叡山千日回峰行一日体験記
相応和尚
根本中堂で大阿闍梨、叡南俊照師は真言と般若心経を唱え、唱え終わると若い僧が持参した花を「供華」と彫られた石柱の花差しに挿し、再び真言と般若心経を唱え、一礼して思い出を語り始めた。
師がまだ小僧の頃、「ここ根本中堂でガイドをしていた時もあった。訪れた日本人は壮大な国宝のお堂に関心を寄せていたが、外国人は千二百年間、今も絶える事無く灯し続けられてきた「不滅の法灯」に驚きと感嘆の声をあげた。観点の違いとは云へ本質を見極める外国人に驚きを感じた。」と語られた。
そして回峰行にふれ、「回峰行とはすぐ前に有る、石柱の花差しに花を供える「供華」が原点です。行者が供華袋を肩から吊るして山中を駈けるのは千日回峰行を創始した相応和尚が十七~八歳の頃、雨の日も風の日も雪の日も一日として欠かさず、山中を跋渉して花を折り、供華袋に入れて山中を駈け、根本中堂の薬師如来にお供えし、一心不乱に七年間、礼拝を続けた。それが「供華」の始まりであり、回峰行の一面は花を供えるこの「供華」にあります。」とも話された。
又、師が千日回峰行に挑んでいた頃、鬱蒼とした杉の巨木に囲まれた根本中堂で恐怖を味わった時の事を話された。
「深閑とした漆黒の闇の中、小田原提灯一つでこのお堂を一巡していると何者かに後ろから襲われる様な異様な恐怖を感じた事が有った。急に肩が重くなり足の運びが遅くなり、真言を念じて恐怖と戦いながらお堂を一巡した事が有る。見る通り、根本中堂は老樹が生い茂る谷間のような場所に有り、森閑とした漆黒の闇の中を提灯一つで唯一人、このお堂を巡ると慣れない内は言い知れぬ恐怖が襲いかかって来る。」
確かに、闇の中で大樹に囲まれたこの地に立ち、提灯の灯かりに照らされた根本中堂を見れば、我々は卒倒するほどの恐怖を覚えるであろうと感じた。
千日回峰行を創始したのは大阿闍梨の話にもあった相応和尚(八三一~九一八年)である。相応和尚は近江国浅井郡に生まれ、十五歳の時、叡山に登った。
まだ喝食(得度まえの俗体の少年)であった頃から相応は山中で花を摘み一日も欠かさず根本中堂の薬師如来に供えていた。その行為をじっと見つめていたのが円仁(慈覚大師)であった。
斎衡元年(八五四年)円仁が天台座主となり、円仁は遮那業(密教を実践する業)を継ぐ者として、相応に受戒して直弟子になる事を勧めた。この頃、年分度者として受戒し官僧になることは狭き門であった。
この申し出に対し相応は朋輩の僧が毎夜根本中堂に参篭し受戒の選に入らん事を祈願している事を告げ、朋輩の僧を選んでいただきたいと申し述べた。円仁は相応の申し出を受け入れ、謙譲の志を持つ相応にいずれ報いたいと思った。
機会は意外に早く到来した。二年後の斎衡三年、右大臣藤原良相から円仁に一通の書状が届き、自分に代わって修行謹慎の者がいれば得度受戒させてほしいと認めてあった。
円仁は直ちに相応を呼び出し右大臣の良縁に応じる者として得度受戒させた。そして、良相の一字を頂き「汝良縁の相応するところなり。」として法名を相応と名付けた。
こうして相応二十六歳の時、得度受戒して正規の僧(定額僧)となり、最澄が定めた十二年籠山行に入った。修行中、円仁から「不動明王法」と「別尊儀軌護摩法」の秘法を授かった。
その後も修行を重ね、ある時、夢枕に薬師如来が現れお告げがあった。
「吾が山は三部の諸尊の峰なり。此峰を巡礼し山王の諸祠に詣でて毎日遊行の苦行せよ。是れ常不軽菩薩の行なり。読誦経典を専らにせず、但し礼拝を行ずるは事に即して真なる法なり。行満せば不動明王本尊となり一切災殃(わざわい)を除くべし」と云うお告げであった。
常不軽菩薩とは法華経第二十常不軽菩薩品に説かれている菩薩で、常不軽とは老若男女、僧か在家を問わず常にいかなる人も軽んじず、会う人ごとに拝んで回る行の事で、拝まれる側は気味悪く何故拝むのかと問われると「あなた様は菩薩の行を行じて仏となられるお方でございますから。」と拝んでまわる行である。
夢のお告げを受けた相応和尚は東塔無動寺谷に草庵を結び礼拝苦行の日々に入った。これが千日回峰行の始まりである。
相応和尚はのち叡山より北の比良山系に入り葛川渓谷(葛川明王院)に分け入り三年の籠山修行に入った。満願の日、相応和尚は滝壺の中に火焔を背負った不動明王の色身をありありと見て感得した。
生来の念願成就を遂げた相応和尚は喜びの余り滝壷に飛び込んで明王の御体に抱きついたがそれは一本の桂の古材であった。
相応和尚はこの霊木を引き揚げ三体の不動明王を刻んだ。大阿闍梨が不動明王の化身と云われる由縁もここから来ているのであろうか。
(相応和尚の葛川修行を偲んで百日回峰行と千日回峰行を終えた行者がともに参加し、夏安居と称して七月一六日から二十日までの五日間断食修行、滝修行など、古来の作法どおりに参籠修行が行われている。)
相応和尚は霊木で刻んだ不動明王を安置するため、根本中堂から南へ二キロ弱の無動寺谷に明王堂を創建し、無動寺回峰行の道順、拝む場所(およそ二六〇箇所)、唱える真言を定め、口伝という形式で師から弟子へ、いわゆる口伝法文(手文)で伝えた。
その後、第二代座主円澄が西塔を開き、第三代座主円仁が横川を開き、西塔、横川でも回峰行が行われた。各々道順、拝む場所、唱える真言が異なり東塔無動寺谷の回峰行を玉泉房流、西塔の回峰行を正教坊流、そして横川飯室谷の回峰行を恵光坊流と呼ばれている。
西塔の正教坊流はいつ頃から行われるようになったのか不明であるが信長の叡山焼き討ち以前に詮舜(一五四〇~一六〇〇年)が行じその後途絶えた。
横川飯室谷の恵光坊流は天正十八年(一五九〇年)松禅院第二世慶俊が満行したのを最後に以降途絶えていたが一九四三年に箱崎文応師が古い手文をもとに百日回峯を満行し、一九八七年、酒井大阿闍梨が二度の満行を行い、飯室回峯行が復興された。
余談だが無動寺谷は叡山の南に有り「南山」とも「叡南」とも称されている。大阿闍梨の名、叡南祖賢、叡南覚照、叡南俊照の叡南は無動寺谷の別称を姓にしたのかも知れない。
最澄、円仁に勅諡号を願い出たのも相応和尚であった。貞観八年(八六六年)、相応和尚の奉によって、清和天皇は唐の制に倣い、最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」の諡号を賜わった。
これが勅諡号の始まりである。空海ははるか後の延喜二十一年(九二一年)醍醐天皇から「弘法大師」の諡号を賜わった。(最澄は唐から教えを伝え、空海は仏法を広めたとの意であろうか)
相応和尚は加持、祈祷を行い不思議な験をあらわしたために金穀を寄進する者が絶えず、これを叡山の堂塔の建立に使った。この事から叡山の私的な大師号ながら建立大師と呼ばれている。