皇位争乱
第九話 安康天皇
穴穂皇子の策謀
允恭天皇は十七年(四五四年)春一月十四日、五十三歳で崩御された。帝には后の忍坂大中津姫との間に五人の皇子がいた。長男が木梨軽皇子、次男が坂合黒彦皇子、三男が穴穂皇子(後の安康天皇)、四男が八釣白彦皇子、五男が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)であった。
帝は太子を定めるに当たり本来皇位を継ぐべき履中天皇の御子、市辺押磐皇子に皇位を御返ししようと考えられた。しかし、市辺押磐皇子は長く政務に携わっている木梨軽皇子が相応しいと述べ強く辞退された。
帝は何度も説得に努めたが市辺押磐皇子は固辞し御受けしなかった。帝はよんどころなく嫡子の木梨軽皇子を太子に指名された。しかし、木梨軽皇子は、「皇位は本来の後継者、市辺押磐皇子にお返しすべきである、政務は今まで通り帝の補佐として勤めたいと存じます。」と申し述べ太子に就く事を固辞された。
市辺押磐皇子が皇位に上る事を固辞されたと漏れ聞いた穴穂皇子と大泊瀬皇子は市辺押磐皇子が皇位に上らなければ皇位は兄弟の誰が継いでもおかしくはないと皇位に就く事に野心を抱いた。
帝は悩んだ末に義弟の大草香皇子(仁徳天皇の妃、日向、髪長媛の御子)に意見を求めた。大草香皇子は帝の御心を察し、病身を押して密かに市辺押磐皇子の館を訪ね、帝が思い悩んでいる事を告げ、帝が即位した経緯を語り、是非太子に就く事を懇請した。
しかし、市辺押磐皇子は磊落な御気性であり、政務に明るい木梨軽皇子が皇位を継ぐべきであると恬淡と語り、大草香皇子の説得に応じなかった。
帝の元に立ち帰った大草香皇子は「市辺押磐皇子に重ねて説得を試みたが翻意成し難く皇位に上る事を強く固辞されました。」と申し述べた。そして言葉を継ぎ、市辺押磐皇子も木梨軽皇子が太子に相応しいと推挙された事を伝え、自身も木梨軽皇子を太子になさるのが順当と存じ奉りますと言上した。
帝は致し方なく市辺押磐皇子の説得を諦め大草香皇子の推挙を受けいれて木梨軽皇子を太子とする事に決め、朝議の席で皇子と群臣に木梨軽皇子を太子とすると告げ、同時に木梨軽皇子に何れ皇位を市辺押磐皇子かその御子に譲る事を願った。
坂合黒彦皇子と八釣白彦皇子は長兄を信頼しており帝の決定になんら不満はなかった。しかし、三男の穴穂皇子と五男の大泊瀬皇子は帝の決定に不満を持った。木梨軽皇子が皇位を継げば皇位継承の慣わしから見て兄弟相続の可能性を残しているが帝のお言葉では木梨軽皇子の次の帝には市辺押磐皇子か、その御子を立てると告げられ強い反撥を感じた。しかし、帝の決定は絶対であり不満を口にする事は許されず心に遺恨を抱いて御前を引き下がった。
太子に就いた木梨軽皇子は病弱な帝に代わり以前にも増して政務に力を注ぎ朝廷の有るべき姿を思い浮かべた。太子は帝の代理として毅然とした態度を貫き時には厳しい裁可を下す事もあった。群臣に諂う事を潔とせず時として群臣には倣岸な太子と写る時もあった。太子は己の立場を使い分け帝の権威と尊厳を守る事に腐心したが群臣には見えなかった。
日頃の木梨軽皇子は寡黙であった。相手の話しを静かに聞き、感情に流される事も無く常に平静を保ち訥々と応えた。しかし、太子としての役柄と帝の代理としての役柄を一人で演じ群臣に誤解を植え付けてしまった。
太子が心を開き相談できる臣は物部の大前宿禰と叔父に当たる大草香皇子の御二人であった。
帝が崩御し太子の木梨軽皇子は冬十月まで殯斂宮に籠り帝との別れを惜しんだ。喪に服し殯斂宮で過ごす間、先帝の遺した古今の典籍を読み聖王の事蹟に触れた。
