皇位争乱
第八話 履中天皇
仲皇子の謀叛
仁徳三十一年(四二七年)春一月、仁徳天皇は五十七歳で崩御され太子の去来穂別皇子(後の履中天皇)は喪の明けるのを待って、葛城の葦田宿禰(葛城曾都毘古の子)の媛、黒媛を召して妃にしようと思われた。
黒媛に婚礼の日取りを告げるべく、同母弟の仲皇子(同腹の次男)を遣わした。仲皇子は下心が有ったのか黄昏時に黒媛の館に赴き太子と偽って館に入った。
黒姫はこの様な時刻に太子が自ら館に訪ねて来た事に驚き、畏れ多い事として太子の尊顔を拝さなかった。
黄昏時でもあり黒媛は灯りを用意させようとしたが仲皇子は「婚礼の日取りを告げに来ただけで直ぐに立ち帰る故、灯りは不要。」と云って婚礼の日取りを告げた。
侍女も気を利かせて退くと仲皇子は黒姫を静かに抱き寄せた。黒姫は瞳を閉じ仲皇子のなすがままに身を委ねて犯された。
その時、仲皇子はうかつにも戯れの最中に手に巻いていた鈴を落し気づかずに黒媛の寝室に置き忘れて館に帰り鈴の無いのに気づいたが時すでに遅かった。
数日の後、太子は黒媛の館を訪ね、寝室で見慣れぬ鈴を見つけた。太子は鈴を振り珍しい鈴だと呟いた。それを見た黒媛は婚礼の日取りを告げに来られた日にこの寝所で戯れの時を過ごしましたがその時、落とされた鈴で御座いますと申し述べた。
この一事で太子は仲皇子が太子と偽り黒媛を犯した事を知った。太子は欺かれたと知ったが暫この事は伏せて置こう、何れ仲皇子の背信を問い質し処断せねばならないと思った。
太子は何事も無かった様に仲皇子に接していたが、仲皇子は黒媛を犯した事を太子が薄々感じている事を太子の態度から感じ取れた。
太子は鈴を見て黒媛に問い質し、黒媛は驚いて事の次第を知ったであろう。太子は黒媛が犯された事を知りながら妃としたが腹中では憎悪の炎を燃やしいずれ処断されるであろうと思った。
仲皇子は仁徳天皇の后、葛城曾都毘古の姫、石之媛の二男として生まれた。石之媛は太子の去来穂別皇子を溺愛し仲皇子を顧る事はなかった。乳母に育てられた仲皇子は長じて後も太子から家人の如く扱われ、不満が鬱積していた。
石之媛も仲皇子の歪んだ性質を嫌い、愛情を注ぐ事は無かった。この様な境遇に育った仲皇子は二男で有る事を呪い内心では太子と母を憎み続けていた。黒媛を犯したのも太子を妬む心の顕れで有った。
太子を殺める計画を練った事も有ったが帝が健在でも有り恐ろしくて実行に移せなかったが帝も母の石之媛もすでに没し、仲皇子が怖れる者は居なかった。兄の太子が皇位に就く前に殺し皇位を奪おうとの考えが芽生え胸の内で膨らんできた。
仲皇子は日頃から不満を持ち権力を夢見る豪族、群臣に甘言を弄して密かに語らい兵を集めた。叛乱を企てる一団は盟約を交わして仲間を集め、その数は数百に達した。
一団は仲皇子を総帥に密会を重ね、太子の館を襲う日を新嘗祭(五穀の収穫を祝う宮中祭祀)の酒宴の後と取り決めた。この日は宮中で新嘗祭が執り行われ酒が振る舞われる。
太子も館に大勢の人を招き酔いつぶれるまで酒宴は続き深更(真夜中)に及ぶ時も有った。警護の兵も振る舞い酒に酔い館の警戒は大幅に緩む事を知っていた。仲皇子はこの日に狙いを定め夜更けた頃、各自、太子の館に向えと檄を飛ばした。
仲皇子が予想した通り、宮中で新嘗祭が執り行われ酒が振る舞われた後を受けて、太子の館で酒宴が催された。酒宴は例年の如く深夜に及び太子も酔いつぶれて寝いってしまった。館を警護する兵も祝い酒に酔い警戒が手薄に為っていた。
