皇位争乱
第十八話 白村江の会戦
朝鮮半島では「敵の敵は味方」の言葉通り、唐は高句麗の地を奪うべく新羅と結んで高句麗を攻め、百済は高句麗と結んで新羅を攻める激しい争いが繰り広げられていた。
舒明十三年(六四一年)、百済の武王が没し嫡男の義慈王が即位すると翌年の七月、新羅に親征し四十余城を陥落させた。
八月には将軍の允忠に兵一万を授け大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃し、城主の品釈は降伏し命乞いをしようとしたが金春秋(後の武烈王)の実の娘で有る妻の古陁炤は王族の矜持を示し直ぐに首を斬れと迫り、允忠は兵に命じて二人の首を刎ねさせた。
大耶城は伽耶地方に有り任那とは隣接した地である。新羅から伽耶地方を奪還した百済は倭国との結びつきを強める為に任那の調(租税・貢納品)を奉り、王子の豊璋と善光を人質として差し出した。
皇極二年(六四三年)九月、百済と新羅は共に唐の冊封国(臣下の礼をとった服属国)として毎年朝貢(年一回が原則)を欠かさなかった。
新羅の善徳女王(新羅初の女王)はその朝貢の道筋に有る党項城を百済と高句麗の連合軍が攻撃すると云う情報を得て唐に援軍を要請した。
百済、高句麗の思惑は唐への朝貢の道を断ち新羅を孤立させる事であったが新羅が唐に援軍を要請したので攻撃は中止した。
その後も百済と新羅は激しい戦闘を繰り広げ百済の将義直が新羅の西部国境に攻め込み腰車城を含め十余城を陥落させ、軍を玉門谷まで進めたが新羅の金庾信に大敗を喫する等々、戦いは一進一退であった。
孝徳四年(六四九年)秋八月、百済の大軍が新羅の道薩城に迫った。道薩城は新羅の北端にあり百済、高句麗との境界に位置し常に三国の係争の地であった。
新羅の将軍金庾信は大軍を率いて駆けつけ城外に布陣して百済の大軍を待ち構えた。百済軍は金庾信の策に嵌り大敗した。
孝徳七年(六五一年)、唐の皇帝高宗は百済の朝貢の使者に新羅と和睦を勧める璽書(天子の印を押した文書)を託したが百済の義慈王は承服せず、以後唐への遣使を取り止め新羅と抗争を繰り返した。
斉明元年(六五五年)には高句麗と連合して新羅の北方を攻め三十三城を奪った。この頃から百済の義慈王は傲慢になり酒色に溺れ朝政を顧みなかった。
孝徳十年(六五四年)、百済は大旱魃に見舞われ民は食糧に窮し大変な飢饉となったが義慈王は飢饉対策をとらず王に諂う佞臣に囲まれ享楽にふける日々を送っていた。
民の窮状を知る忠臣の成忠は何度も謁見を願い出て王の行いを厳しく諫め、軍糧の放出を訴えたが義慈王は耳を貸さず、諫言を呈する成忠を誹謗する奸臣の言葉を信じ成忠を投獄した。
しかし、成忠は投獄されても国を思い陸路では東の要塞炭峴を越えさせてはならない、海は白江(錦江の入口 書記では白村江)の丘を越えさせてはならないと防備を固める事を上書して獄死したが遺書は義慈王に届かなかった。そして、義慈王は奸臣の虚言を信じて百済の名将興首を流罪に処していた。
新羅の武烈王(金春秋 金庾信に擁立された)はこうした百済の退廃、人心の乱れを察知し百済を攻める好機が到来したと確信し唐に援軍を要請した。
斉明六年(六六〇年)春三月、百済からの朝貢が絶え百済進攻を画策していた唐は新羅の要請を受け、皇帝高宗は西方の鎮圧を終えて帰還した歴戦の将軍蘇定方に水陸合わせて十三万の大軍を授けて百済征討を命じた。新羅の武烈王も金庾信に五万の兵を授け百済の泗沘城(忠清南道扶餘郡)攻略に向かわせた。
唐、新羅の連合軍が攻めて来ると知った百済の義慈王は諸将を集めて軍議を開き如何に戦うべきかを諮った。
将の義直は「唐軍は遠く海を渡り、海に慣れぬ兵が船酔いして上陸し士気が下がっている。従って唐を撃てば援軍を恃んだ新羅は恐れをなして退却するで有りましょう。」と申し述べた。
