皇位争乱

第八話 履中天皇
 仲皇子なかつみこの謀叛

 仁徳三十一年(四二七年)春一月、仁徳天皇は五十七歳で崩御され太子の去来穂別皇子いざほわけのみこ(後の履中りちゅう天皇)は喪の明けるのを待って、葛城の葦田あしだ宿禰(葛城曾都毘古そつびこの子)の媛、黒媛を召して妃にしようと思われた。

 黒媛に婚礼の日取りを告げるべく、同母弟の仲皇子なかつみこ(同腹の次男)を遣わした。仲皇子なかつみこは下心が有ったのか黄昏たそがれ時に黒媛の館におもむき太子と偽って館に入った。

 黒姫はこの様な時刻に太子が自ら館に訪ねて来た事に驚き、おそれ多い事として太子の尊顔を拝さなかった。

 黄昏時でもあり黒媛は灯りを用意させようとしたが仲皇子なかつみこは「婚礼の日取りを告げに来ただけで直ぐに立ち帰る故、灯りは不要。」と云って婚礼の日取りを告げた。

 侍女も気を利かせて退くと仲皇子なかつみこは黒姫を静かに抱き寄せた。黒姫は瞳を閉じ仲皇子なかつみこのなすがままに身を委ねて犯された。

 その時、仲皇子なかつみこはうかつにも戯れの最中に手に巻いていた鈴を落し気づかずに黒媛の寝室に置き忘れて館に帰り鈴の無いのに気づいたが時すでに遅かった。

 数日の後、太子は黒媛の館を訪ね、寝室で見慣れぬ鈴を見つけた。太子は鈴を振り珍しい鈴だとつぶやいた。それを見た黒媛は婚礼の日取りを告げに来られた日にこの寝所で戯れの時を過ごしましたがその時、落とされた鈴で御座いますと申し述べた。

 この一事で太子は仲皇子なかつみこが太子と偽り黒媛を犯した事を知った。太子は欺かれたと知ったがしばらくこの事は伏せて置こう、何れ仲皇子なかつみこの背信を問い質し処断せねばならないと思った。

 太子は何事も無かった様に仲皇子なかつみこに接していたが、仲皇子なかつみこは黒媛を犯した事を太子が薄々感じている事を太子の態度から感じ取れた。

 太子は鈴を見て黒媛に問い質し、黒媛は驚いて事の次第を知ったであろう。太子は黒媛が犯された事を知りながら妃としたが腹中では憎悪の炎を燃やしいずれ処断されるであろうと思った。

 仲皇子なかつみこは仁徳天皇の后、葛城曾都毘古そつびこの姫、石之媛いわのひめの二男として生まれた。石之媛いわのひめは太子の去来穂別皇子いざほわけのみこを溺愛し仲皇子なかつみこかえりみる事はなかった。乳母に育てられた仲皇子なかつみこは長じて後も太子から家人の如く扱われ、不満が鬱積うっせきしていた。

 石之媛いわのひめ仲皇子なかつみこゆがんだ性質を嫌い、愛情を注ぐ事は無かった。この様な境遇に育った仲皇子なかつみこは二男で有る事を呪い内心では太子と母を憎み続けていた。黒媛を犯したのも太子をねたむ心の顕れで有った。

 太子を殺める計画を練った事も有ったが帝が健在でも有り恐ろしくて実行に移せなかったが帝も母の石之媛いわのひめもすでに没し、仲皇子なかつみこが怖れる者は居なかった。兄の太子が皇位に就く前に殺し皇位を奪おうとの考えが芽生え胸の内で膨らんできた。

 仲皇子なかつみこは日頃から不満を持ち権力を夢見る豪族、群臣に甘言をろうして密かに語らい兵を集めた。叛乱を企てる一団は盟約を交わして仲間を集め、その数は数百に達した。

 一団は仲皇子なかつみこを総帥に密会を重ね、太子の館を襲う日を新嘗祭にいなめさい(五穀の収穫を祝う宮中祭祀)の酒宴の後と取り決めた。この日は宮中で新嘗祭が執り行われ酒が振る舞われる。

 太子も館に大勢の人を招き酔いつぶれるまで酒宴は続き深更しんこう(真夜中)に及ぶ時も有った。警護の兵も振る舞い酒に酔い館の警戒は大幅に緩む事を知っていた。仲皇子なかつみこはこの日に狙いを定め夜更けた頃、各自、太子の館に向えとげきを飛ばした。

