皇位争乱

第十二話 顕宗天皇
 億計おけ弘計をけ

 市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの二人の皇子、七歳の億計おけと六歳の弘計をけ舎人とねり日下部連使主くさかべのむらじおみの機転で危うく難を逃れて館を去り、子息の吾田彦あたひこと共にお守りして丹波たには国与謝郡(京都府与謝郡)に隠れ住み、使主おみは名を改めて田疾来たとくと称した。

 大泊瀬皇子おおはつせのみこ雄略ゆうりゃく天皇)は二人の皇子が逃げ去った事を聞き四方に兵を出して探させたが見つけ出せなかった。大泊瀬皇子おおはつせのみこ安康あんこう天皇が大草香皇子おおくさかのみこの遺児、眉輪王まよわのおおきみに寝首をかれた先例も有り執拗に二人の皇子の探索を命じた。都の内に不満を抱く豪族がかくまっていないか隈なく探させ、噂が有ればすぐさま兵を差し向けた。

 丹波の豪族から二人の皇子と思しきわらべと老人が与謝郡に隠れ住んでいるとの報せが有り、兵を差し向けたが逃走した後であった。この時、二人の皇子に付き従い難を逃れた日下部連使主くさかべのむらじおみは遠くに兵の迫る姿を見咎みとがめ二人の皇子を息子の吾田彦あたひこに託し急ぎこの地を立ち去れと命じた。

 大泊瀬皇子おおはつせのみこが差し向けた兵が隠れ家を急襲したが皇子は逃げ去った後であった。兵が見たものは首を吊って息絶えた一人の老人であった。日下部連使主くさかべのむらじおみは老齢の自分が一緒では逃れるのに足手まといに為る事を怖れ、首を吊って果てていた。これ以降皇子の噂をもたらすものはぷっつりと途絶えた。

 吾田彦あたひこは二人の皇子を急がせ山中を抜けて山城の苅羽井かりはい(京都府木津川市山城町綺田かばたに着き乾飯ほしいいを食していると顔に入れ墨をした男が現れ食している乾飯ほしいいを寄こせと言って三人の乾飯ほしいいを奪った。弘計をけが「乾飯ほしいいが欲しくばくれてやる。お前はいったい誰だ。」男は「わしは山城の猪甘いかひ(朝廷の豚を飼う部民べみんだ。」と言い放って立ち去った。弘計をけは「この事、忘れはしないぞ。」と叫んだ。

 一行は先を急ぎ交野かたの樟葉くずは(大阪府枚方市楠葉)鵜河うがわ(淀川)を渡り播磨国明石郡(神戸市西区押部谷町木津に顕宗仁賢神社がある。)に逃れた。二人は名を改め丹波たには小子わらわと称し吾田彦あたひこと共に縮見屯倉首しじみのみやけおびと(兵庫県三木市志染しじみ町付近にあったとされる屯倉みやけの長)に仕え、牛馬の飼育に携わった。

 雄略ゆうりゃく天皇が崩じ清寧せいねい天皇の御代となって、帝が市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの二人の遺児をお探ししている噂を耳にしても吾田彦あたひこは謀略を恐れ名乗り出なかった。

 病にす帝清寧せいねい天皇)は群臣に地を分けても市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの遺児をお探しせよと命じ、群臣は八方手を付くしてお探ししても見つからず困り果てていた。皇統は雄略天皇の暴虐と星川皇子の叛逆により允恭いんぎょう天皇の血筋は絶えようとしていた。皇統を継ぐ血筋は履中りちゅう天皇の御子、市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの二人の皇子に限られていたが未だに見つからなかった。

 思い余った群臣は皇統を守る為に市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの妹、飯豊皇女いいとよのひめみこに白羽の矢を立てた。飯豊皇女いいとよのひめみこは帝の信頼も篤く帝に相応しいと群臣は密かに談合を重ねた。

 群臣は二人の皇子が見つからず仮に帝が崩御された時は忍海角刺宮おしぬみのつのさしのみや(奈良県葛城市忍海 角刺神社)で政務を執り行っていた飯豊皇女いいとよのひめみこに即位を促そうと話し合った。

 飯豊皇女いいとよのひめみこは群臣の懇請を聞き怒りを顕わにして申し述べた。「帝は病にせているとは云へ御存命である。群臣は差し出がましい事を詮索する前に帝の命に従い地を分けても二人の皇子をお探し申せ。二人の皇子は天を駈け、地に潜った訳ではない地方の豪族にも使いを出し神に祈ってお探しせよ。」と群臣に迫った。

