北京・西安・上海 駆け足の旅
上 海
上海
上海空港から市内に向かった。バスから眺めた上海は東京、大阪と変わりない洗練された大都会であった。高層マンションが林立し高速道路には北京では余り見かけなかった大型の高級乗用車が数多く走っていた。
北京、西安では乗用車の大半が小型車でどの車も薄汚れていが、ここ上海ではほとんどの車が日本と同じ様に綺麗に磨かれていた。
街にはカラフルな洋装店が軒を連ね、街を行く女性の服装も洗練され、一見したところ東京や大阪の街の風景と何ら変わりがなく都市によって経済格差がいかに大きいかを実感した。
上海は長江の河口近く、黄浦江下流部に位置し(鹿児島市とほぼ同じ緯度)、人口約一千五百万人、中央政府直轄の大都市である。古くは小さな漁村であったこの地が上海浦と呼ばれるようになったのは宋の時代からである。
上海が大きく発展する切っ掛けになったのは一一二七年、開封を都としていた宋が中国東北部の女真族(金を建国し燕京(北京)を都とした)の侵入に悩まされ、江南の地、臨安(現在の杭州)に逃れて都とした。
小さな漁港であった上海は臨安に近く黄浦江、長江と水運に恵まれ海運が発達した。そして上海鎮(行政区)が置かれ、これが上海浦と呼ばれるようになった由来である。
元代に始まった綿花の栽培が明代には上海の主要な産業となり、綿織物業が発展し上海は中国最大の綿織物の産地となった。そして商業が発展し清代には上海に税関が置かれ大貿易港となった。(上海浦は一九三〇年、国民政府(中華民国)によって上海と名付けられた。)
一八四二年、清朝は英国との阿片戦争に敗れ、南京条約を結んで広州、福州、厦門、寧波、上海の五港を開港した。
阿片戦争は中国と英国の貿易不均衡が発端であった。英国ではティータイムの習慣が定着し中国から紅茶の輸入量が急増した。
イギリスの東洋貿易を独占していた東インド会社は中国から茶を買っていたが、中国に売るべき商品が無かった。
東インド会社は貿易の不均衡を是正する手段として阿片に目を着け、イギリスの植民地であったインドで栽培した阿片を中国に輸出した。
阿片は見る見る内に広がり、人々は公然と阿片を吸い、その悪習は軍隊にまで及んだ。禁令を出しても効果はなく、輸入は急増し代金決裁の銀が流出し国家経済に重大な影響を及ぼした。
事態を重く見た清朝は林則徐(一七八五~一八五〇年)の上奏書を採用し、林則徐を欽差大臣(特定事項の処理に当たる皇帝特命の全権大臣)に任命して阿片撲滅に取り組ませた。
阿片取り締まりの全権を皇帝から委ねられた林則徐は広州に赴き、一年の猶予期間を置いて、吸飲する者、阿片の吸飲所を開く者、販売する者、器具を製造する者を死罪に処する法を施行した。
一年後、林則徐は英国商人に在庫している阿片全量の供出と今後持ち込まない誓約書の提出を求めた。しかし、英国商人は阿片を供出せず、誓約書も提出しなかった。
林則徐は強硬手段をとり、広州の英国夷館(長崎の出島と同様の外国人居留地)を包囲し、阿片一四二五トンを没収し焼却処分にした。商館は直ちに英国政府に訴え、英国議会は僅差で艦隊の派遣を決議した。
こうして、イギリスはアヘン貿易保護という現在では考えられない目的のために艦隊を派遣し阿片戦争(一八四〇~一八四二年)に踏み切った。
林則徐は清廉潔白の人で今では英雄として称えられているが、戦争を引き起こした張本人として罷免され、新疆に左遷された。
清朝は大敗しイギリスに香港を割譲し、上海をはじめ五港を開港した。以来、上海は外国資本の中国進出の拠点となり、神戸、横浜と同じ様に大きく発展した。
一八四五年、イギリスが始めて上海に租界(居留地)を設立し、一八四八年にはアメリカ、一八四九年にはフランスが租界を設立し、上海は実質的に華人界、共同租界(イギリス・アメリカ租界)、フランス租界と三分された。租界は第二次大戦後、中国に返還されるまで約百年間続いた。