 仲皇子なかつみこが予想した通り、宮中で新嘗祭が執り行われ酒が振る舞われた後を受けて、太子の館で酒宴が催された。酒宴は例年の如く深夜に及び太子も酔いつぶれて寝いってしまった。館を警護する兵も祝い酒に酔い警戒が手薄に為っていた。

 館の様子を窺っていた仲皇子なかつみこの一団は館の喧騒が鎮まった頃を見計らい警護の緩んだ隙を突いて太子の館を襲った。警護の兵は成す術も無く斬り殺され、外門は難なく撃ち破られた。

 館では夜更けに突如として来襲した人馬の喊声かんせい宿直とのいは何事かと外をうかがった。外には兵が満ち太子の館は賊に囲まれていた。賊が大声で叫び交わす言葉から仲皇子なかつみこの謀叛と知れた。

 宿直は大声を発し急を告げたが館に何の備えも無く、突然の事でも有り、為す術を知らなかった。取り敢えず内門を堅く閉ざし、眠りに就いた家人を叩き起こし、太子に急を知らせた。

 太子は最初、仲皇子なかつみこの謀叛が信じられなかった。昨夜は新嘗祭にいなめさいの宴を催し、したたかに酒を飲み過ぎまだ酩酊状態で頭も体も宙を舞っていた。

 太子は空ろな眼差しで家人の報を聞いても現実の事として捉えられなかった。目を開けると頭の芯が痛み朦朧もうろうとして睡魔が襲った。立ち上がろうとしたが足も腰も定まらずその場に倒れて眠り込んだ。

 居合わせた平群へぐり木莵宿禰つくのすくね物部大前宿禰もののべのおおまえのすくねそれに阿知直あちのあたいの三人は急ぎ馬を引き出し、酔いつぶれた太子を馬の背に担ぎ上げ、夜陰にまぎれ行く手も定めず、夜の闇を駆けた。

 仲皇子なかつみこは太子が逃げた事を知らず、囲いを固め館に火を放ち、逃げ出す者は一人残らず斬り殺せと命じた。館は燃え上がり一晩中燃え続けた。

 太子は難波高津宮なにわのたかつのみや(大阪市東区)を逃れ埴生坂はにゅうざか(大阪府羽曳野市野々上)に至ってようやく目覚め、ここは何処かと仰せられた。阿知直あちのあたい仲皇子なかつみこが叛いた事、館に火を掛けられ炎上した事を申し述べた。

 太子はやっと正気に戻り埴生坂から三人に促されて難波を望み見た。遠くに夜空を赤く染めて燃え上がる宮を見て驚き事態の急変を知った。

 太子はやっと現実に立ち戻り仲皇子なかつみこが叛いたと驚き騒ぐ家人の声を思い出した。仲皇子なかつみこがなぜ叛いたのか太子に思い当たる節は考えつかなかった。同腹の弟として気を許し気安く物を云い付けて来た。黒媛の事も弟で有るが故に事を表沙汰にせず伏せて来た。太子には何が不満なのか見当も付かなかった。

 しかし、現実は周到に準備した仲皇子なかつみこによって、一夜にして館を焼かれ、辛うじて身一つで落ち延びる己が信じられなかった。幸か不幸か太子の身辺に木莵宿禰つくのすくね物部大前宿禰もののべのおおまえのすくねそれに阿知直あちのあたいが付き従っていた。

 三人は太子をお守りして大坂の山口(穴虫峠)を越えて大和に至る道を取ったが行く手に大勢の兵が伏せているとの報せを受け、止む無く当岐麻道たぎまみち(竹内街道)迂回うかいし大和を目指した。

 木莵宿禰つくのすくね大前宿禰おおまえのすくねは先駈けして大和の豪族に急を知らせ、兵を集めさせた。阿知直あちのあたいは太子に付き従って石上神宮いそのかみのかむみやを目指して山中を進んだ。

