イタリア紀行

花の都フィレンツェ

花の都フィレンツェ、ポンテ・ヴェッキオの橋、イタリア  翌朝、フィレンツェはイタリア北部に豪雨をもたらした雨雲の影響かあいにく小雨がぱらついていた。

 小雨降る中、花の都と呼ばれルネッサンス発祥の地、フィレンツェの市内観光に出発した。ホテルを出発したバスは高台に有るミケランジェロ広場に向かった。 

 広場は小高い丘の上に有り、アルノ川の両岸に広がるフィレンツェの街を一望出来る場所であった。

 広場の中央にはミケランジェロが巨大な大理石の塊から二年の歳月をかけて彫り出した四メートルを超すダヴィデ像の複製が据えられていた。(本物はアカデミア美術館に有る)

 高台の広場から小雨に曇ったフィレンツェの全景を眺めると下にアルノ川がゆったりと流れ、ポンテ・ヴェッキオの橋が見え、ドゥオモのレンガ色のクーポラが美しい曲線を見せていた。 

 市内に入るとフィレンツェの街は中世の面影を色濃く残し、城郭都市の名残を留める城壁が道路拡張の影響を受け到る処で寸断されていた。

 街のあちこちでメディチ家の紋章(メディチ家の紋章、三人の天使が持つ五つの玉は丸薬をあらわしている)を掲げた古い建物を眼にした。

 一七三四年、メディチ家最後のトスカーナ大公ジャンガストーネが没するまで約三百年間、メディチ家がフィレンツェを支配した。

 フィレンツェの歴史は古く、イタリアの先住民エトルリア人が紀元前五世紀頃、フィレンツェの近郊にあるフィエーゾレに街を拓いたのが始まりである。

 今、フィエーゾレの街は富豪が別荘を構える高級住宅地との事。そして、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー、BC一〇〇~BC四四)によってエトルリア人は滅ぼされ、フィエーゾレはローマの植民地となった。

 街の名もラテン語で「花の女神フローラの町」を意味するフロレンティアと名付けられた。フィレンツェが『花の都』と呼ばれる理由はここにある。

 フィレンツェは十三世紀半ばまで金融業と毛織物業を中心とした北イタリアの小さな自治都市に過ぎなかった。

 フィレンツェが躍進する切っ掛けは十三世紀半ばに起こった教皇とフリードリヒ二世皇帝との争いによりイタリアは教皇派と皇帝派に分かれて繰り広げられた戦乱であった。 

 フィレンツェは教皇派につき、教皇がフランスに派兵を要請した時、フィレンツェはフランス王弟シャルル・ダンジューに遠征資金を融資した。

 以後、フィレンツェの銀行家はフランスとの結びつきを強め、シャルル・ダンジューがナポリ王国を築くとナポリとも結びつきを強めた。

 こうして、フィレンツェは急速に経済的発展を遂げ、近隣を攻め取り、十四世紀初頭にはトスカーナの覇者にのし上がった。

 国の発展と共にフィレンツェの経済も急拡大し金融業、毛織物業が産業を隆盛に導く機関車となり、商才に長けたフィレンツェ商人は十四世紀に現在の小切手、信用手形を編み出し、ヨーロッパ経済を動かすほどの力を持つようになった。

 中でもバルディ家とベルッツィ家は金融業を営み、バルディ、ベルッツィの両銀行はヨーロッパ各地に支店を持ち王侯、貴族に融資して巨利を得ていた。特に、両銀行は英国王室との関係を強め、御用商人の如く歳入歳出を一手に引き受けていた。

 一三三九年、英仏百年戦争が勃発し英国王室と関係の深い両銀行は戦費を引き受けざるを得なかった。

 戦争は莫大な出費を伴い、両銀行は湯水の如く資金を注ぎ込んだ。両銀行が英国の戦費を賄っていると知ったフランス王は対抗手段としてフランス全域に有る両銀行の支店を閉鎖させ資産を没収した。

 窮した両銀行は貸し付け先の英国に返済を求めたが、英国は莫大な債務を支払う能力など無く融資は貸し倒れになった。

 苦境に立たされた両銀行は倒産し、フィレンツェの経済は大混乱を来した。フィレンツェの政治も混乱を極め、一時民主自治の制度を放棄する事態を招いた。

 しかし、市民が決起して民主自治の制度を取り戻したほど政治も混乱を極めた。そして、フィレンツェに追い討ちを掛けるようにペストが猛威を振るった。

 一三四七年に地中海諸島に広がったペストは一年後の一三四八年にはヨーロッパ全域に広がり史上かってないペストの惨禍が全欧を覆い尽くした。

 メディチ家はこの頃、フィレンツェで医薬業を営み、ペストの治療薬として丸薬を売り出した。民衆はペストの病魔から逃れる為、争って買い求めメディチ家は莫大な財を築いた。(メディチ家は元、医薬業であったと推測されるのは家の紋章による。紋章は三人の天使と六つの玉が描かれており玉は丸薬を表していると考えられる。)

 一三九三年、ヨーロッパ有数のメディチ財閥を築いたジョバンニ・デ・メディチが銀行を設立して金融業に進出したのはジョバンニが三十八歳の時であった。

 銀行の経営は順調に拡大し、九年後には毛織物業にも進出し多角経営に乗り出した。財界での信用も高まり選ばれて政界に足を踏み入れた。

 この頃のフィレンツェは共和制の国であったが女性と三十歳以下の若者に参政権は無く、商工業者が組織するアルテと呼ばれる組合に加盟しないと、たとえ貴族と云えども参政権はなかった。従ってフィレンツェの政治を取り仕切っていたのは商工業者の代表であった。

 フィレンツェの総人口数十万の内、参政権を有する者は僅かに三千人程であった。一握りの富裕層が政治を支配し人脈で選ばれた者が政治に参画していた。

 ジョバンニも財界での信用をバックに人脈を築き政界に進出して重きを為すようになった。ジョバンニが銀行経営を始めた二年後にミラノ公国ではジャン・ガレアッツォがミラノ公を継承し、専制君主の常として近隣を攻め、トスカーナを席捲した。フィレンツェはミラノ軍に包囲され陥落の瀬戸際に立たされた。

 しかし、一四〇二年ジャン・ガレアッツォは突然、病に罹り急死した。ミラノ軍はフィレンツェの包囲を解いてトスカーナから撤退し、フィレンツェは再びトスカーナ地方の覇権を握った。

 ジョバンニのメディチ銀行は目覚しい発展を続け、ヨーロッパ全土の王侯、貴族に金を貸し付け、ヴェネチア、ロンドン、ローマに支店を開設していた。

 特にローマ支店は教皇に取り入り教皇庁の金融を独占して巨万の富をもたらした。ジョバンニはメディチ家の菩提寺サン・ロレンツォ聖堂の設計をブルネレスキに依頼するほどの冨を蓄積していた。

 国政は富める者が握りジョバンニも政界で隠然たる力を持ちフィレンツェの影の支配者となった。ブルネレスキがサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(花の聖母教会)の大天蓋を設計、施工したのもこの頃であった。

 一四二四年、ガレアッツォの跡を継いだミラノ公国のフィリッポ・マリーアが再びトスカーナに攻め込み、フィレンツェの傭兵部隊は緒戦で破れた。フィレンツェは苦境に陥り防戦に努めたが戦局を覆す戦力は無かった。

 この時、フィレンツェの実権を握っていたのは名門出身のアルビッツィであった。危急存亡の時を迎えたアルビッツィは同じ共和制を採るヴェネチアと同盟を結び、援軍を要請せざるを得ないと決断し使者にジョバンニが選ばれた。ジョバンニは全権を委ねられて急遽ヴェネチアに赴いた。

