皇位争乱
第十話 雄略天皇
大泊瀬皇子の暴虐
安康元年(四五四年)春二月、安康天皇は市辺押磐皇子が皇位に就くべきと強く推した大草香皇子が病と称して出仕しない事を疑った。大草香皇子は仁徳天皇と日向の髪長媛との間に生まれた皇子で安康天皇の叔父に当たり皇室の重鎮であった。
帝(安康天皇)は猜疑心が強く大草香皇子が市辺押磐皇子を強く推した事にわだかまりを持っていた。物部の大前宿禰、八釣白彦皇子と語らい謀叛を企てているのでは無いかと疑っていた。
木梨軽皇子の妃となるはずであった幡梭皇女(大草香皇子の同母妹)を弟の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の妃に請えば大草香皇子の本心が推察出来るであろうと思った。
一方の大草香皇子は穴穂皇子が皇位に就き時代が変わった事を感じ取った。病身でも有り、したり顔で差し出がましい意見を申し述べるのは慎もうと思い、病と称して出仕しなかった。
大草香皇子に悪意は無く時代が移り自身は引退した積もりであった。気がかりは木梨軽皇子が自害して果てた事で妹の幡梭皇女の行く末を案じておられた。
帝の妃に召し出される事を望み、度々、有力な豪族から請われても断り続けた。大前宿禰が太子の木梨軽皇子が「妃に召し出したい。」と望んでおられると聞かされた時、やっと妹に幸せが訪れたと喜びを隠さず宿禰に心から礼を述べた。
しかし、太子の自害で幡梭皇女の幸せは潰え去り落胆していた。この様な矢先に帝の使者、根使主が館を訪れ、帝が大泊瀬皇子の妃に幡梭皇女を請われたと大草香皇子に告げた。
大草香皇子は帝の即位に際し市辺押磐皇子を推し帝の反感を買っていると思っていたが此の度の申し出は帝が全てを水に流し幡梭皇女を請われた事に帝の度量の大きさを感じた。大草香皇子はかたじけない仰せを頂き使いの根使主に向かって四度も礼を示すほど大いに喜び安堵された。
兄の身を思い辞退する幡梭皇女を説き伏せ妹の幸せを願った。そして、大草香皇子は言葉のみでお受けする事を伝えては礼を逸すると思い、家宝の押木珠縵を捧げて「承諾のしるしとして帝に献上願いたい。」と使いの根使主に預け奉った。
押木珠縵は新羅からの到来物で木の枝をかたどった立ち飾りに金銀が散りばめられ勾玉が飾り付けられていた。根使主は噂に聞く押木珠縵を初めて目にし息を飲んだ、その見事さは一国の領地に比肩する美しさであった。
根使主は何としても我が物にしたい、今、手に入れなければ帝に献上され二度と手に入れる事は叶わない。帝に大草香皇子を殺させれば何人も知る事無く押木珠縵を我が物にする事が出来ると思った。
根使主は帰路、命と引き換えに讒言を以って大草香皇子をおとし入れ、押木珠縵を手に入れる算段を考えた。露見すれば死を賜る大罪である事を知りつつ、覚悟を定め、押木珠縵を我が物とした。
根使主は復命して帝に申し述べた。「大草香皇子は勅命に従わず、帝は気性が荒く意に添わぬ者は朝に殺し、気に入らぬと夕に殺し、お召しの声が掛かるだけで野に隠れた姫もいると聞く斯様なお方に大事な妹を如何に勅命とは申せ、差し出せないと申し勅命を拒みました。」と偽りを申し述べた。
帝はこの偽りの言を信じ、大草香皇子は未だに我が即位に反対していると疑いを抱いた。根使主はなを告げた、「大草香皇子の申すには太子の木梨軽皇子が自害して果てた故、先帝の意向も有り、順序として皇位は市辺押磐皇子が継ぐべきであった。太子に纏わる噂にも太子を陥る罠を感じる。疑いは次々に湧き上がり太子の自害も穴穂皇子が強要したのではなかろうか。穴穂皇子が噂を撒き散らし群臣を煽動して太子を死に追い遣ったに相違ない。穴穂皇子は明らかに皇位を簒奪したと思われる。斯様な帝に妹は遣れぬと剣を握り申し述べました。」根使主は巧みに帝の弱みを突いて虚言を申し述べた。帝は逆上し根使主の偽りの言葉を見抜けなかった。