 清寧せいねい五年(四八四年)春一月十六日、帝清寧せいねい天皇)は二人の皇子を見る事無く在位五年、四十一歳の若さで崩御された。

 星川皇子の謀叛で允恭いんぎょう天皇の血筋は清寧せいねい天皇お一人であったが清寧せいねい天皇も崩御し皇位継承の血筋は履中りちゅう天皇の御子、市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの二人の皇子のみとなった。しかし、二人の皇子は行方知れずで皇位は空位となり群臣は再び皇祖の血を引く飯豊皇女いいとよのひめみこに即位を促した。

 飯豊皇女いいとよのひめみこは「帝の御位は神聖にして女人の汚れた身で侵せば神を冒涜ぼうとくする愚行を行う事と為る。二人の皇子を探すのが先決であり、政務を取り仕切るのは神功皇后の例もある。」と固辞されたが、将来が見えぬまま皇位を空位に出来ないと群臣に押し切られ、已む無く中継ぎの天皇として即位を承知された。

 女帝となった飯豊皇女いいとよのひめみこ飯豊青尊いいとよのあおのみことと名を改め、先帝を河内坂門原陵こうちのさかどのはらのみささぎ(大阪府羽曳野市西浦)に葬り清寧せいねい天皇のおくりなを奉った。そして、即位の礼を執り行わず、従前どおり忍海角刺宮おしぬみのつのさしのみやで政務を執り行い、改めて二人の皇子をお探しせよと勅命を下した。

 冬十一月、播磨国司こくし(行政官)伊予来目部小盾いよのくめべおだてが今年の収穫を祝い新穀を天神地祇てんじんちぎに供える新嘗にいなめの祭りと新室にいむろ(新築)の祝いも兼ねて夜通しの酒宴を催した。二人の皇子が仕える縮見屯倉首しじみのみやけおびとも招かれ二人の皇子にも従者としてつき従う事を命じ、二人は小盾おだての家人の下知に従い雑用に従事した。

 小盾おだての家人は問わず語りに話し始めた。「主人、小盾おだてが都の話しとして語るには、帝は后を娶らず妃も召さず、皇位は市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの遺児に託すと申し、(部署)を定め各地に探索の使いを出したと聞く。お探しすれば莫大な褒賞を賜ると申しておった。その帝も崩じ皇位を継ぐ血筋の皇子は未だに行方不明で致し方なく皇祖の血を引く飯豊皇女いいとよのひめみこが皇位に就いたが、二人の皇子の探索は続いている。二人の皇子はいったい何処にいるのか。」と問わず語りに話した。

 二人は他人事の如く聞き流し相槌を打った。雑事も終わり、館の外に出た二人は小盾おだての家人が話した事を思い起こし、弘計をけが兄、億計おけに語った。「わざわいを逃れて二十五年の歳月が過ぎ、歳も三十二歳となった。叔母の飯豊皇女いいとよのひめみこが皇位に就いたと聞いた。今宵は名を名乗り尊い身分である事を明かす良い機会と思うが。」

 慎重な億計おけは「名を変え、身分を隠して来たからこそ災厄を免れて生き延びてきた。探索の噂の真偽はもう少し時節を待つべきと思う。今、唐突に身分を明かせば逆に疑われて殺されるかも知れない。」

 賛成してくれると思っていた兄からまだ待てと云われ、弘計をけは思い余って山中に駆け出し藪の中で日頃の鬱憤うっぷんを叫んだ。「俺は履中りちゅう天皇の御子、市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの皇子なのだ。それなのに人に仕え、牛馬の世話をし、雑務に追われている。心の内に気位を保って生きて来たが、何時までこの様な暮らしを続けるのか。」

 後を追ってきた億計おけは「俺も身分を明かしたい。しかし、俺には身分を明かす勇気が無い。時節が来て探し出して呉れるのを待つことしか出来ない。名を明かす勇気を持っているのはお前だ、今宵が名を明かす時と思うなら、俺はお前に従おう。」

 日も暮れた頃、縮見屯倉首しじみのみやけおびとは二人の皇子を呼び寄せ二人にあかり火焼番ひたきばんを命じた。二人は灯かりを絶やさないよう、松の根や幹を細かく割り室の四隅に設えられた灯台に次々とつぎ足した。小盾おだては灯りを燈す二人の立ち居振る舞いに目を留めた。気品が有り、人に先を譲り、行いに礼節がある。

