皇位争乱

第十七話
 女帝誕生

 馬子は日を置かず次の帝を即位させ群臣の動揺を押さえねばならなかった。次の帝は馬子の意のままに動く帝を立て、国の支配は馬子が握れる皇子が相応しい。馬子は次々に皇子の顔と性格を思い浮かべた。

 厩戸皇子うまやどのみこ(用明天皇の第二子母は穴穂部あなほべ皇女、後の聖徳太子)彦人大兄皇子ひこひとのおおえのみこ(敏達天皇と広姫の御子)、竹田皇子(敏達天皇と炊屋姫尊かしきやひめのみことの御子)、の三皇子を思い描いた。

 彦人大兄皇子ひこひとのおおえのみこは物部との一件も有り固辞するであろうと思うが、皇子は見識も優れ帝に上れば蘇我に敵対する事は明らかであり、崇峻すしゅん天皇の二の舞となろう。

 竹田皇子はどうか、皇子は馬子の姪で敏達天皇の皇后炊屋姫尊かしきやひめのみことの御子で皇后は竹田皇子を皇位に就ける事を強く望んでいた。だが、竹田皇子は病弱でまだ十七歳と若く皇位に就けるには若すぎた。

 厩戸皇子うまやどのみこは父、用明天皇の薫陶を受け仏法に深く帰依しており、丁未ていびの変では馬子に仏の加護を身をもって示し、劣勢な戦を勝利に導いた。馬子が最も信頼出来る皇子で有ったが皇子は余りにも聡明過ぎた。穏やかな中に毅然たる態度が見え馬子と云えどもたじろぐ事がしばしばであった。

 厩戸皇子うまやどのみこは神仏を尊び仏を敬い奉る事は馬子の比では無かった。生れ乍らの仏の化身と噂され誕生には数々の逸話が残されている。

 その一つに、欽明天皇の三十二年(五七一年)正月元旦、生母、穴穂部あなほべ皇女の夢の中に仏が立ち現れしばしの間、腹を借りたいと申され承知すると仏が口中に飛び込む夢を見た。八ケ月の後、腹中から声が聞こえ皇女は懐妊した事を知った。

 穴穂部あなほべ皇女は一年後の敏達元年(五七二年)正月元旦に厩戸うまやどの前で陣痛も知らず仏舎利を握り締めた御子を産み落とされた。それゆえ厩戸皇子うまやどのみこと呼ばれた。

 厩戸皇子うまやどのみこは六歳にして経を読み、長じて後、高麗こまの僧慧慈えじの仏弟子となって仏法を極め又、覚哿かくかを師として儒教を学び数々の経典を渉猟しょうりょうして仏法と儒教を修めた。

 一方の馬子は守屋を倒し、国を治める基本を神から仏法に替えて権力の座を不動のものとした。

 仏法を国の統治の中心に据えた馬子はそれ故に仏法を修めた厩戸皇子うまやどのみこを師と仰ぎ深く心服していた。厩戸皇子うまやどのみこも仏法を護持する馬子に信頼を寄せ、廃仏を唱える守屋に抗し、率先して馬子に味方し戦を勝利に導いた。

 厩戸皇子うまやどのみこが帝に上れば仏法は広まりこの国に二度と廃仏の動きは封じられるであろう。厩戸皇子うまやどのみこは群臣の人望も篤く皇子が即位すれば崇峻すしゅん天皇をしいした事も打ち消されるであろう。群臣や民の動揺を鎮め安らげるには最も相応しい帝であろう。

 しかし、馬子には一抹の不安が頭をぎった。皇子は様々な学を究め見識豊かで真理を見極める聡明な人格を備えていた。時が経てば蘇我氏を排斥する動きを見せないとも限らない。

 馬子はおよそ二百五十年の昔、神功じんぐう皇后の時代に思いを馳せた。仲哀ちゅうあい天皇の突然の崩御に際し、始祖、武内宿禰は帝の后、神功じんぐう皇后を補佐しまだ生まれて間も無い誉田別尊ほむたわけのみこと(応神天皇)を太子に推戴した。

 帝の遺児、忍熊おしくま皇子は反旗を翻し宿禰に立ち向かったが宿禰は謀略を以って反乱を鎮圧し、神功じんぐう皇后を補佐して国政の実権を握った。長命であった宿禰は応神天皇にも仕え大和は任那みまなを支配して国は栄えた。時代が酷似している事に思い到った。

 敏達天皇が疫病に罹り突然崩御され、後を受けて即位した用命天皇も若干そこばくも無く崩御された。我が手で皇位に就けた崇峻すしゅん天皇は忍熊おしくま皇子にたとえられる。

 帝をしいした今、神功じんぐう皇后の御代に倣い敏達天皇の后、炊屋姫尊かしきやひめのみことを帝位に就け政情の安定を図る事が蘇我にとって最も得策であろう。

 女帝なら天皇親政の野望も抱かず馬子も御し易い。太子には厩戸皇子うまやどのみこを据えれば女帝に不満を持つ群臣の反感を和らげる事が出来る。

 馬子は権力を保持し実質的な国の支配者として最も蘇我に都合が良く群臣の反感を招かない人選として太子に厩戸皇子うまやどのみこを選んだ。

 厩戸皇子うまやどのみこも太子の地位では天皇親政に走らず、蘇我と気脈を通じた仲でも有り、馬子と厩戸皇子うまやどのみこの仲は古の宿禰と誉田別尊ほむたわけのみことの関係に倣う事になる。

