イタリア紀行
水の都ヴェネチア
フィレンツェを後にして水の都と称えられるヴェネチアに向かった。高速バスに揺られてフィレンツェからヴェネチアまで二百六十キロ、途中、ヨーロッパ最古の大学が有るボローニャを過ぎた頃から旅の疲れが出たのかほとんど眠っていた。
夢うつつの内にイタリア最大の河川、ポー川を過ぎ、ヴェネチアの潟に架かる鉄道橋と平行して架けられたリベルタ橋に差し掛かった頃、目を覚ました。
鉄道橋は一八四一年、建設が開始され一八四六年一月に完成し、本土とヴェネチアが始めて鉄道で結ばれヴェネチアはもはや孤島ではなくなった。
その後、自動車の普及と共に鉄道橋に平行する自動車専用の橋として一九三一年、架橋に着工し一九三三年に完工した。
ヴェネチアは車の乗り入れが禁止されており、バスはリベルタ橋を渡ってローマ広場に停車した。我々はローマ広場から大運河沿いの道を歩いてホテルに向かった。
ホテルは大運河沿いに歩いて六~七分ほどの距離であった。大運河を挟んで前にサンタ・ルチア駅が有り、ホテルの前には水上バス、ヴァポレットの乗り場があった。すぐ近くには大運河に架かる数少ない橋の一つスカルツイ橋があった。
我々の宿泊するホテルは一九〇〇年に開業した由緒あるホテルとの事。ガイドブックによると最上級にランクされていた。
玄関ロビーを抜けると広い中庭が有り、中庭に面してレストランがあった。宿泊した部屋は神戸の異人館の一室を思わせる様な古びてはいるが何処と無く落ちつける部屋であった。備え付けの家具も創業以来使い込んだかと思えるほど古色を帯びていた。
この古さが観光客を魅了するのかも知れないと思った。窓も今時珍しい木枠にガラスを填めた窓枠であった。
その日は少し蒸し暑くエアコンを入れようとスイッチを操作したがまったく動かず、故障と思いボーイを呼んだが冷房は九月末で打ち切ったとの事。仕方なく例の木枠の窓を開け放ったが、夜、窓を閉め忘れ、光に誘われて侵入した蚊に悩まされた。ツアーの仲間も翌日聞くと同じ様な経験をしていた。
中世の面影を色濃く残すヴェネチアはアドレア海の女王、水の都と呼ばれ一千年の栄光の歴史に彩られている。
伝説によればヴェネチアは四二一年三月二十五日大運河に寄り添う様に点在していたおよそ六十余のリアルト小島群に杭を打ちこみ街を建設したのが始まりと伝えられている。(現在のサン・マルコ広場からリアルト橋にかけて点在していた島々。小運河はこの頃の名残であろうか)
ヴェネチアは紀元前に遡る古い歴史を持ち、紀元前百八十年頃、ヴェネチアの人々はヴェネチアの北アクイレイア(スロヴェニアに国境を接するフリウリ・ヴェネチア・ジュリア州)に住んでいた。
アクイレイアに程近いヴェネチアの潟にはポー川、アディジェ川、ブレンタ川、ピアーヴェ川、の土砂が流れ込み、広大な潟を形成し、ムラーノ、ブラーノ、トルチェッロ、リドの比較的大きな島とおよそ六十からなるリアルト小島群が点在していた。
北アクイレイアの人々がヴェネチアの潟(ラグーナ)に移住を開始したのは西方の遊牧民フン族に追われて南下したゲルマン民族の大移動が遠因である。
三七五年、西方のアジア系遊牧民フン族は東ゴート族(ゲルマン諸族)を征服し、さらに西進して西ゴート族(ゲルマン諸族)に迫った。西ゴート族はフン族に追われドナウ川を渡って南下を開始し、難民と化してローマ帝国に雪崩れ込んだ。(ゲルマン民族の大移動)
受け入れたローマ帝国辺境の役人は彼らの財産を収奪し若者や娘は奴隷として売り飛ばした。怨念が積み重なり西ゴート族は遂に怒りを爆発させ反乱を起こした。
この反乱にローマ軍に傭兵されていたゲルマン諸族の傭兵部隊も呼応し激しい戦闘が繰り広げられた。
東ローマ皇帝ヴァレンス(在位、三六四~三七八年)は陣頭に立って反乱軍の鎮圧に当たったが、ローマ軍は敗れ皇帝ヴァレンスは戦死した。(コンスタンティヌス帝が東西ローマを再統一したが三六四年、ヴァレンティニアヌス一世が帝位に就き再びローマ帝国を東西に分割し、弟のヴァレンスを東ローマ皇帝とした。)
容易ならぬ事態を迎え、西ローマ皇帝グラティアヌス(在位、三六七~三八三年)は武将のテオドシウス(在位、三七九~三九五年)を東ローマ皇帝の座に据え反乱の鎮圧を托した。
テオドシウスは戦線を立て直して西ゴート族を包囲し、差別や偏見を無くす事を約して和平を誘った。
こうして反乱は鎮静し、西ゴート族は平和的にローマ帝国の社会に組み入れられ、反乱軍に呼応した西ゴート族の武将アラリックとヴァンダル族の武将スティリコは共にテオドシウスの麾下に入った。
三九二年、西ローマ帝国の武将アルガステスは若輩の皇帝ヴァレンティニアヌス二世を差し置き専横の振る舞い甚だしかった。
皇帝は我慢ならずアルガステスに罷免を申し渡した所、激情したアルガステスは皇帝を刺し殺し西ローマ帝国をさんだつ簒奪してかいらい傀儡の皇帝を擁立した。
西ローマ帝国がアルガステスに奪われたと知った東ローマ皇帝テオドシウスはイタリアに遠征し、アルガステスを誅して東西の帝位を兼ねた。
この遠征の後、テオドシウスは病を発し死期が近い事を悟り、長子に東ローマ帝国を継がせ、次子のホノリウス(在位、三九五~四二三年)に西ローマ帝国を与えて武将のスティリコに輔佐を托して没した。
スティリコと共に皇帝に仕え将として力量も実績も変わらず年齢も大差ないアラリックに、皇帝は何の沙汰も下さなかった。アラリックはスティリコの川下に立つ屈辱を受け入れがたく、この処遇に承服出来なかった。
テオドシウスが没するとアラリックは部下を引き連れ恨みを残してローマを去り郷里に帰った。アラリックを迎え入れた西ゴート族は彼を英雄として称え王に推戴した。
五年後、アラリックは恨みを晴らすべく大軍を率いてアルプスを越えローマに攻め入った。アラリックの急襲を知ったスティリコはエミリア街道を北上し激戦の末、アラリックを撃退し捕らえた捕虜は全員釈放した。
ローマに凱旋帰国したスティリコは歓呼の声で迎えられたが宮廷では陰謀が渦巻いていた。皇帝は宮廷をミラノからラヴェンナに移し、スティリコを陥れようとする奸臣の声に耳を傾けていた。
スティリコが捕虜を釈放したのはアラリックと内通し帝国を奪う魂胆であろう、アラリックにアルプスを越えてローマに攻め込ませたのもスティリコの差し金ではないかと疑われた。
スティリコが先帝の遺勅に忠実に成れば成るほど皇帝のホノリウスは疑いを抱き、奸臣の言を入れてスティリコに反逆者の烙印を押した。スティリコは捕らえられ一言の弁解も発せず頭を垂れて斬首された。
アラリックはスティリコの死を待っていたかの如く、大軍を率いて再びアルプスを越え、ヴェネット地方に雪崩れ込んだ。アクイレイアにも攻め入り、略奪、暴行を重ね街を破壊した。住民はヴェネチアの潟(ラグーナ)に逃れて難を避けた。
一方、アラリックはポー川を渡りラヴェンナと目と鼻の先に有る、ボローニャに迫った。
西ローマ皇帝ホノリウスは和平を請う特使を派遣してアラリックを説得したがアラリックは聞き入れず、ボローニャからフィレンツェを経て、ローマに進撃した。アラリックの軍は行く先々で略奪、暴行を重ね、通過した街々は凄惨を極めた。
アラリックがローマを包囲してもラヴェンナの宮廷から一兵の援軍も寄せられなかった。アラリックは易々と城壁を打ち破り、猛り狂った兵士は街に乱入し、手当たり次第に街を破壊し徹底的な掠奪を行い、ローマを蹂躙して多数の捕虜を引き連れて南に向かった。
この捕虜の中に数奇な運命を辿るテオドシウス大帝の娘、ガラ・ブラキディアもいた。アラリックはローマに飽き足らずアフリカを目指したと云われているが志半ばで突然急性の熱病に罹り急死した。
跡を継いだアラリックの息子アタウルフは一転して南進を中止し、軍を率いてイタリアを北上しフランスに入った。フランスを制圧したアタウルフは西ゴート王国を樹立し、ガラ・ブラキディアを皇后に迎えた。
ガラ・ブラキディアは西ローマ帝国皇帝ホノリウスの命によりコンスタンティウス将軍と婚約をかわしていた。
しかし、皇帝はアタウルフの申し出を受け入れあっさりとこの結婚を認めた。ガラ・ブラキディアが両国の掛け橋となり西ローマ帝国と西ゴート王国は協約を結んだ。
ガラ・ブラキディアの結婚生活は長く続かず、アタウルフが暗殺され、遺言によりラヴェンナの宮廷に戻った。
西ゴート王国はその後も協約を守り、再びイタリアに攻め入る事は無かった。その西ゴート王国もアフリカを制圧し、イベリア半島に上陸したイスラム(ウマイヤ朝)によって七一一年に滅ぼされた。
帰国したガラ・ブラキディアを出迎えたのはコンスタンティウス将軍であった。将軍は再三再四、求婚をせまったがガラ・ブラキディアは頑として応じなかった。
将軍は皇帝に旧約を迫り、皇帝も寵臣の望みを聞き入れ求婚を拒否し続けるガラ・ブラキディアに結婚を命じた。皇帝の命に屈し、いやいや結婚して生まれたのが西ローマ皇帝となるヴァレンティニアヌス三世であった。
コンスタンティウス将軍も結婚四年で病没し、今度は事も有ろうに異母兄のホノリウス帝に言い寄られた。
ラヴェンナに居たたまれなくなったガラ・ブラキディアは東ローマ皇帝テオドシウス二世を頼ってコンスタンティノープルに逃れた。
数ヶ月後、皇帝ホノリウスが没し、西ローマ帝国の後継者が絶え、フン族と結んで内乱が勃発した。西ローマ帝国の内乱を鎮圧すべく、テオドシウス二世はガラ・ブラキディアを西の正帝に、まだ幼児のヴァレンティニアヌス三世を副帝に据え、大軍を与えてラヴェンナに送り返した。
ラヴェンナを開城したガラ・ブラキディアはヴァレンティニアヌス三世を皇帝に推戴し、引き続き摂政として振舞った。
西ゴート族が去りヴェネチアの潟に難を逃れていた住民はアクイレイアに戻った。しかし、四五二年、東ゴート族を征服してハンガリー一帯を支配するフン族の王アッティラがイタリアに攻め込んだ。
アクイレイアの街は破壊され、火を付けられた住民は再びヴェネチアの潟(ラグーナ)に逃れた。度重なる戦禍に嫌気した住民は潟に点在する小島に定住する事を決意し、ヴェネチアの潟に初歩的な政治体制を築いた。
フン族の王アッティラは略奪、暴行の限りを尽くしてイタリアを南下しローマを包囲した。再びローマが破壊される危機を招き、時の教皇レオ一世はアッティラと会見し、ローマ破壊を思い止まる様、必死に説得し、熱意に打たれたアッティラは全軍を率いてハンガリーに引き揚げた。
翌年、アッティラが急死し、フン族に虐げられていた東ゴート族が勢いを盛り返し東ローマ帝国の支援を得て国を樹立した。強勢を誇ったフン族もアッティラを失って混乱しあっけなく崩壊した。
アッティラが去った三年後、四五五年、ヴァンダル王(北アフリカのチュニジアを中心とする王国)ガイセリックはシチリア、サルデーニャ島を制圧して地中海の制海権を握ると、艦隊を率いてイタリアに侵攻した。テヴェレ川の河口の港町、オスティアにガイセリックの艦隊が姿を現した。
オスティアはローマから南西約三〇キロに位置し、ローマの外郭都市としてテヴェレ川で結ばれていた。
ガイセリックはオスティアの港町を蹂躙し、ローマに進撃した。ガイセリック率いる軍団もアラリックの兵士と同じ様にローマの街を破壊し略奪、暴行を重ねて引き揚げた。ヴァンダル王国もガイセリックの死と共に内紛が勃発し王国は崩壊した。
相次ぐ侵略の危機に曝された西ローマ帝国は最早や立ち直れず崩壊の兆しを見せていた。幼くして帝位に就いたヴァレンティニアヌス三世も実権をアエティウスに握られていた。
成人した皇帝は実権を取り戻すべくアエティウスを殺害したが、アエティウスの遺臣マクシムスに暗殺された。マクシムスが帝位に就いたがマクシムスも数ヶ月後に虐殺された。
この様に西ローマ帝国は帝位を巡る権力争いが繰り広げられ、次々に擁立された皇帝もかいらい傀儡皇帝であり、反対勢力によって次々に殺害された。