 大前宿禰おおまえのすくねが豪族の兵を従え馳せ戻り警護の体制が整い始めた。山を出て数里も進まぬ内に行く手に多数の兵がいる気配を感じた。

 大前宿禰おおまえのすくねは討手か仲皇子なかつみこに加担する豪族の兵であろうと思い応戦の準備を命じて偵察の兵を出した。栗林の中に兵が潜んでいるとの報せが入った。

 大前宿禰おおまえのすくねは静かに兵を動かし戦闘態勢を整え栗林の兵に告げた。「太子の軍で有る刃向かう者は反逆者と見做みなし討ち取る。何れの豪族の兵か名を名乗り出でよ、さもなくば矢を射掛ける。」と告げた。

 栗林に潜む兵は倭直吾子籠やまとのあたいあごこの兵であった。吾子籠あごこ仲皇子なかつみこから事前に企てを聞き、精兵数百を従え太子の館に向かう途中で有った。思いも寄らず太子の軍に遭遇し驚きを隠せなかった。

 引くに引けず進み出ると大前宿禰おおまえのすくねに「何者か」と誰何すいかされ倭直吾子籠やまとのあたいあごこであると名乗ったが気が動転していた。そして、大前宿禰おおまえのすくねに引き立てられ太子の前に突き出された。

 吾子籠あごこは恐れ入りかしこまって「太子の館で異変があったと聞き兵を集めて都に向かう途中です。兵を伏せたのは追っての兵ではないかと疑い様子を窺がっておりました。」と長々と太子に釈明を繰り返したが理に適うはずもなく窮地に立った。

 太子は吾子籠あごこ仲皇子なかつみこに肩入れするつもりで兵を備えていた事は明らかであり討ち取る事は容易たやすい事であったが今、吾子籠あごこの兵と争そい兵を失うより味方に付けたかった。

 吾子籠あごこも叛逆の罪を問われ、討ち取られる事を覚悟して必死に弁明し太子の軍にお加え願いたいと懇願している。そして、二心が無い事を示す為に、妹の日野媛ひのひめを奉ると申し出て許しを乞うた。

 日野媛ひのひめは都で評判の媛であった。太子も一度会って見たいと思っていた。その媛を忠誠の証として差し出すのであれば間違いは無いであろうと思い吾子籠あごこを許した。

 太子は吾子籠あごこの兵を合わせて、石上神宮いそのかみのかむみやに至った。そこに、弟君の瑞歯別皇子みつはわけのみこ(同腹の三男、後の反正天皇)が駆けつけて来た。

 瑞歯別皇子みつはわけのみこは六尺を超える大男であったが気が弱く武を好まなかった。仲皇子なかつみこが太子の館を襲ったとの知らせを聞き、我が身に災難が及ぶ事を怖れ、館を抜け出し、逃れる途中の山中で吾子籠あごこの兵に遭遇し討手と間違われ誰何すいかされた。身分を名乗り太子が石上神宮に向かったと聞き庇護を求めて駆けつけて来たのであった。

 しかし、太子は仲皇子なかつみこ瑞歯別皇子みつはわけのみこを脅し、弟を刺客に仕立てて寄越したのではと疑い会う事を拒んだ。瑞歯別皇子みつはわけのみこは取次ぎの兵の言動から太子に疑われている事を知り太子に会って心情を話したいと懇請し、太子もたっての願いを受け警護の兵を固めて会見に臨んだ。

 太子は瑞歯別皇子みつはわけのみこが庇護を求めて石上神宮いそのかみのかむみやに来た事を信用せず二心がないなら都に戻り仲皇子なかつみこを殺せと迫った。瑞歯別皇子みつはわけのみこは「仲皇子なかつみこおそれて此処に逃げて来た私に二心のあろうはずが無い。」と哀願したが太子は聞き入れず、木莵宿禰つくのすくねを検使として共に難波に戻り仲皇子なかつみこを討てと命じた。

 瑞歯別皇子みつはわけのみこは太子に申し述べた。「疑心は晴れず、今、太子の命が下り、忠誠の証しを示す為に、兄を殺すは非道なれど、無道を除くは神もお許しあろう。」と太子に命ぜられた木莵宿禰つくのすくねを伴い難波の宮に立ち返った。

 仲皇子なかつみこは焼け落ちた太子の館を調べ太子のかばねを探させたがどの死体も黒こげに焼けただれ見分けは付かなかった。兵の報告では逃げ出した者も居らず太子は館と共に焼け死んだと思った。