先帝は国の乱れを嘆き氏姓を糾す為に盟神探湯(注一)を行なったが国の乱れは氏姓を糾す事に止まらなかった。太子には為すべき事が次々に見えて来た。殯斂宮に重臣を呼び寄せ己の思いを語った。それは、朝廷の一大改革であった。実力を重んじ旧来の権力に安住する臣を排斥し帝の権威を高め有力氏族の力を弱めかねない改革であった。
太子の考えに重臣の中で大前宿禰唯一人が理解を示した。他の大半の重臣は木梨軽皇子が皇位に就く事に不安を感じた。木梨軽皇子が皇位に就き朝廷の改革に着手すれば権力の構造が変わり平群、蘇我、物部、葛城と云えども権力の中枢から消え去る事も考えられる。危機感を抱いた重臣は豹変し木梨軽皇子を快く思っていない穴穂皇子に近づいた。穴穂皇子も群臣、豪族に取り入り歓心を買った。
穴穂皇子は帝の三男ではあるが皇位に強い執着を持っていた。清廉潔白な木梨軽皇子の性格に比し穴穂皇子は清濁併せ呑む豪胆な気質であった。権謀術数を好み、人を陥いれる事に躊躇はなかった。弁舌は巧みで木梨軽皇子の訥弁と好対照であった。
木梨軽皇子は帝の血を色濃く受け継ぎ、穴穂皇子は猜疑心の強い祖母、石之媛の血を色濃く受け継いでいた。
穴穂皇子は皇子のまま一生を送る事に不満を露わにして群臣に語る事もあった。太子は度量に乏しいと貶し、裁可を公然と誹謗した。
先帝は野心に満ち権力欲に強い関心を持つ穴穂皇子を嫌い、清貧を尊び、国を憂える木梨軽皇子を信頼して後事を託し太子とした。そして、後々、皇位継承の争いを怖れ、穴穂皇子を臣に降し地方に追い遣る事を諮ったが后に哀願され思い止まったいきさつがあった。それ故、穴穂皇子は先帝に怨みを抱き、隙あらば太子の失脚を窺っていた。
太子の改革に不安を抱く群臣の話しを聞き、穴穂皇子は皇位に就く万に一つの機会が訪れたと思い太子を陥いれる謀議を重ねた。それは、穴穂皇子の祖父、大鷦鷯尊が太子の菟道稚郎子を宇治に追い遣り自害させて皇位に就き仁徳天皇となった先例に倣う事で有った。
帝が崩御して穴穂皇子の動きが慌ただしくなった。穴穂皇子が皇位に就く為には数々の難問があった。その第一は木梨軽皇子の失脚を謀る事であった。しかし、木梨軽皇子の政は権力におもねず公明で群臣の信頼を得ていた。尋常な方法で失脚させる事は叶うべくもなかった。国禁を犯したとの噂も皆無であった。
次に控える難問は例え木梨軽皇子が失脚しても帝の遺勅が有り、皇位には市辺押磐皇子が上るであろう。市辺押磐皇子が強く即位を拒めば次男の坂合黒彦皇子が皇位に就くであろう。
謀議に集う臣は第一の難問に挑み論を尽くした。殯斂宮に籠る太子に刺客を差し向ける事も論じ、毒を盛る方策も論じた。しかし、殯斂宮で先帝の亡がらと共に暮らす太子に刃を向ける非情は神を畏れぬ暴挙であり、群臣、豪族の信を得られるはずも無かった。下手をすれば努力は水泡に喫し市辺押磐皇子が皇位に就く事となろう。木梨軽皇子の即位を阻む方策を練ったが帝が崩御した今、穏便な方法は考えられなかった。
昔、大鷦鷯尊が大山守皇子の乱に乗じて太子の菟道稚郎子を追い詰め悩みぬいた太子は毒を仰いだと聞く。穴穂皇子の為に汚名を被り、犠牲になる皇子は居らぬか。謀議は何度も繰り返されたが有効な方策は思い付かなかった。
穴穂皇子も兵を挙げて太子を襲う愚行を敢行する凡庸な皇子では無かった。理由も無く襲えば皇位簒奪の汚名を被り、他の皇子は大義名分を得て兵を募り国内に乱を招く事を怖れた。