内部抗争を繰り広げる西ローマ帝国は末期的状態となり皇帝の権威、権力は失墜し、帝国を再建する強力な皇帝も現れなかった。秩序は崩壊しゲルマンの傭兵隊長オドアケルは皇帝に領土を要求するに至った。
四七六年、西ローマ帝国最後の皇帝となるアウグストゥスはオドアケルの要求を撥ね付けたがオドアケルは従わず逆に反乱を起こし皇帝を追放してイタリア王を称した。こうして西ローマ帝国はあっけなく滅亡した。
四八八年、事態の収拾に乗り出した東ローマ皇帝はパンノニア(現在のハンガリー)の地に建国を許した東ゴート族(ゲルマン諸族)の王テオドリックにオドアケルの討伐を命じた。
テオドリックはラヴェンナ(西ローマ帝国の末期からラヴェンナに宮廷があった)を二年間攻囲した後、陥落させ、オドアケル一族を処刑してイタリア全域を制圧した。
イタリア半島を制圧したテオドリックは東ローマ皇帝の許しを得て半島に東ゴート王国を建国し、首都をラヴェンナに定めた。
東ゴート王国の建国により多数のゴート族がパンノニアからラヴェンナに移住し、土地を奪われたラヴェンナの住民は難民となり、押し出される様に北へ逃れヴェネチアの潟(ラグーナ)に移り住んだ。
東ローマ皇帝は東ゴート族が去ったパンノニアの地をランゴバルト族(ゲルマン諸族)に与えた。その東ゴート王国もローマと宗教的な対立を深め、五四〇年、東ローマ皇帝に攻められラヴェンナは陥落し王は捕らえられ、残余の兵が抵抗を続けたが五五五年に滅ぼされた。
東ゴート王国を滅ぼした東ローマ帝国はラヴェンナに総督を置きイタリア統治を目指した。しかし、イタリアに強力な王権が存在せず東ゴート族が滅ぶと、五六八年、東ゴート王国の討伐に手を貸したランゴバルト族がイタリアに侵攻し、ミラノを陥落させ勢いの赴くままパヴィーアも陥落させた。
ポー川流域のロンバルディア平原を制圧したランゴバルト族はこの地にランゴバルト王国を樹立し、パヴィーアを首都とした。(ミラノ一帯をロンバルディアと称するのはランゴバルト王国の名残)
東ローマ皇帝はカトリックの盟主としてカトリックを圧迫するランゴバルト王国に軍を差し向けたが撃退され、ランゴバルトは制圧した地の住民に改宗を強要した。
ランゴバルトに苦しめられた北イタリアの街、トレヴィーゾ、パドヴァ、フリウリ地方の住民は難民となり大挙してヴェネチアの潟に逃れた。
本格的な移住が始まりアクイレイアの大司教はグラードに居を移し、トレヴィーゾから逃れた人々はリアルト小島群やトルチェッロ(ラグーナ最北の島、五~十世紀にはヴェネチアの中心地であった)に移り住み、パドヴァの人々はマラモッコに、フリウリ地方からの難民はグラードやカオルレに定住した。
土地が少なく漁業と塩に頼る以外生活の道が無かった潟に多数の難民が押し寄せ、ヴェネチアの潟は難民で膨れ上がった。彼らは必然的に生活の糧を求めて海洋交易に力を注いでいった。
六九七年、ヴェネチアはランゴバルト王国の脅威から国を守る為に初代ドージェ総督、パオルッチョ・アナフェストを選出して共和国の体制を整え東ローマ帝国のラヴェンナ総督府の庇護下に入った。
六一四年、マホメット(五七一年、メッカにて出生し、六三二年、メディナに埋葬された)はモーゼやイエスと同じ様に神の使徒であり預言者として、神から授けられたコーランを携え伝道を始めた。
偶像崇拝を禁じ、唯一の神、アッラーを信じてコーランに絶対帰依を誓わせ、その証として信徒に五つの戒律を課した。
即ち、信仰告白(常にアッラーを信じ他に神はない)礼拝(一日五回神を拝む)喜捨(相互扶助及び貧困者への施し) 断食(イスラム暦の第九月ラマダン月は日の出から日没まで飲食を絶つ)巡礼(ゆとりの出来た者は一生に一度メッカに巡礼する)であった。
マホメットがイスラムの伝道を始めるとその教えは瞬く間に中東に広まった。マホメットの死後も勢いは萎えず、イスラム教徒は聖戦と称して軍団を組織し東ローマ帝国(ビザンチン帝国)と激突してエルサレムを占領し、シリア、パレスティナも制圧しエジプトを奪った。イラクにも攻め入ってササン朝ペルシャ軍を敗走させた。
六九八年にはカルタゴ(テュニジア)を制圧して中東から北アフリカ全域をイスラム化した。イスラムの大遠征は続き、ジブラルタル海峡を渡りイベリア半島を制圧して、西ゴート王国を滅ぼしガリア(フランス)に侵攻した。
東ローマ帝国もイスラムに攻められコンスタンティノープルを包囲されたが、皇帝レオ三世はイスラムの包囲に耐え、からくも撃退した。
存亡の危機に立たされ猛攻を耐え苦戦の末に辛勝した皇帝レオ三世はキリスト教の危機を痛切に感じた。
イスラムはマホメットが伝道を開始して瞬く間に民衆の心を捉え僅か二十年でキリスト教に対抗する勢力を築き上げ異教徒を駆逐する聖戦を繰り広げていた。
イスラムを信奉する彼らは布教の為には戦いも辞さず宗教的誇りを堅持して、戦いには死を恐れず聖戦の名の下に侵略を重ねて、中東からアフリカを席捲しキリスト教の最大の脅威となった。
民衆を突き動かし戦士として奮い立たせるイスラムの力の根源は何に起因するのか、他方キリスト教が結束を弱め、支配力を低下させた遠因は何故であろうかと、皇帝レオ三世は自問自答を繰り返した。イスラムは徹底して偶像崇拝を禁じ、神にぬか額ずいて結束を強め瞬く間に広まっていった。
ユダヤ教から派生した初期キリスト教もユダヤ教に倣いイスラムと同じ様に聖像や聖遺物の崇拝を禁じていた。
考え続けた皇帝レオ三世は聖像崇拝がキリスト教の結束を弱めた遠因の一つではないかと思い至った。聖像崇拝に起因して多数の宗派に分かれ教義は混沌として単一の普遍性を失った。
イスラムに対抗してキリスト教の結束を強めるにはイスラム教、ユダヤ教と同じ様に偶像崇拝を禁じキリストの教えに忠実で有らねばならないと断を下した。
七二六年、イスラムの攻勢が続く中、東ローマ帝国皇帝レオ三世は偶像崇拝を禁じ、聖像制作、保持を禁じ破壊を命じる「聖像禁止令」を発布した。
しかし、東ローマ帝国のラヴェンナ総督府の庇護下に有る、ヴェネチアはこの勅令に従わず総督府と抗争を繰り返した。
自治の制度は揺らぎラヴェンナ総督府が総督を任命する事態を来したが住民は反抗を続けた。
一方、ローマ・カトリックは聖像を布教の手段に使ってゲルマン諸族を改宗させ民衆の間にも聖像、聖痕の崇拝が定着していた。
ローマ・カトリックは当然反発を強め、これが契機となってローマ・カトリック教会とギリシア正教会(東方教会)は反目を深め分裂に発展していった。(一〇四九年、遂に絶縁し、互いに相手を破門してカトリックは東のギリシア正教会(東方教会)と西のローマ・カトリック教会(西方教会)に大分裂した)
東西の分裂を促した要因としてもう一つ、ローマ・カトリック教会の教皇に就くには東ローマ皇帝の承認が必要であり、ギリシア正教会が常に優位に立っていた。この事も有り、ローマ・カトリックの教皇は機会が有れば皇帝からの独立を考えていた。
この様な状況下、ランゴバルト王国はその後も膨張を続け七五一年、ランゴバルト王は東ローマ帝国の拠点、ラヴェンナを攻め、猛攻を加えた。
東ローマ帝国は援軍を送らず守備隊は降伏してラヴェンナは陥落した。ヴェネチアはラヴェンナ総督府が任命した総督を殺害して自治を取り戻し東ローマ帝国の支配から脱した。
ローマ・カトリック教会はラヴェンナが陥落し窮地に立たされた。北からはランゴバルト族が南下の隙を窺い、南からはイスラムが侵攻し周りを異教徒に取り囲まれ防衛に窮していた。
「聖像禁止令」を認めないローマ・カトリック教会としては、東ローマ帝国に庇護を求める事も出来ず迫り来るイスラムの脅威に晒されていた。
この様な時、救世主の如く現れたのがフランク国であった。フランク国はゲルマン民族ではあるが早くからローマ・カトリックに改宗していた。
イスラムがアフリカを制して海を渡り、イベリア半島に侵攻して西ゴート王国を滅ぼしガリア(フランス)に迫った時、フランク国はイスラムと対峙し撃退したとの知らせが教皇の元に舞い込んだ。
時の、教皇ザカリアスはローマ・カトリックの庇護者はイスラムに勝る戦力を保持したフランク国を置いて他にないと決断した。
教皇はフランク国に使者を遣わし実権を握る宰相のカールマンにローマ・カトリックの庇護を要請したがカールマンはその任に有らずと丁重に断りを入れた。
其れから二年が経ちカールマンが没してピピンが宰相の地位に就いた。カールマンの権力を継承したピピンはクーデターを起こして王を退位させ自ら王位に就いた。
教皇ザカリアスは思惑も有りこのクーデターを承認し、実力を備えた者が王位に就くべきだとピピンをフランク国の王として認めた。
翌年、教皇ザカリアスが没し、ステファヌス二世が教皇に就任した。ランゴバルト王国の脅威は益々、強まり教皇ステファヌス二世は庇護を求めて自らフランク国に赴きピピンを説き伏せた。
七五四年、教皇の要請を受けたフランク王ピピンは軍を率いてイタリアに進攻しランゴバルト軍と激戦の末、ラヴェンナを奪回した。
そして、ピピンはラヴェンナ一帯の地を教皇に寄進した。これが教皇領の始まりである。
ピピンが没し跡を継いだフランク王カール一世(カール大帝)は七七四年、ランゴバルト王国を攻め滅ぼし、続いて東ローマ帝国に帰属するヴェネチア一帯にも兵を差し向けた。
ヴェネチアの潟に始めて軍勢が攻め寄せ、潟の沿岸部に拓いた街は次々に攻め落とされていった。住民は海に逃れ潟に点在するリアルト小島群に集結し、激しい抵抗を繰り広げた。カール一世の軍は潟に阻まれて攻めあぐね遂に退却を余儀なくされた。
この戦い以降、ヴェネチアは一七九六年ナポレオンに蹂躙さるまで約一千年間独立を守りヴェネチアの街を敵の軍靴で汚される事は無かった。
ヴェネチアを攻めたフランク族(ゲルマン民族)の王カール一世はランゴバルト王国を滅ぼし、イスラムと戦い、スペインにまで兵を差し向け、西ヨーロッパの主要部を統一する一大帝国を樹立した。
カール一世が築いた大フランク王国の領土は、西はスペインのエブロ川、東はドイツのエルベ川、南はイタリア中部にまたがり、四七六年、内紛を重ねて自滅した西ローマ帝国の旧領に匹敵していた。
八〇〇年、ローマ教皇レオ三世はフランク王国との絆を強める為に、サン・ピエトロ大聖堂でカール一世にローマ帝国皇帝の戴冠を授けた。以後、神聖ローマ帝国皇帝の戴冠は教皇が授ける事となった。
教皇から戴冠を受けローマ帝国の皇帝に就いたカール一世は皇帝位を揺るぎ無いものとする為、東ローマ皇帝の承認を求めた。
カール一世はヴェネチアを従来通り東ローマ帝国に帰属する事を条件に皇帝の地位を認めさせた。ラヴェンナが陥落して東ローマ帝国の支配から脱し、カール一世の軍を撃退して独立を勝ち取ったかに思えたヴェネチアも大国の目には、独立国とは映らなかった。
ヴェネチアは再び東ローマ帝国の属領となったが自治権を認められた事が大きな収穫であった。
八二八年、ヴェネチアで画期的な出来事が起こった。二人のヴェネチア人がアレクサンドリアから豚肉の塊の下に隠して聖マルコの遺体を持ち帰った。(十二使徒の一人、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を書いた四聖人の一人、アレクサンドリアの最初の司教となりこの地で没した)
時の司教、総督は大歓迎で迎え入れ、直ちに聖マルコの遺体を葬る礼拝堂の建造を命じた。以後、聖マルコはヴェネチアの守護聖人となり、聖人を寓意する有翼の獅子をヴェネチアの国旗に描いた。
戦艦はこの有翼の獅子を描いた国旗を靡かせてヴェネチアの商船を守り、地中海を駆け巡ってヴェネチアに富をもたらした。
因みに、守護聖人とは聖人や天使を選んで特別の守護を願う、カトリックの習慣として四世紀頃から始まった。
因みに、ローマの守護聖人は聖ピエトロと聖パオロ、ナポリの守護聖人は聖ジェンナーロ、フィレンツェの守護聖人は聖ジョヴァンニ、ミラノの守護聖人は聖アンブロージョである。そして、日本の守護聖人は聖フランシスコ・ザビエルが聖天使ミカエルと定めた。
