叡山千日回峰行一日体験記
比叡山延暦寺の門前町坂本
琵琶湖に面し叡山の麓に広がる坂本の町は名の通り坂の町であった。夏の暑い日差しの中、緩やかな登り坂が続く日吉大社の参道を噴出す汗を拭いながら律院に向かった。
平日ゆえか行き交う人もまばらで観光客目当ての瀟洒な喫茶店も、陶芸の店も開店休業の様子であった。
坂本の町は比叡山延暦寺の門前町として千二百年の歴史を誇る古い町である。叡山が隆盛を誇った頃は三塔十六谷に三千坊を数えたと云われ、この叡山の台所を預かっていたのが坂本の町である。
全国に散在する延暦寺の寺領から納められる膨大な年貢米と共に京に送る物資が叡山の台所を預かる坂本に集められた。(寺領とは寺社の維持費に当てるため朝廷や領主から租税徴収権を附与された寺社の知行地(領地)であり、その領内の土地が何人の所有に属するかに関係なく、領内の住民に対しある程度の支配権を有していた。)
坂本は京に近く琵琶湖の海運を利した物資の集積地であった。往時、ここ坂本は戸数三千を超える一大商業地として繁栄し、下坂本の富崎や比叡辻には土蔵が建ち並び、馬借(中世の運送屋)が軒を連ねていたとの事。
叡山も経済力を背景に多数の僧兵を擁しあなどりがたい戦力を保持していた。平安時代、延暦寺は三千人の僧兵を擁し、要求が入れられなければ日吉大社の神輿を奉じて入洛し度々、強訴(徒党を組み、正式な手続きを踏まずに訴えること)に及んだ。
南都七大寺(東大寺、興福寺、大安寺、法隆寺、元興寺、薬師寺、西大寺)も同様であった。強訴は院政時代に始まり南北朝時代まで百数十回も繰り返された。
一一一三年(永久元年)に起こった永久の強訴では、朝廷が興福寺の末寺であった京都の清水寺の別当に仏師の法印円勢を任命した事に端を発し、南都七大寺と延暦寺が一戦を交えるほどの騒ぎに発展した。
円勢は白河法皇(七十二代)に重用され、仏師として最高の位である法印を授けられた。ところが円勢は延暦寺で出家得度した僧侶であった為、興福寺としては認めがたく罷免を要求したが入れられなかった。
ならばと、興福寺の衆徒は春日大社の神木(神霊が宿る木)を奉じて入洛し円勢の罷免を要求する強訴に及んだ。朝廷はその勢いに恐れ円勢を罷免し興福寺の永縁を別当に任じた。
今度は延暦寺が怒り、延暦寺の末寺祇園で興福寺の僧実覚が乱暴をはたらいたと訴え、実覚を流罪に処せと日吉大社の神輿を奉じて入洛し強訴に及んだ。朝廷は延暦寺の要求を入れ、実覚を罰する事とし、興福寺から訴え出ても延暦寺の僧を罰する事はしないと約した。
興福寺はこの処分に納得せず延暦寺の僧が清水寺の仏像、仏具を盗んだと訴え、実覚を赦免し天台座主を流罪に処せと要求し、聞き入れられなければ春日の神木を奉じて入洛すると威嚇した。
そして、興福寺は南都七大寺の衆徒にも呼びかけ寺領の兵士も集めた。こうして南北両衆徒の争いに発展し、朝廷は興福寺、延暦寺双方に兵具を帯びて入洛する事を禁じる勅を発したが衆徒は聞き入れなかった。結局、法皇は西坂本と宇治に検非違使の軍兵を派遣し争いを鎮圧した。
時の権力者、白河法皇(七二代、一〇五三~一一二九年)は叡山の僧兵に手を焼き
「賀茂川の水、双六の賽、山法師は、是れ朕か心に従はざる者」
と嘆かわしめた。
この様な荒法師の集団であった叡山の戦力に目を付けたのが後醍醐天皇(九十六代、一二八八~一三三九年)であった。