 ヴェネチアも専制国家ミラノの武力に脅威を感じており、フィレンツェが陥落すればミラノの矛先はヴェネチアに向かう事を承知していた。会談は双方の思惑が一致し、ミラノの脅威に対抗する同盟を結びヴェネチアが参戦した。

 一四二七年秋、参戦したヴェネチアはマクロディオの野でミラノ軍の主力部隊と激突し、ミラノに壊滅的な打撃を与えた。ミラノは反撃を諦らめヴェネチアと講和を結んだ。

 ミラノの脅威が去ると、アルビッツィはこの機を逃さず領土の拡大を目指し、傭兵を雇い入れて隣邦のルッカに攻め入った。

 ジョバンニはヴェネチアの援軍を得てやっと危機を脱したフィレンツェが、時を置かず兵を雇い入れてルッカに侵略戦争を仕掛けた事に批判的であった。

 市民もミラノとの戦争が終結し平和を期待したが、束の間の平和も訪れずルッカ侵略戦争を起こしたアルビッツィに不満を募らせていた。

 市民はルッカ戦争に批判的なジョバンニに早期終結を期待したが、ジョバンニは程なく病に倒れ、一四二九年、六十九歳で没した。

 ジョバンニ亡き後もメディチ財閥は揺るがず嫡子のコジモ・デ・メディチが跡を継いだ。コジモも父の遺志を受け継ぎこの戦争に始終批判的であった。

 市民も戦争終結を望んでいるとアルビッツィに建言したがアルビッツィは一笑に付し、逆にコジモが市民を扇動し厭戦を働き掛けているのではないかと疑いの言葉を浴びせた。

 それでもなをコジモは臆する事無く侵略戦争を批判し、機会ある毎に早期終結を主張し続けた。戦局はアルビッツィの思惑に反して一進一退を繰り返し、決定的な勝利も掴めず戦費だけが脹らんでいった。

 長引く戦争にさしもの経済大国フィレンツェも戦費を賄い切れず、財政が窮迫し不況が押し寄せた。 市民は長引く戦争が不況を招いたと戦争批判を強め、戦争終結を望む声が一気に高まった。

 アルビッツィは世論の高まりに抗し切れず重い腰を上げてやっと講和に踏み切った。ルッカ共和国と交わした講和の条件は全て戦前の状態に戻す事であった。フィレンツェは莫大な戦費を費やして、何も得る事無く戦争を終結した。

 アルビッツィには当然の事として戦争責任の追及が待っていた。アルビッツィが矢面に立たされ、市民の批判を浴びて権力の座から滑り落ちる事は明らかであった。

 そして、戦争に始終批判的であったコジモが台頭し権力を握るであろうと誰もが思った。しかし、アルビッツィは権力に固執し、戦争責任をメディチ家に押し付けるべく手段を選ばず謀略を用いてコジモをおとしい陥れた。

 政府から重要な会議を開催するとの呼び出しに応じて、委員会に出席したコジモはその場で捕らえられた。コジモの罪科は戦争を批判し敵に内通して国家の転覆を謀った。即ち国家反逆罪に問われ獄に繋がれた。

 裁判が開かれアルビッツィはコジモに死刑の極刑を科そうと、声を荒げてコジモの戦争批判をなじった。

 明らかな冤罪であったがフィレンツェ政府はメディチ一族に有罪の判決を言い渡した。但し、確たる証拠も無く政府は死刑の求刑を退けコジモをヴェネチア追放に処した。 

 一四三三年十月、コジモが追放されたヴェネチアはアドリア海の女王と呼ばれローマを始め各地に出先機関を持ち、フィレンツェを凌ぐヨーロッパ最大の国際都市であった。諸外国の商人がこの都市に集まり、様々な取引と情報の交換が行われていた。

 ヴェネチアのサン・マルコ広場は世界で最も美しい広場と称えられ、大運河沿いには商人、貴族の館が立ち並んでいた。サン・マルコ大聖堂の隣には壮麗なドゥカーレ宮殿が一二〇年の工期を終え完成間近であった。

 コジモが追放処分となったヴェネチアはメディチ家にとって因縁浅からぬ地であった。コジモの父、ジョバンニが同盟を結ぶべく全権大使として訪れ、メディチ銀行もヴェネチアに支店が有った。

 ヴェネチアにはジョバンニが築いた人脈も有り、コジモにとって知らぬ土地ではなかった。ヴェネチアに到着したコジモは旅装も解かずドゥカーレ宮殿に赴いた。提督を始めヴェネチアの要人は冤罪を被り亡命して来たコジモを賓客として迎え入れた。

 コジモはフィレンツェに復帰する日はそう遠くないと確信し、精力的にヴェネチア共和国の機構を研究した。

 コジモが最も関心を持ったのは独裁政権の成立を排除し、国家転覆を未然に防ぐために設けられたヴェネチアの十人委員会であった。

 コジモはこの委員会が持つ絶大な警察権と裁判権に多大の関心を寄せた。コジモは十人委員会を参考にフィレンツェに復帰して権力を握った時の方策を思い巡らしていた。 

 メディチ家がフィレンツェから追放処分を受けたが、メディチ銀行は無事であり、コジモはヴェネチア支店を通じてフィレンツェの政情を逐一報告させていた。

 コジモが得た情報では、コジモが去った後も戦後処理の混乱が続き経済は好転せず、市民の間に不満が燻っていると云うものであった。

 コジモの予想通り市民は長引く不況に耐え切れず不満を爆発させて政府を攻撃し、アルビッツィは失脚するであろうと思った。コジモはフィレンツェに復帰する時節の近い事を確信し、銀行を通じてフィレンツェに次々と指示を出した。

 一方、フィレンツェではアルビッツィの経済政策に不満を募らせた市民は公然と政府を批判しアルビッツィの退陣を求める世論が盛り上がりつつあった。

 息を吹き返したメディチ支持派は市民の不満を煽動し、アルビッツィを糾弾する運動を展開した。 市民も経済を立て直すにはコジモを置いて他に人は居ないと考えるようになり、コジモの帰国を望む声が多くなった。

 一四三四年八月、多分コジモの指示で有ろう、メディチ支持派が政変を起こし、アルビッツィは失脚して亡命の旅に出た。

 思惑通り市民に望まれて帰国したコジモは早速、政治改革に着手した。コジモはヴェネチアの十人委員会を逆用して政権基盤を固める為、選挙管理委員会と公安委員会を強化し、両委員の任期を長くして委員は全てメディチ家の意に適った者を選び反対派を封じ込めた。

 たとえ選挙で選ばれ閣僚に就いても閣僚の任期は二ヶ月であり、コジモの意に適わなければ罷免し、危険人物は公安委員会が監視を怠らず警察権と裁判権を行使した。 

 こうしてコジモはフィレンツェの実権を握り、共和・自治の政治体制を形骸化した。そして市民の支持を得る手段として、一握りの富裕層が支配するフィレンツェの権力構造に着目し、彼らの力を削ぐ手段として抜本的な税制の改革を断行した。

 公布された税制は富裕層に多額の納税を課し、低所得者には大幅な減税を実施する累進課税であった。メディチ家も莫大な増税となったがフィレンツェの名門富豪はメディチ家を上回る多額の納税を課せられた。

