イタリア紀行
ヴァチカン美術館
ローマに来て是非、ヴァチカン美術館を訪れたいと思いオプショナルツアーの申し込みを予定していたがローマに在住する妻の親しい友に中々連絡が取れずオプショナルツアーの申し込みを差し控えていた。
タバッキ(TABACCHI)でテレホンカードを購入し友に連絡を取るべく電話ボックスを離れずに何度もダイヤルを廻していると、電話の掛け方が解からず戸惑っていると勘違いしたのか添乗員が駆け付け親切にダイヤルを廻して呉れたがやはり通じなかった。
添乗員の話しでは、イタリア人は男も女も長電話ゆえ根気強くダイヤルを廻す他に手はないと教えられた。引き続きダイヤルを廻し続けていると今度はホテルのボーイが見かねて近寄り、メモを見てダイヤルを数度廻してくれたがやはり通じなかった。ボーイは肩をすくめてダイヤルを指差し何やらイタリア語で呟いて立ち去った。
やっと電話が通じ翌日の夕刻に会う約束を交わし、ヴァチカン美術館ツアーの参加を申し込んだがあいにく締め切った後であった。
翌朝、地図を片手に何とかなるであろうと妻と二人でヴァチカン美術館を訪れる事にした。ホテルを出て通りでタクシーを捜したが見つからず少し歩き始めるとタクシーがわざわざバックして我々の横に停まり乗れと手で合図した。
これ幸いと乗り込むとホテルのボーイが走り寄り何か運転手に怒鳴り始めた。様子がおかしいので降り様としたが運転手に留められ、運転手も怒鳴り返してドアを閉め車を発進させた。
どうやらホテルがタクシーを呼んだが客が中々現われず運転手は業を煮やし、たまたまタクシーを捜している我々を見つけ乗せて呉れたと思われる。
運転手は通りを百メートルほど走って停車し行き先を聞かれたのでヴァチカン・ミュージアムと運転手に告げたが運転手は怪訝な顔をしてイタリア語でまくしたてて来た。
地図を取り出し指し示すと大声でムッゼオと叫び荒っぽい運転でタクシーを走らせた。美術館はイタリア語でムッゼオと発音する事を知った。
タクシーは巧みな運転で道路の両脇に駐車した車の間を擦り抜け、裏道を通って走り始めた。何度も角を曲がり広い通りに出てしばらく走り左折するとそこに長蛇の列が見えた。
其処で運転手は車を一旦停車させ、イタリア語は理解出来ないがここがヴァチカン美術館で入口はまだ先だが列の最後尾がここだと告げているように思えた。
そして、タクシーは其処から百五十メートルほど疾走し、運転手は美術館の入り口を指し示して停車し、通行車両の多い通りを強引にUターンして再び列の後尾に戻り停車した。
料金は一万二千リラと告げられたがチップを含め一万五千リラ、(日本円で七百五十円)払うと運転手はグラツィエと大声で叫び列の最後尾を指し示した。
ここに並べと親切に教えられたがガイドブックには一般入場者とツアー入場者の入り口は異なると記載されており不安を覚えて美術館の入り口に引き返し警備の係員に拙い英語で聞いた。係員からまくしたてる様なイタリア語の返事が返ってきた。
どうやら入り口はここだが列の最後に並べと云っているらしく感じたので再び引き返して不安を覚えつつ列に並んだ。列は先ほどよりさらに百メートルは延びていた。
一~二時間待つ事を覚悟して列に並んだが八時四十五分の開館直後であった事が幸いし意外に早く三十分弱ほどで入場出来た。
入場料は一人、一万四千リラ日本円でおよそ七百円であった。オプショナルツアーの代金が一人、七千円であった事を思い出しラッキーと思った。
早速、解説書を買って外国人のツアーの後に付いて歩いたが、ガイドが壁面のフレスコ画(石膏が固まらない内に彩色した絵画)を説明している間に追い越し、右に行くか左に行くか迷っていると先ほど列に並んでいた外国人の御夫妻を見掛けた。
