叡山千日回峰行一日体験記
千日回峰行者
法華総持院東塔から左に折れ少し歩くと道は崖っぷちに付けられた細い急な登りとなった。「く」の字「く」の字に折れ曲がった急坂であった。どうやら険しい道が行者道であった。
急坂に息を切らして登っていると「行者様が来ます左に寄ってください。」との声が聞こえた。狭い道の端に寄って立ち止まっていると上の方から蓮華笠に白の浄衣姿の行者が駆け下りてきた。
それはまさにテレビで見た真言を唱えながら駈けるが如く早足で歩く行者の姿であった。お会いした場所は急な下り坂(我々は登り坂)であったが行者は背筋をピンと伸ばし足音も立てず平地を走るが如く下っていった。
それは音もなくあっと云う間もなく急坂を通り過ぎていった。あれだけの早さで駈けても行者は毎日、毎日同じ踏み跡を踏むとの由。
走り去った行者は飯室回峰行を修行中の藤波源信師(この時、四十一歳 酒井雄哉師の弟子)であった。
師は今年(二〇〇一年)の十月には七百日の回峰行を満行し、不動明王と一体となる九日間の断食、断水、断眠の「堂入り」に入るとの由。
満行すれば千年の歴史がある千日回峰行で四十九人目の大阿闍梨になられる。(元亀二年(一五七一年)九月十二日、織田信長の叡山焼き討ちによって千日回峰行の記録も消失し、天正十三年(一五八五年)以降の文献に拠ると藤波源信師は四十九人目にあたる。)
叡南俊照師も昭和五十二年(一九七七年)十月十三日から九日間、無動寺谷の明王堂で生死を賭けた「堂入り」の荒行に耐え、出堂の折には五十八キロ有った体重が九日間で四十二キロまで痩せ細ったと参考資料に記されていた。肉体の極限を超越する強靭な精神力に唯々驚くばかりである。
この荒行を二度達成したのが酒井雄哉師である。師は妻の自殺を切っ掛けに四十歳で得度し、昭和五十五年(一九八〇年)十月に千日回峰行を満行し、その半年後、再び千日回峰行に挑んだ。二度目は五十八歳の高齢で凄絶な「堂入り」の荒行に耐え、昭和六十二年(一九八七年)七月に満行した。千日回峰行を二度達成したのは千年の歴史の中でわずか三人との事である。
「歩く禅」とも云われている千日回峰行を行なうには強靭な精神と肉体が求められる。一度、「行」に入ると「不退の行」「捨身苦行」と云われ、一日たりとも中断する事を許されない。中断は即ち死を意味している。
それ故、行者から許可願いが差し出されると千日回峰行満行者で構成する「先達会議」が開かれ、「三年籠山」の実績を踏まえ厳しい審査を経て許可が下される。
「三年籠山」とは一ヶ月の侍真奉仕と百日回峰行を経験し、四種三昧の内、「常坐三昧」か「常行三昧」のどちらかの修行を経験する事である。三年籠山は叡山の住職になるためには必ず経なければならない修行でもある。
侍真奉仕とは最澄の祖廟、浄土院に籠り、最澄が今も生きているが如く仕え、一日に二度「献膳」し五体投地の礼拝を繰り返し、読経を重ねる行で掃除地獄と称される。
四種三昧とは摩訶止観に説かれている常坐三昧、常行三昧、半行半坐三昧、非行非坐三昧の四種の行の事である。
常坐三昧とは九十日間一仏に向かい二度の食事と便所に立つ以外は結跏趺坐、すなわち坐禅して実相を観ずる行法。
常行三昧とは九十日間、阿弥陀仏の名を唱え、昼夜を分かたず念仏を唱えて堂内を廻り歩く行で坐臥する事を許されない行法。
半行半坐三昧とは常坐三昧と常行三昧を繰り返す行法。非行非坐三昧とは日常生活そのものを行とする行法で決まりがなく最も難解な行との事。