 小盾おだて縮見屯倉首しじみのみやけおびとに二人の出自を問うたが承知しておらず、家人に訪ねたが家人も二人の出自について知らなかった。二人は何処からとも無く現れて牛馬の世話をし、雑事をこなし成す事にそつが無く利発な振る舞いに感じ入り、従僕の一人に加えたとの事であった。

 宴たけなわとなり余興が続いた。頃合を見て小盾おだては自ら琴を弾き二人の皇子に舞いを命じた。二人は譲り合ってなかなか立たなかった。小盾おだて苛立いらだち早く舞えとせき立てた。兄の億計おけ縮見屯倉首しじみのみやけおびとに与えられた装束に改めて立って舞い歌った。小盾おだてはその見事さに驚きもう一曲望んだ。

 億計おけは弟の弘計をけを促した。弘計をけも装束を改めて新築の祝いにふさわしい「家誉め」の歌を詠った。

   つる 稚室葛根わかむろかづね(壁を作る葛の類)

   築き立つる 柱は、此の家長いえきみの 御心みこころしづまりなり。

   取り挙ぐる 棟梁むねうつはりは、此の家長の 御心の林なり。

   取り置ける 椽橑はへき(垂木)は、此の家長の御心のととのほりなり。

   取り置ける 蘆萑えつり(屋根の下地)は 此の家長の御心のたひらかなるなり。

   取り結へる 縄葛つなかづら(縄やかつらは、此の家長の 御寿みいのちかたまりなり。

   取り葺ける 草葉かやかやは、此の家長の 御富みとみの余なり。・・・・・

 弘計をけが朗々と詠い舞い終わっても小盾おだては琴を引き続け、「もう一曲聞きたい」と弘計をけを促した。弘計をけは大きく息を吸い込み琴の音に合わせて大声で叫んだ。

   倭は彼彼そその(そよそよと)茅原ちはら、その浅茅原あさじがはらに大和の国がある。

   その国の弟王に市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこと申す天下を統べるべきお方がいた。

   えなく殺され、御子は難をのがれて逃げた。

   我ら二人はこのみことの御子である。

 りんとした声は部屋中に響きわたり一同の胸に突き刺さった。小盾おだては驚きあわて、席を飛び退すさって再拝し非礼を詫び、一族打ち揃ってお仕えすると申し述べた。

 縮見屯倉首しじみのみやけおびとは知らなかったとは云へ、今までの数々の非礼を詫びに詫び平身低頭しておもてを上げなかった。二人の皇子は縮見屯倉首しじみのみやけおびとに今まで疑いを抱きつつも大泊瀬皇子おおはつせのみこ雄略ゆうりゃく天皇)に通報する事無くかくまい続けてくれた礼を述べ面を上げる事を促した。

 小盾おだては早速、宮の造営に取り掛かり、日ならずして新築した仮宮にお入りいただいた。そして、都に早馬の使いを出し飯豊青尊いいとよのあおのみことに二人の皇子をお迎え頂くよう奏上した。

 都では二人の皇子が現れた事に騒然となった。馬を飾り直ちに迎えの使者が遣わされた。小盾おだて縮見屯倉首しじみのみやけおびとも行列に付き従って都に上った。

 二人の叔母である女帝の飯豊青尊いいとよのあおのみことは二人を謁見し、立派に成人した億計おけ弘計をけの無事な姿を見て感涙し暫し言葉を失った。

 飯豊青尊いいとよのあおのみこと清寧せいねい天皇が崩御され当然の事として億計おけが皇位に就く事を促した。しかし、億計おけは女帝の飯豊青尊いいとよのあおのみことに「皇位は侵しがたく終身であり、お受けいたしかねます。父君の跡を継いで即位された飯豊青尊いいとよのあおのみことがこのまま皇位に留まるべきと思います。」と申し述べお受けしなかった。論を尽くして説いても億計おけは固辞された。致し方なく飯豊青尊いいとよのあおのみこと億計おけを太子とした。

