皇位争乱

第十三話 武烈ぶれつ天皇の暴虐

 顕宗天皇けんぞうてんのうが崩御し群臣は太子の億計おけ践祚せんそして春一月五日、即位し仁賢にんけん天皇(在位四八八年一月五日~四九八年八月八日)となった。そして、都を石上広高宮いそのかみのひろたかのみや(奈良県天理市石上町)に遷した。

 帝は先帝を傍丘磐坏丘南陵かたおかのいわつきのおかのみなみのみそそぎ(奈良県香芝市北今市)に葬り顕宗天皇けんぞうてんのうおくりなを奉った。葬送を終え館に帰り着いた皇后の難波小野王なにわのおののきみは即位した億計おけが宴席での無礼な振る舞いをとがめ縄目の恥を受けるであろう、気位の高い后は屈辱を受け入れがたいと思い自殺した。

 億計おけも播磨国司伊予来目部小盾いよのくめべおだてに見出されるまで弟の弘計をけ顕宗天皇けんぞうてんのうと共に逃亡生活を強いられ妻子はいなかった。億計おけ飯豊青尊いいとよのあおのみことの太子に立てられた時、大臣おおおみ平群真鳥臣へぐりのまとりのおみ(武内宿禰の末裔)の勧めるままに雄略ゆうりゃく天皇の皇女春日大娘かすがのおおいらつめを妻に娶った。

 翌年、春日大娘かすがのおおいらつめに皇子が授かり、億計おけは大いに喜び仁政を敷いた仁徳天皇の御名、大鷦鷯尊おおさざきのみことにあやかり生まれた御子に稚鷦鷯尊わかさざきのみことと名付けようと思い春日大娘かすがのおおいらつめに承諾を求めた。春日大娘かすがのおおいらつめは御子の名は母親が付けるのが古来からの習わしで有り是非、父雄略ゆうりゃく天皇の御名、大泊瀬おおはつせを継承したいと譲らなかった。億計おけは父の仇の名前でもあり理由を明かさず強く拒んだが拒み切れず小泊瀬稚鷦鷯尊おはつせのわかさざきのみことと名付けた。

 即位して仁賢天皇となった億計おけ春日大娘かすがのおおいらつめを后とし群臣の勧めもあり和邇日爪臣わにのひつまのおみの娘、糠若子郎女ぬかのわくごのいらつめを妃に迎え入れた。億計おけは気位の高い后を避け若い妃を寵愛し毎夜妃としとねを共にした。

 妃は春日山田皇女を授かり、后の春日大娘かすがのおおいらつめは妃に皇子が誕生する事を恐れ、まだ幼い小泊瀬稚鷦鷯尊おはつせのわかさざきのみことを太子にと懇願したが帝はまだ幼いと承知されなかった。平群真鳥臣へぐりのまとりのおみも后の意を受けて帝に申し述べた。「小泊瀬稚鷦鷯尊おはつせのわかさざきのみことも早、八歳なられました。まだ若年では有りますが皇嗣こうしを定め皇統を安んじるに十分な年齢かと存じ奉ります。」

 帝は朝廷で重きをなす平群真鳥臣へぐりのまとりのおみの言を入れて七年春一月七日、八歳になった小泊瀬稚鷦鷯尊おはつせのわかさざきのみことの立太子の儀を執り行われた。

 太子は唯一の皇統として寵愛を一身に受け、まま一杯に育てられた。太子は温厚な帝の血を引き継がず、后の父、雄略天皇の血を色濃く受け継ぎ祖父に似て気性の激しい一面を見せた。

 十一年(四九八年)秋八月八日、仁賢にんけん天皇は四十七歳の若さで崩御された。翌年、十三歳の皇太子、小泊瀬稚鷦鷯尊おはつせのわかさざきのみことは群臣の践祚せんそを受け、冬十二月即位し武烈ぶれつ天皇(在位四九九年一二月一日~五〇六年一二月八日)となった。

 先帝の后春日大娘かすがのおおいらつめを尊んで皇太后とお呼びし、武内宿禰たけのうちのすくねの末裔、平群真鳥臣へぐりのまとりのおみ大臣おおおみの位に就き幼い帝の後見となった。そして、真鳥臣まとりのおみが一切を取り仕切り、先帝を埴生坂本陵はにうのさかもとのみささぎ(大阪府藤井寺市青山)に葬り仁賢天皇のおくりなを奉って、都を泊瀬列城宮はつせのなみきのみや(奈良県桜井市出雲)に遷した。

 真鳥臣まとりのおみの始祖、武内宿禰は景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五代の天皇に仕え、神功皇后の御代には幼い御子、誉田別尊ほむたわけのみこと(後の応神天皇)をお守りして国政を取り仕切った。それはつい百五十年ほど前の事であった。

