皇位争乱

第五話 倭建尊やまとたけるのみこと
 本牟智和気ほんむちわけ

 帝垂仁すいにん天皇)は亡くなった最愛の后、狭穂姫さほひめの願いを入れて丹波たには美智宇斯王みちのうしのみこの五人の姫を召し出した。

 丹波から都に上った五人の姫を一目見た帝は一番上の姫、日葉酢媛ひばすひめ兄比売えひめを皇后とし渟葉田瓊入媛ぬはたにいりびめ弟比売おとひめ真砥野媛まとのびめ薊瓊入媛あざみにいりびめを妃に迎え入れた。五人目の竹野媛は男勝りで気性が強く帝の御気に召さず故郷に帰された。

 竹野媛は帰される理由を問いただし、容姿が醜い故と聞かされ耐え切れずその場に泣き崩れた。同じ腹から生まれた姉妹でありながら容姿が醜いが故に帰される恥辱を受けた竹野媛は生きる気力を失い食も摂らず数日泣き暮らした。

 供の者に促され丹波に向かって帰路についた竹野媛は山代の相楽さがらかに至り、このまま故郷に帰り恥じをさらして生き長らえる事が出来ようかと木の枝に腰紐を掛け死のうとしたが供の者に見つかり死に切れなかった。(この地を懸木さがらきといったが今は訛って相楽さがらか(京都府木津川市相楽)という)

 姫は身も心も虚ろで供の者に促されて山城の国の乙訓おとくにに辿り着いた時、悲しみに耐えきれずとうとう深い淵に身を投げて自らの命を絶った。(この地を堕国おちくにと呼ばれるようになりこれが訛って弟国おとくに乙訓おとくにとなった。(京都府長岡京市))

 后に上った日葉酢媛ひばすひめは三男二女を生み渟葉田瓊入媛ぬはたにいりびめ薊瓊入媛あざみにいりびめは共に一男一女を生んだが、帝垂仁すいにん天皇)は最愛の后、狭穂姫さほひめの忘れ形見本牟智和気ほんむちわけを事のほか可愛がった。

 御子が船に興味を抱くと帝は尾張の相津あいづに有る二股の杉から二股の小舟を造らせ、それを大和に運んで市師池いちしのいけ軽池かるのいけに浮かべて御子と遊んだ。

 しかし、本牟智和気ほんむちわけは成長してもお声を発する事はなかった。帝は思い悩み狭穂彦さほびこの怨霊が御子に乗り移ったのではないかと巫女を召して神に問わせたが神は応えなかった。

 帝は本牟智和気ほんむちわけを太子にと強く望み、声を発する事を待ち望んだが、五歳を迎えてもお声を発しなかった。

 十八歳の春を迎えた本牟智和気ほんむちわけは堂々たる体躯を持ち立派な髭を蓄え風貌を見る限り皇子がおしである事を気付かせなかった。

 しかし、御子は相変わらず言葉を発しなかった。思い悩んだ帝は再び巫女に占わせたが神は応えなかった。

 おしの皇子に皇位を継がす訳にもいかず逡巡した末に帝は五十瓊敷入彦いにしきいりびこ(母は日葉酢媛ひばすひめと同母弟の大足彦おおたらしひこ(後の景行けいこう天皇)を召し二人に欲するものをお尋ねになった。

 五十瓊敷入彦いにしきいりびこは武を好み弓矢を欲した。大足彦おおたらしひこは身の丈、六尺も有る大男であったが状況を的確に把握し大いなる野心を内に秘めていた。

 五十瓊敷入彦いにしきいりびこが帝位に執着せず武を好み、太子の御位を望んでいないと知った大足彦おおたらしひこは父帝に取り入って太子の御位を強く望んだ。帝は本牟智和気ほんむちわけを太子に就ける事をあきら大足彦おおたらしひこを太子とした。

 十八年冬十月八日、何処からともなくくぐい(白鳥)が飛来し本牟智和気ほんむちわけくぐいを見て突然、声を発し近侍の者に鳥の名を聞いた。近侍の者が鳥の名を告げたが御子は再び押し黙って声を発する事はなかった。

