叡山千日回峰行一日体験記
「最澄」没後の延暦寺
最澄の悲願であり、難題であった戒壇院の創設に奔走したのは、最澄の供として乙訓寺に空海を訪ねた光定(七七九~八五八年)であった。
光定の努力によって最澄の没後七日目に、嵯峨天皇御宸筆(天皇の直筆)のご戒牒(光定戒牒)を賜り、最澄が切望した戒壇院の創設が認められた。(光定は叡山の私的な大師号ではあるが別当大師光定と尊称されている。)
延暦寺の山号も最澄が没した翌、弘仁十四年(八二三年)、比叡山寺を改め年号と同じ延暦寺の寺号を嵯峨天皇より勅賜された。
これは桓武天皇が延暦十三年、平安京に遷都し京都の鬼門に当る比叡山で修行する最澄に鬼門鎮の祈祷を行なわせた故事に因み延暦寺の寺号を賜った。
最澄の死後、空海の全盛時代となり南都六宗も真言密教の影響を受けた。八三〇年、淳和天皇が南都六宗と天台、真言の二宗に対し宗義を述べさせた時、空海は真言密教こそが全てに優越する事を包括的に論述し、天台は華厳(東大寺)よりも下位に位置づけられた。
叡山にとって屈辱的な発言であった。叡山は密教の充実が最重要課題となり、これを克服しなければ叡山の独自性が失われる危局を迎えた。
そこを打開したのが最澄の弟子、慈覚大師円仁(七九四~八六四年)であった。円仁は延暦十三年(七九四年)平安遷都の年に下野国(栃木県)の小土豪の家に生まれ、十五歳の時、叡山にのぼり最澄の弟子となった。
円仁は叡山で修行しつつ師最澄の苦悩を我が身に置き換えて過ごしたのであろう。最澄が没したのは円仁二十九歳の時であった。
亡師からその遺志を付託された円仁に機会が巡って来た。八三五年、仁明天皇の許しを得て遣唐使一行に加わり請益僧(短期間の留学僧)として唐に留学する事となった。
この年は奇しくも空海が没した年であった。そして又、これが最後の遣唐使となった第十七次遣唐使であった。
この遣唐使船は一回目も二回目も失敗し、三年後に二隻で出航し、出発から二十日ほどかかって長江の河口に漂着した。
円仁は天台山に行く事を請うたが唐の官吏は請益僧ゆえに認めなかった。一旦は大使と行動を共にしたが、一行と別れ新羅僧に成り済まして唐に留まった。
円仁は在唐十年、五台山で修行した後、長安で密教を学んだ。円仁が心血を注いだのは密教とそのさまざまな修法であった。
円仁は入唐して密教の大法を授かり、八四七年、新羅の商人の船に便乗して帰国した。円仁は多数の経典、法具を持ち帰り、それまで真言密教から雑密と揶揄された天台密教を充実させた。(円仁は承和五年(八三八年)六月十七日の出発の日から承和十四年(八四七年)九月十一日に帰国するまでの約九年間の出来事を記した「入唐求法巡礼行記」を著わしている。)
そして、八五三年には初代天台座主に就いた義真の弟子、智証大師円珍(八一四~八九一年)が唐の商船に便乗して入唐し、密教を修して八五八年に帰国した。
こうして、円仁、円珍によって天台密教は充実し、真言宗の密教を東密と呼ぶのに対し、天台宗の密教を台密と呼ぶまでに天台の密教を高め、この二人によって天台教学を完成させた。
しかし、円仁と円珍は密教に対する解釈に相違を来たし、しだいに対立を深めた。円仁は最澄の直弟子であり、円珍は最澄の通訳として入唐し共に学んだとの自負心がある義真の弟子であった。二人の対立は最澄派と義真派の対立でもあり、後の慈覚派(円仁)、智証派(円珍)の対立に発展した。
最澄は教団の混乱を回避する意図があったのか、入滅の十年前には後継者に円澄(七七〇~八三七年)を指名していたが義真を選んだ。
義真は弟子の円修を後継に選んで没した。最澄派は円修の就任に反対し天台宗の後継を誰にするか内紛が勃発した。
この時、最澄の血脈である円澄を天台座主に就けるべく奔走したのが光定であった。光定は円修を叡山から遠ざけ、朝廷に働きかけて八三四年、円澄を二代天台座主に就けた。しかし、円澄は三年後に六十七歳で没し、以後十七年間天台座主は空位であった。
当時の叡山の実力者であり商家の大番頭のような存在であった光定が座主の地位を巡る紛争を避けあえて空位としたのか、この間、天台宗の経営と維持に尽力したのが光定であった。
光定は伊予国松山に生まれ三十歳の時(八〇八年)、叡山に登った。同年に十三歳の円仁も叡山に登り共に最澄の弟子となった。光定と円仁は年は違うが仏弟子としては同期生であった。
円澄没後、光定が三代座主に就いてもなんら不思議ではないが、光定は早くから同期の若い円仁を三代座主にと思い定めていたのであろうか。