 真鳥臣まとりのおみは武内宿禰に倣い幼い帝を抱え国政に不安を抱く春日大娘かすがのおおいらつめに申し述べた。「真鳥臣まとりのおみいにしえの武内宿禰に倣い、皇太后は神功皇后に倣って共に幼い帝をお守りして国政を執り行いたいと存じます。」春日大娘かすがのおおいらつめは偉大な神功皇后に比肩された事を喜び真鳥臣まとりのおみに全幅の信頼を寄せた。

 真鳥臣まとりのおみは武内宿禰の如く朝廷の実権を掌握し強力な権勢を夢見た。春日大娘かすがのおおいらつめも神功皇后を夢見た。そして、真鳥臣まとりのおみ春日大娘かすがのおおいらつめは武内宿禰と神功皇后の如く親密の度を深めていった。宿禰が誉田別尊ほむたわけのみことに示した如く慈父として振る舞ったが勘の鋭い帝は本能的に真鳥臣まとりのおみの野心を嗅ぎ取り真鳥臣まとりのおみを嫌った。幼い帝は親身になって苦言を呈し、成すべき事を説く大伴金村に父に似た親しみを感じた。

 真鳥臣まとりのおみ春日大娘かすがのおおいらつめ籠絡ろうらくし朝廷で重きを成し、二人の親密度は次第に男女の仲に近づいていった。臣下の礼を逸し誰憚はばかる事無く春日大娘かすがのおおいらつめの館を訪ねる様になった。朝廷での権力も増大し群臣は見て見ぬ振りをした。

 真鳥臣まとりのおみの子、しびも宮廷を我が館の如く自由に出入りし幼い帝の兄の如く振る舞った。大伴金村に帝としての矜持きょうじ(誇り、プライド)を持ち続ける事を教育された幼い帝は臣下の礼を逸したしびの態度に我慢ならなかった。

 しかし、真鳥臣まとりのおみは父の如く振る舞い春日大娘かすがのおおいらつめも同調して帝をたしなめる事もしばしばであった。権力を掌中にした真鳥臣まとりのおみは増長し人の目もはばからず春日大娘かすがのおおいらつめと戯れる姿をしばしば群臣も目撃した。

 幼い帝も真鳥臣まとりのおみの為すがままに身を委ね嬌声を発し姿態を露わにした母を見て身はすくみ声も発せず茫然と凝視し、我に返って逃げる様にその場を離れた。幼い帝は見てはならないものを見てしまい汚らわしい思いにかられた。時々、脳裏に浮かび拭い去ろうと、想いを他に移しても脳裏を去らず思い悩む事もしばしばであった。

 幼い帝にとってそれは強烈な映像として脳裏に焼き付き一生消える事はなかった。幼い帝は真鳥臣まとりのおみを憎悪し母のふしだらな姿態に嫌悪を感じた。

 重臣の大伴金村も真鳥臣まとりのおみの行いを苦々しく思ったが成す術もなくまして絶大な権力を握った真鳥臣まとりのおみを諌める事は出来なかった。

 大伴金村は幼い帝の成長に期待を掛け、次々に賢者を呼び帝の教育に当たらせた。そして、何時の日か幼い帝を擁し真鳥臣まとりのおみを討ち滅ぼす事を胸に抱いていた。

 権力を握った大臣おおおみ真鳥臣まとりのおみは独断をもって専決し朝議は専決事項の追認の場となった。国政は思うがままに操られ群臣の誰一人として異議を唱える者はいなくなり真鳥臣まとりのおみを畏れ次々になびいていった。真鳥臣まとりのおみは権勢を誇り国政を専らにしておごり高ぶり全く帝に臣下としての節度をわきまえなかった。

 真鳥臣まとりのおみは帝の為に新しい館を建てる事を建議しぜいを尽くした豪壮な館を建て、新築の館の普請をあらためると称して自らその館に移り住んだ。そして、帝の居室に平然と起居し帝の玉座に坐しその振る舞いはあたかも帝の如くであった。

 館を訪れる臣は権勢並ぶ者無き真鳥臣まとりのおみへつらい帝に対するが如く礼を尽くした。朝政はこの館に遷されまいないで裁きは歪められた。異議を唱える臣には威圧する態度で滔々とうとうと持論を展開して有無を云わせなかった。従わぬ臣は手段を選ばず排斥した。皇室を憂うる臣もいたが真鳥臣まとりのおみの力を畏れ誰一人として排斥を実行する勇気は無かった。

 神武東征に大功の有った、道臣命みちのおみのみことを先祖に持つ、大連おおむらじの大伴金村は真鳥臣まとりのおみの態度を常々、苦々しく見ていた。何とか幼いとは言え聡明な帝を擁立して早く国政を帝の手に戻さなければ神武以来の皇統が侵されると感じていた。最早、真鳥臣まとりのおみの横暴をとがめる事が出来るのは帝しか居ない。一日も早く帝の成長を願いまつりごとを統べて欲しいと養育にあたった。