 この話しをお聞きになった帝は山辺之大鷹やまのべのおおたかに命じてこのくぐいを追わせた。山辺之大鷹やまのべのおおたかは紀伊国から播磨、但馬、丹波と追い求め、近江から美濃国、尾張、信濃、と追いかけ越国で網を張ってようやく捕らえ都に馳せ戻って献上した。

 帝は大いに喜び早速、本牟智和気ほんむちわけに見せたが眺めるばかりで声を発する事はなかった。落胆した帝は塞ぎ込み板戸を固く閉ざした御殿の内に篭りしばらく外に出る事は無かった。

 暗闇の中で思い詰め疲れ果てた帝は知らず知らず眠りに就いていた。夢の中に高々と燃え盛る炎の内に神が現れ出雲の大神であると告げた。

 はっと目覚めた帝は神のたたりを解く事が出来るかも知れないと思い、直ぐに巫女を召し夢の中の出来事を告げて占わせた。巫女は崇神すじん天皇が出雲を攻め高殿を焼き払った事に出雲の大神がお怒りになっていると告げた。

 帝は本牟智和気ほんむちわけが声を発する様になれば昔に劣らぬ神の高殿を出雲に建立する事を出雲の大神と誓約うけひ(神との誓約うけひする事を巫女に命じた。

 そして、日子坐王ひこいますのみこの孫、曙立王あけたつのみこ莵上王うなかみのみこの兄弟に本牟智和気ほんむちわけを託し御子と共に出雲へみそぎの旅に出る事を命じた。

 本牟智和気ほんむちわけを伴って出雲に至った曙立王あけたつのみこ櫛御気野命くしみけぬのみこと素戔嗚尊すさのおのみことの別名)を祀る厳神の宮いつかしのかみのみや、熊野大社(島根県松江市八雲町熊野 出雲一宮)に詣でて御子のみそぎを行った。

 そして、簸の川ひのかわ斐伊ひい川)に至り出雲国造、岐比佐都美きひさつみ宇賀都久怒うかつくぬの孫)が仮宮曾枳能夜そきのや神社 島根県出雲市斐川町神氷)を建てて御子を出迎え大御食おおみけ(帝に奉る御膳 服属の儀礼)たてまつった。

 食事を終えて岐比佐都美きひさつみ曙立王あけたつのみこの会話を聞いていた本牟智和気ほんむちわけが突然「簸の川ひのかわの川下に岩隈之曾宮いわくまのそのみやに鎮まる葦原醜男神あしはらしこおのかみ大国主神おおくにぬしのかみの別名)を祀る大庭おほには(神事を行う場)が有るのではないか。」と仰せられた。

 曙立王あけたつのみこは「今、何とおっしゃいましたか?」と問い返すほど驚き、再び御子の御言葉を聞いて「ああ、神との誓約うけひがなった。」と飛び上がらんばかりに喜び早速、御子を蒲葵ほき(ビロウ)の葉で屋根を葺いた長穂宮にお迎えして、早馬を仕立てて帝に「神との誓約うけひが成り、御子が言葉をお話になった。」と報告の使者を遣わした。

 そして、曙立王あけたつのみこ莵上王うなかみのみこ本牟智和気ほんむちわけが言葉を発した岩隈之曾宮いわくまのそのみやに鎮まる葦原醜男神あしはらしこおのかみを祀る大庭おほにはが何処にあるのか岐比佐都美きひさつみに尋ねた。

