皇位争乱

第十八話 天武天皇
 壬申じんしんの乱

 

 天智十年(六七二年)春一月(旧暦)、帝(天智天皇)は寵愛する大友皇子を太政大臣に就け、蘇我赤兄あかえを左大臣に中臣金なかとみのかねを右大臣に蘇我果安そがのはたやす巨勢比等こせのひと紀大人きのうし御史太夫ぎょしたいふ(大臣に次ぐ官職)に任じた。

 それまで国政を取り仕切っていた大海人おおあま皇子は明らかに国政から遠ざけられ、大皇弟と呼ばれていたが帝の御意思は大友皇子を皇位に就ける意図があると大海人おおあま皇子は思った。

 以来、大海人おおあま皇子は実兄である帝に常に警戒を怠らなかった。古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこを謀叛の疑いで殺害し、孝徳天皇の皇子、有馬皇子も身の危険を感じ狂者を装ったが蘇我赤兄あかえの謀略にはまり謀叛の罪で殺害された。大友皇子を皇位に就ける妨げになる自分も殺害されるかも知れないと思っていた。

 天智十年(六七二年)秋九月、帝が病気になられ、日に日に病が重くなり、冬十月には余命旦夕たんせきせまって蘇我安麻呂やすまろを遣わして大海人おおあま皇子をお呼びになった。

 蘇我安麻呂やすまろ大海人おおあま皇子と親しくしており帝のお召しは何か有ると感じ大海人おおあま皇子に「重々注意してお答えなさるのが賢明かと思います。」と告げて大海人おおあま皇子を帝の寝所に案内した。

 大海人おおあま皇子は何かはかりごとが有るかも知れないと疑いを持って帝の寝所に入った。寝所には有馬皇子を死に追い遣った左大臣の蘇我赤兄あかえと右大臣の中臣金なかとみのかねと共に御史大夫の蘇我果安そがのはたやすが控えていた。大海人おおあま皇子は蘇我赤兄あかえに勧められて枕頭に坐した。

 帝は「薬石も効無く余命幾ばくもないであろう。病床に臥し皇位をむなしくして国政が滞っている。ついては汝に後事を託したいので皇位を譲りたい。」と仰せられた。

 大海人おおあま皇子はお受けすれば謀叛の企て有りとして即座に首をねられるであろうと思い、「有難く身に余る光栄ですが私は若年の頃から病弱でとても国家を保つ事は出来ません。願わくは大友皇子は若年ゆえ皇后の倭姫王やまとひめのおおきみに天下を託し、大友皇子を立てて皇太子となさるのが賢明かと思います。私は今日、直ちに出家して吉野に赴き陛下の病気平癒を仏に祈り仏道修行に励みたいと思っております。何卒、お許しの程お願い申し上げます。」と申し述べた。

 帝の許しを得た大海人おおあま皇子は立って再拝し直ちに天智天皇の命で創建された崇福寺そうふくじの僧を呼び宮中の仏殿に向かった。

 蘇我赤兄あかえ中臣金なかとみのかね蘇我果安そがのはたやすの三人が見届け人として立ち合い、大海人おおあま皇子は仏殿の南に進み胡床こしょう床几しょうぎに深く腰掛けて剃髪し落飾らくしょく(王侯貴族の出家)された。

 帝は次田生磐すぎたのおいわを遣わして僧の衣である袈裟を贈った。

 大海人おおあま皇子は館に帰り武器をことごとく庭に積み上げ蘇我赤兄あかえに差し出した。

 翌日の天智十年(六七二年)冬十月十九日、大海人おおあま皇子は帝に拝謁し「これから吉野に参り仏道修行に励みます。」と申し述べ吉野に発った。

 大海人おおあま皇子に付き従ったのは妃の鸕野讃良うののさらら皇女(後の持統天皇)草壁くさかべ皇子、忍壁おさかべ皇子と舎人とねり数十人であった。舎人とねりの中には行先を見定めるよう内命を受けている者もいた。高市たけち皇子と大津皇子は人質として近江大津宮(滋賀県大津市錦織にしこりに留まるよう申し渡されていた。

 蘇我赤兄あかえ中臣金なかとみのかね蘇我果安そがのはたやすの三人は行先を確かめるべく同道し、蘇我安麻呂やすまろと十数人の親しい群臣も大海人おおあま皇子一行に同道して長等山ながらやまを越え山科から菟道うじ(京都府宇治市)までおよそ二十キロ、宇治橋に至った。

 宇治橋は天智天皇が近江遷都(六六七年)に際し近江と大和を結ぶ官道を整備し、六六一年に唐から帰朝した道昭どうしょう(六二九年~七〇〇年)に命じて初めて宇治川に橋を架けさせたと伝えられている。

 橋のたもとで蘇我赤兄あかえ中臣金なかとみのかね蘇我果安そがのはたやすの三人は間違い無いであろうと別れの言葉を交わし、親しい知人・友人達も別れの言葉を交わし二度と会うことのない別れに涙する者もいた。帰り道で群臣の一人が「虎に翼をつけて野に放つようなものだ。」と同輩にささやいた。

 大海人おおあま皇子は見送りの一行に別れを告げ、宇治橋を渡ると追っ手の危険から逃れる様に道を急いだ。

 山背やましろ(京都府城陽市から木津川市に至る古道)を南に進み木津川を渡り、那羅山ならやま平城山丘陵ならやまきゅうりょう 奈良県奈良市と京都府木津川市の県境を東西に延びる丘陵。)を越えてしもつ道(古代の官道で奈良盆地を南北に東からかみつ道、なかつ道、下つ道と三本の街道が有った。)を明日香の嶋宮しまのみや(奈良県明日香村 蘇我馬子の邸宅を大化改新後離宮として接収した。)に向かった。

 近江大津宮から明日香の嶋宮までおよそ七十キロ、一日で歩くには遠くおそらく馬を利用したのであろう、嶋宮に一泊し翌日吉野宮滝に向かった。

 嶋宮から吉野宮滝までおよそ十九キロ、大和川に沿って南に進み稲淵に至ると当時も棚田が広がっていたであろう、そして万葉集に収められている「明日香川 明日も渡らむ 石橋の 遠き心は 思ほえぬかも」と詠われた稲淵の石橋(飛び石)を渡り、栢森かやのもりから登り坂が続いている。

 登りはじめると小雨が降りだした。吉野の冬は寒く小雨から氷雨に変わり時々小雪が舞う寒さの中、芋峠(明日香と吉野を結ぶ峠 標高約五百メートル)に至った。

 天武天皇が天武八年に吉野宮に行幸した時に、この時の様子を思い出して詠ったのであろう歌が万葉集に収められている。

 「み吉野の 耳我みみがみねに 時なくそ(絶え間なく) 雪は降りける 間なくそ(休む間もなく) 雨はりける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと くまもおちず(道の曲がり角ごとに) 思ひつつぞ来し(物思いをしながら) その山道を」

 一行は芋峠を越えて峠を下ると吉野川に至り、川を挟んで右岸に妹山、左岸に背山がある妹背山を過ぎ吉野宮滝に至った。

 吉野宮滝は紀の川(奈良県では吉野川)を遡って紀伊半島のほぼ中央にあり、東に向かえば伊勢街道が有り東国に通じていた。西に向かえば吉野川を下り紀伊の湊に達し、北に向かえば明日香、奈良に至り、南の山塊を越えれば熊野に通じる交通の要衝であった。

 吉野宮滝には斉明天皇の時に造営した離宮が有り吉野宮と呼ばれていた。出家して吉野に逃れた古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこが隠れ住んだのも吉野宮であり、謀叛の企て有りとの偽言ぎげんを根拠に殺害された場所でもある。

 大海人おおあま皇子は冬十月二十日吉野宮に到着した。翌日、大海人おおあま皇子は従って来た舎人とねりを集めこの宮で隠棲すると告げ、舎人達に「自分はこの地で仏道修行に励む所存である。共に仏道に入り修行を行おうと思うものは留まれば良い。朝廷に仕えて名を成そうと思う者は近江大津宮に立ち返り朝廷に仕えよ。」と申し渡した。

 こうして吉野宮に残った舎人とねり朴井雄君えのいのおきみ村国男依むらくにのおより和珥部君手わにべのきみて身毛広みけのひろ大分恵尺おおきたのえさか黄書大伴きふみのおおとも逢志摩あうのしま縣犬養大伴あがたのいぬかいのおおとも佐伯大目さえきのおおめ大伴友国おおとものともくに稚櫻五百瀬わかさくらべのいおせ書根摩呂ふみのねまろ書智徳ふみのちとこ山背小林やましろのおばやし山背小田やましろのおだ安斗智徳あとのちとこ調淡海つきのおうみの十七人であった。