帝は大草香皇子が木梨軽皇子の軽率な自害を嘆き、穴穂皇子が皇位を継ぐ事に憂いを漏らしていた事を聞き知っていた。大草香皇子が朝議の席で「本来、皇位は市辺押磐皇子が継ぐべきである。」と群臣に説いた事も鮮明に蘇えった。
根使主の虚言を聞いて一気に逆上し、大草香皇子の魂胆を疑った。病と称し出仕しない事も、即位の礼にも参じ無かった事も、疑いが脳裏を駆け巡った。例え叔父であり皇室の重鎮であろうとも即位を疑う者は即座に除かねばならない。
帝は大いに怒り根使主に命じ直ちに兵を遣わした。兵に囲まれた大草香皇子の館では何事ならんと、家人はうろたえ、騒ぎ、門を閉じたが根使主は「勅命である開門せよ。」と叫び門を打ち破って兵を館に乱入させた。そして、大草香皇子の寝所に押し入り兵を差し向けた理由を問う大草香皇子に何も答えず「勅命である。」と叫び床に坐す皇子の首を刎ねた。
大草香皇子の妃、中蒂姫と妹の幡梭皇女は嘆き哀しんだが殺される理由は解らなかった。二人は哀しみの内に日を暮らしていた。
一年が過ぎた頃、突然、帝の使者が訪れ中蒂姫を召し出すと告げた。中蒂姫には大草香皇子と結ばれ授かった幼い眉輪王がいた。辞退を申し出れば眉輪王に災難が及ぶ事を怖れ帝の申し出に同意した。
宮中に上がり帝に拝謁して幼い眉輪王を宮中で養育したいと帝に懇願した。帝は中蒂姫の願いを赦し、眉輪王を宮中に住まわせ、中蒂姫を后とされた。
次ぎに、幡梭皇女を召して弟の大泊瀬皇子の妃とした。中蒂姫は帝の寵愛を一身に受け大草香皇子が殺された恨みも薄れていたが機会が有れば殺された理由を聞きたいと思っていた。
ある時、帝に湯浴みを勧め、くつろいだ帝は楼に登り酒肴を求められた。侍女に用意させ程よく酔いがまわった頃、それとなく大草香皇子が殺された理由をお聞きになった。
帝は楼の下で遊ぶ眉輪王の事を忘れ中蒂姫に語った。「弟の大泊瀬皇子の妃に幡梭皇女がふさわしいと思い、そなたの夫、大草香皇子に使者として根使主を遣わした。ところが復命した根使主が申すには大草香皇子は勅命を拒み、有ろうことか我が即位を批判し叛逆の兆し有りと申し述べた。皇位を窺う兆し有りとも告げた。逆上し真偽を確かめる事もせず兵を差し向けた。大草香皇子が死に、もはや真偽を確かめる手だても無い、眉輪王がこの事を知れば恨みに思うで有ろう。この事のみは眉輪王に秘し続けて欲しい。」と中蒂姫に語った。
楼の下にいた眉輪王は帝の話を全て聞き父の非業の死を知った。いつの日か天誅を誓い懐中に刀子を隠し持ち機会を待った。
安康三年(四五六年)秋八月九日、帝は湯浴みの後、楼に登り酒肴を求められた。程良く酒が眠気を誘い后の膝枕で昼寝をしていた。
楼の下に潜んでいた眉輪王は頃合いを伺い中蒂姫に近づいた。帝の微かな寝息を確かめ懐中の刀子を抜き放ち中蒂姫の止める間も無く全身の力を刀子に込め一撃で帝の心の臓を刺し貫いた。帝は声を発する事もなく五十六歳の生涯を閉じた。
安康天皇が眉輪王に弑された事を大舎人(天皇に供奉してさまざまな雑用をこなした。)が走り、大泊瀬皇子に知らせた。
大泊瀬皇子は驚愕し眉輪王はまだ幼い、これは兄弟の誰かが眉輪王に父の仇は帝であると吹き込み帝を弑させたに違いないと兄弟の陰謀を疑った。安康天皇の即位に際し皇位簒奪を疑い市辺押磐皇子が皇位に相応しいと述べた八釣白彦皇子を真っ先に疑った。
直ちに鎧を着け、佩刀して、自ら兵を率い八釣白彦皇子の館に急行した。兵の乱入にあっけにとられて呆然としている八釣白彦皇子を自ら刀を抜いていきなり皇子の首を刎ねた。
