叡山千日回峰行一日体験記
浄土院に至る
行者道の渓を登り、叡山の尾根を進むと道が二股に分かれ左の道をとると大比叡(八四八メートル)の山頂に至ると教えられた。
我々は山頂を迂回し林間の細い尾根筋を少し下ると一気に視界が開けた。左手に朝日に輝く京都市街、右手の琵琶湖側は立ち上る濃い霧に覆われ何も見えなかった。運が良ければこの地点から京都市街と琵琶湖が一望出来るとの事。
細い尾根筋を下ると広い駐車場に至った。早朝ゆえか一台も駐車していない無人の駐車場からの眺めは格別であった。
遠く天王山の山裾の向こうに高層ビルが林立し、高槻の市街で有る事がわかった。朝日に映えそれは美しい景色であった。
駐車場を抜けて再び山道を進むと、谷あいに八瀬、大原の里が見えた。途中に横川まで四キロの標識が有り、このまま玉体杉を経て横川に向うのかと思っていたが先導する世話役の僧は道を右に取り、再び林間に入った。
(玉体杉とは杉の巨木の名称である。この杉のたもとで回峰行者は京都御所に向かって玉体加持の祈祷を行う。玉体とは天皇のお体の事で即ち国家を意味している。天台宗では最澄以来、鎮護国家の教えを受け継ぎ国の平安を祈ってきた。又、この場所は回峰行者が唯一足を休める場所でもある。)
人一人通るのがやっとの道を再び登っては下る山歩きとなった。初めて参加した我々には今、叡山の何処を歩いているのか、次は何処に向かって歩いているのかまったく見当が付かず、ただひたすら、獣道と見紛う様な細い道を一行の後に従って歩いた。
叡山は鬱蒼とした木々に覆われ、かつて人の手が入った事の無い自然林である。全山木々で覆われ動植物の宝庫でもある。
最澄は一木一草、草や石にも仏性が有り、発心すれば誰もが菩薩になれると説き、「一切衆生悉有仏性」を唱え、叡山での殺生と竹木の伐採を禁断した。
その後、信長によって全山焼き討ちの悲劇に遭ったが、天下人となった家康は最澄に倣い叡山の山林竹木伐採禁止令を発布して山林を保護した。
以後、叡山の自然は今に受け継がれ自然林の鬱蒼とした森を形成している。其れゆえ、叡山は大した標高では無いが林間に入ると大樹が天を覆い深山幽谷の趣を呈している。
山道も最小限の道幅しかなく、特に行者道は作られた道では無く、人の踏み跡が一筋の道となっているに過ぎない。
林間を抜けると駐車場が有り、坂を下った谷間の地に西塔の釈迦堂(転法輪堂)があった。
釈迦堂は八三四年に建立されたが叡山焼き討ちの時、焼失し豊臣秀吉が鎌倉時代に建てられた三井寺(園城寺)の金堂を移築した。叡山で最も古い建物である。
釈迦堂の前で後続の到着を待ってしばし小休止を取った。釈迦堂も谷を下った谷底にあり、正面の長い石段を登れば弁慶のにない堂に至る。
しかし、先達の僧は石段を登らず再び林間の細い道を辿り、行き先も解らず付いてゆくと朱塗りの宝形造りのお堂が双子の堂の様に並んでいるのが見えた。
双子のお堂、にない堂は阿弥陀如来を本尊とする常行堂と普賢菩薩を本尊とする法華堂が渡り廊下で繋がっている。
両堂をつなぐ廊下に弁慶が肩を入れて担ったとの伝説から、にない堂と呼ばれている。このにない堂も千日回峰行の重要な修行の場である。
このお堂は三年籠山中に果たさなければならない常坐三昧か常行三昧かいずれかの行を、九十日間を一期として一人で堂内に籠り仏と一体になる修行を行うお堂である。
にない堂の渡り廊下の下をくぐり、渓を下ると樹海の中に叡山で最も清浄、崇高な場所、最澄の祖廟、浄土院に至った。浄土院は我々が巡拝した堂宇とは異なり叡山では珍しく土塀を巡らしたお堂であった。
先達の僧は「ここ浄土院が叡山で最も崇高な場所であると師匠の叡南俊照師が何時も申されている。」と話された。浄土院も谷底に有り周りは杉の大樹が空を覆い鬱蒼とした樹林の底にある。
ここ浄土院は千日回峰行と並び称される「侍真制度」による十二年籠山行を行う神聖な場所でもある。
この祖廟に籠り外界と断絶して十二年間、最澄が今も生きているが如く仕え、読経と五体投地の礼拝を繰り返す修行である。今も十二年籠山行に取り組んでいる修行僧が居るとの事であった。
先達の僧の話では修行僧が交代するには前任の僧と後任の僧が観想して同時に仏を観なければ交代出来ないとの事である。同時に仏を観たかどうかどのようにして確かめるのであろうか。我々とは異質な感性の世界が有る事を教えられた。
背をかがめて浄土院の小さな門をくぐると白砂が敷き詰められ、確かに塵一つ、木の葉一枚、落ちていなかった。右手の飛び石を踏んでお堂の横を通り、堂の裏手に廻ると最澄の祖廟が有った。
先達の僧は深々と拝礼し「ここが伝教大師の御廟所です。真言を唱え、般若心経を唱えます。」先達の僧に倣い経を唱えた。(我々は真言は何度も聞かされたので覚えたが般若心経は諳んじていないので頭を垂れて聞き入っていた。)
祖廟の脇に夏椿の大樹が大きく枝を広げていた。夏椿は別名、沙羅樹とも呼ばれ日本では「沙羅双樹」に擬せられている。沙羅双樹は釈迦の臥床の四方に沙羅樹が二本ずつあったことから沙羅双樹と呼ばれ、釈迦が入滅の時この沙羅双樹が一斉に花開いたと伝えられている。
夏椿は朝咲いて夕には散る一日花で平家物語の作者は人の世の常ならぬ事をこの花に託したのであろうか冒頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす・・・」と書き始めている。
祖廟の庭を若い僧が一人、地面に這いつくばって草むしりをしていた。十二年籠山行を行っている侍真僧であろうか。掃除地獄の事を聞かされていた為か草むしりする僧の姿が妙に印象的であった。
浄土院の正門で拝礼し脇の細道を下り再び登った先に別当大師光定の廟に至った。廟に向かって般若心経を唱え、草むしりと清掃をして真言を唱えながら御廟を一周した。
不思議な事にこの御廟には出入り口がない。先達の僧の話では別当大師は死を予見し、師最澄の祖廟に近いこの地で坐禅して瞑想に耽り、周囲を戸板で囲った小さなお堂を建てさせ、このお堂の中で坐したまま入滅した。それ故、この御廟には出入り口がないとの事。
御廟から再び林間の登り下りを繰り返し、斜面を登ると急に視界が開けた。そこは樹林を伐採した跡であった。切り出した杉の丸太が転がり、運び下ろすためのワイヤーが谷に向って伸びていた。
何故、森林を切り出したのであろうか、今まで深山幽谷の道を回峰行者の気分に浸りながら爽快に歩いて来たが、この景色を見ると修験の山である叡山が台無しである。
通行止めの柵の横をすり抜け材木を運び出す簡易なロープウエーを横目に見て、切り倒された丸太の横を通り抜けると、智証大師円珍の廟に至った。
廟の周りの草むしりをして般若心経を唱え拝礼してしばらく林間を進むと根本中堂に至り、拝礼して長い石段を登って元の「一隅を照らす会館」に帰着した。