 メディチ家を快しと思わぬ名家はフィレンツェを去り、留まった富豪は税の裁量権を持つメディチ家に靡き、税はメディチ家の意向に左右された。

 奇策を用いたコジモは市民の喝采を浴び、フィレンツェの絶対的な権力を握ったがアルビッツィとは異なり政権の座に就いたのは僅か六ヶ月であった。

 しかし、コジモ・デ・メディチは政界を引退した訳ではなかった。七十五歳で没するまで両委員会を牛耳りフィレンツェ共和国の影の実力者として国王と変わる事無く君臨し、その地位は三十年間揺るがなかった。

 メディチ銀行も隆盛を極め、ヴェネチア、ローマ、ロンドン、に留まらずピサ、ジェノバ、ミラノと次々に支店を開設しこの支店がメディチ家の情報源となった。

 他方、コジモは莫大な私費を投じて芸術・文化を奨励しその伝統は孫のロレンツォも引き継ぎ、フィレンツェの芸術、文化を支え、後世ルネッサンスと呼ばれる文化を花開かせた。

 コジモと孫のロレンツォがフィレンツェに君臨した約六十年間にルネッサンスの最盛期を迎え、メディチ家はボッティチェッリ、ダヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ等々、多彩な芸術家を援助し続けた。一四六四年八月一日、コジモ・デ・メディチは波乱に満ちた七十五歳の生涯を閉じた。

 コジモの跡を継いだピエロも五年後の一四六九年に没し、嫡子のロレンツォがメディチ家の家督を継いだ。

 ロレンツォはコジモの期待に違わず大政治家となり平和政策を継承して戦争の危機を回避しフィレンツェに繁栄をもたらした。メディチ家はロレンツォの時代に頂点を極めた。

 祖父コジモの血を受け継いだロレンツォは芸術・文化にも造詣が深く、サン・マルコ修道院の庭園に彼が集めた古代の彫刻を展示していた。

 ミケランジェロ(一四七四~一五六四年)もしばしばこの庭園を訪れ模刻に励んでいた。この様子を見ていたロレンツォはミケランジェロの才能を見抜きメディチ家に寄宿させた。

 ミケランジェロ・ブオナルローティは一四七四年三月、フィレンツェ近郊のカプレーゼと云う小さな邑で生まれた。

 母はミケランジェロが幼い頃に没し、父は中級官吏で息子の才能を理解せず絵ばかり描く息子を怒鳴り散らしていたが息子の希望を入れ工房に入る事を許した。

 しかし、工房は長続きせず彫刻に興味を持つたミケランジェロは彫刻家のベルトルドの元で修行する事になった。

 ミケランジェロの師、ベルトルドはロレンツォからサン・マルコ修道院の庭園の管理を任されていた。

 ミケランジェロも師と共にしばしばサン・マルコ修道院の庭園を訪れ、ロレンツォが収集した古代の彫刻の模刻に励んでいた。

 或る日、庭園を訪れたロレンツォは一心不乱に模刻に励む少年が目に止まり声を掛けてその作品を手に取って見た。

 作品は素晴らしい出来映えで確かな眼を持つロレンツォは一目見て少年の並外れた才能を見抜いた。 しかし、ロレンツォは老人の顔には皺も有り歯も欠けているとミケランジェロに告げた。

 ミケランジェロは立派に仕上がったと思っていた作品に思わぬ指摘を受け、反発を感じたが確かに言われて見ると老人の顔ではなかった。

 翌日、ミケランジェロは街に出て老人をつぶさに観察し、鑿を入れてたるんだ皮膚と深い皺を刻み、歯を欠けさせ、改めて作品を完成させた。

 三ヶ日後、再びロレンツォが庭園を訪れミケランジェロに声を掛けた。ミケランジェロは黙って鑿を入れて修正を加えた作品をロレンツォに手渡した。

 作品を見たロレンツォはこの少年が長じて後、フィレンッエの美術界を担うであろうと確信し、我が手で教育を施しミケランジェロの素質を開花させようと思った。

 早速、父親を呼び出し自ら応接してミケランジェロを我が子同様に扱う事を約束し、メディチ家に引き取りたいと申し出た。

 父親は絶大な権力を握り、雲の上の存在であるロレンツォから直に声を掛けられ、上気して平身低頭し一も二も無く承諾した。

 こうして不思議な縁で結ばれたミケランジェロはメディチ家に寄宿する事となった。ミケランジェロ、十四~十五歳の頃であったが、この寄宿がミケランジェロのその後の人生に抜きさし為らぬ大きな影響を与える事となった。

 ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチ(一四五二~一五一九年)に影響を受けたラファエッロ(一四八三~一五二〇年)は生まれてまだ五~六歳であった。

 ミケランジェロのライバルとなるレオナルドはフィレンッエのヴェロッキオの工房で修業した後、三十歳の時、フィレンッエを出てミラノに赴き、この頃ミラノ公国の摂政ルドヴィーコの庇護を得て多彩な才能を発揮していた。

 フィレンツェに生まれ、レオナルドの兄弟子としてヴェロッキオの工房で制作に励んでいたサンドロ・ボッティチェリ(一四四五~一五一〇年)は既に四十四歳であった。  花の都フィレンツェ、ボッティチェリ、ヴィーナスの誕生、イタリア

 ウフィッツイ美術館に飾られているボッティチェリの傑作「ヴィーナスの誕生」、「春」はロレンツォの依頼を受けて制作した。

 レオナルド・ダ・ヴィンチも「受胎告知」「東方三博士の礼拝」等をラファエッロは「自画像」「ヒワの聖母」をウフィッツイ美術館に遺している。

 奇しくもルネッサンスを代表する四人の巨匠は相い前後してメディチ家の庇護を受けフィレンッエで育った。

 ロレンツォの食卓は華やかで後継ぎのピエロ、後に教皇レオ十世となる次男ジョヴァンニ、三男ジュリアーノ、後に教皇クレメンス七世となる甥のジュリオ、それに招かれた著名な文化人達、ミケランジェロはこの華麗な食卓の一隅に座を占めていた。

 この環境で多感な少年時代を過ごしたミケランジェロは教養を育み、芸術の基礎を学び天才の才能を開花させた。

 しかし、ロレンツォの庇護は長く続かなかった。ミケランジェロがメディチ家に寄宿した三年後の一四九二年四月、ロレンツォは四十三歳の若さで惜しくも没した。

 ロレンツォに臨終の秘蹟を授けたのは前年の一四九一年にサン・マルコ修道院の院長に就任し、ロレンツォの死後メディチ家を追い遣る、ドミニコ派の怪僧ジロラモ・サヴォナローラ(一四五二~一四九八年)であった。(ドミニコ派、スペイン人のドミニコによって一二五三年に創設された修道会でフランチェスコ修道会と同じ頃に生まれ、同じ様に清貧を説き、両派は托鉢修道会と呼ばれた。)

 ロレンツォが没すると息子のピエロが跡を継いだがピエロは凡庸な政治家で、卓越した政治力を発揮したコジモやロレンツォに遠く及ばなかった。

 メディチ家独裁体制に始終批判的であったサヴォナローラもロレンツォには正面から挑めなかったが跡を継いだピエロの軟弱な性格を見抜き、政治的意図を交えてフィレンツェの政治体制を痛烈に批判した。

 説教もしだいに先鋭化し、一握りの富裕層がフィレンツェの政治を牛耳る現実を批判し、その矛先を頂点に立つメディチ家に向け独裁体制の弊害を攻撃して市民の歓心を買った。

 サヴォナローラの意図はトスカーナを支配するフィレンツェで政変を起こし宗教改革の拠点にする事であった。 巧みに市民を誘導し賛同する市民が次第に増えていった。

 ボッティチェリも賛同しサヴォナローラの思想に傾倒した一人であった。若いミケランジェロもサヴォナローラが説く、清貧を旨とする敬虔な生き方と神を中心に据えた政治改革に心を動かされた。 

