叡山千日回峰行一日体験記
法 楽
穴太衆が築いた里坊の石垣に沿って清らかな疎水が流れていた。この疎水も比叡山に源を発する大宮川から導かれた水であろうか。都会では目にする事もない清流が惜しげもなく流れていた。
心地よいせせらぎを聞きながら木陰の道をしばらく歩むと律院と大書した提灯が掲げられていた。
律院も里坊の一つで穴太衆積みの石垣に囲まれた山門の左手には「不許葷酒入門内」と彫られた大きな石柱が据えられていた。山門をくぐると門から玄関まで白い小砂利が敷き詰められ波型に掃き清められていた。
飛び石を踏んで玄関に至ると土間にはすでに多数の靴が揃えられ、土間の床几には所狭しとリュックや旅行バッグが並べられていた。
初めて訪れた故、作法を知らず、思案していると親切なお方から「座敷に上がった左手の小部屋に受付が有ります。」と教えられて登山靴を脱ぎ座敷に上がった。
小机を前に品の良い受け付けの婦人から紙片を渡され、説明を受けて記名を済ますと、記名した紙片を持って次の間に挨拶に伺う様にと促された。
教えられた一室に入ると白の法衣姿の僧侶が小机を前に端座していた。この時はまだこの御方が千日回峰行の荒行を成し遂げた大阿闍梨(阿闍梨とはサンスクリット語で弟子を導く高僧との事)とは知る由もなかった。
初対面の印象は座っているだけで存在感が有り、常人には無い、強い眼光の力と気魄を感じた。その力強い眼は荒行に耐えた証である事を後で知った。
住所、氏名、年齢を記入した紙片を差し出し、二言三言、言葉を交わし誰の紹介も無く全く初めての参加である旨、申し述べその室を辞去した。
室を出ると先ほどの受付の婦人から法楽まで次の広間でくつろいで下さいと云われ、広間に入るとすでに十数人の方々が談笑していた。
我々も広間の縁側に腰を下ろして手入れの行き届いた庭を眺めてくつろいでいると親切なご婦人からお茶を頂戴した。
庭は池泉回遊式の庭園で一面苔に被われ、正面には茅葺のあずまやが有り、庭に配された松は大型の盆栽の如き見事な松であった。
無作法と思い法楽の意味を聞かず解からぬまま、しばらく庭を眺めてくつろいでいた。その内、二人、三人と席を立ちはじめた。
隣でくつろいでいたお方も席を立ったので「初めてで良く分からないのですが何かあるのですか。」と尋ねると、「そろそろ法楽が始まる時間となったので、皆さん奥の本堂に向っている。」との事。我々も良く分からぬまま皆の後に付き従って広間を出て靴を履き本堂に向った。
本堂は由緒ある建物で、文禄年間に淀君が早世した鶴松(豊臣秀頼の兄)の菩提を弔って建てたと伝えられる桃山時代の建物を大阪の寺から移築したそうである。
靴を脱いで堂内に入ると座布団が敷き詰められ、まだ人もまばらであった。我々は何が始まるのかを知らず、邪魔にならない様に左の隅に席を見つけて着座した。
本堂の中はローソクの灯かりのみで薄暗く、良く見えないが本尊の釈迦如来が祀られ、脇恃には宇宙を創造した神とされる梵天と仏法の守護神として又、現世利益をもたらす神として崇められる帝釈天が祀られていた。薄暗くて良く見えないが正面の右には阿弥陀仏が左には大黒天が祀られていた。(大黒天は国宝に指定されているとの事。)
横にお座りのお方に倣い、前に有る三方に積み上げられていた経文を手にした。しばらくの間、解らぬまま経文を手にページを繰って字句を眺めていると次々と人が集まり、およそ五~六十人の人々が着座し堂内は人で埋まった。先ほどの広間にはこれほどの人数はいなかったのにと思いつつ堂内を眺めていた。
しばらくすると若い僧が姿を見せ、今回の叡山巡拝についての説明が有った。
「法楽の後、先ほどの広間で食事を頂き、仮眠の場所に案内する。しばし休息の後、護摩堂で参禅して仮眠に入る。翌朝は二時「覚心」(叡山では起床の事を覚心、就寝を「放心」と云う)、女性の方々は化粧を落とし”スッピン“で参加して頂きたい。洗顔の後、握り飯一個とタクアン一切れを食し、護摩堂前に集合。そこで身体をほぐす軽い体操をしてから三時出発、八時半頃に帰着して風呂に入り、法楽の後、解散。」と云う事であった。
一通りの説明を聞き終え談笑していると、若い僧が「大阿闍梨様がお見えになられました、道をお明け下さい。」の一声が有り、本堂に姿を見せたのは白い法衣の僧であった。きらびやかな袈裟で飾った僧が現れると思っていたが意外であった。そして、その僧は先ほど挨拶に伺った時にお会いした僧であった。