館の様子を窺っていた仲皇子の一団は館の喧騒が鎮まった頃を見計らい警護の緩んだ隙を突いて太子の館を襲った。警護の兵は成す術も無く斬り殺され、外門は難なく撃ち破られた。
館では夜更けに突如として来襲した人馬の喊声に宿直は何事かと外を窺った。外には兵が満ち太子の館は賊に囲まれていた。賊が大声で叫び交わす言葉から仲皇子の謀叛と知れた。
宿直は大声を発し急を告げたが館に何の備えも無く、突然の事でも有り、為す術を知らなかった。取り敢えず内門を堅く閉ざし、眠りに就いた家人を叩き起こし、太子に急を知らせた。
太子は最初、仲皇子の謀叛が信じられなかった。昨夜は新嘗祭の宴を催し、したたかに酒を飲み過ぎまだ酩酊状態で頭も体も宙を舞っていた。
太子は空ろな眼差しで家人の報を聞いても現実の事として捉えられなかった。目を開けると頭の芯が痛み朦朧として睡魔が襲った。立ち上がろうとしたが足も腰も定まらずその場に倒れて眠り込んだ。
居合わせた平群の木莵宿禰と物部大前宿禰それに阿知直の三人は急ぎ馬を引き出し、酔いつぶれた太子を馬の背に担ぎ上げ、夜陰に紛れ行く手も定めず、夜の闇を駆けた。
仲皇子は太子が逃げた事を知らず、囲いを固め館に火を放ち、逃げ出す者は一人残らず斬り殺せと命じた。館は燃え上がり一晩中燃え続けた。
太子は難波高津宮(大阪市東区)を逃れ埴生坂(大阪府羽曳野市野々上)に至ってようやく目覚め、ここは何処かと仰せられた。阿知直は仲皇子が叛いた事、館に火を掛けられ炎上した事を申し述べた。
太子はやっと正気に戻り埴生坂から三人に促されて難波を望み見た。遠くに夜空を赤く染めて燃え上がる宮を見て驚き事態の急変を知った。
太子はやっと現実に立ち戻り仲皇子が叛いたと驚き騒ぐ家人の声を思い出した。仲皇子がなぜ叛いたのか太子に思い当たる節は考えつかなかった。同腹の弟として気を許し気安く物を云い付けて来た。黒媛の事も弟で有るが故に事を表沙汰にせず伏せて来た。太子には何が不満なのか見当も付かなかった。
しかし、現実は周到に準備した仲皇子によって、一夜にして館を焼かれ、辛うじて身一つで落ち延びる己が信じられなかった。幸か不幸か太子の身辺に木莵宿禰と物部大前宿禰それに阿知直が付き従っていた。
三人は太子をお守りして大坂の山口(穴虫峠)を越えて大和に至る道を取ったが行く手に大勢の兵が伏せているとの報せを受け、止む無く当岐麻道(竹内街道)に迂回し大和を目指した。
木莵宿禰と大前宿禰は先駈けして大和の豪族に急を知らせ、兵を集めさせた。阿知直は太子に付き従って石上神宮を目指して山中を進んだ。
大前宿禰が豪族の兵を従え馳せ戻り警護の体制が整い始めた。山を出て数里も進まぬ内に行く手に多数の兵がいる気配を感じた。
大前宿禰は討手か仲皇子に加担する豪族の兵であろうと思い応戦の準備を命じて偵察の兵を出した。栗林の中に兵が潜んでいるとの報せが入った。
大前宿禰は静かに兵を動かし戦闘態勢を整え栗林の兵に告げた。「太子の軍で有る刃向かう者は反逆者と見做し討ち取る。何れの豪族の兵か名を名乗り出でよ、さもなくば矢を射掛ける。」と告げた。
栗林に潜む兵は倭直吾子籠の兵であった。吾子籠は仲皇子から事前に企てを聞き、精兵数百を従え太子の館に向かう途中で有った。思いも寄らず太子の軍に遭遇し驚きを隠せなかった。
引くに引けず進み出ると大前宿禰に「何者か」と誰何され倭直吾子籠であると名乗ったが気が動転していた。そして、大前宿禰に引き立てられ太子の前に突き出された。