 一方、ピエロも芸術に理解を示すメディチ家の血を受け継ぎロレンツォの死後、独立したミケランジェロに援助を惜しまなかった。

 ミケランジェロはメディチ家に恩顧を受けた身で有りながらサヴォナローラに惹かれる己に悩み、心の葛藤を押さえ切れずにいた。悩み抜いたミケランジェロは誰にも告げずフィレンツェを出奔してヴェネチアに向った。

 ピエロはサヴォナローラの意図を解さず放置し、市民の意識の変化にも気付かなかった。そして事も有ろうにロレンツォが細心の注意を払って推し進めてきた平和政策を反古にしてナポリと同盟を結んだ。(フィレンツェ、ヴェネチア、ローマ、ナポリ、ミラノの五カ国均衡政策により戦争は回避出来る)

 当時のイタリアはローマ教会、ヴェネチア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ナポリ王国が互いに小競り合いを繰り返していたが力の均衡を保っていた。

 この同盟にヴェネチアが賛同し、教皇アレクサンデル六世も野心的な意図を持って飛び付いた。教皇は実子のチェザレ・ボルジアを使って教皇領を平定し、あわよくば半島中部に教会主導の強力な国家権力の樹立を夢みていた。

 この同盟に乗っかれば教皇の思惑通り半島中部にフィレンツェ、ヴェネチア、ローマ、ナポリを糾合した教会国家も夢ではないと思った。

 一方、孤立したミラノは存続が危うくなり半島の外に同盟者を求めざるを得なくなった。ミラノの摂政ルドヴィーコはフランスとの同盟を選び、フランス王シャルル八世に元々フランスの所領であったナポリ遠征を進言した。(ナポリは元、フランスのアンジュ―家シャルル一世が領し、紛争の後、スペインのアラゴン家が領した)

 ルドヴィーコはシャルル八世が十字軍に憧れを抱いていたとは露知らず、同盟して敵対するイタリア諸国にフランスの力を見せつけたいと、世辞の積もりでナポリ遠征をシャルル八世に語った。シャルル八世が言を入れイタリア遠征を敢行するとは思っても見なかった。

 一四九四年、シャルル八世は旧領の回復と南伊を聖地奪回の基地にと考え、五万の大軍を率いてイタリアに進攻した。

 フランスの進攻を知ったアルノ河口の港湾都市ピサはフィレンツェからの独立を代償に戦わずして降伏し、フランス軍はフィレンツェに迫った。

 フィレンツェのピエロも戦いを避けるべく交渉に赴き、フランス軍の威容を見て驚愕した。傭兵しか知らぬピエロにとってフランス騎士団は正規兵で有り、最新の装備を備え、厳しい軍律を課された兵は精兵そのものであった。

 とても刃向かえる相手ではないと悟ったピエロは無条件降伏に近い条件で講和を結びシャルル八世に忠誠を誓って要塞を明渡した。 

 ピサを失い要塞を明渡したと知ったドミニコ派の怪僧サヴォナローラは激高し、メディチ家が国を売ったと市民を煽動してピエロを糾弾した。

 サヴォナローラの激しい抗議に同調した市民も交戦もせずに降伏したピエロに怒りを向け、世論はサヴォナローラの思惑通りメディチ家追放一色となった。

 政府も世論の動向に動かされて混乱し、議会はメディチ家追放を決議した。 メディチ家は決議を覆すべく巻き返しを図ったが市民に受け入れられず、致し方なくフィレンツェを去りナポリに亡命した。

 市民は集団催眠に掛けられた如くサヴォナローラの演説に酔いしれ、サヴォナローラをフィレンツェの新指導者に選んだ。

 実権を握ったサヴォナローラはフィレンツェを宗教改革の拠点にすべく強烈な宗教政治を敷いた。 ドミニコ派の教義で有る禁欲を説き、質素、倹約を市民に課した。

 虚飾を排し華美な衣装や贅沢な装身具を捨てさせ、美術品も虚栄の象徴として広場に積み上げて焼いた。

 ボッティチェリもサヴォナローラの説く禁欲主義に強い影響を受け、自らも作品を差し出し広場で燃やした。そして、優美な画風を捨てて宗教画に転じたが晩年は恵まれなかった。サヴォナローラの極端な宗教政治に嫌気した芸術家はフィレンツェを去っていった。

 質素、倹約を掲げたサヴォナローラの急激な政策転換は活況を呈していたフィレンツェの経済に深刻な打撃を与えた。

 市民は本業を忘れて宗教活動に奔走し経済は急速に縮小した。産業は停滞し何時果てるとも知れない深刻な不況が襲い掛かって来た。

 追い討ちを掛けるようにサヴォナローラは神の声と称して禁令を発布し、叛いた者にはシニョリーア広場で「火の試練」を課した。火の試練とは罪有る者は焼け爛れ、無実の者は火を潜っても火傷も負わないと云う裁判であった。

 この様な、宗教的熱狂は長く続かず異様な宗教裁判が執り行われるに及んで市民はやっと熱病から醒め、サヴォナローラの神政に疑問を持った。

 そして市民はサヴォナローラが神政を推し進めた結果、フィレンツェの経済は急速に停滞し、不況が襲いかかって来た事を肌で感じ取った。

 こうしてサヴォナローラは急速に市民の支持を失って行った。市民の批判に呼応してサヴォナローラの神政を暴政と批判し続けたフランチェスコ派が勢いを得て、サヴォナローラに論争を仕掛けた。 もし、神政が神の声に基づくなら自ら課した「火の試練」によって実証する事をサヴォナローラに突き付けた。しかし、サヴォナローラは「火の試練」を拒否しフランチェスコ派を誹謗した。

 市民は「火の試練」を拒否したサヴォナローラに怒りを爆発させ、武装した数千人の市民が今や怨嗟の的となったサン・マルコ修道院を取り囲んだ。

 暴徒に等しい市民の蜂起を見た共和国政府は直ちにサヴォナローラを逮捕し、教皇庁の裁判官を交えて過酷なまでの拷問の末に自白を引き出し、宗教裁判に掛けて死刑を宣告した。判決は共和国の法に則り絞首、次ぎに教会の法に則り火刑が言い渡された。

 一四九八年五月二十三日、サヴォナローラはシニョリーア広場に据えられた絞首台に引き摺り出され、市民が見守る中で絞首刑が執行された。

 市民は絞首台に宙づりになって死に絶えたサヴォナローラになお憎しみを込めて罵声を浴びせ唾を吐きかけた。

 死刑執行人は教会の法を執行すべくサヴォナローラを吊るした絞首台にうずたかく薪を積み上げ、薪に油を注ぎ火が付けられて火刑が執行された。

 油を注がれた薪は炎を吹き上げ天をも焦がす勢いで燃え上り、吊るされたサヴォナローラの遺体を呑み込み灰塵に帰するまで焼き尽くした。

 遺体は骨片も残さず燃え尽き、火刑の跡に灰が山を成した。 市民は忌まわしい過去を消し去る思いで一抹の灰も掻き集めてアルノ川に流した。

 一方、フランス王シャルル八世は行軍するが如くイタリアを席捲し易々とナポリ王国を征服した。ナポリを制したシャルル八世は次の目的である聖地奪回を夢見てそのままナポリに留まった。

 教皇アレクサンデル六世は易々とイタリアを南下しナポリを征服したフランス軍の威容を知り、このままではイタリア全土がフランス一国に支配されると感じた。

 フランスの支配下になれば東ローマ帝国皇帝が東方正教会の大主教を任命した如く、教皇もフランス王に膝を屈し、王の指図を仰がねばならない事態を想像した。教皇領も失い、王に超越した権威も失墜する。