光定は円仁の帰国を待ち、そして円仁が朝廷に認められるのを確かめて八五四年、円仁を空位の天台座主に推挙した。この時、光定は叡山の別当職(長官)に任じられた。
円仁の就任に義真派の反対があったのか円仁の就任を期に天台座主の地位について朝廷が介入する事となった。(一八七一年(明治三年)に廃止されるまで天台座主に就くには朝廷の許可が必要となった。)
八六四年に円仁が没した後、勅命を受けて四代天台座主に就いたのは円仁の弟子、安慧和尚(七九四~八六八年)であった。(天台宗では和尚を「おしょう」と読まず「かしょう」と読む)
安慧和尚の在任期間は僅かに二年であった。その後、叡山の五代天台座主に就いたのは義真の弟子円珍であった。
円珍が天台座主に就き、智証派が叡山の実権を握り主流となった。円珍没後も慈覚派、智証派に分かれて対立が続いたが大きな争いには至らなかった。
九六六年、円仁の法脈を受け継ぐ慈恵大師良源(九一二~九八五年)が十八代天台座主に就き、慈覚派が巻き返した。慈恵大師は滋賀県浅井郡に生まれ十二歳で叡山に登った。
若くして頭角を現し二十五歳の時、南都仏教と宗論を戦わせて論破し、それから二十六年後、再び南都仏教と宗論が行われた。良源は南都の質問に典拠を示して明晰に答え、宗論は南都の敗北であった。
天台宗はそれまで南都の下風に立っていたが良源によって飛躍的に地位は向上し、最澄の宿願であった南都からの完全な独立を果たし、むしろ南都の上に立つようになった。この様な事から良源は天台宗中興の祖と称えられている。
良源は二十年の永きに亘り天台座主の地位にあり、そしてまた「おみくじ」の創始者でもあり、厄除け大師として崇められている。
慈恵大師良源は永観三年(九八五年)の正月三日に遷化されたので元三大師と呼ばれている。慈恵大師の跡を継いで十九代天台座主に就いたのは慈恵大師の弟子、慈忍和尚(九四二~九八九年)であった。慈忍和尚は四十三歳の若さで座主に就いたが四年後、四十七歳で没した。
再び二十代天台座主を巡る慈覚派と智証派の内紛が勃発し、この内紛によって智証派が分離独立する切っ掛けとなった。
事の起こりは九八九年、二十代天台座主に智証派の余慶(九一九~九九一年)が任命され、慈覚派の僧が大反対した事件であった。
座主任命の勅使も叡山に登る事を阻まれるほどの混乱を来たして余慶が座主となったが寺務を執る事が出来ず辞任した。
それでも騒動は治まらず、両派の対立は激化し、智証派が赤山禅院を荒らし、その報復に慈覚派が智証派の坊社を襲い破壊し門徒を追い出した。
こうして門徒も巻き込む争いに発展し、正暦四年(九九三年)智証派は叡山を追われ門徒三千人と共に園城寺(三井寺、滋賀県大津市)に移った。分裂した天台密教は比叡山を山門と呼び、分立した園城寺を寺門と呼ぶ様になった。
叡山の天台宗は円仁、円珍の努力によって天台教学を完成させたが、両派の対立は最澄滅後一七〇年も続き融和する事無く、むなしく二派に分かれた。
二派に分裂したが天台宗は天台、密教、禅、戒律の四要素を融合した総合仏教であり、鎌倉時代になって、天台の止観業(純粋に天台の教えを実践する業)から派生して新たな宗派が興った。
浄土宗の法然(一一三三~一二一二年)、臨済宗の栄西(一一四一~一二一五年)、浄土真宗の親鸞(一一七三~一二六二年)、曹洞宗の道元(一二〇〇~一二五三年)、日蓮宗の日蓮(一二二二~一二八二年)、と云った各宗派の開祖も叡山で修行した。
最澄は将来の可能性を秘めた仏教の種を持ち帰り、鎌倉時代にその種が開花したと思えてならない。
一方、空海の開いた真言密教は豊山派、智山派等々に分派したが新しい宗派は興っていない。これは密教の特異性であろうか、それとも密教は一部の経典を抜き取って新しい宗派を作り出せないほどに空海が一代で寸分の隙も無い体系を確立したからであろうか。
余談になるが例外として約九百年前、醍醐寺の僧仁寛が創始した真言立川流がある。この宗派は空海と最澄が絶縁する切っ掛けとなった「理趣経」を根本経典とした当時の新興宗教であった。
この「理趣経」を根本経典とした真言立川流は成仏の行法として男女の合歓を奨励し、時の室町幕府は邪教として真言立川流を大弾圧したが江戸期まで存続し、徳川幕府が淫祠邪教として大弾圧して消滅したと云われている。
関西の厄払いで有名な門戸厄神(真言宗 松泰山 東光寺)には嵯峨天皇(四十一歳の厄年の時)の勅によって空海が自ら刻んだと伝えられる秘仏、両頭愛染明王が祀られている。この両頭愛染明王のお姿は赤い愛染明王と青黒色の不動明王が合体したお姿との事であるがこの秘仏も「理趣経」に則って刻んだのであろうか。