それと共にイタリアでは毎日が誰かの守護聖人の日と定められている。日本で有名なヴァレンタインは二月一四日「愛」の守護聖人、聖ヴァレンティーノの日である。
八三〇年代、ヴェネチアは東ローマ帝国の属領では有るが国家基盤を整え、貿易で得た富を基に国の安全と交易の権益を守る為に次々と艦船を建造し海軍力を高めていった。
八四〇年頃には二百人乗りの戦艦を六十隻も保有するほどの力を付けていた。そして八四〇年、ヴェネチアの外交交渉が効を奏したのか、イスラム海軍と戦うヴェネチアの海軍力が認められたのか、フランク王国と東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の間で平和協定が結ばれ、東ローマ帝国に属していたヴェネチアは正式に自治権を認められ領土も確定し一国となった。
一方、カール一世が築いた大帝国は内部抗争を繰り返し大きく変貌していった。八一四年、カール一世が没し、ルートヴィヒ一世が跡を継いだが、ルートヴィヒ一世はフランク族の習慣である財産の分割相続に倣い、死後は領土を三人の息子に分け与える事とした。
しかし、その後末子が生まれ領土の再配分の必要が生じた。長子は反目し、お家騒動が持ちあがった。
ルートヴィヒ一世が没し、次子のピピンも早死し、長子のロタールは兄弟の反発を無視して全領土を支配した。
反発した二人の兄弟、ルートヴィヒ二世と末子のシャルル二世はロタールを攻め、降伏させて領土の三分割を強請し八四三年、ヴェルダン条約を結んだ。
条約の内容は、ルートヴィヒ二世は東フランク(ドイツ、ライン川以東の地)を、シャルル二世は西フランク(フランス)を獲得し、ロタールは皇帝の地位を得て、イタリアと中部フランクを領有する分割統治であった。
皇帝位とイタリアを領したロタールは八五五年に没し、跡を継いだルイ二世も八六九年に没した。 ルイ二世が没するとルートヴィヒ二世とシャルル二世は再び結託して中部フランクを奪い共に分け合った。こうして、フランク王国は現在のフランス、ドイツ、イタリアに分割された。
八八七年、ルイ二世の跡を継いだイタリア王カール三世が没してロタールが創始したカロリング家は絶え、その後、イタリアは諸侯や都市が自立し群雄割拠の時代を迎える。東フランクのルートヴィヒ四世も九一一年に若死し東フランクのカロリング家も断絶した。
有力諸侯の推戴を受け一族のフランケン公コンラート一世が東フランク国の再興を図るが諸侯の分立とマジャール人(ハンガリー)の侵攻に悩まされ成せなかった。志し半ばで挫折したコンラート一世は有力諸侯の一人、ザクセン公ハインリヒ一世に後事を託した。
ハインリヒ一世は辺境の防備を固め分立する諸侯を説き伏せ、或いは攻め滅ぼしてドイツを建国した。
九三六年、ハインリヒ一世が没し、跡を継いだオットー一世は敵対する諸侯を押さえて中央集権国家を確立し東フランク国(ドイツ、オーストリア)を再興した。
一方、強力な国家が存在しないイタリアにアジア系遊牧民のマジャール人(ハンガリー)が騎馬を駆って北伊に侵攻して来た。
フリウリ候ベレンガリオが立ち向ったが破れ、マジャール人はトレヴィーゾやパドヴァを陥落させ街を蹂躙し、富を蓄積した教会や修道院は格好の餌食となった。
しばしば騎馬民族の来襲に悩まされる教皇は東フランク国を再興したオットー一世にマジャール人の討伐を命じた。
九五一年、教皇の要請に応じたオットー一世はイタリアに進攻してマジャール人を撃破し西に追い返し、東フランク国が再びローマ・カトリックの庇護者となった。
後ろ盾を得た教皇ヨハネス一二世は教皇領の拡大を図り、イタリア諸侯と争いを繰り広げたが、劣勢に立たされ再び東フランクのオットー一世に救援を求めた。
オットー一世は教皇の要請に応じてイタリアに三度進攻し、二度目の進攻の時、教皇ヨハネス一二世から皇帝の戴冠を受け、初代の神聖ローマ帝国皇帝となった。(神聖ローマ帝国皇帝はこの戴冠が起源となった。 皇帝位は一二五〇年、フリードリヒ二世皇帝が没し、一二五四年、ホーエンシュタウフェン王家が滅び以後二十年間空位となったが、一二七三年、ハプスブルグ家のルドルフ一世が皇帝の戴冠を得て、十九世紀に神聖ローマ帝国が消滅するまで皇帝位は続いた。)
ヴェネチアにも度々、マジャール人が押し寄せ戦火を交え、潟に守られたヴェネチアはからくもマジャール人を撃退した。時の総督ピエトロ・トリブーノは街を防衛する城壁の建造を命じた。こうしてヴェネチアは都市国家としての体裁を整えていった。
ヴェネチアの総督は選挙で選ぶとは云え、有力家系が世襲する傾向を来した。九五九年、ピエトロ・カンディアーノ四世がヴェネチア総督に就き、総督を世襲する悪弊が露呈した。権力を掌握したピエトロは市民の意に反し、しだいに権力を乱用し封建君主の如くヴェネチアに君臨した。
九七六年、総督ピエトロの圧政に苦しめられた民衆は怒りを爆発させ、手に手に武器を持ってサン・マルコ広場に集結し、ピエトロ退陣を叫んで気勢を上げた。広場を練り歩く内に市民の興奮は高まり、「ピエトロを殺せ」との怒号に変わっていった。
ピエトロは恐ろしくなりドゥカーレ宮殿の一室に閉じこもって怒号に耐え、群集が広場から去るのを待ったが、群集は増え続けた。夕闇が迫っても群集は去らず手に手に松明をかざし「ピエトロに死を」と気勢を上げた。
ピエトロが姿を現さない事に業を煮やした群集の一人が手にした松明をドゥカーレ宮殿に投げ入れた。これを契機に群集は手にした松明を次々に宮殿に投げ入れ、宮殿は瞬く間に炎に包まれた。
室に籠るピエトロは煙と炎に驚き、室を出て逃げ場を探しドゥカーレ宮殿を出た所で待ち構えていた群集に捕らえられた。
最早、暴徒と化した群集はピエトロをサン・マルコ広場の中央に引き摺り出し、手にした武器で次々にピエトロを打ち据えた。誰一人助ける者も居らずピエトロは暴徒と化した民衆に撲殺された。
そして暴徒はドゥカーレ宮殿に火を放った。火は瞬く間に燃え広がり、ドゥカーレ宮殿ばかりかサン・マルコ教会を含め多数の建物を焼き尽くした。
新しく総督に選ばれたオルセオロ家のピエトロ・オルセオロ一世は焼け落ちたサン・マルコ教会の再建に着手したが九七八年に辞任して聖職に就き、他家出身の総督が二代続いた。
九九一年、息子のピエトロ・オルセオロ二世が総督に就任してヴェネチアの地位は一変した。彼はイスラムに手を焼く東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に海上支援を約束して密接な関係を結び、コンスタンティノープルにおけるヴェネチア商人の自由な交易権を勝ち取った。
そして、ヴェネチアが誇る海軍を派兵してダルマティア地方(クロアチアの沿岸部)に割拠するスラブ人を鎮圧し、広範囲に亘って領有権を確立した。
ピエトロ・オルセオロ二世は政治、軍事、外交、に卓越した能力を発揮し、彼の治世にヴェネチア繁栄の基礎が築かれた。
一〇〇九年、ピエトロ・オルセオロ二世が逝去し息子が跡を継いだが、市民の意に反して権力を乱用し独善的な政治を執り行なった。オルセオロ二世の功績を無にする行為であり、諫言にも耳を貸さず政治姿勢を改めなかった。
一〇二六年、政治の腐敗を正せと市民が立ち上がり総督を罷免し、オルセオロ家をヴェネチアから追放した。
以後、ヴェネチアはメディチ家が影の君主として君臨したフィレンツェ共和国と異なり総督の世襲を禁じた。(メディチ家は共和制の頃、統治すれど君臨しなかった)
総督は四十人の大評議会委員の選挙によって選出し、選出された総督の資質について、六区(サン・マルコ地区、サンタ・クローチェ地区等々ヴェネチアを六区に区分していた)を代表する六人の総督評議会が決定を下す徹底的な共和制を堅持した。
この制度と十人委員会がジェノバやフィレンツェの様な権力争いに起因する内乱を招かず、現実主義に根ざした団結を生み一千年の永続を支えた。
それはヴェネチアが海上に浮ぶ特殊な都市であり、国際貿易を基盤にして国が成り立ち、既成概念を嫌う自由主義が根底に有ったからであろうか。
それともドゥカーレ宮殿ばかりかサン・マルコ教会も焼き尽くした反省に根差しているのか、理由はともあれ以後、ヴェネチアは共和制を守り抜いた。
一〇九四年、サン・マルコ教会は再建に着手してから実に一一六年の歳月を費やして、当時のヨーロッパでは一番豪華な教会として再建された。
翌年の一〇九五年、教皇ウルバヌス二世はイスラムに奪われた聖地エルサレムの奪回を目指す聖戦を提唱し十字軍の派遣を全欧に呼びかけた。
聖地奪回は皇帝ハインリヒ四世と教皇権を巡り争ったグレゴリウス七世の悲願でも有った。事の起こりはイスラム勢力に圧迫された東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のアレクシオス一世がローマ教皇ウルバヌス二世に救援を求めたのが切っ掛けである。
フランス出身のウルバヌス二世は各地で名演説を繰り広げて聖地奪回を説き聴衆を感動させた。 教皇に賛同したフランス騎士団が中心となり、それに南伊のノルマン人が呼応して十字軍派遣の機運が盛り上がった。
イタリア各地の貴族も教皇ウルバヌス二世の説く、聖地奪回の崇高な使命に酔いしれ次々に十字軍に加わった。熱狂に駆り立てられる様に農民も修道士も貴族の兵として従軍を志願した。
しかし、イスラム世界とも交易を持つヴェネチアは十字軍派遣に消極的であったが、同じ港湾都市のピサ、ジェノヴァは積極的に加わった。
教皇ウルバヌス二世が提唱した第一回十字軍は教皇の名演説が効を奏し、騎兵五千、歩兵一万五千の大軍団に膨れ上がった。
軍団は四軍団に分かれてコンスタンティノープル目指し行軍した。コンスタンティノープルで東ローマ帝国(ビザンチン帝国)軍と合流し小アジアを縦断し聖地エルサレムを目指した。
戦いは次々に勝利し十字軍を積極的に支援した港湾都市国家、ピサ、ジェノヴァはその恩恵に預かり東ローマ帝国で優遇される事態になった。
当初、渋っていたヴェネチアも交易の権益を守る為、止む無く十字軍に参加し兵団の輸送を引き受けた。
怒涛の様に押し寄せる軍団に強襲されたイスラムは敗退を繰り返し、一〇九九年、十字軍は聖地エルサレムを奪回した。
十字軍の兵士は行く先々で戦利品として金品を奪い、略奪、暴行、殺戮の限りを尽くした。将も兵も、勝利に酔い、血塗られた手を洗って喜びに咽びながら聖地エルサレムで祈りを奉げた。
十字軍の騎士団は制圧した地を己が領土として領有し、長期に亘り聖地を防衛するとの大義名分を掲げて聖地エルサレムに国を樹立した。
騎士団が領有した地は封土として認め、留まった兵士にも領地を与え、封建国家エルサレム国を樹立した。
ヴェネチアは一転して積極的にエルサレム国を支援し度々、海軍の派兵を繰り返した。ピサ艦隊とも戦火を交えて勝利し東地中海から撤退させた。
エジプト艦隊も撃破し、東地中海に侵攻するイスラム勢力を阻止し、エルサレム国から数々の特権を認められていた。
しかし、エルサレム国も長くは続かなかった。反撃に出たイスラム勢力に圧迫され続け一一八七年、エルサレムの街は陥落し、聖地は再びイスラムの手に落ちた。
聖地奪回は一時に終わったが、この十字軍の遠征がヨーロッパ世界に計り知れない程の経済的、社会的影響を与えヨーロッパの発展に決定的な役割を果たした。
従軍した貴族も農民も修道士も異文化に触れ、兵士が略奪して持ち帰った品々はヨーロッパ貴族に珍重され高値で買い取られた。
ヨーロッパ貴族は西欧よりも格段に進歩したビザンチン文化を知り、西欧は衝撃を受け東方へ眼を開かせた。十字軍の遠征が切っ掛けとなって地中海貿易は飛躍的な発展を遂げた。
海運都市国家ヴェネチア、ピサ、ジェノヴァ、アマルフィーはこの恩恵に預かり、隆盛を競い合うと同時にしばしば地中海の覇権を巡って戦いを繰り返した。
