イタリア紀行

中世の古都アッシジ

中世の古都アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂、イタリア  ローマから北東に約百七十キロ、日の出前の高速道路をバスに揺られてアッシジに向かった。前夜の雨のせいか日の出と共に霧が立ち込めて幻想的な田園風景を醸し出していた。 

 その内、外の景色が見えないほど乳白色の霧が立ちこめたが、日が昇るにつれて霧が晴れ、遠くに虹が懸かる田園風景を飽かずに眺めていた。

 畑は収穫を終えたのか作物を余り見かけなかったが、時折刈り取り前の稲穂が見えた。稲穂は日本で見る水田栽培の水稲とは異なり畑で栽培する陸稲であった。

 イタリアを大きく分けるとローマより南は土地が痩せており南に行くほどオリーブ等の果樹が中心で北は肥沃な土地が続き穀倉地帯との事。リゾットに使われる米も北部で栽培されている。 

 時々、車窓から丘陵の上に中世の城が見えた。イタリアはローマ帝国崩壊後、長い間都市国家の時代が続いた。争いが繰り広げられ各都市は丘陵に城郭を築き都市を城壁で囲って侵略に備えた。

 丘陵から下を見下ろす様に建つ城はその名残で有ろうか。緑で覆われた小高い山が連なり丘上に石造りの中世の城を目にすると何処かで見た様な絵があった気がした。

 サッカーで有名な中田が所属して一躍、日本でも名を知られる様になったペルージャの旧市街もこれから訪れるアッシジの旧市街も中世の丘上都市で有る。

 中世の佇まいそのままの古都アッシジは一九九七年秋、この地を襲った大地震で大きな被害を受けた。サン・フランチェスコ聖堂の壁画も崩れ落ちる被害に遭い、修復の為に長らく閉鎖していたとの事。 訪れた時は修復も半ば終わり拝観する事が出来た。

 中世の街並みを思わす石畳の坂道をサン・フランチェスコ聖堂に向かってゆっくりと歩いた。坂道の両側は観光客目当ての土産物店が軒を連ねていたが日本の観光地と異なり客引きの声も無く、店の奥に店主が一人、来店客を待って椅子に座っていた。

 色鮮やかな陶器を店先に並べた店に立ち寄り品定めをしたが、これから先の旅程を考え、思い悩んだ末に購入を断念した。

 以後、行く先々で同じ様な陶器を探し求めたが見つからなかった。後で知ったがあの陶器はアッシジ地方の特産品であった。

 坂を登り切った丘の上に広場が有りその先にサン・フランチェスコ聖堂が静かな佇まいを見せていた。聖堂は清貧を旨とするフランチェスコ派の教会で有るが故に装飾を排したのであろうか、華麗に装飾されたサン・ピエトロ大聖堂とは好対照で切り出した石を積み上げただけの簡素な聖堂であった。

 サン・フランチェスコ聖堂は聖人に列せられたフランチェスコの亡骸を生誕の地に葬り聖堂を建てたのが始まりである。フランチェスコについて少し記して見たい。

 一一八一年、フランチェスコはアッシジの裕福な毛織物商の子として生まれた。伝説では聖徳太子と同じ様に馬小屋で生まれたと伝えられている。

 出産を間近に控え陣痛で苦しんでいた母、ピカのもとに一人の巡礼が現れ「あなたのお子さんは馬小屋でなければ生まれません」と告げた。

 母、ピカは巡礼の言葉に従い馬小屋の藁の上に横になると痛みも無く男子を出産した。ピカは生まれた子にジョヴァンニ(ヨハネ)と名付けたが商用から帰ったフランス好きの夫、ピエトロ・ディ・ベルナルドーネはフランチェスコ(小さきフランス人)と改名した。

 フランチェスコの父、ベルナルドーネはアッシジきっての大商人で手広く毛織物を商い、度々、フランスに出向き布地を買い入れていた。フランスに憧れを持ち妻、ピカもフランス娘であった。

 フランチェスコが生まれた頃のアッシジはイタリア諸都市と同じ様に、市民は領主の圧政に苦しめられていた。ベルナルドーネも重税を課されかつ様々な制約を受け、領主に不満を募らせていた。

 一一九八年、フランチェスコが十六歳の頃、領主の留守を衝いて市民が蜂起し手に手に武器を持って山上の城に攻め上った。

 市民は山上の守備隊を撃ち破り、郊外の砦も攻め落とし自由を勝ち取った。この闘争にベルナルドーネは中心的な役割を果たし、フランチェスコも武器を取って戦った。こうしてアッシジは自治都市となり、有力な資産家が市政を握った。