僧は本尊の釈迦如来に深々と拝礼して真言を唱えた後、堂内に着座する五~六十人の参加者を見渡し、「今からが叡山巡拝の「行」に入ります。「行」が無事に終わる様に今夜のお勤めと、翌朝は朝が早いので朝のお勤めを兼ねて釈迦如来にお祈り致します。本日は始めての方もいらっしゃいますので古参の方々は良く面倒を見てやって下さい。」と云って突然、驚いた事に我々が紹介された。
誰の紹介も受けず、信者でもない我々四人が参加した事を気遣っての事と思うが一斉に視線を浴び、気恥ずかしい限りであった。
この時もまだ恥ずかしい事にこの僧が千日回峰行の荒行を成し遂げ「生き仏」と崇められる大阿闍梨とは気付かなかった。
大阿闍梨は経机の前に坐り、経文の何ページと告げたので手にした経文を開いて見たが告げられたお経が見当たらずページを繰っていると、横にお座りのお方から「ご覧になっているのは裏ですよ」と教えられた。
表に返して経文を開いたが今までに経文を手に取った事もなく、まして読んだ事も無い経文を見ても、読経に合せてページを繰り、ただ文字を眼で追っていくのが精一杯で、声も出せなかった。
そして大阿闍梨は印契を結び、釈迦如来ご真言と告げ「オン サルバ シチケイ ビシュダラニ ソハカ」、と唱え、大黒天ご真言と告げて「オン マカキャラヤ ソハカ」、不動明王(大日如来)ご真言と告げて「ナーマク サーマンダー バーサラナン センダン マーカーロ シャナ ソワタヤ ウンタラター カンマン」とご真言(陀羅尼)を唱えた。
次ぎに「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 …」と般若心経を読経し、その後も二、三の経が唱えられた。
そして、宗祖伝教大師と天台宗の発展に大きく寄与した別当大師、慈覚大師、智証大師、建立大師、元三大師の御名が三度ずつ唱えられて最後にもう一度、真言を唱え夜のお勤めが終わった。
堂内の乏しい光と立ち込める線香の芳しい香りが一層、厳粛な雰囲気を醸し出していた。我々は経を知らず信者でもないが思わず居住まいを正して正座し、手を合わせて体中にしみわたる様な読経の声に耳を傾けた。
そして、参集した方々が大阿闍梨の読経に合わせ一斉に経を諳んじて唱和した事に驚きを感じた。それと共に堂内に響き渡る読経を耳にして初めて信者でもない我々は場違いな所に来てしまったのではないかと不安を覚えた。
法楽はおよそ、三十分程度で終わり、正座していたにもかかわらず、法楽の間は足の痺れも痛さも感じず、さほど長いとも感じなかった。しかし、終わってからしばらく足が痺れて立てなかった。
法楽とは何の事かと思っていたが法楽が終わって初めて法楽とは仏に祈る朝夕の勤行の事だと解かった。異次元の世界を体感し、本堂を出て先ほどの庫裏の広間に戻ると食事が用意されていた。
全員、着座すると年の頃十六~七歳の比叡山高校に通っていると思われる若い僧が現れ、合掌して唱和する様にと告げた。
若い僧は経を読むように朗々と述べたので全てを覚えてはいないが、断片的に覚えている限りでは、
「我、いま幸いにして、仏祖の加護と衆生の恩恵によって、この清き食を受く。謹みて食の来由をたずねて、味の濃淡を問わず、その功徳を念じて、品の多少を選ばじ。謹んで頂戴致します。」
食事は一汁三菜の質素な精進料理で有ったが程よい味加減で魚や肉が無くとも美味しく頂ける事を知った。食事を終えると大きな土瓶が回って来たが湯飲みがなかった。
前にお座りのお方が吸い物の椀にお茶を注いでいるのを見てなるほどと思い椀に茶を注いで飲んだ。
食事の後、再び若い僧が現れ、合掌して唱和する様にと告げた。
「この清き食を終わりて、心豊かに、力、身に満つ。願わくば、この心身を捧げて、おのが勤めにいそしみ、誓って四恩に報い奉らん。有難う御座いました。」
食事の前も後も、もう少し長い言葉であったと思うが良い言葉と感じ入った次第。この言葉を学校の給食時に子供達に唱和させれば食のありがたみを少しは知るのではないだろうかと思った。
食事を終え、律院から歩いて三~四分の所に有る仮眠の場所に案内された。仮眠の場所は石垣を巡らした里坊の一棟で、木立に囲まれた石畳の道の奥にあった。
小さな門が有り、手入れの行き届いた庭を横切り玄関に入ると、今時珍しい土間であった。座敷に上がると襖を取り払った広い和室に布団が所狭しと敷き詰められていた。
受け付けの婦人から受け取った紙片に記されていた番号が今宵の仮眠を取る枕番号であった。それにしてもびっしりと布団が敷き詰められていた。立って半畳、寝て一畳とはまさにこの事かと思うほどリュックの置き場所もなかった。