 残った舎人とねり十七人は大海人おおあま皇子が吉野で隠棲するとは思っていなかった。帝は病にせいずれ崩御するであろうその時、きっと軍を興すであろう。

 近江大津宮では天智十年(六七二年)冬十一月二三日、大友皇子は右大臣蘇我赤兄あかえ、左大臣中臣金なかとみのかね御史太夫ぎょしたいふ蘇我果安そがのはたやす巨勢比等こせのひと紀大人きのうしら五人の高官と共に内裏の西殿の織物仏の前で香炉を手に「六人心を同じくして、天皇の詔を奉じる。もし違うことがあれば必ず天罰を被る。」と誓った。天智天皇も大海人おおあま皇子が皇位奪還の軍を興す事を予見していたのであろう、五人の高官に大友皇子を皇位に就ける事を誓わせた。

 天智天皇が即位の時、居並ぶ群臣に大海人おおあま皇子を大皇弟ひつぎのみこであるとみことのりしたが立太子の儀は執り行われなかった。故に大海人おおあま皇子は太子なのか、大海人おおあま皇子を廃太子はいたいしにすれば太子であった事を認める事になる。大海人おおあま皇子が剃髪して吉野に隠棲すると申し出た時も廃太子はいたいしの願いはなかった。なぜなら立太子の儀を執り行っておらず正式な太子では無かった。この様な事も有り大海人おおあま皇子を差し置いて大友皇子を太子に就ける事ははばかられた。

 天智十年(六七二年)冬十二月三日、帝は近江大津宮で崩御された。この知らせは大伴氏から直ちに吉野に届けられた。(天智十年冬十二月三日は新暦では六七二年(壬申の年)一月七日)

 そして、大海人おおあま皇子の元にも蘇我赤兄あかえ中臣金なかとみのかね蘇我果安そがのはたやす巨勢比等こせのひと紀大人きのうしの五人が内織物仏の前で天皇の勅を奉じると誓盟を交わした事も伝えられていた。

 この頃、天皇即位には不文律が有り男系で有る事、生母が皇族の出か有力氏族の出で有る事、即位の年齢が三十歳を超えている事、もがりの期間を過ぎている事が暗黙の了解事項であった。

 帝が崩御した時、大友皇子の年齢は二十四歳で生母は伊賀采女宅子いがのうねめやかこのいらつめという地方氏族の子女であった。皇位継承の条件に合わず本来なら兄弟相承の前例に倣い速やかに迎えの使者を寄こすべきであるが、帝が大友皇子の即位を望み、五人の高官が天皇の勅を奉じると誓盟を交わした以上、もがりが終われば帝の遺勅が有ったとして大友皇子を即位させるであろう。

 そして、謀叛の企て有りと吉野宮に兵を向けるで有ろう、不穏な動きもあり近江京から大和京に至る官道も兵を遣わして塞がれ吉野宮に運ばれるはずの物資も止められたとの知らせも有った。

 美濃、尾張の国司には先帝の山陵を造るので人夫を集めろと命じ、集められた人夫に武器を持たせたとの噂も伝わっていた。

 まだもがりは終わっていない大友皇子が即位すれば皇位簒奪さんだつの汚名を被る、急がねばならない。急いで兵を集めなければならない。

 しかし、大海人おおあま皇子は有力な豪族から妃を召していなかったので後ろ盾が居らず、大和の豪族がこぞって加勢するか疑問であった。そして、大和で挙兵すれば直ちに大津宮に伝わり木津も宇治も塞がれるであろう。

 大海人おおあま皇子は東国(この頃の東国は鈴鹿関、不破関より東の国)で兵を集め関ヶ原から大津宮を攻めると決断し天武元年(六七三年)夏六月二十二日、村国男依むらくにのおより(美濃国各務郡かかみぐん(各務市)の豪族)和珥部君手わにべのきみて(尾張国知多郡の豪族)身毛広みけのひろ(美濃国の武芸郡(関市、美濃市)の豪族)の三人を呼び、「村国男依むらくにのおよりは美濃国の安八磨郡あはちまのこおり大海人おおあま皇子の領地 岐阜県大垣市、海津市)に赴き、湯沐令ゆのうながし(皇族に与えられた領地を支配する役人)の任に有る多品治おおのほんじに命じて兵を集めさせ、速やかに東山道(近江国から美濃、飛騨、信濃、上野かみつけの下野しもつけのから陸奥に至る街道)の不破関(近江と美濃の境の関)を塞げ。身毛広みけのひろは美濃に赴き尾張大隅おおすみに会い挙兵したと告げ助力を乞え。和珥部君手わにべのきみては尾張に赴き尾張馬身まみに会い挙兵したと告げ尾張一族の助力を乞え。」と命じた。

 東山道は近江から東国に向かう重要な街道である。東国の兵を集めるのも、美濃で産する武器を都に運ぶのもこの街道であった。

 武器を産するのは大海人おおあま皇子の美濃の領地安八磨郡あはちまのこおりであった。美濃に金生かなぶ山が有り、今は良質な石灰岩、大理石を産出しているが古代は山名の通りこの山に赤鉄鉱の鉱床が有り、山の麓の赤坂町では踏鞴たたら製鉄で良質な鉄を産出し武器の製造を行っていた。製造された多数の武器は湯沐令ゆのうながし多品治おおのほんじが管理していたのであろう、集めた兵に武器を持たすのは容易たやすかった。

 不破関を塞ぐ理由は東山道を通って攻めて来るであろう近江軍を寡兵で大軍を迎え撃つのが大きな目的であった。そして、伊勢、桑名、尾張、美濃の豪族が従う事が重要であった。特に尾張、美濃に大きな勢力を持つ尾張一族の支援が決起を成功させる大きな鍵であった。

 そして夏六月二十四日、大海人おおあま皇子は大分恵尺おおきたのえさか黄書大伴きふみのおおとも逢志摩あうのしまを呼び、「我は吉野を出て伊勢国から美濃国に向かう、逢志摩あうのしまは大和に向かい飛鳥宮守衛の任にある高坂王たかさかのおおきみ(皇族ではない)に会い駅鈴えきれい駅馬はいま使用の公用の鈴)を求めよ。大分恵尺おおきたのえさかは馬を馳せて近江に行き密かに高市たけち皇子と大津皇子に会い伊勢で落ち合おうと告げよ。黄書大伴きふみのおおともは大和で大伴一族の大伴馬来田おおとものまぐたに会い挙兵を告げ合力を説け。」と命じた。高坂王たかさかのおおきみ駅鈴えきれいを渡せば我に味方するであろう、渡さなければ直ちに近江に知らせるであろう、大きな掛けであった。

 駅鈴えきれいは大化の改新によって定められた制度で通信と交通の手段として凡そ三十里(十六キロ 当時の一里はおよそ五三三・五メートル)毎に駅家えきかを置き、駅鈴えきれいを持つ者に宿舎、食糧、人馬を供した伝馬つたわりま(早馬)の制度である。駅家えきかには大路たいろ(山陽道 大宰府との連絡)で有れば二十頭、中路ちゅうろ(東山道、東海道)で有れば十頭、小路しょうろ(北陸、山陰、南海、西海道)なら五頭の馬が常置されていた。

 逢志摩あうのしまは大和に赴き高坂王たかさかのおおきみに会い大海人おおあま皇子の命であると駅鈴えきれいを求めたが高坂王たかさかのおおきみは「大海人おおあま皇子は吉野に隠棲したと承っている。朝廷に火急の知らせなら倭京の留守つかさを務めている当方が早馬を仕立ててお伝え申します。」と告げ駅鈴えきれいの接受に応じなかった。逢志摩あうのしまもそれ以上強要することなく引き下がった。

 高坂王たかさかのおおきみは吉野に隠棲した大海人おおあま皇子が駅鈴えきれいを求めるとは明らかに謀叛を企てているのではないかと疑ったが逢志摩あうのしまを捕らえることはしなかった。

 そして、直ちに近江に急使を遣わすべきか、思い悩んだ末、二日後の二十六日に急使を遣わした。この二日の遅れが大海人おおあま皇子を救った。

 逢志摩あうのしまは急いで吉野宮に立ち帰り駅鈴えきれいは得られなかったと告げた。高坂王たかさかのおおきみに知られた以上、直ちに近江に急使を送るであろう。

 事は急ぐので致し方なく草壁くさかべ皇子(十一歳)逢志摩あうのしまが乗っていた馬に乗せ大海人おおあま皇子は徒歩かちで妃の鸕野讃良うののさらら皇女と幼い忍壁おさかべ皇子は吉野国栖くずの里の若者が担う輿に乗り出発した。吉野を出立したのは夏六月二十四日の羊刻ひつじのこく(午後一時~午後三時)頃と思われる。

 しばらくして馬に乗った縣犬養大伴あがたのいぬかいのおおともに出会いその馬に乗って伊勢街道を北に向かった。大海人おおあま皇子に従ったのは妃の鸕野讃良うののさらら皇女、忍壁おさかべ皇子、草壁くさかべ皇子、舎人とねり朴井雄君えのいのおきみ縣犬養大伴あがたのいぬかいのおおとも佐伯大目さえきのおおめ大伴友国おおとものともくに大伴長徳おおとものながとこの子)稚櫻五百瀬わかさくらべのいおせ書根摩呂ふみのねまろ書智徳ふみのちとこ山背小林やましろのおばやし山背部小田やましろべのおだ安斗智徳あとのちとこ調淡海つきのおうみ逢志摩あうのしまと下僕を含め二十人余り、女孺めのわらわ(下級女官)十余名と輿を担ぐ吉野国栖くずの若者十五~六人であった。