 数日の後、群臣にはかり即位の日取りを決めようと思った。太子が決めた婚礼の日に黒媛を娶って后に据え、太子に味方した群臣を遠ざけ天下を統べる算段を頭に描いた。都を何処に定めるか、妃に誰を選ぶか、大臣を誰にするかこれから取り掛かるべき事が次々に頭に浮かんだ。

 難波の宮に戻った瑞歯別皇子みつはわけのみこ仲皇子なかつみこを討ち取る手だてを思い巡らしたが方策は思い付かなかった。仲皇子なかつみこの館に駆け込み太子は生きていると告げその隙に刺殺する事も考えたが実行する勇気はなかった。会えば身がすくみ、有無を言わさず仲皇子なかつみこは即刻、首をはねるで有ろう。思案に呉れて木莵宿禰つくのすくねに「何か良い方策はないか。」と問うた。

 瑞歯別皇子みつはわけのみこは六尺を超える偉丈夫であったが非力で仲皇子なかつみこに立ち向かっても適う相手では無かった。木莵宿禰つくのすくねも承知しており策を授けた。「仲皇子なかつみこの近習に余り評判の良くない刺領巾さしひれと云う者がいる。この者は欲深くよこしまな心を持ち仲皇子なかつみこに取り入って近習になったと聞く、この者にまいないを贈り褒賞をちらつかせて殺させれば良い。」

 瑞歯別皇子みつはわけのみこは人を介して刺領巾さしひれに会い、綿、絹を与え、木莵宿禰つくのすくねに授けられた策の通り刺領巾さしひれに申し聞かせた。「太子は生きており数日の後に討伐の軍を発し仲皇子なかつみこを誅するであろう、明日にも軍を発するやも知れぬ。太子の到着前に刺領巾さしひれが太子に代わり仲皇子なかつみこの首をはねて太子に捧げ奉れば戦の手柄は刺領巾さしひれ一人のものと為る。この話しを忠義顔で仲皇子なかつみこに告げても間に合わぬ、仲皇子なかつみこに味方するはずであった倭直吾子籠やまとのあたいあごこも太子の軍に加わった。太子が陣所と定めた石上神宮いそのかみのかむみやには続々と兵が集まり討伐の意気は高い。刺領巾さしひれが出世を望むなら又と無い機会が訪れた。刺領巾さしひれは忠義の士と聞いた。仲皇子なかつみこは皇位簒奪さんだつたくらんだ逆賊である。神を冒涜ぼうとくした行いには何れ天誅てんちゅうが降る。刺領巾さしひれは正義の為に主を殺すも、その行いは非道にあらず、太子に代わり天誅を加えたまでの事。太子に忠義を尽くし逆賊を刺領巾さしひれ一人でちゅうすれば戦と為らず太子は刺領巾さしひれの功を賞賛するであろう。諸国の豪族も刺領巾さしひれの勇気を褒め称え競って交誼こうぎを求めるであろう。太子は兵馬を失わず乱をしずめた刺領巾さしひれの功に報い臣として取り立て領地を与え、褒賞は望みのままに叶うであろう。刺領巾さしひれよ、太子が軍を進発させる前に忠義とは何か深く考えよ。この機会を逃せば仲皇子なかつみこと共に逆賊の一人として汚名おめいを被り斬られる事となろう。刺領巾さしひれほどの豪の者が逆賊の一人として命を落とすのは忍び難い。刺領巾さしひれを忠義の勇者と見込んで全てを明かした。仲皇子なかつみこの隙をうかがい太子に代わって天誅を加えよ。事を急がねば功は逃げ去って永遠に掴み取る事は叶うまい。」

 刺領巾さしひれは貧農の生まれでは有るが、並外れた体躯を持ち豪族に兵として志願し兵卒の一人に加えられた。生まれを卑下し出世を夢見た。争いが有れば真っ先に駈けた。まず目立たねばならない、卑屈なまでに上司に仕え、出世の為なら手段を選ばなかった。変わり身が早く、節操は無く、友を裏切り、人をだまし、まいないを送り、主にへつらい、同僚をそし虎視眈々こしたんたんと出世の糸口を探しやっとの思いで仲皇子なかつみこの近習の地位を得た。

 近習となって刺領巾さしひれは人を見下し、虎の威を借りて傲慢な態度を見せた。仲皇子なかつみこが太子の館を襲う時も率先して兵を指揮し真っ先に馬を馳せた。太子の館が焼け落ち多数の家人と共に太子も焼け死んだと思っていた。

