皇位争乱
第十八話 天智天皇
乙巳の変(大化の改新)
推古天皇が崩御しても皇嗣は定まらなかった。推古二九年(六二一年)春二月五日に皇太子であった聖徳太子が亡くなり、女帝が太子にと望んでいた竹田皇子も早世し、権力の座にあった蘇我馬子も推古三十四年(六二六年)夏五月二十日に亡くなり、馬子の跡を継いだ大臣の蘇我蝦夷は太子を推挙していなかった。
皇嗣の候補には敏達天皇の皇子で彦人大兄皇子の子、田村皇子と用明天皇の皇子で聖徳太子の子、山背大兄皇子の二人がいた。
田村皇子は蘇我氏の血を引いていないが、山背大兄皇子の母は蘇我馬子の娘刀自古郎女で蘇我の血を引き蝦夷の甥に当たる。
どちらの血筋を重んずべきか、蝦夷は二人の性格、力量を熟慮し権力を握り続けるには御し易い田村皇子が望ましいと思い、独断で決めようと思ったが承服しない群臣もいるであろうと思った。
群臣の大半は「本来なら聖徳太子が皇位を継ぐべきを蘇我馬子が権力を維持するために推古天皇を即位させ、聖徳太子を皇太子とした。太子がご存命なら皇位に就き山背大兄皇子が皇太子になっていたはずである。故に次の天皇は山背大兄皇子であろう。」
用明天皇の血筋を重んじる派は「本来、敏達天皇の皇子、彦人大兄皇子が皇位に上るべきを蘇我馬子が己の権勢を保持するために推古天皇を即位させた。蘇我の血を廃し皇統を糾すには田村皇子が相応しい。」と考える群臣に二分されていた。
蝦夷は一族の重鎮、蘇我境部臣摩理勢(馬子の弟で蝦夷の叔父に当たる。)を訪ね「天皇が崩御して早、半年が過ぎたが皇嗣が定まっていない、誰を皇嗣にすべきかご意見を伺いたい。」と申し述べた。摩理勢は即座に聖徳太子の御子山背大兄皇子が相応しいと応じた。
蝦夷も蘇我一族の意見として最もと思ったが蝦夷には蝦夷の考えがあった。山背大兄皇子を推戴すれば群臣はやはり蘇我の血筋かと軽んじて反撥を強めるであろう。
そして、山背大兄皇子は父の聖徳太子の薫陶を受けて聡明な皇子である。天皇として相応しいお方であるが即位すれば蘇我の権勢を維持できるであろうか、それに引き換え田村皇子は温厚で天皇の御位に上っても蘇我としては御し易い天皇である。
蝦夷は田村皇子を推戴すべく思いを巡らした。一族の重鎮摩理勢と事を構えず説得するには群臣の賛同を得て推挙すれば摩理勢も納得するであろうと思った。
狡猾な蝦夷は我が意を誰かに言い含め、その者から群臣に語らせて賛同を得ようと思った。思い浮かんだのが日頃から蝦夷に諂う阿倍内麻呂臣であった。館に招き問わず語りに蝦夷は語った。「皇嗣を誰にすべきか思い悩んでいる。山背大兄皇子か田村皇子か群臣の意見をそれとなく伺ったが意見は割れており思い悩んでいる。田村皇子が相応しいと思っているが朝議の席で押し切るわけにもいかずどうしたものか。」
阿倍内麻呂は蝦夷の意を推し量り群臣を説得してほしいとの意であろうと推察し「機会が有ればそれとなく伝えましょう。」と申し述べた。
蝦夷は阿倍内麻呂が我が意を忖度して口火を切るであろうと思い主だった群臣を招待して蝦夷の館で饗応の宴を催した。
それは正午から始まり夕刻に及ぶ盛大な宴であった。宴も終わり散会する頃合を見計らい蝦夷は阿倍内麻呂に目配せして語らせた。「天皇が崩御されて早、半年が過ぎた。速やかに日嗣の皇子を決めなければ乱が起こるであろう。方々は何れの皇子を日嗣の皇子とすべきであろうか。聞く所によると先帝が病臥していた折、田村皇子と山背大兄皇子を召され、先帝は田村皇子を枕頭に召して申された。『田村皇子よ、天下を統べるという事は大任である。軽々しく云うべきものではないが、物事の善し悪しは慎重に見通すようにして、判断を誤らぬようにしっかりとやりなさい。』と仰せられた。次に山背大兄皇子が召され『お前は意見を言い立ててやかましく騒いではならぬ、慎んで群臣の言葉に従い道を誤たぬように。』と仰せられたと聞く。これは先帝の遺詔(遺言)であろう。さて、お二人の皇子の内、誰を皇嗣とすべきか、方々のご意見をお聞かせ願いたい。」
群臣は今宵の宴はこのための宴であったのかと気付き押し黙って誰も答えなかった。
阿倍内麻呂は重ねて問うたが誰も答えなかった。座は静まり返り、群臣は頭を垂れて寸刻の沈黙が続いた。蝦夷も瞑目して誰か言葉を発するのを待った。
大伴鯨連も蝦夷の意向を薄々聞き知っており進み出て、「群臣の意見を聞くまでも無く、先帝の遺勅のままに。」と申し述べた。阿倍内麻呂は「同感であるが、それはどう云う事か」と問い掛けた。
大伴鯨は「先帝はどのようなお考えがあったのか存じ上げませんが田村皇子を召して『天下を統べるという事は大任である。判断を誤らぬようにしっかりとやりなさい。』と仰せられたのであれば、このお言葉から察して皇嗣は決まったと同じである。誰も異議を申し立てる事は出来ないでありましょう。」と申し述べた。
采女臣摩礼志、高向臣宇摩、中臣連弥気、難波吉士身刺の四人の臣が大伴鯨に賛同したが、許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣塩手の三人は蝦夷の前に進み出て「阿倍内麻呂臣が語られた話を疑う訳ではないが先ほど語られた話は重臣が同席しておらず、真偽の程は不確かと思います。確かに遺勅が有ったなら何故、皇嗣の定めを引き伸ばされたのか、我ら三人は山背大兄皇子が皇嗣に相応しいと思います。」と申し述べた。