 そして、大伴金村は真鳥臣まとりのおみとその子、しびの横暴に悶々とした日を暮らす帝の心中を察しまだ若年ではあるが話し相手として、帝が心を寄せていた物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかいの娘、影媛かげひめを娶る事を薦めた。帝も大伴金村の申し出に心が動き大伴金村に仲人を命じ麁鹿火あらかいの館に赴かせた。

 大伴金村から帝が影媛を思し召しであると聞かされた麁鹿火あらかいは絶句した。麁鹿火あらかいはすでに真鳥臣まとりのおみの軍門に下りしびの妻に影媛を差し出す事を約束していた。帝の思し召しに応じて影媛を差し出せば真鳥臣まとりのおみの報復が待ち構えている。

 麁鹿火あらかいは影媛が既にしびに犯されている事を知らず、悩んだ末に帝の思し召しがあった事を影媛に告げ、思いを聞いた。影媛はまだ幼い帝の后になる事に躊躇ためらいを見せたが帝のお召は断れず海柘榴市つばいち(奈良県桜井市金屋)の歌垣の場でお会いすると告げた。そして、影媛は歌垣の場で帝に御会いする約束を交わした事をしびに知らせた。

 帝は約束の歌垣に参集した人々に交じり影媛を捜し求めた。影媛の姿を認め衣の袖を捉え共にしばし歩んだ。しばらくしてしびが現れ、しびは帝と知りながら影媛と帝の間に割って入った。

 若い帝はしびの前に向き直り、「早瀬の様に波が折り重なる人垣の中を泳いで我が媛の前に立つはしびではないか。数多あまたの媛を振り切り月明かりの中で影媛を探し求めていたとしか想えぬが媛がこの歌垣に来る事を何故知った。」と問い質した。

 しびは見下した態度で告げた。「この媛は並みのお方が囲える媛では無い、臣の子真鳥臣まとりのおみの幾重にも囲った館に入れ自由に泳がせた方が良く、媛もそれを望んでいる。」言い終えるとしびは影媛の腕を取り連れ去ろうとした。

 帝は怒りを顕にしてしびを睨み、「歌垣は相手を求め若者が集い歌を詠んで愛を語らい気持ちを通じ合う集いの場で有る。この場では貴賤上下の区別も無く男と女が愛を求め合う事は心得ている。しかし、言葉を交わすゆとりも無く、いきなり間に割って入り媛を奪う行いは許し難い、しびは無礼を詫びこの場を立ち去れ。」と声を荒げて申し渡した。

 しびは帝と知っての上で言い返した。「八重の組垣を組んで媛を取られぬ様に囲いたいだろうが、しびと競う程の立派な組垣は造れるはずがない。」

 帝は怒りを堪えてしびに告げた。「しびの組垣は人もうらやむ立派な組垣であろう、しかし、それは見せかけだけで直ぐに壊れるであろう、影媛の思いは如何か。」と問うた。

 しびは影媛に代わり答えた。「大君の倭文織しずおりの帯(下着の帯)を解くのは別の媛で有りましょう、影媛が想いを寄せる事は有りません。」

 帝は初めてしびと影媛が通じ相っていた事を知り、しびの無礼な態度に激しい憤りを感じた。帝は腰にいた太刀たちを抜きたい思いを必死に堪え、しびと影媛が立ち去る後ろ姿を睨み据えた。

 耐え難い屈辱を味わい怒りが胸の奧にこみ上げてきた。直ぐさまその場を立ち去り大伴金村の館を訪ねしびに対する怒りを顕わにして「しびをこの手で殺す、兵を貸せ。」とわめき散らした。

 大伴金村は興奮醒めやらぬ帝をなだめ、歌垣の一部始終を聞きしびの無礼な態度と言葉にいきどおりを感じた。しびが帝と知って影媛を奪った行為に驚くと共に真鳥臣まとりのおみの傲慢な態度がまぶたに浮かんだ。影媛の心情を調べもせず推挙した己を恥じ帝に許しを請うた。一方、真鳥臣まとりのおみを討つ口実が出来た事を聞き内心は好機が到来した事を喜んだ。

 真鳥臣まとりのおみは帝に代わり天下を統べ横暴の限りを尽くしていても帝の面前では平身低頭して御簾みすの内の帝を仰ぎ見る事はなかった。真鳥臣まとりのおみもいかに横暴に振る舞い、権勢を専らにしても朝議の席では臣としてののりを超えず帝の尊厳を侵す事はなかった。