 岐比佐都美きひさつみは「その地は昔、高さ十六丈(約五〇メートル)に及ぶ大きな高殿(出雲大社 旧社名杵築大社)が有り、出雲の神をお祀りし代々、天穂日命あめのほひのみこと神裔しんえいがお仕えしておりました。十世の神裔しんえい出雲振根いずもふるね国造こくそうの地位に有った時、先帝の崇神すじん天皇が代々の国造こくそう秘匿ひとくしてきた神宝を見たいと仰せられました。武諸隅たけもろすみが勅命を伝えるべく出雲に赴いたが振根ふるねは筑紫に出向き不在でした。弟の飯入根いいいりねが勅命を受け賜わり出雲の神宝を息子の宇賀都久怒うかつくぬと末弟の甘美韓日狭うましからひさに持たせ武諸隅たけもろすみと共に都に上り帝に奉りました。筑紫から帰ってきた振根ふるね飯入根いいいりねから神宝を帝に奉ったと聞かされ怒り心頭に発し飯入根いいいりねを責めいさかいの末に殺してしまった。宇賀都久怒うかつくぬ甘美韓日狭うましからひさは都に上り訴え出たので帝は出雲に軍を差し向けました。出雲振根いずもふるねは高殿に籠って防ぎましたが防ぎ切れず自ら火を放って高殿は焼け落ちました。そして、帝から出雲国造こくそうに任じられた宇賀都久怒うかつくぬは高殿の跡地に小社を建て大国主神おおくにぬしのかみを祀る事をはばか葦原醜男神あしはらしこおのかみと名を変えて出雲の神をお祀り致しました。出雲の民はその社を岩隈之曾宮いわくまのそのみや(出雲大社)と申しております。」と答えた。

 この頃、簸の川ひのかわ斐伊ひい川)の流路は宍道湖ではなく西に流れ神門の水海かんどのみずうみ(神西湖)に流入し日本海に注いでいたので出雲大社は簸の川ひのかわの川下にあった。

 曙立王あけたつのみこ莵上王うなかみのみこ岐比佐都美きひさつみの案内で本牟智和気ほんむちわけを伴い岩隈之曾宮いわくまのそのみやを訪れ岐比佐都美きひさつみに教わって出雲の神に二拝、四拍手、一拝の祈りを奉げた。(神社の拝礼は二拝、二拍手、一拝が一般的)

 長穂宮に立ち帰った本牟智和気ほんむちわけは疲れを覚え横になるとそのまま眠ってしまわれた。すると夢枕に出雲の神が顕れ「そなたは出雲で生まれ変わった。今日より倭建尊やまとたけるのみことと名を改めよ。」と告げられて目が覚めた。

 みそぎの旅を終えて大和に帰着した曙立王あけたつのみこ莵上王うなかみのみこ本牟智和気ほんむちわけを伴って直ちに帝に拝謁し、神との誓約うけひが成り御子が言葉を発する様になった事と出雲の神から倭建尊やまとたけるのみことと名を授けられた事を申し述べた。帝は大いに喜ばれ、曙立王あけたつのみこ莵上王うなかみのみこをねぎらい盛大な宴を催した。

 そして、神のたたりから解き放たれた倭建尊やまとたけるのみことは異母妹の布多遅能伊理姫ふたじのいりびめ忍山宿禰おしやまのすくね(穂積臣)の媛、弟橘媛おとたちばなひめを妃に迎え入れた。

 帝は出雲の神との誓約うけひを実行すべく再び莵上王うなかみのみこを召し、出雲に立ち返って大国主神おおくにぬしのかみを祀る壮大な社を建てる事を命じた。

 出雲に赴いた莵上王うなかみのみこ岐比佐都美きひさつみを召しだし高殿の造営を告げ、古の出雲の社を知る者を探し出せと命じた。

 岐比佐都美きひさつみが連れ帰った古老は庭先の枯枝を折り地面に古の出雲の社を描き莵上王うなかみのみこに指し示した。描かれた高殿は都の御殿に勝る棟高十六丈(約四八メートル)の壮大な建造物であった。

 高殿造営の許しを得た岐比佐都美きひさつみは自ら山に分け入って千年を越える巨木を切り出し往時と違わぬ棟高十六丈の壮大な高殿を造営し、帝は竣工した高殿を天日隅宮あめのひすみのみやと名付け、天穂日命あめのほひのみこと(出雲の神を鎮めるために遣わされた天照大神あまてらすおおみかみの第二子)の十四世の孫、岐比佐都美きひさつみ大国主神おおくにぬしのかみを迎え入れる火熾ひおこしを命じた。

