皇位争乱
第十四話 継体天皇
男大迹王の野望
悪行の報いか武烈天皇に皇子は授からなかった。皇統は絶え大連の大伴金村は大臣の許勢男人、大連の物部麁鹿火等々の有力な重臣と群臣を集めて朝議を開き一刻も早く皇孫をお探しする事を決し諸国に令を発した。
群臣の一人が申し述べた。「丹波の国造からの報せでは真偽の程は定かではないが仲哀天皇五世の孫と称する倭彦王なる者が丹波国桑田郡(京都府亀岡市)にいるとの噂が御座います。」と告げたが、許勢男人も物部麁鹿火も皇孫か否か十分に調べた上の事として直ぐには動かなかった。許勢男人も物部麁鹿火もこの機会を捉え朝廷の主導権を握る方策を巡らし互いに牽制して事は捗らなかった。
許勢男人には思惑があった。許勢男人の血筋を辿れば、孝元天皇の御子、彦太忍信命の子、武内宿禰の次男、許勢小柄宿禰を祖とし許勢の血筋は臣下に下ったが歴とした皇族であった。皇孫が見つからず皇統が絶えたなら、始祖、彦太忍信命が望んだ皇位に就く事を密かに思い描いていた。
この頃、皇親(皇族)の規定は不明で、皇親の規定が制定されたのは七〇一年に制定された大宝律令(日本史上初の律令)からである。大宝律令では皇親の範囲は天皇の四世孫までと規定していたが、七〇六年の慶雲の改革によって五世孫までと改定された。皇位継承には律令にも規定は無く現在の皇室典範では直系男子と定められている。
許勢男人と物部麁鹿火は群臣に仲哀天皇五世の孫と云うが出自は確かと問い詰め、審議は進まなかった。大伴金村は「仲哀天皇の前の后、大仲姫との間に悲運の死を遂げた香坂皇子と忍熊皇子と呼ばれる御子がおられた。もしもこの御子の血筋なら間違い無く皇孫である。審議に日を送るよりお迎えして出自を確かめれば良い、偽りで有れば大罪を以て望めば済む。」と主張し申し述べた群臣に、急ぎお迎えせよと命じた。
仲哀天皇の五世の孫、と称する倭彦王を迎える使者を丹波国桑田郡(京都府亀岡市)に遣わした。軍勢を飾り御輿を設え先頭に御旗を翻して丹波に向かった。
倭彦王は迎えの軍勢とは知らず、皇孫を語った嘘が露見し討伐の軍を差し向けられたと勘違いし怖れをなして山中に遁走した。迎えの使者が倭彦王の庵を探し当てたが無人で行き方しれずとなった。許勢男人も物部麁鹿火も諸国に人を遣り皇孫をお探ししたが確かな出自の皇孫は見付からなかった。
そんな折、大伴金村に群臣の一人が「越前からの知らせで真偽の程は定かでは有りませんが越前三国に応神天皇(日本武尊の孫)五世の孫と称する男大迹王が居られます。一度、お調べになられては如何か。」と申し述べた。
大伴金村は許勢男人、物部麁鹿火と諮り出自の真偽を調べる事とした。そして、物部麁鹿火が「馬飼いなら諸国と通じているであろう。」と語り河内樟葉(大阪府枚方市楠葉)の馬飼首荒籠を召し出し男大迹王の出自を調べさせた。
当時の馬飼は諸国に赴き馬の買い付けと物産の交易を生業としていた。荒籠も度々、越前に赴き男大迹王の噂は聞き知っていた。
命を受けた荒籠は越前三国に赴き越前の馬飼のつてを頼って男大迹王に近づき馬を献上して知遇を得た。そして、噂の域を出ないが男大迹王の出自を知った。
都に立ち返った荒籠は大伴金村、許勢男人、物部麁鹿火を前にして男大迹王の出自を語った。
「男大迹王の近侍の者から聞いた話では、男大迹王は庚寅の年、允恭天皇の十二年(四五〇年)、彦主人王と振姫の子として近江の三尾(琵琶湖の西、現在の滋賀県高島市安曇川町)の別業(別邸)で生まれました。幼き頃、父の彦主人王が急死し、母の振姫は身寄りのない近江では女手一つで育てられないと思い、幼い男大迹王を連れて実家の越前高向(福井県坂井市丸岡町高田)に帰られました。振姫は越前、高向の豪族、乎波智君の娘で、男大迹王は祖父、乎波智君に養育され越前高向で成人いたしました。噂の域を出ませんが男大迹王の出自を辿りますと、父は彦主人王、祖父は乎非王、曽祖父は意富々杼王、曽々祖父は若沼毛二俣王、曽々々祖父が応神天皇との事であります。若沼毛二俣王の母、息長真若中比売は日本武尊の皇子、息長田別王(近江の豪族)の孫であり、曽々祖父、若沼毛二俣王は母の妹、弟日売真若比売命を娶り意富々杼王をお生みになられた。意富々杼王は越前三国に封じられ三国君と呼ばれました。祖父の乎非王、父の彦主人王も三国を治めておりました。母、振姫の父、乎波智君も出自を辿りますと垂仁天皇の皇子石衝別王を始祖とし振姫は垂仁天皇の七世の孫と称されております。成人して三国君となった男大迹王は九つの頭を持つ竜と怖れられ毎年氾濫を繰り返す九頭竜川の治水に取り組み、足羽山から笏谷石(越前石、福井石とも呼ばれ、加工が容易な青緑色の凝灰岩)を切り出し、堤を築いて氾濫を防ぎ、今まで氾濫を恐れて打ち捨てられていた広大な湿原は沃野となり、民を入植させて兵を養い、率いる兵は精悍で馬の扱いに慣れた騎馬軍団を育て上げました。男大迹王は身丈、六尺二寸(一八六センチ)に余る大男でその躰に似ず軽々と馬に跨り、馬上に矛を翳して戦場を駈けるとの事、その戦法は太鼓を打ち鳴らし将兵の志気を鼓舞して敵を威圧し太鼓の打ち方で兵を自在に操り、太鼓の音に合わせて敵陣を駆け抜け敵う者はいないと称されております。(三国太鼓の原点)降る者は配下とし抗う者は殺す。従う豪族も増え瞬く間に越前の盟主となりました。越前を制した男大迹王は馬首を北に向け越中、越後を駆け抜け瞬く間に越国を制しました。そして、男大迹王は祖父、乎波智君の勧めもあり近江の大豪族息長真手王の娘、麻績娘子、近江の豪族三尾角折君の妹の稚子媛、近江の豪族坂田大跨王の娘、広媛を娶り姻戚を結んで近江の豪族との絆を強めました。尾張とも姻戚を結び、尾張連草香の娘、目子朗女を娶り、男大迹王は近江、越、尾張の兵を背景にして大和に対抗し得る兵力を持つに至りました。重ねて申し添えます。懇意にしている近侍のお計らいでお目通りを許され男大迹王のお尊顔を拝し親しくお声を掛けて頂きました。そのお姿は六尺に余る偉丈夫で他を圧する威厳と風格が有り、血は争えぬと感じ入りました。御年は庚寅のお生まれとお聞きしましたので御歳五七歳におなりですが体力、気力も充実した壮年のようにお見受けいたしました。」