群臣と穴穂皇子は場所を選び、時を定めて、度々太子を陥いれる謀議を重ねた。殯斂宮に密かに見張りを置き太子を訪ねる諸臣、諸公子を監視させた。喪が明ける前日、同母妹の軽大娘が殯斂宮を訪れ、一夜を過ごしたとの報せが入った。穴穂皇子は太子を失脚させる絶好の口実を見出し、間髪を入れず噂を広める事を謀臣に示唆した。
太子を陥いれる口実が見つかった。太子と軽大娘は兄妹の間柄以上に親しく軽大娘は太子を慕い続けていた。軽大娘が殯斂宮を訪れた日は最後の夜でも有り太子は人を近付けなかった。軽大娘はその事を知らず太子の疲れを癒そうと自ら御膳を殯斂宮に運び二人して先帝に最後の別れを惜しみ思い出を語りあった。気が付けば白々と夜が明けていた。
翌日、太子が殯斂宮で軽大娘を犯したとの噂が風に乗って都を駆け巡った。この時代、異母妹を娶る事は許されたが、同母妹と交わる事は禁じられていた。噂は次第に現実味を帯びた話しにすり替わり事実となって広まった。国人は太子が禁を犯した事を謗った。
それも有ろう事か殯斂宮で犯したとの噂が広まり民も群臣も太子の人格を疑った。太子は軽大娘を気遣い、群臣を集めその様な事実は無いと神に誓ったが燃え上がった噂は消えなかった。
群臣は規を越えた太子を廃嫡して穴穂皇子が皇位に就くべきだと唱え始めた。策謀に長けた穴穂皇子はその言を一蹴して告げた、「先帝が木梨軽皇子を太子とお決めになった。帝の言葉は重く神の御声でもある、軽々しく太子を廃嫡する事は帝の遺勅に叛く事となる。」穴穂皇子は薄氷を踏む思いで木梨軽皇子の失脚を待った。無理になせば皇位簒奪の汚名を後世に残す事と為る。
大前宿禰は穴穂皇子を奉じる声が日々高まるのを聞き、群臣に申し述べた。「先帝がお隠れになって、臣も民も哀しみに耐え、善政を敷いた先帝を偲び、日々神に祈り喪に服している。まだ、哀しみの癒えない内に太子を差し置いて誰が皇位を継ぐべきか軽々に論ずるは皇位を冒涜する行いで有る。又、太子が禁を犯したとの噂を漏れ聞くが太子はきっぱりと否定された。臣たる者は太子を信じ太子にお仕えする事が臣の務めであると群臣を諌めた。」
それでもなを群臣は大前宿禰に詰め寄った。「禁を犯した噂は都に止まらず早晩各地に広まるであろう。真偽はともかく禁を犯した嫌疑のある太子が皇位に就けば国の秩序を乱した者を誰が裁くのか。既に噂は広まり諸国の豪族も民も太子を謗り、太子はこの国を統る事、叶わぬと存じ奉ります。」
物部の大前宿禰は穴穂皇子が有らぬ噂を広め太子の位を剥奪する機会を窺っている事を察し、太子に心を寄せる八釣白彦皇子の館を訪ね、太子の擁護と噂を打ち消す方策を話し合った。八釣白彦皇子は「打ち消せば打ち消すほど噂の真実味が増し益々太子は苦境に立つであろう。太子も沈黙を守り噂の消えるのを待っておられる。」と申し述べ妙案は得られなかった。
喪が明け太子の木梨軽皇子は先帝を恵我長野北陵(大阪府藤井寺市国府)に葬り允恭天皇の謚を奉った。そして、葬礼が終わり太子の木梨軽皇子は重臣、群臣を前にして即位の儀を先に延ばすと告げた。
大前宿禰は噂を打ち消す為に皇族から妃を娶る事を太子に勧め大草香皇子の妹幡梭皇女を請われては如何かと申し述べた。太子は即答を避けたが、妃を娶る事には同意した。
太子が妃を娶る事を聞き知った穴穂皇子は事を急がねば為らないと焦りを感じた。時を過ごせば木梨軽皇子の噂は立ち消えとなり、太子は自身の不徳を詫び先帝の意向に添って皇位を市辺押磐皇子に譲る事を考えているであろう。
先帝の允恭天皇は履中天皇の御子、市辺押磐皇子が皇位に就くべきと強く言い張り、皇位に就く事を固辞されたが市辺押磐皇子は九歳と幼く群臣に強く勧められて皇位に就いた。この様な経緯から先帝は木梨軽皇子を太子としたがいずれ市辺押磐皇子を皇位に就ける事を木梨軽皇子に託した。