 大和において帝は絶対的な存在であり御位は人臣を超え神と同義であった。今、しびは帝を人臣と等しく扱い、帝の尊厳を侵す暴挙を行った。しびの行いは帝の尊厳を踏みにじる行いであり、帝に叛逆の心を示した。真鳥臣まとりのおみの過ちを虎視耽々こしたんたんうかがっていた大伴金村は帝の話しを伺い真鳥臣まとりのおみを討ち取る口実が現実のものになった事に気持ちのたかぶりを覚えた。

 そして、大伴金村は帝に告げた、「しびのりを超え帝の尊厳を傷つけ世の秩序を乱しました。これは帝に対する挑戦であり叛逆の意志を示しました。しびを討つは私憤にあらず、しびの言は帝に対する背信であり侮蔑ぶべつであります。帝の尊厳を守る為に逆臣はちゅうさねば為りません。このまましびを捨て置けば群臣はかなえの軽重を問う(権威を疑う)事に為りましょう。直ぐさま兵を差し向けて帝の力を示すべきと存じます。」

 軍を掌握している大伴金村は言い終えるや否や帝の言葉も待たず、家人に兵を集めよと命じた。自身も戦支度に取り掛かり、数千の兵を率いて帝と共にしびの館に向った。

 しびは影媛を始め取り巻きの若者を館に招き酒宴の最中であった。家人が遠くに馬蹄の響きを聞きつけしびに知らせた。しびが庭に出て見ると凄まじい馬蹄の響きが直ぐ其処に迫っていた。

 しびは兵の喊声かんせいを耳にして帝が兵を差し向けた事を察したが館に戦の備えは無く急襲されては支えきれるはずもなかった。今から真鳥臣まとりのおみに救援を乞うても時を逸していた。しびは急ぎ影媛の衣を頭から被り館を抜け出し真鳥臣まとりのおみの館に向かった。

 大伴金村はも有りなんと真鳥臣まとりのおみの館に通じる道に兵を伏せ待ち構えていた。しびは女装しており、すり抜け様としたが兵に誰何すいかされた。真鳥臣まとりのおみの館に向かうは危険と察したしびは兵を斬り捨て、その馬を奪い行く手も定めず馬を馳せた。

 大伴金村は囲みを固め門扉を打ち破って兵と共に館の内に踏み込んだ。館の中では悲鳴を上げて逃げ惑う姫と酒宴に招かれ戸惑う若者の姿があった。一人も逃さず一カ所に留め置き若者の剣を取り上げて庭先に座らせた。影媛も罪人の如く座らされた。刃向う者も居らず館をつぶさに探させたがしびの姿は無かった。影媛にしびの行方を問いただすと馬蹄の響きを聞き我が衣を奪って逃げたと答えた。

 姫御前の衣を纏った一騎が乃楽山ならやま平城山ならやま丘陵、奈良県奈良市と京都府木津川市の県境を東西に延びる丘陵。)に向かったとの報せが入った。大伴金村は屈強の兵、数十騎を選び、「先駆けしてしびを捕えよ、刃向かう様であれば切り捨ててもよい。」と下知し、帝と共に軍を率いて乃楽山ならやまに向かった。

 先駆けの兵は乃楽坂で追いつき捉えて縄を掛け帝と大伴金村の前に引き立てた。帝はしび一瞥いちべつして直ちに首をはねよと仰せられた。

 しびは命乞いをせず帝に罵声を浴びせた。「例え帝と言へども平群真鳥臣へぐりのまとりのおみと事を構えて命、永らえると思うか、今すぐ縄を解き、無礼を詫びよ。」と迫った。帝は動じる事も無く大伴金村に目配せして斬首を促した。大伴金村は自ら剣を抜き放ちしびの首をねた。

 一方、影媛かげひめしびを追って馬を馳せ乃楽山ならやまに向かった。乃楽坂でしびが捕えられ目の前でしびが斬られるのを見た。驚きと怖れで気を失い、助け起こされて顔を覆い泣き崩れた。帝は泣き崩れる影媛を冷ややかに見つめた。

 そして、大伴金村はしび亡骸なきがら乃楽山ならやまに葬り帝に申し述べた。「真鳥臣まとりのおみは以前から皇位簒奪さんだつの企みが有り、しびを殺された恨みを以って兵を挙げ、帝を襲うで有りましょう。」

 大伴金村は言葉を続けた。「しびは死に際に帝に罵声を浴びせ、真鳥臣まとりのおみに謝し縄を解けと申した。居並ぶ兵の前で誰はばかる事無く真鳥臣まとりのおみがこの大和を支配しているが如く帝の権威を失墜させました。いみじくもしびの言は真鳥臣まとりのおみの増長を示し、皇位簒奪さんだつの意図を明らかに致しました。真鳥臣まとりのおみしびちゅうされたと知れば兵を集め合戦を起こすで有りましょう。戦の支度に掛かる前に急襲すれば真鳥臣まとりのおみも支えきる事は適わないと推察致します。今、帝は数千の精兵を従え、兵は帝の勇気ある下知を望んでおります。我に命じ給え、逆臣の真鳥臣まとりのおみを討てと勅命を賜りたい。」