 自治を勝ち取ったアッシジも他のイタリア諸都市と同様に近隣のペルージャと争う様になった。 抗争は激しさを増し、遂に両都市は戦争に突入した。騎士道に憧れを抱いていたフランチェスコはこの戦いに兵士として加わったが捕虜となり一年間投獄された。牢獄の冬は厳しく余り丈夫でないフランチェスコは寒さと湿気で結核を患った。

 病に伏せていると知った父はペルージャの高官に多額の賄賂を贈ってフランチェスコを救い出した。 病も癒え元気を取り戻したフランチェスコは再び騎士道に強い憧れを持った。

 一二〇二年教皇インノケンティウスの呼びかけに応じたフランスの騎士団を中心に第四次十字軍が結成された。

 騎士道に憧れを持つフランチェスコはアッシジの貴族の兵として加わり聖地奪回を目指して出征した。

 しかし、フランチェスコはアッシジから幾ばくも行かぬスポレートの街(アッシジの南に有る丘上都市)で急に熱病に罹った。

 神は十字軍が狂気の軍団に変身する事を予見してフランチェスコを導かれたのか、フランチェスコはこの地で従軍を諦めざるを得なくなった。

 フランチェスコが従軍を断念した第四次十字軍は聖地奪回の使命を捨て去り、ビザンチン帝国の内紛に乗じてコンスタンティノープルを攻め、無差別な殺戮と金品の強奪、女と見れば修道女も構わず暴行を加えた狂気の軍団と化した。

 一方、スポレートの街で病に倒れ高熱を発してベッドに横たわるフランチェスコは熱にうなされ、幻覚の中で神の声を聞いた。

 「故郷へ帰れ、なすべきことは、そこで示されるであろう、お前の見ている幻影は考え直さねばならない」

 神の声はフランチェスコの脳裏に響き渡り高熱は潮が引く如く消え去り、ベッドに伏す己が不思議でならなかった。

 神の声に促されて目覚めたフランチェスコは騎士道を諦らめアッシジに戻った。そして、フランチェスコはサン・ダミアーノ教会の十字架の前で敬虔な祈りを奉げた。

 無心に祈りを奉げると心は澄み渡り恍惚を感じた。すると再び神の声が響き渡り「神の家を修復すべし」と云う神の啓示が聞こえた。フランチェスコは神の声を信じ寝食を忘れて教会の修復に取り掛かった。

 父親は狂気の沙汰と怒り連れ戻したがもはやフランチェスコに社会通念は通じなかった。父の留守に家から商品を持ち出し金に換えて資材を購入しサン・ダミアーノ教会の修復を続けた。

 家の跡を継がず商品を持ち出して教会の修復に没頭するフランチェスコに手を焼いた父ベルナルドーネは司祭に訴え市民の見守る中、フランチェスコに絶縁を申し渡した。 

 フランチェスコはこれで神に仕える事が出来ると絶縁を甘受し、父から与えられた全てを捨て、衣服も脱ぎ捨てて隠者の衣をまとい父との絆を絶った。一二〇六年、フランチェスコが二十五歳の時であった。 

 無一文になったフランチェスコは一人で托鉢の僧の如く鉢を持って施しを受けサン・ダミアーノ教会の修復に取り組んだ。

 サン・ダミアーノ教会の修復を終えると無人の礼拝堂、サンタ・マリア・デリ・アンジェリ(別名ポルツィウンコラ)の修復に取り掛かった。 

 一二〇九年二月二四日、聖マティアスの祝日のミサで司祭がマタイ伝の福音書の一節を朗読した。今までに無い感動を覚えたフランチェスコはこれを神の啓示として受け止め、福音を伝える使徒として一歩を踏み出した。 

 布教に目覚めたフランチェスコは翌日からアッシジの街角に立って説教を始めた。親しかった仲間達は好奇の眼差しを向け、或る者は奇行を軽蔑して立ち去ったがフランチェスコは意に介さなかった。

 やがて朴訥な語り口に耳を貸す若者が現れ、彼の弟子になりたいと申し出た若者がいた。弟子を望んだのはアッシジの名家に生まれボローニャ大学で法学を修めたベルナルド・ダ・クインタヴァッレと法律家のピエトロ・ディ・カターニであった。

 その後も世俗の地位も名誉も投げ捨てて仲間に加わりたいと申し出る若者が集まり、仲間は増えて十一人となった。フランチェスコはこの会を「小さき兄弟会」と称し清貧を旨とする厳格な会則を作った。

 一二一〇年、フランチェスコと十一人の兄弟はこの会則を認めてもらう為にローマに赴いた。幸いアッシジの司祭がローマに滞在しておりその縁でジョヴァンニ枢機卿を紹介された。