 帝の許しを得た岐比佐都美きひさつみ火鑚臼ひすりうす火鑚杵ひすりきねを用いて新しい火をおこして神をよみがえらせて出雲の神、大国主神おおくにぬしのかみを迎え入れた。

 出雲の高殿を再建し大国主神おおくにぬしのかみを祀った帝は先帝が宇陀の笠縫邑かさぬいむら(元伊勢の檜原神社 奈良県桜井市大字三輪)から丹波宮津この神社 京都府宮津市字大垣)にお遷しした天照大神あまてらすおおみかみを鎮め祀らねば再び神の争いが起こるであろうと思った。

 二十年春三月、帝は幼き頃から天照大神あまてらすおおみかみに仕え年老いた皇女、豊鍬入姫とよすきいりびめの任を解き、后の日葉酢媛ひばすひめの皇女、倭姫やまとひめ天照大神あまてらすおおみかみを託し鎮め祀る地を探し求めさせた。

 倭姫やまとひめ天照大神あまてらすおおみかみを丹波宮津からお迎えし大和の宇陀、近江、美濃、尾張を巡って伊勢に至った。浪の打ち寄せる伊勢国をご覧になった天照大神あまてらすおおみかみはこの国は都から遠く離れているが美しい国である。この地に坐すと倭姫やまとひめに申された。

 天照大神あまてらすおおみかみは大和の宇陀の地を離れ美濃、尾張、駿河、丹波と転々としておよそ五十年の歳月の後、やっと伊勢、度会わたらいの地に鎮め祀られる事となった。

 帝は大神のお言葉のままに伊勢、度会わたらい山田原やまだがはらの地に社(伊勢神宮)を造営して天照大神あまてらすおおみかみを祀った。それと共に、五十鈴川の辺に斎宮いつきのみやを建て倭姫やまとひめを神に仕えさせた。

 二十年秋七月、皇后の日葉酢媛ひばすひめが病の床に就かれ、侍医は良薬を処方したが后は回復しなかった。帝は侍医から海を渡った神仙の国に「非時ときじく香果かぐのみ(常に香りを放つ木、橘の木)」と云う不老不死の良薬が有ると聞かされ、近臣の多遅摩毛理たじまもり天之日矛あめのひほこの五世の孫)を遣わして求めさせたが、二十二年秋七月六日、皇后の日葉酢媛ひばすひめは亡くなられた。

 帝は服喪の期間を定め、后の死を悲しみ殯斂宮もがりのみやこもられた。群臣が殉死を願う侍女の名を挙げ、地底で暮らす日常の様々な品について帝にお伺いを立てた。

 帝は四年前、弟の倭彦やまとひこが亡くなられた時、古式に倣いみささぎの周りに倭彦やまとひこの近習の者を生きたまま埋め殉死させた。殉死の者は日を経ても死なず昼夜泣きうめき、死して後、犬や鳥が死肉を漁った。

 帝は殉死の者が泣き叫ぶ声が耳から去らず鳥獣が漁る凄惨な場面を思い浮かべ、殉死する侍女の肉親の哀しみを思い殉死の弊を改めようと思われた。野見宿禰のみのすくねを召し、殉死に代わる制を奉れと命じた。

 野見宿禰のみのすくねは出雲の国に使いを遣り、土師部はじべ(土師器(素焼きの土器)製作集団)百人を呼び寄せ、埴土はにつちで人や馬を造らせ素焼きにして帝にご覧頂いた。

 帝は出来栄えを称賛し土の人や馬も地底に住めば生き返るであろう、殉死の旧習を改め后の陵には埴輪を立てると群臣に告げた。こうして后の死を境に帝は殉死を禁じ陵に埴輪を立てるように改めた。

 二十三年秋七月、筑紫の屯倉みやけから熊襲が叛き朝貢を奉らないと知らせて来た。帝は太子の大足彦おおたらしひこに兵を授け筑紫平定を命じられた。

 秋八月十五日、大足彦おおたらしひこは軍船を率いて筑紫に向かい九月五日に周防の佐波川の河口、佐婆津さばつ(山口県防府市佐波)に着かれた。そして、武諸木たけもろき莵名手うなて夏花なつはなの三人の将に兵を授け南の豊国(大分県)の偵察に向かわせた。