馬飼首荒籠の報告を聞いた大伴金村はもし事実なら男大迹王は日本武尊、応神天皇に繋がる事と為り皇統を継ぐに相応しい血筋であると思い、「皇孫に間違いないであろう、都にお迎えしては如何か。」と許勢男人と物部麁鹿火に同意を求めた。
しかし、許勢男人は「別の噂では男大迹王の祖父、乎非王は百済から渡来し三国君、意富々杼王に取り入って姫を娶り三国君の所領を引き継いだとの噂も有り、これが事実なら男大迹王は渡来人の子孫と思われる。九頭竜川の治水も乎非王の代に百済から石工を呼び寄せて築き、住まわせたとの噂もある。事を急ぐより真偽のほどを確かめるのが先決であろう。」とお迎えする事に反対した。
大伴金村は許勢男人と意見が合わなかったが朝議を開き群臣に思う所を述べた。「生前の武烈天皇は数々の暴虐を働き、民も臣も暗澹たる日々を過ごした。帝が崩御して民も臣も安堵したが皇統が絶える危機を迎えた。八方手を尽くしお探ししたが確かな皇孫は未だ見つかっていない。地方の豪族の中には政の乱れに乗じ、朝廷を見限り国の境を固めて租賦(租は穀物などを収めること。賦は労働力の提供)を拒む豪族が現れる始末となった。皇軍を差し向けるには帝の詔勅がなくては御旗を掲げられない。このまま時が過ぎれば、筑紫、安芸、吉備、も大和の朝廷を見限り租賦を差し出さず独立して乱を招くであろう。天下を統べるには一日も早く天神の御子をお探しして天下を旧に復さねばならない。噂によれば越前三国に応神天皇の五世の孫と称する男大迹王がおられるとの事。しかし、出自は定かでなく渡来人の子孫との噂もあるが、盛名は越国に轟き、天子の風格が有ると聞く。真に応神天皇の五世の孫かも知れぬ。確かな皇孫が見つからねば崇神天皇の故事に倣い新しい帝をお迎えせねば大和は存亡の危機を迎える。万難を排し越前三国の男大迹王をお迎えして璽符を奉れば、天下は平定し豪族の争いも絶える。」
群臣は大伴金村の発議を受け長きに亘り諮ったが五世の孫の証がなく朝議は喧々諤々として意見は定まらず紛糾し議は決し無かった。
特に、許勢男人は「男大迹王の噂は聞き知っているが出自は定かでなく渡来人の子孫との噂もある。確かな出自を確かめる手立てはないのか。」と猛烈に反対した。
物部鹿鹿火は潮流を傍観する姿勢を堅持して沈黙を守り、大伴金村は危急存亡の時であると繰り返し説いたが群臣は聞き入れなかった。
大伴金村は男大迹王が崇神天皇の故事に倣い越の兵を率いて都に攻め上れば近江、尾張の豪族も呼応して都は馬蹄に踏み荒らされひとたまりもなく敗れ去る事も説いた。しかし、喧騒が大伴金村の言葉を掻き消し耳を傾ける臣はいなかった。大伴金村は重臣の物部鹿鹿火に意見を求めたが逡巡して態度を決しなかった。
期を煮やした大伴金村は大声で群臣を制して断を下した。「自ら越前三国に赴き男大迹王を引見して真偽を確かめる。」大伴金村は群臣の反対を押し切り自ら使者に立ち御輿を設え、兵を飾り越前三国にお迎えに行った。
大伴金村は自ら男大迹王を引見し人と成りを具さに見ようと想い使者を立てて会見を申し入れたが男大迹王は大伴金村が率いてきた軍勢を警戒して会う事をためらった。
再三会見を申し入れたが色よい返事は無くなぜ会おうとしないのか不可解であった。使者として赴いた従者に様子を聞くと「何を警戒しているのか解りませんが館の内も外も兵が詰め、まるで戦の如く厳重な警備を敷いております。」この話を聞いた大伴金村は男大迹王を見知っている馬飼首荒籠を呼び寄せ荒籠を使者に立てて大連が自ら会見する本意を伝えさせた。
男大迹王は荒籠がそれとなく出自を調べに来た時、荒籠から武烈天皇が崩御して皇統が絶え、朝廷は皇孫をお探ししていると聞かされ近江、尾張の豪族を糾合して大軍を率い「我こそ皇孫である。」と名乗り出て都に向かう積もりであった。
大連の大伴金村が自ら次の帝として三国まで迎えに来るとは信じられず、軍勢を率いて来たのは事が露見し会見に名を借りた大和の謀略で有ろうと疑いを解かなかった。
旧知の荒籠が使者として来たと近臣が告げても会おうとはしなかった。荒籠は旧知の近臣を頼り再三再四、男大迹王に謁見を願い出た。男大迹王は近臣の勧めもあり、旧知の荒籠を思いやって会って不承知を伝える積もりで荒籠を接見した。
そして、男大迹王は荒籠の壮健を喜び使者の役目を労って用向きを改めて下問し「今はお会いする積りはない。時期が来ればお会いする。」と告げた。しかし、荒籠は引き下がらず誠心誠意言葉を尽くし二日にわたり謁見して男大迹王を説いた。男大迹王は荒籠の大和を想う心に打たれ疑いを解いて大伴金村に会う事をやっと承知された。
男大迹王は臣下を従え、大伴金村が待つ会見の場に悠然と姿を現した。大伴金村は眼前に現れた六尺(一八〇センチ)を超える体躯に圧倒された。噂で聞き知っていたが間近に見て改めてその体躯に驚かされた。
大伴金村に同行した群臣も同じ様に威圧を感じ、居ずまいを正して我知らずひれ伏していた。男大迹王は全身に覇気を漲らせ会う者を圧倒し、鋭い眼差しを大伴金村に向け、長旅を労い、応神天皇五世の孫で若沼毛二俣王の玄孫であると自称した。
