皇位争乱
第十一話 清寧天皇
星川皇子の謀叛
雄略天皇には三人の皇子がいた。后の幡梭皇女は子を生さなかったが妃の韓姫(葛城の円大臣の姫)は白髪皇子(後の清寧天皇)を生み、妃の吉備稚姫は磐城皇子と星川皇子を生み、春日和珥臣の娘、童女君は春日大娘を生んだ。
妃の吉備稚姫は吉備上道臣田狭の妻であった。田狭は同輩達に己が妻、稚姫の事を誉めそやし吉備の国第一の美人であり化粧をせずとも都に並ぶ美女は居らぬと自慢げに語った。
この自慢話を漏れ聞いた帝は稚姫を召し出して女御(天皇の寝所に侍した高位の女官)にしようと思われた。そこで帝は姑息な手段を選び邪魔な田狭を任那の国司に任じて遠くに追い遣り、それからしばらくして稚姫を召し出した。稚姫は田狭が自慢げに語った通り美貌は衆に優れ、気性の激しさも帝は大いに気に入り稚姫を妃に加えた。
稚姫には田狭との間に兄君、弟君の二人の御子がいた。帝は二人の兄弟も遠ざけようと思い、都に召し出し新羅討伐の兵を率いて任地に赴けと命じた。二人は帝の魂胆を察し弟君が帝に申し述べた。「この度の新羅討伐は弟君一人で充分で有りましょう、任地に赴き戦局を見極めてから改めて帝に援軍を要請致したいと存じます。」
帝は弟君の申し出を受け入れざるを得ず海部直赤尾を副将とし、百済人の歓因知利が百済で討伐の将を集めましょうと申し出たので歓因知利を随行させて「百済に優れた将を軍に加えよ。」と勅書を下し新羅討伐を命じた。弟君は妻の樟姫を伴い赤尾と共に兵五百を率いて新羅討伐に赴いた。
百済に到着した弟君は様々な口実を設け戦場に向うのを遅らせた。戦場に至っても兵の損耗を避けて戦い、戦況は捗々しくなかった。
戦は一進一退を繰り返し華々しい勝利は得られなかった。戦況の報せを受けた帝は戦局が好転しない理由は、任那の国司田狭が新羅と通じている節が有ると言い掛かりを付け弟君に田狭の殺害を命じた。
弟君は帝が本性を顕わしたと知り益々、危険な戦は避け性急に軍を進めなかった。父である田狭は密かに人を遣わし弟君に告げた。「帝は既に我が妻を召して子を生したと聞く。我も弟君も共に大和に帰れば帝の勘気に触れ災禍が及ぶ事となろう、お前は復命せずこのまま百済に留まれ。我も復命せず任那に留まる。」と告げた。
弟君の妻、樟姫は女人には珍しく武勇に優れ、帝に忠誠を尽くす君臣の如き女人であった。夫の弟君が戦を疎かにして百済に留まり本気で新羅を討とうとしない事に怒りを覚えた。
樟姫が度々叱責しても弟君は軍を動かさなかった。思い余った樟姫は閨の内で弟君を刺し殺し、海部直赤尾と共に百済の将を率いて新羅を討ち大和に帰還した。
妃に上った稚姫は磐城皇子と星川皇子を生んだが帝に対し怨みを忘れる事は無かった。夫を遠く任那に追い遣り、弟君も百済に赴かせた挙げ句に弟君に田狭を討てと命じた。弟君は妻の樟姫に討たれ、田狭は行方知れずと為った。
我が身は無理やり妃に召し出され御子まで生した。気性の激しい稚姫はならば我が子の磐城皇子か星川皇子を太子にせよと何度となく帝に迫った。帝はその都度、お茶を濁し確約を与えなかった。
雄略二十二年(四七八年)一月元旦、帝は体の萎えを感じ、太子を定める事とした。帝は三人の皇子の人柄を思い描き、聡明な第三子、韓姫の子、白髪皇子を太子と定めた。稚姫は帝の裁可に憤りを感じ帝に激しく迫ったが帝は取り合わなかった。稚姫は帝の仕打ちを怨み何れ復讐する事を心の内に誓った。