 三人の将は豊国の御木みけ(山国川)の河口、中津(大分県中津市)を目指した。その地は神夏磯媛かむなつそひめが支配する地で大勢の手下が待ち構えていた。

 そこに小舟の舳先に白旗を掲げて高羽たかはね(福岡県田川市)の族長、神夏磯媛かむなつそひめが現れ「皇軍に刃向う積りは有りません直ぐに帰順いたしますので兵を向けないで頂きたい。」と申し述べ、豊国の山野に跋扈ばっこする四人の賊の討伐を願い出た。

 神夏磯媛かむなつそひめの言によれば菟狭うさ駅館川やっかんがわ 大分県宇佐市)の川上にたむろする鼻垂はなたれ御木みけ(山国川 大分県中津市)の川上にいる耳垂みみたれ高羽たかはね彦山ひこさん川 福岡県田川市)の川上にいる麻剥あさはぎ、緑野川(紫川 北九州市小倉区)の川上に隠れる土折猪折つちおりいおり、の四人でそれぞれ多数の仲間を従え皇命には従わぬと豪語し秋の実りを略奪し女を攫い狼藉の限りを尽くしているとの事。

 三人の将は中津に留まり大足彦おおたらしひこに派兵を願う使者を遣わした。大足彦おおたらしひこは報告を聞くと直ちに周防の佐婆津さばつを出帆し軍船を率いて豊国に渡り長狭川の河口に浮かぶ簑島(福岡県行橋市大字簑島 今は陸続きになっている。)に軍船を留め、兵を率いて神夏磯媛かむなつそひめの領地、高羽の伊田(福岡県田川市白鳥町 白鳥神社)に布陣した。

 そして、武諸木たけもろきに兵を授けて四人の賊を討たせた。賊を討伐した大足彦おおたらしひこは豊前の長峡ながお(福岡県京都郡みやこ町)に仮宮を建ててしばらく兵を休めた。

 冬十月、碩田おおきた(大分県)に入り速見村(大分県別府市)に至った。速見村で土地の族長速津媛はやつひめの出迎えを受けた。速津媛はやつひめ禰疑野ねぎの(大分県竹田市大字今 禰疑野ねぎの神社)の地に打猿うちさる八田やた国麻侶くにまろと呼ばれている三人の土蜘蛛が居り皇命には従わぬとうそぶき戦も辞さぬと兵を練っております。又、久住山の麓の岩室に二人の土蜘蛛がおります。何卒、土蜘蛛の討伐をと願い出た。

 大足彦おおたらしひこは願を入れ、軍を来田見邑きたみむらに進め仮宮(大分県竹田市久住町大字仏原 宮処野みやこの神社)を建てて留まり土蜘蛛討伐の軍議を開き、莵名手うなてに兵を授けて久住山の岩室に跋扈ばっこする土蜘蛛を討たせた。

 そして、大足彦おおたらしひこは兵を率いて禰疑野ねぎのに拠る三人の土蜘蛛の討伐に向かったが禰疑野ねぎのに近づくと敵の奇襲に遭い雨の様に矢が飛来し防ぎ切れずに退却して城原きはら城原八幡社きばるはちまんしゃ 大分県竹田市大字米納)に布陣した。

 大足彦おおたらしひこは兵を整え、先ず禰疑山ねぎやまに拠る八田を討ち破った。この戦を望見した打猿うちさる国麻侶くにまろは敵わぬと見て白旗を掲げて降伏を願い出たが大足彦おおたらしひこは赦さず攻め掛かり、国麻侶くにまろは捕えられて首を刎ねられ打猿うちさるは追い詰められて谷に身を投げて死んだ。

 碩田おおきたの山野に跋扈ばっこする五人の土蜘蛛を討ち果たした大足彦おおたらしひこ碩田おおきた(大分県)の速見村(大分県別府市)を出帆し日向ひむか(宮崎県)に向かった。