将の常永は「唐軍は遠く海を渡り、早く戦わんと士気が上がっていると思います。新羅は度々我軍に敗れており我軍が攻め掛かれば恐れて退くでありましょう。然る後に唐軍に当たるべきと思います。」と申し述べた。
別の将は「籠城して戦いましょう。」と述べ意見は纏まらず、窮した義慈王は古馬弥知県に流罪となっている興首に使いを出し如何に処すべきかを問わせた。
興首は成忠と同じように新羅に東の要塞炭峴を越えさせてはならない、海は白江の丘を越えさせてはならないと防備を固める事を進言した。しかし、奸臣は興首の進言に耳を貸さず唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した。
唐軍を率いる蘇定方は山東半島から海を渡って百済の尾資の津(錦江河口 白江)に上陸し、沿岸に布陣していた百済軍を破った。
百済の東の境、怒受利山に布陣していた新羅の金庾信も国境を越えて炭峴の要塞を易々と破り黄山の原に布陣した。
成忠と興首が危惧した白江の丘は唐軍が越え、東の要塞炭峴も新羅に破られ泗沘城に危機が迫った。
百済の将軍階伯はくだらぬ軍議に業を煮やし「敵が迫り、国の存亡が掛かっている時、五日も無駄にしてなを議論を重ねるのか、武人は危急存亡の時、国の為に戦うのが本分である。無駄な議論は聞き飽きた。」と怒声を発して席を立った。
そして、もはや勝ち目が無い事を予見していたが狭隘な炭峴で迎撃すれば勝算が有るかも知れぬと五千の兵を率いて出撃したが時すでに遅く金庾信率いる新羅軍は易々と炭峴を越えて黄山の原に布陣していた。
黄山の原は金庾信率いる五万の新羅兵で埋め尽くされていた。階伯は平原の戦いで寡兵では勝ち目は無いと悟ったが兵を鼓舞して恐れる事なく果敢に攻め、緒戦は階伯が勝利したが衆寡敵せず四回の戦闘で打ち破られ階伯は壮烈な死を遂げた。
金庾信は黄山の原の戦いで階伯に苦しめられ約束の期日に間に合わなかったが蘇定方率いる唐軍と合流し怒涛の如く首都の泗沘城に迫った。
百済の義慈王は泗沘城を捨てて北方の熊津城に逃れたが王子の泰(第二子)が王を名乗って城を守り三日間戦ったが守り切れずに投降した。
熊津城に逃れた義慈王も泗沘城が落ち城を包囲されて投降し、后妃、太子の隆と王子の孝、泰、演、並びに君臣ら八十余人も捕らえられて長安に送られた。
唐の皇帝高宗は義慈王を接見し全員の縄を解かせて許し、長安に住む事を許した。義慈王はその年の内に長安で病死し百済は滅亡した。
百済が滅亡した後、唐は百済の旧域を管轄する熊津都督府を置き劉仁願を熊津都督(総司令官)に任じて軍隊の大部分が引き上げ、一万余の駐留軍のみとなった。各地に潜んでいた百済の旧臣は唐軍が引き揚げたのを契機に蜂起し各地で反乱を起こした。
王族の一人、鬼室福信(義慈王の父である第三十代武王(余璋)の甥。)は僧の道琛と共に任射岐山に布陣し、余自進(百済の王族)は久麻怒利城に拠り、散り散りになっていた兵を集めて新羅に抗戦した。
武器が無く棍棒で戦い、敵を倒してはその武器を奪い激しく戦って新羅軍を打ち破った。そして、鬼室福信が周留城を奪還し、余自進も兵を率いて周留城に合流した。
黒歯常之も任存山城に拠り唐に叛旗を翻した。すると次々に兵が集まり瞬く間にその数三万に達した。唐の蘇定方は軍を派遣し任存山城を囲ませたが黒歯常之の精兵に打ち破られ大敗を喫し、黒歯常之は敗走する唐軍を追撃して次々に城を奪った。
事態を重く見た蘇定方は自ら軍を率いて奪われた城を次々に奪還し任存山城に迫った。大軍に城を囲まれたら兵糧も乏しく持ち堪えられない、黒歯常之は兵を率いて鬼室福信の拠る周留城に合流した。