次ぎに兵を従えて急ぎ坂合黒彦皇子の館に駆けつけ坂合黒彦皇子を問いつめた。坂合黒彦皇子は狂い立った大泊瀬皇子を畏れ、逃げも出来ず、座したまま言葉も出ず、ただ座り込んだ。
大泊瀬皇子はますます怒り狂い、兵を遣って眉輪王を引っ立てて問いつめた。眉輪王は「誰に頼まれたわけでもない、ただ父の仇を殺めたまでの事。」と答え坂合黒彦皇子の横に座した。
坂合黒彦皇子と眉輪王は隙を見て逃れ、葛城の円大臣(葛城氏の豪族 曽祖父は武内宿禰、祖父は葛城襲津彦、父は玉田宿禰)の館に逃げ込んだ。
大泊瀬皇子は逃げた二人を追い、円大臣の館を囲み「大罪を犯した二人を引き渡せ。」と告げた。しかし、円大臣は大泊瀬皇子に告げた、「坂合黒彦皇子と眉輪王は確かに我が館に居る。二人の皇子は、思いあぐねて、皇子の位を棄て円を頼って館にこられた。皇族が人臣の家に入った以上その身は既に人臣となり大泊瀬皇子に逆らって、皇位を窺う気配は微塵も感じられません。我が館で匿った上は既に我が客人であり、引き渡しを迫る理由も説かず、兵を以て我が館を囲い、二人の引き渡しを強要する行いは王道に背き大泊瀬皇子のご命令とは信じがたい。強いて願われてもこの身を賭してお守り申し上げる。」
大泊瀬皇子は剛胆な円大臣の返答を聞いて怒りがこみ上げてきた。「帝を殺めた者を匿うとは円大臣も同罪であり反逆である。」とますます兵を増やし円大臣の館を囲んだ。
兵の喊声が激しさを増し今にも館の門を打ち砕き攻め入る勢いが見て取れた。これ以上放置すれば館は大泊瀬皇子の兵馬に蹂躪され興奮した兵は女子供の見境もなく斬り捨て、暴徒の如く略奪の限りを尽くし混乱の内に皇子は捕らえられ、大泊瀬皇子は慈悲のかけらも見せず二人の皇子の首を刎ねるであろう。
円大臣は妻に命じて束帯を求め、装束を改めて開門し大泊瀬皇子に拝礼し申し述べた。「伏してお願い申しあげます、円大臣を頼りとして我が館に逃げ込んだ皇子を兵を以て強要され引き渡したとなれば、円大臣は人の道に外れ己の栄達を頼み仁義を知らぬと子々孫々まで謗られましょう。」
円大臣は跪き言上した、「私の葛城の領地七カ所と娘の韓姫を献上奉ります。韓姫は過ぐる日、大泊瀬皇子が我が館に妻問に来られた姫で御座います。我が意を忖度(気持ちを推し量る事。)し願わくは大泊瀬皇子の勘気に触れた二人の罪をあがなう事、お聞き入れ願いたい。」大泊瀬皇子は聞き入れず、引き渡さなければ館に火をかけると脅した。
円大臣はなを大泊瀬皇子に申し述べた。「大泊瀬皇子の兄、安康天皇は木梨軽皇子と皇位を争い、木梨軽皇子が争いに利有らずと見て取り軍を解いて物部の大前宿禰の館に逃げ込んだ時、安康天皇は大前宿禰の一命を賭した言を入れ木梨軽皇子の身柄を大前宿禰に預けられました。木梨軽皇子は大前宿禰の勇気ある態度に感涙し、大前宿禰に害が及ぶ事を恐れて自害して果てました。大泊瀬皇子も兄の、安康天皇に倣い寛大な処置を以ってこの円大臣に二皇子の身柄を何卒お預け願い奉ります。」と地に伏し懇願したが大泊瀬皇子は聞き入れなかった。
大泊瀬皇子は帝に上る千載一隅の好機を逃す事は無かった。眉輪王と共に円大臣の館に逃げ込んだ坂合黒彦皇子は兄であり騒ぎが収まれば市辺押磐皇子と共に次の帝として皇位継承を競う事となろう。
大泊瀬皇子にとって幸運な事に坂合黒彦皇子は帝を弑した眉輪王と共に円大臣の館に逃げ込んだ。大泊瀬皇子は己の行いを正当化する為に冷徹に筋書きを考えていた。