蘇我倉麻呂は「二者択一の選択は即答致しかねる。」と申し述べ態度を決めなかった。蝦夷は許勢臣大麻呂ら三人が山背大兄皇子を推すのは摩理勢の意向であろう、これでは群臣の意見が折り合わないと解り静かに退席した。
境部摩理勢は蝦夷の父、馬子の弟で蝦夷の叔父にあたる。推古天皇の御代、馬子と共に聖徳太子の執政を支え、その過程で太子一族との結びつきを深めた。太子亡き後、太子一族の後見人の如く振る舞い陰に陽に蝦夷に対抗し対立を深めていた。
摩理勢が山背大兄皇子を推すのは山背大兄皇子が皇位に上れば宗家の蝦夷に代わり権力を掌中に出来るかも知れぬとの野心が見え隠れしていた。
蝦夷もその事を十分に承知しており強引に田村皇子を皇位に就ければ蘇我一族や群臣を二分する争いに発展する事を恐れていた。故に、群臣の総意であると摩理勢を説得する算段であったが思わぬ展開となった。
山背大兄皇子は蝦夷の館で行われた宴席での話を漏れ聞き、事の真相を知るべく蝦夷の館に三国王と桜井臣の二人を遣わした。
二人は蝦夷に接見し皇子の口上を述べた。「噂に聞くと、叔父(蝦夷)は田村皇子を皇嗣にとお考えのようであるが私にはどう考えてもその理由が解りません。どうかはっきりと叔父上のお考えをお聞かせ下さい。」
蝦夷は山背大兄皇子の訴えを聞き、自分から答えるべきではないと思い、「軽々に我が思いを伝えるべきではないと思う、改めて使者を遣わし我が思いを皇子に伝えたいと思う。」と三国王と桜井臣に告げた。
山背大兄皇子は数日待ったが使者は現れず再び三国王と桜井臣の二人を遣わした。
蝦夷は体調が優れない事を理由に阿倍臣、中臣連、大伴連、河辺王、を通じて「皇嗣を決めるのは重大な事ゆえ群臣の意見も聞き、遺勅に違わず、私意を挟まず決めなければなりません。故に手間取っております。いずれ、直接お目にかかって申し上げましょう。」
そして、蝦夷は山背大兄皇子を推した許勢臣大麻呂、佐伯連東人、紀臣塩手を懐柔し、再び阿倍臣、中臣連を遣わして摩理勢に「大半の群臣は田村皇子が皇嗣に相応しいと申し述べております。貴殿は誰を皇嗣にすべきかご意見を伺いたい。」と尋ねさせた。
摩理勢は同意する群臣も去り、蝦夷の最後通牒であろうと察したが妥協せずに「以前、大臣から問われた時に申し上げた通りで、今更また申すことは有りません。」と告げ、怒りを顕にして席を立った。
こうして摩理勢は蝦夷と決定的に決裂し身の危険を感じ、泊瀬王(山背大兄皇子の弟)の館に逃げ込んだ。
蝦夷は山背大兄皇子を通じて泊瀬王に摩理勢を匿うのを止めるように説得し、摩理勢も泊瀬王に危害が及ぶのを恐れて退去し自邸に引き籠った。それから十日ほど後、泊瀬王はにわかに発病し亡くなられた。
蝦夷は摩理勢が馬子の墓(石舞台古墳 奈良県高市郡明日香村)の造営を放棄したとの理由で摩理勢の館に軍兵を差し向けた。
摩理勢は人馬の響きで軍兵が遣わされた事を悟り、門を開け次男の阿椰を伴って門前の床几に座り兵の押し寄せるのを待った。
程なく軍兵が押し寄せ摩理勢は来目物部伊区比なる者に絞殺された。そして、阿椰も殺され長男の毛津は尼寺に逃れたが尼僧に密告されて、畝傍山に逃れたが兵に囲まれ逃げ場を失い頸を刺して自害した。
こうして蝦夷の意向によって田村皇子が即位し舒明天皇(在位六二九年~六四一年)となった。そして、帝は宝皇女(敏達天皇の孫茅渟王の皇女 後の皇極、斉明天皇 天智、天武天皇の母)を皇后とされた。
蝦夷は絶大な権力を握り誰も逆らえなかった。豪族、群臣は朝廷に出仕せず蝦夷の自邸に出仕する有様であった。
大派皇子(敏達天皇の第三皇子)は政務の乱れを正そうと「今後は卯の時(午前六時)に出仕し、巳の時(十時)に退出する様、鐘で時刻を知らせよう。」と建議したが蝦夷は賛成しなかった。
舒明一三年(六四一年)冬一〇月九日、帝は四十九歳で崩御された。百済宮の北に殯宮(服喪の期間(およそ一年間)遺体を安置しておく宮殿)を設けた。
この時、十六歳の中大兄皇子(後の天智天皇)が誄(貴人の功を称え哀悼の意を述べる事)を奉った。
舒明天皇は中大兄皇子をいずれは太子にと思っていたのか東宮に住まわせていたが蝦夷の顔色を窺い太子を決めていなかった。
蝦夷は誰を即位させるべきか有力な候補は山背大兄皇子、古人大兄皇子(舒明天皇の第一皇子、蘇我入鹿とは従兄弟)中大兄皇子(古人大兄皇子の異母弟)の三人であった。
蘇我諸家の中には本来は「山背大兄皇子が継ぐべきを田村皇子を皇位に就けた。従って山背大兄皇子が皇位に就くべきである。」との意見も耳にしていた。
蝦夷は絶対的な権力を握っていたが田村皇子の即位に際し境部摩理勢臣と事を構え摩理勢とその子を死に追いやった一件が後を引き蘇我一族に亀裂が生じていた。
蝦夷としては古人大兄皇子を皇位に就けたいがそれでは再び一族の中で争いが起こるであろう、穏便に事を運ぶには皇后の宝皇女(後の皇極、斉明天皇)を即位させ折を見て古人大兄皇子を太子に指名すれば一族も異論を挟まないであろうと思った。
こうして繋ぎの天皇として宝皇女が即位し皇極天皇となられた。
納まらないのは山背大兄皇子であった。山背大兄皇子は人望も有り群臣、豪族、それに蘇我庶家の中にもせめて太子にとの思いが有ったが蝦夷の意向を恐れて誰も建議しなかった。