租界の中では独立の行政と法制度を布き、上海は「國中之國」となり「魔都上海」と呼ばれた。戦前の日本も上海をはじめ天津、蘇州、杭州、漢口、重慶に租界を設けていた。
幕末、諸外国と通商条約を結んだ徳川幕府は貿易調査を目的に上海へ使節を派遣した。その使節団に長州、薩摩、佐賀の開明的な諸藩も非公式に藩士を随行させた。
長州藩は高杉晋作(一八三九~一八六七年)、薩摩藩は五代友厚(一八三五~一八八五年、後に大阪商工会議所を創立)、佐賀藩は中牟田倉之助(一八三七~一九一六年、明治海軍の創設者の一人)であった。この時、高杉晋作は二十二歳、五代友厚は二十七歳、中牟田倉之助は二十五歳の若さであった。
使節団が乗船した船は三本マストの西洋帆船であった。幕府はこの船を長崎で購入して官船とし「千歳丸」と命名した。この船を船長以下十四人の英国人が運航し、文久二年(一八六二年)四月二十九日の早暁、長崎港を出航して五月四日早朝、上海港に到着した。(千歳丸は上海から帰港すると再び売り渡された。)
ペリー提督が四隻の軍艦を率いて浦賀に来航し日本を震撼とさせたのは高杉晋作が上海を訪れる九年前の嘉永六年(一八五三年)六月であった。
高杉晋作が見た上海の港にはその黒船が舳先を連ねマストを林立させて碇泊していた。晋作は「まるで林の如し」と形容している。港には銀行や商館が建ち並び、西欧の巨大な力を見て驚天動地の驚きであったであろう。
高杉晋作は上海に二ヶ月半滞在して帰国した。帰国した高杉晋作は阿片戦争に敗れ、西欧に屈服する清国の現状と太平天国の乱をつぶさに見て、尊皇攘夷から尊皇開国に考えが変わっていった。同時に西欧の横暴に我慢出来なかったのではないだろうか。帰国後ほどなく嘉永六年(一八五三年)十二月、英国公使館焼打ち事件を引き起こしている。
その後も身分を問わず入隊できる奇兵隊の創設、四ヶ国(英、米、仏、蘭)の連合艦隊と開戦した馬関戦争の収拾、薩長同盟、等々維新を駆け抜けたが、高杉晋作は上海洋行の六年後の慶応三年(一八六七年)五月十七日、二十八歳の若さで波乱万丈の生涯を閉じた。(肺結核で病死した)
後年、伊藤博文は晋作の顕彰碑に「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然(驚く様子)、敢て正視する者なし。これ我が東行(東行は高杉晋作の雅号)高杉君に非ずや・・・」と碑銘を刻んだ。
上海は中国共産党にとっても特筆すべき都市である。一九二一年七月一日、中国共産党は上海において結成され、代表には陳独秀が就任した。この時、二十八歳の毛沢東も参加し、党員は僅か五十七名に過ぎなかった。因みに周恩来は一九二二年、鄧小平は一九二四年に中国共産党に入党した。
それから二十八年間の闘争を経て一九四九年十月一日、一党独裁の中華人民共和国が誕生した。一九五八年、「人民公社」が組織され、中国は計画経済に入ったが人民公社は挫折し、一九六六年夏、文化大革命の嵐が吹き荒れた。
文化大革命とは一体何だったのか、日本も六十年安保の時代であり、一九六〇年代は世界的に学生運動が巻き起こった時代でもあった。
文化大革命は結果的に見れば権力闘争であったと思えるが、中国を停滞させた暗黒の十年(一九六六~一九七六年)であった。
一九七八年以降、集団労働と統一分配を特徴とする人民公社は順次解体され、生産請負責任制が取り入れられ、農家は割り当てられた耕地の経営を任された。こうして、中国の改革は人口の三分の二を占める農村からスタートした。
一方、上海は一九三〇年代、中国の対外貿易の五割を占めていたが、計画経済、文化大革命の荒波を被り、衰退して昔日の面影も無かった。
一九七九年、三度の失脚から甦った鄧小平は「改革・開放」政策を提唱し中国の近代化を推し進めた。
上海を甦らせたのは後に中国の首相となる朱鎔基であった。朱鎔基は上海市長の職にあった江沢民(八五年七月~八八年四月まで二年九ヶ月上海市長の職にあった)の後を受け一九八八~九一年まで上海市長に就いた。