坂合黒彦皇子は次兄の自分が帝位に就けなかった不満を持っており皇位簒奪を謀った。八釣白彦皇子を誘い込み、帝を弑する謀議を企て、帝のお側近くに遊ぶ眉輪王に近付いた。二人はまだ幼く何も知らぬ眉輪王に父の仇は帝であると唆かし隙あらば刺し殺せと刀子を手渡した。眉輪王は怪しまれる事無く帝に近づき帝を一撃で刺し殺した。坂合黒彦皇子は叛逆を企てた首謀者であり八釣白彦皇子は叛逆に加担し眉輪王は罪の意識も無く帝を弑した。大舎人の報せで事の次第を知りこの様な暴挙は許されるべき事ではなく大義の下に天誅を加えた。
坂合黒彦皇子が帝を弑した眉輪王と共に円大臣の館に逃げ込んだ事が大泊瀬皇子にとって幸運な出来事となった。己の行いを正当化する為にはこの暴挙に関わった者、全てを殺さねば為らなかった。円大臣の願いは聞き入れられるたぐいのものではなかった。
坂合黒彦皇子を救えば大泊瀬皇子自身が理由も無く八釣白彦皇子を殺した事が咎められ帝に上るどころか逆に罪人として裁かれる事も考えられる。
大泊瀬皇子にとっては何としても二人を殺し口を封ずる必要が有った。二人を殺し市辺押磐皇子を亡き者にすれば皇統を継ぐ血筋は大泊瀬皇子、唯一人となり皇位は自然に我が手に期する。
逆上して思い違いとは云へ既に八釣白彦皇子を手に掛けた今、大泊瀬皇子に選択の余地はなかった。大泊瀬皇子は皇位を目指し全てを葬り去る道を突き進んだ。立ち塞がる敵は全て斬り殺す揺るぎ無い決意を固めていた。成功して皇位に上るか失敗して死を迎えるか大きな賭けであった。
大泊瀬皇子は二人の引き渡しを拒む円大臣も己の目的の為には殺す事も止む無しと考えていた。円大臣が二人から何を聞き、何を知ったか円大臣の家人も含め目的の為には全て殺さざるを得ないと思った。
円大臣もこれだけ話しても聞き入れない大泊瀬皇子の魂胆が見え、逃れられない宿命を感じた。義に死に信に生きる覚悟を決め、女子供は家から出し、門を閉ざして備えを堅くした。
一刻の猶予の後、大泊瀬皇子は兵に命じ矢を射かけさせた。円大臣も家人を屋根に上らせ応戦したが寡兵の上、戦の備えも無く、瞬く間に矢は尽きた。
円大臣は二人の皇子に告げた。「館に備えの矢も射つくしました。館は十重二十重に囲まれ逃げる術は御座いません。臣としてお守り出来ず痛恨の極みで御座います。」
坂合黒彦皇子は円大臣を頼り、巻き添えにした事を詫びに詫び直ぐさま二人を引き渡し願いたいと懇請した。
円大臣は駆け出そうとする二人の皇子を押し止め申し述べた。「程なく兵が乱入し皇子を捉え、首を刎ねるでありましょう。願わくば共に自害して果て、館を焼いて屍を灰と成し、屍を斬られる恥辱を拒みたいと存じ奉ります。」二人の皇子は円大臣の言葉も終わらぬ内に、互いに喉を刺し貫いて果てた。
円大臣は二人を束帯(正式な装束)で包み、人生の災禍は転変して測りがたい事を痛切に感じた。程なく門が破られ兵が館に乱入するであろう。皇子の屍を引き渡すわけにはいかぬ、急ぎ館に火を掛け自身も喉を刺し貫いて果てた。
円大臣の館はたちまち炎に包まれた。坂合黒彦皇子、眉輪王、円大臣と家人も含め館から一人も出る事無く館は焼け落ちた。
大泊瀬皇子は二人の兄を殺し眉輪王を殺し、巻き添えとなった円大臣を殺し一歩皇位に近づいた。
群臣は大泊瀬皇子の暴挙を疑ったが死人は何も語らず大泊瀬皇子の筋書き通り、二人の皇子と円大臣が幼い眉輪王をそそのかして帝を殺め皇位簒奪を企てたが大泊瀬皇子が二人の皇子を誅された。
だが、大泊瀬皇子が即位するには皇位簒奪の汚名を被っても力ずくで成し遂げる以外に道はなかった。それは憎しみの連鎖を招く道であった。
大泊瀬皇子の即位を阻むもう一人の邪魔がいた。允恭天皇がかつて太子にしようとした履中天皇の遺児市辺押磐皇子であった。