 仲皇子なかつみこが帝位に就けば、刺領巾さしひれの昇進は間違い無いと確信していた。高位高官に就き媛を娶り、館を構える事を夢見た。瑞歯別皇子みつはわけのみこの話しを聞けば、焼け死んだはずの太子は逃げ延びて石上神宮いそのかみのかむみやで兵を集め倭直吾子籠やまとのあたいあごこも寝返って太子に味方したと聞かされた。

 太子が健在ならば兵を募り仲皇子なかつみこの館を襲うは必定である。もはや仲皇子なかつみこに勝ち目は無い、情勢は急変した。仲皇子なかつみこに仕えていると間違い無く死が待ち受けている。

 瑞歯別皇子みつはわけのみこの申し出は最悪の事態を抜けだし我に幸運を運んで来たと思った。大臣も夢では無い、冷酷な刺領巾さしひれ瑞歯別皇子みつはわけのみこの甘い言葉を信じ迷う事無く喜んで承諾し、仲皇子なかつみこを刺殺する機会を待った。

 太子は死んだと疑わぬ仲皇子なかつみこは剣もびず悠然とかわやに向って歩を進めていた。近くに警護の兵も居らず仲皇子なかつみこは無防備で厠に入った。刺領巾さしひれはこの時を逃さず矛を構えて厠の前で待ち、出てきた皇子を一撃のもとに刺殺した。仲皇子なかつみこは声も発せず息絶えた。

 刺領巾さしひれ仲皇子なかつみこの首をね、衣を剥ぎ取り、首を包んでその場を離れた。家人に見咎みとがめられる事もなく館を抜け出し瑞歯別皇子みつはわけのみこの待つ隠れ家に急いだ。

 瑞歯別皇子みつはわけのみこ刺領巾さしひれが差し出した仲皇子なかつみこの首を見て嘔吐した、血に染まり見開いた目が不気味に我を睨んでいる様に感じた。顔から血の気が引き全身に震えを覚えた。胸の動悸が止まらず胸はむかつき嘔吐を繰り返した。直ぐさま横を向き震える手で木莵宿禰つくのすくねに手渡した。

 木莵宿禰つくのすくねは落ち着き払って首を確かめ用意した樽に仲皇子なかつみこの首を納めた。納め終わって木莵宿禰つくのすくねは皮肉な笑いを顔に表わし刺領巾さしひれに向き直った。

 木莵宿禰つくのすくね刺領巾さしひれの手柄を誉め、「褒美は望み次第と為ろう、今から何を望むかじっくり考えて申し出よ。」と告げた。瑞歯別皇子みつはわけのみこもやっと正気を取り戻し刺領巾さしひれの手柄を誉め太子に奏上すると告げた。

 木莵宿禰つくのすくね瑞歯別皇子みつはわけのみこ刺領巾さしひれを促し石上神宮いそのかみのかむみやに待つ太子に一刻も早く知らせるべく道を急いだ。道すがら刺領巾さしひれはどの様に処遇して呉れるのか度々聞いた。

 主をあやめた罪の意識は微塵も感じられなかった。瑞歯別皇子みつはわけのみこは領地を授かり大臣の座に就く事も可能であると告げ刺領巾さしひれを喜ばせた。

 木莵宿禰つくのすくねはそっと瑞歯別皇子みつはわけのみこに告げた。「一度裏切った者は再び裏切る、信頼に足る人物では無い、太子の元に復命する前に殺し将来の憂いを拭う。」

 山中で野営した時、刺領巾さしひれに大臣の位を授け、山代の地を与える真似まね事を行い、手柄の褒美として大杯を授けた。大杯に並々と酒が注がれ瑞歯別皇子みつはわけのみこは一気に飲み干せと命じた。飲む程に大杯は刺領巾さしひれの顔を覆い最後の一滴を飲み干した時、杯に顔を覆われた。

 木莵宿禰つくのすくねはこの時を待っていた。剣を抜き放ち大喝して刺領巾さしひれに告げた。「我が君の為に大功あれど、主君を刺殺した、此の罪は重く神も許すまじ。」と云って刺領巾さしひれの首をねた。