ご夫妻は赤ん坊を乳母車に乗せ我々の横を通り過ぎる時、にっこりと微笑んで左の通路を進んだ。 迷った末、良く解らず左に折れ細い通路を抜けると人もまばらな展示場が続いていた。
どうやらメインコースでは無いと気付き引き返して今度は日本人のツアーを見つけその後に付いて行った。何やら説明していたが数々の宗教画を見て来た故か飽食を覚え説明に興味を感じなかった。
壁面一杯に描かれた絵画を次から次に見ていると、どの絵も同じ様に見え区別も付かず贅沢にも感激が沸かなかった。事前に下調べもせず美術の知識に乏しく見たいと思う目的の絵も思い浮ばず疲れて休憩場所を捜した。
運良くカフェを見つけ、カプチーノを注文し暫くくつろいだ後、買い求めた解説書を取り出しページをめくっていると有名なミケランジェロ(一四七四~一五六四年)の「天井画」と「最後の審判」を見つけた。描かれている場所はシスティーナ礼拝堂であった。
システィーナ礼拝堂はメインコースに有り、ツアーの後に付いて歩けば必ず訪れる場所で有るが適当に歩いた為、何処かで順路を外れてさ迷っていた様であった。館内の見取り図から現在地を探し順路を確かめてシスティーナ礼拝堂を目指した。
システィーナ礼拝堂は教皇シクストゥス四世(一四七一~一四八四年)がそれまで有った礼拝堂を宮殿の防衛に不可欠な小要塞を兼ねる礼拝堂として大幅に改築を加えた。
改築された礼拝堂は教皇の名を取ってシスティーナ礼拝堂と呼ばれる様になった。システィーナ礼拝堂は想像していたより大きくその広さは四十・五メートル×十三・三メートルも有り天井までの高さは二十メートル有ると記されていた。
ミケランジェロが描いたフレスコ画の「天井画」と「最後の審判」は一九九四年四月に修復を終え、五百年前の色鮮やかな色彩を甦らせていた。
「天井画」はシスティーナ礼拝堂の大天井をキャンバスに旧約聖書の創世記に有る九つのエピソードを題材にして描かれている。
ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の「天井画」を描く事を命じたのは教皇ユリウス二世であった。ユリウス二世はサン・ピエトロ大聖堂の建築を決断した教皇で軍事を好むと同時に美術にも造詣が深かった。
ミケランジェロも教皇の招きに応じてローマに赴き教皇自身の廟墓の建築依頼を受け、石材を物色し廟墓の建設に没頭していた。
同じ頃、サン・ピエトロ大聖堂の建設を任されたドナート・ブラマンテは建築資金が分散する事を危惧し、教皇に大聖堂の建設を優先すべきと訴え、廟墓の建築を中止させた。
教皇は財政難を理由に廟墓の建築を中止する旨をミケランジェロに言い出せず替わりの仕事を思案していた。
廟墓の建築中止を申し入れたブラマンテは教皇の意を汲み、ミケランジェロにフレスコ画を描く非凡な才能が有る事を進言した。
教皇はこれを聞きミケランジェロに廟墓の建築延期を告げ、替わりの仕事としてシスティーナ礼拝堂の「天井画」を描く事を命じた。
廟墓建設に心血を注いで石材の調達に奔走していたミケランジェロは教皇の翻意に怒り、いさか諍いを起こして無断でローマを出奔しフィレンツェに戻った。
怒った教皇ユリウス二世は何としてもミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の「天井画」を描かそうとフィレンツェ政府に圧力を掛けた。
教皇と確執の末、許可も得ず出奔したミケランジェロはフィレンツェ政府の要請に応えず教皇の依頼を固辞した。
教皇はミケランジェロが招聘に応じないのはフィレンツェ政府の差し金ではないかと因縁を付け兵を差し向ける事も辞さないとフィレンツェ政府を恫喝した。