一目見た大伴金村は昔、任那を守る為、百済、新羅を斬り従え遠く高句麗にまで攻め入り、好太王(在位三九一~四一二年)と戦った応神天皇も斯くやあらんと思った。応神天皇は軍神として崇められ、国の守護神として宇佐八幡宮を頂点にして全国に四万余の末社が祀っている。
男大迹王も数々の戦を戦い抜き武人としての風格が滲みでていた。豊かな体躯は人を圧し、風貌は毅然たる態度の中に奔放、勇猛、剛胆を感じさせた。
大伴金村は男大迹王を引見し賢者で天子の風格が備わっており応神天皇の五世の孫に偽りは無いと確信し、稽首(頭を地に着くまで下げてする礼 ぬかずく)して男大迹王に奏上した。「都では皇統が絶え皇孫を御探ししておりました所、越前三国に応神天皇の皇孫が居られると聞き及びこの度お迎えに参上いたしました。都では出自は定かではないとの噂も御座いますが男大迹王は紛れも無く応神天皇五世の孫で若沼毛二俣王の玄孫とお見受けいたしました。須らく都に上り御位にお就き願いたいと存じ奉ります。」と申し述べたが、男大迹王は「皇位は重くその任ではない。他の皇孫をお探しあれ。」と承知されなかった。
大伴金村は日を改めて荒籠を伴い再三再四、男大迹王の館に赴き説得に努めた。男大迹王も度重なる懇願を退けてはいるが野心が無い訳では無かった。都の情勢を調べ、尾張、近江に使いを遣り派兵を要請していた。
男大迹王は都の不穏な空気を知り、軍勢を率いて都に上る事を条件に承知した。安堵した大伴金村は急ぎ都に先触れを出し「男大迹王を推戴して都に上る、即位の準備を急げ。」と命じた。
先触れの報を聞き男大迹王の出自を深く疑う許勢男人は都に向かう大伴金村に、「今一度調べる故、暫く大津に御留まり願いたい。」と使いを出した。
物部鹿鹿火は皇統が絶え混乱の渦中にあって冷静に事態を直視した。二百六十年前、開化天皇は太子を定めず突然崩御され皇位継承の争いが起こった。その様な折、印恵命が西国の兵を率いて都に迫り一触即発の事態を迎えた。
物部大連と大毘古(孝元天皇の皇子)は皇位継承の戦乱を避け、印恵命は駕洛国の皇子と知りつつ開化天皇の皇后、伊香色謎命の御子としてお迎えして太子に就け、崇神天皇を即位させた。
崇神天皇が即位した時も国は乱れ、皇位継承に敗れた武埴安彦命は乱を起した。崇神天皇は乱を鎮め四街道に軍を発し諸国の乱を鎮めた。
奇しくも、今、諸国は大和を見限り乱を起こしその勢いは日増しに強く為っている。大伴金村の報を聞けば男大迹王は応神天皇の再来としか思えぬと云う。神は国の守りに応神天皇をお遣わしに為ったやも知れぬと思い始めた。
一方、大伴金村は大津に留まれとの報に接し驚きと共に怒りがこみ上げて来た。男大迹王に都からまだ準備が整っていないのでしばし大津に留まって頂きたいとの使いが来たと告げ、自身は急いで都に立ち帰り、朝議を開いて群臣に男大迹王の人となりを語った。
許勢男人ら群臣は納得せず、議は決する事なく日時は過ぎ、物部鹿鹿火は黙して語らず大伴金村と許勢男人の論戦をただ黙って聞いていた。
男大迹王は大津に留め置かれ、都の使者を待ったが日が過ぎても何の知らせも、もたらされなかった。男大迹王は都の詮議が紛糾し状況をわきまえぬ豪族が暴挙に出て兵を差し向けられる事を怖れ、急ぎ使いを遣って越前三国と近江から新手の兵を呼び寄せた。そして、許勢男人が反対していると知り淀川を南下して河内国樟葉(大阪府枚方市楠葉)に止まり都に迫った。
都では男大迹王が新手の兵を呼び寄せ大軍を擁して大津を発ち、樟葉に駐留した事に反撥を強めていた。
大伴金村は男大迹王の行いを弁明し、意を尽して説いたが群臣は従わなかった。許勢男人は仲哀天皇の五世の孫と称した、倭彦王を丹波の国に探し黒白を付けるべしと言い張り再び丹波に探索の命を発した。他方、許勢男人は都を守る事を名目に大和の豪族を煽動して兵を集め、木津に布陣して男大迹王が大和に入る事を拒んだ。
男大迹王は木津に布陣する許勢男人に使いを遣り告げさせた。「大和を討つは容易い、今、天下は乱れに乱れ勅命を発する事が叶わず、各地で王と称し朝廷を蔑ろにしている。賊が跋扈して民を苦しめ、流民が国に溢れている。この大和で互いに争えば戦乱は野火の如く広がり、その隙に乗じて諸国は独立し国が分裂して神武以前に立ち返り国の平定に数十年の時を要するであろう。大和の豪族も天下の情勢を見よ。」と述べ、太鼓を打ち鳴らして許勢男人の軍を威嚇した。
大伴金村は豪族の暴挙を戒め、兵を引く事を説いた。大和の豪族も争って益ない事は承知しており大伴金村の言を入れ一旦兵を引いた。
大伴金村は皇統が絶えた事が天下に曝されると各地に乱が起こる事を恐れた。喪があける迄に践祚して皇統を継ぐ御子を推挙しなければ為らない。男大迹王の出自を疑い践祚を躊躇する余裕は最早なかった。男大迹王は神が遣わした応神天皇の再来であると言葉を尽くして群臣を説いたが聞き入れなかった。
議論はこれまでと悟った大伴金村は男大迹王の言を信じ、出自の疑いに眼を瞑り推戴する決意を固めて物部鹿鹿火と密談を持った。