 しばらく行くと急峻な山道となり馬を降り、妃も皇子も輿から降りて徒歩で矢治峠を越えて津振川(吉野川の支流 現在は津風呂湖になっている。)に至り、この地で待つ事暫し先駆けの舎人とねりがやっと数頭の馬を調達して戻って来た。

 大和に赴いた黄書大伴きふみのおおとも大伴馬来田おおとものまぐた大伴吹負おおとものふけいの兄弟大伴咋おおとものくいの子、大伴金村の孫)に会い大海人おおあま皇子が挙兵し東国に向かったと知らせた。

 大伴一族は大伴馬来田おおとものまぐた兄弟の兄大伴長徳おおとものながとこ(右大臣)が死亡した後、蘇我赤兄あかえに朝廷の要職から遠ざけられ不遇であった。その様な頃、大海人おおあま皇子は大伴馬来田おおとものまぐた大伴吹負おおとものふけい兄弟と親しくなり親交を結んでいた。天智天皇が崩御し大伴馬来田おおとものまぐた兄弟は吉野に隠棲した大海人おおあま皇子が決起するであろうと思い、二人は病と称して近江を辞し大和に戻り大海人おおあま皇子からの連絡を待っていた。大伴兄弟の思惑は大海人おおあま皇子が決起して近江軍に勝利すれば大伴金村が失脚して以来、沈滞している大伴一族の再興が叶う。

 黄書大伴きふみのおおともの話を聞いた大伴兄弟は宗家の大伴御行おおとものみゆき大伴長徳おおとものながとこの子)の館を訪ね「大海人おおあま皇子が挙兵した我らは大海人おおあま皇子に従う」と告げた。大伴御行おおとものみゆきも賛同し一族挙げて大海人おおあま皇子に従う事とした。

 弟の大伴吹負おおとものふけい高坂王たかさかのおおきみの動静を監視し親しくしている倭漢氏やまとのあやうじ(渡来氏族)の一族を説き、大和で挙兵すると告げて留まった。大伴御行おおとものみゆきの弟大伴安麻呂おおとものやすまろ大伴吹負おおとものふけいに従った。

 兄の大伴馬来田おおとものまぐた大伴御行おおとものみゆき黄書大伴きふみのおおともと共に兵を従えて大海人おおあま皇子一行を追い宇陀の安騎あき(奈良県宇陀市大宇陀町)で追い付いた。

 大海人おおあま皇子一行は宇陀の甘羅かんら(宇陀市大宇陀町神楽岡)を過ぎると、猟師の首領、大伴朴本大國おおとものえのもとのおおくにが猟師二十余人を引き連れて合流した。

 一行は宇陀川に沿って伊勢街道を進み宇陀の郡家ぐうけ(宇陀市榛原町 行政の拠点)の辺りで伊勢の湯沐邑ゆのむら(皇族に与えられた領地)の米を駄馬五〇頭で運ぶ一団に遭遇した。米を全て棄てさせて馬を収奪し徒歩の者に与えた。

 宇陀の郡家から国道一六五号線(三重県津市に至る)を進み室生の大野(奈良県室生村大野)に至り日が暮れた。これから先、宇陀川に沿って暗い山中を進むのは危険と考え村の家の垣根を剥ぎ取り、火を点けて灯りとして先を急いだ。

 夜中に隠郡なばりのこおり駅家うまや駅鈴えきれいを持つ者に宿舎、食糧、人馬などを供した。三重県名張市安部田)に着いたがこの地の豪族名張臣は姿を現さなかった。大海人おおあま皇子は見せしめとして駅家うまやの馬を奪い建物を焼き払わせた。

 そして、村に入り「天皇すめらみことが東国に向かうので人夫として従う者は集まれ。」と叫んだが戸を閉ざし誰も出てこなかった。

 名張川と宇陀川が合流する横川(三重県名張市黒田)に至り俄かに黒雲が広がり天を覆った。天文や占星の術を心得ていた大海人おおあま皇子は不思議に思い筮竹ぜいちくを取り出し灯火を掲げて占うと「天下が二つに分かれて争うが、最後は自分が勝って天下を得るであろう。」と出た。従者に話すと歓声が上がった。(若年の頃、唐に二十五年留まって帰国した僧みんから中臣鎌足も学んだ周易(筮竹ぜいちくを用いた占い)を学んだのであろうか。)

 そこから名張川を渡河し伊賀を目指し、名張の芝出、下小波田から伊賀の上庄田と歩みを速めて真夜中に伊賀郡いがのこおり駅家うまや(三重県上野市古郡ふるごおりに着いた。ここでも馬を奪い建物を焼き払った。

 伊賀は大友皇子の母、伊賀宅子娘いがのやかこのいらつめの出身地で有り、伊賀の豪族が娘を采女うねめとして朝廷に仕えさせた。大海人おおあま皇子は駅家うまやを焼き払って豪族の出方を見たのであろう。

 伊賀の駅家うまやを発ち木津川に沿って進み伊賀の中山に至ると後ろから馬蹄の響きが聞こえ数百の兵が追い掛けて来た。夜中でも有り道の両側に兵を伏せ待ち構えたが追って来たのは阿拝あはい(三重県伊賀市北部に有った郡)郡司こおりのつかさ(郡を治める地方官 旧国造くにのみやつこなどの地方豪族が世襲的に任命された。)阿閇氏あへしが数百の兵を率いて軍にお加え下さいと願い出た。

 明け方、莿萩野たらの(三重県伊賀市上野)に着き暫し休息して食事を摂った。莿萩野たらのから千戸せんど(三重県伊賀市千戸)、川西、下柘植と進軍し積殖つむえの山口(三重県伊賀市柘植つげ町)に至り高市たけち皇子と合流した。

 大分恵尺おおきたのえさかから挙兵を知らされた高市たけち皇子は直ちに近江大津宮を抜け出し草津、栗東と進み野洲川に沿って湖南市,甲賀市水口、甲賀市土山町大野から一号線と別れて鹿深かふか(甲賀)の道(甲賀越え倉歴道くらふのみち 大津から草津、栗東と進み野洲川に沿って湖南市,甲賀市甲賀町から伊賀市柘植つげ町に至る道)を取り積殖つむえの山口に至った。

 高市たけち皇子に従って来たのは民大火たみのおおひ赤染徳足あかぞめのとこたり大蔵広隅おおくらのひろすみ坂上国麻呂さかのうえのくにまろ古市黒麻呂ふるいちのくろまろ竹田大徳たけだのだいとく胆香互安倍いかごのあべであった。大分恵尺おおきたのえさかは大津皇子の元に向かった。

 再会を喜ぶ暇もなく大和街道を東に進み鈴鹿山脈の加太かぶと峠を越えて伊勢の鈴鹿の郡家ぐうけ(三重県亀山市関町古厩ふるまやに着くと伊勢国司の三宅石床みやけのいわとこ三輪子首みわのこびと及び伊勢国の湯沐令ゆのうなかし田中足麻呂たなかのたりまろと美濃国から駆け付けた主稲(湯沐の稲の管理者)高田新家たかたのにいのみらが出迎えた。田中足麻呂たなかのたりまろが率いてきた兵五百を追っ手の備えとして鈴鹿関を守らせた。

 鈴鹿の郡家ぐうけを出立した一行は川曲かわわ坂下さかもと(三重県鈴鹿市木田町)に着く頃に日が暮れた。鈴鹿の郡家ぐうけからそれほど進んでいないが吉野を出発して徹夜で行軍した為か妃の鸕野讃良うののさらら皇女がお疲れになったのでしばらく輿を留めて休んだ。

 しばらくして空模様が怪しくなり雨が降りそうになってきたので川曲かわわ坂下さかもとを出発した。やがて真っ黒な雷雲が空を覆い大粒の雨が降り出し急に気温が下がり寒くなってきた。そして、雷鳴が轟き激しい豪雨となった。衣服はずぶ濡れになり夏なのに寒さに震えた。

 豪雨の中、馬を進め三重川(三滝川)を渡り、海蔵川を渡り三重郡家ぐうけ(三重県四日市市東坂部町)に着いた。雨に打たれて寒さに震え暖を取るために家を壊して燃やした。昼夜兼行で行軍し皆、疲れ果てこの地で夜を明かした。

 この日の夜中、鈴鹿の関を守る田中足麻呂たなかのたりまろが急使を寄越し「山部王、石川王が服属したいとやって来ましたので関に留めております。」と申し述べた。大海人おおあま皇子は路益人みちのますひとを遣わして迎えさせた。

