イタリア紀行
世界の三大美港ナポリ
ローマからナポリまで二百四十キロ、バスはアウトストラーダ(太陽の高速道路と呼ばれている)を一路ナポリに向かって南下した。 空は抜けるように青く澄み渡り日差しが強かった。車窓からアッピア街道の名残で有ろうか傘の様に枝を広げた地中海松の並木を時折見掛けた。
アッピア街道はローマからアドリア海に面したブリンディシまで約七五〇キロ、紀元前三一二年頃には完成していたと伝えられる古い街道である。並木は遠征に向かう兵士を暑い日差しから守る為に植えられたと伝えられている。
バスは高速道路に別れを告げナポリの街並みを見下ろす辺りに差し掛かった。道路は路肩の無い片側一車線の曲がりくねった急勾配の道であった。
バスの運転手は絶景を眺めるに最適な駐車地を目指したが既に数台のバスが先着しており駐車する余地はなかった。駐車を諦めたと思っていたら次ぎのカーブを曲がると一車線塞ぐのもお構いなしに絶景を眺める好位置に駐車した。
バスを降り高台から世界の三大美港と言われるナポリ湾を眺めた。湾曲したナポリ湾の向こうにベスビオ火山が雄大な裾野を翼の様に広げていた。湾を囲む様にソレント半島が連なり、その先にカプリ島が薄霞の中に浮んでいる様に見えた。
空に雲一つ無く真っ青に澄み渡り、見渡す海は群青の顔料を流した様な紺碧の青が広がっていた。眼下には箱庭を眺める様なナポリの街並みが広がり、サンタ・ルチアの海岸には卵城が岬の如く海に突き出ていた。
古代ナポリはギリシャの植民地であった。名の由来も「ネアポリス」新しい街からきている。その後ローマの支配下に入った。
四七六年、西ローマ帝国が崩壊し、大帝国は解体されて無数の領主が自立して国を樹て、秩序を失い混乱したイタリアに蛮族が侵入した。
六一四年、マホメットがイスラムの伝道を始めと、燎原の火の如くその教えは瞬く間に中東を覆い尽した。
イスラムを信奉するアフリカのサラセン海賊は喫水の浅い船を駆って地中海を席捲し制海権を握った。地中海を制したイスラムは八二七年シチリアに侵攻し八七八年、シラクーサを攻略し遂にシチリア全島を制圧した。
イスラムはシチリア島のパレルモを根拠に南伊に侵攻してイタリア南部を次々に支配下に置いた。 同じ頃、北方の民族ノルマン人(ヴァイキング)も南進を始め、ヨーロッパ各地を攻めイギリス、フランスに国を樹て、地中海に入った。
イタリアの都市国家もイスラムと戦い、ジェノヴァとピサの連合軍はイスラムからサルデーニャ島を奪回し、地中海に入ったノルマン人は南伊に侵攻してイスラムと激突した。
一〇六〇年、ルッジェーロ・アルタヴィラ率いるノルマン軍団がシチリア島に侵攻し十二年の戦いの末にパレルモを陥落させ、それからおよそ二十年の歳月を経てシチリア全島を占領し南伊からイスラム勢力を一掃した。そして、ノルマン人のアルタヴィラ家がシチリアのパレルモを根拠にノルマン王国を築いた。
一〇八一年、ドイツ皇帝ハインリヒ四世と争い、サンタンジェロ城に逃げ込んだ教皇グレゴリウス七世を救出したのもノルマン軍団であった。
一〇九九年の第一次十字軍が聖地エルサレム奪回に成功したのもノルマン軍団に負うところ大であった。
しかし、南伊に覇を唱えたノルマン王国も最後の王、グリエルモ二世に嫡子無く、アルタヴィラ家は滅び叔母のコスタンツァが継承者となった。コスタンツァは神聖ローマ帝国皇帝(ドイツのホーエンシュタウフェン家)の嫡子ハインリヒ六世と結婚していた。
生まれた嫡子、フリードリヒ二世は神聖ローマ帝国皇帝とノルマン王を継承し、南伊はドイツの支配下となった。
皇帝の戴冠を受けたフリードリヒ二世は気候温暖なシチリアのパレルモに居を定め、シチリア王国はイタリア最強の国となった。
フリードリヒ二世は祖父フリードリヒ一世が成せなかったローマ帝国の威信とかっての栄光を取り戻す為、イタリアを統一しドイツと合わせた中央集権国家の樹立を目指した。
祖父フリードリヒ一世もミラノを攻めイタリアの統一を目指したが、教皇が主導した北イタリアのロンバルディーア同盟の前に敗れドイツに引き揚げざるを得なかった。
フリードリヒ二世は祖父の轍を踏まず最強のドイツ軍団とサラセン軍団を擁して着々と準備を整えていた。
一方、教皇グレゴリウス九世はかってのローマ帝国の実現を望んではいなかった。かつて東方正教会の大主教は東ローマ皇帝が任命し、ローマ・カトリックの教皇も東ローマ皇帝の裁可を仰いでいた如く、ヨーロッパを統一する国家権力の出現は必然的に教皇庁の力を削ぎ国家に隷属する機関となる。
まして、教皇庁が所在するイタリアの統一はあっては成らない事であり、ヨーロッパの統一はローマ・カトリックを主軸とした教皇を頂点とする統一しか考えられなかった。