一一三七年にはピサ艦隊がアマルフィーを攻撃し、アマルフィーは蹂躙され二度と立ち上がれないほどの打撃を受けた。
ヴェネチアも権益と交易の拠点を守る為にピサ艦隊、或いはエジプトやノルマンの艦隊とも度々戦火を交えた。
その後も西欧世界はイスラムに奪われた聖地奪回を旗印に、以後二百年間に七回の十字軍派遣を繰り返した。
一一四七年の第二回遠征はフランス王ルイ七世、神聖ローマ皇帝コンラート三世が十字軍を組織し、シリア内部まで攻め込んだが聖地奪回は果たせず失敗に終わった。
一一八九年の第三回遠征は神聖ローマ皇帝のフリードリヒ一世、フランス王のフィリップ二世、イングランド王のリチャード一世が十字軍を組織し、聖地奪回を目指した。
遠征の途上、フリードリヒ一世は小アジアで不慮の死を遂げ、フィリップ二世とリチャード一世はエルサレムの北まで迫ったが対立しフィリップ二世は軍をまとめて帰国した。
リチャード一世は留まってイングランド兵を率い、イスラムと戦ったが聖地奪回を果たせず失敗に終わった。
ヴェネチアは第二回、第三回の十字軍派遣には深く関与せず兵員の輸送を引き受けたに過ぎなかった。
一一九八年、教皇インノケンティウス三世は聖地奪回を説き、全欧の王侯、貴族に第四次十字軍派遣の教書を送った。
教皇の呼び掛けに応じたフランスの騎士団が中心となり翌年、第四次十字軍が結成された。しかし、遠征費用は自前で負担しなければならず、遠征費用に窮したフランス騎士団はヴェネチアに戦利品を代償に軍団の輸送を持ち掛けた。
時の、ヴェネチア総督エンリーコ・ダンドロは思惑も有り十字軍の派遣に積極的であった。オリエントを知り尽くしているダンドロは彼らが持ち帰る戦利品を代償にしても十分採算が取れると踏んで輸送を引き受けた。
フランス騎士団の輸送もさる事ながらダンドロは聖地奪回の使命を帯びた十字軍を利用して、ダルマティア地方(クロアチアの沿岸部)を鎮圧する深慮遠謀な計画を巡らし自らも遠征に参加した。
ダンドロが鎮圧を目論んだダルマティア地方はヴェネチアが領していたが、ハンガリー帝国の支援を受けた住民がヴェネチアの束縛から逃れる為に度々反乱を繰り返していた。
ヴェネチアは反乱の都度、海軍を派遣し鎮圧に当たったが、一一九六年、ザーラ(クロアチア、アドリア海沿岸の港湾都市)が再び反旗を翻し、ピサ(トスカーナ)やアンコーナ(イタリアのマルケ州)それにノルマンに支援を求め、ヴェネチアは鎮圧にてこずり大規模な派兵の必要性に迫られていた。
ヴェネチアの総督ダンドロはザーラ鎮圧に十字軍を利用する事を画策していた。ザーラが上陸を拒み、十字軍が制圧に乗り出せばピサもアンコーナもノルマンもザーラを支援する大義名分を失う。ヴェネチアのダンドロは自ら手を下さずにザーラを鎮圧する策謀を巡らしていた。
ヴェネチアが引き受けた輸送はフランス騎士団四千五百人の騎士と四千五百頭の馬、九千人の馬丁、騎士に従卒する二万人の歩兵を戦地に送る事であった。
輸送にはヴェネチアの大半の船舶を動員する必要があった。フランス騎士団はヴェネチアが指定したリード島に集結したが、ヴェネチアに思惑が有り、船が集まらない事を理由に足止めされ、船出は予定より遅れてリード島を出帆した。
船団がザーラに寄港したのは一二〇二年十一月であった。ヴェネチアの思惑通りザーラの住民はヴェネチアの船団を見て、たとえ十字軍であろうと上陸は拒絶すると通告して来た。
上陸を拒絶したザーラの対応に崇高な使命を帯びて戦地に赴くフランス騎士団と従軍する兵士はザーラの対応に怒りを爆発させた。
ダンドロは怒りを顕わにするフランス騎士団を煽動しザーラ強行上陸を主張した。十字軍の指揮官モンフェッラート候もザーラの対応に煮えたぎる思いを抱いており、ダンドロの進言に賛同し強行上陸を敢行した。
フランス騎士団とその兵はザーラに強行上陸して、街を襲い暴行、略奪をほしいままにし、瞬く間に街を制圧した。そして十字軍はダンドロの進言を入れこの地で冬越しする事となった。
そこに、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の内紛によって帝位を追われた前帝の息子、アレクシオスが訪れ帝位返り咲きの支援を要請した。
アレクシオスは復位が叶えば遠征費用の負担と武器の提供、そして東西両教会に分裂した教会の統合に尽力すると共に、自ら東ローマ帝国の軍を率いて聖地奪回に参加する事を約束した。
十字軍の指揮官モンフェッラート候にとって遠征費用の負担と武器の提供は願っても無い申し出であった。ダンドロの進言も有り十字軍はアレクシオスを支援する事に決した。
一二〇三年春、十字軍は東ローマ帝国の首都、コンスタンティノープルに進撃した。皇帝テオドロス一世はアレクシオスの甘言に乗り十字軍が来襲したと知り小アジアに逃れた。
十字軍は幽閉されていた前帝のイサキオス・アンゲロスを救い出し帝位に就けたが、アレクシオスは何かと理由を付けて十字軍との約束をなかなか履行しなかった。指揮官モンフェッラート候は密約の履行を強硬に迫ったが皇帝は応じなかった。
月日と共にアレクシオスが十字軍と交わした密約が漏れ、十字軍兵士の乱暴、狼藉にへきえき辟易していたコンスタンティノープルの住民は怒りを爆発させ反乱を起こした。
武器を取って立ち上がった民衆は宮廷に乱入し皇帝のイサキオスとアレクシオスを捕らえ皇帝の廃位を宣言して二人を殺害した。
オリエントを知り尽くし東ローマ帝国の弱体を知るダンドロはコンスタンティノープルに拠点を築く好機と見て、コンスタンティノープルの制圧をモンフェッラート候に進言した。
フランス騎士団にとっても暴動を理由に東ローマ帝国を奪う願ってもない機会が到来し、コンスタンティノープルを制圧する事に衆議一決した。
十字軍は事も有ろうに聖地奪回の使命を忘れ、コンスタンティノープルを攻め数度の戦闘の末、陥落させた。
コンスタンティノープルを制圧した十字軍は将校も兵士も無差別な殺戮を重ね、戦利品として金品を強奪し、女と見れば修道女も構わず犯した。
サン・マルコ教会の正面二階テラスを飾る、金鍍金が施された四頭の馬のブロンズ(レプリカ)もこの戦いの戦利品として持ち帰った。
勝利した十字軍は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)を分け合い、ヴェネチアはコンスタンティノープルの大半とイオニア海沿岸の島々を手に入れ、十字軍の指揮官モンフェッラート候に与えられたクレタ島を買い取った。
ヴェネチアは黒海交易の重要拠点であるコンスタンティノープルを押さえ、クレタ島を手に入れてエーゲ海の制海権を握った。
そして、ダンドロとフランス騎士団が話し合い、フランドル伯ボードゥアン一世を新皇帝に選び、ラテン帝国(一二〇四~一二六一年)を樹立した。
小アジアに逃れた皇帝テオドロス一世はニケーア帝国を樹立してラテン帝国に対抗した。ニケーア帝国の五代目の皇帝ミカエル八世はジェノヴァにコンスタンティノープルの自由通行権、免税権、黒海への通行権等々の好餌を示して密約を結び、ジェノヴァにヴェネチア艦隊を襲撃させた。
ミカエル八世も軍を率いジェノヴァの攻撃に呼応してコンスタンティノープルを攻めた。コンスタンティノープルは陥落し、一二六一年ラテン帝国は崩壊した。こうして東ローマ帝国はミカエル八世の手によって復活を遂げた。
しかし、東ローマ帝国はオスマン・トルコに圧迫され続け、コンスタンティヌス帝がコンスタンティノープルに都を移して以降、千年以上続いた東ローマ帝国も一四五三年、十四万のオスマン・トルコ軍団に攻められコンスタンティノープルが陥落して滅んだ。
第四回十字軍が失敗に終わり、教皇インノケンティウス三世は再度十字軍の派遣を提唱したが翌年、失意の内に没した。
新教皇ホノリウス三世はインノケンティウス三世の遺志を継ぎ、フリードリヒ二世に神聖ローマ皇帝の戴冠を授け聖地奪回を誓わせた。
しかし、フリードリヒ二世はシチリアのパレルモに居を構え、イスラムの文化にも慣れ親しみ、聖地奪回よりもイタリアとドイツを統合した大帝国の実現を構想していた。
その為にはイスラムとの共存が不可欠との考えを持っていた。其れと共に、皇帝位は教皇から独立した存在でなければ為らないとの考えも持っていた。
フリードリヒ二世はイスラムと事を構える考えは無く口実を設けて引き伸ばし遠征に応じなかった。
老齢の教皇ホノリウス三世は再三再四、十字軍の遠征を要請したが、フリードリヒ二世は首を縦に振らず、教皇は無念の内に没した。
新教皇に就いたグレゴリウス九世は辣腕を発揮し「伝家の宝刀」破門をちらつかせてフリードリヒ二世に十字軍派遣を迫った。
以後、フリードリヒ二世と教皇は数々の確執を繰り返し、争いを巻き起こす事になるがフリードリヒ二世はしぶしぶ十字軍の遠征に応じた。こうして一二二八年、教皇の厳命によって第五回十字軍が派遣される事になった。
第五回十字軍は神聖ローマ皇帝フリードリヒ二世が自ら軍を率いてエジプトのカイロに船出した。 元々戦う意志の無いフリードリヒ二世に取って幸か不幸か船内に悪性の疫病が蔓延した。フリードリヒ二世も感染し生死の境をさ迷いイスラムと一戦も交えず帰国を決断した。
そして、病の為、已む無く帰国したが病癒えれば再び聖地奪回の軍を興すと教皇に書き送ったが、フリードリヒ二世の魂胆を見透かした教皇は仮病を使った忌避行為で有ると、この書状を破り捨てフリードリヒ二世皇帝に破門を通告した。
しかし、フリードリヒ二世は教皇との確執はさて置き、聖地奪回の外交折衝を続けイスラム教君主と平和条約を交わし一時的にエルサレムを回復したが一二四四年聖地は再びトルコに奪われた。
一二四八年の第六次十字軍はフランス王ルイ九世が単独で十字軍を結成しエジプトに渡り六年に及ぶ戦いを繰り広げたが撃退された。
ルイ九世は諦めず一二七〇年再び第七次十字軍を単独で組織し北アフリカに攻め入ったがチュニスで疫病に罹りその地で没した。
この様に十字軍の遠征は数次に亘り聖地奪回を目指したが何れも失敗に終わり、第七次が最後の十字軍となって聖地奪回の夢は潰え去った。
第四次十字軍の遠征で主導的な役割を果たしたヴェネチアはダルマティア地方を鎮圧し地中海の重要拠点クレタ島を手に入れた。
地中海に植民地を得たヴェネチアはクレタ島に数万人のヴェネチア人を移住させ、彼らに封土を授け、島の防衛を任務として課した。クレタ島の行政組織は本国に倣い総督を派遣して島を統治し、この島を拠点に東地中海の覇権を握った。
ヴェネチアに富をもたらす交易は武装した典型的な船、ガレー船を連ねて船団を組み、時には海賊と戦い、敵対する都市の船に遭遇すれば交戦し、地中海沿岸から黒海の奥深い地に至る航路を握っていた。
ガレー船は国立の造船所で建造し船長も国が任命していた。ガレー船の船足は速く、二本から三本のマストを持ち二百人の漕ぎ手が昼夜を問わず漕いだ。
往年の名画「ベン・ハー」でチャールトン・ヘストンが奴隷として船底に押し込められ手枷足枷をはめられて昼夜を問わず漕いだ船がガレー船である。
ヴェネチアのガレー船は聖マルコを寓意する有翼のライオンを描いた国旗を掲げて航海し、一隻の舟には二十人の弓兵が乗り組んでいた。
ヴェネチアは各地に出先機関を持ち、船の所有も航海の日取りも、そして積荷も国が管理していた。
一三一〇年には監視を強化する為に十人委員会を設置し、密告を奨励し情報を拠り所に秘密調査を行なった。十人委員会は絶大な権限を持つ警察機構であり最高裁判所の権限も有していた。
ヴェネチアの商人は港での交易に飽き足らず寄港地から危険を冒して内陸に足を延ばし交易の場を広げていた。
ヴェネチアの商人、マッテーオ・ポーロとニッコロ・ポーロ(マルコ・ポーロの父)も内陸との交易を目指してヴェネチアを発ち、コンスタンティノープルに向けて出発したのは一二五三年の事であった。