 教皇権の危機を感じた教皇はイタリア全土の諸侯に結束を呼び掛ける檄文を発し、フランス王シャルル八世の野望を阻止する反仏神聖同盟に動いた。

 フランスの軍事力を見て脅威を抱き存亡の危機を感じていたイタリア諸国は教皇の呼び掛けに応じ同盟を結成した。この同盟にミラノも加わりイタリア全土がフランスに敵対する反仏神聖同盟を結成した。

 一四九五年、ナポリに駐屯するシャルル八世はイタリア全土が教皇の呼び掛けに応じて大同団結したと聞き真偽の程を調べさせた。

 そしてこの同盟にミラノの摂政ルドヴィーコも加わったと知って愕然となり撤退を決意した。撤退を開始したシャルル八世の軍は粛々と北上し、戦火を交える事無くフランスに帰国した。

 イタリア諸国も戦力の違いを知っており、撤退するフランス軍に戦いを挑む愚挙を冒さず遠望してフランス軍が立ち去るのを待った。

 シャルル八世の遠征は失敗したがこの遠征が傭兵に頼るイタリアの軍事的無力を全欧に露呈した。フランスに帰国したシャルル八世は遠征の失敗を悔やみ、気が萎えたのか程なく病を得て失意の内に没した。

 跡を継いだルイ十二世は一四九九年、大軍を率いて再びイタリアに侵攻した。フランス軍はミラノに攻めこみ、ミラノの摂政イル・モーロは捕らえられ激しい拷問の末、一五〇八年、獄死した。

 そして、フランス軍は軍律を解き兵士に略奪暴行を許した。軍律を解かれた兵士は野獣の如くミラノを蹂躙し、市民を恐怖に陥れた。

 ミラノを制圧したフランス軍はシャルル八世の遠征軍と同じ様に通過する諸都市を威嚇し、易々とイタリアを南下した。

 フィレンツェもフランス軍の南下に手も足も出せず黙って通過を見届けるに過ぎなかった。フランス軍の来襲を知ったナポリ王はスペインに救援を求めた。

 ヨーロッパの二大強国がイタリア南部で激突し戦闘を繰り広げた。こうしてイタリアは列強の角逐の場となり戦争終結後、ミラノはフランスが領有し、ナポリはスペインが領有する所となった。 

 名目上の教皇領も両国から支配権を容認されたが教皇アレクサンデル六世は列強のイタリア介入に危機感を抱き、積年の望みであるイタリア中部に教会主導の軍事力を持つ国家建設を実行に移した。 

 教皇は実子の勇猛果敢な武将、チェザレ・ボルジアを教皇軍総司令官に任じ、教皇領を平定しイタリア中部に教会主導の国家樹立を命じた。

 チェザレの軍勢はイタリア中部を席捲しフィレンツェ領も併呑しかねない勢いを見せた。メディチ家もフィレンツェの混乱につけ込み虎視眈々と復帰を画策し、サヴォナローラの残党も暗躍していた。 この様な情勢の中、サヴォナローラを処刑したフィレンツェ市民はピエロ・ソデリーニに政権を委ねた。

 ソデリーニ家はフィレンツェでも名門であったが選ばれた当主のソデリーニは凡庸な元首で難局を打開する実行力に欠けていた。

 共和国は危機に直面していたが体制は脆弱で、凡庸な元首ソデリーニは有効な対策を打ち出せなかった。

 しかし、ソデリーニは人の才能を見抜く卓越した勘を持っていたのか、当時無名の青年ニッコロ・マキアヴェリ(一四六九~一五二七年)を見出し抜擢して書記官長に登用した。

 ニッコロ・マキアヴェリは一四六九年五月三日、フィレンツェに生まれ、父は弁護士であった。登用された時、弱冠二十九歳であった。

 書記官に登用されるまでマキアヴェリがどの様な人生を歩んで来たのか謎に包まれている。フィレンツェでは女性と三十歳以下の若者に参政権は無く、商工業者が組織するアルテと呼ばれる組合に加盟しないと、たとえ貴族と云えども参政権はなかった。しかるに、二十九歳の若者を突如として抜擢したそれなりの理由が存在したのであろう。

 マキアヴェリは列強が介入し混迷を深めるイタリアの状況に憂いを感じていた。そして、フィレンツェの置かれている危機的状況も充分に承知していた。

 書記官長に登用されたマキアヴェリは国防の重要性を説き、列強の介入を排除して自立するには軍事力の強化が不可欠であり、傭兵に頼る軍事力の限界を力説し、市民皆兵を訴え、議会を説得し市民の反対を押し切って徴兵制を推し進めた。

 当時のイタリア諸国と同様にフィレンツェ共和国も傭兵に頼り独自の軍隊を持っていなかった。 マキアヴェリは戦費を注ぎ込んでも勝敗の帰趨は互いの国が雇い入れた傭兵隊長に握られているとの思いが強かった。

 傭兵に要する多大の出費を説き、自国の防衛は自国の民が守るべきで傭兵が死を賭して他国の地を守るはずが無い。祖国の運命を傭兵に委ね安閑と出来る時代は過ぎ去った。

 自前の軍隊を持ち、ピサを奪回してトスカーナの自立を目指すべきであると市民に力説した。そして、中国の戦国策を著した韓非子と同じ様に祖国の存亡を賭けてフランス王やドイツ皇帝に謁見してフィレンツェの立場を訴え、フィレンツェ共和国の維持に東奔西走する日々を送った。

 一方、共和国政府は自由を守り市民の団結を鼓舞する象徴的な彫像の制作を決議した。多数の芸術家が応募したが制作をミケランジェロに依頼し、ミケランジェロは三十年近く倉庫に眠っていた巨大な大理石からダヴィデ像の制作に取り掛かった。

 二十六歳になったミケランジェロは若かりし頃ロレンツォに指摘された写実を忘れず、筋肉の動き一つも見逃さず裸体のダヴィデ像を巨大な大理石の塊から彫り出した。

 一五〇四年、二年の歳月を掛けて完成したダヴィデ像は右手に石つぶて礫を握り、左から迫り来る、共和制の破壊者からフィレンツェを守るミケランジェロの強い意志を具現していた。 フィレンツェ、ダヴィデ像、ミケランジェロ、イタリア

 この四メートルを超す彫像を何処に据え付けるか委員会が設置され、白熱した論議が交わされた。 ミケランジェロは制作者としてこの像を政庁前広場(シニョリーア広場)に据える事を主張したが賛同は得られなかった。難色を示した大半の委員は裸体ゆえ屋外に据えるのは相応しくないとの思いからであた。

 フランス軍によってミラノが蹂躙されフィレンツェに舞い戻っていたレオナルド・ダ・ヴィンチもこの委員会のメンバーであった。

 レオナルドは他の委員の見解とは異なっていたが、この像を政庁前広場に据える事に強い難色を示し、屋内に据える事を強く主張した。

 レオナルドはこの像がフィレンツェの自由の象徴として造られた事に重要な意味を感じ取っていた。 この像はすなわちメディチ家を含め諸外国からフィレンツェを守る為の象徴であり、メディチ家に恩顧を受けたレオナルドとしてはこの像を屋外、それも政庁前広場に据え、あからさまにメディチ家排斥を誇示すべきでないとの思いからであった。