 弘計をけはこの決定に内心不満であった。勇を鼓して名乗り出たのは俺だ、名乗り出た時、兄は臆して震えていた。功ある者が賞されるべきではないのか。

 皇位に上る野心が捨てきれず秋七月、弘計をけ角刺宮つのさしのみやを訪れ、飯豊青尊いいとよのあおのみことに「名乗り出たのは俺だ、功ある者が賞されるべきではないのか。」と詰め寄ったが、兄が即位するのは当然の事であり、これからも兄を援けよと申されて取り合わなかった。

 弘計をけ飯豊青尊いいとよのあおのみことのお傍近くに詰め寄り、ならば皇位を禅定願いたいと懇願したが飯豊青尊いいとよのあおのみことは取り合わなかった。そして、「この話はこれまで、御酒を召してお帰りあれ。」と申し、侍女に酒肴の用意を申し付けた。酒肴が運ばれ飯豊青尊いいとよのあおのみことは話しを聞かれるのを恐れて侍女を退出させ、弘計をけに大杯を勧め並々と酒を注いだ。

 弘計をけは大杯の酒を一気に飲み干し、鬱憤うっぷんを晴らすが如く、欲望のままに半ば強姦するが如く、飯豊青尊いいとよのあおのみことと交わった。飯豊青尊いいとよのあおのみことは冷ややかに弘計をけのなすがままに身を委ね、幼き頃の弘計をけに有った胸のあざが無い事に気付いた。飯豊青尊いいとよのあおのみことは身支度を整えた弘計をけに「幼き頃に有った胸の痣は何時の頃に消えたのか。」と問い掛けた。弘計をけは一瞬「はっと」したが平静を装い「そのような痣が有った事は覚えていない。」と答え、飯豊青尊いいとよのあおのみことが我らの出自を疑っていると感じた。

 弘計をけはその足で億計おけの館を訪ね、事の次第を話し、表沙汰になる前に飯豊青尊いいとよのあおのみことを始末すると告げた。億計おけは弟が恐ろしくなったが平静を装い不安な日々を過ごした。

 日本書記には前後の文章とは何の脈絡も無く、「秋七月、飯豊皇女いいとよのひめみこ忍海角刺宮おしぬみのつのさしのみやにて、交合まぐわいしたまいき。人に語りて、ひとはし女の道を知りぬ。またいずくんぞ異ならん。ついに、交合まぐわいを願わじ、とのたまいき。」と記されている。飯豊皇女いいとよのひめみこが忍海角刺宮で男と交合をされたが、人に語って、「人並みに女の道を知ったが、別に変わったこともない、以後男と交わりたいとも思わない。」)

 飯豊皇女いいとよのひめみこは一生に一度だけ、ねやを共にした男の名を伏せて人に語った。弘計をけ飯豊青尊いいとよのあおのみことが漏らした事を知り始末を急がねばならないと思った。

 それから四ヶ月後の清寧せいねい五年(四八四年)冬十一月、飯豊青尊いいとよのあおのみことは即位して僅か十ヶ月、即位の礼を執り行わず突然、崩御された。

 億計おけ飯豊青尊いいとよのあおのみことが倒れられ弘計をけが看病したが数刻の後、崩御されたと聞き弘計をけが殺したに違いない、皇位に就けば命をちぢめるであろうと思った。

 飯豊青尊いいとよのあおのみことの死は誰にも疑いを持たれる事なく、太子の億計おけが天皇崩御の礼に倣って飯豊青尊いいとよのあおのみことの葬礼を執り行い葛城埴口丘陵かずらきのはにくちのおかのみささぎ(北花内大塚古墳 奈良県葛城市北花内)に葬った。(宮内庁は飯豊青尊いいとよのあおのみことを不即位天皇として扱い北花内大塚古墳を飯豊天皇陵と治定している。)

 冬十二月、百官が居並び即位の儀が執り行われ天皇のみしるし(三種の神器)を太子の億計おけに奉った。億計おけはそのみしるしを奉げ持ち臣下の礼をとる弘計をけの前に置き再拝して百官に告げた。「勇気をもって身分を明かし迎え入れられたのは弘計をけの考えである。功ある弟の弘計をけが御位に就くべきである。」と申し述べ弘計をけの横に座り高御座たかみくらに就く事を促した。驚いた弘計をけは「帝が定めた太子が皇位に就くは古来からの定めである。」と言い張り皇位に就く事を固辞された。

 億計おけは「功なくして御位に就けばいずれとがめやいが起こるであろう。天子の位は神聖にして侵し難く長く空位にすべきではない、天命と思い弘計をけが御位に就くべきである。」と言い張り弘計をけが皇位に就く事を強く望んだ。