市辺押磐皇子は幼い頃から才気煥発で長じては私利私欲を嫌い清廉の生活を送っていた。皇位に就く事を欲せず恬淡として自由な生き方を好み政争の渦に巻き込まれる事を避けておられた。
一方、允恭天皇は高潔な市辺押磐皇子を頼もしく思い皇位は市辺押磐皇子にお返しするのが本筋であると太子の木梨軽皇子にも語り大泊瀬皇子も聞き知っていた。
大泊瀬皇子が即位するには人望も有り、識見も備えた市辺押磐皇子を除かねば数々の殺戮も水泡に帰す。思いも及ばなかった皇位が掌中に転がり込み握り締める欲望が大泊瀬皇子の心を支配した。千載一隅の機会を得た大泊瀬皇子は皇孫としての節度を失い世の誹謗、中傷を顧る事無く奸計をもって市辺押磐皇子を殺す事を企てた。
冬十月、大泊瀬皇子は市辺押磐皇子に近江の韓袋宿禰が「近江の来田綿の蚊屋野(滋賀県蒲生郡)に猪や立派な角を生やした大鹿が沢山いる。」と申していた寒くなる前に巻狩りでも如何かと狩りに誘った。
大泊瀬皇子から狩りの誘いがあったと聞かされた弟の御馬皇子は「兄上を殺めれば皇位は大泊瀬皇子に帰する。これは兄上を殺める誘いと思われます。何か理由を設けてお断りするのが賢明かと思われます。」と誘いに乗る事を強く諫めたが皇子は「大泊瀬皇子の魂胆は解っている。しかし、誘いを断れば臆病者と謗るであろう。」と云って聞き入れなかった。
初冬の冷たい風にあたり、雄々しい鹿の角を求め、野を駆け山に入り猪を追う、大泊瀬皇子は近江の蚊屋野(滋賀県蒲生郡)に市辺押磐皇子を誘った。誘いに応じた兄、市辺押磐皇子の身を案じて弟の御馬皇子も狩りに同道した。
大泊瀬皇子は衣の下の鎧を隠すが如く狩りの支度に取り掛かった。その様子を盗み見した市辺押磐皇子の家人が宿舎に戻り用心の為に衣の下に鎧をつけてはどうかと強く勧めた。市辺押磐皇子は不本意であったが家人のたっての願いを入れ、鎧をつけて狩りに出た。
二人は狩り場で馬を並べた。大泊瀬皇子は市辺押磐皇子の衣の下の鎧を見咎め、我を殺しに来たかとからかった。市辺押磐皇子は家人の言に従い、大泊瀬皇子を疑った事を恥、慌てて鎧を外した。
やすやすと、大泊瀬皇子の罠にはまり家人も主に寄り添う事を躊躇わざるを得ない状況となった。
大泊瀬皇子は大鹿がいると叫び馬を走らせ林の中に隠れた。市辺押磐皇子はその声を聞き、馬を馳せて後を追った。大泊瀬皇子は林の向こうから市辺押磐皇子が馬を駆けて来るのを見届け背の靭(矢を入れる筒)から矢を抜き取り弓に番えて林に潜み近くに来るのを待った。
林の向こうに市辺押磐皇子の姿を認め、弓を引き絞り狙いを定めて一矢で射殺した。皇子に付き従っていた舎人の佐伯部売輪は突然落馬した皇子に驚き駆け寄って矢を引き抜き抱き上げたが既に皇子は息絶えていた。振り向くと其処に大泊瀬皇子が剣を振りかざして待ち受けていた。佐伯部売輪は剣を抜く間も与えられずその場で斬り殺された。
大泊瀬皇子は家人に命じ市辺押磐皇子と佐伯部売輪の屍を飼い葉桶に押し込み穴を掘って埋めた。埋めた後が解らぬように地をならし踏み固めて枯れ葉を撒いた。
御馬皇子は兄の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子に射殺されたと知り我が身も危ういと察し以前から親しい三輪君身狭を頼ろうと馬を馳せたが三輪の磐井の井泉の辺りで不意に伏兵が現れ戦となったが捕えられて斬り殺された。御馬皇子は斬られる前、井戸を指さし「この水は百姓だけ飲むことが出来る王者は独り飲むこと能はじ」と井戸に呪いをかけた。
市辺押磐皇子の舎人、日下部連使主は主が殺された事に気付きいち早く館に駆け戻り、息子の吾田彦と共に幼い二人の皇子(後の顕宗、仁賢天皇)をお守りして館を逃れた。