叡山の行は三年籠山行も千日回峰行も「行」そのものに厳しい日程が課されている。特に、千日回峰行に入る事は同時に死を賭して「十二年籠山」に入る事を意味し、三年籠山行を終えた後、七年で回峰行を満行しなければならない。
千日回峰行の行者の装束は白の浄衣を纏い「降魔の剣」、「未敷蓮華笠」、(蓮華とはハスの事。ハスの葉が開き切らずに両端が丸まった形をした笠。)右手に檜扇、左手に念珠、これが不動明王を擬する行者の姿との事。肩から下げる紐は首吊り用の「死出紐」、と云い、腰には自害用の短刀を帯び、「未敷蓮華笠」の付け根に死出の旅への一文銭六個(実際には葬式代十万円を懐中に「行き道は いずこの里の 土まんじゅう」という句を肌身に秘めているとの事)、灯かりは小田原提灯一個、野袴をはいて手甲脚絆に草鞋を履き、供華袋(お供えする花(樒の小枝)を入れた袋)を肩から吊るし、全て白一色の麻衣の「死に装束」で山上、山下を駈けるとの事。
回峰行はただ単に一千日間歩くだけではなく叡山の三塔十六谷(「東塔」東谷、北谷、南谷、無動寺谷、西谷 「西塔」東谷、南谷、南尾谷、北尾谷、西谷 「横川」般若谷、兜卒谷、解脱谷、戒心谷、香芳谷、飯室谷)の聖跡二百六十余ヶ所、全ての神社仏閣、霊石、霊水、霊木に至るまで礼拝、遙拝しなければならない。
どこで何を礼拝し何を唱えるのか、その道順と礼拝の場所、所作を書き込んだ「手文」を「師資相承」の形で受け継がれている。
回峰の順路も無動寺回峰行と飯室回峰行があり、歩く距離も礼拝、遙拝する対象も場所も異なっている。(飯室回峰行の方が約十キロほど距離が長い。)
無動寺回峰行を例に取ると最初の三年間は一年に百日、一日に七里半(三十キロ)歩き、足袋をはく事も「未敷蓮華」の笠をかぶる事も許されない。
四年目と五年目は二百日、一日に七里半(三十キロ)歩き、四年目から足袋と笠が許される。五年で七百日を満行し、断食、断水、断眠の「堂入り」に入る。
六年目は一年に百日、京都赤山禅院を往復する十五里(六十キロ)、行者の足でも十四~五時間かかり赤山苦行と呼ばれている。
七年目の最初の百日は一日に二十一里(八十四キロ)の京都大廻り、「お加持」をしながら歩くので行者の足でも十八時間以上かかる。
最後の百日は三塔十六谷を巡拝する一日、七里半(三十キロ)に戻り、通常七十五日で打ち切られる。
無動寺回峰行の歩く距離を計算してみると三万七千六百五十キロ、実に地球を一周して余りある距離を歩くのである。
千日回峰行を満行すると大行満大阿闍梨の尊称が与えられ、京都御所に「土足参内」が許される。回峰行の始祖、相応和尚が清和天皇の招きで参内し病気平癒を祈祷した故事に倣った儀式で千日回峰行者のみに許されている。
千日回峰行を終えると自ら発願して七日間の断食、断水、不眠、不臥で大護摩供を行なう。この大護摩供を終えて千日回峰行が完全に満行する。
大護摩供の前に前行が有り、百日間の「五穀断ち(五穀と塩を断つ)」の修行がある。(五穀とは米、麦、粟、豆、稗の事。)大護摩供は全国の信者から寄せられた護摩木を不眠、不休で護摩壇の火炉に投じ、煩悩を焼き尽くす火あぶり地獄とも云われる荒行である。(護摩の火炎は智恵を意味し、護摩木は煩悩を意味する。護摩とは煩悩を焼き尽くして願い事の成就を祈願する密教独特の修法である。京の夏の夜を彩る五山の送り火も護摩である。)