 馬子は群臣とはかり敏達天皇の皇后で蘇我氏の血を引く炊屋姫尊かしきやひめのみこと(幼名、額田部皇女ぬかたべのひめみこに百官が上奏文を奉った。

 炊屋姫尊かしきやひめのみこと安閑あんかん天皇の后、春日山田皇女が即位を固辞した故事に倣い即位を固くお断りになった。百官は三度炊屋姫尊かしきやひめのみことを訪ね即位を奏上し、炊屋姫尊かしきやひめのみことは三度目にお受けになった。

 炊屋姫尊かしきやひめのみことは崇峻五年冬十二月八日崇峻すしゅん天皇の殺害から一ヶ月後に豊浦宮とゆらのみやで即位し三十三代推古すいこ天皇(在位五九三年十二月八日~六二八年三月七日)となられた。即ち、日本最初の女帝となった。御歳、三十九歳であった。

 女帝は先帝を馬子の命ずるまま日を置かず先帝が自ら築いた寿陵じゅりょう倉梯岡上陵くらはしのおかのえのみささぎ(奈良県桜井市大字倉橋)に葬り崇峻すしゅん天皇のおくりなを奉った。そして、都を豊浦宮とゆらのみや に遷された。(奈良県高市郡明日香村)

 炊屋姫尊かしきやひめのみことは欽明天皇と蘇我堅塩姫きたしひめの娘で蘇我馬子の姪であった。厩戸皇子うまやどのみこ(聖徳太子)の父、用明天皇とは実兄妹であった。

 推古すいこ天皇は嫡子の竹田皇子たけだのみこを太子にと望んだが馬子は病弱を理由に許さなかった。女帝は馬子の指図に従い厩戸豊聡耳皇子うまやどのとよとみみのみこ(聖徳太子、厩戸皇子うまやどのみこ、馬子の孫)を立てて太子とされ国政のすべてを厩戸皇子うまやどのみこと馬子に委ねた。

 大陸では後漢の十二代皇帝、霊帝の時、黄巾の乱を切っ掛けに後漢が滅び三国の時代、五湖十六国の時代と争乱は続き、国が滅んでは興り実に四百年の間、戦乱の世が打ち続いた。崇峻三年(五八九年)隋を建国した楊堅ようけん(文帝)は南朝の陳を滅ぼして争乱に終止符を打ち南北を統一した。

 天下を統一した隋の文帝は高句麗こうくりが隋の地を侵した事を口実に推古すいこ六年(五九八年)三十万の大軍を擁して高句麗こうくりを攻めた。しかし、隋は疫病には勝てず国辱の戦となり敗退した。この戦を境に高句麗こうくりは南進を中止し隋に備えた。

 新羅は高句麗こうくりが隋に攻められ北の脅威が去ると任那みまなの地に攻め込んだ。任那みまなは辛うじて命脈を保っており新羅の進攻に抗しきれなかった。

 崇峻すしゅん天皇の四年(五九一年)大伴連くい紀男麻呂宿祢きのおまろのすくね巨勢猿臣こせのさるのおみ葛城烏奈良臣かつらぎのおならのおみを大将軍に任那みまな救援の軍を派遣し推古すいこ三年(六九五年)秋七月に帰還したが、推古すいこ八年(六〇〇年)春二月、任那みまなは再び大和に救援の兵馬を乞う使者をよこした。

 女帝は自身を神功じんぐう皇后の生まれ変わりと信じており皇后に倣って、三韓を制する為に任那みまな救援の派兵を命じた。

 女帝は境部臣さかいべのおみ(蘇我一族)を大将軍に穂積臣ほずみのおみ(物部一族)を副将軍に任じ、一万の兵を授けて任那みまな救援に向わせた。

 境部臣は任那みまなの兵と共に新羅を攻めた。新羅は一戦で大敗を喫し白旗を掲げて降伏し、新羅王は六ヶ城を割譲し、合わせてかいの乾く間も無き程に朝貢する誓願を添えて和睦を願い出た。女帝は毎年朝貢する事を約させ新羅を許し、軍兵を召喚させた。

 女帝は三韓に兵を送ったのを期に大陸の情勢を調べさせた。中国では戦乱の世が終わり隋が全土を統一し文帝の時代であった。

 大陸との最後の交流は雄略二十三年(四七八年)雄略天皇は南宋に使者を送り三韓支配を明らかにする為、将軍の印綬を求めた。南宋は武(雄略天皇と見られている)に使持節、都督倭、新羅、任那みまな、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事、安東大将軍に任じた。それ以来、大和は大陸との交流を絶っていた。

 女帝は実に百二十年振りに隋の文帝に使者を送ったが外交儀礼に疎く国書も持たずに遣使したので隋から今後改めよとの令書が届けられた。

 翌年の春三月、新羅は約を違えて再び任那みまなの地を侵した。朝議を開き任那みまな救援の派兵をはかった。女帝は大伴連くい高句麗こうくりに遣わし、坂本臣糠手あらてを百済に遣わして速やかに任那みまなを救えと詔勅を下した。そして、推古すいこ十年(六〇二年)春二月、女帝は来目くめ皇子(用明天皇の御子)に軍兵二万五千を授け任那みまな救援に向わせた。