穴穂皇子は混乱に乗じて皇位に上る謀略が潰え去る時が近いと感じた。市辺押磐皇子に皇位が移れば最早、皇位に上る機会は訪れないであろう。穴穂皇子は最後の手段として皇位簒奪の汚名を覚悟で密かに兵を集め、戦の備えとして鏃を大量に造らせた。
太子を信じて疑わない八釣白彦皇子は穴穂皇子が戦の準備に入ったと聞き知り、太子も戦の準備を急げと告げたが太子は取り合わなかった。
大前宿禰も聞き知り、兵を集め館の守りを固めよと説いたが穴穂皇子がその様な愚行を行うとは思えないと、進言を一蹴した。
困り果てた八釣白彦皇子は母、忍坂大中津姫に事の次第を告げこのままでは太子がむざむざと討たれる非を説き穴穂皇子が矛を収める様、説得を頼んだ。
忍坂大中津姫は兄弟が相争う事を聞き悲しみに打ちひしがれた。先帝は心根の優しい木梨軽皇子か、市辺押磐皇子が太子に相応しいとのお考えであったが市辺押磐皇子は皇位に就く事を固辞された。市辺押磐皇子は木梨軽皇子の清廉な気性に感じ入り太子の御位は木梨軽皇子が相応しいと帝に奏上し自ら身を引いた。
后の大中津姫は我が子を皇位に就けたいと望み帝を説いて嫡子の木梨軽皇子を太子に就けた。あの時、帝の思い通り市辺押磐皇子を太子とすればこの様な争いの芽は生じなかった。
太子に就いた木梨軽皇子は旧弊を破り重臣の横暴を諌め私利私欲に走る事を極端に嫌った。重臣の不満は募り太子の人望が薄い事も后には気掛かりであった。
悔やむ事が次々に脳裏に写り母として耐え難い苦難に心は覆われ哀しみが胸にこみ上げてきた。仲睦まじく育った木梨軽皇子と軽大娘の事も悔やまれた。何故、禁を犯したと人の謗りを受ける事になったのか。
木梨軽皇子がその様な禁を犯す皇子では無い事を解り過ぎるほど解っていた。謀略を以って太子を陥いれる人物の察しは付くが母として穴穂皇子を疑いたく無かった。
先帝を説き伏せ木梨軽皇子を太子に就けた事を悔やんでも悔やみ切れなかった。時を戻す事は叶わず八釣白彦皇子の申し出を静かに聞いた。
このままでは、木梨軽皇子は黙って穴穂皇子に討たれるであろう。母から見ても同じ兄弟とは思えない程、穴穂皇子は傲慢で野心が有り平然と人を陥いれる冷酷な心を持っていた。太子を殺る事を決断すれば躊躇う事なく実行するであろう。
穴穂皇子は常軌を逸し、則を越えても迷う事無く己の思いを遂げるであろう。何人と云えども前に立ちはだかる者を除き突き進むであろう。最早、皇位簒奪の汚名を被る事に躊躇いは無いであろう。
大中津姫は八釣白彦皇子に告げた。「兄弟として穴穂皇子の気性を知っているであろう、穴穂皇子に思い止まる様に説得を試みて聞き入れる相手では無い。母として兄弟が相い戦う事は身を割かれる程に心が痛み耐え難い程の哀しみであるが、神が我に与えた定めならば木梨軽皇子の命、救い給えと神に祈るのみ。木梨軽皇子に告げよ、正義を貫き戦の支度に滞る事無かれ。望むべくは穴穂皇子の命を救い給え。」
八釣白彦皇子は母、大中津姫の言葉を太子に伝え戦の支度を懇願した。太子も八釣白彦皇子の想いを聞き入れ戦の支度を承知した。しかし、太子に戦を挑む気持ちはなかった。
噂は帝に上る事を快く思わない臣が多数いる事の証であり、人徳の無い太子が皇位に上るべきでないとの思いを抱いていた。討たれる事を天命として受忍する覚悟であった。皇位は先帝の意向に沿って市辺押磐皇子に託そうと想った。