 夏六月二十六日早朝、大海人おおあま皇子は朝明郡あさけのこおり迹太川とおかわ(米洗川)の辺りの小高い丘(糠塚山)に登り、祭壇を設え迹太川とおかわで米を洗って献じ、天照大神に戦勝を祈願して伊勢神宮に向かって遥拝(三重県四日市市大矢知町)した。

 数刻の後、路益人みちのますひとが帰着し「鈴鹿関に留め置かれたのは山部王、石川王ではなく大津皇子でありました。」と申し述べ、路益人みちのますひとの後から無事に大津宮を脱出した大津皇子が参られた。

 大津皇子に従って来たのは大分恵尺おおいたのえさか難波三綱なにわのみつな駒田忍人こまたのおしひと山辺安麻呂やまべのやすまろ小墾田猪手おはりだのいて泥部氏枳はずかしべのしき大分稚臣おおきたのわかみ根金身ねのかねみ漆部友背ぬりべのともせらであった。

 皇子が揃い大海人おおあま皇子は大いにお喜びになった。この時、高市たけち皇子は十九歳、草壁くさかべ皇子は十一歳、大津皇子は十歳、忍壁おさかべ皇子は?歳、であった。

 朝明あさけ郡家ぐうけ(三重県三重郡朝日町縄生なおに向かおうとしていた時、美濃国に遣わし近江と東国との通行を遮断する不破関を塞げと命じられていた村国男依むらくにのおより駅馬はいまを馳せてかけつけ「尾張大隅おおすみが尾張馬身まみと共に一族を挙げて加勢すると約しました。湯沐令ゆのうながし多品治おおのほんじが集めた兵と尾張大隅おおすみの兵、合わせて三千の兵で不破の道を塞ぐことが出来ました。」と申し述べた。大海人おおあま皇子は村国男依むらくにのおよりの手柄を誉め朝明あさけ郡家ぐうけに向かった。

 朝明あさけ郡家ぐうけに着くと高市たけち皇子に不破に赴き指揮を執れと命じ、山背小田やましろのおだ安斗阿加布あたのあかふの二人に東海(伊勢、志摩、尾張、三河)に赴き兵を募れと命じ、稚櫻五百瀬わかさくらべのいおせ土師馬手はじのうまてには東山道(美濃、飛騨、信濃)に赴き兵を募れと命じた。

 この日、員弁川を渡り桑名郡家ぐうけ(三重県桑名市新屋敷)に着き泊まられた。

 夏六月二十七日、高市たけち皇子が使者を遣わし「桑名と和蹔わざみ(関ヶ原 不破関)は離れすぎているので指示を仰ぐ上でも不便で時も掛かる何卒、お近くにお越し願いたい。」との事であった。

 大海人おおあま皇子は直ちに不破へ向かう事とし、妃の鸕野讃良うののさらら皇女に「これから不破に向かう、不破は戦場に近く危険である。よって、そなたと草壁くさかべ皇子、大津皇子、忍壁おさかべ皇子は戦乱が終わるまで桑名郡家ぐうけに留まれ。」と告げて不破に向けて出立した。

 一方、近江では二十六日に大和守衛の任にある高坂王たかさかのおおきみが急使を遣わし朝議の席で「大海人おおあま皇子が駅鈴えきれいを求めて参りました。拒みましたがおそらく東国に赴き兵を集め挙兵する所存と思われます。」と報じた。

 左大臣蘇我赤兄あかえ、右大臣中臣金なかとみのかね御史太夫ぎょしたいふ蘇我果安そがのはたやす巨勢比等こせのひと紀大人きのうしと居並ぶ群臣は驚愕し大騒ぎとなった。

 大友皇子は群臣に向かい「如何に処すべきか」と問われた。一人の臣が進み出て「速やかに騎馬の兵を集め急迫しないと手遅れになります。」と申し述べたが他の臣は「すでに東国に向かい行く先々で兵を集めているであろう。今から追っても間に合わぬ。」と申し述べた。

 蘇我赤兄あかえは大友皇子に「まず兵を集めて戦いましょう。」と申し述べ「韋那磐鍬いなのいわすき書薬ふみのくすり忍坂大麿侶おしさかのおおまろの三人は直ちに東国に赴き兵を集めよ。穂積百足ももたり、穂積五百枝いおえ(兄弟)、物部日向ひむかの三人は大和に赴き豪族を説き兵を募れ、そして小墾田おはりだの武器庫の武器を近江に移せ。佐伯男さえきのおとこは筑紫に赴き太宰師だざいのそち栗隈王くりくまのおおきみを説き筑紫の軍を派兵せよと告げよ。樟磐手くすのいわては吉備に赴き吉備国守、当摩広嶋たぎまのひろしまに派兵せよと告げよ。栗隈王くりくまのおおきみ当摩広嶋たぎまのひろしまの二人は元から大海人おおあま皇子と親しい間柄である挙兵したと知れば背くかも知れぬ、顔色を見て従わぬ素振りを見せたら直ちに切り捨てよ。」と申し付けた。

 樟磐手くすのいわては吉備に赴き当摩広嶋たぎまのひろしま太政官符だいじょうかんぷ(太政官が発布した命令書)を示し「大海人おおあま皇子が謀叛を企てた。直ちに派兵せよ。」と命じた。

 当摩広嶋たぎまのひろしまは官符に押印されている印影をしげしげと見て「これは内印(天皇の印)ではなく。外印げいん(太政官の印)である。如何したものか。」と呟いた。樟磐手くすのいわてはこの言葉を聞き逃さず直ちに太刀を抜き当摩広嶋たぎまのひろしまを切り捨てた。

 佐伯男さえきのおとこは筑紫に赴き太宰師だざいのそち栗隈王くりくまのおおきみ太政官符だいじょうかんぷを見せ派兵を命じた。太政官符だいじょうかんぷを見た栗隈王くりくまのおおきみは「筑紫は先の帝の御世、異国の敵から国を守るために大宰府に軍を備えられた。国を守るために城を築き、掘りを深くし、海に向かって石垣を築いて塁となし、外敵に対し守りを固めている。内の乱を鎮圧する為の備えでは有りません。今、太政官の命に従って軍を動かせば国の備えが損なわれ変事が有れば一挙に国が傾きます。太政官の命に背く積もりは有りませんが軍を動かすわけにはまいりません。」と申し述べた。

 佐伯男さえきのおとこは直ちに太刀を抜き切り捨てようとつかに手を掛けたが栗隈王くりくまのおおきみの両脇に二人の子、三野王みののおおきみ武家王たけいえのおおきみが太刀を佩びて控えていた。佐伯男さえきのおとこは太刀を抜くことが出来ず空しく近江に立ち還った。

 東国に赴き兵を集めよと命ぜられた韋那磐鍬いなのいわすき書薬ふみのくすり忍坂大麿侶おしさかのおおまろの三人は深夜に不破の関に至った。関は三千の兵で塞がれているとは知る由もなかった。

 韋那磐鍬いなのいわすきは伏兵が居るかも知れぬと用心して辺りを窺い遅れて後に従った。突然、書薬ふみのくすり忍坂大麿侶おしさかのおおまろの背後から伏兵が現れ二人は捕らえられた。木の陰から見ていた韋那磐鍬いなのいわすきは逃げ、かろうじて近江に立ち還り不破の関は既に塞がれ書薬ふみのくすり忍坂大麿侶おしさかのおおまろの二人は捕らえられたと申し述べた。

 大海人おおあま皇子は桑名の郡家を発ち不破の郡家(岐阜県不破郡垂井町)に至る頃、尾張の国司小子部鉗鉤ちいさこべのさひちが二万の兵を率いて馳せ参じた。

 尾張の国司小子部鉗鉤ちいさこべのさひちが率いて来た兵は近江の朝廷から先帝の山陵を造営する為に人夫を集めて置けと命じられて集めた人夫で有った。所持している武器も近江朝廷から与えられた武器であった。大海人おおあま皇子は尾張馬身まみの指図で有ろう、寝返ったと知りつつ大軍を率いてきた小子部鉗鉤ちいさこべのさひちの功績を称えた。そして、率いて来た兵を分け不破と諸所の道の守りにつかせた。

 大海人おおあま皇子は和蹔わざみ(関ヶ原 不破関)に程近い野上(岐阜県不破郡関ヶ原町野上)に至り、尾張大隅の出迎えを受け私邸を提供された。この館を野上のがみ行宮あんぐうと称した。

 この日、高市たけち皇子が和蹔わざみから駆け付け、昨夜の出来事を申し上げた。「昨夜、近江の朝廷から三人の駅使えきし(駅鈴を持つ正式な使者)が不破の関に近づき、我軍の伏兵が二人を捕らえましたが一人は取り逃がしました。捕らえた二人は韋那磐鍬いなのいわすき輩下はいか書薬ふみのくすり忍坂大麿侶おしさかのおおまろでした。韋那磐鍬いなのいわすきは逃げ去りましたが捕らえた二人の話では東国の兵を集める為に遣わされたとの事で御座いました。」