 皇子は夏四月筑紫に到着し、兵糧、軍船を集め戦の準備に取り掛かったが病に倒れ、この年は征討の軍を発する事は出来なかった。

 皇子の病は日を追って重くなり十一年(六〇四年)春二月四日筑紫で崩じられた。同年の夏四月、女帝は来目くめ皇子の兄、当摩皇子たぎまのみこを将軍に任じ再び筑紫に留まる兵を率いて新羅討伐の軍を発せよと命じた。

 当摩皇子たぎまのみこは妻の舎人姫王とねりのひめのおおきみを伴い、秋七月三日難波津から船を出し六日に播磨の明石に着いた。舎人姫王とねりのひめのおおきみは船酔いに苦しみ食も通らなかった。播磨の明石に着いた頃は弱り果てていた。暫く明石で静養に努めたが日ならずして病におかされ崩じられた。皇子は哀しみに打ちひしがれ妻のかばねを抱いて大和に引き返された。

 女帝は二度の派兵が二度共に不幸に見舞われ、不吉な予感を覚えた。太子は「不幸が二度も続くとは仏の啓示であろう、派兵を強行すれば必ずや国難を招くとの仏の教えである。速やかに筑紫の軍を解き派兵を取り止めるべきである。」と進言した。群臣も太子に賛同し派兵は取り止めとなった。

 推古すいこ十年(六〇二年)、百済は僧、観勒かんろくを大和に遣わした。観勒かんろくは歴本・天文地理・遁甲・方術書を携えて大和を訪れた。

 太子は観勒かんろくに会って確かな識見と豊かな学識に触れ仏法以外にも学ぶべき事柄の多さに目覚めた。太子は人を募り観勒かんろくを師として多くの事を学ばせた。歴法は陽胡史やごのふびとの祖、玉陳たまふる、天文と遁甲は大友村主高聡すぐりこうそう、方術は山背臣日立やましろのおみひたちが太子と共に学んだ。

 太子は陰陽道にも強く心を引かれた。これから為すべき事の吉凶を神に問い巫女を通じて神の声を聞いたが、人の運命、事の是非は方術を極めれば知る事が出来ると知った。  推古すいこ十一年(六〇三年)、太子は儒教の教えに基づき冠位十二階を定めた。冠位は徳、仁、礼、信、義、智を表わし各々に大小を設けた。(大徳、小徳、大仁、小仁、大礼、小礼・・・)

 朝廷での席次は冠位に従う事とし、位階を冠の色で表わした。冠位の色は紫、青、赤、黄、白、黒、と定め、位階の大小は色の濃淡を以って定めた。位階は世襲を認めず一代限りとした。

 太子は蘇我馬子とはかり初めて国書、天皇記の編纂を始めた。編纂を進め歴史を紐解く中で、いかに皇統は乱れ、争乱を繰り返したか。皇位継承の秩序は乱れ、皇統を犯し皇位を簒奪さんだつ(皇位を奪い取る事)した事実がいかに多いか。

 過ぎ去った昔を顧みれば、蘇我氏の祖、武内宿禰たけのうちのすくねは己が即位させた仲哀ちゅうあい天皇を殺害(記紀では突然崩御した)し、神功じんぐう皇后の世とするために、忍熊おしくま皇子も謀略を以って殺害した。神功じんぐう皇后は皇位にこそ上ら無かったが応神天皇は皇后の崩御まで皇位に就かず太子の地位にあって国政を取り仕切った。武内宿禰は絶大な権力を握り太子と共に国を治め、皇后は神に仕える巫女の如くであった。

 時代は下り今の世も武内宿禰に繋がる蘇我氏が穴穂部皇子あなほべのみこを殺害し、我が身(聖徳太子)も馬子に加担して物部守屋を攻め滅ぼした。馬子は権力を守る為に、武内宿禰が仲哀ちゅうあい天皇を死に至らしめた如く、己が即位させた崇峻すしゅん天皇をも殺害した。馬子に推戴されて皇位に就いた推古すいこ天皇は神功じんぐう皇后の再来であると馬子に吹き込まれ自身も信じて疑っていない。女帝は皇后に倣い新羅討伐の軍を発し、隋の文帝に使者を送った。

 今の世は武内宿禰たけのうちのすくねが絶大な権力を握った神功じんぐう皇后の御世に余りにも似通っていると感じた。馬子の数々の暴虐に目をつぶり馬子をいさめる事をしなかった、いや、出来なかった。馬子は絶大な権力を握り逆らえば死が待ち受けていた。本来なら帝位に就くべき所を馬子の指図を受容し皇太子ひつぎのみこに甘んじる事となった。奇しくも応神天皇に擬せられた如く馬子の意向に沿った国政を執り行わねば為らなくなった。何事も馬子の指図を仰がねば事ははかどらなかった。

 仏は輪廻転生を説くが世の変転が余りにも似通っている事に驚きを禁じ得なかった。後の世も、皇位継承は争乱の繰り返しであり、これは、無念の怨霊が、今も彷徨さまよい皇室に取りいて禅譲を許さず、争乱を起こしていると感じた。