斉明六年(六六〇年)冬十月、鬼室福信は左平(百済の最高官位)の貴智を倭国に遣わし、唐の捕虜百余人を献上して援軍を乞うた。
謁見を許された貴智は「唐人が新羅を率いて、我が辺境を犯し、我が国を覆し、国王と后妃、王子、君臣ら五十余人を捕虜にしてしまいました。しかし、百済国は遥かに遠い倭国の天皇の加護を頼りとして離散した兵を集め新羅と戦って再び国を回復致しました。今、謹んでお願い申し上げます。一つは百済国が貴国に遣わした王子豊璋を迎えて、国王に推戴したいと願っております。二つは百済再興の為何卒救援の軍を差し向けて頂きたく願い奉ります。」と奏上した。
斉明天皇は詔して「援軍の要請は前々から聞いている。百済は古より兄弟の国である。国難を助け、絶えた王統を継ぐのを助けるのは当然の事である。新羅に滅ぼされた事を忘れず臥薪嘗胆して国の再興を誓い遠くから助けを求めて来た。その志を見捨てるわけにはいかない。将軍達に命じて軍を差し向けよう、共に兵を合わせ、鉦鼓を打ち鳴らして新羅の地に攻め込み仇を討ち圧政に苦しむ民を助けよう。有司(官吏、役人)は王子豊璋のために充分な備えを与え、礼節をもって送り遣わすように。」と申された。
中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足は事前に貴智から願いの筋を聞いており、百済が滅ぶと任那を失い遣唐使を派遣しているとは云へ、大陸の先進的な技術や文化は主に百済からもたらされていた。何としても百済を再興し神功皇后以来連綿と維持してきた任那の権益を易々と失う訳にはいかないと思ったのであろう。二人は百済支援を了承し帝の詔となった。
斉明六年(六六〇年)冬十二月、鬼室福信の願いに応じて種々の武器を準備し、駿河国に軍船の建造を命じた。
七年(六六一年)春一月六日、帝は太子の中大兄皇子と百済の皇子豊璋を伴い百済派兵の指揮を執るため船団を率いて筑紫の那ノ津(那珂川河口 博多港)に向かった。
春一月十四日、伊予(愛媛)の熱田津(松山市付近)に停泊し、帝は石湯(道後温泉)の行宮に泊まられ、二ヶ月余滞在された。
この時、大海人皇子と妃の額田王も同行していたのであろう額田王は熱田津で次の様な歌を詠んでいる。
熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
春三月二十五日、筑紫の那ノ津に着き磐瀬行宮(福岡市南区三宅)に入られ宮の名を長津宮とされた。
夏五月九日、帝は朝倉橘広庭宮(朝倉宮 福岡県朝倉市)に遷宮された。
斉明七年(六六一年)夏七月二十四日、帝は百済派兵の準備の最中に朝倉宮で崩御された。御歳六十七歳であった。
太子の中大兄皇子は即位せずに喪に服し、白の麻衣を召して政務をとり、百済派兵の指揮を執った。
秋八月、前軍の将に阿曇比羅夫、河辺百枝、後軍の将に阿倍引田比羅夫、物部熊、守大石を遣わして武器、食料を送り百済を救援させた。
秋九月、長津宮で百済の皇子豊璋に織冠を授け、多蒋敷(古事記を編纂した太安麻呂の親族)の妹を妻とされた。
そして、狭井檳榔、秦田来津に軍兵五千余を授け豊璋を百済に護り送らせた。豊璋は約三十年ぶりに帰国を果たし、鬼室福信に迎え入れられ百済王に推戴された。
冬十月七日、太子の中大兄皇子は喪船を仕立てて帰路に着き冬十月二十三日難波に帰着した。そして、冬十一月七日、飛鳥川原に殯宮を建て、九日まで悲しみの発哀(声を出して哀惜をあらわす礼)を捧げた。
太子の中大兄皇子は喪が明けきらぬ冬十二月、百済派兵の指揮を執る為、難波を立ち筑紫の長津宮に入られた。
天智元年(六六二年)春一月、百済の鬼室福信に矢十万隻(本)、糸五百斤、綿一千斤、布一千端、なめし皮一千張、稲種三千石を送った。