 冬十一月、日向ひむかの大河、赤江川(大淀川)の河口、橘尊たちばなそん浦に軍船を留めた。日向の豪族は大足彦おおたらしひこを出迎え熊襲の来襲に苦しむ窮状を訴え、一日も早い討伐を願い出た。

 大和の太子が熊襲平定の兵を率いて日向に留まったと知った熊襲の豪勇、厚鹿文あつかや迮鹿文さかやは屈強な兵を従えて大足彦おおたらしひこの陣に襲い掛かった。

 激戦の末に何とか撃退した大足彦おおたらしひこは熊襲の強さを知り容易な敵では無い事を思い知らされた。長期戦を覚悟した大足彦おおたらしひこ高屋宮たかやのみや(高屋神社 宮崎市村角むらすみ橘尊たちばなそんを建てて本陣となし、何時果てるとも知れぬ戦に備えた。

 大足彦おおたらしひこ高屋宮たかやのみやに留まって熊襲の豪勇、厚鹿文あつかや迮鹿文さかやを相手に熾烈しれつな戦を繰り広げた。厚鹿文あつかや迮鹿文さかやに率いられた熊襲の兵は強く一進一退を繰り返し戦は三年の長きに亘った。

 ことごとく熊襲を討ち果たした大足彦おおたらしひこ高屋宮たかやのみやに留まる事すでに四年、日向で美人の誉れ高い御刀姫みはかしひめを召し妃とされた。

 御刀姫みはかしひめ豊国別とよくにのわけを生んだが戦の後も都に上らず後年、日向国造くにのみやつこに任じられた豊国別と共に日向に留まった。

 この間、都では大足彦おおたらしひこの行方が知れず帝は熊襲に敗れたと思い五十瓊敷入彦いにしきいりびこに兵を授け筑紫に赴かせたが消息は掴めなかった。帝は大足彦おおたらしひこが戦死したと思い群臣の反対を押し切って拒み続ける倭建尊やまとたけるのみことを太子に就けた。

 二十七年春三月、四年の歳月を要して熊襲を平定した大足彦おおたらしひこは筑紫(九州)を巡幸して都に帰還する事とした。高屋宮たかやのみやを出立し夷守ひなもり(宮崎県小林市細野夷守)から熊県くまのあがた(熊本県人吉市)に至った。

 熊県くまのあがたには熊津彦くまつひこと称する兄弟がいた。使いを遣り召し出したが兄の兄熊えくまは来たが弟の弟熊おとくまは来なかった。大足彦おおたらしひこ莵名手うなてに兵を授け帰順しない弟熊おとくまを討ち果たした。

 熊県くまのあがたから葦北あしきた(熊本県葦北郡芦北町)に至り、野坂の浦から船を出して八代海を北に進むと船上から不知火が見え大足彦おおたらしひこは「あの光に向かって船を進めよ。」と船頭に命じた。光に向かって進むと岸に着いた。村の名を尋ねると八代あがた豊村とよのむら(熊本県宇城市松橋町豊福)と答えた。そこで火国と名付けた。

 八代あがたから海を渡り高来県たかくのあがた(長崎県諫早市)を経て玉杵名邑たまきなのむら(熊本県玉名市)に至った。玉杵名邑たまきなのむらで土蜘蛛の津頬つつらを討伐し菊池川を遡って阿蘇に向かった。

 途中、山鹿で軍を留め(大宮神社 熊本県山鹿市山鹿)周辺の賊を平定し阿蘇国を巡って七月四日、筑紫の三毛みけに着き土地の豪族の館を行宮(福岡県大牟田市歴木くぬぎとした。数日、留まり八女県やめのあがた(福岡県八女市)高羅こうら(福岡県久留米市御井町 高良こうら大社)の行宮にしばし留まり的邑いくはのむら(福岡県うきは市浮羽町)を経て日田(大分県日田市)から豊国の御木みけ(山国川)の河口、中津(大分県中津市)に至り兵を休めて帰還の途に就いた。