 聡明な太子は仏法に救いを求め仏法の真理を通じて国を治める道を探った。仏に帰依する馬子は仏の教えに逆らえなかった。太子は仏法を以って馬子を牽制し国政をただし民を導く事を始めた。寺を建て、経を講じ仏法の真理を広めた。

 或る日、太子の夢枕に大仲姫が現れ「争乱は忍熊おしくま皇子の無念の怨霊で有る。」と告げた。太子は数日打ち捨てていたが夢枕に立った大仲姫の言葉が気に掛かり大仲姫と忍熊おしくま皇子の眠る大柴の里を訪ねる事を思い立った。

 数人の供を連れ明日香の豊浦宮とゆらのみや(奈良県高市郡明日香村)を出立し、難波津から船を出して武庫津に向った。海は凪、心地よい潮風を頬に受け無事、武庫津に到着し一夜を明かした。

 翌朝、太子は初冬の武庫の津にたたずみ、左右に広がる山並みを仰ぎ見た。山々は錦に染まり朝の冷気が心地よく太子の頬を撫でた。

 空気が冴え渡り山々が直ぐ其処に迫って見えた。山は霜が紡ぎ、風が織り、旭が染め上げた錦の様に艶やかな紅葉に彩られていた。

 空は紺碧に澄み渡り、茅渟海ちぬのうみ(大阪湾)は旭に照らされきらきらと黄金に輝いていた。野の草は露の玉を宝玉の如く葉に乗せて太子を出迎えた。

 太子は数人の供と早朝に武庫の津を立ち大仲姫の眠る大柴の里を目指し武庫川に沿って野の道を急いだ。武庫川は広い川幅の中を、幾筋もの流れを作り水が滔々とうとうと流れていた。数年を置いて川は氾濫を繰り返し田は土砂で埋まり川が肥沃な土地に替えていった。

 田には刈り取られた稲藁がうずたかく積み上げられていた。遠くを見渡すと点々と稲藁を燃やす煙が立ち上り初冬の風にいざなわれ豊作の香りを運んで来た。船に揺られ続けた躰に地を踏みしめる脚の感触が心地よく全身に広がり船旅の疲れを癒した。

 野の道を進み民に問い、探し訪ねて大仲姫の眠る古墳に至った。古墳は守る人も無く柵は朽ち果て、風雨に曝され、風と雨が山の崖を崩し古墳の入り口は半ば土砂に埋もれていた。

 太子は村人を集め土砂を取り除かせた。山の麓を穿った横穴式の古墳が姿を見せた。玄室に通じる甬道ようどうの側壁も天井も巨石を積み上げていた。

 うっすらと日の光が差し込んだが玄室の中はうかがえなかった。太子は明かりを持って来させ、神に謝し明かりをかざして甬道ようどうに足を踏み入れ玄室に向かった。

 玄室の側壁は巨石を積み上げ、床も天井も巨大な石で覆われていた。玄室は広く中央に家型の石棺が据えられていた。何処にも名は刻まれていなかったが紛れもなく貴人の墳墓であった。その主は定かでなく、荒れ果てて、盗賊に墓は暴かれていた。

 里人に問えど訪れる者も無く、この古墳は昔から「石の櫃いしのからと」と呼ばれ墳墓の主を知る者は居なかった。

 石のひつぎを覆う家型の石蓋を除かせたが中は何一つ納められていなかった。二百五十年の時の流れが全てを跡形も無く洗い流していた。

 太子は古墳の主を求める何か手だては無いかと家人を近隣の豪族の館に向かわせた。豪族も百年前この地に移り住み古墳の主を知る由も無かった。

 手だても無く古墳の前に床几を設え暫し思案に暮れた。他に行くあても無く穏やかな冬の日差しを心地よく受け辺りの風景に見入った。武庫川が冬の光に輝きゆったりと流れ、取り入れの終わった水田が武庫の湊まで続いていた。

 大仲姫が夢枕に立ち、大柴の里と告げたが場所が違うのか、しかし、夢の中で告げた如く確かに古墳はここに有った。時が全てを消し去った。

 杣道そまみちを頭に水桶を乗せて、語らいながら行き過ぎる若い娘を家人に呼び止めさせ水を求めさせた。その水は飲むとほんのり甘い香りが口中を潤し名水とはこの様に甘露なものかと改めて知った。

 娘の一人に何処に清水が有るかを問うた。娘は水桶を脇に置き、問わず語りに語り始めた。

「この清水は川で汲まずこの一筋の杣道そまみち辿たどり山に分け入り、ここより凡そ十八丁の道のりで山の上に至ります。大杉の中に大岩が有り、その磐底から清水が滾々こんこんと湧き出し、古の昔より病をいやす霊水としてあがめられております。土地の言い伝えでは遠い昔、仲哀ちゅうあい天皇の御子、忍熊おしくま皇子が皇位継承を巡って神功じんぐう皇后と争い、武内宿禰たけのうちのすくねの謀略に敗れしい(主を殺す)されました。屍は将士が暴かれるのを恐れ琵琶湖の湖底に流しました。湖底に沈んだ皇子の屍は琵琶湖の沖に流され、波間に消えた後ち白鳥となって飛び去り、この古墳を訪れ数日の間、鳴き声は絶えなかったと伝えられております。里人はこの不可思議な光景に見入り餌を与え見守ったが数日の後、山に飛び去った。里人が鳴き声を頼りに後を追い山に分け入ると、白鳥は大杉の中に降り立っとたちまち大岩と化し、しばらくして磐底から清水が滾々こんこんと湧き出したと伝えられております。それ以来、里人はその大岩を神の化身と崇め豊穣の祈りを絶やした事が無いそうです。この清水を里人は大悲水(白鳥石の水)と呼びならい、病める人が飲めば病はいやされ、心の清らかな人は甘露の水となり、よこしまな人が飲めば腹を痛めると言い伝えられております。」