天皇は皇子の護良親王を比叡山延暦寺の座主に据え、叡山の僧兵と南都の僧兵を糾合して鎌倉幕府の討幕をもくろんだ。そして又、叡山は玉体護持(神仏に祈って天皇(国家)を守る事)を宗旨とし幕府も一目置く存在であり、天皇に危急が迫ったとき逃げ込む唯一の砦でもあった。
南北朝(一三三六~一三九二年)の争乱の時、後醍醐天皇は足利尊氏に攻められ二度までも叡山にのがれた。叡山は天皇にとって最も安全な場所でもあった。
戦国時代に入ると全国に散在する叡山の寺領も戦国大名に横領され、朝廷を頼る叡山の力は朝廷の衰退と共に萎えていった。
それでも多数の僧兵を擁して武力を保持し、鎮護国家を旗印に叡山は政治に口を挟んだ。叡山が強気であったのは「叡山に触れると祟りがある」と信じられ、何者も山門に弓矢を向けた者はいなかった。
元亀元年(一五七〇年)四月、信長は越前朝倉を攻めたが、近江浅井氏が朝倉氏に味方したために失敗し、信長は足利将軍の斡旋で浅井、朝倉と和睦した。この時、叡山は足利将軍の斡旋にもかかわらず和睦に反対し寺領安堵を条件にしたほどであった。
信長は同年の六月、再び浅井、朝倉攻めを敢行した。織田、徳川軍と浅井、朝倉軍は近江姉川で激突し浅井、朝倉軍が敗北した。(姉川の合戦)
この時、敗れた浅井、朝倉の残党が国許に帰らず叡山に登り天嶮を要塞として信長に対抗した。叡山焼き討ちの前年の元亀元年九月のことであった。
信長は叡山の代表を膳所(大津市)に呼び、織田領に併呑されている山門領(叡山の寺領)の返還を条件に、味方に付く事を叡山に強く迫ったが、叡山の代表は色よい返事をしなかった。
信長は譲歩し出家の道理として一方に与しにくいという事であれば中立を守るか味方に付くかの二者択一を迫り、さもなくば一山焼き討ちにすると迫った。しかし叡山の代表は「何者も山門に弓矢を向けられない」とたかをくくり諾否を明らかにせず山に帰った。
当然、信長は否と受け取り、こうして叡山は宗教教団が軍事化することを極端に嫌っていた信長の恨みを買った。一方の叡山は単なる脅しと受け止めたのか何の防備も施さなかった。
元亀二年(一五七一年)九月十二日、信長は不意に叡山を囲み、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)と明智光秀に叡山焼き討ちを命じた。
明智光秀は坂本の町と日吉大社に火を放ち、山上の堂塔を焼くべく具足の草摺を荒縄で巻いて音を立てないように無動寺谷から攻め上り、僧俗にかかわらず一人残さず殺戮を繰り広げた。それはまさにジェノサイド(集団大虐殺)であった。
一方、叡山の北部を担当した木下藤吉郎は手加減を加え、この方面に逃げた多くの者が助かったと叡山では伝承されている。
こうして、叡山では「元亀の法難」と呼ぶ大虐殺が行われ、数千人の僧徒が殺された。そして、根本中堂をはじめ三塔十六谷に三千坊を数えたと云われる叡山の諸堂は一宇も残さず全て灰塵に帰した。坂本の町も焼け野原となり壊滅的な打撃を受けた。
叡山焼き討ちの三ヶ月後、信長は延暦寺の監視と湖上の物資輸送路を掌握するために明智光秀に命じて坂本城(下坂本の琵琶湖湖岸)を築かせた。
叡山焼き討ちから十一年後、叡山の祟りであろうか、明智光秀が謀叛し「本能寺の変」によって信長は殺された。光秀の居城であった坂本城も本能寺の変の十三日後、天正十年(一五八二年)六月、秀吉の軍勢に攻められ焼け落ちた。
天下が定まると商業の中心は東海道沿いの宿場町大津に移り、東海道から外れた坂本は昔の繁栄を取り戻す事なく、一つの時代が終わった。
