叡山千日回峰行一日体験記
平和の鐘
根本中堂の礼拝を済まし、お堂を巡って裏手に出ると高々と石垣が聳えていた。根本中堂の地も山を削って谷を埋めて台地となし、土砂崩れを防ぐ為に高々と石垣を築いたと思われる。この石垣も穴太衆が築いたのであろうか。
谷間にあるお堂を一巡して裏手の細い道を登りつめると根本中堂の大屋根が足下に見え甍が谷を覆っていた。
根本中堂は最澄の草庵の跡に建てたとは云へ何故「一隅を照らす会館」のある尾根筋の台地に建てなかったのであろうか、甍は見上げる物であると思っていたが足下に見える根本中堂の甍を見て不可思議な感じを覚えた。
大講堂の横に有る「平和の鐘」と命名された朱塗りの鐘楼に至った。この鐘楼の鐘は元、「開運の鐘」と呼ばれていたが、「比叡山世界宗教サミット」が開催された時、この鐘の合図で世界平和を祈ったことから「平和の鐘」とも「開運平和の鐘」とも呼ばれるようになった。
この鐘楼の前で大阿闍梨は「世界平和を祈念して鐘を撞きます、枕番号を呼びますので前に出てください。」と申された。
何番か読み上げられたが次々に済ましましたとの返答であった。どうやら今までに撞いていない人が撞く決まりの様で番号が順番に読み上げられた。
十三番が呼ばれ、手を挙げて前に進み出た男性がおられた。同行のH氏は十四番であり非常に残念がっていた。男女一人ずつが呼び出されそれぞれ一回、世話役の僧の助けを借りて鐘を撞き、鐘の音が早朝の比叡の山に響き渡った。
鐘楼の横に大講堂があった。江戸期に建てられた以前の大講堂は昭和三十一年(一九五六年)の火災で消失し、その後坂本に有った讃仏堂を移築したとの事、以前の建物の基壇の位置から考え往時の講堂は相当大きな建物であった事がうかがえる。
大講堂では四年に一度、法華大会が行われる。法華大会とは平安朝の頃から続いている叡山の宗教行事で伝統儀式に則り七日間、夜を徹して仏法の問答や講義が行われる。
全国から堅者(受験生)が集まり問難(試験官の質問)に応答する。論題は天台宗の根本経典である法華経から主に出題されるが今では多分に形式化され論題も事前に与えられるとの事。
世話役の僧の話では「一本のローソクの明かりに足下を照らされて大講堂の西横の堅者口まで案内され、戸の開いた瞬間、中へ放り込まれる。堂内もローソクの灯りだけで一瞬、真っ暗な中に放り込まれたような感じになる。問答は声明のように豊かな抑揚をつけて答えてゆく。」との事。
大講堂には比叡山で修行した法然、親鸞、栄西、道元、日蓮ら各宗開祖の木像が安置されているとの事。
大講堂を後にして舗装された道を歩いていると石垣に大きな蛇が這っていた。大阿闍梨の指図であろうか供の若い僧が蛇がいますから右に寄ってくださいと叫んで列の後方に走り去り、程なく急な上り坂を息も切らせず駆け戻って来た。
若い僧の走り去る姿を見て、この若者もいずれ千日回峰行に挑戦する日を夢見ているのではなかろうかとふと思った。
大阿闍梨は真っ直ぐ坂を登り法華総持院東塔に向かった。途中に最澄が固執した戒壇院があった。戒壇院の少し先に朱塗りの阿弥陀堂と法華総持院東塔があった。阿弥陀堂は比叡山延暦寺開創一一五〇年を記念し、昭和一二年(一九三七年)に建立された。
法華総持院東塔は慈覚大師円仁が創建した宝塔で、灌頂(仏縁を受けるために香水を頭に振り掛ける儀式)を執り行う場所でもあり、根本中堂と共に叡山の重要な建物であったが信長の叡山焼き討ちで消失した。
現在の宝塔は伝教大師出家得度一二〇〇年を記念して昭和五十五年(一九八〇年)、天台宗徒と佐川急便グループ創業者佐川清氏の寄進により四百年ぶりに復興再建された叡山ではまだ新しい建物である。
法華総持院東塔の境内の玉砂利を踏んで渡り廊下の下に集合した。古参の世話役から是から先、険しい道を取るか、比較的楽な道を取るか二班に分かれて頂きたいとの申し出があった。
大阿闍梨は険しい道を取れば途中で千日回峰行者に会うかもしれないとの言葉があり我々は険しい道を選んだ。
先達を勤めた大阿闍梨はここで下山するのか比較的楽な道の先達を古参の世話役に任せ、険しい道の先達は師の供を勤めていた世話役の僧に代わった。
昨夜、古参の信者さんが「大阿闍梨さんはまだ年でもないのに途中でお帰りになられる。」とちょっぴり残念そうに話していたのを思い出した。
確かに、ここまで張り詰めたような緊張感が漂っていたミニ回峰行も大阿闍梨が去った後は、緊張感もほぐれ、その上、険しい道を選択した方々は足に自信があるのか足取りも軽やかになった。