朝廷の重鎮、物部鹿鹿火は大伴金村に告げるともなく語った。「許勢の祖は武内宿禰であり、宿禰は孝元天皇に繋がり皇統の血を受け継いでいる。宿禰の父は孝元天皇の第三子、彦太忍信命である。母は紀の国の豪族、莵道彦の姫、山下影姫である。宿禰の一族は臣籍降下したとはゆえ皇統に連なり代々大臣の位に就き皇統をお守りする宿命を帯びた一族である。従って、許勢の血筋は歴とした皇族であり皇統が絶えようとしている今、臣下に下ったとは云へ皇族の血を引く許勢男人が皇位を窺うに何の不思議も無い。許勢男人は皇位継承の混乱に乗じ始祖、彦太忍信命が為せなかった皇位に就く野望を胸に秘めているのであろう。一度臣下に下った者が皇位に上った例はなく前代未聞の事柄であり、許勢男人が望んでも大和の群臣、豪族が許すはずもないが許勢男人が公に皇位を望めば間違い無く乱が起こるであろう。他方、諸国は武烈天皇の崩御を知り、践祚する皇嗣は居らず皇位継承に混乱を来たしている事を聞くに及び各地で乱が勃発し始めた。既に、九州では熊曾が叛き筑紫の磐井はその鎮圧に兵を出した。乱は野火の如く広がり豊(豊前、豊後)、火(肥前、肥後)も巻き込む乱に広がっている。男大迹王は強大な兵力を擁し都を窺っている様は二百六十年の昔、印恵命(崇神天皇)が東征の軍を率いて摂津の武庫の津から鵜河(淀川)を渡河して多々羅(京田辺市多々羅)に留まった状況と酷似している。即位して崇神天皇となった印恵命は国の混乱を鎮める為に四街道に軍を発し戦乱を鎮められた。時代が余りにも酷似している。許勢男人を崇神天皇の即位に反対して乱を起した武埴安彦命にしてはならない。許勢男人が大和の豪族を糾合して兵を挙げれば国は混乱し各地に乱が勃発するであろう。都を戦乱から守る為に許勢男人の野望を封じなければならない。貴殿が男大迹王は応神天皇の再来と見定めお迎えする所存ならば、物部も二百六十年の昔に帰り印恵命に代わって男大迹王をお迎えする事に異存は無い、貴殿は男大迹王の即位を粛々と進められよ。」と告げた。
そして、物部鹿鹿火は直ちに許勢男人の館に向い、二人だけで対峙した。物部鹿鹿火は許勢男人の魂胆を見透かし「これ以上、皇位継承を混乱におとしめ野望を遂げる所存ならば物部は神武以来、軍を司る家として乱を未然に防ぐ為に軍を発せねばならない。」と告げた。
許勢男人も物部を敵に回して野望を遂げられるはずもなく、「はて、野望とは何の事であろう。皇統をお守りするのが我が家の務めであり野望など微塵も無い、血筋の明らかな皇孫を御探ししているのみ。」と言い張った。
大伴金村は物部鹿鹿火の後ろ盾を得て群臣の止めるのも聞かず天子の璽符である三種の神器(八咫鏡、天叢雲剣、八尺瓊勾玉)を奪い、馬を馳せ急ぎ樟葉宮に向かった。そして、男大迹王に天子の璽符である三種の神器を奉り、地に伏し即位を請い願った。
男大迹王は大伴金村が独断で三種の神器を持ち出した事を承知していた。後世に皇位簒奪の汚名を被る事を怖れ「大臣、大連、諸臣全ての推戴がなければ即位は適わない。」と告げ承知しなかった。
大伴金村は再び都に立ち返り群臣を集め、天下の乱れを説き、諸臣の再考を懇願した。許勢男人も男大迹王に替わる皇孫を見つけだせず又、野望を口にする事無く大伴金村に従う事を約し、許勢男人と物部鹿鹿火が同意し大勢は決した。
男大迹王は諸臣全ての懇願を受け元年(五〇七年)春二月四日、璽符を拝受して樟葉宮(伝承地は大阪府枚方市楠葉の交野天神社)で即位し継体天皇(在位五〇七年二月四日~五三一年二月七日)となられた。時に、帝は御歳五七歳であった。
帝は先帝を傍丘磐坏丘北陵(奈良県香芝市今泉)に葬り武烈天皇の謚を奉った。帝は大伴金村と物部鹿鹿火を大連に許勢男人を大臣に就け旧例のままとした。
帝は十六歳の時、尾張連草香の娘、目子朗女を妻に娶り、勾大兄皇子(後の安閑天皇)と檜隈高田皇子(後の宣化天皇)を授かっていたが大伴金村は皇統に繋がる后を娶る事を勧めた。
帝は崇神天皇が皇統に繋がる日子坐王の媛、御間城媛を皇后に定め大和の豪族の認知を得た故事に倣い、帝も大和の群臣の反撥を和らげる為、仁賢天皇の皇女、手白髪命を娶り皇后とした。手白髪命は三年後に、天国押波流岐広庭命(後の欽明天皇)を生んだ。
大伴金村は先例に倣い都を大和に定める事を建言したが帝は樟葉の地を動かなかった。帝は先帝を葬る為に大和に入ったがその時、大和の豪族の不穏な空気を感じた。仁賢天皇の皇女、手白髪命を后に迎えても大和の豪族は帝として認知していなかった。
旧弊に拘らない男大迹王にとって都は大和でなければならない必然はなかった。それよりも旧弊を撃ち破る為には大和を離れた戦略上の拠点の方が望ましかった。
樟葉の地は木津川、宇治川、桂川が合流して淀川となる水運に恵まれた地で有った。戦略に長けた帝にとって樟葉の地は大河、淀川を臨む戦略上の拠点と写っていた。海に出るにも越から兵を呼ぶにも帝にとって好都合な地であった。大伴金村の再三の勧めを退け、「大和に入るのは機が熟すのを待つ」と述べ樟葉の地を都と定めた。
帝の予想通り大和には従わぬ豪族がなを多数を占めていた。帝は戦乱を避け大伴金村と物部鹿鹿火に命じて何度も説得を試みさせたが朗報はもたらされなかった。大和の豪族は陰で許勢男人に操られ着々と挙兵の準備を続けていた。
継体五年(五一二年)、大和の不穏な動きを察知した帝は突然都を仁徳天皇の離宮が有った山背国筒城(伝承地は京都府京田辺市多々羅の同志社大学構内)に遷した。筒城の地は木津川を臨み大和に至る街道(奈良街道)が通じている要衝の地で有った。帝は大和の豪族が挙兵すれば先手を打って一気に大和に攻め込む腹を固めていた。
大和の豪族に挙兵の動きが有る事は物部鹿鹿火も承知していた。今、戦端を開けば国は未曾有の混乱に陥る事を畏れた物部鹿鹿火と大伴金村は帝の許しを得て大和に入り豪族を説得し挙兵を思い止まらせた。大和の豪族は説得に応じ挙兵を思い止まったが帝を受けいれた訳では無かった。
何時、戦端が開かれてもおかしくない、予断を許さない状況が続き帝は筒城に止まり、筒城宮を都と定め大和の豪族の疲弊を待った。
継体六年(五一三年)冬十二月、百済の武寧王(五〇二年~五二三年)は大和の乱れに乗じ大和が支配する任那四県(上多利、下多利、娑陀、牟婁)の割譲を申し入れる使者を立てた。