信長の焼き討ちにより荒廃した叡山を復興したのは豊臣秀吉、徳川家康であった。叡山は信長の存命中は再建を許されなかったが、天正十二年(一五八四年)秀吉は叡山の再興を許可し、自らも堂塔を再建した。
徳川家康に重用され叡山の復興に尽力したのは朝廷より慈眼大師の諡号を賜った天海僧正(一五三六~一六四三年)であった。
天海僧正は十四歳で比叡山に上り天台教学を学んで諸国を遊歴し、甲斐の武田信玄に招かれ、その後、徳川家康の知遇を得た。家康没後も二代秀忠、三代家光も帰依し黒衣の宰相と呼ばれた傑僧である。
家康が没すると天海僧正は家康を神格化して権現として祀り、日光東照宮(元和三年(一六一七年)家光によって建て替えられた)の造営を指揮し、又、江戸城鎮護の為、鬼門に当たる上野の小高い丘を叡山になぞらえて眼下の不忍池を琵琶湖に見立てて、島を築き弁才天を祀って竹生島に見立て、寛永二年(一六二五年)東叡山寛永寺を創建した。
天海僧正は叡山によほど固執していたのか山号を東叡山とし寺の名前も延暦寺に倣い年号を冠し寛永寺とした。
家康が発布した叡山の山林竹木伐採禁止令、寛永十九年(一六四二年)、家光によって再建された根本中堂、そして叡山の多くの諸堂、これ等はみな江戸期に建てられている。いずれも天海僧正の進言であろうか。天海僧正の生年は不明であるが長命で寛永二十年、百八歳で没したと伝えられている。
こうして叡山は復興されたが天海僧正が天台座主に就いて以降、天台宗は二分され実権は関東の寛永寺に移った。
明治維新となり寛永寺に思わぬ災難が降りかかった。慶応四年(一八六八年)三月、幕府は平和的に江戸城の明け渡しに応じたが開城に反対する幕臣が同志を集めて彰義隊と名乗り、徳川慶喜が謹慎している上野寛永寺の境内に屯所を置いた。
慶応四年四月、徳川慶喜は水戸に退去したが彰義隊は解散せず二~三千の兵が上野に立て籠もった。こうして同年五月十五日、彰義隊と官軍が戦火を交えた上野戦争が勃発し寛永寺の殆どの建物は焼失した。(現在の本堂は明治一二年(一八七九年)川越喜多院の本地堂を移築したものである。)
慶応四年三月、明治新政府は神道を国教とする祭政一致を掲げて神仏分離令を発布した事に端を発し、仏教にとって未曾有の法難が降りかかって来た。この法令によって仏像を神体とする事、神社に仏像を祀る事、梵鐘、仏具類を神社に置く事を禁止し厳しく神仏の分離を命じた。
延暦寺の支配下にあった日吉大社は日吉山王権現社として極めて仏教色が強く神官は僧侶の風下に立たされていた。
神仏分離令が発布されて日吉大社の神官は叡山の呪縛から解き放たれた如く、勢いを得て神殿の鍵を奪い仏教色の排除に走った。神官は神殿に乱入し祭壇の仏像、仏具、経巻を外に投げ出して焼き払った。この事件を契機に全国に廃仏毀釈の嵐が巻き起こった。
延暦寺の支配下にあった「祇園まつり」で有名な八坂神社も元は「祇園感神院」あるいは「祇園社」と称し延暦寺の末寺であったが牛頭天王(素盞鳴尊の別称)を祀っていた事から神仏分離令を機に延暦寺の支配を脱し僧侶は神官に転進して「八坂神社」となった。
南都の興福寺では僧侶全員が支配下にあった春日大社の神職に転進し興福寺は無住の寺となって荒廃した。そして有ろう事か多くの仏像や経巻が焼かれ、五重塔は二百五十円、三重塔は三十円で売りに出された。