 大足彦おおたらしひこは出立して五年後の二十八年秋九月、都に帰還したが、出迎えたのは太子に就いた倭建尊やまとたけるのみことであった。

 帝は熊襲討伐に筑紫に向かった大足彦おおたらしひこの消息が知れず思い悩んだ末に群臣の反対を押し切り倭建尊やまとたけるのみことを太子にと強く望んだ。

 しかし、倭建尊やまとたけるのみことは太子の大足彦おおたらしひこの行方が知れず太子に就く事を強く拒み続け、探索の兵を遣る事を願い出た。帝は倭建尊やまとたけるのみことの願いを聞き入れ五十瓊敷入彦いにしきいりびこに兵を授けて筑紫に赴かせたが大足彦おおたらしひこの消息は都にもたらされなかった。

 大足彦おおたらしひこは熊襲に敗れ戦死したとの思いを強めた帝は太子に就く事を拒む倭建尊やまとたけるのみことに勅命で有ると仰せられ致し方なく倭建尊やまとたけるのみことは太子の御位に就く事を承知された。

 倭建尊やまとたけるのみことの立太子の儀を執り行って程なく帝は病の床に就いた。群臣は八年前に神仙の国に遣わした多遅摩毛理たじまもり天之日矛あめのひほこの五世の孫)が不老不死の良薬「非時ときじく香果かぐのみ(常に香りを放つ木、橘の木)」を持ち帰る事を祈ったが、帝は垂仁二十八年(三〇八年)秋七月一日、纒向宮まきむくのみやで眠る様に崩御された

 多遅摩毛理たじまもりは万里の波涛を越えて神仙の国に至り、「非時ときじく香果かぐのみ(橘の実)」と十六本の若木を持ち帰ったが后の日葉酢媛ひばすひめも帝も崩御された後であった。

 多遅摩毛理たじまもりは八本を皇后の陵、狭木之寺間陵さきのてらまのみささぎ(奈良県奈良市山陵町)に植え、八本を帝の御陵菅原伏見陵すがわらのふしみのみささぎ 奈良県奈良市尼辻西町)の左右に四本づつ植えた。

 植え終わって多遅摩毛理たじまもりは御陵に平伏し泣き叫びながら存命中に復命出来なかった事を詫び、生き長らえても何の意味があろうかと申して御陵の前に平伏したまま息絶えた。群臣は多遅摩毛理たじまもりを哀れに思い帝の御陵の周濠の中に小島を造り葬った。

 復命して帝の薨去こうきょを知った大足彦おおたらしひこは熊襲の平定を命じた帝を恨んだ。帝は本牟智和気ほんむちわけを幼少の頃より可愛がりいずれ太子にと望んでいたがおしで有るが故に断念した。

 しかし、神の祟りが解け言葉を発する様に為った時から本牟智和気ほんむちわけを再び太子にと望み我を死地に追い遣ったやも知れぬとの疑いを深めた。

 大足彦おおたらしひこは妃の稲日大郎姫いなびのおおいらつめの父、吉備臣と諮り倭建尊やまとたけるのみことの失脚を目論んだが倭建尊やまとたけるのみことが妃に迎え入れた弟橘媛おとたちばなひめの父、忍山宿禰おしやまのすくねは物部の一族であり用心を怠らなかった。

 大連おおむらじ物部十千根もののべ の とおちねは後継の帝を決める王者議定を開きいずれの太子を帝とすべきかをはかったが二人の太子の先例は無く困惑し議は決しなかった。

 何としても帝位に就きたい大足彦おおたらしひこ神八井耳命かむやいみみのみことが弟の神渟名川耳尊かむぬなかわみみのみこと(二代綏靖すいぜい天皇)に太子の御位を禅譲した先例を引いて倭建尊やまとたけるのみことに辞意を迫ったが最早、倭建尊やまとたけるのみことは応じなかった。

 数ヶ月が経ち業を煮やした大足彦おおたらしひこは兵を集めて倭建尊やまとたけるのみことの館を襲った。しかし、事前に来襲を察知した倭建尊やまとたけるのみことは后の弟橘媛おとたちばなひめを伴って館を抜け出した後であった。大足彦おおたらしひこは八方に兵を遣って捜させたが倭建尊やまとたけるのみことの姿はなかった。


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