 フランチェスコと十一人の兄弟はジョヴァンニ枢機卿を説き時の教皇、インノケンティウス三世(一一九八~一二一六年)に拝謁を願い出た。

 ジョヴァンニ枢機卿の計らいでラテラーノ宮殿に赴き教皇に拝謁して会則の承認を願い出たが会則が余りに厳しく教皇は許可を与えなかった。

 フランチェスコは諦らめず再びジョヴァンニ枢機卿に懇願し、熱意にほだされたジョヴァンニ枢機卿は再び教皇に願い出て拝謁の許しを得た.。 

 教皇は聖職者の堕落、腐敗に悩み、他方、極端な理想を説く異端の徒にも頭を悩ましていた。フランチェスコと十一人の兄弟達も極端な理想を説く異端の徒で有ろうと疑っていたが真剣に理想を説く彼らに心を動かし口頭で会則の許可を与えた。 

 こうして、ローマ教皇から正式に教会で説教する事を許されたフランチェスコと十一人の兄弟は剃髪(頭頂部を円形に剃る儀式)を受けアッシジに帰った。   勇躍してアッシジに帰ったフランチェスコと十一人の兄弟はキリストの教えである福音の布教に努め、財産の所有を戒め、清貧を旨とする共同生活を始めた。

 彼らの持ち物は首から下げた袋とお椀一つでその他の物は一切所持しなかった。労働の糧も食物以外は求めず、食べ物に窮すると托鉢に出て喜捨を乞い、家々を廻り命を繋いだ。 

 そして、フランチェスコはベネディクト派が所有するポルツィウンコラの小さな礼拝堂を借り受けて布教の拠点とした。

 これがフランチェスコ修道会の始まりである。フランチェスコを慕って人々が集まり、修道会の信徒は見る見る増えていった。 

 一二一一年、フランチェスコはサン・ルフィーノ教会でしじゅんせつ四旬節の説教をした。この時、聴衆の一人にキアーラ(クララ)・オフレドゥッチョが感動に身を震わせて説教に聞き入っていた。

 彼女は全てを捨てて神に仕える生き方に深い感銘を覚え、この説教が契機となって神に導かれた如く、自分の生きる道は神に仕える事だと悟った。 

 キアーラは一一九四年、アッシジの貴族ファボローネの娘として生まれ何不自由なく育てられた。 その娘が神に仕えると聞かされた両親は嘆き悲しみ貴族の娘として生きる事を諭し、キアーラが修道会に入る事を許さなかった。 

 それから一年後、十八歳になったキアーラは深夜を待ち、心の中で家族に永遠の別れを告げ、何不自由無い生活の全てを捨ててフランチェスコの許に走った。

 迎え入れたフランチェスコは彼女の意志の固さを確かめ、自らの手でキアーラの肩まで垂れた下がった見事な金髪を切り落とし女子修道院に預けた。 

 娘の失踪を知り、怒った父のファボローネは連れ戻そうと女子修道院に駆け付け、キアーラを厳しく叱り、聞き入れぬと見ると愛惜の情を込めて必死に説得を試みたがキアーラは聞き入れなかった。 

 万策尽きたファボローネは聞き入れない娘を力ずくで連れ戻そうとしたが彼女は祭壇にしがみついて頑として家に戻らなかった。 

 二週間後、妹のアニェーゼもキアーラの後を追った。 彼女も父の話に耳を貸さず翻意しなかった。 

 もう一人の妹、ベアトリーチェと母のオルトラーナもキアーラの後を追って出家の道に入った。その後も女性の修道志願は絶えずフランチェスコは司教に願い出て女子修道院を設立した。 

 キアーラはフランチェスコの教えを忠実に守り四十一年間、サン・ダミアーノ修道院で清貧の生活を送り六十歳で天に召された。アッシジのサンタ・キアーラ教会は聖女キアーラの遺骸を安置する為に建てられた。 

 アッシジの聖者フランチェスコの名は高まりそれにつれて修道会の伝道の範囲も広がった。伝道の地はイタリアに留まらずフランス、ドイツにも伝道師が派遣された。

 そして、フランチェスコの思想の帰結として武力をもって聖地奪回に遠征する十字軍に疑問を呈し、異教徒を説いて改宗させ信仰と真理の力で聖地奪回を成し遂げようと思い立ち彼は度々船出した。

 しかし、船は嵐に遭い目的地に着く事はなかった。イタリアに押し戻され、或いはエジプトに漂着してエジプトのイスラム教徒に福音を説いたが、もともと強壮でない彼の肉体を病がむしば蝕み失意の内に帰国を余儀なくされた。 

 一方、修道会は発展を続け五千人の会員を擁する巨大な組織となった。組織は派閥を生み、会の運営に限界を感じたフランチェスコは穏健派のエリア修道士に後事を托し修道会を離れてウンブリアの山中に隠棲した。心配した弟子が山中を尋ね、そこで小鳥に説教するフランチェスコを見た。 

