叡山千日回峰行一日体験記

律院に帰着

 途中、草むしり等で時間を費やした為か何時もより帰着が遅れているとの事。

 五分ほどの小休止の後、歩いて下る組みとケーブルカーで下る組みに分かれた。八時のケーブルカーで山を下りる予定の人達は間に合わず二十分待たされる事になった。

 我々は若い僧の先導で帰路についた。下り坂は思いの外、急坂であった。朝の登りではさほどの登りとは思わなかったが驚くほどの急傾斜であった。先導の若い僧は歩き慣れた道であろう、いとも簡単に下っていった。

 世話役が後ろから大声で時間がないので本坂を下れと若い僧に指示していた。急坂を下ると休憩所が見え、左に折れれば今朝、慈覚大師廟道に向った道である。そこから少し下った所に左に折れる道が有り、今朝登ってきた道だと教えられた。

 下る途中に花摘はなつみ堂跡の碑と案内板があった。案内板に拠ると「伝教大師の御母堂が山上の大師の坊を訪ねてこの峰に至ったが、これより進むことはできず、大師が山を下って母と謁した由緒の地であり、後に智証大師は、ここに自らの悲母をまつる三宮そうのみやを建てた。その後、四月八日の釈尊降誕会に限って、伝教・智証大師の母君を偲んで女性もこの地に花を供えることが許された。花はこの峯(花摘峯)の花を摘んで供えたので花摘堂と呼ばれた。」と記されていた。以前はこの立て札の先に小さな祠があったとの事。

 御母堂は浄刹結界じょうせつけっかい(女人牛馬結界を定めた寺域)の禁を破ってこの地まで来たのであろうか、それとも最澄が浄刹結界を定める前であろうか。

 奈良仏教には無かった女人結界の制を設けたのは空海であろうと思う。空海は高野山に密教の聖域を定めるため弘仁七年(八一六年)朝廷に勅許を願い出て許され、七里四方の浄刹結界を定め「女人ならびに牛馬」の出入を禁じ、高野山の開創に着手したのが始まりと思える。

 最澄は空海が勅許を得た二年後に寺域四至しいし(東西南北の境界)を願い出て許され浄刹結界(寺域)を定め高野山と同様に「女人ならびに牛馬」の出入を禁じ、叡山に至る登山道に浄刹結界の石碑が建てられていた。

 そして、籠山中の僧もこの結界から出る事は許されなかった。(最澄の母、藤原藤子(妙徳)は八一七年に没しているので花摘はなつみ堂まで来たのは最澄が浄刹結界を定める前と思われる。)

 密教の影響を強く受けた山岳修験もこの制に倣ったのであろう富士山、立山、白山、出羽三山、御嶽山、大峯山、石鎚山、等々多くの山岳霊場も女人結界を定めていた。

 女人結界の制も明治五年三月、明治政府は女人禁制を野蛮の風習と見て、太政官布告をもって禁を解くことを諸国の社寺に命じた。この法の施行により叡山も女人禁制の禁を解いた。(大峯山と沖ノ島は現在も女人禁制の伝統を守っている。)

 花摘はなつみ堂跡は尾根筋にあり、そこから真っ直ぐ下った本坂は谷筋で石がごろごろした急坂であった。まるでガレ場か水の涸れた沢の如き谷筋を一気に下る道であった。

 先導の若い僧は「ナーマク サーマンダー パーサラナン センダン マーカーロ シャナ ソワタヤ ウンタラター カンマン」と真言を唱えながら右に左に飛び石を伝うが如く足元も軽やかに通い慣れた坂道をいとも簡単に下って行った。

 とても道とは云いがたいガレ場を足元に気を取られながら、若い僧に遅れまいと必死で駆け下りたが、どんどん差が開くばかりであった。

 本坂を下り切ると比叡山ケーブルカーの乗り場の取り付け道路に出た。

 しばらく急傾斜の車道を下り、左にそれて長い石段を下ると日吉大社の赤い鳥居が眼に入り律院はすぐそこであった。

 九時頃、律院に帰り着くと本堂の手前で菓子パン一個と牛乳が配られた。そして、昨夜、仮眠をとった宿坊に風呂の用意が有ると聞かされ戻って見たが先客万来で行列が出来ていた。

 風呂を諦め汗びっしょりの下着と上着を着替え、本堂で最後の法楽に参加した。堂内を見渡すと若い女性の姿が多い事に気付いた。

 巡拝中は古参の方々の計らいで大阿闍梨が巡拝する場所が解かる様に比較的前の方を歩いていたので気付かなかったが若い女性の参加が多いのに驚かされた。

 法楽が終わり、大阿闍梨から七回参加した方々には数珠が手渡された。遠目から見た感じではその数珠の珠はソロバン珠のようであった。

 見慣れない数珠玉の形が気掛かりでその後、調べてみると天台宗では「刺高いらたか」といわれるソロバン珠のような平珠の数珠を用いる事を知った。

 十三回の参加者には数珠を収める数珠袋が、二十一回の参加者には香炉が贈られた。この時、六十回参加した中年の女性が表彰を受けた。我々も比叡巡拝の印を押した「比叡巡拝集印帖」を頂いた。

 帰り支度を整え、律院の門に向って歩き始めると、昨日から参禅の指導を始め色々と世話になった僧にばったりと出会った。僧に世話になったお礼を述べ、いい機会と思ったのか同行のI氏が「法楽ほうらく」の意味をお尋ねした。

 僧は「参禅を含め修行の事を苦行と云うが耐え忍ぶ苦しさの中からは何も得られない。「行」の中に楽しみを見出す「行」でなければ「修行」の意味をなさない。天台宗ではお勤めの事を「法楽」と称しているがお勤めが「苦行」であってはならない。朝夕のお勤めも「楽」、たのしみの心が無くてはならないとの考え方に基づき「法楽」と称している。」と教えていただいた。

 僧から今日の巡拝は如何でしたかと問われ、同行のK氏が思わず「楽しかったです」と答えると、若い僧は「行が楽しかったと感じる心が「法楽」なのです。天台の「行」は苦行では有りません。「行」の事を「楽志らくし」とも申します。意味は読んで字の如く楽しい志です。「楽」とは楽しい、楽しむ、楽しみと云う意味ですが「楽」の字は「ごう」とも読みます。「ごう」とは、願う、望むと云う意味です。天台では願い、望む、志が大切と考えており「行」の事を「楽志」とも称します。この「楽志」と云う言葉も是非、覚えておいて下さい。」

 別れに際し貴重なお言葉を頂き、「楽志」と云う言葉を胸に刻んで律院を後にした。

 後日、「楽志」と云う言葉が気にかかり調べてみると、「楽志」と云う言葉は山田恵諦えたい天台座主ざすが千日回峰行中の内海俊照師(律院住職 叡南俊照師)に励ましの言葉を揮毫した色紙を贈った。その色紙に書かれていた言葉が「楽志」であった。山田恵諦第二五三世天台座主は明治二八年(一八九五年)に生まれ、昭和六十二年(一九八七年)世界平和を願い「比叡山宗教サミット」を開催、平成六年(一九九四年)二月、九十八歳で遷化せんげされた。

  平成十三年八月十八~十九日


  参考文献

「生き仏になった落ちこぼれ」 長尾三郎著

「仏教の思想」 梅原猛著

「日本の歴史」 中央公論社

「街道をゆく・叡山の諸道」 司馬遼太郎著

「空海の風景」 司馬遼太郎著

「延暦寺のホームページ」


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