 悪業の数々を犯した真鳥臣まとりのおみの横暴が次々に帝の脳裏をよぎった。帝の館を新築したいと申し出て広大な館を造営し、出来上がると館を帝に引き渡す事無く、我が物としてあたかも帝の如く平然と起居している。

 真鳥臣まとりのおみおごたかぶり皇室の財物を我が物とし、帝をないがしろにして次々に勅命と偽り己が領地を広げている。群臣は保身の為に真鳥臣まとりのおみの権勢にへつらい顔色をうかがって何事も意に添う様に取り計らっている。

 真鳥臣まとりのおみは増長し臣下の身分を忘れ帝の御位をうかがい始めた。しび真鳥臣まとりのおみの権勢を傘に着て横暴の限りを尽くし、帝を歯牙しがにも掛けぬ態度は許し難い。

 風聞ではあるが真鳥臣まとりのおみは「我は孝元天皇の御子、彦太忍信命ひこふつおしのまことのみことの子、武内宿禰を始祖とし武内宿禰は臣下に下って景行、成務、仲哀、応神、仁徳の五代の天皇に仕えたがれっきとした皇族である。皇統にもしもの事があればこの真鳥臣まとりのおみが継いでも何の不思議も無い。」とうそぶいていた。との噂も耳にしていた。

 帝は思い出すだけで怒り心頭に発し真鳥臣まとりのおみしびと共に誅さねばならないと思った。しびの死は既に真鳥臣まとりのおみの耳に入っているであろう。日を置けば真鳥臣まとりのおみ平群へぐり一族を糾合して兵を集め叛乱の狼煙を上げ皇位を奪う戦を仕掛けるであろう。

 今、真鳥臣まとりのおみを倒さねば皇祖以来連綿と続いて来た皇統を我が御代で失う事となる。真鳥臣まとりのおみおそれていては群臣にあなどられ帝の権威は失墜する。既に兵を挙げしびを討った、余勢を駆って真鳥臣まとりのおみを討つ。

 若年の帝は皇統が存亡の危機に立った重責に身が引き締まった。大伴金村に決断を促され居並ぶ将を前に帝は初めて勅を発した。「大伴金村に命ずる。平群へぐり真鳥臣まとりのおみは数々の暴虐を犯し皇位簒奪さんだつたくらみが露見した。速やかに逆臣、平群真鳥臣へぐりのまとりのおみを討ち天下を安らかにせよ。」

 帝は自ら鎧を着け大伴金村と共に軍を率いて真鳥臣まとりのおみの館に向った。大和の豪族は大伴金村に勅命が下り、帝、自ら軍を率いて真鳥臣まとりのおみの館に向ったとの報せを聞き、次々に真鳥臣まとりのおみの館に兵を差し向け討伐の軍は瞬く間に万余の大軍と為った。影媛の父、物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかいも帝に忠誠を示す為に兵を出した。

 真鳥臣まとりのおみしびちゅうされたとの報せを受け、事も有ろうにしびが帝と事を構えるとは思いも拠らなかった。この機を逃さず大伴金村は群臣とはかり、帝は逆臣討伐の勅命を発し兵を差し向けるであろうと思った。

 勅命が下れば右顧左眄うこさべんして時の権力にへつらう大和の豪族、群臣は一斉に兵を挙げ大伴金村に加勢して功を競うであろう。真鳥臣まとりのおみは帝の御旗が権力の象徴である事を改めて思い知らされた。それにしても、しびが誅されたとの報と時を置かず御旗を掲げた軍兵が押し寄せて来た。大伴金村の素早い行動に気勢を制せられ戦に利あらずと悟った。

 一族に援軍を請い皇軍の後方を攻める策を進言する者もいたが真鳥臣まとりのおみは献策を退け、逆臣の汚名を被り逃れ難い事を悟った。一族を糾合して戦っても勝ち目は無く反って逆臣の汚名が一族に及ぶ事を畏れた。

 真鳥臣まとりのおみが一番畏れていた大伴金村の反撃が現実のものとなった事に思いを巡らした。権勢を握った心の隙に乗じ大伴は傲慢ごうまんしびに狙いを定め巧妙に罠を仕掛けたに違いない。大伴金村は影媛としびの仲を知りつつ帝に影媛を召し出す事を勧め、帝としびの間にいさかいが起こる事をはかった。しびは大伴金村のわなまり自尊心の強い帝と事を構え逆臣の汚名を被った。大伴金村がこれほど早く兵を集められるはずは無く歌垣の日取りに合わせて密かに戦の支度を整えていたに相違ない。