 聞き終わった大海人おおあま皇子は「近江には左右の大臣をはじめ知略に優れた群臣が大勢いて軍議を重ねて事を進めている。諸国に駅使えきしを遣わし兵を集めているであろう。事は急がねばならないが我が方には事を謀る人物がいない。居るのは血気盛んな若者ばかりである。」と申された。

 高市たけち皇子は太刀の柄を握り「天皇の威光をもって東国の兵が従い数万の兵が集結しました。近江に数多あまたの群臣あろうとも天皇の霊威に逆らい事を成すことは出来ないでありましょう。我が方には勇猛な将が兵を率い戦意は高揚しております。神々の霊力が将軍を率い近江軍を打ち破るでありましょう。」と申し述べた。それを聞いた大海人おおあま皇子は高市たけち皇子の手を取り背を撫でて大いに喜び「油断するなよ。」と云われ良馬を授けた。

 大和に留まった大伴吹負おおとものふけいは密かに坂上熊毛さかのうえのくまけに会い大海人おおあま皇子が挙兵した事を告げ一族の助力を請うた。坂上熊毛さかのうえのくまけは応神天皇の時代に渡来した漢人系の阿知使主あちのおみの末裔で一族は倭漢やまとのあやと称し飛鳥に近い檜隈を拠点としていた。

 そして、坂上熊毛さかのうえのくまけ高坂王たかさかのおおきみの配下で高坂王たかさかのおおきみ同様に飛鳥宮守衛の留守司であり、高坂王たかさかのおおきみが近江に急使を走らせた事を知っていた。大伴吹負おおとものふけいの誘いを受けた坂上熊毛さかのうえのくまけ倭漢やまとのあや一族を説き大海人おおあま皇子の陣営に加わった。こうして大伴吹負おおとものふけいの誘いに応じた者は数十人であった。

 坂上熊毛さかのうえのくまけを通じて高坂王たかさかのおおきみの様子が手に取るように解かった。高坂王たかさかのおおきみと穂積五百枝いおえ、物部日向ひむかの三人は飛鳥寺の西の槻の木の下に軍営を構え、穂積百足ももたり小墾田おはりだ(推古朝の宮)の武器庫に向かい武器を近江に運ぼうとしていた。

 夏六月二十九日、坂上熊毛さかのうえのくまけから「そろそろ動かねば大量の武器と兵が近江に向かい、飛鳥宮は不破を攻める兵站となるでしょう。」

 大伴吹負おおとものふけいも潮時と思ったが何分兵が少なくまともに立ち向かっても叶う相手ではなかった。一計を案じた大伴吹負おおとものふけい坂上熊毛さかのうえのくまけと謀り、倭漢やまとのあや一族の漢直あやのあたいらに告げた。「自分は高市たけち皇子と名乗り数十騎を率いて飛鳥寺の北の路から高市たけち皇子の軍勢であると称して軍営に向かう。秦熊はたのくまは馬を走らせ寺の西の軍営の中で高市たけち皇子の軍勢が不破から攻め寄せて来たと大声で叫べ。坂上熊毛さかのうえのくまけ漢直あやのあたいらは叫ぶ声を聞いたら直ちに降伏して我軍に付け。」

 作戦は成功し穂積五百枝いおえ、物部日向ひむかを捕らえ、問い質すと軍に加わりたいと申したので許して軍中に入れた。高坂王たかさかのおおきみ稚狭王わかさのおおきみ(皇族ではない)も大海人皇子に味方したいと申し出たので軍に従わせた。

 そして、坂上熊毛さかのうえのくまけ小墾田おはりだの武器庫に差し向け高市たけち皇子の命令と称して穂積百足ももたりを軍営に呼び戻した。穂積百足ももたりは逃亡を試みたが監視の兵に前後左右を固められ逃げだせなかった。

 軍営に着くと誰かが「馬から降りろ。」と命じたが百足ももたりは軍営が占拠されており恐れて直ぐに降りなかった。付き添ってきた監視の兵が馬上から百足ももたりの襟首を掴んで引きずり降ろした。

 不当な扱いに立腹した穂積百足ももたりは刀に手を掛けたその時、近くにいた兵が至近距離から矢を放ち、数人が刀を抜いて切り殺した。

 こうして大伴吹負おおとものふけいは朝廷が集めた兵の指揮権を奪い、大量の武器を手に入れ飛鳥宮を占拠した。そして、大伴安麻呂おおとものやすまろ大伴御行おおとものみゆきの弟)坂上老さかのうえのおきな佐味宿那麻呂さみのすくなまろらを野上のがみ行宮あんぐうに遣わし状況を報告させた。

 大海人おおあま皇子は大いに喜び大伴吹負おおとものふけいを大和の将軍に任命した。

 大伴吹負おおとものふけいが飛鳥宮を占拠し高坂王たかさかのおおきみをはじめ稚狭王わかさのおおきみ、近江から遣わされた穂積五百枝いおえ、物部日向ひむか大海人おおあま皇子に従ったと知った大和の豪族、三輪高市たけち麻呂、鴨蝦夷らが続々と応じ、大伴吹負おおとものふけいの旗の下に集まった。

 夏六月二十七日、大海人おおあま皇子は野上のがみ行宮あんぐうから不破の本陣に移り、夏六月二十九日、主だった将を集め軍議を開いた。大海人おおあま皇子は「不破に陣を敷いている事が知られた以上、朝廷は兵が集まり次第、数日の内に東山道に攻め寄せ、背後を襲うべく大和を攻め、草津から倉歴道くらふのみちを取り積殖つむえの山口(三重県伊賀市柘植つげ町)から攻めて来るであろう。決戦の時が近づいた。出雲狛いずものこまは東山道の備えとして直ちに兵を率いて玉倉部村(滋賀県醒ヶ井)に赴き前備さきそなえとせよ。紀阿閉麻呂きのあへまろ三輪子首みわのこびと置始菟おきそめのうさぎは兵を率いて鈴鹿を越えて大和に向かい大伴吹負おおとものふけいを助けよ、多品治おおのほんじ紀阿閉麻呂きのあへまろらに同道して莿萩野たらの(三重県伊賀市上野)に駐屯せよ。鈴鹿関を守らせている田中足麻呂たなかのたりまろに使いを遣り倉歴道くらふのみち(甲賀越え鹿深かふかの道 大津から草津、栗東と進み野洲川に沿って湖南市,甲賀市甲賀町から伊賀市柘植つげ町に至る道)の守りとして積殖つむえの山口(三重県伊賀市柘植つげ町)に赴けと命じよ。村国男依むらくにのおより書根摩呂ふみのねまろ和珥部君手わにべのきみて胆香互安倍いかごのあべは兵を率いて東山道の守りを固めよと命じた。」

 そして、大海人おおあま皇子は乱戦の中で近江軍の兵と見分け難きを恐れて「我が軍の陣には赤い旗幟きしを掲げよ、鎧の袖に赤い布を付けよ。」と命じた。

 秋七月二日、紀阿閉麻呂きのあへまろ三輪子首みわのこびと置始菟おきそめのうさぎに数万の兵を授け鈴鹿を越えて大和に向かわせ、多品治おおのほんじには三千の兵を授け紀阿閉麻呂きのあへまろらに同道して莿萩野たらの(三重県伊賀市上野)に赴き、舎人とねり村国男依むらくにのおより書根摩呂ふみのねまろ和珥部君手わにべのきみて高市たけち皇子に従って来た胆香互安倍いかごのあべに数万の兵を授け、東山道の守りを固めた。

 東国に赴き兵を集めよと命ぜられた韋那磐鍬いなのいわすきが近江に逃げ帰り不破に陣を構えていると知った、右大臣中臣金なかとみのかね山部王やまべのおおきみ蘇我果安そがのはたやす巨勢比等こせのひとに数万の兵を授け不破に進発させた。

 軍は琵琶湖の東岸を進み大津宮から五十キロ、不破まで二十キロの地点、犬上川(彦根市の南郊から琵琶湖に注ぐ)の辺に陣を敷いた。

 そして、不破を急襲すべく精兵の騎馬軍団を組織し不破に向かわせた。玉倉部村(関ヶ原町玉)に差し掛かると道を逆茂木で防ぎ出雲狛いずものこまの兵が待ち構えていた。

 道の両側の伏兵から盛んに矢を射かけられ壮絶な戦いが繰り広げられた。両軍の兵士の流血で近くを流れる小川の岩石が血で黒く染まり戦いの後、この小川は黒血川と呼ばれる様になった。近江の騎馬軍団は敗退し犬上川の陣に退却した。

 近江軍の陣中で争いが生じた。山部王やまべのおおきみは軍を指揮し戦場を駆ける武人ではなかった。精兵が敗れて逃げ帰って来たのを見て蘇我果安そがのはたやすに告げた。「この地に軍を止め、速やかに大海人おおあま皇子に使者を遣わし、大友皇子を皇太子に就ける事を条件に大海人おおあま皇子を帝に推戴すると申し述べれば戦は収まるのではないか。私が使者として不破に赴く。」と申し述べた。