上海市長の朱鎔基がとった政策は外国資本進出に伴う許認可の簡素化、窓口の一本化、インフラの整備であった。朱鎔基は果断に行政の有り方を変えて苦境に喘いでいた上海の経済を再建し、上海を変貌させた。
こうして上海は最も早く近代化が進み、外国資本の中国進出の拠点として金融・貿易・商工業の中心地となった。
朱鎔基は上海の実績を買われ中央に躍り出て第9回全人代で首相に選出され、江沢民国家主席、朱鎔基首相と上海人脈が中国を牽引した。
朱鎔基が首相となってから住宅政策にも大きな転換をもたらした。今まで住宅は福祉政策の一環として住宅の分配が基本であったが、朱鎔基は住宅を商品として販売する政策に転換した。 北京でも上海でもマンションの建設ラッシュを不思議に思いガイドの職さんに尋ねて見ると全て分譲マンションですとの説明にその時は腑に落ちなかったが調べて見て納得した次第。
ガイドの張さんの案内で上海観光の定番である豫園に向った。バスを降りた所は朱塗りの柱に軒先がそり返ったこれぞ中国の建物と感じる商店が建ち並ぶ豫園商城の入口であった。「豫」は「愉」に通じ、すなわち「楽しい園」という意味だそうである。
明の時代、倭寇が中国の沿海を襲い明国に大打撃を与えた。上海も例外ではなく倭寇の襲来に悩まされた。
十六世紀半ば、倭寇の襲撃を防ぐ為、周囲五キロ、高さ八メートルの城壁を築いた。上海城と呼ばれ、城壁は一九一二年に取り壊されたが租界時代から城の内側は中国人だけが住む地域であった。豫園はその中心に位置している。
大通りから路地に入るとそこはまさに中国、人込みと喧騒が織り成す異国情緒たっぷりの繁華街であった。近代的な建物が建ち並ぶ上海の中にあって、ここは際立って中国を意識させる界隈であった。
朱塗りの柱にそり返った軒先、二階建ての商店が路地を挟んでびっしりと軒を連ねていた。商店は一九二〇~一九三〇年代の上海の街並を模して再建されたとの事。
人込みでごった返す豫園商城をガイドの張さんの案内で散策したが同じ様な建物と商店が連なり、どこをどう歩いたのか、帰国してから地図を調べて見たがさっぱり解からなかった。
豫園商城を抜けると緑波池という蓮池があり、池の中央に豫園のシンボル湖心亭が有る。池には三歩で一回曲がり、五歩でまた一回曲がるジグザグに曲がった九曲橋が有り、わざわざ九回も折れ曲がった橋を架けるデザインの凝り様にまず驚いた。
豫園は明の時代、四川省の役人であった蕃充端が父母に贈るために一五五九年から一五七七年の十八年に亘り、贅の限りを尽くして造営した庭園である。その後、何代も持ち主が変わりその都度、増築が繰り返された。
庭園は白壁で区切られ各々に亭が有り趣の異なった庭が有る。庭には上海から二百キロも離れた浙江省の武康県から石を運ばせ山に似せて高さ十二メートルの岩山を築き、ふんだんに木々を植えて別世界を作り出している。四〇〇年前、この築山が上海で一番高い場所であり、黄浦江が望めたと云われている。
建物と建物の間は遊廊と呼ばれる回廊で結ばれ、回廊を巡って庭の景色を楽しむように設計されている。庭には太湖石と呼ぶ奇石が据えられている。玉華堂には高さ約三メートルも有る太湖石が据えられ、特にこの石を玉玲瓏と呼ぶそうである。ガイドの説明に拠るとこの石の下に香炉を置くと全ての穴から煙が漂い、上から水を注ぐと全ての穴から水が流れ落ちると云われている。(太湖石とは江蘇省太湖産の造園用の石材として珍重された。太湖の湖中の石が何万年も波に打たれて、穴や窪みが出来、趣きのある形に変わったもので穴が多く襞が多いほど高価。)
点春堂と万花楼を仕切る白壁の上部には瓦で焼かれた巨大な龍の装飾を施した龍壁と呼ばれる白壁がある。龍は皇帝の象徴であり、皇帝以外の使用は許されていなかった。