蝦夷は権力の継承を狙って子の入鹿を国政に参画させ、権力の委譲を推し進めた。そして、皇極二年冬十月、冠位は一身限りで世襲されないとの定めを破り天皇の許しも得ず、入鹿に冠位十二階の最高冠位である大徳を表す紫冠を与え大臣の位を譲った。
山背大兄皇子は父聖徳太子が定めた冠位十二階の位階は帝が授け、世襲を認めず一代限りであると抗議したが蝦夷は歯牙にも掛けずかえって遺恨を残し、その後、山背大兄皇子と入鹿は事あるごとに対立した。
二人の険悪な情勢に入鹿が山背大兄皇子の館、斑鳩宮に兵を差し向けるかも知れぬと思った三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)は舎人の田目連、莵田諸石、伊勢阿倍堅経と語らい万一に備えて斑鳩宮を警護していた。
入鹿は皇極二年(六四三年)冬十一月一日、大義名分も無く巨勢徳陀、土師娑婆連に命じて斑鳩宮の山背大兄皇子に軍勢を差し向けた。
馬蹄の響きで軍勢が押し寄せた事を察知した奴の三成は舎人数十人を指揮し屋根に上って押し寄せる軍勢に向かって次々に矢を射掛けて防いだ。三成が射た流れ矢が土師娑婆に当たり射殺された。
軍勢は勢いに押されて後退し斑鳩宮を遠巻きにして兵たちは「一人当千とは三成のような者を云うのであろう。」と語り合った。
警護のために詰めていた三輪文屋は再び襲って来るであろう、斑鳩宮は防備が薄い、今の内に逃れようと決断し山背大兄皇子、そして妃や子弟を急がせ生駒山を目指して逃れた。
巨勢徳陀は入鹿に面従腹背で殺すに忍びないと思って見逃したのであろうか。(乙巳の変で中大兄皇子によって入鹿が暗殺されると、直ちに降伏して蘇我氏討伐に参加した。)
巨勢徳陀は火箭を射よと命じ、次々に火箭が放たれ斑鳩宮は焼け落ちた。巨勢徳陀は焼け跡を検分し寝所と思しき場所の灰の中から骨が見つかり山背大兄皇子は焼け死んだと思い囲みを解いて引き揚げた。
山背大兄皇子の一団は四~五日、生駒山に隠れ住んだが食糧も無く、追っ手を警戒して里にも下りられず動きが取れなかった。
三輪文屋は進み出て「ここに留まっていても探索の手が延びいずれ追っ手の兵が押し寄せるでありましょう。一刻も早く伏見深草の屯倉に入り、馬で東国(中部地方)に赴き、上宮(聖徳太子一族)の乳部(壬生部 皇子女の資養のために設置された領地)の民に武器を取らせて軍を起こし攻め上れば入鹿を討ち取る事が出来ましょう。」と勧めたが山背大兄皇子は応じなかった。
山背大兄皇子は「東国の領地で兵を募り戦えば勝てるであろう、しかし我が領民は蝦夷が今来(奈良県御所市東南)に造った双墓の造営に駆り出され使役されて苦しんだと聞く、よって自分は十年間、領民を使役しないと心に決めている。まして自分の一身上の都合で百姓を戦に駆り立てるのは忍びない、戦に勝つのが丈夫ではない、己が身を捨てて国を固められたら、それも丈夫であろう。」と仰せになった。
蝦夷は生前に自分の墓と息子入鹿の墓を築造し双墓と称し、蝦夷の墓を大陵と呼び入鹿の墓を小陵と呼んだ。この墓の造営に上宮の乳部の民も駆り出され使役された。よって、十年間、領民を使役しないと心に決めたのであろう。
生駒山の山中に大勢の人が集まっているとの報せが入鹿の元に伝えられた。もしや、焼け死んだと思っていた山背大兄皇子が逃れて生駒山に潜んで居るのかも知れぬ。
入鹿は近くに居た高向臣国押に探索を命じたが、国押は「天皇の宮の警護が任務ゆえ生駒山探索の命には従えません。」と拒絶した。
ならば自ら兵を率いて探索すると支度に取り掛かっていると古人大兄皇子が話を聞きつけて駆けつけ「窮鼠猫を咬むの例えも有りここは他の者に探索を命じ願いたい。」と入鹿を押しとどめた。
山背大兄皇子の殺害に古人大兄皇子も関わっていたのか、計画を入鹿から聞かされていたのであろうか。
一人の将が進み出て生駒山の探索は我に命じ下さいと申し出て兵を率いて生駒山に向かった。
しかし、山背大兄皇子は山を去った後であった。山背大兄皇子は死を覚悟して山を下り、父聖徳太子が創建した斑鳩寺(法隆寺の別称 奈良県生駒郡斑鳩町)に入られた。
探索の将は引き揚げる途中、農民に四~五十人の一団を見なかったかと問うと南に走る一団を見たとの話しを聞き跡を追った。そして、斑鳩寺に逃げ込んだ事を突き止め斑鳩寺を囲んだ。
山背大兄皇子は三輪文屋を呼び「囲みの将に伝えよ、軍を起こして入鹿と争えば必ず勝てるであろう、しかし人民を死傷させたくはないので、我が身一つ入鹿にくれてやろう。」と告げ、妃妾や皇子など一族もろともに自決し、聖徳太子の血筋は絶え、三輪文屋も自決した。
山背大兄皇子を死に追い遣ったと知った蝦夷は激怒し、入鹿を呼び付け「己の命を危うくする何という愚行、愚か者。」と罵った。
この事件を契機に蘇我氏打倒の機運が醸成されていった。そして、密かに蘇我氏打倒の意思を固めていたのが中臣鎌足(鎌子)であった。
中臣鎌足の父は中臣連弥気で祭祀を司る神祇伯であった。父の中臣連弥気は山背大兄皇子と田村皇子が皇位を争った時、蝦夷に与して田村皇子を推し、蝦夷に命じられて使者として山背大兄皇子に蝦夷の意向を伝え、又、山背大兄皇子を推す境部摩理勢臣を説得する役目も務め、蝦夷に諂う役人の一人であった。鎌足は父が蝦夷に諂う姿を見て蘇我氏打倒の意思を固めたのであろうか。