 太子は夢枕に立った大仲姫の言葉と同じ話しを聞き、驚きを隠せなかった。その大岩を尋ね歩こうと思った。家人に命じて道案内の里人を探させた。里人の話しでは「通い慣れた道とは云へ、道は険しく獣道けものみちに入り込むと方角を見失い山中を彷徨さまよう事と為りましょう。大岩を訪れるならご案内致します。」と里人は告げた。

 太子は里人に礼を述べ案内を頼み、家人にほしいと竹筒に水を用意させ、山支度に脚結あゆひ(裾を結ぶ紐)を持って来させた。

 里人の案内で林の中の杣道そまみち辿たどり山に入った。谷に掛かる丸太の橋を恐る恐る渡り、水に濡れた石に気を取られながら里人の後に従った。道は獣道のような細い一筋の道であった。思いのほか急坂が続き喘ぎながら一歩一歩、坂を踏みしめ歩を進めた。

 落ち葉が降り積もり赤や黄色の錦を敷いた道を進んだ。木々は風に吹かれて赤や黄色の葉を飛ばし、木の葉が触れ合って静かな山にさらさらと雨音の様な響きを残した。

 歩む先に青い空が見え尾根に至った。展望が開け、昔、神功じんぐう皇后が如意宝珠、金甲冑かっちゅう弓箭きゅうせん、金剣、衣服を埋めたと伝えられる甲山の稜線が澄んだ空にくっきりと浮かび上がって見えた。

 眼前に見える六甲の山並みは錦を織り上げた如く朱と黄色に染まり美しい山稜を見せた。野を割いて武庫の川が涛々と流れ一筋の白い帯を見せ川下では幾筋もの流れと為って海に至るのが見えた。

 一衣帯水の海の向こうに信貴、生駒、金剛、葛城の山並みがくっきりと見えた。古の昔、神武天皇も神功じんぐう皇后もこの様に大和を望み見た思いがした。登るほどに山は鬱蒼うっそうとした木々で覆われ木漏れ日の中、岩を踏み、木の根をまたぎ歩を進めた。

 一筋の曲がりくねった道に覆い被さる木々も黄色く色付き、涼風が火照った体に心地好く感じた。行き交う人も無く長閑のどかな日和を楽しみ、時々鋭い鳥の鳴き声が辺りの空気を切り裂く様に響いた。

 ぽつぽつと小雨の様に木の実の落ちる音が心地よく地を鳴らした。登るほどに水の流れが聞こえ小さな滝に行き着いた。鳥の声も無く静寂の中に滝の水音が廻りの磐に響き、飛沫が裾を濡らした。

 路肩の石に座し滝の清水を口に含み疲れを癒した。滝の水音に心を包まれ暫し時を忘れて休息を取った。

 風に吹かれくぬぎの実が勢いよく落下して岩に当たり鋭い音を立てて跳ね返った。太子はこの音で我にかえり腰を上げた。

 里人に促され道を急いだ。急峻な岩場を里人に助けられ歩を進め大杉に囲まれた大岩に至った。周りは鬱蒼とした大木に覆われ山頂をうかがう事は出来なかった。

 大岩の前は僅かな平地が広がり数本の楓が鮮やかな紅葉に染まっていた。はらはらと舞い散る落ち葉に冬の柔らかい日が当たり空の青さに映え鮮やかな赤色を見せた。木々の間から茅渟海ちぬのうみ(大阪湾)が見えその先に金剛、葛城の紀伊の山並みが浮かんで見えた。

 杉の大木の中に大岩がどっしりと大地に座り磐底から滾々こんこんと清水が湧き出していた。大岩は先端が鋭く尖り左右に大きく岩が張り出していた。見方によっては羽を広げた白鳥の様に見えた。里人はこの大岩を白鳥岩と呼び慣わしていると太子に告げた。

 何時、何処から来たのか里人が楽しげに語り合い清水をかめに汲み取っていた。貴人の訪れに驚いた里人が慌てて脇に退くのを制し、家人が担ってきた床几に腰を下ろし里人が水を汲み終わるのを静かに待って紅く色づいた紅葉を眺めて時を過ごした。

 里人が去ると太子は大岩に拝礼して大悲水を口に含み円やかな香りを楽しみ、喉を潤した。この地を尋ね、夢枕に立った大仲姫の願いを想い、裏切りと謀略に合いしい(主を殺す)された忍熊おしくま皇子の無念の霊が神となり今も漂っているのを感じた。