春三月、百済の北に位置し百済と同盟していた高句麗が唐、新羅の連合軍に攻められ倭国に救いを求めて来た。中大兄皇子は求めに応じて兵を送り唐、新羅の連合軍の進軍を防いだ。これにより半島の戦いは唐、新羅の連合軍に敵対して倭、百済、高句麗の三国同盟軍の争いとなった。
夏五月、中大兄皇子は阿曇比羅夫を大将軍に任命し一万余の兵を授け、阿曇比羅夫は軍船百七十艘を率いて百済に向かった。
天智二年(六六三年)春三月、前軍の将に上毛野稚子、間人大蓋、中軍の将に巨勢神前譯語、三輪根麻呂、後軍の将に阿倍比羅夫、大宅鎌柄を任命し兵二万七千を授け新羅を攻めさせた。
夏五月、犬上君が高句麗に急行して倭国の出兵を告げて還る途上、石城で百済王豊璋に会った。豊璋は犬上君に「鬼室福信が謀反を企てているとの噂が耳に入った如何したものか。」と語った。犬上君は「戦況が不利となった新羅が内紛を起こさせる為に百済の佞臣に告げた謀であろう。」と語り取り合わなかった。
前軍の将、上毛野稚子が新羅に奪われていた二城を奪還し優勢に戦いを進めていた最中の夏六月、佞臣の徳執得が百済王豊璋に「鬼室福信が謀反を企てている間違いありません。」と告げた。
豊璋はまさか福信がと思ったが、国の再興も半ばとなり福信も王族の一人で有り王位を窺っても不思議は無い、真偽の程は定かでは無いが打たぬ鐘は鳴らぬの譬へも有り捕らえて手を穿ち革紐を通して手を縛ったが確証はなく処罰出来なかった。
諸臣を集め「福信の罪を糾したい。意見を申せ。」と問うたが諸臣も噂を耳にしていたが真偽の程は定かでなくまして大功ある福信がまさかとの思いが有り誰も応えなかった。
福信は「戦況が不利になった新羅が王と私が離反すれば百済に内紛が起こり倭国も百済を見限って軍を引くであろうとの企みであろう。佞臣の言を信じ嫌疑を掛けられ痛恨の極みである。」と叫んだ。
豊璋は諸臣に重ねて問うたその時、徳執得が進み出て「新羅に通じているのは明らかです。倭国の将秦田来津の反対を押し切り新羅に近く平地で守り難い僻城に都を遷し、新羅に攻められて徳安などの要地を奪われ少なからず兵を失って結局周留城に戻りました。又、福信と共に百済再興に立ち上がった僧の道琛を意見の相違とは云へ殺めました。罪を許せばいずれ王位を奪うで有りましょう、許してはなりません。」と申し述べた。
福信は徳執得を睨みつけてその顔に唾を吐き掛け「この腐れ犬の大馬鹿者」と罵った。豊璋は徳執得の言を信じ兵に命じて福信の首を刎ね、曝し首にする為に酢漬けにした。
天智二年(六六三年)秋八月十三日、新羅の文武王は百済王豊璋が大功ある良将の福信を斬ったと知り、直ちに熊津都督の劉仁願に援軍を求め、自ら兵を率いて百済を殲滅すべく豊璋が拠る周留城(錦江の下流)攻略に向かった。豊璋は新羅の動きを察知し倭国に援軍を乞う使者を遣わした。
新羅から援軍の要請を受けたが熊津都督府には泗沘城が鬼室福信に包囲された時、救援に駆け付けた劉仁軌が率いて来た兵を含めても一万数千に過ぎなかった。劉仁願は直ちに皇帝高宗に援軍を要請し、高宗は孫仁師に七千の兵を授け熊津都督府に向かわせた。
熊津に集結した兵力は二万余となり、劉仁願は孫仁師に一万余の兵を授け周留城攻略に向かわせ、劉仁軌に七千の兵と軍船百七十艘を授け熊津から白村江(錦江の河口)に向かわせた。この船団には糧船が含まれており任務は後方支援の兵站を担っていたのであろう。
周留城は孫仁師が指揮する唐と新羅の軍勢に囲まれ激しい攻防が繰り広げられた。
倭国に援軍を要請した使者が夜陰に乗じて帰還し豊璋に謁見し「倭国の将廬原君臣が一万余の兵を率いて数日の内に到着するで有りましょう。」と申し述べた。