鎌足は入鹿と共に舒明四年(六三三年)秋八月、唐に二十五年留まって帰国した僧旻から周易(筮竹を用いた占い)を学び、隋、唐に三十二年間滞在し舒明十一年(六四〇年)に帰国した南淵請安から孔子の教えである儒教を学び、中国の兵法書、六韜を諳んじていた。
鎌足は六韜に書かれている『 天下の利を同じくする者は、則ち天下を得、天下の利を擅にする者は、則ち天下を失う。』そして、儒教の五常(仁、義、礼、智、信)に照らしても蘇我氏の所業と独裁政治が許せなかったのであろう。
山背大兄皇子の事件があった翌年の皇極三年(六四四年)春一月、鎌足は父の跡を継いで神祇伯に任じられたが期するところが有ったのか再三辞退し、病気と称して都を退去し摂津の三島(摂津市三島)の別業(別荘)に住んだ。
この頃、蘇我親子の独裁政治に嫌気したのか女帝の弟、軽皇子(後の孝徳天皇)も足の病で朝議の席にも出ず館に籠っていた。
鎌足は企てを成し遂げえる明主(賢明な君主)を求めて以前から親交のあった軽皇子の館を訪ね不自由が有れば申しつけ下さいと宿直を申し出た。
軽皇子は大いに喜び鎌足を歓待し、別棟に新しい寝具を用意させ、馳走を振舞って寵愛の阿倍小足媛(阿倍内麻呂臣の娘)に給仕させるほどであった。
鎌足は感激して舎人に「この様な恩沢を賜るとは思ってもいなかった。天下の王となられるお方である。」舎人は軽皇子に鎌足の言葉を伝えた。
軽皇子は「鎌足は為人が中正(公平)にして匡済(悪や乱れをただして救うこと。)の心有り。」と舎人に語った。
鎌足は蘇我氏打倒の企てを軽皇子に語ったのであろう、軽皇子は蝦夷、入鹿親子の振る舞いに怒りを感じていたが事を起こせば直ちに姉の皇極天皇に災いが起こると語ったのであろう、そして軽皇子が中大兄皇子(後の天智天皇、皇極天皇の皇子)を推挙したのであろうか。
いずれにしても鎌足は軽皇子の計らいか、近づき難かった中大兄皇子が法興寺(蘇我馬子が創建した蘇我氏の氏寺 現在の飛鳥寺)の槻(欅)の樹の下で催した蹴鞠の会に加わった。
中大兄皇子が鞠を蹴った時、弾みで皮鞋(革靴)が脱げ落ち鞠と共に鎌足の前に飛んで来た、鎌足はその皮鞋と鞠の砂を払い両手で奉げ持って中大兄皇子の前に進み跪いて奉った。
中大兄皇子も跪いて受け取り「名は何と申す。」と問われた。鎌足は「中臣鎌足と申します。蹴鞠の会にお招き頂き誠に有難う御座います。」と返答した。
この蹴鞠の会が機縁となり鎌足は中大兄皇子の館を訪ねて語らい親交を深めていった。そして、蘇我氏打倒の企てを打ち明けた。中大兄皇子も「思うところは同じである、どの様に事を運ぶか慎重に策を巡らす必要が有る。」と答えた。
二人は度々会うのは世間の目も有り、鎌足の勧めで中大兄皇子も南淵請安の塾に通い孔子の教えを学ぶ事とした。
そして、二人は書物を抱え肩を並べて歩き往復の途上、策を語り合い、時には多武峰に登って語らい密かに蘇我氏を殺め国の制度を維新する計を練った。(多武峰は談山と称され藤原鎌足の長男で僧の定慧によりこの地に談山神社(神仏分離令以前は多武峯妙楽寺)を創建し鎌足を祀った。)
鎌足が語った「蝦夷が境部摩理勢臣を死に追い遣り、入鹿が山背大兄皇子を殺害した事から蘇我一族に亀裂が生じていると聞き及びます。大事を謀るには蘇我庶家の誰かを引き込み、絆を強める為に姻戚の縁を結ぶのが得策かと思います。蘇我庶家の蘇我倉山田石川麻呂(蝦夷は叔父にあたり、入鹿とは従兄弟)は本宗家とは一線を画し、反目していると聞き及びます、娘に遠智娘がおりますので召して妃とし、婿と舅の関係を結び、いずれ大事を明かし共に事を成せば如何かと思います。」
中大兄皇子は「なるほど、蘇我石川麻呂か、蝦夷は叔父にあたり、入鹿とは従兄弟である。宜しかろう話を進めてくれ。」と申され、鎌足が仲人の役を仰せつかり蘇我石川麻呂の館に赴き話をまとめ上げた。こうして中大兄皇子は鎌足の言を入れて蘇我石川麻呂の娘、遠智娘を妃とした。
一方、蝦夷、入鹿親子は飛鳥板蓋宮(奈良県明日香村岡)を一望できる甘樫丘の麓に館を並べて建て、周りを柵で囲み門の脇に武器庫を設け、門は漢直が兵を率いて警護していた。そして、用水桶を多数配置して火災に備え、家人に武器を持たせて館を常時守らせた。
そして、甘樫丘の館が襲われた時の備えであろう蘇我氏の古里(奈良県橿原市曽我町)に近い畝傍山(甘樫丘北西約三キロ)の東に館を建て、池を掘って防備を固め、武器庫を建てて矢を貯えた。
入鹿は山背大兄皇子を殺害した後、身の危険を感じていたのか館を厳重に守らせ、身辺は常時五十人の兵に護衛させて家を出入りしていた。
鎌足が中大兄皇子に企てを語って早一年が経ち、その間に入鹿の館は要塞の如く厳重に固められ多数の軍勢で押し掛けても反撃され、事は成らないであろう。入鹿一人を殺す何か手立ては無いか。
考え抜いた末に二人が出した結論は皇極四年(六四五年 干支(十干と十二支を組み合わせた六十年周期)の乙巳の年)夏六月十二日に三韓の儀(百済、新羅、高句麗の三国が日本に朝貢に来て天皇に謁見し目録を奏上する儀式)が執り行われる。
大臣の入鹿は必ず出席し、護衛の兵も居らずまたとない好機である。天皇の御前で恐れ多い事では有るがこの機を逃さず入鹿を斬ろうと決断した。
この時、鎌足三十一歳、中大兄皇子十九歳であった。
鎌足は事を成すには宮中の警衛を担っている衛門府(禁中の守衛)に信頼し得る人物はいないか、思い浮かべた。