 履中りちゅう元年(四二八年)春二月一日、去来穂別皇子いざほわけのみこは即位し十七代履中りちゅう天皇(在位四二八年二月一日~四三二年三月一五日)となられた。帝は先帝を百舌烏耳原中陵もずのみはらのなかのみささぎ(大阪府堺市大仙町)に葬り仁徳天皇のおくりなを奉り、都を磐余いわれの稚桜宮わかさくらのみや(奈良県桜井市)に遷した。

 帝は祖父の応神天皇が日向の泉長媛いずみのながひめを妃に迎え、生ませた皇女、草香くさか幡梭皇女はたびのひめみこを召し皇后とした。仲皇子なかつみこと争う原因となった黒媛は飯豊皇女いひとよのこうじょ市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこ御馬皇子みまのみこを生んだ。

 即位して二年の歳月が過ぎた頃、帝は体調を崩し床に就く日々が続いた。帝は病の床にし皇位継承に争いが絶えない事を憂いた。神功じんぐう皇后の御代には忍熊おしくま皇子の乱が有り、仁徳天皇の御代には大山守皇子おおやまもりのみこの乱が有り、我が代には仲皇子なかつみこの乱が有った。三代に亘り皇位継承の争いが続いた。このまま、太子も定めず黄泉の国に赴けば再び皇位継承の争いが起こるで有ろうと思った。

 しかし、后の幡梭皇女はたびのひめみこに皇子は授からず、妃の黒媛に授かった嫡子の市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこはまだ二才に満たぬ孺子わくご(乳飲み子)であった。

 帝は思い悩んだ末に、履中りちゅう二年(四二九年)春一月四日、凡庸ぼんようでは有るが人徳も有り、威風堂々とした同母弟の瑞歯別皇子みつはわけのみこ(後の反正はんぜい天皇)を太子と定め、仲皇子なかつみこを討った功に報いた。(兄弟で皇位を継承した始まり)

 そして、平群木菟宿禰つくすくね、蘇我満智宿禰まちすくね、物部伊莒弗大連いこふつおおむらじ円大使主つぶらのおおおみらに国事を執らせ、諸国に国史ふみひと(書記官)を置き事を記して諸国の情勢を報告させた。

 履中りちゅう五年(四三二年)春三月十五日、帝は病の床に伏し、三十四歳の若さで崩御された。皇太子の瑞歯別皇子みつはわけのみこは喪に服し、先帝を百舌烏耳原南陵もずのみみはらのみなみのみささぎ(大阪府堺市石津ヶ丘)に葬り履中りちゅう天皇のおくりなを奉った。

 翌年春一月二日、即位して反正天皇(在位四三三年一月二日~四三七年一月二三日)となられ、先例にならい都を丹比柴籬宮たじひのしばがきのみや(大阪府松原市上田 柴籬しばがき神社)に遷した。

 帝は皇后を立てずに和珥木事わにこごとの娘である津野媛を皇夫人きさきとし、津野媛の妹、弟媛を妃とした。津野媛は香火姫皇女かいのひめみこ円皇女つぶらのひめみこを弟媛は財皇女たからのひめみこ高部皇子たかべのみこを生んだ。(皇后を立てなかったのは十三代成務天皇と十八代反正天皇のみである。)

 帝は体躯に恵まれ六尺を超える偉丈夫であった。又、まれに見る歯並びの美しい端正な貴公子であった。しかし、帝位に上る事を露ほども考えていなかった帝はまつりごとの何たるかも知らず、又、知ろうともせず成長し自ら事を成す気概も理念も持ち合わせていなかった。

 元より、帝に上る野心も無く命ぜられるままに仲皇子なかつみこ刺領巾さしひれに殺させた。この功により思いも因らぬ帝の位が転がり込んできた。即位して政は先帝が任命した平群木菟宿禰つくすくね、蘇我満智宿禰まちすくね、物部伊莒弗大連いこふつおおむらじ円大使主つぶらのおおおみらに国事を委ねた。

 帝の御代は気候も安定し五穀は実り、豪族の争いも絶え、凡庸な帝に不平も不満も起こらなかった。嵐の様な血生臭い皇位継承の争いも嘘の様に過ぎ去り、民は天下泰平を謳歌した。帝は在位四年(四一〇年)で何の事績も残さず春一月二十三日、突然崩御された。帝の御子、高部皇子たかべのみこは幼くして亡くなり、太子を定めていなかった。

