イタリア紀行
サンタンジェロ城(聖天使城)
ヴァチカン美術館を後にしてローマの街の散策を楽しみながらサンタンジェロ城を訪れた。この古城はテヴェレ河畔に有り星型の壕を巡らしていた。
サンタンジェロ城は一三九年ハドリアヌス帝の霊廟として建てられたが中世に改築が行なわれ城塞となった。この城は非常時には教皇の住居として使われた事もあった。
ヴァチカン宮殿と城を結ぶ城壁には屋根付きの通路が施され、非常時、教皇はこの通路を通ってサンタンジェロ城に逃げ込んだ。
この城壁が築かれた事の起こりは八四六年、サラセン海賊がローマに押し寄せ、ヴァチカンは略奪を受け、無防備を露呈した。
八四七年、教皇に就任したレオ四世はヴァチカンを防衛する為にテヴェレ川からヴァチカンを取り囲みサンタンジェロ城に至る城壁の建造を命じた。
城壁の高さは十二メートル、四十四の塔が設けられ、ヴァチカンとサンタンジェロ城を結ぶ城壁には非常時に備え屋根付きの通路を施した。この通路を通って城に逃げ込んだ最初の教皇はグレゴリウス七世であった。
一〇七三年、教皇に就任したグレゴリウス七世は次々に改革を打ち出した。第一に聖職者の風紀を正すと称して聖職者の妻帯禁止を布告した。
神父は離婚を命ぜられ従わなければ破門も辞さない厳しい処置であった。諸国の君主にも教書を送り妻帯禁止を徹底させた。(カトリックでは今も聖職者の妻帯を禁止している)
次に打ち出したのはローマで司教会議を開き俗人が聖職者を叙任する事を禁止する布告を発した。
この布告は教皇とドイツ皇帝が真正面から衝突する布告であった。
ドイツではオットー大帝以来、歴代の皇帝が帝国内の司教、修道院長の任命権を握り教会や修道院を支配していた。教皇の布告はドイツ皇帝から任命権を剥奪し、皇帝、国王の干渉を受けずに教皇庁を頂点にして諸国の教会を支配する構図であった。
二十五歳の若きドイツ皇帝ハインリヒ四世は激怒し、教皇庁を無視して司教を任命した。教皇庁は伝家の宝刀、破門をちらつかせ皇帝と云えども容赦なく破門をもって対抗する決意であると使者を遣って告げさせたが、皇帝も引き下がらず教皇の独善を糾弾し廃位するとの通告書を使者に突き付け教皇の元に届けさせた。
教皇は司教会議の席上で皇帝を破門し、皇帝の廃位を宣言して後継皇帝の選出をドイツ諸侯に通知した。万事に窮した皇帝は屈辱に耐え一〇七七年一月二十五日、カノッサ城に滞在する教皇を訪ね、冬の厳しい寒さの中、粗末な衣服の上に外套を羽織り裸足で城門に立ち赦免を懇請した。しかし、教皇は城壁の上にも姿を現さなかった。
皇帝は日の出から日没まで三日間、城門に立ち赦免を繰り返し、やっと教皇の許しを得て破門と廃位は解除された。皇帝は教皇に膝を屈したこのカノッサの屈辱を心に刻み付けてドイツに帰国した。
しかし、教皇の書状は既にドイツ諸侯に届けられドイツは混乱し教皇派と皇帝派に分かれて内戦が勃発していた。帰国した皇帝ハインリヒ四世は陣営を立て直して、廃位を主張する諸侯と戦い勝利して再びドイツ皇帝の信任を得た。
カノッサの屈辱に煮えたぎる思いを抱く皇帝は地位を確立すると再びグレゴリウス七世の廃位を宣言しイタリアに進攻した。
ローマは皇帝ハインリヒ四世の軍勢に包囲されグレゴリウス七世は恐れをなしてヴァチカンを出てサンタンジェロ城に逃げ込んだ。
皇帝ハインリヒ四世はラテラーノ宮に司教会議を召集しグレゴリウス七世の廃位を宣言し、新教皇にクレメンス三世を就任させた。
サンタンジェロ城に逃げ込んだグレゴリウス七世はノルマン軍団に救いを求めたが肝心のノルマン軍団は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)との戦いの最中に有り遠征中であった。
結局、教皇はサンタンジェロ城に四年以上も籠城を続けた後、駆け付けたノルマン軍団に救出された。しかし、救出したノルマン軍団はローマで放火、略奪、暴行の限りを尽くした。
市民の怒りは収まらずノルマン軍団に救いを求めた教皇に非難が集中し、教皇はローマに居た堪れずノルマン軍団と共にサレルノ(ソレント半島の付け根に位置する港湾都市)に逃げ出した。
サンタンジェロ城に逃げ込んだ二人目の教皇はメディチ家出身の教皇クレメンス七世であった。
一五二三年、教皇に就任したクレメンス七世はフランスと密約を謀りカール五世の失脚を画策してめぼしい君主に密書を送った。
執拗に画策する教皇に怒りを感じたカール五世はイタリア駐留軍にローマ進撃を命じた。ヴァチカン宮殿を包囲されたクレメンス七世は恐れをなして聖天使城(サンタンジェロ城)に逃げ込み立て籠もったが結局、無条件降伏した。
サンタンジェロ城はサン・ピエトロ大聖堂から歩いて十分ほどの距離に位置しているがツアーのコースに組み込まれていないせいか訪れた時は閑散としていた。
城は円形で頂上には剣を持つ聖天使ミカエルの像が有り、この像に因んで聖天使城とも呼ばれている。城門の前にあるサンタンジェロ橋から装飾の無い円形の城を眺めると頂上に立つ聖天使ミカエルが紺碧の空に高々と輝き橋の両側にはベルニーニ作の彫像が聖天使ミカエルを称える如く立ち並んでいた。サン・ピエトロ大聖堂とはまた異なった風景を見せていた。
城門から中に入ったが城に入る入り口が見つからず城と城壁に挟まれた狭い道を半周ほど歩いた先に粗末な料金所が有った。料金を払い入り口を問うとすぐ右手が入り口だと教えられた。
そこは薄暗い地下に降る石段であった。トンネルの中を降り終えて少し歩くと、今度は暗くて長い昇りの石段が続いていた。
石で築かれたトンネルの中はひんやりと涼しく、緩やかな傾斜の石段を登ると上の方に明かりが見え、長い石段を上り切るとそこは中庭であった。
中世の大砲と石の砲弾が積み上げられた横を通り薄暗い室に入るとそこには中世の武器が展示されていた。室を出て通路を暫く歩むとそこから又暗い急な石段が続いていた。
登り切ると一気に視界が開け、高層建築の無いローマの街が一望出来た。屋根付きの城壁の先にサン・ピエトロ大聖堂のク―ポラが見え、蛇行して流れるテヴェレ川の先にローマの街並みを望み見た。
砲身を突き出す為に開けられた城壁の窓からサン・ピエトロ大聖堂を眺めるとさしずめ額縁に納まった絵画の様であった。
城からの眺めは素晴らしく、三百六十度ぐるっと一周してローマの街を見渡した。観光客でごった返すサン・ピエトロ広場の喧騒が嘘の様に静かで暫く石のベンチに座りローマの街を眺めて時を過ごした。