吾子籠は恐れ入り畏まって「太子の館で異変があったと聞き兵を集めて都に向かう途中です。兵を伏せたのは追っての兵ではないかと疑い様子を窺がっておりました。」と長々と太子に釈明を繰り返したが理に適うはずもなく窮地に立った。
太子は吾子籠が仲皇子に肩入れするつもりで兵を備えていた事は明らかであり討ち取る事は容易い事であったが今、吾子籠の兵と争そい兵を失うより味方に付けたかった。
吾子籠も叛逆の罪を問われ、討ち取られる事を覚悟して必死に弁明し太子の軍にお加え願いたいと懇願している。そして、二心が無い事を示す為に、妹の日野媛を奉ると申し出て許しを乞うた。
日野媛は都で評判の媛であった。太子も一度会って見たいと思っていた。その媛を忠誠の証として差し出すのであれば間違いは無いであろうと思い吾子籠を許した。
太子は吾子籠の兵を合わせて、石上神宮に至った。そこに、弟君の瑞歯別皇子(同腹の三男、後の反正天皇)が駆けつけて来た。
瑞歯別皇子は六尺を超える大男であったが気が弱く武を好まなかった。仲皇子が太子の館を襲ったとの知らせを聞き、我が身に災難が及ぶ事を怖れ、館を抜け出し、逃れる途中の山中で吾子籠の兵に遭遇し討手と間違われ誰何された。身分を名乗り太子が石上神宮に向かったと聞き庇護を求めて駆けつけて来たのであった。
しかし、太子は仲皇子が瑞歯別皇子を脅し、弟を刺客に仕立てて寄越したのではと疑い会う事を拒んだ。瑞歯別皇子は取次ぎの兵の言動から太子に疑われている事を知り太子に会って心情を話したいと懇請し、太子もたっての願いを受け警護の兵を固めて会見に臨んだ。
太子は瑞歯別皇子が庇護を求めて石上神宮に来た事を信用せず二心がないなら都に戻り仲皇子を殺せと迫った。瑞歯別皇子は「仲皇子を畏れて此処に逃げて来た私に二心のあろうはずが無い。」と哀願したが太子は聞き入れず、木莵宿禰を検使として共に難波に戻り仲皇子を討てと命じた。
瑞歯別皇子は太子に申し述べた。「疑心は晴れず、今、太子の命が下り、忠誠の証しを示す為に、兄を殺すは非道なれど、無道を除くは神もお許しあろう。」と太子に命ぜられた木莵宿禰を伴い難波の宮に立ち返った。
仲皇子は焼け落ちた太子の館を調べ太子の屍を探させたがどの死体も黒こげに焼けただれ見分けは付かなかった。兵の報告では逃げ出した者も居らず太子は館と共に焼け死んだと思った。
数日の後、群臣に諮り即位の日取りを決めようと思った。太子が決めた婚礼の日に黒媛を娶って后に据え、太子に味方した群臣を遠ざけ天下を統べる算段を頭に描いた。都を何処に定めるか、妃に誰を選ぶか、大臣を誰にするかこれから取り掛かるべき事が次々に頭に浮かんだ。
難波の宮に戻った瑞歯別皇子は仲皇子を討ち取る手だてを思い巡らしたが方策は思い付かなかった。仲皇子の館に駆け込み太子は生きていると告げその隙に刺殺する事も考えたが実行する勇気はなかった。会えば身が竦み、有無を言わさず仲皇子は即刻、首を刎るで有ろう。思案に呉れて木莵宿禰に「何か良い方策はないか。」と問うた。
瑞歯別皇子は六尺を超える偉丈夫であったが非力で仲皇子に立ち向かっても適う相手では無かった。木莵宿禰も承知しており策を授けた。「仲皇子の近習に余り評判の良くない刺領巾と云う者がいる。この者は欲深く邪な心を持ち仲皇子に取り入って近習になったと聞く、この者に賄を贈り褒賞をちらつかせて殺させれば良い。」