太子を定めた翌年、帝は病の床に臥し人生の黄昏を迎えたと感じられ大伴室屋大連と東漢掬直を枕頭に呼び二人に後事を託した。「今、天下は治まっている、民は安らぎ、竃の煙は立ちのぼり、夷も従っている。皇位に就く者は天下のために心を尽くさねばならない。幸い太子は仁孝篤く志しも有り我が意に沿って天下を治める事が出来るであろう。翻って他の皇子を見るに磐城皇子は分別をわきまえ帝を輔弼するであろう。星川皇子は己の野心の為には他を返り見ない冷徹な心を持ち星川皇子が皇位に就けば天下は定まらないであろう。愁うるは我が亡き後、稚姫は我が仕打ちを怨み吉備の兄君と謀って星川皇子を皇位に就ける謀叛を起すであろう。兄君も怨みを晴らす好機と見て吉備から兵を率いて太子を殺し星川皇子を帝の御位に就ける事を謀るであろう。星川皇子は皇位に就く野心を持ち、皇位簒奪の汚名を被る事も厭わず母と義兄の企みに嬉々として加わるであろう。妃の稚姫は気性激しく田狭を任那に追い遣った事、弟君を百済に赴かせ樟姫に殺された事等々を未だに怨み続け心の内に復讐の炎を燃やしている。稚姫は星川皇子の気持ちを煽り皇子の心に反逆の火を付けるであろう。星川皇子が皇位に就けば民は苦しみ、忠臣は離れ、諸国は叛き国を乱す事となろう。二人は太子を守り、乱に備え、国の安らぎを保って欲しい。」と遺勅を残して雄略二十三年(四七九年)秋八月七日、六十二歳で崩御された。
帝の崩御から数日後、稚姫は磐城皇子と星川皇子それに兄君を吉備から呼び寄せ三人を前にして語った。「太子は妃も娶らず清貧に暮らし皇位に執着していない。群臣を味方に付けて太子の即位を阻み兄弟が力を合わせ、星川皇子を帝位に就けよ。父の先帝は実の兄弟を殺戮して皇位に上った。星川皇子も皇位を窺う野心が有るなら、先帝に倣い皇位を奪い取る覚悟を持って太子に立ち向かえ。」と唆かした。
磐城皇子は母の言葉を聞いて驚愕し母と弟それに兄君を諌め、「先帝に数々の怨みは有るがその様な暴挙を起こし何の益があろう。まして太子に何の落ち度も無く、太子を殺める理由も無い。大和の群臣は大伴室屋をはじめ皆太子に心服している。兵を挙げれば叛逆の罪に問われ、たちどころに大伴室屋が兵を差し向け討たれるであろう。大和の兵を敵に回し吉備の兵を呼んで争乱を起こすお積もりか。」と強く反対した。
兄君は父、田狭を任那に追い遣り弟君に田狭を討つ事を命じた先帝を憎んでいた。弟君は妻に殺されたがその遠因は先帝の陰険な策謀に有る。先帝が崩じた今、怨みを晴らす為に帝位を奪い皇統を吉備の血に塗り替える事に戦慄を覚えた。母の稚姫も無理やり田狭との仲を引き裂かれ先帝を心底怨んでいた事を知り、行方の知れぬ父、田狭に知らして遣りたいと思った。兄君は稚姫の話しを聞き終え、命を賭して星川皇子に従うと告げた。
星川皇子は先帝が太子に指名しなかった事を怨みに思い先帝を深く憎んでいた。母に唆かされる前から皇位に上る野心を抱き続けていた。先帝の性質を余す所無く受け継ぎ傲慢で冷徹な性格であった。
先帝は若き日の己に似た星川皇子が好きになれなかった。それ故、群臣の人望も有り争いを好まず性格も温厚な白髪皇子を太子とした。