 履中りちゅう天皇の御子、市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこはまだ九歳と幼く、群臣の平群、蘇我、物部、葛城は天津日継あまつひつぎ(皇位継承)の皇子に帝の同母弟の若子宿禰命わくごのすくねのみことを推挙し説得すべく館を訪れた。

 若子宿禰命わくごのすくねのみことは御脚が不自由である事を理由に天下を統べる事は出来ないと固辞され、「市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこはまだ幼いとは云へ利発で思量深く将来を嘱望される皇子である。市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこを即位させ群臣が皇子を守り立てて皇子の成長を待てば如何か。」と申し述べた。

 若子宿禰命わくごのすくねのみことは仁徳天皇の皇后、石之媛いわのひめの第四子ではあるが御脚が不自由でもあり書を好み典籍を精読して今までまつりごとに一切関わりを持たなかった。

 履中りちゅう天皇と仲皇子なかつみこの争いにも一切関わらず、館から出る事も無く忍坂大中津姫にさかおおなかつひめの助けを借りて館の内を散策するのが楽しみであった。花を愛で木々に親しみ小鳥のさえずりを聞いて心安らかな日々を過ごしていた。

 民の暮らしも風の便りに聞き、生臭い政争に巻き込まれる事も無く、大中津姫おおなかつひめと仲睦まじく安寧な日々を楽しんでいた。

 御脚の不自由を我慢すれば生活に何の不自由も無く好きな書物に没頭出来た。表舞台から去り人々から忘れ去られた生活に満足を覚えていた。

 この度、群臣が困り果て、平群、蘇我、物部、葛城の有力な群臣が打ち揃って館に現れ何時もは静かな館が突然騒がしくなり、何事かと驚き会見に臨んだ若子宿禰命わくごのすくねのみことは群臣が居ずまいを正して皇位に就く事を要請した事に驚きを感じた。

 若子宿禰命わくごのすくねのみことは御脚が不自由でとても帝の大任は果たせないと強く辞退された。群臣は引き下がらず申し述べた。「皇位は神武以来、帝の血筋が連綿と受け継ぐ神聖な御位であり、今、仁徳天皇の血筋は若子宿禰命わくごのすくねのみこと大草香皇子おおくさかのみこ(仁徳天皇の妃、日向、髪長媛の御子)それに履中りちゅう天皇の皇子市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの御三人となられました。市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこはご承知の如く九歳と幼く帝の大任は務め難く、大草香皇子おおくさかのみこは長く病に伏し皇位を継ぎ政務を全うするお体ではございません。何卒、皇統を守る為、万難を排して即位をお願い申し上げます。」と懇請した。

 若子宿禰命わくごのすくねのみことは固辞したが連日の様に平群、蘇我、物部、葛城の有力な群臣が打ち揃って館に現れ、固辞する若子宿禰命わくごのすくねのみことに受諾を懇願した。

 若子宿禰命わくごのすくねのみことは静かな生活が突然乱され困惑し、困り果てて床に就き病と称したが群臣は館を去る気配けはいを見せなかった。后の大中津姫おおなかつひめも群臣に度々、哀願され困り果てた。

 群臣の申す通り皇位継承者は仁徳天皇の皇子、大草香皇子おおくさかのみこ若子宿禰命わくごのすくねのみことそれに幼い市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの御三人であった。市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこは九歳と幼く、大草香皇子おおくさかのみこは長く病床にあった。大中津姫おおなかつひめは群臣の申し出はもっともな事と思い、若子宿禰命わくごのすくねのみことを説得して見ると群臣に告げた。それは、冬十二月外は雪が舞い嵐の様に木枯らしが吹き荒れる寒い冬の日であった。

 若子宿禰命わくごのすくねのみことは寒さが脚を突き刺し鈍痛に耐えて床にしていた。后の大中津姫おおなかつひめは薬湯をささげ持って若子宿禰命わくごのすくねのみこと枕頭ちんとうに坐し即位を受諾する事を勧めた。

 若子宿禰命わくごのすくねのみことは床から身を起こして目を閉じたまま返事を返さなかった。暫く沈黙が続き風が板戸を打ち寒さが一段と増した様に感じた。后は目を閉じて身じろぎもしない若子宿禰命わくごのすくねのみことに、意を決っして申し述べた。