 孤立無援の大伴金村を軽く見た真鳥臣まとりのおみの油断であった。しびの傲慢な態度を許し群臣、豪族の反感を買った事も悔やまれた。物部大連麁鹿火もののべのおおむらじあらかいしびに影媛を犯され怨みを抱いて大伴に加担したやも知れぬと思った。真鳥臣まとりのおみは大伴金村におとしめられたと思ったが最早打つ手はなかった。

 この時、真鳥臣まとりのおみは帝の為に新築した館に住していた。館は濠を廻らし塁に囲まれ敵の襲来に備えた構造で有ったが、仮住まいでも有り館には若干の兵しか詰めていなかった。急ぎ兵を呼び寄せたが広い邸内の防備を固め迎え撃つには余りにも寡兵であった。真鳥臣まとりのおみいさぎよく大軍を前に戦い討死にする覚悟を定め家人に戦支度を命じた。

 大伴金村は広壮な館を囲み館から一人も逃すなと命じた。時を置かず先制した事が功を奏し館は戦の備えが整わず防塁を築く暇も無くただ門を固く閉ざし館内からは騒然と慌てふためく人声が聞こえた。

 一族の援軍も無く真鳥臣まとりのおみの家人のみで館を固めている様子が見て取れた。大伴金村は一気に攻め潰せば平群へぐり一族の者も加勢に及ぶまいと思ったが背後に敵を受ける危険は冒さなかった。後方にも軍を配して用心を怠らなかった。

 館の内では家人が右往左往して戦の備えに走り回っていた。広大な館を寡兵で守る事は至難の業であった。守備の将を定めても兵はてんでに走り逃走を企てる兵もいた。大軍を前に兵はうろたえ秩序は無く烏合うごうの衆となった兵を率いる真鳥臣まとりのおみに勝ち目はなかった。衆寡しゅうか(多数と少数)敵せず既に勝敗は決していた。

 館の外は勢いを得た皇軍の喊声かんせい(ときの声)が轟き、館を十重二十重に囲んだ事を示していた。

 平群一族も都を駆け巡る馬蹄の響きを聞き家人に何事か調べさせ真鳥臣まとりのおみの館が大伴金村に囲まれた事を知った。多数の群臣、豪族が大伴金村に加勢し平群一族の動向を見張っている事も知った。事ここに至っては兵を挙げて真鳥臣まとりのおみに加勢すれば逆臣の汚名を被る事となる。ただ手をこまねいて真鳥臣まとりのおみの討たれるのを黙って見る他なかった。

 大伴金村は館を充分に囲んだ上で壕を渡り、塁を越えて外門を打ち破り、やぐらを組み、櫓の上から館に火矢を射掛けさせた。館から逃げ出そうとする者は容赦無く射殺した。館は二日間、燃え続け館から一人も逃さず真鳥臣まとりのおみと共にことごとやきつくされた。豪壮な館はけむりと共に跡形も無く灰燼かいじんに帰した。

 大伴金村は奸臣かんしん真鳥臣まとりのおみを誅伐して、帝に申し述べた。「英断が帝の威光を盛んにして神も応え帝の位を高めました。始祖の神をあがめ親政を広め奉り願いたい。」と奏上した。

 帝は大伴金村の功に報い大連おおむらじに任じ大伴金村が国政を治め天下を安らかにせよと仰せられた。帝は物部麁鹿火あらかいを大連に真鳥臣まとりのおみに替わって平群一族の許勢男人こせのおひと(武内宿禰の子孫)大臣おおおみに就けた。大伴金村は帝の後見の地位に就き真鳥臣まとりのおみに代わって朝廷の実権を握った。

 大伴金村は帝に影媛を推挙した事を改めて詫び、帝に后を娶り御子を授からねば皇統が絶える事を説き、帝の母、春日大娘かすがのおおいらつめの姪、春日娘子かすがのいらつめを召し后とする事を薦めた。帝も見知っており召しだして后とした。

 帝は若かりし頃の母に似た春日娘子かすがのいらつめに氣を許し、少しづつ心を開いた。しかし、帝は后としとねを共にする事はなかった。春日娘子かすがのいらつめを嫌っている訳ではなく、帝の若い血は騒ぎ荒々しく春日娘子かすがのいらつめを抱きしめ、薄絹を剥ぎ取り、しとねに伏す春日娘子かすがのいらつめの妖艶な姿態を見る度に、真鳥臣まとりのおみの為すがままに身を委ね嬌声を発し姿態を露わにした母の醜態が頭をぎった。

 あの時の母の姿態と春日娘子かすがのいらつめが二重に写り、帝のたかぶった心はえ汚らわしい物に触れた如く躰がすくみ思いを遂げられなかった。后の春日娘子かすがのいらつめ身悶みもだたかぶった頃、突然立ち上がり何事も告げず立ち去る帝に痛く心を傷付けられ思い悩んだ。