 蘇我果安そがのはたやすはこの言葉を聞いて激怒し「大海人おおあま皇子に通じているとの噂を耳にしていたが本当であったか。」と叫び、剣を抜いて斬り殺した。そして、蘇我果安そがのはたやすは馬を馳せて大津宮に帰り蘇我赤兄あかえに詳細を語った。

 蘇我赤兄あかえは「山部王やまべのおおきみ大海人おおあま皇子と親しくしていた事は承知している。山部王やまべのおおきみが申した事も激戦を避け、大友皇子も承諾するであろう一つの策であり、互いの主力が向き合って一歩も引かぬ戦いになった時、戦を収める方策として考えていた。その時、大海人おおあま皇子を説得出来る使者は山部王やまべのおおきみを置いて他にいない。ゆえに山部王やまべのおおきみに伝えてはいないが軍に同道させた。斬り捨てたとは残念である。」と蘇我果安そがのはたやすに告げた。この話を承った蘇我果安そがのはたやすは自邸に帰り自身の至らなさを痛感し頸を刺して自殺した。

 巨勢比等こせのひとは軍を進める事が出来ずこの地に留まった。近江軍の将軍羽田矢国はたのやくには子の大人うしら一族を率いて陣を抜け出し大海人おおあま皇子に降った。

 大海人おおあま皇子は羽田矢国はたのやくに斧鉞ふえつを授けて将軍に任じ、「出雲狛いずものこまと共に直ちに北の方、越に赴き越からにおの海(琵琶湖)の西岸を南下して大津宮に向かえ。」と命じた。

 秋七月二日、大伴吹負おおとものふけいは兵を率いて那羅山ならやま平城山丘陵ならやまきゅうりょう 奈良県奈良市と京都府木津川市の県境を東西に延びる丘陵。)を越えて大津宮に攻め上る事とした。

 しかし、近江では飛鳥宮から逃げ帰った兵の報告で大伴吹負おおとものふけいが挙兵し高坂王たかさかのおおきみ稚狭王わかさのおおきみそれに穂積五百枝いおえと物部日向ひむか大伴吹負おおとものふけいの軍に加わり穂積百足ももたりが殺されたと聞かされ、蘇我赤兄あかえ中臣金なかとみのかね大伴吹負おおとものふけいが大和から近江に攻め上るであろう。直ちに防がねばならない、河内で兵を集めた壱伎韓国いきのからくにに河内から大和を攻めよと命じ、大野果安おおののはたやすに兵を率いて直ちに大和に向かえと命じた。

 大伴吹負おおとものふけいは稗田(奈良県大和郡山市稗田)の辺りで河内から軍勢が押し寄せて来ると聞かされ、倭漢やまとのあや一族の坂本財さかもとのたから、長尾真墨ますみ倉墻麻呂くらかきのまろ民小鮪たみのおしび谷根麻呂たにのねまろに三百の兵を授け竜田(竜田越奈良街道 大阪と奈良を結ぶ街道)を守らせた。

 又、佐味少麻呂さみのすくなまろに数百の兵を授け大坂(奈良県香芝市逢坂 穴虫峠 穴虫街道)に駐屯させ、鴨蝦夷かものえみしに数百の兵を授け石手道いわてのみち(竹ノ内街道 竹ノ内峠 大和国と河内国を結んだ古代の幹線道路の一つ)を守らせた。

 秋七月三日、大伴吹負おおとものふけい大野果安おおののはたやすが軍を率いて飛鳥に向かっていると知り那羅山ならやまに布陣して迎え撃つ事とした。

 布陣を終えると倭漢やまとのあや一族の荒田尾赤麻呂あらたおのあかまろが進み出て「戦が終われば大海人おおあま皇子は飛鳥宮に戻られましょう。飛鳥宮を兵馬で踏み荒らされないよう守りを固めるべきと存じます。」と申し述べた。大伴吹負おおとものふけいは「そなたの申す通りじゃ、荒田尾赤麻呂あらたおのあかまろ忌部子人いむべのおびとは兵を率いて飛鳥に戻り守りを固めよ。」と命じた。

 二人は飛鳥に戻り飛鳥川や八釣川などの橋板を剥がして盾に作り大軍が駐留しているかの如く盾を連ね幡を林立させて守りを固めた。

 竜田の守りに向かった坂本財さかもとのたかららは平石野(奈良県生駒郡斑鳩町龍田)に宿営する予定であったが高安山の山頂(標高四八七メートル)に天智天皇が国防の為に讃岐の屋島に屋島城、対馬に金田城、奈良県と大阪府の県境の生駒山地の南端部に位置する高安山に朝鮮式の山城高安城たかやすのきを築かせたのを思い出した。

 坂本財さかもとのたかららは高安城たかやすのきには税倉ちからくらが有り武器、兵糧が蓄えられているはずである。数名の見張りの兵しか居らず奪うのは容易いと見て、坂本財さかもとのたから紀大音きのおおとに二百の兵を授け竜田道の守りとして懼坂かしこのさか(大和川が奈良県から大阪府へと流れる府県境付近を「亀の瀬」と称している付近)に陣を構えよ。」と命じ自身は残りの兵百名を率いて山を登った。

 高安城たかやすのきの見張りの兵は坂本財さかもとのたからの兵が押し寄せるのを見て税倉ちからくら(兵糧を蓄えていた。)ことごとく焼き払い逃げ去った。坂本財さかもとのたから高安城たかやすのきに入り一夜を明かした。

 秋七月四日の明け方、西の方を望見すると飛鳥に向かう二上山の北麓を通る長尾街道と二上山の南麓を通る竹ノ内街道の二つの道から軍勢が押し寄せる幡が見えた。

 誰かが「あれは壱伎韓国いきのからくにの軍であろう。」と叫んだ。坂本財さかもとのたからは直ちに軍を率いて急峻な河内側に下り衛我河えがのがわ(石川 大和川の支流で西岸は藤井寺市、羽曳野市、東岸は柏原市)を渡り、壱伎韓国いきのからくにと河の西で戦った。しかし、多勢に無勢、壱伎韓国いきのからくにの軍勢に敗れて敗走し懼坂かしこのさかに陣を構える紀大音きのおおとの陣営に入ったが壱伎韓国いきのからくにに攻められて反撃できず敗退し飛鳥に逃れた。

 同日、大伴吹負おおとものふけい大野果安おおののはたやす率いる近江軍と那羅山ならやまで戦ったが敗れ兵卒は散り散りに逃れた。大伴吹負おおとものふけいも数名の兵と共に辛うじて宇陀に向かって逃れる事が出来た。

 大野果安おおののはたやすは敗走する大伴吹負おおとものふけいを追って飛鳥に至り天香久山(奈良県橿原市)に登って飛鳥宮を望見するとまるで砦の如く盾を連ねて守りを固め伏兵がいる如くに見え追撃を諦めて引き返し那羅山ならやまに陣を敷き、近江に急使を遣って指示を待った。

 報告を聞いた蘇我赤兄あかえ中臣金なかとみのかねは大和を制圧する好機を逃し、大伴吹負おおとものふけいは援軍を得て息を吹き返すであろう。激怒した二人は犬養五十君いぬかいのいきみを遣わして指揮を執らせた。そして、不破と飛鳥の連絡を絶ち大伴吹負おおとものふけいを孤立させるには倉歴道くらふのみち(甲賀越え鹿深かふかの道 大津から草津、栗東と進み野洲川に沿って湖南市,甲賀市甲賀町から伊賀市柘植つげ町に至る道)を押さえ飛鳥を北と南から攻める策を採った。

 秋七月五日、蘇我赤兄あかえ中臣金なかとみのかねは大和を制圧すべく田辺小隅たなべのおすみに数百の騎馬兵を授け秘かに草津から倉歴道くらふのみちを進み積殖つむえの山口(三重県伊賀市柘植つげ町)に陣を構える田中足麻呂たなかのたりまろを攻めさせた。

 田辺小隅たなべのおすみは兵に「夜襲を掛ける。敵か味方かの合言葉は「金」とする。敵兵に気づかれぬよう幡を巻き、鼓は抱き、兵も馬も口にばい(声を出さないように箸のような形をした道具。)をくわえて鹿深山かふかのやま(甲賀の山)のを越える。」

 田辺小隅たなべのおすみの騎馬軍団は防御の柵を打ち壊し田中足麻呂たなかのたりまろの陣営に雪崩れ込んだ。田中足麻呂たなかのたりまろの陣営は夜襲を掛けられ大混乱となり為すすべもなかった。田辺小隅たなべのおすみの兵は合言葉を云わぬ兵を片っ端から斬り捨てた。田中足麻呂たなかのたりまろは合言葉に気づき危ういところを逃れて莿萩野たらの多品治おおのほんじの陣に駆け込んだ。