 百官が居並ぶ朝議の席で二人の兄弟は皇位を譲り合った。兄弟は一歳しか歳の差は無く、傍目はためには双子の様であった。しかし、二人の性格は正反対で兄の億計おけは聡明で物事を深慮しんりょうに捉え何事に付けても控えめで常に弟の弘計をけを盛り立てようとした。

 一方、弟の弘計をけは気性が激しく豪胆な一面を有し積極果敢に行動する性格を持ち、控え目な兄を立て、難局には自ら事に当たった。

 皇位を巡り弟の弘計をけは帝が定めた太子が皇位に就くは古来からの定めであると言い張り皇位に就く事を固辞した。兄の億計おけは「小盾おだての館で名乗り出る事を躊躇ためらい優柔不断で虚言をろうしたととらえられ殺される事を怖れた。しかし、弟の弘計をけは毅然たる態度を示し、怖れる事なく勇断を以って名乗り出た。皇位は弘計をけにこそ相応しい。」と告げた。

 弘計をけは反論して「帝は億計おけが長子であるが故に太子と御決めに為った訳ではない、億計おけの聡明で思慮深い性格にこの国を託された。億計おけまつりごとを取り仕切ればこの国から争そいは絶えるであろう、帝のご遺志に従うべきである。」

 群臣は唖然あぜんとして二人の議論に耳を傾け、謙譲の美徳を教えられ口を差し挟む余地も無く二人の会話を心地よく聞いた。皇位を巡る争いの数々を聞き知っていた群臣は譲り合う二人の姿を見て共にいにしえの聖王もくやと思った。

 億計おけは承知しない弘計をけに涼しげな目を向け己が決意を語った。「昔、神武天皇崩御の後、手研耳命たぎしみみのみことが謀叛を企てた。この事を知った弟の神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことは太子の神八井耳命かむやいみみのみことと共に手研耳命たぎしみみのみことの館を急襲した。しかし、太子の神八井耳命かむやいみみのみこと手研耳命たぎしみみのみことが剣を振りかざし猛然と迫り来るのを見て手が震え矢を射る事が出来なかった。弟の神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみことは兄から弓矢を奪い一矢で手研耳命たぎしみみのみことを射殺した。神八井耳命かむやいみみのみことは臆病を恥、自ら皇位を弟の神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみこと綏靖すいぜい天皇)に譲り、生涯、補佐として神々の祀りを受け持った。又、応神天皇が崩御され、大山守皇子おおやまもりのみこが兵を挙げたが太子の菟道稚郎子うじのわきいらつこは為すすべを知らず弟の大鷦鷯尊おおさざきのみことに一任した。大鷦鷯尊おおさざきのみことが乱を平定し太子の菟道稚郎子うじのわきいらつこは「皇位は大鷦鷯尊おおさざきのみことが相応しい。」と申し述べ即位しなかった。しかし、大鷦鷯尊おおさざきのみことは即位を固辞された為に太子は菟道うじに隠棲し、大鷦鷯尊おおさざきのみことに即位を促したが固辞され、思い余った太子は死を以って大鷦鷯尊おおさざきのみことに即位を促した。弘計をけがなを即位を拒めば菟道稚郎子うじのわきいらつこならう覚悟は出来ている。」と告げた。

 弘計をけは兄の決意の固さを知り、兄の命には代えられぬ、と即位を承知した。億計おけは太子の御位を弘計をけに禅譲し帝の補佐として仕える事を神に誓った。

 春一月元旦、弘計をけは群臣の践祚せんそを受け入れ、即位して顕宗けんぞう天皇(在位四八五年一月一日~四八七年四月二五日)となった。そして、兄の億計おけを太子とした。

 そして、帝は先例に倣い都を近飛鳥八釣宮ちかつあすかやつりのみや(奈良県高市郡明日香村八釣)に遷した。帝は允恭いんぎょう天皇の曾孫、磐城王の姫、難波小野王なにわのおののきみを皇后に立てられた。

 春二月、皇位に就いた弘計をけ大泊瀬皇子おおはつせのみこ雄略ゆうりゃく天皇)に殺された、父、市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこかばねを葬るべく遺骸を探させた。近江の蚊屋野かやの(湖東の南部一帯)をくまなく探させたが、大泊瀬皇子おおはつせのみこが屍を埋めた地をならし踏み固めて枯れ葉を撒いた為に痕跡を留めていなかった。