しかし、太子は先帝の暴虐を知り嫌悪していた。帝位に上る野望の為には手段を選ばず、日嗣の御子、市辺押磐皇子を殺し、兄弟を殺し、母、韓姫の父、円大臣も口を封じる為に殺した。呪われた血がこの身に流れている事を憂いていた。太子は帝位に執着は無く市辺押磐皇子の遺児が帝に相応しいと思っていた。
太子が即位を渋っている間に星川皇子は先帝に倣い力で皇位を奪い取る道を選んだ。先帝が危惧した通り星川皇子は本性を顕わし太子を蔑にし、誰れ憚ることなく宮中で権勢を振るい群臣に命じて宮中の財物をわが館に運び入れた。武器を集め、野心の有る豪族、群臣を煽動して兵を集めた。
城丘前来目と河内三野県主小根は従前から星川皇子に仕えており致し方なく一縷の望みを抱いて暴挙に加わった。兄君も吉備に立ち帰り戦の準備を整え、兵を率いて大和に立ち帰った。
そして、稚姫は星川皇子に「御位に登ろうと思うなら、まず大蔵の役所を奪いなさい。」この言葉を聞いた磐城皇子は「それは恐ろしい事です。太子に対する反逆です。何卒、おやめください。」と押しとどめたが二人は聞き入れず、雄略天皇が創設した三蔵(大蔵、内蔵、斎蔵 天皇家の財宝を管理する倉庫)の内、大蔵の役所を急襲してこれを奪い、役所の外門を閉ざして立て籠もった。
大蔵の役所は防壁を巡らし堅固に造られていた。多数の武器が保管され武器庫の役割も担っていた。役所に拠って太子が攻め来るのを待ち、迎え撃つ態勢を整えた。
磐城皇子は急ぎ大蔵の役所に入った。そして、戦を前に目は血走り極度に緊張した星川皇子に叛逆の愚かさを説いた。「古来、皇位簒奪の謀叛を企てて成功した事例は無く、従う群臣も私利私欲の為に加担しているに過ぎず形勢不利となればすぐさま見捨てて立ち去るであろう。戦を仕掛けても日ならずして鎮圧されて命を落とす。すぐさま矛を収めて太子に詫びるべきである。許しを請う使者に立ってもよい。」と星川皇子を説得したが稚姫も星川皇子それに異父兄、兄君も聞き入れなかった。
口論を繰り返し磐城皇子は必死に諌めたが逆上した星川皇子には通じなかった。止む無く太子に助命を乞うべく席を立とうとしたが星川皇子は許さず兵に捉えられた。
大伴室屋大連と東漢掬直は帝の遺詔が今まさに起こった事に驚きを隠し得なかった。時を置けば星川皇子に加担する群臣、豪族が現れ、稚姫の父、吉備上道臣も軍船を大和に向けるであろう。
乱の鎮圧が長引けば吉備の兵も加わり争乱を招く事となる。急ぎ星川皇子を除かねばならない。二人は家人に命じて兵を集め遺詔に従って鎮圧の軍を組織した。
太子に星川皇子が謀叛を起こした事を伝えすぐさま軍を大蔵の役所に差し向けた。星川皇子の拠る大蔵の役所は門を固く閉ざし中に拠る兵の数は定かではなかった。
大伴室屋と東漢掬直は急ぎ大蔵の役所を囲み降伏を勧告したが、星川皇子は矢を射掛けて戦の意志を示した。大伴室屋は櫓を組み、十分に役所を囲み、一人も逃さぬ態勢を固めて、兵に命じ四方から矢を放って降伏を勧告したが星川皇子は従わなかった。
星川皇子に加担した河内三野県主小根は大伴室屋の素早い対応と率いる大軍を見て星川皇子に利有らずと悟り、飛び交う矢を掻い潜って役所を抜け出し草香部吉士漢彦を頼って降伏した。