 積殖つむえの山口から莿萩野たらのまで僅かに十三~四キロ、田辺小隅たなべのおすみの騎馬軍団は勝ちに乗じて多品治おおのほんじが守る莿萩野たらの(三重県伊賀市上野)を急襲すべく馬を馳せた。

 しかし、莿萩野たらの守将しゅしょう多品治おおのほんじ田中足麻呂たなかのたりまろの知らせでいち早く柵を連ね三千の兵で迎撃の陣を敷いて待ち構えていた。田辺小隅たなべのおすみの軍団は撃破されて敗走した。多品治おおのほんじは追撃の兵を繰り出し田辺小隅たなべのおすみを追わせたが田辺小隅たなべのおすみは追撃の兵をかわし辛うじて逃れた。

 大伴吹負おおとものふけい大野果安おおののはたやすの逡巡に救われ数名の兵と共に逃れて墨坂(奈良県宇陀市榛原)に至った。墨坂で大海人おおあま皇子に命ぜられ大和に向かっていた紀阿閉麻呂きのあへまろ率いる軍の先駆け、置始菟おきそめのうさぎの兵団に遭遇した。

 秋七月五日、大伴吹負おおとものふけい置始菟おきそめのうさぎと共に金綱井かなづなのい(橿原市今井町)に戻り駐屯して散り散りになった兵を集めた。

 坂本財さかもとのたからを敗走させた壱伎韓国いきのからくにの軍が大坂道(二上山の北麓を通る長尾街道)から攻めて来るとの知らせが入った。大伴吹負おおとものふけいは穴虫峠(二上山の北麓)を越えて飛鳥に向かうと考え当麻たいま(奈良県葛城市当麻)の地に陣を敷いた。

 そして、当麻の葦池の辺りで戦いが起こった。大伴吹負おおとものふけいの軍の中に来目くめと呼ばれる勇者がいた。来目くめは刀を抜き、馬を疾駆させ敵陣に切り込んだ。来目くめに続けと騎馬軍団が怒涛の如く攻め込み次々に切り捨て、壱伎韓国いきのからくにの軍兵は恐れて逃げ散った。

 壱伎韓国いきのからくにの軍は総崩れとなり、壱伎韓国いきのからくにも馬を馳せて逃げた。逃げる壱伎韓国いきのからくにを遠くに見つけた大伴吹負おおとものふけい来目くめに射させたが当たらず壱伎韓国いきのからくには逃げ去った。

 大伴吹負おおとものふけいは飛鳥に戻り紀阿閉麻呂きのあへまろ三輪子首みわのこびと率いる本隊の到着を待った。数万の兵が集結し大伴吹負おおとものふけいは軍を三軍に分け、三輪高市麻呂みわのたけちまろ置始菟おきそめのうさぎを将として上つ道を守らせ、紀阿閉麻呂きのあへまろを将として下つ道を守らせ、三輪子首みわのこびとを将として中つ道を守らせ、自身は三軍の指揮を執るべく僅かな兵を従えて中つ道の後方に本営を置いて迎撃態勢を取った。

 この三道は奈良盆地を南北に平行してほぼ二キロ強の等間隔で縦断する大路で東から順に上つ道、中央を中つ道、西側を下つ道と称し道幅は四十数メートル有ったと推定されている。

 上つ道は現在の桜井市から奈良盆地の東の山沿いを北上し、天理市を経て奈良市の東側に至る道。中つ道は飛鳥から天香久山と耳成山の間を通って、奈良市のほぼ中央部に至る道。下つ道は橿原市八木から盆地の中央部を北上して、奈良市の西部を通って山城方面に至る道。

 大野果安おおののはたやすに替わり将に任じられた犬養五十君いぬかいのいきみ那羅山ならやまの陣に着くと直ちに偵騎を発し敵情を探らせた。偵騎の報告で大伴吹負おおとものふけいが援軍を得て上つ道、中つ道、下つ道に軍を分けて守りを固め攻め上る機会をうかがっていると知り、那羅山ならやまから軍を進めて村屋(奈良県葛城郡田原本町)に陣を敷き、大野果安おおののはたやすに数千の兵を授け上つ道の軍を攻めさせた。

 大野果安おおののはたやすは寺川に沿って南下し上つ道の軍を側面から攻撃すべく笠縫の辺りで東に向きを変えた。そして、廬井鯨いほいのくじらに騎馬の精兵二百を授け中つ道の後方に本営を置いた大伴吹負おおとものふけいの陣営を急襲させた。

 大伴吹負おおとものふけいの本営ではまさか近江軍が奇襲を掛けて来るとは思いも寄らず兵は少なかった。馬蹄の響きで最初に敵の襲来と気づいたのは陣営に詰めていた近くの大井寺の奴、徳麻呂であった。本営には徳麻呂を含め五人の奴が従軍していた。五人は先鋒となって次々に矢を放ち騎馬軍団の前進を食い止めた。

 一方、大野果安おおののはたやすは側面を攻撃する目論見が外れ上つ道を村屋に向かって進軍する三輪高市麻呂みわのたけちまろ置始菟おきそめのうさぎの軍と箸陵はしはか(奈良県桜井市箸中 邪馬台国やまたいこく畿内説では「卑弥呼ひみこ倭迹迹日百襲姫命やまとととびももそひめとの説もある。)」の墓)の池(箸中の大池)の北で遭遇し激しい戦いとなった。近江軍は敗れて敗走し置始菟おきそめのうさぎの軍は勝ちに乗じて追撃し、廬井鯨いほいのくじらの背後に至った。

 廬井鯨いほいのくじらの騎馬軍団は退路を断たれ兵は散り散りに逃げたが多数の兵が殺された。白馬に跨っていた廬井鯨いほいのくじらも逃げようとしたが馬が泥田に落ちて足を取られ動けなかった。

 大伴吹負おおとものふけいは近くに居た甲斐の兵士に「あの白馬に乗った武者は廬井鯨いほいのくじらではないか、早く追って射よ。」と命じた。廬井鯨いほいのくじらは懸命に鞭を打ち甲斐の兵士が迫る前にやっと泥田を抜け出し逃げ去った。大伴吹負おおとものふけいは飛鳥に戻り陣容を整えたが犬養五十君いぬかいのいきみは大津宮防衛に備えて呼び戻され近江軍は大和から撤退した。

 秋七月六日の深夜、不破の本陣に莿萩野たらののでは多品治おおのほんじが近江軍の将田辺小隅たなべのおすみを撃破し、大和の箸陵はしはかの戦いでは置始菟おきそめのうさぎ廬井鯨いほいのくじらを敗走させたとの戦勝が伝えられた。これで大和での攻防は終わりいよいよ決戦の時が近づいて来た。

 秋七月七日、大海人おおあま皇子は近江を攻めるべく進軍を命じた。先鋒は村国男依むらくにのおよりであった。犬上川に布陣している近江軍も大海人おおあま皇子の軍が進撃を開始した事を察知し坂合部薬さかいべのくすり(有馬皇子の変で流罪になった人物。)に数万の兵を授け息長おきなが(天野川)の横河(天野川と梓川の合流付近)に布陣して迎撃せよと命じた。

 村国男依むらくにのおよりは数万の兵を率い息長の横河に至り、近江軍と激しい戦闘を交え打ち破って近江軍の将坂合部薬さかいべのくすりを斬った。

 秋七月九日、村国男依むらくにのおよりは近江軍が布陣する犬上川にほど近い鳥籠山とこのやま(大堀山 滋賀県彦根市東沼波町)で近江軍の将秦友足はたのともたりが率いる軍勢と戦い秦友足はたのともたりを斬った。

 その後も両軍は戦火を交え、近江軍はじりじりと後退し安河あすかわ(野洲川)まで敗走した。

 秋七月十三日、村国男依むらくにのおよりらは安河あすかわに布陣する近江軍を攻め 社戸大口こそへのおおくち土師千島はじのちしまを捕虜とした。近江軍は敗走し栗太くるもと(滋賀県栗太郡栗東町 名神高速栗東インター辺り)で陣を立て直した。村国男依むらくにのおよりらは栗太くるもとの陣を攻め激戦が繰り広げられ秋七月十七日、栗太くるもとの陣を打ち破り近江軍は敗走して瀬田(滋賀県大津市瀬田)の本陣に退却した。

 栗太くるもとから瀬田まで僅か十数キロ、大海人おおあま皇子軍は栗太くるもとに留まり軍議を開いて数名の斥候うかみを放ち敵陣の様子を探らせた。斥候うかみの兵が帰り申すには「栗太くるもとから十里(当時の一里は五三三・五メートル 故に五・三キロ)も進めば瀬田川の対岸に布陣する近江軍の鉦鼓しょうこの音が聞こえ、瀬田川に至って対岸を臨めば旗幟が野をおおい、人馬の巻き上げる土埃つちぼこりで空が曇って見えた。陣の後方が何処に有るか分からないほどの兵馬で埋め尽くされている。」との事であった。大海人おおあま皇子軍は連日の激戦の疲れも有り陣容を立て直す為、栗太くるもとに集結し四~五日兵を休ませた。

