。

 欽明きんめい十六年(五五五年)春二月、余昌は王位を継ぎ弟の恵を大和に遣わした。恵は帝に拝謁し聖明王が新羅に討たれた事を告げた。

 欽明きんめい十七年春一月、百済の窮状を知った恵は帝に帰国を願い出た。帝は恵の帰国に際し武器、馬、その他、望む物を与え兵一千を授けて帰国させた。

 欽明きんめい二十三年(五六二年)春一月、新羅は任那の官家みやけを攻め討ち滅ぼした。神功皇后の三韓征伐によって大和の支配とした任那十国加羅から国、安羅あら国、斯二岐しにき国、多羅たら国、率麻そつま国、古嵯こさ国、子他こた国、散半下さんはんげ国、乞飡こつさん国、稔礼にむれ国の十国)は事実上滅んだ。


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