 帝は狂おしい程にたかぶる気持ちを押さえ切れずしとねを共にしたが一線を越えられず和合する事は出来なかった。悲しみのなみだを流し帝を見つめる后に心の内を告げられず、かえって粗略に扱い苦悩を深めていった。人にも言えず悩み、悶々もんもんとした日々を過ごした。無性に心が苛立いらだち突然暴力を振るいたく為る事も度々であった。

 大伴金村は帝の苛立いらだちが何に拠るのか解らずお慰めする為、一夜管弦の宴を催した。帝は大伴金村の勧めに応じ初めて酒を口に含んだ。芳醇な香りと熱いものが五臓に沁みわたった。酒が五体を駆け巡り杯を重ねるにつれ心は高ぶり言い知れぬ興奮を覚えた。悶々とした心の霧は消え去り幻が脳裏を駆け巡った。呂律ろれつが廻ら無くなり、人の顔もおぼろに見えた。

 それ以来、酒の味を覚え毎夜、欠かさず酒をたしなみ始めた。満たされぬ心を酒で満たし、酔う程に自制心を無くし横に侍る女御に母の影を見ること無く女体を抱いたが酩酊して事は為せなかった。

 若い帝は自分を不能では無いかと疑い人知れず悩み抜き焦燥感にさいなまれていた。心の悩みを打ち消す為に毎夜、酔い潰れる迄、飲み自我を失って、わめき散らし倒れ込んで眠りに就いた。

 翌朝、自責の念を覚えたが酒の虜となり酒無くして眠る事が出来なくなった。側近の者は心配し諫言かんげんしたが帝は聞き入れなかった。毎夜、酒宴を開き酒に溺れ、臣はへつらい、管弦の宴は深更しんこうに及んだ。

 帝は真鳥臣まとりのおみを誅し大和の臣の信任を勝ち取り帝の権威を旧に復した自信がおごりと為って顕れ始めた。真鳥臣まとりのおみの権力に押さえられ鬱積うっせきしていた感情が開放され何事も自身で決しようとした。

 正邪を見極める天性の鋭い勘の持ち主であった帝は争いごとの裁きに異常な興味を示した。ある年、領地の境界を争う訴訟が有り大伴金村は帝に裁可を仰いだ。

 大伴金村は帝に願わくば裁可は群臣の言に従って頂きたいと申し述べたが、帝は大伴金村の意にたがい裁きの場で申し渡した。「争いは両成敗で有る、互いに兵を以って争い共に疲れ果てその裁可を願う行いは民を忘れた愚行で有りその罪は死に値する、共に首をね領地は召し上げよ。」大伴金村は驚き帝を押しとどめ再考を促したが帝は聞き入れなかった。士卒は帝の言に従いその場で首を刎ねた。

 ある年、水争いが有り、領主は大臣おおおみまいないを贈り争いの裁可を申請した。帝は今日水争いの裁きが有ると聞き、酒に酔い赤い顔で裁きの場に現われ双方の主張を聞き終えると不快をあらわにして裁可を下した。「帝の臣は豪族の力に関わり無く民の心を想い公平に裁可を下すべし、裁可を願い出た領主は天の恵みの水を我が領地に引き込み争いを引き起こした。己が非を棚に挙げ大和の大臣おおおみを頼みまいないを以って裁きを有利にしようと働き掛けた。裁きをゆがめる行いは許し難い、依って願主を斬り領地を召し上げよ。」士卒は言に従いその場で斬り捨てた。帝は物事を鋭く見抜き裁きに誤りは無かったがその裁可は厳しく極刑を課した。

 ある時、監視の目を盗んで山に入る事も山林竹木を伐採する事も禁じている聖地、三輪山に入り山芋を掘って持ち去った者がいた。役人は驚き四方に人を遣って賊を探させた。賊を捉えて裁きの場に突き出した。些細ささいな事件では有るが聖地に入った賊でも有り帝に報告した。

 帝は自ら裁きの場に現れ、群臣の驚きを尻目に裁きの座に就き裁可を言い渡した。「聖地に入った罪は重く死に値する、されど、罪を減じ申し渡す、山芋を掘った指の生爪を抜き取り、今一度その手で山芋を掘らせよ。指の痛みに耐えて山芋を掘り出せば罪は許す、掘り出せなければ斬り捨てよと言い渡した。」

 各地の豪族は訴訟を申し述べる事を怖れた。各地で小競り合いを起こしても裁可を申し立てず自ら兵を以って解決する道を選んだ。

 帝は病に掛かり高熱を発して数日寝込んだ。后の春日娘子かすがのいらつめも大伴金村をはじめ群臣一同は心配し様々な薬草を煎じ鍼灸しんきゅうを施し神に病気平癒へいゆを祈った。帝は三日三晩うなされ続け四日目の朝、目を覚ました。