朝貢の品を満載した船を仕立てて大和に向かった。筑紫に至り国造磐井君に筒城宮への同道を願い出た。磐井君は半島との外交窓口であり朝廷の信任を得ていた。磐井君は百済の使者を伴い難波津の外交施設の一つ難波館に案内し朝廷の沙汰を待った。数日の後、大伴金村から接見するとの報せがあり百済の使者を伴って大伴金村の館を訪ねた。
百済の使者は大伴金村に大層な贈り物を贈呈し武寧王の国書を差し出し「願をお聞きいただければ末永く五経博士(儒教の基本経典である易経、詩経、書経、春秋、礼記に精通した儒学者)を派遣いたします。」と申し添えた。
国書には任那を守る為に百済と陸続きの上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁の任那四県に百済は兵を出し新羅の防ぎと致したい。その為に任那の四県を百済に割譲願いたい、叶わない願いであれば、任那を守る為に軍を派遣願いたいとの内容であった。
磐井君は大伴金村から国書を見せられ百済の虫の良い申し出を唖然として読んだ。そして、大伴金村は半島の情勢に明るい磐井君に意見を求めた。
磐井君は「任那四県を百済に割譲すると新羅の恨みを買い半島の争いは益々激しくなります。任那を守るには百済と新羅の両国と交誼を結び任那の地を犯す国に兵を向けるべきで一方に肩入れすれば、却って任那の存亡を怪しくします。新羅と友誼を結び、百済と新羅の和解を進めるべきと思います。」と説いた。
大伴金村は百済の使者と共に大和に立ち帰っていた任那多利の国守、穂積臣押山にも国書を見せて意見を求めた。
穂積臣押山は「任那四県は百済と地続きで有り百済を抜きにして大和が守り抜く事は困難で有りましょう。少しでも長く任那四県を保全する為に百済に併合する事が最善の策と思います。」と申し述べた。
大伴金村は今、任那に兵を送る余裕はなく穂積臣押山の意見に同調し、帝に奏上して裁可を仰ぐと述べその日は百済の使者の慰労を兼ねて大伴金村の館で酒宴が催された。数日後、百済の使者は大伴金村を招いて盛大な答礼の酒宴を催し大伴金村の従者にまで金品を贈った。
大伴金村は帝に拝謁して百済の国書を示し申し述べた。「皇位継承の混乱から諸国の乱は続いており、乱を鎮める為に四街道に軍を派遣しております。今、任那に兵を差し向ける余裕はなく苦渋の決断ですが百済の申し出を受け四県を割譲して百済に与え任那の守りを確約させては如何かと存じ上げます。」と帝に奉上した。磐井君の助言は一言半句も帝には伝へなかった。
勅が下り任那四県を割譲して百済に与える事と為った。勅使に選ばれた物部鹿鹿火は憂鬱な面持ちで館に帰り勅使を命ぜられた事を妻に告げた。
物部鹿鹿火の妻は嘆息して夫を強く諌めた。「任那四県は神功皇后が官家を置き歴代の天皇が数多の血を流して守り続けて来た大切な領地である。今、百済の甘言を聞き任那の地を割譲して他国に与える愚行を行なえば後世長く非難を受けるで有りましょう。勅使の役は辞退なさるのが肝要かと存じます。」物部鹿鹿火は妻の諫言を入れ病と称して勅使の役を辞退した。
任那四県を百済に割譲する勅許が下ったと漏れ聞いた勾大兄皇子(後の安閑天皇)は驚き呆れた。直ちに日鷹吉士を難波津に遣わして百済の使者に勅書の返却を迫ったが使者は聞き入れずその日の内に難波津を出帆して百済に帰国した。翌年、百済は任那四県を賜った返礼として五経博士の段楊爾を大和に派遣し多数の書物をもたらした。
半島の情勢に明るい磐井君は大和が百済の申し入れを受け入れて任那四県を割譲して与えるとは想いも因らなかった。国の重鎮、大伴金村が己の欲得の為に国を売り渡し任那の滅亡に目を瞑る大和の腐敗に絶望感を抱いた。磐井君は神功皇后が築いた任那の地を自らの手で守る決意を固め新羅と誼を通じる腹を固めた。
磐井君は元々、筑紫の大豪族であり大和から筑紫国造(地方長官)に任じられていたがそれ以前から九州一円の長として君臨し大和に代わり九州の政を司っていた。度々の半島出兵にも磐井君が尽力し、磐井君の支援なくして大和は半島に出兵出来なかった。磐井君は半島との交易を通じ半島の情勢を掴み逐一、大和に報告を欠かさなかった。
大和も磐井君に全幅の信頼を寄せ、九州の政を任せ、半島との外交の窓口でもあった。しかし一方、大和が半島に出兵する度に九州各地から厳しく徴税し磐井君を含め九州の豪族は大和に反感を抱いていた。
筑紫に立ち帰った磐井君は密かに新羅の法興王(在位五一四年~五四〇年)に使者を送り交誼を結んだ。他方、大和には面従腹背して豊(豊前、豊後)、火(肥前、肥後)の乱を鎮め九州一円を掌中にして大和と決別する機会を窺っていた。
大和の豪族も任那四県を百済に割譲する勅許が下ったと漏れ聞き怒りを露わにした。任那四県は神功皇后以来、官家を置き歴代の帝がこの地を守り抜く為にどれほどの血を流した事か、容易く百済に割譲するとは、「帝はやはり皇孫では無く百済から来た渡来人であった。」と騒ぎ再び不穏な空気が大和に漂った。
豪族は帝に不信を抱き密かに語らって挙兵の準備に入った。地方においても任那四県の割譲を切っ掛けに豪族は大和を見限り各地で乱が勃発した。帝は乱を鎮める為に各地に派兵を余儀なくされた。帝が地方の乱の鎮圧に明け暮れていた隙に大和の豪族は兵を養い公然と帝を批判し再び挙兵の兆しを見せた。
帝の兵は乱の鎮圧に各地に派兵され筒城宮の守りは薄くなっていた。今、筒城宮に攻め込まれると苦戦を強いられる事は明らかであった。筒城宮は大和を攻めるに適地で有ったが守るには不向きで有った。