 今、国書を編むに際し、各地の伝承を求め、豪族のかばねもとを辿り、いにしえを振り返れば、瑞穂の国に神が天降り善政を敷いたが、人の世と為り人が治めてから争乱の止む事が無い。太子は大岩の前に床几を移し忍熊おしくまの神に祈り瞑想にひたった。

 行く末を占うために来し方を顧みて、神武天皇の昔より思い起こし争いの跡を辿った。神武天皇の時代が脳裏に映り東征の軍が見え数々の争乱が眼前に繰り広げられた。次々に争いの跡が甦り頭の中を戦の喊声かんせいと怒号が渦巻き、陰謀と策略と奸計かんけいに彩られた古代に引きずり込まれて行った。

 太子は長い瞑想の眠りから醒め神と仏の啓示を聞いた。忍熊おしくまの神の声が大岩から聞こえてきた。「千年、二千年の時を経ても争乱は止む事無く人は権力を夢見て戦いに明け暮れるであろう。神を祀り仏に祈っても人の欲望を押さえる事は出来ない。太子が神仏に成り代りこの国に秩序と友愛を施せ。」

 推古すいこ十二年(六〇四年)、太子は大岩の地に鎮魂の社を建て仲哀ちゅうあい天皇、大仲姫、忍熊おしくま皇子の三神を祀り、怨霊を古墳に鎮め仏の庇護に委ね、ここ大柴の里に寺(中山寺 西国三十三所札所)を建立した。

 明日香の豊浦宮とゆらのみやに立ち帰った太子は先年の冠位十二階を定めた事に続いて、法を定め法に則り馬子の横暴を抑制する憲法の制定を急いだ。法は争いを防ぐ和を根幹として仏を尊び、天皇を中心とした秩序を定める事とした。

 太子は仏法と天皇親政を経糸たていとに儒教の理念、真理、である仁、礼、信、義、智、徳を緯糸よこいとにして十七条の憲法を制定された。この憲法が我が国の政治理念となった。

 丁未ていびの変が収まった後、太子は守屋が領していた摂津の国を領し、推古すいこ元年(五九二年)、物部守屋の館の跡に四天王寺を建てた。無事に寺塔が完成したのは物部守屋の霊がお許しになった為であろうと思い堂宇の一つとして願成就宮を建て守屋の霊を祀った。

 推古すいこ十三年(六〇五年)、太子は斑鳩宮いかるがのみやに夢殿を造営し、夢殿に七日間、籠って瞑想し仏と問答を交わした。

 一方、丁未ていびの変で仏に寺塔を建てると誓った馬子は崇峻すしゅん元年(五八七年)、百済から多数の工人を招聘し法興寺(飛鳥寺、元興寺)の大伽藍の建立に着手していた。

 馬子は伽藍の中心になる五重塔を建てるに際し帝に願い出て百済の王が献上した仏舎利(釈迦の遺骨)を所望した。帝も馬子の権力を前にして貴重な仏舎利を願いのままに下げ渡した。

 馬子は拝受した仏舎利を五重塔の礎石の下に埋め、仏の教えがこの寺から広まる事を願った。(仏舎利を埋めれば塔は倒れないと信じられた。)

 法興寺の伽藍は塔を中心に東と西と北に金堂を配した百済様式の大寺院であった。推古すいこ四年(五九六年)念願が叶い完成した壮大な伽藍を見た馬子は金堂に丈六(三・六メートル)の仏像を祀る事を思い立った。

 馬子は国費による造仏の勅を女帝に願い出て許された。馬子は太子の言を入れて女帝の面影を忍ばせる仏の姿を示し鞍作止利くらつくりのとりに造仏を命じた。鞍作止利くらつくりのとりは木で造っても石で造ってもいずれは朽ち果てる。仏が朽ち果てる事は畏れ多い事と思い日夜悩み抜いた。悩んだ末にどれほどの財貨が入り用か見当も付かないし、我が国で調達出来る目処も無いあかがねで造仏する事を建言した。

 馬子は朽ち果てる事の無い銅の仏を思い浮かべ驚きと共に喜びを禁じ得なかった。馬子は女帝のみことのりを拝受し諸国に命じて銅を献上させた。

 女帝は百済、新羅、高句麗こうくりにも使者を遣わし銅の献上を命じた。高句麗こうくりの大興王は大和の使節から帝が銅の仏像を造ると聞き黄金三百両を奉った。百済、新羅も応じて丈六の仏像を鋳造する銅が調ととのえられた。

 鞍作止利くらつくりのとりは一年を掛けてあかがねの釈迦如来坐像を完成させた。推古すいこ十四年(六〇六年)夏四月八日に法興寺(飛鳥寺、元興寺)の金堂に安置した。その日、帝は斎会さいえを設け多数の人々が参集した。この年から四月八日を潅仏会かんぶつえ、七月十五日をう盂蘭盆会らぼんえとし斎会さいえを執り行う事となった。

 秋七月、太子は女帝に請われて宮廷で勝鬘経しょうまんきょうを三日間に亘り講じ、岡本宮で法華経を講じられた。

 内政の充実に着手した馬子は欽明きんめい十六年(五五五年)蘇我大臣稲目宿禰が勅をもって吉備の五郡に屯倉みやけを設けた如く、馬子も父、稲目に倣い各地に屯倉みやけを置いた。