豊璋は倭国の軍が到着するまで何としても持ち堪えねばならない、軍議を開き諸将に告げた。「倭国の将、廬原君臣が一万余の兵を率いて、今に海を越えて馳せ参じる。諸将よ、勇を鼓舞して敵に立ち向かえ。」そして、豊璋は倭国の軍を迎えに行くと諸将に告げ白村江に向かった。
白村江が有る錦江は百済にとって重要な水上交通路であった。錦江の中流には百済の旧都、熊津城が有り下流の扶餘には国都の泗沘城があり、周留城は錦江下流北側の山岳地帯にあった。
天智二年(六六三年)秋八月十七日、新羅の金庾信に率いられた一万余の兵と唐の孫仁師に率いられた一万余の兵は周留城を包囲した。周留城を守る黒歯常之は兵を鼓舞して猛攻に耐え倭国の援軍の到着を待ち望んでいた。
秋八月二十七日、廬原君が率いる先陣の軍船が白村江に着くと思いもよらず唐の劉仁軌が率いる軍船百七十余艘が陣を敷いて待ち構えていた。
激しい海戦が繰り広げられたが唐軍は潮の干満を利して倭軍の軍船を攻撃して炎上させ倭軍は敗れて退いた。
翌二十八日、数に勝る倭軍と百済軍は連合して唐軍に向かったが陣形も定めず、指揮系統も定めず、作戦も定めていなかった。先を争って攻めれば退くであろうと唐軍を見くびっていた。
唐軍の将劉仁軌は錦江の左右に軍船を配し向かって来た連合軍を左右から攻撃した。連合軍は混乱し舳先を巡らすことも出来ず水中に落ちて溺死する者も多かった。
秦田来津は天を仰いで無謀な戦の結果を知り敵船に乗り移って数十人を斬ったが壮絶な戦死を遂げた。こうして四百余艘の軍船が炎上し連合軍は大敗して退き牟弖の港に集結した。
白村江でこの海戦を見た豊璋は周留城に戻る事なく小舟に乗って高句麗目指して逃亡した。
周留城の黒歯常之は兵を鼓舞して防戦に努めたが、城は唐軍の将孫仁師が指揮する唐、新羅の連合軍に囲まれ落城は時間の問題であった。
秋九月七日、孫仁師は黒歯常之の武勇を聞き知っており殺すのは忍びないと思い降伏を勧告する使者を遣わした。
黒歯常之もこれ以上戦っても勝ち目は無く護るべき王もいない。黒歯常之は城兵の助命を条件に城門を開き降伏に応じた。
こうして周留城が落ち百済再興は潰え去り、黒歯常之は長安に連行されたが軍事的才能を高く評価され唐の将軍となった。
敗残の兵は倭国の軍船が集結した牟弖の港を目指した。そして、周留城が落ち豊璋は行方知れずと知らされた船団の将は百済の敗残兵を収容して倭国の将が守る弖礼城を目指して出港した。
秋九月十三日、船団は弖礼城に到着し弖礼城の将に周留城が落ち豊璋は行方知れずと告げ、軍議を開き救援すべき百済が滅んだので戦う意味を無くし帰国する事とした。
秋九月二十四日、百済の難民を収容し翌日、弖礼城を出帆した。百済難民の中に王族の余自進と官吏と兵法に明るい憶礼福留、答体春初、四比福夫も乗船していた。
中大兄皇子と中臣鎌足は帰国した将兵から白村江で思いもよらず唐軍の軍船に遭遇し一戦を交えたが敗退し、百済再興に奮闘した黒歯常之が守る周留城も唐と新羅の連合軍に敗れて降伏し百済王豊璋は行方知れずとなったと告げられ二人は愕然とした。
斉明七年(六六一年)五月二十三日に斉明五年(六五九年)に派遣した遣唐使が帰着し、副使の津守吉祥の報告では「帰朝が遅れたのは唐が新羅と連合して百済に出兵する計画が有り秘密を守るために洛陽に留め置かれた。斉明六年(六六〇年)七月に唐と新羅は連合して百済を攻め、降伏した百済の義慈王以下太子の隆、諸王子、君臣ら五十余人を捕らえ長安に送った。十一月、楼上から引見した唐の皇帝高宗は恵を垂れて俘虜の縄を解き釈放して長安に住む事を許した。我々も労をねぎらわれ二十四日に洛陽を発った。」との事であった。
唐の皇帝高宗が百済の義慈王を赦したのであれば新羅を討って百済再興に手を貸しても問題は無かろうとの思いで半島に出兵した。よもや白村江で唐と一戦を交え大敗するとは思いも及ばなかった。