二人は黒海を横切りクリミア地方に赴きさらに東に進んで中央アジアのブハラ(ウズベキスタン共和国)でフビライ・ハーンに謁見し、フビライ・ハーンは二人にローマ教皇への親書を託した。二人は一二六九年にヴェネチアに帰り着きフビライの親書を教皇に届けた。
その二年後、新教皇グレゴリウス十世の親書を携え再び旅に出た。弱冠十五歳のマルコもこの旅に同行した。 一行はヴェネチアを出帆してアドリア海を南下しエーゲ海を渡り、トルコのライアッツォに上陸した。
ライアッツォから隊商を組みアルメニア地方を横断してペルシャ湾に達した。そこから海路を想定していたがヴェネチアの船とは異なり不安を覚えた一行は陸路を選んだ。
陸路を選んだ一行はパミール高原越えの険しい道を辿り、峨々たる山峡を越えてタリム盆地に下った。カシュガルから一行はタクラマカン砂漠の南を走る西域南道を東に進みヤルカンド、ホータンのオアシスで休み、敦煌、楼蘭を経て更に東へ進みゴビ砂漠を横断して大汗の領内を王都に向かった。
一行は旅を重ね一二七四年、フビライ・ハーンが滞在するじょうとかいへい上都開平府に到着した。二十歳そこそこのマルコ・ポーロは六十歳のフビライ・ハーンに謁見し、一行が辿ったほとんどの国がフビライの領土と知り、その驚異的な権力に圧倒された。一行はフビライと共に元の首都大都(北京)に赴いた。
フビライは人種的偏見を持たず能力の有る者は外国人で有ろうと積極的に登用し、マルコ・ポーロが訪れたフビライの宮廷には様々な外国人が仕えていた。マルコ・ポーロもフビライの信任を得て元の官吏として十七年間宮廷に仕え各地を旅行して見聞を広めた。
マルコ・ポーロとその一行は一二九一年、イル汗国(ジンギスカンの孫フラグがイラン地方を支配して建国した)の使節団に随行して帰国の途についた。
泉州から船に乗り、広州の港に立ち寄り、マラッカ海峡を抜けてインド洋に入り、インド各地の港で泊まりを重ね、船はベンガル湾のホルムズに到着した。
マルコ・ポーロとその一行はイル汗国の使節団と別れ、陸路コンスタンティノープル目指し旅を続けた。マルコ・ポーロがヴェネチアに帰り着いたのは一二九五年の事であった。
マルコ・ポーロが帰り着いたヴェネチアはジェノヴァとの第二次戦役の最中であった。地中海を制するヴェネチアに同じ海運国、ジェノヴァも黙っていなかった。両国は地中海の覇権を巡って休戦や講和を繰り返し百二十年に亘って四度の海戦を交えた。
第一次の戦役は一二六一年から、一二七〇年に及んだ。ジェノヴァはクレタ島を領有したヴェネチアにエーゲ海の制海権を握られ、黒海の出入り口であるコンスタンティノープルも押さえられて東方貿易から締め出され宿敵ヴェネチアを打倒する機会を窺っていた。
一方、ラテン帝国に抵抗を続けるニケーア帝国五代目の皇帝ミカエル八世もラテン帝国を倒し、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)を復活する事が悲願であった。
ラテン帝国を倒すには黒海の入口、コンスタンティノープルに駐留するヴェネチア艦隊に壊滅的な打撃を与える必要が有った。
皇帝ミカエル八世は東方貿易から締め出されたヴェネチアの宿敵ジェノヴァに近づき、東ローマ帝国の再興が成ればコンスタンティノープルの自由通行権、免税権、黒海への自由通行を許すと持ち掛けた。
打倒ヴェネチアを悲願にするジェノヴァは東方貿易の覇権を握る願っても無い誘いを受け、皇帝ミカエル八世とコンスタンティノープルに駐留するヴェネチア艦隊を攻撃する密約を結んだ。
ジェノヴァはヴェネチア艦隊の主力がコンスタンティノープルを去った隙に乗じて奇襲を掛け港を占拠し、ミカエル八世もジェノヴァの動きに呼応して軍を率いコンスタンティノープルを急襲した。
コンスタンティノープルはあっけなく陥落し、一二六一年ラテン帝国は崩壊した。こうしてミカエル八世の手により東ローマ帝国は復活を遂げた。
戦勝した東ローマ帝国皇帝ミカエル八世は約束通りジェノヴァにヴェネチアが享受していた様々な特権を与えた。こうして黒海の交易権はヴェネチアに替わりジェノヴァが独占した。
黒海の交易を奪われコンスタンティノープルの拠点を失ったヴェネチアは復権を目指しジェノヴァとの海戦を繰り返えすと同時に東ローマ帝国(ビザンチン帝国)と外交折衝を続けた。
皇帝ミカエル八世もイスラムの脅威は去らず、侮りがたいヴェネチアの海軍力を味方に付けたいと考えていた。
ヴェネチアの外交術が効を奏し、徐々に、コンスタンティノープルにおける居住権、黒海の通行権等々を獲得し東方貿易の復権を果たした。
ジェノヴァは東ローマ帝国の処置に大いなる不満を持ったが従わざるを得ず両国は互いに勢力範囲を認め合って共存を図った。
苦渋の妥協を強いられたジェノヴァはヨーロッパ随一の海軍力を誇るヴェネチアに打ち勝つ為、着々と海軍力を増強し来るべきヴェネチアとの決戦に備えていた。
そして、ジェノヴァはもう一方のライバル、ピサ(斜塔で有名な海運都市)に戦いを挑みピサ艦隊に二度と立ち上がれない程の大打撃を与えジェノヴァ艦隊の恐るべき力を見せ付けた。
ヴェネチアとジェノヴァの共存共栄は長く続かず、一二九四年、両国はトルコのライアッツォで衝突しヴェネチア艦隊は激戦の末、大敗した。
この海戦を契機にして第二次戦役が勃発し両国の争いは一二九四年から一二九九年まで続いた。 この第二次戦役に元から帰国したマルコ・ポーロも兵士として従軍した。
ライアッツォで勝利したジェノヴァは勢いに乗りヴェネチアが領有するダルマティア地方に攻め入った。ヴェネチアの戦艦が迎撃し、後年クルツォラ海戦と呼ばれる海戦でヴェネチア海軍はまたしても大敗を喫した。
この海戦でヴェネチアの戦艦多数が沈められ或いは拿捕されてマルコ・ポーロを含め多数の兵が捕虜となった。
ジェノヴァで投獄されたマルコ・ポーロは獄中でピサ人の脚本家と知り合い、獄中の退屈しのぎにおよそ二十五年間暮らした海外の思い出を語った。
ピサ人の脚本家はマルコ・ポーロが話す絵空事の様な情景に興味をそそられ二人で書き著した。それが有名な「東方見聞録」である。
ジェノヴァとヴェネチアの争いは収まらず一三五一年から一三五五年、に掛けて第三次戦役が勃発した。両国は休戦や講和を繰り返し、東方貿易の覇権を巡って争いは止む事無く続いた。
そして一三七七年から始まった第四次戦役は劣勢に立たされていたヴェネチアが奮起し、一方強力な海軍力を誇るジェノバは度重なる内紛に戦意喪失を来していた。
一三八〇年、ヴェネチア艦隊はキオッジャの海戦でジェノバ艦隊を殲滅し、翌年、ジェノバはヴェネチアに屈し、トリノで講和条約が結ばれ百二十年に亘る戦争は終結した。
戦争終結はジェノバの度重なる内紛の結果であり、ヴェネチアが決定的な勝利を収めた訳ではなかった。
それでもヴェネチアが勝利したのは十人委員会に依る思想の統制(戦意高揚と反戦分子の摘発)と東方貿易の権益を守る団結がヴェネチアを再び地中海の覇者に返り咲かせた。
宿敵ジェノバを制したヴェネチアは地中海貿易(東方貿易)の覇権を握り、コルフ島を奪取しレパント、アテネとその領土を広げイギリス、スペインを凌ぐ大国となった。
東方ではオスマントルコの勢力が増大しヴェネチアと対立を深めていった。一四一六年ヴェネチア艦隊がトルコ艦隊を破ったが、それは一時の勝利に過ぎなかった。
一四三〇年、反撃に転じたオスマントルコはヴェネチアの総人口二十万に匹敵する軍隊を組織し、ヴェネチアが誇る海軍力を圧倒する艦船を保持して反撃に転じた。
ギリシャのテッサロニキを制圧し、黒海を掌中に納めヴェネチアの海外拠点は次々に攻め落とされた。ヴェネチアは交易拠点の確保と制海権を守る為に果敢にトルコと戦ったがヴェネチアの拠点は次々に失われた。
東ローマ帝国はイスラムを信奉するトルコに圧迫され、窮した東方正教会はローマに救いを求め、一四三九年、久しく分裂していた東西の教会がフィレンツェの「花の聖母教会」に集い、東西教会合同宣言を読み上げた。
しかし、東西教会合同宣言も東ローマ帝国(ビザンチン帝国)を救う切り札にはならなかった。黒海の制海権を握られ周りをトルコに包囲された東ローマ帝国の領土はもはやコンスタンティノープルを残すのみとなった。
一四五三年、十四万のオスマントルコ軍団がヴェネチアの最重要拠点である、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを包囲した。
総攻撃が開始されコンスタンティノープルは防戦二ヶ月で陥落し東ローマ帝国は滅亡した。十字架は引き降ろされてイスラム寺院となり街の名称もイスタンブールと名付けられた。
しかし、したたかなヴェネチアは一四七九年トルコと講和を結び地中海貿易の絶好の拠点、キプロス島を手に入れた。キプロスは小アジアとエジプトを結ぶ寄港地の役割を果たし、ヴェネチアから多くの人々が移住した。
他方、ヴェネチアは後背地の本土にも眼を向け近隣の都市領主と条約を結びながら次々に侵攻していった。
一三三七年、ヴェローナの領主デッラ・スカーラ家は私領拡大を目指してパドヴァの領主ダ・カッラーラ家を攻めた。パドヴァは抗し切れず友好条約を結ぶヴェネチアに救いを求めた。
ヴェネチアは機会有る毎にヴェネット州を領有したい野心が有りパドヴァの申し出に応じ軍を差し向けてヴェローナに攻め入った。
ヴェローナはヴェネチアの参戦によって苦境に陥りパドヴァ攻撃を断念してヴェネチアに和睦を請いトレヴィーゾの地を割譲してヴェネチアと講和を結んだ。
ヴェローナのデッラ・スカーラ家とパドヴァのダ・カッラーラ家は再び争い、この争いに今度は北イタリアの覇権を目指す、ミラノ公国のジャン・ガレアッツォが介入しヴェローナに攻め入った。
ミラノはヴェローナを陥落させ、勢いに乗じてパドヴァを囲みダ・カッラーラ家を追放して領地を広げた。ジャン・ガレアッツォはトレヴィーゾにも攻め入りヴェネチアを威嚇してトレヴィーゾも領有した。
北イタリアの覇権を目指すジャン・ガレアッツォは宿敵のフィレンツェを攻めるべく、トスカーナを席捲しボローニャ、ペルージャ、シエナ、ピサとフィレンツェを中心にした環状の都市を次々に攻め落とした。
フィレンツェは包囲され、満を持してジャン・ガレアッツォはフィレンツェと戦端を開いた。フィレンツェは緒戦に破れ敗退を繰り返し存亡の危機に立たされた。
フィレンツェの命運も尽きたかに見えたがジャン・ガレアッツォが突然、疫病に罹り急死してフィレンツェの危機は脱した。
ジャン・ガレアッツォが没して三人の幼子がミラノ公国を分割統治するに及んで、将軍達が互いに争って私領となし、ジャン・ガレアッツォが築いたミラノ公国は四分五裂して崩壊した。
この機に乗じてヴェネチアはトレヴィーゾを奪回し、パドヴァを追い出されたダ・カッラーラ家のフランチェスコ・ノヴェッロもパドヴァを奪回し、私領拡大の好機と見てミラノが奪ったヴェローナを強奪した。
ヴェネチアはフランチェスコ・ノヴェッロがヴェローナを強奪したと知り、ヴェネット州を領有する好機と見て、ヴェローナに入城したフランチェスコ・ノヴェッロを攻めた。
フランチェスコ・ノヴェッロはパドヴァに退きヴェネチアに激しく抵抗したが抗し切れず、熾烈な戦闘の結果パドヴァも落ち、フランチェスコ・ノヴェッロは捕らえられて絞首刑に処せられた。
ラヴェンナの領主もヴェネチアに降り、ヴェネチアはフリウリ地方からヴェネット州に亘る地域を領有した。
一四二四年、ヴィスコンティ家の旧領を回復しミラノ公爵位を継承したフィリッポ・マリーアは父ジャン・ガレアッツォが成せなかった北イタリアの覇権を目指してトスカーナに侵攻しフィレンツェとの間で戦端が開かれた。
フィレンツェの傭兵部隊は緒戦で敗れ次々と敗退を繰り返しフィレンツェ共和国は崩壊の危機を迎えた。フィレンツェは急遽ジョバンニ・デ・メディチをヴェネチアに派遣し同盟を請うた。