帝は急遽、都を弟国(京都府長岡京市今里)の地に遷した。弟国の地は桂川、宇治川、木津川の三川が合流し淀川と為り、淀川と三川が自然の巨大な濠を形作る要害の地であった。
大和の豪族が弟国の都に攻め上るとすれば奈良街道を進むであろうと想定した帝は対岸の男山に砦を築き旧都の筒城宮に防塁を廻らして大和の侵攻に備えた。
物部鹿鹿火は戦の回避に奔走し大和の豪族を説いたが豪族は直ちには応じなかったが大和の豪族も挙兵したが迂闊に攻められず軍は進発しなかった。
物部鹿鹿火は大和の豪族と和睦する証として姻戚を結ぶ事を建言し帝も物部鹿鹿火の言を入れて大和の有力な豪族、和珥臣(大和の豪族、後に春日に移り春日臣と称した)の姫、蠅姫、河内の豪族、茨田連小望の姫、関媛を妃に迎え入れ大和の豪族と絆を結んだ。
全国の乱も鎮まり、振り返って見れば河内国樟葉宮(大阪府枚方市楠葉)に四年、山背国(桓武天皇が平安遷都に際し山背国から山城国に国名を改めた)筒城宮(京都府綴喜郡田辺町多々羅)に七年、山背国弟国宮(京都府長岡京市)に遷して八年、仮宮を転々として早や十九年の歳月が過ぎ去っていた。
戦乱に明け暮れ都を大和に遷す暇も無く星霜を重ね、即位に不満を持った大和の豪族も熟柿の如く地に落ちて芽吹き今や帝を支える大樹に育っていた。
継体二十年(五二六年)秋九月、帝は積年の憂いも去り機は熟したと見て磐余玉穂宮(奈良桜井市)を造営し都を大和に遷した。
一方、半島では戦端を開く機が熟しつつ有った。新羅は大和が任那四県を割譲して百済に与えた事に恨みを抱き続け百済に攻め込む機会を窺っていた。
継体十七年(五二三年)に百済の武寧王が没し、その子、聖明王が立つて百済の王となった。新羅の法興王は武寧王が没し積年の怨みを晴らす好機が到来したと感じた。
予ねてから誼を通じていた筑紫国造磐井君に「求めに応じて何時でも兵を送る。」と独立を促した。時節の到来に備え着々と軍備を整え時を待っていた磐井君は新羅の法興王を頼み、半島との制海権を握って任那を掌中にし、九州と併せ国を樹立する決意を固めた。
半島では新羅が朝貢の品々を満載した百済の船を襲って積み荷を奪い戦端を開いた。時を置かず法興王は百済に兵を向け南加羅(洛東江口の釜山・金海地方)を奪った。
百済の聖明王は防戦に努めたが新羅に攻められ苦戦を強いられていた。戦局を打開し領地を回復するには大和の派兵を仰がねばならない状況に立ち至っていた。万策尽きた聖明王は大和に任那防衛を口実に援軍の派遣を要請する使者を遣わした。
筑紫に到着した使者は磐井君に朝貢の品を奪った新羅の無道を責め、百済の窮状を訴えて都に上る助力を願い出た。
磐井君は時節が到来したと感じ、家人を付けて百済の使者を都に送り出した。百済の使者を見送った磐井君は直ちに新羅の法興王に使者を出した。「時節は到来した。大和と決別して予てより思い描く国を樹てる。速やかに援軍を乞う。」と使者に託した。
そして、挙兵した磐井君は大和の屯倉(直轄地)を襲って兵糧、武器を奪い筑紫を席巻して掌中に収め、時を置かず豊(豊前、豊後)、火(肥前、肥後)を攻め、瞬く間に支配下に置き、玄界灘、響灘の制海権を握り大和に反旗を翻す決意を示した。
難波津に到着した百済の使者は帝に拝謁を願い出て許され、聖明王の親書を奉った。
親書には、「新羅は度々百済の船を襲い大和への朝貢の品々を奪い大和と百済の同盟を絶とうとしている。大和と百済は神功皇后の三韓征伐以来、百七十年の長きに亘り兄弟の国として互いに誼を通じてきた。百済は大和を兄と思い朝貢を絶やさず任那の官家をお守りして来た。しかし、新羅の法興王は約を破り百済の地に兵を差し向け戦となった。法興王は戦線を拡大し任那をも攻め始めた。法興王は激しく百済に攻め掛かっているが我が軍の戦力で百済を守る事は容易い。しかしながら、我が軍の戦力で任那を含めて守る事は為し難い、任那存亡に関わる大事ゆえ一刻も早く任那救援の派兵を賜りたい。」と親書に記されていた。
渡来人から半島の情勢を聞き知っていた帝は百済の虚勢を張った親書に腹立たしさを覚えたが任那存亡の危機を迎え、止む無く派兵を決断した。
継体二十一年(五二七年)夏六月、帝は神功皇后の御代から連綿と続く任那防衛と百済救援に近江毛野臣(滋賀県大津市の豪族)に六万の大軍を授け半島に派兵した。
毛野臣は軍船を連ねて難波津を出帆し武庫の浦から明石の浦で潮待ちして速吸瀬戸(明石海峡)の早瀬を乗り切り藤江の浦(兵庫県明石市松江 明石川の河口)、多麻の浦(岡山県倉敷市玉島 高梁川の河口)、長井の浦(広島県三原市糸崎町 沼田川の河口)、風速の浦(広島県東広島市安芸津町風早 三津湾)、長門の浦(広島県呉市倉橋町桂が浜 倉橋島)、麻里布の浦(山口県岩国市麻里布町 岩国の錦川の河口)、熊毛ノ浦(山口県熊毛郡平生町 田布施川の河口)と風待ち、潮待ちを重ね、嵐に遭うと過ぎ去るのを待ち、周防国防府の佐波川の河口、佐婆津(山口県防府市佐波)に至った。
佐婆津を出帆した軍船は周防灘を西に進み、早鞆の瀬戸(関門海峡)の潮待ちで田之浦(北九州市門司区田野浦)に停泊した。潮見の兵から潮の流れが西に変わったとの報告を受け直ちに帆を上げて川の様に流れる早鞆の瀬戸を抜け響灘、玄界灘を航行して海の中道に守られた天然の良港、那ノ津(博多港)至った。
磐井君は那ノ津に防塁を築き、兵を伏せ半島出兵を阻止すべく待ち構えていた。毛野臣はよもや磐井君が反旗を翻すとは思いも拠らず無防備で上陸を開始した。磐井君はこの機を逃さず停泊した軍船に火矢を浴びせて焼き払い、上陸した兵には防塁から盛んに矢を射掛けて急襲した。戦の備えの無い毛野臣の六万の軍勢は突然の来襲に驚き慌て浮き足立って戦う事無く帆を揚げて敗走した。毛野臣は多数の軍船を失い上陸した兵の大半は射殺された。