善後策を講じる間もなく翌年の天智三年(六六四年)夏五月十七日、熊津都督の鎮将(司令官)劉仁願は郭務悰と随員三十人を遣わし、表函(上表文を収めた函)と献物を奉った。
中大兄皇子の許しを得て表函を改め一読した鎌足は唐の皇帝高宗の璽書(天子の印を押した文書)ではない事を確かめ郭務悰に告げた。「熊津都督の鎮将劉仁願殿の私書を拝受致し、仰せの筑紫都督府の件はお受けできない。都督府の設置は唐の属国になる事を意味し白村江で敗れたとは云へ直接唐に敵対して敗れた訳ではない。」と告げた。
郭務悰は鎌足を睨みつけ「熊津都督は東海を統括する任に有り劉仁願の文は皇帝の璽書と同様である。」鎌足は「ならばなをさらお受けできない。」と告げて表函を郭務悰に突き返した。
郭務悰は筑紫館を宿舎とし、冬十二月十二日まで七ケ月滞在した。その間、鎌足は郭務悰に品物を贈り、饗応してもてなした。
唐の思惑を知った中大兄皇子と鎌足は唐の来襲に備え最前線の対馬、壱岐に防人を駐留させ狼煙台を置き、亡命百済人の答体春初に命じて長門国に城を築かせた。
そして、九州を統治し外交を司る大宰府を唐の来襲に備えて十六キロ内陸に移転し、大宰府を守る為に大堤を築き水を満たして水城とし、兵法に明るい憶礼福留、四比福夫に命じて朝鮮式の山城を大宰府の北に位置する大城山に大野城(福岡県の太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町)と大宰府の南西に位置する基山に基肄城(福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町)、大宰府の南に鞠智城(熊本県の山鹿市と菊池市にまたがる丘陵)を築かせた。
そして、大宰府を取り囲む様におつぼ山(佐賀県武雄市)、帯隈山(佐賀県佐賀市)、女山(福岡県みやま市)、高良山(福岡県久留米市)、雷山(福岡県糸島市)、鹿毛馬(福岡県飯塚市)、御所ヶ谷(福岡県行橋市)、杷木(福岡県朝倉市)に石垣を築いた神籠石式山城を築かせた。
翌年の天智四年(六六五年)秋九月二十日、唐は劉徳高を正使とし郭務悰を含めて随員二百五十四人を遣わして来た。二十二日に唐の正式な使者として表凾(国書の入った函)を奉った。
唐の威光を示す大使節団で従わなければ軍を差し向けるとの脅しであった。この使節団に白雉五年(六五三年)に遣唐使として唐に渡った鎌足の長男定恵を随行させていた。中大兄皇子と鎌足は帰国した定恵から唐と半島の情勢を聞き知った。(定恵は天智四年(六六五年)十二月に没した。)
そして、百済を滅ぼした唐は高句麗を攻める準備を行っており過去に高句麗に援軍を送った事のある倭国を監視する為、宿舎の筑紫館を熊津都督府の支所、筑紫都督府として接収した。
鎌足は厳重に抗議したが聞き入れなかった。鎌足は劉徳高に倭国は唐の属国では無い事を示すため菟道(宇治)で盛大な閲兵を行って示威を示した。
そして、劉徳高の帰国に随行して守大石、境部石積、吉士岐彌、吉士針間を熊津都督府へ遣わし和平の交渉に当たらせた。
高句麗は天智五年(六六六年)の春一月と冬十月の二回使者を遣わして調を奉り、唐の攻撃に備える援軍を要請して来たが応じなかった。
天智六年(六六七年)春三月一九日、中大兄皇子は唐の脅威を少しでも遠ざける為か、群臣の反対を押し切って都を近江に遷都(近江大津宮 滋賀県大津市錦織)した。
冬十一月、百済の熊津都督劉仁願は司馬法聡を遣わし、境部石積らを筑紫都督府に送って来た。筑紫都督府の廃止を願い出たが唐は高句麗攻撃を開始しており交渉は不調に終わった。