大内裏(宮城)には十二の門が有り佐伯門の警衛の任に就く佐伯連子麻呂(馬子の命で穴穂部皇子を殺害した佐伯連丹経手の子)、稚犬養門の警衛の任に就く葛城稚犬養連網田、海犬養門の警衛の任に就く海犬養連勝麻呂を思い浮かべ彼らなら誘いに乗るであろうと思い企てを語り、仲間に引き入れて中大兄皇子に推挙した。
そして六月八日、中大兄皇子は蘇我石川麻呂を館に呼び語った。「入鹿は天皇家を傾けようと画策している。これは反逆であり許しがたい。因って六月十二日に三韓の儀が執り行われる御前で入鹿を斬る。そなたは上表文を読み上げて頂きたい。それを合図に宮中の警衛の任に有る葛城稚犬養連網田、佐伯連子麻呂が斬り掛かる。」と謀を語った。
蘇我石川麻呂は驚きしばし黙考した。謀を聞いた以上、断れば傍に控える鎌足が我を斬るであろう、事が成れば宗家に代わり権力を掌中に出来る、もはや選択の余地は無く蘇我石川麻呂は承諾した。
葛城稚犬養連網田、佐伯連子麻呂、海犬養連勝麻呂の三人には鎌足から伝えられた。「六月十二日に三韓の儀が執り行われる御前で入鹿を斬る。蘇我石川麻呂が上表文を読み上げたら葛城稚犬養連網田と佐伯連子麻呂が直ちに斬り掛かれ、ぬからずに斬れ。海犬養連勝麻呂は中大兄皇子の合図で十二の宮門を全て閉じ、衛士が勝手な行動を取らぬよう一箇所に集め『何人も大極殿から外に出すな。』と申し伝えよ。」と申し渡した。
そして、鎌足は用心深い入鹿は昼夜剣を帯びている事を知っており、海犬養連勝麻呂に「帝がお見えになり三韓の儀が執り行われます。大極殿での帯刀は許されませんので剣をお預かり致します。と申し述べて入鹿の剣を奪え。」と申し渡した。
三韓の儀が執り行われる当日、大極殿に群臣が集まり、三韓の使節も着座し、蘇我入鹿も帯刀して座に着いた。
海犬養連勝麻呂は入鹿の前に歩み寄り跪いて鎌足が話した通り入鹿に申し述べた。入鹿は疑うことなく剣を解き笑って海犬養連勝麻呂に剣を手渡した。
海犬養連勝麻呂は鎌足に命じられた通り中大兄皇子の合図で衛門府(禁中の守衛)の衛士に命じて大内裏の十二の門(東西南北に各々三門有った。)を閉めさせ、衛門府の衛士が勝手な行動を取らぬよう一箇所に集め「指図が有るまで何人も大極殿から外に出すな。」と申し渡した。
中大兄皇子は自ら長槍を取って大極殿の脇に隠れ、鎌足も弓矢を持って潜んだ。
そして、鎌足は海犬養連勝麻呂に二振りの剣を運ばせ葛城稚犬養連網田と佐伯連子麻呂に与え「蘇我石川麻呂が上表文を読み上げ始めたらぬからずに斬れ。」と命じた。入鹿を斬る役目を与えられた二人は緊張の余り水も喉を通らぬ有様であった。
見かねた鎌足は「もはや後には引けぬ、腹を据えて剣を構えよ。入鹿は丸腰で警護の者も居らず恐れるに足らず。蘇我石川麻呂が上表文を読み上げ始めたら躊躇はず走り寄って斬れ。」と叱咤激励した。
皇極天皇が大極殿にお出ましになり、古人大兄皇子が傍に侍した。蘇我石川麻呂が御座の前に進み出て三韓の上表文を読み上げ始めたが葛城稚犬養連網田も佐伯連子麻呂も出てこず、もしやしくじったかと思い恐ろしくなって全身から汗が吹き出し、声も乱れ、体が細かく震え、やっとの思いで上表文を読み上げたが震えが止まらなかった。
この様子を見ていた入鹿は怪しんで「何故震えているのか。」と問うた。蘇我石川麻呂は「帝のおそばに近すぎ畏れ多くて汗が滲み、声が震えました。」と弁明した。
この様子を見ていた中大兄皇子は葛城稚犬養連網田も佐伯連子麻呂も小心者よ入鹿の威を恐れて斬り掛かれないでいる。このままでは企ては潰えてしまう。これ以上待てないと業を煮やし、抜刀して「斬り掛かれ」と大声で叫び走って入鹿の頭と肩を剣で切りつけた。
驚いた入鹿は血を流しながら座を立とうとしたが中大兄皇子の大声で我に返った佐伯連子麻呂が入鹿に剣を振り下ろして片足を斬った。
入鹿は皇極天皇の前に倒れ込み中大兄皇子に向かって「自分は何の罪で誅されるのか、そのわけを云え。」と叫んだ。
皇極天皇は茫然自失、大いに驚き中大兄皇子に「これはいったい何事が起ったのか。」と問うた。中大兄皇子は「入鹿は皇族を滅ぼし皇位を奪おうとしております。」と答えた。皇極天皇は直ちに殿中に退くと葛城稚犬養連網田と佐伯連子麻呂が入鹿を斬り殺した。
古人大兄皇子は館に逃げ帰り、家人に「鞍作(入鹿の別名)が韓人に殺された。心が痛む。」と告げて寝所に籠って出ようとしなかった。
予てより鎌足から計画を聞かされていた阿倍内麻呂は「静まれ、」と大喝し、「馬子は皇位を窺う奸臣である非道を糾すには斬る以外に方法はない。これは天誅である。着座してその場を動くな。」と申し渡し、群臣、豪族を説き伏せた。
蘇我庶家は大内裏の十二の門は閉ざされ、館に戻って兵を集めることも叶わず、そして境部摩理勢、山背大兄皇子の件も有り蘇我石川麻呂も蝦夷、入鹿親子の圧政に腹を据え予て中大兄皇子に加担したのであろうと沈黙を守り誰一人刃向かう者もおらず阿倍内麻呂に従った。
この日は大雨が降り庭は雨水で水浸しであった。入鹿の屍は庭に引きずり出され藁蓆で覆われた。
鎌足と中大兄皇子は予ての計画通り飛鳥板蓋宮を出て蘇我蝦夷を討つべく法興寺を目指した。法興寺は蝦夷の館が有る甘樫丘と目と鼻の先に有り、寺は蘇我馬子が創建した蘇我氏の氏寺である。鎌足は法興寺に拠れば蘇我一族は寺に弓を引くのを躊躇うであろう、柵を築いて防備を固め、蘇我一族の反撃に備える格好の場所と考えた。