瑞歯別皇子は人を介して刺領巾に会い、綿、絹を与え、木莵宿禰に授けられた策の通り刺領巾に申し聞かせた。「太子は生きており数日の後に討伐の軍を発し仲皇子を誅するであろう、明日にも軍を発するやも知れぬ。太子の到着前に刺領巾が太子に代わり仲皇子の首を刎て太子に捧げ奉れば戦の手柄は刺領巾一人のものと為る。この話しを忠義顔で仲皇子に告げても間に合わぬ、仲皇子に味方するはずであった倭直吾子籠も太子の軍に加わった。太子が陣所と定めた石上神宮には続々と兵が集まり討伐の意気は高い。刺領巾が出世を望むなら又と無い機会が訪れた。刺領巾は忠義の士と聞いた。仲皇子は皇位簒奪を企んだ逆賊である。神を冒涜した行いには何れ天誅が降る。刺領巾は正義の為に主を殺すも、その行いは非道にあらず、太子に代わり天誅を加えたまでの事。太子に忠義を尽くし逆賊を刺領巾一人で誅すれば戦と為らず太子は刺領巾の功を賞賛するであろう。諸国の豪族も刺領巾の勇気を褒め称え競って交誼を求めるであろう。太子は兵馬を失わず乱を鎮めた刺領巾の功に報い臣として取り立て領地を与え、褒賞は望みのままに叶うであろう。刺領巾よ、太子が軍を進発させる前に忠義とは何か深く考えよ。この機会を逃せば仲皇子と共に逆賊の一人として汚名を被り斬られる事となろう。刺領巾ほどの豪の者が逆賊の一人として命を落とすのは忍び難い。刺領巾を忠義の勇者と見込んで全てを明かした。仲皇子の隙を窺い太子に代わって天誅を加えよ。事を急がねば功は逃げ去って永遠に掴み取る事は叶うまい。」
刺領巾は貧農の生まれでは有るが、並外れた体躯を持ち豪族に兵として志願し兵卒の一人に加えられた。生まれを卑下し出世を夢見た。争いが有れば真っ先に駈けた。まず目立たねばならない、卑屈なまでに上司に仕え、出世の為なら手段を選ばなかった。変わり身が早く、節操は無く、友を裏切り、人を騙し、賄を送り、主に諂い、同僚を謗り虎視眈々と出世の糸口を探しやっとの思いで仲皇子の近習の地位を得た。
近習となって刺領巾は人を見下し、虎の威を借りて傲慢な態度を見せた。仲皇子が太子の館を襲う時も率先して兵を指揮し真っ先に馬を馳せた。太子の館が焼け落ち多数の家人と共に太子も焼け死んだと思っていた。
仲皇子が帝位に就けば、刺領巾の昇進は間違い無いと確信していた。高位高官に就き媛を娶り、館を構える事を夢見た。瑞歯別皇子の話しを聞けば、焼け死んだはずの太子は逃げ延びて石上神宮で兵を集め倭直吾子籠も寝返って太子に味方したと聞かされた。
太子が健在ならば兵を募り仲皇子の館を襲うは必定である。もはや仲皇子に勝ち目は無い、情勢は急変した。仲皇子に仕えていると間違い無く死が待ち受けている。
瑞歯別皇子の申し出は最悪の事態を抜けだし我に幸運を運んで来たと思った。大臣も夢では無い、冷酷な刺領巾は瑞歯別皇子の甘い言葉を信じ迷う事無く喜んで承諾し、仲皇子を刺殺する機会を待った。
太子は死んだと疑わぬ仲皇子は剣も佩びず悠然と厠に向って歩を進めていた。近くに警護の兵も居らず仲皇子は無防備で厠に入った。刺領巾はこの時を逃さず矛を構えて厠の前で待ち、出てきた皇子を一撃のもとに刺殺した。仲皇子は声も発せず息絶えた。
刺領巾は仲皇子の首を刎ね、衣を剥ぎ取り、首を包んでその場を離れた。家人に見咎められる事もなく館を抜け出し瑞歯別皇子の待つ隠れ家に急いだ。
瑞歯別皇子は刺領巾が差し出した仲皇子の首を見て嘔吐した、血に染まり見開いた目が不気味に我を睨んでいる様に感じた。顔から血の気が引き全身に震えを覚えた。胸の動悸が止まらず胸はむかつき嘔吐を繰り返した。直ぐさま横を向き震える手で木莵宿禰に手渡した。