 帝は付近の村人で埋葬した場所を知る者は居らぬか探させた。一人の老婆が進み出て場所を知っておりますと申し出た。老婆は倭袋宿禰やまとふくろのすくねの妹置目おきめと名乗り毎年、市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの命日には欠かさず祈りを捧げていると申し述べた。指し示した地を家人が掘り返すと飼い葉桶に入れられた二体の屍が現れた。市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの屍と常に皇子のお側に付き従っていた舎人とねりの佐伯部売輪うるわの屍であった。

 しかし二体のかばねは朽ち果て、どちらが市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの屍か見分けが付かなかった。売輪うるわの乳母が現れ売輪うるわは前歯が欠けていると申し述べたので、頭蓋骨を見比べて見たが歯並びは判別出来なかった。帝は仕方なく蚊屋野かやのに全く同じみささぎを二陵造り二体の屍を葬り同じ様に葬礼を行った。(滋賀県東近江市市辺町に存する円墳二基(古保志塚という)がそれと伝えられ、宮内庁の管理下にある。)

 帝は置目おきめ篤実とくじつに報い宮の近くに住まわせて地を与え褒賞を以って報いた。そして、大泊瀬皇子おおはつせのみこの陰謀に加わった韓袋宿禰からふくろのすくねを捕らえ誅するお考えであったが叩頭こうとう(頭を地につけて拝礼すること)して赦しを乞う姿に哀れを覚え、領地を召し上げ官籍を剥奪し市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの陵の墓守におとし賤民せんみんとされた。韓袋宿禰からふくろのすくねの一族で陰謀に加わった倭袋宿禰やまとふくろのすくねは妹の置目おきめの功により赦され、韓袋宿禰からふくろのすくねの領地を賜った。

 そして、山城の苅羽井かりはい(京都府木津川市山城町綺田かばた乾飯ほしいいを奪い猪甘いかひ(朝廷の豚を飼う部民べみんと名乗った男を探し出し都に連行して飛鳥川の河原で処刑し、一族の者の膝の筋を断ち切った。

 二年秋八月、帝は野良に埋められ見分けが付かなかった父の屍が脳裏から去らなかった。謀略をもって父を殺した仇の大泊瀬皇子おおはつせのみこに前にも増して怒りを感じていた。みささぎを暴き屍をさらし剣を取って首をね遺骨を砕いて堀に投げ捨てたいとさえ思った。

 兄の億計おけに心の内を話し雄略ゆうりゃく天皇の陵を暴きたいと告げた。億計おけは驚きその任は我が行うと告げ、早速、家人を大勢引き連れ雄略天皇の陵に向かった。

 億計おけは陵に着くと大勢の民衆が見守る中、陵の隅の土を僅かばかり削り取って持ち帰った。そして、帝に拝謁して土を示し、「陵を全て切り崩しても帝の気持ちが収まるものでもない、帝の大いなる怒りを顕わすには陵を僅かばかり崩すだけで人の耳目じもくは集まり帝の気持ちが天下に知らされましょう。これで充分かと存じ奉ります。」と申し述べた。帝は兄、億計おけ深慮しんりょな行いに感涙し、激昂げっこうした己を恥じた。

 二年秋九月、宴会の席で億計おけが瓜を食べようとしたが刀子とうす(小刀)がなかった。帝がその様子をご覧になり自ら刀子を取って后に渡すよう命じた。后の難波小野王なにわのおののきみは立ったまま刀子を億計おけの瓜皿に置いた。又、后は酒に酔い、立ち上がって大声で億計おけを呼びつけた。

 宴が終わり、室に引き揚げた帝は后に宴席での無礼な振る舞いは何故かと問い質した。后は以前から帝に対しても横柄な態度で接していた。后は酔いも手伝い有らぬ事を口走った。「帝も太子の億計おけ市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの遺児かどうか疑わしい、下賎の者に礼を尽くす云われは無い。」カッとなった帝は后の首に手を掛けたが侍女に押し留められ、「いずれ後悔するであろう」と叫び荒々しく立ち去った。

 三年(四八七年)夏四月二十五日、顕宗天皇けんぞうてんのうは在位僅か三年、三十五歳の若さで崩御された。帝は子女を授からなかった。


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