太子は八釣白彦皇子を同道して物部の大前宿禰の館を訪れ、後事を語った。「穴穂皇子は早晩、禁を犯した事を口実に兵を挙げ、館を襲うでありましょう。禁を破ったとの噂は我を陥る罠であろう、その噂が鎮まらないのは我が不徳の致すところであり最早皇位に上る資格も無く身の潔白を示す手立ても無い、皇位に執着せず速やかに討たれる事が混乱を避け身の潔白を示す方策であろう。我れが討たれた後、速やかに兵を挙げ穴穂皇子を討って、市辺押磐皇子を皇位に就ける事を願い奉る。」
八釣白彦皇子は太子の言葉に承服出来なかった。太子の言葉を遮り「既に穴穂皇子が兵を集め戦の準備も整い遠からず襲って来る事は明らかである。穴穂皇子は太子に背く意志を示した逆臣である。速やかに命を下し討ち取るべきである。事は急を要している。」
太子は八釣白彦皇子の言葉を遮り「戦を構える積もりは無い、戦となれば我ら兄弟の争いに巻き込まれ多数の兵が死に、争いは国を二分する乱となろう。戦を避ける為に討たれる覚悟は出来ている。八釣白彦皇子と大前宿禰にお願いしたい。何卒、市辺押磐皇子が皇位に就く様に取り計らって頂きたい。」
穴穂皇子は大泊瀬皇子と諮り兵を集め戦の備えをした。穴穂皇子が立ったと聞きつけ牢人が次々に館に馳せ参じ館は兵で充満した。兵は集い勢いを増し、喊声を挙げ、これ以上、兵を留め置く事は出来ない程、将も兵も力が漲り、新しい鏃(鉄の鏃)を試したい思いに駆られた。穴穂皇子は押し出される様に木梨軽皇子の館に向かって馬を駆けた。
大前宿禰は家人から穴穂皇子が兵を挙げた事を知らされ驚き慌てた。急ぎ家人に命じ門を固く閉ざさせた。そして、直ちに木梨軽皇子の館に赴き、「穴穂皇子が兵を挙げた。何れこの館に迫るであろう、何卒、この館を抜け出し石上神宮に立て籠もり再起願いたい。」と申し述べたが太子は退く事を拒んだ。
太子の身を案じて館に詰めていた八釣白彦皇子に、巻き添えには出来ぬ、直ちにこの館から立ち去れ。」と命じた。
太子は大前宿禰に向き直り「穴穂皇子がこの館を囲み我を引き渡せと要求があれば迷う事無く我を引き渡せ。」と申し告げた。
大前宿禰は去来穂別皇子(履中天皇)が突然、仲皇子に館を襲われ、近習の機転で難を逃れ石上神宮に籠って兵を集めた故事に倣い太子にこの館を抜け出し石上神宮に隠れる事を懇請したが太子は聞き入れ無かった。
大前宿禰は困惑した。穴穂皇子は太子の引き渡しを迫る事は必定である。引き渡せば太子の首をただちに刎ねるであろう。そして大前宿禰は義侠心の無い冷徹な男よ窮地におこたった太子を己の出世の為に穴穂皇子に引き渡したと陰で謗られる事は必定である。引き渡しを拒めば累は一族に及び戦を受けて立たねばならない。
大前宿禰は覚悟を定め太子に平伏して申し述べた。「事ここに至り、太子のお命は大前宿禰にお預け頂きたい。」大前宿禰は一計を案じ太子を説得して我が館にお移り願い、「暫くの間、泰然としてこの館にお留まり願いたい。」と申し述べた。
穴穂皇子の軍は木梨軽皇子の館に至り、囲みを固め、門を突き破る勢いを見せた。館は静まり返り反撃の様子を見せなかった。騒ぎに驚き家人が門を開いた。穴穂皇子の兵が館に乱入したが館には兵の姿はなかった。家人は将に告げた、「太子に戦のお考えはなくすでにこの館を立ち退いた。行方は我らも知らず。」
穴穂皇子は数人の兵に館をあらためさせた。兵は立ち返り家人の申す通り太子は館には居ないと告げた。逃げ去ったと知った穴穂皇子は直ちに兵を引き連れ大前宿禰の館に向った。
大前宿禰の館を囲み太子を差し出せと大声で告げた。館の内に兵のいる気配はなく、はやる兵を押し止めた。暫し留まる内に氷雨が降り出した。穴穂皇子は将に向かい大前宿禰の門の陰で雨宿りしようと門前に馬を進めた。