木莵宿禰は落ち着き払って首を確かめ用意した樽に仲皇子の首を納めた。納め終わって木莵宿禰は皮肉な笑いを顔に表わし刺領巾に向き直った。
木莵宿禰は刺領巾の手柄を誉め、「褒美は望み次第と為ろう、今から何を望むかじっくり考えて申し出よ。」と告げた。瑞歯別皇子もやっと正気を取り戻し刺領巾の手柄を誉め太子に奏上すると告げた。
木莵宿禰は瑞歯別皇子と刺領巾を促し石上神宮に待つ太子に一刻も早く知らせるべく道を急いだ。道すがら刺領巾はどの様に処遇して呉れるのか度々聞いた。
主を殺めた罪の意識は微塵も感じられなかった。瑞歯別皇子は領地を授かり大臣の座に就く事も可能であると告げ刺領巾を喜ばせた。
木莵宿禰はそっと瑞歯別皇子に告げた。「一度裏切った者は再び裏切る、信頼に足る人物では無い、太子の元に復命する前に殺し将来の憂いを拭う。」
山中で野営した時、刺領巾に大臣の位を授け、山代の地を与える真似事を行い、手柄の褒美として大杯を授けた。大杯に並々と酒が注がれ瑞歯別皇子は一気に飲み干せと命じた。飲む程に大杯は刺領巾の顔を覆い最後の一滴を飲み干した時、杯に顔を覆われた。
木莵宿禰はこの時を待っていた。剣を抜き放ち大喝して刺領巾に告げた。「我が君の為に大功あれど、主君を刺殺した、此の罪は重く神も許すまじ。」と云って刺領巾の首を刎ねた。
履中元年(四二八年)春二月一日、去来穂別皇子は即位し十七代履中天皇(在位四二八年二月一日~四三二年三月一五日)となられた。帝は先帝を百舌烏耳原中陵(大阪府堺市大仙町)に葬り仁徳天皇の謚を奉り、都を磐余稚桜宮(奈良県桜井市)に遷した。
帝は祖父の応神天皇が日向の泉長媛を妃に迎え、生ませた皇女、草香の幡梭皇女を召し皇后とした。仲皇子と争う原因となった黒媛は飯豊皇女、市辺押磐皇子、御馬皇子を生んだ。
即位して二年の歳月が過ぎた頃、帝は体調を崩し床に就く日々が続いた。帝は病の床に臥し皇位継承に争いが絶えない事を憂いた。神功皇后の御代には忍熊皇子の乱が有り、仁徳天皇の御代には大山守皇子の乱が有り、我が代には仲皇子の乱が有った。三代に亘り皇位継承の争いが続いた。このまま、太子も定めず黄泉の国に赴けば再び皇位継承の争いが起こるで有ろうと思った。
しかし、后の幡梭皇女に皇子は授からず、妃の黒媛に授かった嫡子の市辺押磐皇子はまだ二才に満たぬ孺子(乳飲み子)であった。
帝は思い悩んだ末に、履中二年(四二九年)春一月四日、凡庸では有るが人徳も有り、威風堂々とした同母弟の瑞歯別皇子(後の反正天皇)を太子と定め、仲皇子を討った功に報いた。(兄弟で皇位を継承した始まり)
そして、平群木菟宿禰、蘇我満智宿禰、物部伊莒弗大連、円大使主らに国事を執らせ、諸国に国史(書記官)を置き事を記して諸国の情勢を報告させた。
履中五年(四三二年)春三月十五日、帝は病の床に伏し、三十四歳の若さで崩御された。皇太子の瑞歯別皇子は喪に服し、先帝を百舌烏耳原南陵(大阪府堺市石津ヶ丘)に葬り履中天皇の謚を奉った。
翌年春一月二日、即位して反正天皇(在位四三三年一月二日~四三七年一月二三日)となられ、先例に倣い都を丹比柴籬宮(大阪府松原市上田 柴籬神社)に遷した。
帝は皇后を立てずに和珥木事の娘である津野媛を皇夫人とし、津野媛の妹、弟媛を妃とした。津野媛は香火姫皇女と円皇女を弟媛は財皇女と高部皇子を生んだ。(皇后を立てなかったのは十三代成務天皇と十八代反正天皇のみである。)