 半島からの渡来人の知恵を借りて馬子は戸籍を整備し租税を管理する体制も整えた。渡来人の卓越した技術をもって日照りに備え各地に池を掘り用水路の整備を進めた。湿地は豊穣な農地となり収穫は飛躍的に高まった。大和の高市池、藤原池、肩岡池、菅原池、河内の戸刈池、依網池よさみいけ推古すいこ十五年頃に造られた。

 推古すいこ十五年(六〇七年)秋七月三日、女帝は小野妹子おののいもこを勅使として随の都、長安に派遣した。

 女帝が隋に二度目の使節を送ったのは煬帝ようだい(在位六〇四年~六一八年)が即位して三年目の年であった。そして、黄河と揚子江を結ぶ総延長二五〇〇キロの壮大な計画を推し進める通済渠つうさいきょうも完成し永済渠えいさいきょう(黄河~天津)の開削に着手し、屈辱を晴らす高句麗こうくり遠征を計画していた頃であった。

 聖徳太子は隋がとてつもない大国である事を知る由もなく隋の煬帝ようだいに宛てた上奏文を起草した。

「日出處天子致書日没處天子無恙云々」(日、出づる所の天子 書を、日、没する所の天子に致す つつがなきや)

 東夷の国、倭から差し出された上奏文を見た隋の官吏は目を疑った。読み上げるのを躊躇ためらい読めぬ振りをしたが煬帝ようだいに読めと促され致し方なく太子の上奏文を読み上げた。

 東夷の国に見下された煬帝ようだいは激怒し使者の小野妹子おののいもこを睨み付け一言も発せず席を蹴って退席した。妹子は上奏文が煬帝ようだいの逆鱗に触れたと直感し地に低頭して死を覚悟した。しかし、捕縛される事も無く御殿を退出した妹子は其れ以来なんの沙汰も無く不安な気持ちで数日を過ごした。

 隋の官吏は倭の使者の扱いを恐る恐る煬帝ようだいに伺いを立てた。その頃、隋では周辺の諸国に入朝を促す使者を遣わしていた。高句麗こうくりにも入朝を促したが文帝の差し向けた三十万の大軍を破った高句麗こうくりは入朝を拒んだ。

 高句麗こうくり遠征を意図していた煬帝ようだいは東夷の国、倭と交誼こうぎを結ぶ機会と捉え、「東夷の国は礼を知らぬ。」と上奏文の非礼を不問に付し、妹子の滞在を許した。妹子は蘇因高そいんこうと呼ばれ隋の都、長安に翌年の春まで留まった。

 煬帝ようだい小野妹子おののいもこの帰国に当たり、倭国王に宛てた親書を妹子に託し、答礼の使者として裴世清はいせいせいを倭に赴かせた。

 煬帝ようだいの親書を受け取った妹子は聖徳太子の国書に激怒した煬帝ようだいを思い起こし密かに親書を開いた。親書には倭を属国と見なす記述が有り持ち帰れば親交が途絶える事を憂い、密かに親書を焼き捨て、死を覚悟して復命する決意を固めた。

 推古すいこ十六年(六〇八年)夏四月、小野妹子おののいもこ裴世清はいせいせいと十二人の随員を伴って筑紫に帰着した。隋の使者が妹子に同道して大和を訪ねると知った女帝は隋の使者、裴世清はいせいせい一行の為に難波に新しく館を造営して一行を迎えた。

 同年夏六月、裴世清はいせいせい一行は難波津に到着し新しく造営された館に入った。復命した妹子は煬帝ようだいの親書を百済の地で賊に遭い奪われたと申し述べた。

 群臣は怒り妹子を責め立て流刑に処すべしと申し立てたが、女帝は「親書を失った罪は重いが隋の使節の手前もあり軽々に処罰してはならぬ。」と群臣を制し不問に付した。

 同年夏八月、裴世清はいせいせいは大和の都、小墾田宮おはりだのみや(奈良県高市郡明日香村)に入り女帝に拝謁した。諸皇子、群臣も聖徳太子が定めた冠位に従った礼装に改め謁見の場に臨席した。

 裴世清はいせいせいは二度再拝して煬帝ようだいから託された親書を言上ごんじょうした。「皇帝から倭皇やまとのすめらみことに申し上げる。使者の蘇因高そいんこうが訪れてよく意を伝えてくれた。朕は天命を受けて天下を治め、徳を広めて万民に及ぼしたいと思っている。人民をいつくしむ思いに土地の遠い近いの区別はい。倭皇やまとのすめらみことは海の彼方にあって、良く人民を治め国内は平和で安寧に暮らしていると知った。至誠の心をもって遠く朝貢してきた。ねんごろな誠心に朕はうれしく思う。裴世清はいせいせいを遣わして送使の意を述べ、併せて別にあるような贈り物を届ける。」言上ごんじょうを終えた裴世清はいせいせいは返礼の品々を女帝に奉げ奉った。そして、阿部鳥臣が進み出てその書を受け取り女帝の前の机に置いた。