大前宿禰は館を囲む兵の喊声を聞き装束を改め、家人を控えさせて門を開き一人門前に立ち、穴穂皇子に拝礼して地に伏し、「太子はすでに皇子の地位をお捨てになり御位を返上されて臣下の館に入られました。願わくは大前宿禰の命と引き換えに木梨軽皇子のお命を御救い願い奉り給え。」と懇願した。
穴穂皇子は承知せず大前宿禰に告げた。「木梨軽皇子は国禁を犯した、禁を破れば罪人であり既に太子でもなく皇子でもない、罪人を匿う事は叛逆であり大前宿禰も太子の罪に連座する事となろう。速やかに太子を引き渡せ。」と命じた。
大前宿禰は、「この争いは兄弟の争いであり、太子は罪人では無い、禁を犯したとの噂は太子の即位を喜ばぬ輩が吹聴した事であり太子も強く否定している。まして、穴穂皇子に太子を裁く権限も理由も無い。敢えて、穴穂皇子が太子を捕らえ殺お考えなら大前宿禰にも覚悟が御座います。」
穴穂皇子は大前宿禰の身を賭した応対を受け、これ以上無理をすれば群臣の信頼を失うと思い太子の処断を大前宿禰に委ね兵を引いた。
木梨軽皇子は大前宿禰に累を及ぼした事を謝し、大前宿禰の勇気ある態度に感涙した。大前宿禰は太子に伊予に逃れる事を勧めたが太子は承知せず市辺押磐皇子の即位を大前宿禰に託し、穴穂皇子に怨みの言葉一つ遺さずこれが我が天命であると申されて静かに大前宿禰の館で自害して果てた。
大前宿禰は臣として太子の汚名を晴らす事も出来ず太子を死に追い遣った己を恥じた。
軽大娘は木梨軽皇子が自害して果てたと聞き、人目も憚らず涙を流し哀しみに打ちひしがれた。あの時、殯斂宮を訪ね無ければこの様な事は起こらなかった。悔やんでも悔やみ切れない哀しみが胸を覆い尽くし母の大中津姫の膝に泣き崩れた。
大中津姫は軽大娘を慰め、「穴穂皇子が皇位に就けば皇位を簒奪した罪人となり、罪人が皇位に上って是から先、国人を如何に裁けようか。人道に外れ良識の臣の人望も失い、何れ天誅が下るであろう。天の采配を静かに待ち続けよう。」と呟き共に涙を流し続けた。
朝議が開かれ群臣が次の帝を践祚する事となった。大前宿禰は先帝の意向でも有り、履中天皇の御子、市辺押磐皇子が帝に相応しいと述べた。大草香皇子も八釣白彦皇子も坂合黒彦皇子も賛同したが群臣は賛同しなかった。
市辺押磐皇子も木梨軽皇子と同様に清廉を旨として私利私欲を嫌い木梨軽皇子が推し進めようとした朝廷の改革を引き継ぐであろう。市辺押磐皇子が皇位に上れば木梨軽皇子を排斥した意味を失う事となる。群臣はこぞって大前宿禰に反論した。「禁を犯した太子に勇を奮って罪を咎め、太子を自害させた功に報い穴穂皇子が皇位に就くべきである。」
大前宿禰と八釣白彦皇子は論を尽くし群臣の説得に努めたが群臣は穴穂皇子を畏れ、二人の正論を聞き入れる事無く穴穂皇子を践祚した。
軽大娘は穴穂皇子が践祚されたと聞き自らの行いを悔やみ木梨軽皇子の元に旅立った。
大前宿禰は太子の死を賭した願いに報いる事が叶わず、己の力の無さを恥じ病と称して出仕を拒んだ。市辺押磐皇子も皇位継承の醜い争いを目の当たりにして沈黙を守った。
穴穂皇子は太子の木梨軽皇子が自ら命を絶った事により、皇位簒奪の汚名を被る事無く群臣が践祚して御位に就いた。
允恭十七年(四五四年)冬十二月十四日、穴穂皇子は即位し安康天皇(在位四五四年一二月一四日~四五六年八月九日)となった。帝は先例に倣い都を石上穴穂宮(奈良県天理市)に遷した。
注一 盟神探湯 ある人の是非・正邪を判断するための神明裁判。神に潔白を誓わせ煮えたぎる熱湯に手を入れて火傷をすれば邪、無事であれば正