帝は体躯に恵まれ六尺を超える偉丈夫であった。又、希に見る歯並びの美しい端正な貴公子であった。しかし、帝位に上る事を露ほども考えていなかった帝は政の何たるかも知らず、又、知ろうともせず成長し自ら事を成す気概も理念も持ち合わせていなかった。
元より、帝に上る野心も無く命ぜられるままに仲皇子を刺領巾に殺させた。この功により思いも因らぬ帝の位が転がり込んできた。即位して政は先帝が任命した平群木菟宿禰、蘇我満智宿禰、物部伊莒弗大連、円大使主らに国事を委ねた。
帝の御代は気候も安定し五穀は実り、豪族の争いも絶え、凡庸な帝に不平も不満も起こらなかった。嵐の様な血生臭い皇位継承の争いも嘘の様に過ぎ去り、民は天下泰平を謳歌した。帝は在位四年(四一〇年)で何の事績も残さず春一月二十三日、突然崩御された。帝の御子、高部皇子は幼くして亡くなり、太子を定めていなかった。
履中天皇の御子、市辺押磐皇子はまだ九歳と幼く、群臣の平群、蘇我、物部、葛城は天津日継(皇位継承)の皇子に帝の同母弟の若子宿禰命を推挙し説得すべく館を訪れた。
若子宿禰命は御脚が不自由である事を理由に天下を統べる事は出来ないと固辞され、「市辺押磐皇子はまだ幼いとは云へ利発で思量深く将来を嘱望される皇子である。市辺押磐皇子を即位させ群臣が皇子を守り立てて皇子の成長を待てば如何か。」と申し述べた。
若子宿禰命は仁徳天皇の皇后、石之媛の第四子ではあるが御脚が不自由でもあり書を好み典籍を精読して今まで政に一切関わりを持たなかった。
履中天皇と仲皇子の争いにも一切関わらず、館から出る事も無く忍坂大中津姫の助けを借りて館の内を散策するのが楽しみであった。花を愛で木々に親しみ小鳥のさえずりを聞いて心安らかな日々を過ごしていた。
民の暮らしも風の便りに聞き、生臭い政争に巻き込まれる事も無く、大中津姫と仲睦まじく安寧な日々を楽しんでいた。
御脚の不自由を我慢すれば生活に何の不自由も無く好きな書物に没頭出来た。表舞台から去り人々から忘れ去られた生活に満足を覚えていた。
この度、群臣が困り果て、平群、蘇我、物部、葛城の有力な群臣が打ち揃って館に現れ何時もは静かな館が突然騒がしくなり、何事かと驚き会見に臨んだ若子宿禰命は群臣が居ずまいを正して皇位に就く事を要請した事に驚きを感じた。
若子宿禰命は御脚が不自由でとても帝の大任は果たせないと強く辞退された。群臣は引き下がらず申し述べた。「皇位は神武以来、帝の血筋が連綿と受け継ぐ神聖な御位であり、今、仁徳天皇の血筋は若子宿禰命と大草香皇子(仁徳天皇の妃、日向、髪長媛の御子)それに履中天皇の皇子市辺押磐皇子の御三人となられました。市辺押磐皇子はご承知の如く九歳と幼く帝の大任は務め難く、大草香皇子は長く病に伏し皇位を継ぎ政務を全うするお体ではございません。何卒、皇統を守る為、万難を排して即位をお願い申し上げます。」と懇請した。
若子宿禰命は固辞したが連日の様に平群、蘇我、物部、葛城の有力な群臣が打ち揃って館に現れ、固辞する若子宿禰命に受諾を懇願した。
若子宿禰命は静かな生活が突然乱され困惑し、困り果てて床に就き病と称したが群臣は館を去る気配を見せなかった。后の大中津姫も群臣に度々、哀願され困り果てた。
群臣の申す通り皇位継承者は仁徳天皇の皇子、大草香皇子と若子宿禰命それに幼い市辺押磐皇子の御三人であった。市辺押磐皇子は九歳と幼く、大草香皇子は長く病床にあった。大中津姫は群臣の申し出は尤もな事と思い、若子宿禰命を説得して見ると群臣に告げた。それは、冬十二月外は雪が舞い嵐の様に木枯らしが吹き荒れる寒い冬の日であった。