 「皇位を空位にして日は過ぎ、まつりごとは滞り、群臣も民も難渋しております。皇位を継承する重責を担うのは大王きみ大草香皇子おおくさかのみこそれに幼い市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの御三人しかおられません。大草香皇子おおくさかのみこは病に臥し大任は果たせないと辞退なされております。大王きみは幼い市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこを立てて群臣に補佐を命ぜられましたが、それでは蘇我氏と物部氏の間に必ずや争いが生じ群臣も二手に別れ対立を深めましょう。幼い市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこも争いに巻き込まれ身を危険にさらす事と為りましょう。朝廷の対立は国中に広がり国は乱れ各地に争いが起こり民は苦しみます。皇統を守る為、館を出て民の為に天下を統べ、書物で学んだ古の聖王の世をお作り下さいませ。御脚の不自由は今まで通りお助け申し上げます。」

 若子宿禰命わくごのすくねのみことは聞き入れず大中津姫おおなかつひめに背を向けて書を読み始めた。凡そ四、五剋こく(一剋は約一時間)に及んだが若子宿禰命わくごのすくねのみことは后に一言も声を掛けなかった。后も退かず身じろぎもせず寒さに耐えた。また一段と風が強まり庭の木々を激しく揺らし板戸を鳴らした。椀の薬湯は氷水の如く冷たく冷えた。ささげ持った后の腕はしびれ、小刻みに震えて椀の水がこぼれ落ちて后の腕を濡らした。冷たい薬湯に濡れた腕は氷の様に冷たく刺す様な痛みを感じた。それでも后は身じろぎもせず若子宿禰命わくごのすくねのみことを説得した。

 若子宿禰命わくごのすくねのみことは書に眼を落としても后が気になり文字を眼で追っているに過ぎなかった。背中で后の気配を感じ后の躰を心配していた。敷物も敷かず寒さに身をさらす后の身体を気遣い、「薬湯を置き火に当たれ。」と促したが后はご返事を頂きたいと譲ら無かった。

 若子宿禰命わくごのすくねのみことも困り果て、后の身を挺した懇請に根負けして后に告げた。「皇位は重くこの身で容易たやすく就く事は出来ないと思い強く固辞して来たが、他に皇位を継ぐべき皇子も居らず、群臣が請い願う事ももっともである。」と仰せに為り即位を承知された。

 后は固辞する若子宿禰命わくごのすくねのみことを説得してやっと承知された事を確かめ、その場に倒れ込んだ。寒さに震え暫し立ち上がれ無かった。

 群臣は喜び直ぐさま若子宿禰命わくごのすくねのみことに再拝し天皇の璽付みしるしを捧げ奉った。冬十二月一日、若子宿禰命わくごのすくねのみことは即位して允恭いんぎょう天皇(在位四三八年一二月一日~四五四年一月一四日)と為られ、先帝を百舌烏耳原北陵もずのみみはらのきたのみささぎ(大阪府堺市北三国ヶ丘町)に葬り反正はんぜい天皇のおくりなを奉り、都を遠飛鳥宮とおつあすかのみや(奈良県高市郡明日香村)に遷した。

 天皇即位を祝し新羅の王が貢物を積んだ船八十一艘を献上した。新羅の大使、金波鎮漢紀武コンハチカンキム(金は氏姓 波鎮は新羅の爵位 漢紀は新羅の王の称号 武は名)は薬草の処方に詳しく、様々な薬草を持参して鍼灸しんきゅうの技をもたらし帝の病をお治しした。

 帝は神武天皇以来、万世を重ね多数の氏姓うじかばねが生まれた。世の乱れに乗じ氏姓を偽って、由緒ある氏姓に連なる高い氏を名乗り、世を乱している。国の秩序をただす為に盟神探湯くがたち(注一)を行なうと仰せられた。

 甘樫あまかしの丘に大釜を据え、煮えたぎる湯に手を入れても偽り無き者は無事であり。偽った者は手が焼けただれた。以後、氏姓を偽る者は居なくなった。


 注一 

盟神探湯くがたち ある人の是非・正邪を判断するための神明裁判。神に潔白を誓わせ煮えたぎる熱湯に手を入れて火傷をすれば邪、無事であれば正


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