 一二二四年、フランチェスコは病身を押して布教の旅を続け、トスカーナに入りラヴェルナ山に籠った。断食を重ね瞑想の日々を送り、九月十四日の明け方、奇跡が起こった。

 キリストの受難を瞑想して十字架に祈りを奉げていた時、恍惚の境地に至り、不可思議な火に焼かれて我に帰った。

 見ると手と足と脇腹にキリストと同じ様な傷を受け聖痕が刻み込まれていた。フランチェスコは当初、傷を衣で隠していたが拭っても拭っても衣に血が滲み、弟子の知る所となった。

 その後もフランチェスコは病魔に冒された身体を押して各地を訪れ、説教を続けたが病は癒えず、エジプトで患ったトラホームが悪化して盲目となった。療養を重ねたが病は癒えず、一二二六年、死期が近づいた事を悟ったフランチェスコはアッシジに帰る事を望んだ。

 十月三日、フランチェスコは最愛の地、ポルツィウンコラの修道院に集まった全ての修道士一人一人に祝福を与え、福音の一節を口ずさんで四十四年の短い生涯を閉じ天に召された。 

 フランチェスコが天に召されて二年後の一二二八年七月一六日教皇グレゴリウス九世(一二二七~一二四一年)によって聖人に列せられた。

 そして、教皇グレゴリウス九世はフランチェスコ生誕の地、アッシジに遺骸を納める聖堂の建設を命じた。 

 巨大な組織となったフランチェスコ修道会の後継者エリア修道士は教皇の命を受け、聖人の遺骸を納め、称えるに相応しい堂々たる聖堂の建設に着手した。

 計画した聖堂は所有を戒め清貧に生きる事を戒律と定めたフランチェスコの意に反した巨大な聖堂の建設であった。

 聖堂の建設は一二二八年に着工し二年後には遺体を安置する下部聖堂が完成し、引き続き上部聖堂の建設が進められた。上部聖堂は一二五三年に完成したと伝えられている。 

 上部聖堂の壁にはフランチェスコの生涯を描いた二十八枚のフレスコ画が有り、有名な「小鳥に説教するフランチェスコ」の絵もあった。教会の内部は装飾の無い簡素な作りでは有るが、壁面はフレスコ画で埋め尽くされていた。 

 一九九七年秋、この地を襲った大地震でサン・フランチェスコ聖堂も大きな被害を受けた。天井が崩れ落ち、壁面に描かれたフレスコ画も粉々に崩れ落ちた。 

 アッシジの街も大きな被害を受けたが街の人々はシンボルである聖堂の再建を目指した。崩れ落ちた天井は修復したが、地震で崩壊したフレスコ画は粉々に砕け散り床に散乱していた。 

 専門家が集まり貴重なフレスコ画の修復に取り掛かった。修復は巨大なジグソーパズル(絵の大きさが畳八畳ほども有る)を解くが如く写真と見比べながら粉々になった細片を繋ぎ合せて再現した。壁画の再現が終わるまでサン・フランチェスコ聖堂は閉鎖されていた。

 一九九九年十一月、大部分の壁画の修復が終わり一般公開が再開された。我々が訪れた時も修復の作業が続けられていた。 

 礼拝堂の正面には大きな円形のステンドガラスが填められ薄暗い堂内に色鮮やかな色彩が光り輝いていたのが何とも印象的であった。 

 サン・フランチェスコ聖堂が街の西端に位置し、聖堂の広場から石畳の街並みを抜けて、東端にあるサンタ・キアーラ教会を目指した。

 歩いておよそ十分ほどの距離であったが、道は曲がりくねった坂道であった。道の両側は古い建物が並び中世の街に迷い込んだ様な雰囲気であった。

 通りには観光客目当ての商店が軒を連ねていたが日本の観光地の様に呼び込みの声も無く店の奥に店主が一人居るだけの小さな商店が大半であった。これらの商店が午後二時を過ぎると観光客の人波もお構いなく店を閉め始めたのには驚かされた。 

 サンタ・キアーラ教会はこの地方特産の白大理石とピンク色の大理石を交互に積み重ね淡いピンクの縞模様が美しい聖女の教会であった。この教会も地震の被害を受け、訪れた時は修復中で中に入れなかった。 

 アッシジ旧市街はウンブリア平野の小高い丘の上に位置する中世の丘上都市である。街の北東の一段高い丘の上に十四世紀に造られたロッカ・マッジョーレの城郭が街とウンブリア平野を見下ろしていた。

 サンタ・キアーラ教会も丘上に有り、教会の広場から見下ろすと眼下に広大なウンブリア平野(盆地)の穀倉地帯が広がっていた。しばらく景色を眺めていたが見飽きる事が無いほど心が休まる素晴らしい眺めであった。 


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