阿倍内麻呂に説き伏せられた群臣、豪族は諸皇子と共に中大兄皇子に従って法興寺に入った。
入鹿に従っていた巨勢徳陀も兵を率いて法興寺に駆けつけ、群臣、豪族の兵も次々に馳せ参じた。
そして、鎌足は人を遣り入鹿の屍を蝦夷の館に届けさせた。蘇我の館を警護する漢直は藁蓆で覆われた入鹿の屍を見て直ちに一族の兵を集め戦の準備を始めた。
法興寺は甘樫丘の東麓に建つ蘇我親子の館と、飛鳥川を挟んで対峙する位置に有った。互いの動静は手に取るように解り、漢直が戦の準備をしているのも直ぐに解った。蘇我庶家が馳せ参じる気配もなく、鎌足は漢直と親しい巨勢徳陀を遣わして説得に当たらせた。
巨勢徳陀は旧知の漢直に向かって「漢直よ、入鹿は君臣の別をわきまえず驕り高ぶり、皇位簒奪を謀ろうとした奸臣である。今、兵を挙げて道を誤れば奸臣の一味として討たねばならぬ。漢直よ、道を誤るな。」と説いた。
漢直の呼びかけに応じて甘樫丘に駆けつけていた高向臣国押は巨勢徳陀の話を聞き「蘇我庶家も宗家を見限り誰一人駆けつけない、我らは入鹿に従い悪政を手助けした罪により断罪されるであろう。大臣の蝦夷も今日、明日にでも殺されるであろう。ならば誰のために空しく戦って死なねばならないのか。」と云い置いて剣を外し、弓を折って投げ捨てた。兵達も見習って剣を捨て、弓を折り、散り散りに甘樫丘を去って行った。
こうして、巨勢徳陀の説得が功を奏し漢直は武装解除して中大兄皇子に降った。
翌六月十三日、蘇我庶家の誰一人として馳せ参ぜず、もうこれまでと悟った蝦夷は館に火を放って焼け死んだ。この火災で聖徳太子と蘇我馬子が編纂に着手した天皇記と国記も燃え尽きる所であったが編纂に携わっていた船恵尺がかろうじて国記(現存していない)を持ち出して中大兄皇子に奉った。
夏六月十四日、皇極天皇は中大兄皇子を召し、退位して皇位を中大兄皇子に伝えたいと申された。中大兄皇子は承って退出し、中臣鎌足にお受けすべきか否か相談した。
鎌足は「古人大兄皇子は殿下の異母兄にあたります。また、軽皇子は殿下の叔父に当たります。古人大兄皇子を差し置いて若年の殿下が帝位に就けば、儒教の五倫(君臣の義,父子の親,夫婦の別,長幼の序,朋友の信)の教え、長幼の序(年少者は年長者を敬い、従わなければならない。)に反し人の道に背く行いと思います。ここは叔父の軽皇子を立てられるのが賢明かと存じます。」と申し述べた。
中大兄皇子はなるほどと思い、密かに皇極天皇に謁見し皇位は軽皇子が相応しいと奏上した。皇極天皇は軽皇子と古人大兄皇子を召し、「中大兄皇子に退位するので皇位に就くよう申し渡したが固辞された。よって軽皇子に神器(皇位の璽である八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣)を授ける。」と申し渡したが、軽皇子は固辞し「古人大兄皇子は舒明天皇の第一皇子で私より年長です。古人大兄皇子が皇位に就くのが順序と思います。」と申し述べた。
古人大兄皇子は数歩退いて平伏し「私が蝦夷、入鹿と親交を結んでいた事、ご承知と思います。過去の事を水に流し皇位に就くは恐れ多い事と存じます。私は直ちに出家して吉野に入り仏に仕えて天皇の幸せをお祈りいたします。」と申し述べ直ちに退出して法興寺に入り腰の太刀を解き、自ら髭や髪を剃り落とし袈裟を纏って吉野に旅立たれた。
こうして、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し孝徳天皇が即位した。(譲位とは生前に皇位を譲る事で皇極天皇が弟の軽皇子に譲位したのが最初とされている。)
即位した孝徳天皇は中大兄皇子を皇太子に就け、臣の姓から任命されていた大臣と連の姓から任命されていた大連を廃し阿倍内麻呂を左大臣(首座)に、蘇我石川麻呂を右大臣に、最大の功労者である中臣鎌足は内臣に任じた。
中臣氏は神祇を司る家柄で蘇我氏、大伴氏、阿倍氏等と比較すると一段劣っており制度上左大臣、右大臣に中臣氏を就ける事は出来なかった。そこで新しく内臣の官職を制定し天皇の最高顧問として大臣と同等の権限を与えた。
そして、鎌足は高向玄理と旻を国博士に任じ、孝徳天皇に奏上して元年六月十九日(六四五年七月十七日)、唐に倣い我が国で初めて元号を用い大化と定めた。
大化元年九月十二日、吉備笠臣垂が中大兄皇子に密告した。「吉野の古人大兄皇子が蘇我田口臣川堀、物部朴井連椎子、倭漢文直麻呂、朴市秦造田来津と共に謀叛を企てております。私もその仲間の一人です。」と申し述べた。
この密告は古人大兄皇子を殺害する為の策謀であった。謀叛を企てたとされる五人はいずれも処罰されていないのが不思議である。
中大兄皇子は鎌足の策謀であろうと察したが菟田朴室古と高麗宮知に兵四十人を授け吉野を攻めて古人大兄皇子とその子を討たせた。
冬十二月九日、都を難波長柄豊碕宮(大阪市中央区法円坂の前期難波宮跡)に遷都する事を決めた。
大化二年(六四六年)春一月一日、賀正の礼が執り行われた後、改新の詔が発せられた。
詔は高向玄理の建言に拠るのか内容は唐の律令制に範を取ったものであった。
その一は豪族が支配する田荘(領地、私有地)と耕作する部曲(領民、私有民)を公収して田地や民はすべて天皇のものとする。(公地公民)そして、大夫(四位、五位)より上の者に食封(給与される封戸、俸禄)を与える。