若子宿禰命は寒さが脚を突き刺し鈍痛に耐えて床に臥していた。后の大中津姫は薬湯を捧げ持って若子宿禰命の枕頭に坐し即位を受諾する事を勧めた。
若子宿禰命は床から身を起こして目を閉じたまま返事を返さなかった。暫く沈黙が続き風が板戸を打ち寒さが一段と増した様に感じた。后は目を閉じて身じろぎもしない若子宿禰命に、意を決っして申し述べた。
「皇位を空位にして日は過ぎ、政は滞り、群臣も民も難渋しております。皇位を継承する重責を担うのは大王と大草香皇子それに幼い市辺押磐皇子の御三人しかおられません。大草香皇子は病に臥し大任は果たせないと辞退なされております。大王は幼い市辺押磐皇子を立てて群臣に補佐を命ぜられましたが、それでは蘇我氏と物部氏の間に必ずや争いが生じ群臣も二手に別れ対立を深めましょう。幼い市辺押磐皇子も争いに巻き込まれ身を危険に曝す事と為りましょう。朝廷の対立は国中に広がり国は乱れ各地に争いが起こり民は苦しみます。皇統を守る為、館を出て民の為に天下を統べ、書物で学んだ古の聖王の世をお作り下さいませ。御脚の不自由は今まで通りお助け申し上げます。」
若子宿禰命は聞き入れず大中津姫に背を向けて書を読み始めた。凡そ四、五剋(一剋は約一時間)に及んだが若子宿禰命は后に一言も声を掛けなかった。后も退かず身じろぎもせず寒さに耐えた。また一段と風が強まり庭の木々を激しく揺らし板戸を鳴らした。椀の薬湯は氷水の如く冷たく冷えた。捧げ持った后の腕は痺れ、小刻みに震えて椀の水がこぼれ落ちて后の腕を濡らした。冷たい薬湯に濡れた腕は氷の様に冷たく刺す様な痛みを感じた。それでも后は身じろぎもせず若子宿禰命を説得した。
若子宿禰命は書に眼を落としても后が気になり文字を眼で追っているに過ぎなかった。背中で后の気配を感じ后の躰を心配していた。敷物も敷かず寒さに身を晒す后の身体を気遣い、「薬湯を置き火に当たれ。」と促したが后はご返事を頂きたいと譲ら無かった。
若子宿禰命も困り果て、后の身を挺した懇請に根負けして后に告げた。「皇位は重くこの身で容易く就く事は出来ないと思い強く固辞して来たが、他に皇位を継ぐべき皇子も居らず、群臣が請い願う事も尤もである。」と仰せに為り即位を承知された。
后は固辞する若子宿禰命を説得してやっと承知された事を確かめ、その場に倒れ込んだ。寒さに震え暫し立ち上がれ無かった。
群臣は喜び直ぐさま若子宿禰命に再拝し天皇の璽付を捧げ奉った。冬十二月一日、若子宿禰命は即位して允恭天皇(在位四三八年一二月一日~四五四年一月一四日)と為られ、先帝を百舌烏耳原北陵(大阪府堺市北三国ヶ丘町)に葬り反正天皇の謚を奉り、都を遠飛鳥宮(奈良県高市郡明日香村)に遷した。
天皇即位を祝し新羅の王が貢物を積んだ船八十一艘を献上した。新羅の大使、金波鎮漢紀武(金は氏姓 波鎮は新羅の爵位 漢紀は新羅の王の称号 武は名)は薬草の処方に詳しく、様々な薬草を持参して鍼灸の技をもたらし帝の病をお治しした。
帝は神武天皇以来、万世を重ね多数の氏姓が生まれた。世の乱れに乗じ氏姓を偽って、由緒ある氏姓に連なる高い氏を名乗り、世を乱している。国の秩序を糾す為に盟神探湯(注一)を行なうと仰せられた。
甘樫の丘に大釜を据え、煮えたぎる湯に手を入れても偽り無き者は無事であり。偽った者は手が焼け爛れた。以後、氏姓を偽る者は居なくなった。
注一
盟神探湯 ある人の是非・正邪を判断するための神明裁判。神に潔白を誓わせ煮えたぎる熱湯に手を入れて火傷をすれば邪、無事であれば正