教皇の執拗な要請と言い掛かりに困惑したフィレンツェ政府は重ねてミケランジェロにローマに赴く事を懇請した。
板挟みになったフィレンツェ政府が窮地に立たされている事を知ったミケランジェロはフィレンツェに育てられた恩義も有り固辞し切れず、教皇ユリウス二世の要請を受け入れ、意に染まぬ「天井画」の制作を引き受けた。
不承不承ローマに戻ったミケランジェロは教皇の要請に応えて構想を練り、天井まで二十メートルも有る高い足場を組んで、体を反らせ石膏が固まらない内に天井と格闘して描いた作品が「天井画」であり、その不屈の闘志と創造力、構想力に驚嘆せざるを得ない。「天井画」は一五〇八年に制作を開始し一五一二年に完成させた。
「天井画」を完成させた二十年の後、六十歳となったミケランジェロにパウルス三世がシスティーナ礼拝堂の正面の壁面にフレスコ画を描く事を要請した。
ミケランジェロは老境に入っても創作意欲は衰えず祭壇の有る巨大な壁面(十三メートル×二十メートル)に挑んだ。 壁面にはぺルジーノが描いた壁画とミケランジェロ自身が「天井画」を描き終えた一五一二年に描いた壁画が存在していた。
ミケランジェロは「天井画」を描き、正面の壁面にキリストの先祖を描いた時、この壁面に「最後の審判」を描く、壮大な構想を抱いていたのかも知れない。
「最後の審判」は壁面全体を使って描かねば意味は無いと教皇を説き、既に描かれている自身の壁画を含め全て剥がして制作に取り掛った。
壁面を四五〇の区画に分け最後の審判を下すキリストと聖母を中心に三百十四体の人物を一五三六年から五年の歳月を掛けて描いた。
「最後の審判」は原罪から救済まで、最後の審判を下すキリストと聖母を中心に左から右に円を描く如く人物が描かれ、ミケランジェロ自身の自画像も描かれている。下方左には肉体の復活を描き、右には地獄に送られる罪人の様相が描かれている。
「天井画」と「最後の審判」に描かれた人物、姿態は全て異なりまるで人体解剖図を見るが如く克明に筋肉を描き出し、躍動感溢れる肉体を描き出していた。描かれた当初は裸体が多過ぎ教皇の礼拝堂に相応しく無いとの批判も有り、後年、腰布が加筆された。
システィーナ礼拝堂の後方に立って正面の「最後の審判」を眺めると「天井画」と一体となって巨大な壁画に描かれた人物が圧倒的な迫力でおおいかぶさって来るように感じた。
その迫力は筆舌に尽くし難く、強烈な印象を受けた。両側の壁面に描かれたサンドロ・ボッティチェッリの作品もミケランジェロの迫力ある大作の前に色あせて見えた。
三時間ほど美術館の中を歩き回りラファエロを始め数々の名画を鑑賞したが余りに多く見過ぎたのか、ミケランジェロに圧倒されたのか他の絵画の印象が薄く、帰国して買い求めたヴァチカンの解説書を見てどの絵を見たのか思い出した次第。とにかく、見て廻わったが数々の宗教画に圧倒され頭の中がボーとして疲れ切ったのが真相かも知れない。
世界最大級の文化財を誇る美術館を訪れた印象はまるで迷路の中を歩いた如く何処をどう歩いたのか思い出せない。
狭い通路を抜けると絵画が壁面を飾る広い回廊(室?)に出たり、狭く薄暗い階段を降りるとそこが展示室であったり、広い美術館の中をさ迷い歩き疲れ果てた。帰国してガイドブックを見ると床に色分けしたコース順路が示されている事を知った。
出口の近くにヴァチカン市国の郵便局が有り、記念に切手を購入しようかと思ったが切手を買い求める人々の長蛇の列を目にして取り止めた。
ふと見るとツアー仲間で新婚のIさんが切手を買い求めて戻って来た。結婚式でお世話になった方々に絵葉書を出す為に随分長い時間並んで買い求めたとの事。
外に出て暑い日差しの空を見上げ、重厚な宗教画から解放されほっと一息ついたのが実感である。