ヴェネツィアもジャン・ガレアッツォの再来と見てヴィスコンティ家の膨張を恐れていた。フィレンツェが陥落すればトスカーナに巨大な国が出現し直ちにヴェネツィアも危機に陥る。ヴェネツィアに異存は無く両国は同盟を結んでミラノに対抗しヴェネツィアも参戦を承諾した。
ヴェネツィアは傭兵隊長のカルマニョーラに出陣を命じたが妻子をミラノに残しているカルマニョーラは出陣を躊躇った。
カルマニョーラはフィリッポ・マリーアに認められてミラノの傭兵隊長となり、数々の戦いで軍功を上げ、フィリッポ・マリーアの薦めで貴族の娘を妻に迎え入れた。
しかし、カルマニョーラは冷徹なフィリッポ・マリーアに馴染めず妻子を残して逃亡しヴェネツィアの傭兵隊長となった。
この様な事情から妻子を人質に取られているカルマニョーラは何としてもミラノとの戦に出陣したくなかった。
病と称して出陣を辞退したがヴェネツィアの首脳は承知せず、部下の解雇も辞さずと通告して来た。 所詮、金で雇われた傭兵の身では拒絶は難しくヴェネツィア首脳の執拗な強請に屈し意を決っして出陣した。
一四二七年秋、カルマニョーラ率いるヴェネツィア軍とミラノ軍がマクロディオの野で激突した。 ミラノの内情を知り尽くし戦略に長けたカルマニョーラはミラノ軍を翻弄し、ミラノは大敗を喫して敗走した。
この戦で一万を超えるミラノ兵が捕虜となりヴィスコンティ家の軍旗は奪われて踏みつけられ、多量の兵器が戦利品としてヴェネツィアの陣営に積み上げられた。
カルマニョーラは捕虜となった古巣のミラノ傭兵の受難を見るに忍び難く監視の眼が行き届かないとの理由で捕虜全員の釈放を命じた。
ヴェネツィアに凱旋帰国したカルマニョーラは総督から殊勲の言葉を授かり邸宅を贈られ高給が支給される厚遇を得たがミラノに居る妻子が心配の種であった。
一方、カルマニョーラに破れたと知ったフィリッポ・マリーアは彼をミラノに呼び戻すべく破格の条件を提示して仕官を促す密書を送り、妻子の近況を伝え不幸が待ちうけていると脅迫し、懐柔と恫喝をな綯い交ぜて帰国を迫った。カルマニョーラは苦悩を深め、心は揺れ動いた。
ヴェネツィアの十人委員会はカルマニョーラの様子がおかしい事に気付き内偵を進め、フィリッポ・マリーアから届けられた復帰を促す書状を見つけカルマニョーラに疑いの目を向けた。
マクロディオの野で捕虜にした一万人のミラノ兵を全員釈放したのも復帰を有利にする為ではなかったか。妻子を人質に置き部下を引き連れてヴェネツィアに降ったのも、出陣を遅らせたのもミラノからの指示を待っていたのではないか。マクロディオの野でミラノ軍が大敗を喫したのも何かの罠ではないか、と疑いは膨れ上がった。
十人委員会はフィリッポ・マリーアから届けられた復帰を促す書状を証拠にカルマニョーラを捕らえ凄惨な拷問の末に自白を引き出し、反逆の罪で広場に引き出し、直ちに処刑した。
後ろ手に縛られ断頭台に頭を押し付けられたカルマニョーラの首に斧が振り下ろされ血しぶきを浴びた死刑執行人の足元に首が転がった。
一時、フィレンツェに迫ったミラノ軍もヴェネチアの参戦によって壊滅的な打撃を受けて撤退し、フィレンツェの危機は去った。
敗退したミラノは矛を収め抗争から友好に政策を転換し、ヴェネチアにベルガモを割譲して友好条約を結んだ。ヴェネチアの領土はミラノとの境界、数十キロに迫った。
一四九四年、フィレンツェの呼び掛けでローマ教会、ヴェネチア共和国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国が同盟を結んだ。
この同盟に端を発し孤立したミラノ公国はフランスと同盟を結び、フランス軍をイタリアに呼び込だ。フランス王シャルル八世は五万の大軍を率いて旧領のナポリ奪回を目指してイタリアに侵攻した。
フィレンツェは大軍の威容に驚き戦わずして屈し、他のイタリア諸侯も城に籠ってフランス軍の通過を許し、大軍が過ぎ去るのを待った。シャルル八世はあたかも行軍するが如く半島を縦断して瞬く間にナポリを制圧した。
教皇アレクサンデル六世はシャルル八世の大軍を目の当たりにしてフランスがイタリア全土を制圧する事を恐れ、ヴェネチア、フィレンツェを始めイタリア全土の諸侯に呼び掛け反仏神聖同盟を結成した。この同盟に一転してミラノ公国も加わった。
ナポリに留まっていたシャルル八世は全イタリアを敵に廻し、反仏神聖同盟にミラノ公国も加わったと知り慨嘆して撤退を決意した。
シャルル八世率いる大軍は激戦を覚悟して再びイタリアを縦断して北上を開始した。しかし連合軍は攻撃を躊躇い、シャルル八世の通過を許した。シャルル八世は難無くフランスに帰国したが程なく失意の内に没した。
シャルル八世のイタリア侵攻によってイタリアの軍事的弱体をさらけ出しヨーロッパ列強を目覚めさせた。シャルル八世の跡を継いだルイ十二世は再びイタリアに侵攻した。
豹変したミラノは蹂躙されフランスの侵攻に驚いた、ナポリはスペインに救いを求めた。ミラノ公国がフランスを呼び込んだ事に端を発してフランス、スペインがイタリアに介入し、イタリアは二大強国の角逐の場となった。
したたかなヴェネチアは一転して反仏神聖同盟を破棄してフランスと密約を結び、フランスのイタリア侵攻に乗じてクレモーナを攻略し領土を拡張した。
しかし、戦乱に乗じてローマ教皇領であるロマーニャ地方も領有したヴェネチアに教皇ユリウス二世は返還を要求したがヴェネチアは応じなかった。教皇もヨーロッパ最強の海軍力と精強な陸軍を擁するヴェネチアに太刀打ち出来なかった。
権謀術数に長けた教皇は神聖ローマ帝国、フランス、スペイン、フィレンツェにヴェネチアが奪った教皇領の奪回を要請した。
列強もヴェネチアの領土蚕食を狙っており教皇の要請に応じて一五〇八年各国が合意してカンブレー同盟が結成された。
ヴェネチアは全ヨーロッパを敵に廻し一国の存亡に関わる戦争に直面した。一五〇九年、同盟軍の主力フランスとロンバルディア州アニャデッロの野で対決し激闘の末にヴェネチアは敗れた。
勢いに乗った同盟軍はヴェローナ、パドヴァを攻めて陥落させ、ロマーニャ地方も教皇軍に奪回された。
翌年には同盟軍がヴェネチアの潟にまで迫りヴェネチアは存亡の危機に立たされた。戦局は好転せずヴェネチアは苦渋の選択を迫られ講和に応じ、教皇ユリウス二世の要求を飲んで領土を手放した。
しかし、同盟軍も呉越同舟の集まりで有り一五一一年、教皇ユリウス二世とフランスが対立しスペインはフランスの力を削ぐ好機と見て教皇に加担し、スイス、英国を巻き込んだ反仏神聖同盟が結成された。
ヴェネチアは一転して教皇の側につき反仏神聖同盟に加わって怨敵フランスに軍を差し向けた。 同盟軍とフランスの戦いが開始され北イタリアが再び戦場となった。フランスはラヴェンナで勝利したが結局敗退しミラノ公国を失った。
親仏政策を採るフィレンツェは動揺し、混乱に乗じてスペイン軍に守られたメディチ家がフィレンツェに復帰し共和制は崩壊した。
一五二一年にはフランス王フランソア一世とスペイン王を兼ねる皇帝カール五世との間でイタリア戦役が勃発し北イタリアは再び戦場となった。
ヴェネチアは両国を天秤に掛けフランスが有利と見てフランスに加担し、フランスの後押しも有って失った領地を回復したが、一五二五年パヴィーアの戦いでフランスは惨敗しスペインがイタリアの覇権を握った。
一国の支配により教皇の影響力の低下を危惧した教皇クレメンス七世はフランスと密約を結びカール五世に対抗する勢力の結集を諮った。ヴェネチアもこのコニャック同盟に加わったが連合軍はカール五世の敵ではなかった。
一五二七年、教皇クレメンス七世の執拗な謀略に怒ったカール五世はスペイン軍二万の兵にローマ進撃を命じた。
スペイン軍はローマに雪崩れ込み、狂気の軍団と化して街を破壊し殺戮と略奪、暴行をほしいままにして市民を恐怖に陥れた。
驚愕したクレメンス七世は聖天使城に逃げ込んだが成す術も無くカール五世に無条件降伏を申し出た。
ヴェネチアは自国の安全と引き換えに、戦乱に紛れて奪回したロマーニャ地方を放棄して皇帝カール五世と講和を結んだ。以後、ヴェネチアは列強の争いに介入せず自国を守り独立を保った。
一方、トルコが強勢となりヴェネチアの海外拠点は次々にオスマントルコに奪われた。ヨーロッパ最強の海軍力を誇ったヴェネチアも度重なる戦争に金を注ぎ込み既に国庫は空になっていた。
一五七〇年、キプロス島がオスマントルコに攻められたが援軍を送る余力は尽きていた。キプロスは独力で果敢に抵抗したがレパントの海戦の結果を見る事無く一五七一年八月、陥落した。
巨大な戦力を誇るオスマントルコにヴェネチア一国が対抗出来るはずもなかった。海外の拠点を次々に奪われ航路の安全を脅かされたヴェネチアは時の教皇ピオ五世を動かし、キリスト教の危機を説き、イスラム打倒の十字軍派遣を要請した。
一五七一年、スペイン、ヴェネチア、教皇庁、から成る連合艦隊が結成された。連合艦隊の総司令官はスペイン王フェリペ二世の弟ドン・ホアン、ヴェネチアの総司令官はセバスティアーノ・ヴェニル、スペイン艦隊の司令官はジャンアンドレア・ドーリア(ジェノヴァ人)、教皇庁の艦隊司令官はマーカントニオ・コロンナであった。
メッシーナ(シチリア島)に集結した艦隊はガレー船二百隻以上、兵員、船乗り、漕ぎ手を合わせ八万人以上の兵力でオスマントルコに対抗した。アリ・パシャを司令官とするオスマントルコ艦隊もほぼ同数の戦艦と兵員を擁していた。
一五七一年十月七日、両艦隊はギリシャのレパント沖で遭遇しガレー船による史上最後の大規模な海戦が開始された。
連合軍は無敵を誇るオスマントルコ艦隊と対決し圧倒的な勝利を得た。オスマントルコは二百隻以上の艦船と二万人を超える兵を失い戦争は終結した。
ヴェネチアの危機が去った一五七三年、ヴェネチアはオスマントルコのスルタンと講和を結びキプロス島を正式に譲渡した。
この頃、既にヴェネチアの海上貿易は衰退していた。時代は大航海時代に入り一四九二年夏、ジェノヴァの人、コロンボはマルコ・ポーロの書き記した「東方見聞録」を読み触発されて、一大強国となったスペインのイザベル女王の援助を受け、三隻の帆船を率いて一路西へ漕ぎ出した。秋も深まる十月、コロンボはインドと信じた新大陸を発見した。
ポルトガルはスペインより早くアフリカ西海岸の航路を開拓しており、一四八八年、バルトロメウ・ディアスによってアフリカ最南端の喜望峰が発見され、アフリカが無限の大地で無いことが証明された。ディアスはこの岬を嵐の岬と名付けたがポルトガル王はインド航路の可能性を夢見て喜望峰と名付けた。
一四九七年七月、ポルトガル王からインド航路の発見を命じられたヴァスコ・ダ・ガマは四隻の帆船と百七十人の乗組員と共に船団を組んでリスボンを出航した。
一四九九年九月、ヴァスコ・ダ・ガマは大半の乗組員を壊血病で失う苦労の末、二年の歳月の後、三隻の船と六十人の乗組員と共にリスボンに帰着した。
こうして、ヴァスコ・ダ・ガマによってインドへの新航路が発見された。帰着した船の船倉に積みこまれていた香辛料は高値で取引されリスボンはイギリス、フランスにも近く香辛料取引の主役を演じてきたヴェネチアはポルトガルにその地位を奪われた。
ヴェネチアの相対的な力は低下し時代の流れは地中海貿易から脱して大西洋・アフリカを廻る大航海時代に入ったがヴェネチアが誇るガレー船は大洋を渡る航海には適していなかった。
ヴェネチアは内陸貿易に活路を見出し産業の転換を図っていった。ヴェネチアの資本家は毛織物産業に矛先を転じ、又、印刷業に進出してヨーロッパを代表する中心地の一つにもなった。
しかし、海上貿易が急速に萎え財政に余裕が無い所へ一五〇八年から始まったカンブレー同盟戦に莫大な軍事費を投入し、この戦争を境に国庫は財政難を来たし危機的状況に直面していた。
地中海の制海権はトルコに奪われ香辛料取引はリスボンに移り、教皇の尽力でレパントの海戦に勝利しトルコの外圧から辛うじて逃れたがヴェネチアの財政は逼迫していた。