その二は京師(都城)を定め、畿内(都城の周辺地域)、国司、郡司、関塞(関所)、辺境守備の防人などを置き、公的な交通機関として駅馬・伝馬を設ける。京師(十二坊)には坊ごとに坊の長を置き、四坊に一人の令を置く。畿内とは東は名張の横川(名張川)、南は紀伊の背山(和歌山県かつらぎ町妹背山)、西は明石の櫛淵(明石川辺りか)、北は近江の楽浪の逢坂山(滋賀県大津市西部 古代逢坂関が有った。)とする。駅馬・伝馬の利用は鈴契で行う。
その三は初めて戸籍、計帳(人頭税の台帳。租税を集計した帳簿 六年に一度調査した)、班田収授(公地公民により計帳に基づいて班給(田を分かち与え)、死亡者の田は没収した。)の法をつくる。五十戸を里として里長を置く、田は三六〇歩(一歩は一坪)を一段、十段を一町(三六〇〇坪 現在の一町は三〇〇〇坪)、田租は段ごとに二束二把とする。(一束は籾米で一斗(一八リットル相当)一把は籾米で一升(一・八リットル相当)よって二斗二升(三九・六リットル))
班給される土地の面積は七五七年に施行された養老律令によると身分、位階により異なり、民衆へ一律に支給された口分田(人数に割当てる田)は六歳以上の男性に二段(七二〇坪)、女性にはその三分の二(四八〇坪)が与えられた。そして位階に応じて支給される位田(五位以上)の面積は正一位の場合八〇町、従五位で八町であった。官職に就いた者に支給される職田は太政大臣四〇町、左右大臣三〇町、大納言二〇町、大国守二町六段であった。
その四は従来の賦役(無給の労働)をやめて、田の調(田地面積に応じて賦課される租税、一町につき絹一丈,絁(目の粗い絹)二丈,布四丈)、戸別の調 (一戸につき粗布一丈二尺、副物として塩か贄(特産物))を徴収する。百戸につき中級の官馬一匹を徴し、良馬なら二百戸に一匹。武器は各自、刀、甲、弓、矢、幡を自前で用意せよ。仕丁(労役)は五十戸に一人。また采女は郡の少領以上の者の姉妹や子女で容貌端正な者を奉れ。そして、従丁一人、従女二人を従わせ、百戸で采女一人の食料を負担せよ。
改新の勅の概要は以上のような内容であった。
大化五年(六四九年)春三月十七日、左大臣の阿倍内麻呂が薨去した。
三月二十四日、蘇我臣日向(蘇我石川麻呂の異母弟)が中大兄皇子に「蘇我石川麻呂が謀叛を企てている。」と讒言(他人を陥れようとして、事実をまげ、いつわって悪しざまに告げ口をすること。)した。中大兄皇子は左大臣の阿倍内麻呂が薨去し、再び蘇我氏の台頭を警戒した鎌足が蘇我一族を朝廷の中枢から排斥する策謀であろうと思ったが帝に奏上した。
帝は乙巳の変での功臣でもあり直ぐに兵を差し向けず真偽を確かめる為、大伴狛連、三国麻呂公、穂積嚙臣の三人を蘇我石川麻呂の館に遣わし事の虚実を問わせた。
嫌疑を掛けられた蘇我石川麻呂は釈明を拒み「直接、帝に申し上げたい。」と答えて虚実を明らかにしなかった。帝は再び三国麻呂公、穂積嚙臣を遣わして問わせたが返答は同じであった。
帝はやむなく蘇我石川麻呂の館を包囲すべく兵を差し向けた。兵が迫ったと知った蘇我石川麻呂は二人の子、法師と赤猪を連れて難波の宮を逃れて茅淳の道(摂津国難波から和泉国を経て紀伊国に至る古道)から竹内街道(堺市の大小路から奈良県葛城市の長尾神社に至る日本最古の街道)を経て大和桜井の山田寺(奈良県桜井市山田)を目指して逃れた。
山田寺は蘇我石川麻呂の発願により建立が開始された寺で、伽藍全体の整備は未完成であったが一応寺院としての体裁を整えており長子の興志が造営中であった。興志は突然、父が逃げてくると聞き、今来(奈良県高市郡明日香村)で出迎え、一行を先導して山田寺に入った。
そして、蘇我石川麻呂は事の顛末を興志に話した。興志は兵を集めて抗戦しようとしたが蘇我石川麻呂は興志を止めて語った。「蝦夷、入鹿の如き権力の集中を避ける為、改新の勅が発せられ姓に拠らず左大臣、右大臣と均衡を保つ制とし、阿倍内麻呂臣を左大臣に、我を右大臣に、中臣鎌足を内臣に任じられたが、春三月十七日に阿倍内麻呂臣が薨去し朝廷の均衡が崩れた。我は蘇我一族であり蝦夷、入鹿の如き権力を握るのではないかと誰かが恐れ、蝦夷、入鹿の時代から疑心暗鬼に陥っている蘇我一族の蘇我日向に目を付け皇太子を殺めるなど有りようもない讒言を語らせたので有ろう。一度疑われた事はもはや元には戻らぬ。死をもって潔白を晴らすべく、仏の御前で死のうとこの寺に来た。よって、兵を集め抗戦すれば謀叛を企てた事になる。せめてもの願いは安らかに死を迎えたい。」と云い終えて金堂の扉を開き「世の末まで決してわが君のことを恨み奉りません。」と仏に誓い自ら首をくくって自殺した。興志をはじめ妻子も死に殉じた。
蘇我石川麻呂が山田寺に逃れたと知った帝は大伴狛連と蘇我日向に兵を授け、蘇我石川麻呂を追わせた。二人が黒山(大阪府堺市美原区黒山)に至ると蘇我石川麻呂に仕えていた土師連身と采女臣使主麻呂が山田寺から馳せ来たり蘇我石川麻呂は妻子とともに首をくくって死んだと告げたので大伴狛連と蘇我日向は都に引き返した。
翌日、木臣麻呂、蘇我日向、穂積噛が兵を率いて寺を囲み、物部二田造塩を呼んで蘇我石川麻呂の首を斬らせた。そして、蘇我石川麻呂に連座して十四人が斬首され、九人が絞首され、十五人が流刑に処せられた。
蘇我石川麻呂の資財を没収し謀叛の証拠を調べさせたが何一つ発見されなかった。中大兄皇子の妃遠智娘(蘇我石川麻呂の娘)は塩が父の屍の首を斬ったと知り心痛の余り命を縮めた。