 帝は黄泉の国冥界めいかいに入り呪わしい闇の世界を見て、躰は震え、足はすくみ、冥界に引きり込まれそうになったが逃げ還ったと后に告げた。

 病の後、帝は時々、熱を発し目の奥が痛むと訴え塞ぎ込む事が多くなった。数日で病が平癒してもけだるい感じが取れなかった。

 或る日、突然頭痛が襲ってきたその後、頭痛は周期的に帝を襲った。頭痛が始まると何も考えられなかった。ただ痛みに耐えて過ぎ去るのを待った。帝は頭痛が始まると一人、室に籠り痛みに耐え誰も室に入れなかった。帝は周囲の者に悟られる事を嫌い誰にも話さなかった。

 大伴金村は帝が気の病に掛かっている事を知らず気晴らしに狩りに誘った。帝は野に出て風に当たり久しぶりに爽快な気分を味わった。大鹿を追い弓を引き絞り馬を駆け力の限り大鹿と戦った。

 滲み出る汗と共に鬱積うっせきした気分も大気に吸い取られた。獲物を得て野に集い、大伴金村は家人に命じて火を起こし獲物をさばく事を命じた。

 帝は初めて、鹿が捌かれる様を見た、腹を裂き、皮を剥ぎ、血は地を赤く染め、家人は流れ出る鹿の血をすすり飲んだ。帝は鹿の血を見て異様な興奮を覚えた。

 この後、帝は度々大伴金村を誘い狩りを催して、鹿や猪を切り刻み血の匂いを嗅いで興奮を覚え、酒に血を注いで飲んだ。

 聡明な帝の面影は影を潜め帝の性格は頭痛と共に歪められていった。顔に表情が無くなり目が異常に輝いていた。食も細り顔に血の気が少なくなっていた。時々、一点を見詰め心の窓を閉ざす事もあった。病を得て後、帝の性格は変わっていった。残虐な性格を垣間見せる様に為った。

 帝は頭痛を紛らわせる為に酒におぼれ昼夜を分かたず酒宴を開いた。酒が入ると性格は豹変し残忍な獣と化した。朦朧もうろうとした意識の内に鬼神がその姿をあらわした。剣を抜きはなって側に突き立て、いさめる者は誰かまわず斬った。

 宴席で帝にお声を掛けられる事は恐怖であった。機嫌を損なえば直ちに剣が振り下ろされた。誰一人諫める者は居らず、宴席に招かれる事を怖れた。

 酒肴の席の余興として残虐に満ちた趣向を次々に考え出した。帝に鬼神が取り憑き人の世に復讐するかの如く人が苦しみ血を流すのを冷ややかに眺め哀れみを見せる事は無かった。行いは激しさを増し人の道に外れ心有る臣は病と称し次々に出仕を拒んだ。

 良き姫が居ると聞けば直ぐさま士卒を遣り召しだし、気に入らぬと殺した。召し出された姫は二度と親元に帰る事はなかった。民は畏れ召し出しの使者が遣わされると知れば野に隠れ、都を逃れた。帝は怒り探索させ捕らえて酒席の余興として木に縛り付けて焼き殺した。

 狩りに出て鹿を射抜き腹を割いた時、子鹿が飛び出した。人の子も同じで有ろうかと思い妊婦の腹を割いて胎児を見た。

 狩りを催すと称し、罪人を野に放ち人狩りを楽しんだ。宴席で女達を裸にして、蛇の群に投げ入れ恐怖におののき顔をひきつって泣き叫び狂い死ぬのを冷ややかに見た。日々趣向を凝らした宴を催し酒池肉林に溺れた。

 頭痛は日に日に激しさを増し耐え切れず床に倒れ込む事もしばしばであった。后の春日娘子かすがのいらつめと大伴金村は帝の気の病を知ったが成す術は無かった。発作が起きると帝の目は血走り誰も帝を留める事は出来なかった。異常な力を振るい手当たり次第に物を投げ付け誰も手に負えなかった。縛り上げる事も叶わずただ傍観するのみであった。

 倒れ込んで眠りに就き、目を覚ますと己の行いは何一つ覚えていなかった。帝の発作の周期が短くなり、帝の体力も限界に近づいてきた。帝は暴れる体力を無くし床に伏して苦しみ抜いた。痛みと戦い己の頭髪を掴んで引き抜いても痛みは消えなかった。

 食は摂らずその身は痩せ細って骨と皮になった。或る日、帝は正気を取り戻し后の春日娘子かすがのいらつめと大伴金村を枕頭に呼び数々の悪行を詫び春日娘子かすがのいらつめにいたわりの言葉を残して痛みの無い永い眠りに就いた。

 八年(五〇六年)冬十二月八日、十八歳の若さで武烈ぶれつ天皇は崩御された。


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