毛野臣はよもや磐井君が反旗を翻すとは思わず奇襲に遭い敗走したが軍を立て直して反撃に転じたが北九州の制海権を握る磐井君に苦戦を強いられ後退を繰り返し多数の兵を失う大敗を喫した。
それでも百済救援の勅命は重く、毛野臣は恥じを忍んで「磐井君が新羅と結んで反乱を起こし多数の軍船と兵の大半を失った。磐井君を討ち百済出兵の為に援軍を乞う。」と帝に使者を送って周防国防府の佐婆津(山口県防府市佐波)に退き援軍を待った。
毛野臣から援軍の要請を受けた大和は六万の大軍が敗れ去り磐井君に制海権を握られたと知り群臣の間に緊張が走った。大和にとって磐井の乱は単なる豪族の叛乱ではなく、新羅と結んで大和からの独立を目指す大乱で有る事を知った。
磐井君が新羅の力を頼んで独立を勝ち取れば大和は半島との交易の拠点を失い新技術、新知識の流入が途絶える事と為る。それよりも、勢いを得た磐井君は新羅の兵と共に大和に攻め上る恐れが充分にあった。
磐井の乱は大和の存亡に関わる重大事であった。一刻も早く乱の平定を急がねば新羅が多数の援軍を送り込み大和は危急存亡の危機を迎える。乱の平定が長引けば大和の威信は失墜し百済、任那は滅び、大和は新羅に苦しめられる事となろう。
重大な危機を迎えた帝は大伴金村、許勢男人、物部麁鹿火等々の有力な重臣を召し磐井君討伐の軍議を開き誰を将として派遣すべきかを諮った。
物部鹿鹿火が申し述べた。「物部は神武以来、大和の軍の大権を司ってきました。今、筑紫が叛いて大和が存亡の危機に直面しております。筑紫は物部の始祖、饒速日命が治めていた故地でありこの地を鎮めるのは物部の役目と存じ上げます。此度は天下を揺るがす大乱ゆえ鹿鹿火が自ら将となって討伐に赴きたく御下命のほど願奉ります。」
帝は高齢の鹿鹿火を気遣い「鹿鹿火が赴くほどの戦ではあるまい。他に将は居らぬか、詮議せよ」と命じたが鹿鹿火は「他の者に任せられる戦ではありません。」と引き下がらず大伴金村と許勢男人はその気迫に圧倒されて了承した。
継体二十一年(五二七年)夏八月、朝廷の重鎮である物部鹿鹿火に磐井君討伐の勅が下り、物部鹿鹿火は高齢を押して一族を率い、磐井の乱鎮圧に赴く事となった。出陣に当たり主だった将士を引き連れ帝に拝謁し不退転の決意で磐井の乱を鎮め帝の御心を安らげると奏上した。
帝は若き日の男大迹王に戻り将士を前に詔を賜った。「将は兵を思う事、怠る無かれ、将は兵の生死を握り、大和の存亡を担う、将は兵を指揮し烈火の如く敵に迫り、疾風の如く戦場を駆け謹んで乱を鎮め磐井君に天誅を加えよ。」と申された。そして、統率する将軍の証として斧鉞(オノとマサカリ 処刑の道具)を授け九州全域の全権を委ねた。
帝は毛野臣に授けた六万の大軍が敗れ去った事に大いなる危機感を抱いた。磐井君は豊、火の兵を合せ士気は高く大軍を擁している。新羅の兵も侮り難く再び物部鹿鹿火が敗れる様な事があれば磐井君は崇神天皇に倣い新羅の兵と共に東征するであろう。帝は自ら出馬したい気持ちを押さえ、大任を物部鹿鹿火に託し征討の軍を見送った。
物部鹿鹿火は老齢を感じさせず矍鑠として軍を率い帝の観閲を受けて宮門を出で、淀川を下り難波津から軍船を連ねて筑紫に赴いた。難波津を出帆した船団は明石の浦で潮待ちして速吸瀬戸(明石海峡)の早瀬を乗り切り多麻の浦(岡山県倉敷市玉島 高梁川の河口)、長門の浦(広島県呉市倉橋町桂が浜 倉橋島)、熊毛ノ浦(山口県熊毛郡平生町 田布施川の河口)と嵐を避け、風待ち、潮待ちの碇泊を重ね、周防国防府の佐波川の河口、佐婆津(山口県防府市佐波)に至った。佐婆津には磐井君に大敗し援軍を待つ毛野臣が留まっていた。
物部鹿鹿火は大敗を詫びる毛野臣を労い軍を合わせて佐婆津を出帆し周防灘を西に進み、早鞆の瀬戸(関門海峡)の潮待ちで田之浦(北九州市門司区田野浦)に停泊した。潮見の兵から潮の流れが西に変わったとの報告を受け直ちに帆を上げて川の様に流れる早鞆の瀬戸を抜け響灘、玄界灘を航行して磐井君の拠点、那珂川の河口、那ノ津(博多港)に至った。この頃の航海は難波津を出帆して那ノ津まで風待ち、潮待ちを重ねおよそ三〇日~四〇日、嵐に遭えば嵐が過ぎ去るのを待たねばならなかった。
継体二十一年(五二七年)冬十月、那ノ津に到着して物部鹿鹿火が目にしたのは海岸に延々と築かれた上陸を阻む防塁であった。船を砂浜に乗り上げて上陸を試みれば防塁から矢を射掛けて来るであろう。盾を連ねて矢を防いでも防ぎ切れないであろうと思った。
那ノ津の上陸を諦めた物部鹿鹿火は遠賀川の河口蘆屋に引き返したがここも那ノ津と同様に上陸を阻まれたが物部には策があった。遠賀川、洞海湾一帯の遠賀(注一)、鞍手(注二)、企救(注三)は物部の始祖、饒速日命が治めていた地であり物部の故地でもある。饒速日命の東遷の軍に加わった嶋戸物部は遠賀の豪族であり、二田物部は鞍手の豪族、鳥見物部は企救の豪族であった。今、物部鹿鹿火に従軍している嶋戸造は嶋戸物部の子孫であり、二田造は二田物部の子孫であり、鳥見造は鳥見物部の子孫であった。
饒速日命の東遷から五百年近い歳月が過ぎていたが互いに祖を同じくする子孫ゆえ彼らなら故地の豪族を調略出来るであろうと思った。物部鹿鹿火は嶋戸造を使者として故地の遠賀に赴かせ従えば領地を安堵する、叛けば軍を差し向けると豪族を調略して味方に付けた。
遠賀の調略に成功した物部鹿鹿火は蘆屋に上陸して陣を構え、鞍手、企救の豪族に二田造、鳥見造を使者として遣わし戦わずして遠賀、鞍手、企救を支配下に治めた。