 謁見を終えた裴世清はいせいせい小墾田宮おはりだのみやを辞去し難波に留まり、訪れてきた諸皇子、群臣に長安の春を語り、文化の香りを伝えた。

 太子は裴世清はいせいせいから煬帝ようだいが仏法を保護し、仏法が隆盛を極めている事を知った。今迄は百済を通じて知り得た仏法を直接、隋から教わりたいと思った。裴世清はいせいせいの帰国に際しては学生がくしょうを伴わせ、高い文化と最新の仏法を直接隋から学びたいと感じた。

 太子は裴世清はいせいせいの帰国に随行して隋の文化を学ぶ学生の受け入れを願う勅使を再び隋に派遣する事とした。この事を知った小野妹子おののいもこ煬帝ようだいの親書の事も有り、再び使者に立っ事を太子に願い出た。

 太子も煬帝ようだいに拝謁し高官とも親交の有る小野妹子おののいもこを再び勅使に任じ吉士雄成きしのおなりを副使とし鞍作福利くらつくりのふくりを通訳として随行させ、帰化人の僧を含め大陸の文化を学ぶ八人の学生を裴世清はいせいせいに託した。

 裴世清はいせいせいはその歳の九月、女帝に帰国を願い出て許され、十一日難波を発った。この時、僧みんも太子から学生がくしょうの一人に加えられ陰陽道の修得を命じられた。

 勅使の小野妹子おののいもこと副使の吉士雄成きしのおなりは翌年の推古すいこ十七年秋九月に隋から帰国した。通訳として随行した鞍作福利くらつくりのふくりは隋にとどまった。

 推古すいこ二六年(六一八年)秋八月、高句麗こうくりの使者が朝貢の品を奉り、使者は「隋の煬帝ようだいが我が国に三十万の大軍を差し向けましたが、我が軍は隋軍を撃破し敗走する隋軍から鼓吹つづみふえおおゆみ、石弓の類と隋国の産物を奪いました。ここに戦利品として奪った品々と駱駝らくだ一頭を奉ります。」と奏上した。

 高句麗こうくりの使者は知らなかったが隋の煬帝ようだい推古すいこ二五年(六一七年)四度目の高句麗こうくり遠征を計画したが叛乱が起こり江都に留まった。しかし、煬帝ようだいは鎮圧の軍を起こさず、現実から逃避して酒びたりの日々を送った。

 近衛兵が隋の太原留守であった李淵りえん(後の唐高祖 在位六一八年~六二六年)が叛乱を起こして大興城を攻め落とした事を報告しても煬帝ようだいは酒に溺れ耳を塞いだ。各地で叛乱が起こっても鎮圧に腰を上げない煬帝ようだいに不満を持った近衛兵は推古すいこ二六年(六一八年)春三月十一日叛乱を起こし、煬帝ようだいを殺害した。

 李淵りえん煬帝ようだいが殺されたと知り煬帝ようだいの孫、恭帝侗きょうていとうを即位させたが翌年禅譲を強要して即位し唐を建国した。恭帝侗きょうていとうはまもなく殺され隋帝国は完全に滅んだ。

 推古すいこ二八年(六二〇年)冬十二月二十一日、太子の母、穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこが病を得て亡くなり、太子も罹病りびょうされた。看護していた太子の后、膳部大郎女かしわべのおおいらつめも同じ病に侵され、翌年の推古すいこ二九年(六二一年)春二月四日、后の膳部大郎女かしわべのおおいらつめがお亡くなりになった。翌日の夜半、太子も后の後を追うように斑鳩宮で薨去こうきょされた。御歳、四十七歳の若さであった。

 諸王、諸臣、天下の人民は太子の死を嘆き悲しんだ。父母は愛児を喪った如く、若き者は父母を喪った如く嘆き悲しみ人々は「天地が崩れ日も月も没して光を失った、これから先、誰を頼みにしたら良いのだろうか。」と泣き叫ぶ声がちまたに溢れた。

 太子のご遺体は太子が生前に造営していた磯長陵しながのみささぎ(大阪府太子町字太子)に母と后と共に葬った。

 太子がみまかって五年後の推古すいこ三十四年(六二六年)夏五月二十日、馬子も七十六歳の人生を閉じた。跡を継いだ蘇我蝦夷えみしは明日香の地に今迄例を見ない巨石を積み上げた玄室を設え天皇に劣らぬ墳墓を築いて桃原墓ももはらのはか(飛鳥石舞台古墳)に葬った。

 一人残された推古すいこ天皇も馬子の死から二年後の推古すいこ三十六年(六二八年)春二月、病に臥せておられた。

 三月二日、日輪がむしばまれて闇が天を覆った。鳥は騒ぎ、馬はいなないて落ち着きを失い厩舎の中で激しく暴れた。古の昔より日輪が蝕まれて闇が天を覆った時、神は人々に不幸をもたらすと言い伝えられて来た。神話の通り天照大神が天岩戸にお隠れに為った。この世の終わりが訪れたと驚き騒いだ。神がお隠れになり臣も民も不吉な予感を覚え地に伏し神に祈った。

 日蝕の五日の後、推古すいこ三十六年春三月七日、推古すいこ天皇は七十五歳で崩御された。宮殿の中庭に殯斂宮もがりのみやを造営し、秋九月二十日、推古すいこ天皇の葬礼を行った。遺言により竹田皇子たけだのみこの陵(奈良県高市郡)に葬った。(後に河内国磯長山田陵に改葬)


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