 レオナルドを始め大半の委員の意見に失望したミケランジェロは憤然として、この像は屋外に設置してこそ意味が有ると訴え譲らなかった。

 レオナルドはミケランジェロがフィレンツェの自由の為にはメディチ家排斥も止むを得ないと考えている事に気付き自説を取り下げた。

 こうしてダヴィデ像はミケランジェロの強い意志により政庁前広場(シニョリーア広場)に据えられる事となった。(現在はアカデミア美術館に展示されている)

 ミケランジェロがダヴィデ像の制作に没頭していた頃、教皇庁にも権力を巡る陰謀が渦巻いていた。 一五〇三年、教皇主導の国家を夢見て辣腕を振るった教皇アレクサンデル六世と息子の教皇軍総司令官のチェザレ・ボルジアは毒を盛られ、一夜の宴の後、病を発し教皇はまもなく急死した。

 次ぎの教皇も一ヶ月で没し、教皇アレクサンデル六世と対立しフランスに逃れていたユリウス二世(一五〇三~一五一三年)が教皇に就任した。

 新教皇ユリウス二世もアレクサンデル六世と同様に教皇の権威回復と教皇領の平定を掲げた。しかし、教皇軍総司令官のチェザレは新教皇の謀略を疑い事毎に反撥を強め意に従わなかった。

 教皇庁にもアレクサンデル六世一派が健在で不穏な動きが絶えなかった。謀略を恐れた教皇はチェザレを解任して軟禁し、教皇庁からアレクサンデル六世一派を一掃して権力の座を固めた。

 そして、教皇ユリウス二世は豪腕を発揮し反対を押し切って、ニコラウス五世(一四四七~一四五五年)が成せなかったサン・ピエトロ大聖堂の全面改築を断行し、ブラマンテを呼び寄せて再建の立案に当たらせた。

 軍事においても武力闘争を辞さず遅々として進まぬ教皇領平定を敢行し、ヴェネチアと紛争を起した。(当時の教皇領は名目上の領土で有り、実質は各国が領有していた) 

 当時のヴェネチアはヨーロッパ最強を誇る海軍を擁し教皇軍が太刀打ち出来る相手ではなかった。 教皇軍が攻め込んだが一撃で撃退され、単独では敵わぬと悟った教皇ユリウス二世はフランス王、スペイン王と軍事同盟を結びヴェネチアを攻めた。

 ヴェネチアは連合軍の主力をなすフランス軍と激闘を交えたが敗れ、フランスは教皇の意に反して北イタリアに覇権を確立した。

 教皇はフランスの取った行動を怒り、再三再四抗議したがフランスは軍事力を背景に教皇の抗議に応じなかった。

 こうして、軍事同盟は長く続かず教皇とフランスは対立を深め、教皇ユリウス二世はスペイン、スイス、英国を巻き込んで反仏同盟を結成した。教皇に敵対したヴェネチアも一転してこの同盟に加わった。

 一五一二年、北イタリア各地で戦闘が繰り広げられ親仏政策を採るフィレンツェに動揺が走った。

 この機に乗じたメディチ家はロレンツォの次男ジョヴァンニ(長男のピエロは他界していた)が指揮を執り、スペイン軍に守られてフィレンツェに復帰した。

 フィレンツェ市民は十八年振りに復帰したメディチ家を歓呼の声で迎え入れた。フィレンツェに復帰したジョヴァンニは民主共和制を廃止し、政庁をメディチ家支持派で固めて独裁政治を敷いた。

 ソデリーニは処刑を恐れていち早く亡命し、マキアヴェリは職を解かれた。

 翌年、マキアヴェリはメディチ家打倒の陰謀に加担した罪でバルジェッロ宮(当時は司法警察関係の建物で現在は彫刻の展示で有名なバルジェッロ美術館となっている)の地下牢に投獄され拷問を受けた。明らかにマキアヴェリを中傷する冤罪であったが運良く死刑は免れた。

 この年の十月にミケランジェロはユリウス二世と確執の末に引きうけたシスティーナ礼拝堂の天井画を完成させた。

 翌年の一五一三年、教皇ユリウス二世が没し、メディチ家出身の最初の教皇、ジョヴァンニが選ばれレオ十世(一五一三~一五二一年)を名乗った。

 掲載した絵はラファエロが描いた教皇レオ十世の肖像画、左側は一代おいてクレメンス七世となる枢機卿ジュリオ・デ・メディチである。(ウフィッツイ美術館)

 レオ十世はミケランジェロと食卓を共にした幼馴染であったが故に、気難しいミケランジェロを遠ざけラファエロを重用した。ラファエロにサン・ピエトロ大聖堂の建築を任せ、宮殿に数々のフレスコ画を描かせた。

 レオナルド・ダ・ヴィンチもメディチ家出身の教皇レオ十世に期待を寄せローマに赴いたが制作の依頼は舞い込まなかった。

 失望したレオナルドはフランス王フランソア一世の招きに応じてフランスに旅立つた。この時、レオナルドは傑作「モナ・リザ」を携えてフランスに渡り、フランソア一世の厚遇を得てフランスで生涯を終えた。

 一五一九年、レオナルドが没し、弟子が遺品を整理した中に「モナ・リザ」が有った。弟子達はレオナルドが生涯手放さなかった「モナ・リザ」をレオナルドが最も敬愛したフランソア一世に遺品として贈った。今、「モナ・リザ」がルーブル美術館に有るのはこの様な経緯による。

 ジョヴァンニ(レオ十世)が教皇に就任して、メディチ家の(小)ロレンツォ・デ・メディチ(追放中に死んだピエロの長男)がフィレンツェの独裁政権を継承した。ロレンツォは慶事の大赦を行ない、マキアヴェリも恩赦を受けて釈放された。

 十四年間書記官として暮らし四十三歳になっていたマキアヴェリは復職を望んだが叶えられずサンタンドレアの山荘に籠り晴耕雨読の生活に入った。

 しかし、復職への希望は捨て切れず共和制の限界を感じていたマキアヴェリはこの山荘で有名な「君主論」を執筆した。

 マキアヴェリの意図は復職にあったがそれと共に危機的状況に際しても決断力を欠く共和制に限界を感じていた。

 小国の紛争に外国の大軍を招き入れその結果、ミラノはフランスにナポリはスペインに領有され、ヴェネチアもフィレンツェも弱体化して一国では列強に太刀打ち出来ない状況下に置かれたイタリアを憂いていた。

 マキアヴェリは共和主義者であったがイタリアの現状を直視し自説を曲げ、列強の介入を阻止出来る国家権力の実現には強力な君主によるイタリアの統一しか道は無く、その実現にはメディチ家を置いて他にないと考えるに至った。

 混迷するイタリアを救うにはメディチ家が教皇を後ろ盾に(教皇はメディチ家出身のレオ十世)ロマーニャ、マルケ地方の教皇領を掌握し、トスカーナを押さえて、フィレンツェを中心とした君主制統一国家の樹立無くしてイタリアに平和は到来しないとの考えから、マキアヴェリは心血を注いで「君主論」を書き著し、(小)ロレンツォ・デ・メディチに献じた。

 しかし、(小)ロレンツォに混迷したイタリアを救う理念も、卓越した指導力も持ち合わせていなかった。まして強力な国家を築く野心など露ほども無く献じられた「君主論」を一行も読まずに打ち捨て、マキアヴェリに何の沙汰も下さなかった。