 この頃、大海人おおあま皇子に「直ちに北の方、越に赴き越からにおの海(琵琶湖)の西岸を南下して大津宮に向かえ。」と命じられた羽田矢国はたのやくに出雲狛いずものこまは琵琶湖西岸を南下し三尾城みおのき(滋賀県高島市安曇川町 長法寺山)に至った。

 この城は天智天皇が白村江はくすきのえの戦いに敗れ北の守りとして築かせた朝鮮式の石塁を廻らせた山城であった。城はこの地の豪族三尾氏が守りを固め進軍を阻んだ。山中で戦いが繰り広げられたが秋七月二十二日ついに城は陥落し羽田矢国はたのやくに出雲狛いずものこまは大津宮を目指した。

 同じ頃、大和を制圧した大伴吹負おおとものふけいは生駒山を越えて孝徳天皇が遷都した難波に入り、難波宮を制圧して大津宮を目指し山城国(京都府の南半分)に向かった。

 秋七月二十二日、大海人おおあま皇子は不破から動かず、十九才の総大将高市たけち皇子が村国男依むらくにのおより大海人おおあま皇子軍の将を率いて栗太くるもとを発しついに瀬田川に至った。対岸を臨み見ると斥候うかみの兵が申した通り人馬が満ち大陣を敷いていた。

 瀬田川は琵琶湖の水が流れ出る唯一の河川で淀川の源流でもある。滋賀県では瀬田川と呼ばれ京都府に入ると宇治川と呼ばれ、宇治川、桂川、木津川の三川が合流して淀川と呼ばれ大阪湾へ注ぐ。

 瀬田川に本格的な橋が架けられたのは天智天皇が大津宮に遷都した際に架けられた瀬田橋(瀬戸の唐橋)で有る、宇治橋は唐から帰朝した道昭どうしょうが架けたと伝えられているので瀬田橋も道昭どうしょうが架けたのであろうか。

 現在の瀬田の唐橋は全長二二三・七メートル(大橋約一七二メートル、小橋約五二メートル)、現在の橋の下流八〇メートルで当時の遺構と思われる橋脚の基礎が発見された。橋の幅は七~九メートル、長さ二五〇と推定されている。

 近江軍は大友皇子自ら大軍を率いて瀬田川に陣を敷き左大臣の蘇我赤兄あかえ、右大臣中臣金なかとみのかねも出陣した。両軍はこの橋を挟んで睨み合い対峙した。互いに鉦鼓しょうこを打ち鳴らしその音は遠く数十里先まで聞こえた。そして、双方の弓列から矢が雨の様に放たれた。

 大海人おおあま皇子軍が瀬田川を渡って攻め込むにはこの瀬田橋を渡るか凡そ六キロ南の瀬田川と大戸川だいどがわの合流地「供御くごの瀬」が川幅も広く瀬田川を渡河出来る唯一の浅瀬であった。

 大海人おおあま皇子軍は軍を割いて「供御くごの瀬」を渡河し近江軍の背後を襲う事も考えたが動きは直ちに察知され橋を渡って攻め込んで来るであろう。

 選択の余地は無くこの橋を渡って攻め込む事になるが近江軍の先鋒を務める将智尊ちそんは瀬田橋の中央の橋板を外し、長さ三丈ほどの板を渡しその板に綱を付け、板を踏めば綱を引いて川に落とす仕掛けを施していた。

 両軍は互いに睨み合って動けなかった。大海人おおあま皇子軍の将大分稚臣おおきたのわかみは一隊を率いて橋の正面に陣取っていた。膠着状態を打破すべく大分稚臣おおきたのわかみよろいを重ね着し、長柄のほこを捨て、抜刀して橋の上に立ち一気に橋板を踏んで駆けた。

 智尊ちそんは「綱を切らせてはならぬあの者を射殺せ、射殺せ」と命じ、何本もの矢が大分稚臣おおきたのわかみの胸板に突き立ったが大分稚臣おおきたのわかみは物ともせずに駆け抜け綱を切り落とした。

 全身に矢を受けた大分稚臣おおきたのわかみは鬼神の如く太刀を振り翳して近江軍に斬り込んだ。近江軍の軍卒はその気魄に圧倒され恐れ、おののきあわてふためいて、我先にと逃げた。大海人おおあま皇子軍の兵士は大分稚臣おおきたのわかみに続けと怒涛の如く橋を渡り近江軍に斬り込んだ。

 智尊ちそんは「止まれ、止まれ、止まって斬り殺せ」と命じたが浮足立った兵卒に声は届かなかった。怒りで顔を真っ赤にした智尊ちそんは抜刀し「逃げる者は味方で有ろうとも斬り捨てる、止まれ。」と命じ数人を斬り捨てたが堰を切った流れを止める事は出来なかった。智尊ちそんは橋の辺で大海人おおあま皇子軍の兵士の一人に斬り殺された。書記に「衆悉亂而散走之。不可禁。」いくさことごとくに乱れてあらけ逃ぐ。とどむべからず)と記している。

 近江軍は総崩れとなって大敗し大友皇子と蘇我赤兄あかえ中臣金なかとみのかねはかろうじて逃れた。

 大海人おおあま皇子軍の先鋒村国男依むらくにのおよりは瀬田橋を渡り粟津岡あわずのおか(滋賀県大津市膳所)に陣を敷き、秋七月二十三日、捕らえた犬養五十君いぬかいのいきみ谷塩手たにのしおてを粟津の広場で斬った。

 大友皇子は物部麻呂まろと数人の舎人とねりと共に逃れて山城国山前やまさき(京都府乙訓郡大山崎町)に至ったが遠くに難波から進軍して来た大伴吹負おおとものふけいの軍を目にし、大津に引き返して長等山ながらやまに身を潜めたが逃れられないと悟り、物部麻呂まろに「我が首を大海人おおあま皇子に差し出せ。」と告げて縊死いし(自ら首をくくって死ぬ。)した。享年二十五才。物部麻呂まろは大友皇子の亡骸を丁重に埋葬し長等山前陵ながらやまさきのみささぎ 滋賀県大津市御陵町)、大友皇子のこうべ高市たけち皇子に差し出した。

 高市たけち皇子は物部麻呂まろを伴って不破の軍営に向かい、書記には「大友皇子のかしらささげて軍営の前にたてまつりぬ」と記されている。さらし首にしたのであろうか。

 秋七月二十四日、大海人おおあま皇子軍の将軍らはことごとく筱波ささなみ(大津宮の近辺)に会し、左右大臣、御史太夫ぎょしたいふ等々高位高官を捜索して逮捕し大津宮を焼き払った。

 秋七月二十六日、将軍らは不破の軍営に向かった。

 秋八月二十五日、大海人おおあま皇子は高市たけち皇子に命じて近江方の群臣の罪状と刑を発表された。重罪八人(書記に名は記されていないが近江軍の将軍達か。)を極刑(死罪)に処し、右大臣中臣金なかとみのかねは斬罪に処せられ浅井の田根(滋賀県東浅井郡北部)で斬られた。

 左大臣蘇我赤兄あかえ御史太夫ぎょしたいふ巨勢比等こせのひとおよびその子と孫、中臣金なかとみのかねの子、蘇我果安そがのはたやすの子はことごとく流罪とした。これ以外は全て赦した。

 御史太夫ぎょしたいふ紀大人きのうしはなぜ罰せられなかったのか。同族の紀阿閉麻呂きのあへまろの活躍に免じて赦されたのか、多分、大海人おおあま皇子軍に内通していたのではなかろうか。

 秋九月八日、大海人おおあま皇子は美濃不破の本営を二ヶ月振りに発し帰路につかれた。八日は伊勢の桑名に泊まり、九日は鈴鹿に泊まり、十日は阿閉あへ(三重県上野市付近)、十一日は名張、十二日に大和飛鳥に還って嶋宮に入られた。十五日、嶋宮から岡本宮に移られた。この年、岡本宮の南に飛鳥浄御原宮あすかきよみはらみやを造営し、その冬に住まわれた。翌年の二月二十七日、飛鳥浄御原宮あすかきよみはらみやで即位の儀が執り行われ第四十代天武天皇となられた。

 天武天皇は皇位を簒奪さんだつしたのであろうか。

 天智天皇が崩御したのは天智一〇年冬一二月三日、大海人おおあま皇子が挙兵したのは翌年の夏六月二十四日、近江朝廷が大海人おおあま皇子の挙兵を知ったのは二日後の夏六月二十六日と思われる。

 天智天皇の崩御から大海人おおあま皇子の挙兵まで六ヶ月有りこの間に大友皇子は即位していたのか否か古来より論争が絶えず、即位していたのなら天武天皇は皇位を簒奪したことになる。

 光仁天皇以降天智系の天皇が続いており明治三年(一八七〇年)明治政府は大友皇子に「弘文天皇」と追諡ついししたが論争は現在も続いている。


次のページ あとがき

前のページ 白村江の会戦


objectタグが対応していないブラウザです。