左大臣、右大臣が空席となり中大兄皇子と鎌足は御し易い巨勢徳陀を左大臣に、大伴長徳連を右大臣に任命し、讒言を申し述べた蘇我臣日向は栄転を装い筑紫大宰帥(大宰府の長官)に左遷された。
大化六年(六五〇年)二月九日、長門の国(山口県)から白い雉が献上され吉祥の顕れであると大赦を行い元号を白雉に改元した。
白雉三年(六五二年)壮大な難波長柄豊碕宮が完成し都を遷したが、帝は蘇我石川麻呂を死に追い遣ったのは中大兄皇子の策謀では無いかと疑い、朝廷の全権を掌握する中大兄皇子と帝との間に確執が生まれていた。
遷都の翌年、中大兄皇子は「倭(奈良)の京に遷りたいと思います。」と帝に申し述べた。帝は許さなかったが中大兄皇子は上皇(皇極)、間人皇后(皇極天皇の皇女)、大海人皇子らを率いて飛鳥河辺行宮にお移りになった。左右大臣をはじめ百官も付き従った。
帝は軽皇子の頃から親しい鎌足に紫冠(大臣と同等の位)を授け、中大兄皇子との関係修復を願ったが叶えられなかった。
白雉五年(六五四年)冬十月、失意の帝は病に倒れ、知らせを受けた中大兄皇子と上皇、皇后らが見舞いに駆け付けたが冬十月十日、五十八歳で崩御された。冬十二月八日、大坂磯長陵(山田上ノ山古墳 大阪府南河内郡太子町)に葬った。
自然の流れとして皇太子の中大兄皇子が即位して然るべきを、鎌足は中大兄皇子に進言した。「帝との確執故とは申せ、帝の反対を押し切り倭の飛鳥河辺行宮に遷られました。しかも、上皇並びに皇后と皇子も付き従い、左右大臣と百官も帝を見捨てて倭に遷った。帝は煩悶(悩み苦しむ)のあまり心の病に侵されて崩御されました。今、即位すれば世人は帝に対する反逆であり、皇位を簒奪する意図が有って倭に帰ったと取られかねません。先帝の(孝徳天皇)皇子、有馬皇子はまだ十四歳と幼く、大海人皇子は弟君です。今、皇子の他に皇位を継ぐお方は居られません。上皇のお歳は六十二歳になられます。ここは百歩譲って上皇に重祚を願い出て皇子は皇太子の地位に居られるのが肝要かと存じます。」と進言した。
こうして、皇極天皇が重祚して六十二歳の斉明天皇が即位した。
斉明三年(六五七年)秋九月、有馬皇子も十七歳となり自分の置かれている立場も薄々と解りはじめ、いずれ我に累が及ぶであろうと察し賢明な皇子は時には狂者を装い、病と称して紀ノ國の牟婁の湯(白浜温泉)に行って、病気療養してきたと虚言を語り、「その場所を見ただけで病気が治った。」帝はこの話をお聞きになり行ってみたいと思われた。
斉明四年夏五月、中大兄皇子の長子、建皇子が八歳でお亡くなりになった。
建皇子は母の遠智娘が父蘇我石川麻呂の死を知り狂乱の内に生まれたのが原因で唖となり言葉が話せなかった。斉明天皇は孫の建皇子を不憫に思い特に可愛がられていた。お亡くなりになり悲しみに耐えられず慟哭して泣き暮らした。
そして、「萬歳千秋の後に、要ず朕が陵に合せ葬れ」と言い、自分が崩御した際一緒に合葬せよと近侍の者に命じた。その後も建皇子を思い出しては涙した。
冬十月、中大兄皇子は悲しみに暮れる帝を慰めようと紀ノ國の牟婁の湯に行幸された。明らかに企みが有ったのであろう。
蘇我赤兄(蘇我石川麻呂の兄弟)が有馬皇子に近づき帝の失政を挙げて、自分は皇子の味方であると語り有馬皇子に謀叛を唆した。有馬皇子も蘇我赤兄が味方なら蘇我一族の後ろ盾を得られるであろうと思い、蘇我赤兄に心を許し挙兵の意思を示した。
五日後、有馬皇子は守君大石、坂合部連薬、塩屋連鯯肴を伴って蘇我赤兄の館を訪ね謀議を巡らし短籍(短い紙片で作った籤)で謀叛を占った。
その時、有馬皇子の脇息の脚が突然折れて皇子が倒れこんだ。これを見た蘇我赤兄は「不吉な予感がする。この話は無かった事にしよう。誰にも語らぬ。」と皆で誓い合った。
しかし、赤兄は有馬皇子が帰った後、物部朴井連鮪を呼び「有馬皇子が謀叛を企てている。逃亡せぬよう夜中に宮殿造営の役夫を率いて、市経(奈良県生駒市壱分町)の皇子の館を包囲せよ。」と命じた。
そして、紀ノ國の牟婁の湯へ早馬を遣わして中大兄皇子に「有馬皇子が謀叛を企てている。」と急報した。
有馬皇子と守君大石、坂合部連薬、塩屋連鯯肴は捕らえられ紀ノ國の牟婁の湯へ護送され、有馬皇子の舎人新田部米麻呂が付き従った。
護送の途次に詠まれた短歌が万葉集に収められている。
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
(家にいる時は器に盛る飯を、旅の途中なので椎の葉に盛る)
牟婁の湯に着くと中大兄皇子が自ら尋問した。「何故、謀叛を企てたのか。」有馬皇子は「天と赤兄が知っているだろう。私は全く知らない。」と答えた。
中大兄皇子は「都に戻り、改めて尋問し処罰を決める。」と述べ有馬皇子と謀叛を企てた守君大石、坂合部連薬、塩屋連鯯肴を都に護送して軟禁せよと命じた。
そして翌日、中大兄皇子は丹比小沢連国襲を召し「直ちに有馬皇子を追い処刑せよ。」と命じた。丹比小沢連国襲は藤白坂(和歌山県海南市藤白 藤白神社)で追い付き皇子を絞殺し、塩屋連鯯肴と舎人の新田部米麻呂の二人を斬った。
塩屋連鯯肴と舎人の新田部米麻呂は激しく抵抗したのであろうか、他の二人、守君大石は上毛野国(群馬県)へ、坂合部連薬は尾張国(愛知県西半分)へ流刑に処したに過ぎない。