 マキアヴェリは体制に迎合したと非難される事を覚悟して、メディチ家に夢を托し「君主論」を献じたが、反メディチの烙印は払拭出来ず、復職も叶えられなかった。

 しかし、マキアヴェリは友人の紹介でジュリオ・デ・メディチを知りメディチ家との関係を修復して、ジュリオから「フィレンツェ史」の執筆依頼を受けた。

 メディチ家の後ろ盾であったレオ十世は一五二一年、四十四歳の若さで没した。後任のハドリアヌス六世も在位一年余で没し、教皇の座は再びメディチ家が継承し一五二三年、レオ十世の従兄弟ジュリオ・デ・メディチが教皇に推されクレメンス七世となった。

 マキアヴェリはジュリオから依頼を受けていた「フィレンツェ史」を脱稿してクレメンス七世に献納し、クレメンス七世の口添えで念願の政庁復帰を果たした。

 この頃、スペイン王カール五世が対フランスとのイタリア戦役に勝利し、イタリアの覇権を握っていた。

 教皇クレメンス七世はフランスと密約を謀りカール五世の失脚を画策してめぼしい君主に密書を送った。執拗に画策する教皇に怒りを感じたカール五世はイタリア駐留軍にローマ進撃を命じた。

 一五二七年、二万の軍勢がローマに入り無差別な殺戮、暴行、略奪が行なわれテヴェレ川に数千の屍体が浮いた。

 クレメンス七世は四千の守備隊と共に聖天使城(サンタンジェロ城)に立て籠もったが城は包囲され激しい攻撃に曝された。

 教皇を吊るせと叫ぶ怒号が片時も休む事無く聞こえ、恐れをなした教皇は神の代理人としての尊厳を捨て去り恥も外聞も無くカール五世に詫びを入れ無条件降伏を申し出た。 

 教皇が無条件降伏したと知ったフィレンツェ市民は革命を起こし三度目のメディチ家追放を決議し自治都市を再興した。

 マキアヴェリは共和制を取り戻したフィレンツェの政庁書記の選挙に勇躍して立候補したが、マキアヴェリの人生には不運が付き纏っていた。

 皮肉にも選挙の結果はクレメンス七世に近付いたマキアヴェリに市民は拒否反応を示し、思いも掛けず落選の憂き目を見た。

 マキアヴェリは落選の報を受けた直後、天を仰いで落胆しその場に倒れ込んで息を引き取った。 一五二七年六月二十二日、マキアヴェリは報われる事なく五十八歳で帰らぬ人となった。

 カール五世に徹底的に打ちのめされ戦慄を覚えた教皇クレメンス七世はカール五世の要求を入れ一五三〇年、神聖ローマ皇帝の戴冠式を挙行した。

 前年の一五二九年秋、メディチ家に連なるクレメンス七世の尽力であろう、スペイン王を兼ねる皇帝カール五世はフィレンツェ市民の暴挙を許さず軍を派遣し、フィレンツェに総攻撃を掛けた。

 攻防十ヶ月、フィレンツェの街を囲む城壁は破られ、防戦する革命軍は圧倒的な兵力に抗する術も無くスペイン軍に制圧された。

 この時、ミケランジェロもフィレンツェの革命軍に加わっていたがスペイン軍の侵攻と共に、混乱に紛れて逃走しメディチ家礼拝堂の地下に隠れ住んだ。

 教皇クレメンス七世はミケランジェロが革命軍に加わっていたが逃走したと知り、使いを遣って探し出させ密かにローマに連れ戻した。

 フィレンツェ共和国を滅ぼした皇帝カール五世はメディチ家をトスカーナ公に列しフィレンツェの君主として復帰させた。

 メディチ家出身の教皇クレメンス七世は英国王ヘンリー八世(一四九一~一五四七年)とも諍いを起こし英国国教会を誕生させた。

 事の起こりは一五三三年、英国王ヘンリー八世の離婚問題に端を発して対立を深め、教皇はヘンリー八世を破門した。

 この頃、国王の結婚、離婚には教皇の許可が必要であった。ヘンリー八世の妃カザリンはスペイン王の王女で、父ヘンリー七世はスペインとの友好の絆を強める為、ヘンリー八世の兄アーサーの妃に迎え入れた。

 カザリンは十六歳、アーサーは十五歳であった。しかし、アーサーは結婚後、五ヶ月で死去し、父ヘンリー七世は人質同然のカザリンをスペインに帰さず、スペインとの関係を繋ぎとめる為に十歳になった弟のヘンリー八世と結婚させた。

 この結婚に際し、聖書に兄嫁を娶る事を禁じた一節が有り、ヘンリー七世は教皇アレクサンデル六世に特別に願い出て許可を得た。

 十八歳で即位したヘンリー八世は幼くして父から強いられたカザリンとの政略結婚に疑念を抱いていたが、側近からヨーロッパの力関係に基づく英国の立場を説得され離婚を思い止まっていた。

 意に添わぬ結婚であったがヘンリー八世は男子誕生を心待ちにしていた。しかし、カザリンは妊娠しても死産か流産を繰り返しやっと女子を授かったが待ち望んでいた男子は授からなかった。

 男子が授からないのはやはり戒律を破り、神の許しを得ぬ結婚のせいで有ると、六歳年長の妃カザリンを遠ざけ、カザリンの侍女アン・ブーリンに心を通わせた。

 ヘンリー八世とアンは恋仲になり、アンが妊娠したと知ったヘンリー八世は男子誕生を夢見てアンとの結婚を望んだ。

 ヘンリー八世は特使を立て教皇クレメンス七世にカザリンとの離婚を請願した。しかし、教皇クレメンス七世はカール五世皇帝との軋轢を避け、カザリンが離婚を承知していない事を理由に離婚を認めなかった。(カザリンはカール五世の叔母)

 ヘンリー八世がカザリンとの離婚を決断したのは妹をフランスに嫁がせヨーロッパの力の均衡を保った事も一因と思われる。

 教皇の裁定に反撥したヘンリー八世はカンタベリー大聖堂を接収し、ローマ教皇が任命した大司教を罷免し、独自に大司教を任命してカザリンとの結婚は聖書に照らし無効であると宣言させた。(聖書の中の一節に兄嫁との結婚を禁じている個所が有るらしい)

 教皇クレメンス七世はヘンリー八世を非難しアンとの結婚は無効であるとの声明を発し、ヘンリー八世を破門に処した。

 一五三四年、英国議会は、それまでローマ教皇に帰属していた英国内の教会は国王に帰属すると宣言し併せて聖職者の任命権も国王に帰属する事を宣言した。

 こうして、ヘンリー八世は新しく英国国教会を誕生させ、ローマ・カトリックとの絆を断ち切った。(男の一念を貫き通してアンと結婚したが授かった御子は男子ではなく後のエリザベス一世であった)

 同年、ローマカトリックに数々の波紋を巻き起こしたクレメンス七世が没し、教皇にはパウルス三世が就任した。パウルス三世はミケランジェロを招聘し工事を中断していたサン・ピエトロ大聖堂の建設を托した。

 ミケランジェロは百年前にブルネレスキが完成させたフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(花の聖母教会)のクーポラを参考に設計を進めた。

 しかし、ミケランジェロも完成を見る事無く、一五六四年二月十八日、九十歳の長寿を全うしローマで帰らぬ人となった。

 一五三七年、トスカーナ公を継承したコジモ・デ・メディチ(コジモ一世)は十四世紀初頭に建てられ共和国の象徴であった政庁を大々的に改装しヴェッキオ宮殿とした。

 そして、ミケランジェロが共和国の守護神としてシニョリーア広場に据える事を強く望んだダヴィデ像を見下ろすかの如く自身の騎馬像を据え、シニョリーア広場を市民の広場から君主国家を象徴する広場に作り変え、一五六〇年から十四年の歳月をかけてメディチ家の事務所、現在のウフィツィ美術館を造営した。