こうして遠賀川の流域を制した物部鹿鹿火は遠賀川の西、筑紫宗像(福岡県宗像市)を領する胸形君に軍を差し向け帰服を迫った。胸形君は抗すべくもなく領地安堵を条件に降伏して物部鹿鹿火の傘下に入った。
そして、乱の芽を摘むべく豊前、豊後、に軍を派遣してこれらを鎮め、胸形君の助力を得て那ノ津を攻め磐井君は敗走して南に逃れた。
物部鹿鹿火は大宰府に本陣を置き肥前に軍を派遣して磐井君に加担した豪族を討ち、或いは調略して磐井君を孤立させた。こうして筑後川以北を鎮圧するのにおよそ一年を要し残るは磐井君の討伐であった。
継体二十二年(五二八年)冬十一月、物部鹿鹿火はついに磐井君の本拠地がある御井郡(久留米市付近)に迫り筑後川の渡河地点の一つ杜渡し(福岡県久留米市宮の陣町大社)を前にして味坂(福岡県小郡市鯵坂)に陣を張った。
磐井君は渡河を阻止せんと神代渡し(福岡県久留米市山川町神代)、杜渡しに陣を敷き待ち構えていた。筑後川は冬季の渇水期とは云へ豊かな水量が流れ容易には渡れなかった。物部鹿鹿火は杜渡しと神代渡しから渡河を試みたがどちらも磐井軍の反撃に遭い撤退を余儀なくされた。こうして両軍は筑後川を挟んで睨み合いが続いた。
物部鹿鹿火は密かに探索の兵を遣って上流に遡って渡河地点を探させた。探索の兵の報告では古北渡し(福岡県久留米市善導寺町木塚)から馬筏を流せば川は湾曲しており神代渡しを守る磐井軍の側面に流れ着くであろうとの事であった。馬筏とは流れの速い川を一騎で渡ると流されてしまうので強い馬は上流側に弱い馬は下流側に配置し、数頭の騎馬武者が互いの弓を握りしめて馬を筏の様に組み、隊列を作り、流れに乗って渡河する作戦である。
物部鹿鹿火は夜陰に乗じて数百騎を古北渡しに移動させ日が明け切らぬ内に狼煙を合図に三か所同時に渡河を敢行した。磐井軍は眼前の杜渡しと神代渡しの渡河を防ごうと盛んに矢を射掛けて熾烈な戦いを繰り広げていたが探索の兵が予想した通り馬筏は神代渡しを守る磐井軍の側面に流れ着いた。
こうして馬筏で渡河した軍団は神代渡しを守る磐井軍を撃退して渡河作戦が成功すると磐井軍は総崩れとなって高良山に退却した。
高良山には磐井君が新羅の兵と共に渡来した石工に命じて山の中腹に巨大な列石(高良山神籠石)を連ねた朝鮮式の山城を築いていた。
物部鹿鹿火は城を囲み補給路を断ち鉦鼓を打ち鳴らして勝鬨を挙げ敵の疲弊を待った。敗勢を悟った磐井君の側近は再起を期し肥後に落ち延びる事を勧めたが磐井君は「もはやこれまで」と応じなかった。そして、全軍を率いて物部鹿鹿火の本陣に突き進み激戦を繰り広げたが乱戦の中で手傷を負い捕縛された。
引き出された磐井君を一瞥した物部鹿鹿火は「天に背く反逆は許しがたい。帝の命により天誅を加える。」と告げ、帝から拝領した斧鉞を兵に渡し斬殺させた。こうして磐井君が目論んだ九州独立の夢は戦に破れ画餅に期した。
物部鹿鹿火が大和を出て一年半の歳月を要しやっと磐井の乱は終息した。帝は乱が収まり磐井君が何故、叛逆を企てたのかお調べになった。
磐井君の子、筑紫君葛子を都に上らせ磐井君の魂胆を問い質した。葛子は大伴大連金村が父の言を入れず任那四県を百済に与えた事を怒り兵を挙げた。任那四県を百済に与えれば新羅の恨みを買い半島の争いは拡大し任那の存亡に関わる事を憂い新羅と誼を通じて百済と和解させ任那を救う道を選んだ事を切々と訴えた。
帝はあの時、大和の置かれた立場から見て大伴大連金村の判断は誤りでは無く、又、磐井君の国を想う心も忠誠のしるしであり、筑紫君葛子が糟屋(福岡市東区香椎付近)の屯倉(武器、食料等の貯蔵庫)を献上する事で罪を赦した。
帝は再び軍を編成し近江毛野臣に授けて任那の安羅に遣わされ、新羅と百済の和解を詔された。
毛野臣は帝の勅使として任那に赴き、新羅と百済の王に帝の勅を申し付ける故、自ら安羅に伺候する旨の使いを出した。
新羅は任那四県を百済に与えた事を根に持ち又、磐井君に加担した報復を怖れ王は伺候せず詔を承る使者を遣した。百済は援軍の到着ではなく、新羅との和解を促す勅使と解り、詔を承る使者を遣した。
毛野臣は二国共に軽臣を遣わした事に怒り、二国の使者を前にして百済の聖明王と新羅の法興王に罵詈譫謗を浴びせた。使者は王を誹謗され怒り心頭に達したが耳を塞ぎ堪え忍んだ。平伏して帝の詔を請うたが、毛野臣は軽臣には伝えられぬと悪態をつき、使者をなじり詔を伝えなかった。
百済と新羅の王は使者が帰還して毛野臣の暴言を聞き怒りを顕にした。任那の王、阿利斯等は毛野臣の傲慢なやり方では、和解は覚束ないと思い帰還を薦めたが毛野臣は応じなかった。仕方なく阿利斯等は新羅と百済に使いを出し新羅に毛野臣の城を囲ませた。
毛野臣は百済に援軍を乞う使者を出したが、百済は使者を捕らえ手枷、足枷、首鎖をつけて軍の先頭に立て新羅と共に毛野臣の城を囲んだ。毛野臣は城に拠り防備を固め新羅の兵を防いだ。
検使の調吉士は毛野臣が権威を傘に着て二国の王を臣下の如く扱い、反感を募らせ二国の王は結託して城を囲んだ実状を伝えるべく任那から立ち返えり帝に奏上した。「毛野臣は傲慢で和解を薦める事を知らず任那をかき乱しかえって百済、新羅の反撥を招いた。」と奏上した。帝は和解の調停が失敗した事を悟り毛野臣を召喚された。毛野臣は失意の内に任那を離れ対馬に至り病を得て死んだ。
注一、遠賀
現在の福岡県遠賀郡芦屋町、岡垣町、遠賀町、水巻町、福岡県中間市、福岡県北九州市八幡西区、八幡東区、戸畑区若松区
注二、鞍手
現在の福岡県鞍手郡鞍手町、小竹町、福岡県直方市、宮若市、北九州市八幡西区の一部
注三、企救
現在の福岡県北九州市小倉北区、小倉南区、門司区