ヴェネチアの力の萎えを感じ取ったオーストリアのハプスブルグ家は領土拡張を目論み両国の国境に位置するフリウリ地方に兵を動かした。ヴェネチアは必死で抵抗を試み何時果てるとも知れぬ泥沼の戦に突入した。
ヴェネチアの外交が効を奏したのか幸いスペインの仲裁で戦争は終結したがヴェネチアの国力は一層逼迫しもはや国土防衛が精一杯の状況となった。
その上、一五七五~七七年にかけてヨーロッパを震撼とさせたペストがヴェネチアにも襲い掛かり四万六千人以上の人々が命を落とした。
一六四五年にはオスマントルコにクレタ島を攻められヴェネチアは孤立無援でイスラムと二十年に亘る抗争を繰り返した。
クレタ島に移住していたヴェネチア人は果敢に戦い血みどろの戦いを繰り広げイスラムと戦う兵士としてキリスト教世界から賞賛を得たがヴェネチアの海軍力に過去の栄光は無く結局、一六六九年クレタ島を放棄する事を余儀なくされた。
凋落の一途を辿るヴェネチアは過去の栄光をかなぐり捨てて武装中立路線を採り、一七〇一年に始まったスペイン王位継承戦争にも、列強の圧力に屈せず中立を守った。しかし、列強の軍隊が自国領を我が物顔で通過する事を阻止出来なかった。
十年間に及ぶスペイン王位継承戦争の幕が下り、列強はユトレヒト条約とラシュタット条約を結びヨーロッパの地図は列強の思うが侭に塗り替えられた。
ヴェネチアは独立を保持したが両条約にはヴェネチアの中立を保証する文言は一行半句もなかった。
最早、列強の眼中にかつてのヴェネチアの栄光はなかった。
それでも豊かな穀倉地帯ヴェネトを有するヴェネチアはイタリアの一地方の共和国として列強から距離を置き自主独立の共和制を堅持した。
しかし、ヴェネチアに敵意を持つオスマントルコに武装中立は通用しなかった。一七一四年十二月、オスマントルコはヴェネチアに宣戦布告し、ヴェネチアの海外拠点に攻め寄せた。
ヴェネチアは善戦したが要塞は次々に陥落した。コルフ島(ギリシャの北西部、イオニア海に浮かぶ島)の防衛線でオスマントルコの攻撃を阻止したがヴェネチアの反撃には至らなかった。
一七一八年七月、ヴェネチアはギリシャのモレア半島の領有を放棄してオスマントルコと講和を結び境界線を確定して戦争は終結した。
そして、一七九七年運命の時を迎えた。かろうじて独立を保っていたヴェネチアに五月一日、ナポレオンはヴェネチアに宣戦布告した。時の総督、ルドヴィーコ・マニンは大評議会を解散し、共和国解体の法案に署名して辞任した。
迷路と運河に守られ堅牢を誇ったヴェネチアも建国以来始めて外国の軍靴に蹂躙され瞬く間に征服された。
六九七年に初代総督を選出し自主独立を標榜して千年の歴史を刻み、繁栄と栄光に彩られたヴェネチア共和国もナポレオンの支配下に置かれた。
共和国はあっけなく滅び、ナポレオンはヴェネチアから優れた美術品のあまた数多を持ち去った。それらの美術品は現在ルーブル美術館に所蔵されている。
その後のヴェネチアは外国の支配下に置かれ、フランス、オーストリア、フランス、オーストリア、と支配者が変わり凡そ七十年間の屈従の歴史となる。
一八四八年、フランスで起こった二月革命に触発されたヴェネチア市民はマニンの呼び掛けに応じて蜂起しオーストリア軍を一時的に撤退に追い込み、マニンはヴェネチア共和国の独立を宣言したが反撃に転じたオーストリア軍によって海上を封鎖され革命運動は潰え去った。
訪れたヴェネチアは海上に浮かぶ海抜零メートルの小さな島であった。島の中心をなすサン・マルコ広場は実に海抜八十センチで高潮になれば広場は水没し、広場はさしずめ入江と化す低地であった。
秋冬の正午頃から一~二時間の間が特に高潮が起こりやすく百四十センチの高潮が起これば、ほぼヴェネチアの全域が水に浸かる。
ヴェネチアは二十世紀に入ってから七十センチも地盤が沈下し今も地盤沈下が続いている。このままのスピードで地盤沈下が進めばヴェネチアは百~二百年後には水没する深刻な問題を抱えた街でもある。地盤沈下の原因は本土に広がる重工業地帯の地下水汲み上げが原因ではないかと取り沙汰されている。
一九六六年十一月四日、ヴェネチアは大雨に見舞われ、気圧が低下し南南東の強風が吹き荒れ、満潮の時刻と重なる最悪の状況となった。
満潮と共に高潮が押し寄せ平均水位は一・九メートルにも達し、地盤沈下に悩むヴェネチアは水に呑み込まれ二十四時間水に浸かった。
今、水没の危機に有るヴェネチアは現在の悩みとは逆に数世紀の間隔で川が運ぶ土砂が潟を埋め、陸上都市化する危機に直面した。 ヴェネチアは潟の上に浮ぶ海上都市であるが故に難攻不落を誇りナポレオンの侵攻まで一千年、一度も敵の軍靴に汚された事はなかった。
ヴェネチアにとって潟の防衛は建国以来の最優先事項であり島の中を縦横に巡る運河は最重要機密であった。潟を外海の荒波から守ら無ければ浸食によって水没し、河川から流入する土砂を除かなければ潟はいずれ陸地化する。
潟を完全に外海から遮断し河川の流れを変えると運河の水は滞留し腐敗し伝染病の温床となる。 日々の潮汐が適当な力で川の名残である大運河(カナル・グランデ)と無数の小運河に流入し自然の力で運河を清掃してくれる治水対策が必要であった。
一七四四年、政策を決定する十人委員会は潟の防衛の為、大工事に着手した。工事は満潮時に押し寄せる潮の流れを分散させる為に毛細血管の如き小運河を掘削し、工事の完成は一七八二年まで続いた。
今は皮肉にも地盤沈下に悩み掘り抜き井戸が廃止され沈下を止める土木工事に腐心している。運河も海水の汚染によって異臭が立ち込めていた。
水の都、ヴェネチアの幹線道路はサンタ・ルチア駅前から大きく逆S字型を描いて流れる約四キロの大運河(カナル・グランデ)である。大運河は街の中心を流れる大動脈として機能し小運河が生活道の如く網の目の様に巡っている。
運河には自家用車に代わって自家用のモータボートが車代わりに走り回り、水上バス(ヴァポレット)、水上タクシーやヴェネチア名物のゴンドラが行き交っていた。
島の交通手段は歩くか水上バス、水上タクシーに限られ島内に車の乗り入れは禁止(道が狭くて通れない)されている。観光バスも橋を渡ったローマ広場に島を出るまで留め置く事になる。
運河には四百を超える橋が架かり、船の運行に支障を来たさぬ様、石造りの太鼓橋であった。運河に護岸は無く、四~五階建ての石造りの建物がびっしりと立ち並びこの建物が護岸の役を果たしている。ビルの谷間を道路の如く運河が巡りビルには車の替わりにモータボートが係留されていた。
運河に面した建物の一階は冠水を見越して倉庫として利用し、ホテルは水が迫ればカーペットを巻き上げ椅子やソファーを片づけるのが日常茶飯との事。日本なら大騒ぎとなり役所は取り敢えず見舞金を出し、急いで護岸を積み上げる工事に取り掛かるであろう。
しかし、水に浮ぶ街、ヴェネチアにこれといった産業は無く十八世紀以降、観光が最大の産業として繁栄を享受してきた、この街に護岸を築き景観を壊す発想は恐らく起こらないであろう。
人口六万人強のこの街に年間数百万人の観光客が訪れ、我々が奈良、京都に郷愁を覚える如く古き良き時代のヴェネチアの栄華を垣間見てその繁栄の跡を偲んでいる。
ヴェネチアに生きる人々は商人として海外に雄飛した昔の逞しさを失わず観光客を相手に商魂逞しく生き長らえて来た。
観光客を繋ぎとめる為には冠水もヴェネチアの風物として受け止め、冠水も又、ヴェネチアの観光資源の一つかも知れない。
冠水が予想される地域には幅一メートル長さ数メートル高さ一メートル程の木製の歩道橋が道の端に数多く積み上げられていた。
ヴェネチアは冠水の労苦や迷路の路地も観光資源として活用し、建物にも厳しい規制を強いて中世の遺産をかたく頑なに守り抜き、街全体を中世のテーマパークに仕上げたのが水の都ヴェネチアだと感じた。
ホテルの前から水上タクシーに乗って大運河をサン・マルコ広場に向かった。サン・マルコ広場はヴェネチアが共和国として十三世紀から十六世紀にかけて繁栄を極めた象徴的な場所でもある。
東方見聞録を著したマルコ・ポーロもサン・マルコ広場の前の港から船出した。港には豪華な客船が停泊し、ヴェネチアの名物ゴンドラが舳先を連ねて客を待っていた。
サン・マルコ広場には共和国の栄光の歴史を象徴する建物が建ち並んでいた。広場を取り囲む様にサン・マルコ教会、ドゥカーレ宮殿、マルチアーナ図書館、コッレール美術館が建ち並び、高さ九十六メートルの鐘楼が聳え立っていた。
大伽藍を持つサン・マルコ教会は聖マルコの遺体を葬っている。伝説によれば八二八年二人のヴェネチア人がアレクサンドリアから豚肉の塊の下に隠して聖マルコ(十二使徒の一人、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの福音書を書いた四聖人の一人、アレクサンドリアの最初の司教となりこの地で没した)の遺体を持ち帰った。
時の司教、総督は大歓迎で迎え入れ、直ちに聖マルコの遺体を葬る礼拝堂の建造を命じた。以後、聖マルコはヴェネチアの守護神となった。
八〇二年に建てられたが火災で焼失し一〇六三年、丸屋根が美しいビザンチン様式の教会に再建された。サン・マルコ教会はイスラムの教会を思わせる様な五つの丸屋根を持ち、内部は大石柱をアーチで結び丸屋根を支えている。
一〇九六年に建物全体は完成したが、十九世紀の始めまで外壁の装飾、壁のモザイク等々サン・マルコ教会の内外装を飾る工事が続けられた。
ヴェネチアの富みの象徴であろうか教会の内部は金箔をふんだんに使った煌びやかなモザイクで彩られていた。 光に照らされ金色に輝く堂内を見て往時のヴェネチアの富みが如何に凄かったかを象徴している様に思えた。
サン・マルコ教会に隣接してドゥカーレ宮殿が有る。宮殿はヴェネチア共和国の歴代総督が居住しヴェネチアの政治、司法がこの宮殿で執り行われた。
建物は九世紀に建てられたが九七六年総督を糾弾する暴動が起こりドゥカーレ宮殿に火が付けられ隣接するサン・マルコ教会も焼失した。その後、再建されて何度か改築を経て十五世紀に現在の建物となった。
ナポレオンに征服されるまでこのドゥカーレ宮殿がヴェネチアの政治の中枢であった。宮殿には評議室が有り、裁判所が有り、武器庫が有った。
そして十人委員会が告発を奨励した目安箱が裁判所の入り口に備え付けられていた。宮殿に隣接した牢獄との間には有名な「嘆きの橋」が架かっている。
サン・マルコ広場から添乗員の案内で石畳の路地を歩き、吹きガラスの工房を見学した。ヴェネチアの代表的な工芸品の一つヴェネチアン・グラスは当初、ヴェネチア商人の交易品としてイスラム世界から持ち帰りヨーロッパに紹介した。
イスラムのガラス工芸品はヨーロッパ貴族を魅了し高値で取引された。人気の高かさに着目したヴェネチア人は自力生産に乗り出し、従来から有ったローマングラスとイスラムグラスを融合させ金、銅、コバルト等々を添加して色鮮やかなクリスタルグラスを産み出した。こうして産み出されたヴェネチアン・グラスはヨーロッパの王侯、貴族に珍重され人気を博した。
ガラス工芸に着目したヴェネチア政府は独自に開発したガラス工芸技術の流出を防ぐ目的からガラス職人をムラ―ノ島に隔離してガラス工芸を発展させ伝統と技を守った。
真紅を基調にしたヴェネチアの吹きガラスは少量の金を添加し炎と反応させ、あの輝きの有る赤を生み出している。金で宝飾された真紅のワイングラスを手に取って指で弾くと濁りの無い金属音が響いた。
工房を後にして昼食はヴェネチア名物の蜘蛛ガニのスパゲッティーを賞味したが感動を覚える味には程遠かった。
昼食後、観光客目当ての商店が立ち並ぶ路地を散策した。路地(カッレ)にはグッチ、カルティエ、エルメス、フェンディ、等々世界の有名ブランド店が軒を連ねていた。これらの店に入るとよほど日本からの観光客が多いのかどの店も片言の日本語を話す店員がいた。