廃仏毀釈は一気に広がり全国の寺の半数が廃寺になったと伝えられるほど仏教伝来以降最大の法難にあった。明治政府も民衆の行き過ぎに驚き神仏分離令は廃仏毀釈ではないと訓令を出して鎮静に努め、数年で収まったが仏教は壊滅的な打撃を受けた。
寺院に追い討ちを掛けるように明治四年(一八七二年)には寺領上知令(上知とは上納の事)が発布されて境内地を除く寺領は政府に召し上げられ、経済的な面からも寺は苦境に立たされた。
寺領上知令によって広大な寛永寺の境内(寺域はおよそ一二〇万平方メートル有り、上野公園のほぼ倍、甲子園球場の三十倍もあった。)も官有地となり境内の一部が上野恩賜公園(通称上野公園、約六二万平方メートル)となった。
そして寺領も徳川家の庇護を受け、最盛期には大名と肩を並べる一一七九〇石に達していたがこれも政府に召し上げられた。
延暦寺も寺領を失って困窮したと思われるが廃仏毀釈の荒波をくぐり抜け、明治六年、延暦寺が天台宗総本山に復し現在に至っている。
そして時は移り、「叡山」の名を世界に示したのは昭和六十二年(一九八七年)八月、に開催された「比叡山世界宗教サミット」であった。
この会議は一九八六年十月、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世の呼び掛けにより世界の諸宗教指導者がイタリアの聖地アッシジ(聖者フランチェスコが眠るサン・フランチェスコ聖堂が有る古都)において世界平和実現に向けて「世界平和の祈りの集い」が開催された。
この集いに参加した故山田恵諦天台座主は痛く感じ入り日本においても平和の集いを行うべく発願し、翌一九八七年比叡山開創千二百年を記念して、ローマ法王をはじめ世界の七大宗教の代表者と日本の諸宗教の代表者を招いて「比叡山宗教サミット「世界平和祈りの集い」」を開催した。
この大会を記念して毎年八月四日、世界各地から宗教者が比叡山に参集し「世界平和祈りの集い」が開催されている。そして、慈覚大師円仁生誕千二百年記念の年にあたる平成六年(一九九四年)十二月「古都京都の文化財」として延暦寺をはじめ十七の寺社、城郭がユネスコの世界文化遺産に登録された。
参考 京都の世界文化遺産 |
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寺院 |
住所 |
延暦寺 |
滋賀県大津市坂本本町4220・京都市左京区 |
賀茂別雷神社(上賀茂神社) |
京都市北区上賀茂本山339 |
賀茂御祖神社(下賀茂神社) |
京都市左京区下鴨泉川町59 |
鹿苑寺(金閣寺) |
京都市北区金閣寺町1 |
高山寺 |
京都市右京区梅ケ畑栂尾町8 |
天竜寺 |
京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68 |
本願寺(西本願寺) |
京都市下京区堀川通り花屋町下ル門前町60 |
仁和寺 |
京都市右京区御室大内33 |
宇治平等院 |
京都府宇治市宇治蓮華116 |
宇治上神社 |
京都府宇治市宇治山田59 |
慈照寺(銀閣寺) |
京都市左京区銀閣寺町2 |
清水寺 |
京都市東山区清水一丁目294 |
西芳寺(苔寺) |
京都市西京区松尾神ヶ谷町56 |
教王護国寺(東寺) |
京都市南区九条町1 |
醍醐寺 |
京都市伏見区醍醐東大路町22 |
竜安寺 |
京都市右京区龍安寺御陵下町13 |
二条城 |
京都市中京区二条通堀川西入ル二条城町 |