そこで龍壁を作った豫園の持ち主は、咎められた時の事を念頭に置いて龍を造らせた。南方熊楠の十二支考に拠ると、本来の龍は九種類の動物の特徴を持ち、頭は蛇、角は鹿、眼は兎、耳は牛、項は蛇、腹は蜃(蜃気楼を出現させるという動物)、鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、背に八十一鱗、口のかたわらに鬢髯が有り、頜(下あご)の下に明珠が有り、喉の下に逆鱗が有る。
豫園の白壁を飾る龍の姿は、頭は牛、角は鹿、口は馬、爪は四本爪の鷹(本来は五本の爪)、身体は蛇、鱗は魚、口には玉を咥え、喉元には涎れを待ち受ける蛙を配した龍を造った。豫園には都合、五匹の龍が白壁の上で戯れている。
回廊にも様々な工夫が凝らされている。複廊と呼ばれる二重廊下は向かって右側が男性用で左側が女性になっている。廊下を遮る壁には様々な形の穴が空けられており、回廊が見渡せる東屋からこの穴を通して、廊下を通るお見合い相手の女性の品定めをしたとの事。
いずれにしても長江の河口近くに位置する上海の地にあって、巨費を投じて山に見立てて築山を作り、奇岩、巨石を配して樹林を植え、深山幽谷の趣を作り、河に見立ててせせらぎを作り、海に見立てて池を配し、庭には季節を問わず花が咲き乱れ、贅を尽くした東屋に遊ぶ。豫園を眺めると上海には巨大な富が存在した事を知らしめている。
夕食はさっぱりとした味の上海料理であった。中華料理には大きく分けて塩辛い北京、ピリ辛い四川、甘辛い広東、薄味の上海料理、の四つの味が有ると言われている。味の好みにもよるが日本人には上海料理が一番口に合っているのではないだろうか。
レストランではコース料理であったが珍味と聞かされていた上海蟹は別料金であった。しばらくするとコックが大きな皿に上海蟹を乗せてテーブルに現われ、「上海蟹は十月末から一月末までが食べ頃ごろです是非上海蟹の珍味を味わってください」と勧められた。料金を聞くと一匹二千円との事、値段を伺いご遠慮申し上げた。
夕食の後、上海の二大観光スポットの一つ、外灘の夜景を見に行った。レストランを出ると天気予報通り、小雨がぱらついていた。レストランから散策を楽しみながら外灘に行く事になっていたが近くまでバスで送ってくれた。
外灘は黄浦江と蘇州河の合流点に架かる外白渡橋(名称の由来は白人は無料との意、旧称ガーデンブリッジ)から南の金陵路までの中山東路沿いに建ち並ぶ旧イギリス租界の風景である。
夕闇が迫ると旧イギリス租界の古い建物が黄金色にライトアップされ、それは幻想的な光景であった。黄浦江の対岸の暗闇には点々と明かりを灯す近代的な高層ビル群と上海のシンボル的存在の東方明珠タワーが聳え立っていた。
東方明珠タワーはテレビ搭としては東洋で最も高く、高さ四六三メートル、世界でも三番目に高いテレビ搭である。タワーには三つの球形の展望台が有り、一番上の展望台は地上三五〇メートルに位置している。
ガイドは時刻を見計らって外灘の夜景に案内してくれたのかしばらくすると東方明珠タワーもライトアップされて夜空に浮びあがった。
小雨も止み、しばらくの間、堤防を散策して外灘の夜景を眺めた。再び小雨が降りだしたので急いでバスに戻った。
この後、バスで十五~六分の所にある上海雑技団の劇場に行き、人間技とは思えない数々のサーカスを見学して上海の一日は終わり、五日間の短い中国旅行もあっという間に過ぎ去った。
翌日の早朝、お弁当との事であったがガイドの計らいでホテルでの朝食となった。朝の六時ホテルのレストランに入ると品数は少ないが心のこもった朝食が用意されていた。
特に美味で有ったのはとろける様に炊きこんだ「かゆ」であった。早朝にも関わらず長時間炊き込んだ塩味だけの素朴な「かゆ」を出され感激した次第。
空港で五日間お世話になったガイドの職さんに礼を述べ、西安にお住まいの職さんは何時の飛行機ですかと伺うと「とんでもない、会社から飛行機代は出ませんよ、飛行機代は二千五百元、列車は三百元、とても飛行機には乗れません。今夕、西安まで千二百キロ、十七時間かけて列車で帰ります。」昭和三十年代の日本も飛行機に乗るのは高嶺の花であった事を思い出した。