路地にはカルネヴァーレ(カーニバル)に欠かせない仮面を売る店も数多く見かけた。店内は壁も棚も所狭しと大小、色とりどりの仮面が並べられ一種異様な雰囲気を醸し出していた。
毎年二月一三日から二四日まで、ヴェネチアの街は中世から続く謝肉祭のカルネヴァーレで沸き返るとの事。人々は趣向を凝らした中世のコスチュームに身を包んで仮面を付け、街中を練り歩き、サン・マルコ広場では曲芸やコンサートが連日催されるとの事。
ヴェネチアに享楽的なカルネヴァーレが盛んになったのと貿易の衰退が皮肉にも重なり合っている。
十八世紀、大航海時代が到来し主要な交易品の香辛料がリスボンに荷揚げされ、ヴェネチアが多大な犠牲を払って築き上げた地中海貿易は衰退の一途を辿り、替わってフランス、スペインが強勢となった。
栄華を誇ったヴェネチアは貿易の不振と共に財政が逼迫していたが領土拡張に奔走して戦乱を招き国庫は益々疲弊した。
一五〇八年から始まった全欧を敵に廻すカンブレー同盟戦に莫大な軍事費を投入して敗れ、最早、自国の安全を維持するのがやっとの状況に立ち至った。
ヴェネチアは傭兵による戦費の負担を最小限に留め武装中立を堅持して自国の治安維持に専心した。 国の安全を図り同時に共和制を守る為に、絶大な権限を持つ十人委員会は革命に繋がる政治思想を徹底的に弾圧し市民の告発を奨励した。
一方、民衆の抑圧をそらす為に風俗の取り締まりを緩めた。その結果、ヴェネチアはヨーロッパ有数の安全な街となり、歓楽の都となった。
世界最初の観光都市ヴェネチアに享楽を求めてヨーロッパ各地から人々が訪れた。街には賭博場が有り、訪れた観光客を目当てにコルティジャーナ(ヴェネチアの高級娼婦)がカフェ・フローリアンでエスプレッソを飲みながら客を物色していたかもしれない。
オペラ発祥の国イタリアで最も早くオペラが流行したのはヴェネチアであった。最盛期にはこの狭い島に十五もの劇場が建ち並び互いに演目を競い合った。
ヴェネチア名物のカルネヴァーレは何時果てるとも無く延々と催され、貴族も民衆も仮面を付け身分も性差も忘れて熱狂的なお祭り騒ぎを繰り広げた。
訪れた貴族も文化人も等しく仮面を付け思う存分、遊興に耽った。仮面を付けマントを羽織れば誰も何処の誰か解からず又、詮索しない事がヴェネチアのエチケットであった。
仮面とマントがあらゆる差別を無くし貴婦人も修道女も生娘も人妻も娼婦も見分けがつかず乱交に及び賭博に熱中した。
歓楽の街、ヴェネチアのカルネヴァーレに仮面は欠かせない必需品であった。この様に十八世紀のヴェネチアはヨーロッパ有数の歓楽の都であった。
カッレでレースを売る店も数多く見かけた。レースもヴェネチアを代表する工芸品の一つである。
男達は一攫千金の夢と冒険を求めて生死を賭けた遠洋航路に船出し、残された家族には悲しみと生活苦が待ち構えていた。
修道女が働き手を失った女達に生活の糧としてレース編みの技術を教え、発展したのがヴェネチアのレース製品と云われている。
ウインドウ・ショッピングを楽しみ、創業一七二〇年の老舗、カフェ・フローリアンでお茶でも飲もうとサン・マルコ広場に戻って見ると何時の間にか広場は冠水していた。
引き返して商店が軒を連ねる路地を再び散策し、ツアーの仲間と別れて大運河の中程に有るリアルト橋を目指した。(小運河には数百の橋が架かっているが大運河に架かる橋はリアルト橋、スカルツイ橋、アカデミア橋の三橋しか架かっていない)
この橋も中世の頃は運河に架かる砦の役を果たしていたのか、運河の幅が最も狭くなった所に架かっている。橋上はアーチを連ねた回廊になっており、橋の長さは四十八メートル有る。それまで木造であった橋を十六世紀末に白大理石の石橋に架け替えた。
橋は運河を跨ぐ大きなアーチと回廊の小さなアーチ、そして橋の中央に有る城門の如きアーチを組み合わせ、絶妙なバランスを生み出し、美しい橋の造形美を作り出していた。橋上の回廊には貴金属店、革製品店が軒を連ねていた。
橋上からの眺めは大運河沿いに中世も斯くやと思わせる建物が立ち並び、運河にはヴェネチア風物詩の黒いゴンドラが行き交っていた。
太陽に照らされた大運河は巨大な鏡面となって両岸の色鮮やかな建物を映し出し、橋上からの眺めはこれぞヴェネチアと云える素晴らしい眺めであった。
この景色とヴェネチアの雰囲気を楽しむべく運河沿いのカフェに入ってカプチーノを注文し、行き交う人々を眺めて暫しの間くつろいだ。
代金の支払にレジに行ったがウエイターに払えと言われ運河沿いのテントで立ち働くウエイターの帰りを待ち代金を支払った。
イタリアの商店では日本の様にレジをアルバイトに任せる事は決してせず経営者がレジを務めている。 どうやらこの店のオーナーはウエイターの様であった。
カフェを出て、時計を見ると夕刻に予定されているゴンドラ乗船までかなりの時間が有り一旦ホテルに戻る事にした。
さて、どうやってホテルに帰るか、添乗員からはサン・マルコ広場の船着場から水上バス(ヴァポレット)に乗るのが一番無難であると教えられていたが、地図を見るとリアルト橋からホテルまでさほど遠く無い距離であった。
妻もヴェネチアの街を散策しながらホテルに帰る事に賛成し、地図を広げて方角と道順を確認して歩いて帰る事にした。
再びリアルト橋を渡り、地元の人々で賑わうテント張りの露天を覗き、引き返してリアルト橋を左折して運河沿いの道を歩いた。
運河沿いの道路にはテントが張られ観光客で賑わっていた。そこはレストランが軒を連ねる通りであった。
各店は運河沿いにテントを張り店内からテーブルとイスを持ち出し夜景が楽しめる夕食の席を準備していた。通りかかると陽気なイタリア人に声を掛けられ、夕食に是非にとパンフレットを手渡された。
レストラン街を過ぎ右折して名だたるヴェネチアの迷路、カッレ(路地)に足を踏み入れた。添乗員に教えられた標識と地図を頼りに、大運河を隔ててホテルの前に有るサンタ・ルチア駅、フェロッヴィア(FERROVIA、駅)の矢印を辿って歩を進めた。
路地を右に左に曲がり小運河に架かる太鼓橋を幾つか渡った頃から人通りが絶えた。不安を覚えつつ標識を頼りに歩き続けた。
サン・ポーロ広場の手前を左折して、フラーリ広場に行き当たり、右か左か迷った場所の横に有った教会が後で調べて見るとフランチェスコ派の教会として十四~十五世紀に建てられたサンタ・マリア・デイ・フラーリ教会であった事を知った。
斯様に、名だたるヴェネチアの迷路に入り込むと建ち並ぶ建物に視界を遮られ、地図上の何処に居るのか見当が付かなくなる。
最初の内は角を曲がる度に地図を確かめていたが右に左に曲がる内に方向を見失い、ただただ標識を頼りに目的地を目指した。
その標識もヴェネチアの迷路に相応しい標識であった。特に少し折れ曲がった標識に出くわすとどの道を取れば良いのか迷わされた。
周りの由緒有る建物も目に入らず微妙に折れ曲がった標識に注意を払い、複雑な迷路のパズルを解くが如く、サンタ・ルチア駅、フェロッヴィア目指して歩いたのが実感である。時には運河に阻まれ、不安を覚えつつ標識を信じて逆方向に歩いた事もあった。
標識の示す方向が細い路地であった時は正直、標識の矢印を疑いたくなった事もあった。その路地には仮面を売る店が有り、日本の陶器を専門に扱う店も有り、雰囲気の良さそうなレストランが有り、繁華街とはまた違った趣があった。標識はわざわざこの路地に観光客を導く為に指し示していたのかも知れないと思った。
この街は無作為に発展して迷路になったのか、戦略的に縄張りして街全体を人が暮らせる要塞にしたのか、いずれにしても迷路の街を歩いて中世の都市国家ヴェネチアは街全体が巧妙に造られた要塞だと感じた。
運河が濠であり、石畳の路地(カッレ)は複雑に入り組み方角を見失った兵を幻惑し、道の両側に立ち並ぶ四~五階建ての建物はまるで城壁の様であった。
道は急に狭くなったり広くなったり、十字に交叉した道は無く、広場に行き当たると道は左右に分かれどちらの道を進むべきかしばしば判断に迷った。
迷路のパズルを解き、ささやかな冒険を終え、路地の角を曲がると教会の先に大運河が見えほっとした気分になった。長い旅路を終えてやっとホテルに辿り着いた。
ツアーの仲間達もそれぞれ道に迷い日本では味わえない豊かな経験を積み重ねてホテルに帰り着いた。
夕刻、セレナーデ付きのゴンドラに乗る為、再び添乗員の先導でホテルからサン・マルコ広場に向かった。添乗員の辿る道はホテルに帰り着いた道とはスタートから異なっていた。
サン・マルコ広場は既に水が引き歩道橋は片付けられ朝と変わらず大勢の観光客で賑わっていた。
船着場には船首と船尾が反りかえった黒いゴンドラが舳先を連ねて客を待っていた。
ゴンドラが黒に統一されたのは十六世紀の事である。貴族や富豪はゴンドラの華麗を競い合い大小様々なゴンドラが運河を行き交い狭い運河の交通を妨げ、船着場の効率も悪かった。
政府は英断を下して法令を定め、船の色は黒と定め形も大きさも規制した。以来、現在まで連綿とこの規制が守られている。
サン・マルコ広場の船着場からゴンドラに乗り夕暮れのヴェネチアの運河を巡った。大運河は夕日に照らされて水面がキラキラと黄金に輝き、対岸のサルーテ岬には壮麗な丸屋根が美しいサンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会が薄暮の海に浮んでいた。
大運河から街中を縦横に縫う小運河に入ると両側は城壁の様な石造りの街並みが続いていた。ゴンドラの船頭は素晴らしく声量の有るテノールでカンツオーネを歌い上げ、その声は石造りの建物に響き渡り、太鼓橋から夕暮れの景色を楽しむ観光客もゴンドラが通りすぎるまで聞き入っていた。
運河は曲がりくねり広くなったり狭くなったり幾つもの太鼓橋をくぐり、網の目の様に縦横に張り巡らされた小運河も又、迷路であった。
ゴンドラに揺られ水の都ヴェネチアを巡る優雅な船旅を楽しみ、夕食はツアーの仲間とガイドブック片手にカッレ(路地)を巡り中華料理店を捜した。日本人観光客がよほど多いのかテーブルに着くと日本語のメニューが差し出された。
夕食を終え再びツアーの仲間を案内して暗い夜道をホテルまで歩いて帰る事になった。商店の煌々とした灯りに照らされた道を通り抜け、太鼓橋を渡ると商店が切れ暗闇の迷路に足を踏み入れた。
数少ない街灯の薄明かりに照らされた石畳の街路は昼間見た以上に中世の趣きがあった。狭い道の両側に建ち並ぶ石造りの建物は無人なのか明かりも灯っていなかった。石畳の街路には我々以外に人影もなく辺りは静まり返っていた。
街灯の無い広場を抜け、数少ない街灯に照らされた標識を確かめ昼間辿った記憶を頼りに先を急いだ。暗闇の中にタバッキ(TABACCHI)の灯りを見つけ、若者がコンビニの明かりに吸い寄せられる如く、我々もタバッキに入り水を買い求めた。
路地を右に折れたり左に曲がったり標識を頼りに談笑しながら夜道を歩いた。広場を抜け運河に架かる太鼓橋を渡って住宅地に入っても人っ子一人歩いておらず道の両側に立ち並ぶ建物が城壁の様に聳えて見えた。
最後の角を曲がると視界が開けドームを持つ教会の先に大運河が見えやっとホテルに辿り着いた安堵感を覚えた。
船と徒歩だけが交通手段と云う街は世界でも例がないのでは無かろうか。道路から車が無くなれば斯くも静かで排気ガスの臭いも無く、心なし空気がきれいな様に感じた。
街中に木々の緑が無いのが残念に思うがヴェネチアは中世の趣を温存した水に浮かぶ素晴らしい街であった。
ヴェネチア共和国として十三世紀から十六世紀にかけて繁栄を極め、今に残る名建築は当時の貴族や貿易商人が富と権力を競い合う様にして建てた。
大運河沿いに建ち並ぶその様なそんな栄華の歴史を振り返りながらカッレをさ迷い、大運河沿いの素晴らしい景観を眺め、中世に迷い込んだような小運河を巡るゴンドラの舟遊び、等々、楽しい思いでが尽きない心に残る街であった。