大泊瀬皇子は安康天皇が大草香皇子の遺児、眉輪王に寝首を掻かれた先例も有り、二人の皇子を捜させたが逃げ去った後であった。館に火を掛け、四方に兵を出して執拗に探させたが見つけ出せなかった。
安康四年(四五七年)冬十一月十三日、自ら二人の兄を刃に掛けて命を奪い市辺押磐皇子も惨殺し皇位を簒奪した大泊瀬皇子が即位し雄略天皇(在位四五七年一一月一三日~四七九年八月七日)となった。血塗られた帝は喪に服する事無く平然と先帝を菅原伏見西陵に葬り安康天皇の謚を奉った。
皇位に就いた帝は先例に倣い都を泊瀬朝倉宮(奈良県桜井市岩坂)に遷し、大草香皇子の妹幡梭皇女を皇后とし、三人の妃を立てた。
自ら手に掛けた葛城の円大臣の娘、韓姫を召しだし妃とし、吉備上道臣田狭を任那に追い遣りその妻稚姫を奪って妃とし、春日和珥臣の娘、童女君を妃とした。
権力を掌中にした帝は石川楯に命じ、百済の蓋鹵王(在位四五五年~四七五年)に美女を乞わせた。百済王は姫を人質として差し出す先例は無いと拒んだが石川楯は勅命を盾に百済王を脅した。
百済王は止む無く国の為と諭し池津姫を帝に奉った。石川楯は帰路、池津姫の美しさに引かれ、欲情を押さえ切れなかった。池津姫も異国の帝にかしずく不安に言い知れぬ寂しさを覚えていた。
姫も何くれとなく気配を絶やさぬ石川楯に惹かれ、二人の心は通じ合い姫の琴線をかき鳴らして一夜、大罪を忘れ二人は結ばれた。
石川楯は大罪を隠して帝に復命した。姫は石川楯の館に留め置かれ数日を過ごした。二人は別れを惜しみ再び禁を犯した。
二人の仲は噂となり、帝の耳に届いた。帝は怒り、大伴室屋大連に命じて二人を捕らえさせた。そして、二人の四肢を戸板に張り付け火を掛けて焼き殺させた。
雄略十四年(四七一年)春一月、宋(南朝(四二〇~四七九年)日本書紀では呉国)に遣わしていた身狭村主青と桧隈民使博徳が宋の使節(日本書紀では呉人)と機織りの技術者を伴って帰国した。
夏四月、帝は世話役に根使主を任じ宋の使節の長旅を癒す饗宴を催した。帝は宋の使節に失礼があってはいけないので舎人を遣わして宴に集う臣、連らの服装を見させられた。舎人が復命して「根使主は玉を散りばめた一際目を引く美しい髪飾りを付け評判を呼び、『宋の使節を迎えに行く時も付けていた。』と群臣が申しておりました。」と帝に報告した。
帝も大いに心を動かされ后の幡梭皇女を伴い饗宴の場に赴いた。幡梭皇女は根使主の髪飾りを一目見て、帝を仰ぎ、嘆き哀しみ涙を流した。
帝は何事かと問いただすと后は平伏して申し上げた。「あの髪飾りは我が兄、大草香皇子が安康天皇の勅を承って、私を陛下に奉る証しとして献上した家宝の押木珠縵で御座います。何故、兄を殺した根使主に下げ渡されたのか、悲しみがこみあげ涙が溢れ陛下の裾を濡らしました。」
后の話しを聞き大いに驚いた帝は饗宴が終わると直ぐさま根使主を引き立て詰問した。根使主は逃れられぬと悟り、押木珠縵を我が物とせんが為に偽りの言を奏上し大草香皇子を殺させた事を詳に語った。帝は真実を知り大いに怒り根使主を直ぐさま殺させ、以後一族の登用を禁じた。
雄略二十二年(四七八年)、帝は履中、反正、弁恭天皇に倣い宋(南朝)の順帝(在位四六九年~四七九年宋(南朝)最後の皇帝)に朝貢し、六国の王(倭、百済、新羅、任郡、辰韓、馬韓)として認めよとの上奏文を奉った。しかし、宋は既に高句麗王を征東大将軍に任じ、百済王を鎮東大将軍に任じていた。順帝は倭王武(雄略天皇)の要求に応じ百済を外し「都督 倭、新羅、任那、加羅、秦韓(辰韓)、慕韓(馬韓)六国諸軍事、安東大将軍」に任じた。
雄略二十三年(四七九年)秋八月七日、雄略天皇は六十二才で崩御された。