叡山千日回峰行一日体験記
渡来人
参道を行き交う人もまばらな炎天下の道を歩いていると叡山の広報車が「本日は開祖、伝教大師最澄の誕生日です「生源寺」で催しが有ります」と告げていた。
生源寺は日吉大社参道の右手に山門があり門の脇に「開山伝教大師御誕生地」と彫られた大きな碑が有り、門が開いていたので中に入って参拝した。
「生源寺」には最澄が産湯を使ったと伝えられる井戸が有り、別名、誕生寺と云われている。奇しくも、最澄の誕生日に叡山を訪れる、偶然とは云へ不思議な奇縁を感じた。
最澄の誕生寺「生源寺」の由緒によると
「最澄(七六七~八二二年)の誕生は神護景雲元年(七六七年)八月十八日、諡号は伝教大師、諱は最澄、幼名、広野 俗姓は三津首、父の名は百枝、滋賀の人なり、先祖は後漢の孝献帝の描裔、登万貴王なり」と記されていた。
最澄の父、百枝は三津浜(志賀津、大津、粟津の総称)一帯の首(小地域に勢力を持つ首長をさすが、最澄が生まれた頃は家柄を示す姓であったと思われる)であり、最澄も渡来人の子孫であった事が解かる。
日本書記に拠ると応神天皇の十四年(二八三年)、弓月君、(後の秦氏)が戦乱を避けて百二十県の民を率いて大挙渡来した。明らかに百済から来たが弓月君は始皇帝の末裔と称した。
応神天皇の二十年(二八九年)には、阿知使主が十七県の民を率いて朝鮮半島中西部の帯方郡から渡来した。阿知使主も後漢の霊帝の子孫と称した。
弓月君と阿知使主が率いてきた民は、土木、鉄工、養蚕、 機織などの技術を持つ技能集団であった。それにしても朝鮮からの渡来人が家系の由緒については朝鮮の土着民ではない、氏族の祖は漢民族であると誇らしげに名乗る、当時の中国崇拝が偲ばれて可笑しさを覚える。
もっとも、朝鮮半島の北部、楽浪郡は漢帝国の直轄領であった。平壌に都が置かれ、三一三年、高句麗族が勢いを得て楽浪郡を攻め滅ぼすまでの約四百年間、中国が支配し多数の漢人が移住していた。
楽浪郡が滅亡した頃、日本は応神天皇の時代で書紀に記されている如くこの時、楽浪郡に移住していた漢人が逃げ場を失い大挙して日本に亡命して来たとも考えられる。
いずれにしても最澄の先祖はおそらく弓月君や阿知使主と同様に応神天皇の頃に亡命して来た渡来人と思われる。
「生源寺」の門を出ると参道を挟んで角に「日吉そば」の大きな看板があり、前の駐車場に「鶴喜そば」の看板が有った。
「鶴喜そば」は鶴屋喜八が坂本に店を開いて二百八十年も続いている老舗で司馬遼太郎著の「街道を行く」巻十六の「叡山の諸道」にも「鶴喜そば」のエピソードが記されている。
私も二十六~七年前に日吉大社を訪れた時、司馬遼太郎氏と同様に間違えて角の「日吉そば」に入ってしまった記憶がある。
参道に面した「日吉そば」を過ぎさらに坂を登ると日吉大社の大鳥居がそびえ立つていた。振り返ると、琵琶湖がキラキラと輝き、湖の対岸には、近江富士(三上山)の姿がくっきりと浮かんでいた。
坂本の町は琵琶湖に向って傾斜地が続く坂の町である。家を建てるには石垣を積んで傾斜地を水平にする以外方法はない。それ故、どの民家も石垣を築いて建てられており、坂本の町は石垣の美しい町でもある。
日吉大社の大鳥居を過ぎると参道の両側には自然石を巧みに組み合わせて積んだ美しい石垣と土塀を巡らした大小約五十の里坊が点在している。
叡山には「論湿寒貧」という言葉がある。琵琶湖から湧き上がる水蒸気で鬱蒼とした杉に覆われた山中は湿度が高く、そして冬は寒くその寒さの中で仏の教えを論じ、貧しさに耐えて生活する。
山上の厳しい堂塔住まいも六十歳を過ぎると体に負担が大きく天台座主の許しを得て、ふもとの坂本に下りて常住する事を許された自坊が里坊である。
里坊とは老僧の隠居所の事で六十歳を過ぎると山上の厳しい堂塔住まいを離れて里に常住する事を許された自坊であり、天台座主から賜るそうである。
町家の石垣も里坊の石垣も叡山の土木営繕的な御用を勤めていた「穴太衆」が築いたもので、「乱れ積」とも「野面積」とも呼ばれている。
穴太衆の石積みの特徴は大きさの異なる自然の石を巧みに組み合わせて石垣の面を構成し、大小の石に関わらず外に見えているのは極く一部で大半は土に埋もれて強固に石垣を支えている。石と石の隙間に填め込まれた間石も石を積む時に奥から埋めこんで有るので押しても引いても動く事はない。
司馬遼太郎氏は「街道をゆく」巻十六の叡山諸道で滋賀院の石垣こそ穴太衆の傑作のひとつではないかと思えると記している。(滋賀院門跡 元和元年(一六一五年)、天海僧正が後陽成天皇から京都に有った法勝寺を賜って移築し、江戸後期まで天台座主となった皇族が代々居所とした。)
以前、テレビで見たと記憶するが何代も続く穴太の石積み職人の話では「築くべき石垣を頭に描き、並べられた石を何日も眺めていると石が「わしはこの位置や」と語り掛けて来る」と話していた。
設計図も無く、自然石を長年の経験と勘に頼って組み合わせ石垣を築く、まさに職人技の最たるものでその技術に驚きを感じた。
穴太衆の築いた石垣が美しいのは石と対話して自然の石を自然に逆らわず、小さな間石も大きな役割を担い、自然の美しさを保って築いているからであろう。
穴太衆は京阪電鉄の石山坂本線に穴太という駅が有りその辺り一帯に定住していた朝鮮系の渡来人の末裔と云われている。
大津市近郊には六~七世紀初頭にかけて渡来人が築造したと推定される二千を超える古墳がある。穴太衆はこれらの横穴式古墳の石室作りに習熟していた渡来人の子孫ではないかと云われている。明日香の石舞台に代表される巨大な前方後円墳の石室も彼らの技術で築かれたかも知れない。穴太衆は長い間その石積み技術を温存していた。
その技法が開花したのは最澄が叡山に延暦寺を創建し、最盛期には三塔十六谷に三千坊を数えたと云われ坊舎の基礎工事であった。坊舎の建設には山の斜面に平地を造成する必要があり石垣普請が要求された。
この石垣普請に比叡山麓に住み、石室作りの技術を温存していた穴太衆が動員され見事な石垣を築いたと想像出来る。
その卓越した石垣積みの技術が戦国時代の築城に重用された。一説には穴太衆を有名にしたのは叡山焼き討ちの後、信長が叡山の石垣を築いた穴太衆の存在を知り安土城の石垣普請に穴太衆を動員した事が天下に広まったと云われている。 以来、穴太衆は名声を博して大阪城、彦根城、加賀の金沢城、熊本城、名古屋城、等々の石垣を築いたと云われている。