大伴室屋と東漢掬直は満を持して皇子の降伏を待ったが降る気配を見せず止む無く兵に命じて大蔵の役所に火矢を浴びせ炎上させた。役所に籠もっていた、稚姫、星川皇子、磐城皇子、兄君そして星川皇子に従った城丘前来目、太子に反目して星川皇子に走った官吏を含め一人も逃さず焼き殺した。
稚姫の父、吉備上道臣は星川皇子が兵を挙げたと聞き軍船四十隻を連ねて加勢に向った。海路を急いだが難波津に着く前に大蔵の役所は大伴室屋に攻められて焼け落ち、稚姫、星川皇子、兄君は役所と共に焼き殺されたと聞くに及んで吉備に引き返した。
河内三野県主小根は大伴室屋に難波、来目邑の大井戸の田十町を贈り、賂を以って不問に付された。助命を嘆願してくれた草香部吉士漢彦にも田を贈った。大伴室屋は軍船を差し向けた吉備上道臣を厳しく叱責し領地の一部を献上させた。
太子は磐城皇子も巻き添えで焼け死んだと聞き痛く悲しんだ。磐城皇子は何故大蔵の役所に入ったのか、星川皇子に加担したとは思えず、説得に赴き巻き添えに為ったのであろうと嘆息した。
太子は市辺押磐皇子の遺児が見付からねば皇位を磐城皇子に譲ろうと思っていた。躰も弱く帝位に何の執着も無かった。しかし、磐城皇子が亡くなった今、皇位を継承する血筋は他に居なくなった。后も娶らず子も生さぬと心に決めている太子は急ぎ市辺押磐皇子の遺児を探せと命じた。
しかし、諸国に令を発して探させたが生死も解らず朗報はもたらされなかった。群臣の勧めも有り、仕方なく先帝崩御の翌年(四八〇年)春一月、白髪皇子は三十七歳で即位し清寧天皇(在位四八〇年一月一五日~四八四年一月一六日)となられた。
帝は先帝を丹比高鷲原陵(大阪府羽曳野市島泉)に葬り雄略天皇の謚を奉った。そして、先例に倣い都を磐余甕栗宮(奈良県桜井市)に遷し、大伴室屋を旧来通り大連に平群真鳥臣を大臣に任命した。
帝はお名前の通り、生まれながらの白髪で皇后も置かず、妃も近づけず、修行僧の様に暮らしていた。大伴室屋は皇統が絶える事を怖れ帝に何度も后を娶る事を申し述べたが、帝は市辺押磐皇子の遺児をお探しせよと譲らなかった。
父、雄略天皇は自らの手で次々に兄弟を殺し、謀略を以て市辺押磐皇子を射殺し皇位に就いた。皇位は血で汚され、星川皇子もまた先帝に倣い皇位簒奪を計かった。自らも望んだわけではないが、星川皇子の謀叛で巻き添えとは云へ罪もない磐城皇子を殺して皇位に就いた。疎まれるべき我が血の継承を忌み嫌い独り身を通す決意が強かった。
帝の母、韓姫も不幸な一生であった。先帝は韓姫の父、円大臣の願いを聞き入れず二人の皇子(坂合黒彦皇子と眉輪王)と共に殺害して葛城の領地を召し上げた上に、娘の韓姫も奪い妃とした。母の韓姫は父の仇と交わり御子を生んだ。我が五体には汚れた血が駆け巡り数々の怨念が五臓に宿っている。この血を子孫に引き継いではならない。先帝の血を絶やす事が我が務めである。先帝の悪業を償い、皇統を旧に復す事を誓った。
帝は群臣と諮り太子には允恭天皇がかつて皇太子にしようとした市辺押磐皇子の二人の皇子が相応しいと説き二人を探させた。
二人の行方は褒賞を積み上げても杳として消息は届かなかった。朗報がもたらされぬ内に帝は病に冒され床に臥す日々が続いた。
帝は市辺押磐皇子の妹、飯豊皇女に二人の御子の探索と政務を委ねた。