鎌足は司馬法聡の帰国に際し再度、伊吉博徳、笠諸石を同道させ劉仁願と交渉する事を命じた。そして、中大兄皇子は防衛の為、高安城(奈良県生駒郡平群町と大阪府八尾市にまたがる、高安山の山頂部(標高487メートル)に築いた朝鮮式山城)、讃岐の屋島に屋島城、対馬に金田城を築かせた。
翌年の天智七年(六六八年)春一月三日、中大兄皇子は天皇に即位された。春一月二十三日、伊吉博徳らが帰国したが吉報はもたらされなかった。
半島では六四五年、六六一年と二度に亘り唐軍を撃退して高句麗を支えていた宰相の淵蓋蘇文が六六五年に死去すると、天智七年(六六八年)唐はこの時を待っていたかの如く新羅に出兵を命じ高句麗の首都平壌城を攻めた。高句麗の宝蔵王は唐と新羅に腹背から攻められ遂に降伏して高句麗は滅亡した。
天智八年(六六九年)冬十一月十日、帝は病に臥す鎌足を見舞った。鎌足は百済救済(白村江の戦い)の軍事に於いて情勢を見誤り国に危難を招いた事を詫び、葬儀は簡素にして頂きたいと申し述べ、十四日に五十五歳で亡くなった。
天智九年(六七〇年)七月、唐の属国となっていた新羅が反乱を起こして熊津都督府の城を次々に落とし旧百済の地の大部分を占領した。
天智十年(六七一年)春一月一三日、熊津都督劉仁願は李守真を遣わし上表文を奉って派兵を要請したが前年の秋九月に阿曇頬垂を新羅に遣わし半島の情勢を把握していた左大臣の蘇我赤兄(有間皇子に謀反を誘った人物)は要請には応じなかった。李守真は七月まで筑紫都督府に滞在して帰国した。
新羅は唐が再び倭国に使節を遣わす事を察知していたのか冬十月七日、金万物を遣わして調を奉り、半島の情勢を詳らかに語り唐の要請に応じない事を願い出た。金万物は唐の使者を確かめる為か冬十二月十七日まで滞在した。
冬十一月十日、対馬の国司が大宰府に使いを遣わし「唐の使節が四十七隻の大船団を率いて筑紫の那ノ津に向かっている。人も船も多く防人が驚いて矢を射掛ける恐れが有るので事前にお知らせに参りました。」と告げた。
五月に太宰師(大宰府の長官)に任じられた栗隈王が出迎えた唐の使節は郭務悰であった。そして、白村江の戦いで唐の捕虜となっていた筑紫君薩野馬と沙門道久(僧)、韓嶋勝娑婆、布師首磐の四人が帰国し、郭務悰の随員六百人それに百済の高官であった沙宅孫登と熊津都督府に仕えていた官吏、亡命を希望する難民を含め百済人千四百人、総計二千人余であった。随員の大半は兵士で新羅の攻撃から守るために乗船していた。
この頃、半島は複雑な情勢にあった。百済、高句麗が滅び新羅は百済を併呑すべく熊津都督府の管轄地を蚕食して領土を広げ、百済では再び百済再興の反乱が起こっていた。唐は百済の混乱を鎮める為に百済の王子隆を熊津都督府に派遣していた。高句麗でも再興の反乱が起こり新羅は密かに加担して唐を苦しめていた。
郭務悰の目的は李守真を遣わし派兵を要請したが応じなかったので自ら帝に拝謁して派兵を要請する事であった。
栗隈王は郭務悰の目的を察知しており早馬を使って左大臣の蘇我赤兄(栗隈王の前任者)に郭務悰が到来した事を告げ指示を仰いだ。指示は帝が十二月三日に近江宮で崩御された。暫く郭務悰には秘匿し筑紫に留めよとの事であった。
そして、翌年の春三月十八日、朝廷の使者阿曇稲敷が筑紫都督府に滞在する郭務悰を訪れ、帝が崩御された事を告げた。
郭務悰らは全員喪服に改め東に向かって三度声を挙げて哀悼を表す挙哀の礼を行った。二十一日、郭務悰は栗隈王に唐の皇帝の国書と献物を奉った。
夏五月、朝廷は返礼の献物と郭務悰に鎧、甲、弓矢を賜った。そして、倭国は二度と半島に派兵しない事を知った郭務悰は筑紫都督府を閉鎖して三十日、帰途に就いた。
筑紫都督府の施設は唐、新羅の使節を迎える迎賓館兼宿泊所として大宰鴻臚館となった。