 そして、一五六九年、コジモ一世はトスカーナ大公の爵位を受け、以後、メディチ家は一七三四年、最後の大公ジャンガストーネ(一六七一~一七三四年)が没するまでトスカーナ大公を継承した。

 メディチ家最後の大公ジャンガストーネは子に恵まれず、列強は生前からロレーヌ公フランッをトスカーナ大公の後継者に決めた。

 ジャンガストーネが没してメディチ家に男子が絶え、直系の最後の人となったアンナ・マリア・ルドヴィーカ(ジャンガストーネの姉、一六六七~一七四三年)がウフィツィの膨大なコレクションを相続した。

 アンナ・マリア・ルドヴィーカは二十四歳の時、当時としては婚期が遅れ、ノイブルグ侯ヨハン・ヴィルヘルムの後添えとして輿入れした。

 しかし、子供に恵まれず彼女が五十歳の時、夫が死去しフィレンツェに戻ってピッティ宮殿で暮らした。

 奇人変人と嘲笑された弟のトスカーナ大公ジャンガストーネが没し、ロレーヌ公フランッが新トスカーナ大公としてフィレンツェに入った。

 メディチ家に生まれ誇り高いルドヴィーカはメディチ家の紋章が次々に外されロレーヌ公フランッの紋章に置き換わるのが耐えられなかった。

 彼女は過去の栄光の証を未来永劫フィレンツェに残そうと決意し、メディチ家の財産はフィレンツェの財産でありフィレンツェから持ち出さない事を条件に、相続した全財産をトスカーナ公国に寄贈した。

 この様な経緯でメディチ家の膨大なコレクションは散逸する事無くウフィッツイ美術館に残された。

 ツアーは市内乗り入れが許されている地点までバスで行き、其処からアルノ川に沿って小雨降る中をウフィッツイ美術館に急いだ。

 メディチ家、最後の相続人、ルドヴィーカが散逸を恐れてトスカーナ公国に寄贈した美術品の数々が展示されているのがウフィッツイ美術館である。

 今は美術館となっているが建設当初はメディチ家の事務所であった。(ウフィッツイとは英語のオフィスの事)この建物は一五六〇年から十四年の歳月をかけて建てられその後、メディチ家所有の美術品を展示していた。

 現在は美術館となりルネッサンスを代表する絵画の至宝を始め、多岐に亘る二千五百点の収蔵品がある。

 メディチ家の遺産、ウフィッツイ美術館は見学に訪れた観光客の長蛇の列であった。数時間待ちは当たり前との事であったが幸い我々のツアーは特別契約をしたらしく長蛇の列を尻目に別の入り口からそれほど待つ事も無く美術館に入った。 フィレンツェ、ウフィッツイ美術館、ウルビノのヴィーナス、ティツィアーノ、イタリア

 しかし、自由な鑑賞は許されず現地ガイドの案内でボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」、レオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」、ラファエロの「自画像」、ミケランジェロの「聖家族」、ティツィアーノの「ウルビノのヴィーナス」等々、有名な絵画を巡る短縮コースであった。

 時間に余裕が無く、ガイドに先を急がされじっくりと鑑賞出来なかったのが残念であった。鑑賞を終え、フィレンツェの歴史の舞台となったシニョリーア広場に立ち、現在も市庁舎として使われているヴェッキオ宮殿(コジモ一世の居城)とウフィッツイ美術館の正面を飾る彫刻を眺めた。

 広場にはミケランジェロがシニョリーア広場に置く事を主張した「ダヴィデ像」(コピー、本物はフィレンツェのアカデミア美術館)が有り、「ネプチューンの噴水」が有った。

 小雨を避けて入ったロッジア・デイ・ランツィは美しいアーチが巡らされ、回廊には彫刻が立ち並んでいた。 フィレンツェ、花の聖母教会、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂、イタリア

 フィレンツェの古い街並みを歩いて「花の聖母教会」と呼ばれるクーポラの美しいドゥオモを訪れた。

 「花の聖母教会」とは正式にはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂である。この聖堂は一二九六年から一四〇年の歳月を掛けて築かれた。

 当時、フィレンツェは共和制国家であったがミラノは君主独裁の国家であった。自主独立を標榜する都市国家の対抗心は強くフィレンツェとミラノは互いに争っていた。

 その争いが建築分野にも及び、ミラノが尖塔を林立させた大聖堂の建設に着手したと知ったフィレンツェはミラノに対抗して工事を中断していた「花の聖母教会」の建設を決議した。

 大聖堂は一二九六年、アルノルフォ・ディ・カンビオが設計し一二〇年の歳月を掛けて建築が進められ、既に八四メートルもあるジョットの鐘楼は完工し、聖堂の中心になる巨大な大円蓋(クーポラ、丸屋根)を支える石の壁は地上百メートルの高さまで築かれていた。

 後は直径五十メートルの大円蓋を地上百メートルの高さに石材で如何に築くかであったが誰も成せなかった。

 一四一八年、フィレンツェはミラノに対抗して大聖堂の大円蓋の設計を公募した。ブルネレスキ(一三七七~一四四六年)が応募し、審査官に卵を割ってその殻を伏せ技術的に可能だと説明したが審査官には理解しがたかった。 ローマの古代遺跡を詳細に研究したブルネレスキには自信が有ったが審査官は半信半疑であった。

 フィレンツェの時の権力者、ジョバンニ・デ・メディチはブルネレスキにメディチ家の菩提寺サン・ロレンツォ聖堂の設計を依頼していた。

 多分、メディチ家の後押しが有ったのであろう、共和国政府はブルネレスキに設計を任せ工事の一切の責任を負わせた。

 設計と工事を任されたブルネレスキは直径が五十メートルも有る大円蓋を百メートルの高さに取り付ける、当時では不可能と考えられた難工事に着手した。

 一四三四年、地上で組み上げたクーポラを解体し積み木で屋根を葺くが如く、石を積み重ねて大円蓋を完成させた。

 聖堂は高さ一〇六メートルもある大円蓋を中心に建物全体をラテン十字に設計し、外観は淡い色大理石を積み上げ、壁面はモザイクで壮麗に装飾されていた。下から見上げるとその大きさと壁面を飾る装飾の美しさに圧倒された。

 ドゥオモの横には十四世紀末に完成したと伝えられる、高さ八四メートルも有るジョット(一二六七頃~一三三七年)が設計した鐘楼がドゥオモを引き立てる様に聳え立つていた。鐘楼はやや細身でドゥオモと同じ淡い色調の色大理石で築かれていた。

 ヴァチカンを象徴する荘厳なサン・ピエトロ大聖堂と比べ、色大理石で築かれたフィレンツェのドゥオモは優美で華麗な聖堂との印象を持った。

 外壁は色大理石の淡い色調を巧みに取り入れて装飾が施された壮麗な外観に暫し眺め入った。下から見上げるとその大きさと美しさに圧倒された。

 是非、教会の内部を見学したいと思ったが、残念ながらドゥオモは日曜のミサが行われていた為、見学は許されなかった。

 昼食の後、ヴェネチアに向かうまで僅かな時間が有り、アルノ川に架かる三つのアーチが美しいポンテ・ヴェッキオの橋を散策した。この橋は十四世紀半ばにアルノ川に架けられた最古の橋で橋の両側には貴金属店が軒を連ねていた。

 小雨煙る中、橋の中央に立ってアルノ川の両岸に立ち並ぶ古い街並みをしばらく眺めて過ごした。


次のページ 水の都ヴェネチア

前のページ ナポリからフィレンツェへ


objectタグが対応していないブラウザです。