フリードリヒ二世皇帝の思惑を知る教皇は何としてもフリードリヒ二世を従わせるべく、辣腕を発揮し「伝家の宝刀」破門をちらつかせてフリードリヒ二世に十字軍派遣を迫った。教皇の要求はフリードリヒ二世皇帝自ら軍を率いて聖地奪回を目指す事であった。
フリードリヒ二世は教皇と対立した祖父フリードリヒ一世の十字軍遠征と重ねあわせ、教皇の要求に疑念を抱いた。
一一八九年、教皇の要求に応じて第三次十字軍の遠征に加わった祖父フリードリヒ一世は小アジアで不慮の死を遂げた。
戦地故、死因を明らかにする事は出来ないが、祖父が教皇の意に添わぬ野心を持ったが故に暗殺されたとも考えられる。フリードリヒ二世は教皇の謀略を警戒し十字軍の遠征には容易に同意しなかった。
しかし、教皇グレゴリウス九世は執拗に聖地奪回をフリードリヒ二世に迫った。こうして一二二八年、フリードリヒ二世はしぶしぶ教皇の厳命を受け入れ、第五回十字軍を組織してエジプトのカイロに船出した。
フリードリヒ二世はシチリアのパレルモに居を構えイスラムの文化にも慣れ親しみ、イタリアとドイツを統合した大帝国の構想実現にはイスラムとの共存が不可欠との考えを持っていた。
この様な柔軟な考え方を持つフリードリヒ二世は当初から聖地に固執せず、ましてイスラムと干戈を交える考えは持ち合わせていなかった。カイロに着けばイスラム教君主と友好を結び外交折衝を重ねる積もりであった。
フリードリヒ二世にとって幸か不幸か船内に悪性の疫病が蔓延し、フリードリヒ二世も感染して生死の境をさ迷いイスラムと一戦も交えず帰国を決断した。
そして、病の為、已む無く帰国したが病癒えれば再び聖地奪回の軍を興すと教皇に書き送った。しかし、フリードリヒ二世の魂胆を見透かした教皇は仮病を使った忌避行為で有ると、この書状を破り捨てフリードリヒ二世皇帝に破門を通告した。
フリードリヒ二世は状況も確かめず破門の断を下した教皇の理不尽な扱いに教皇権の乱用も甚だしいと怒りを顕わにして教皇に抗議した。
こうして教皇と皇帝は互いに相手をなじり教皇教書と皇帝宣言が全欧諸国に乱れ飛び、教皇派と皇帝派に分かれて泥沼の争いを繰り広げる事となった。
フリードリヒ二世は破門も意に介さずイタリアの自治都市に圧力をかけ、或いは懐柔して自陣に引き込んだ。
教皇もイタリアを統一する国家が出現する事に警戒を強め、教皇教書の檄文をイタリア諸侯や自治都市にばら撒き皇帝と対立した。
イタリアは皇帝派と教皇派に分かれてしばしば干戈を交えたが、ドイツ軍団を率いる皇帝の敵ではなかった。
教皇は戦いに利、有らずと見て、権謀術数を駆使しドイツに内紛を起こさせる手段を講じた。フリードリヒ二世皇帝の嫡子でドイツ王のハインリヒが日頃から皇帝に不満を募らせていた事に付け込み、イタリア自治都市を巻き込んで執拗に反乱を働き掛けた。次々に説得の使者が訪れ、ついに皇太子は教皇の謀略に乗せられて叛旗を翻した。
ハインリヒが叛いたと知った皇帝の行動は素早かった。聞き終わるや否や、すぐさま数人の供を従えアルプスを越えてドイツに入り皇太子を捕らえて獄に繋いだ。皇太子は教皇の謀略に乗せられた己を恥じ、移送の途中馬の背から断崖に身を躍らせて自殺した。
教皇の度重なる謀略に憤然とした皇帝は軍を率い、教皇に加担したイタリア自治都市を次々に攻めイタリアに泥沼の戦乱を巻き起こした。
教皇グレゴリウス九世は皇帝を異端と見做し、フリードリヒ二世皇帝の廃位を宣言し、皇帝に加担する諸侯を次々に破門し執拗に抵抗を続けた。
民衆にもローマカトリックの危機を訴え、結束を呼びかけて頑強に抵抗した。民衆の支持を集めるフランチェスコ修道会にアッシジの聖者、フランチェスコの遺骸を納めるサン・フランチェスコ聖堂の建設を命じたのも皇帝と激戦の最中であり、民衆の支持を得る手段の一つで有ったかもしれない。
一方、皇帝は皇太子ハインリヒを死に追い遣った教皇に許し難い怒りと憎しみが心の中に渦巻いていた。
皇帝は怒りのはけぐちを求めるかの如く教皇に加担する都市を次々に襲い、率いるサラセン軍団に容赦のない殺戮を命じた。襲われた都市は二度と立ち上がれないほどの凄惨を極めた。
教皇派も皇帝派の都市を襲い、互いに憎しみが増幅してイタリア全土が戦火にまみれ各地で熾烈な戦いが繰り広げられた。
教皇に加担したジェノヴァは皇帝派のピサ艦隊に奇襲を受けて壊滅し、乗船していた聖職者は捕らえられ、皇帝の命令で鎖に繋がれて投獄された。
聖職者も容赦しない皇帝の厳しい処置に教皇派は戦慄し戦いはますます激しさを増した。互いに報復が繰り返され北イタリアで奮戦していた皇帝の次子、エンツォは教皇に加担したボローニャ軍の奇襲を受けて捕虜となり獄に繋がれた。
皇帝の次子であるが故に報復の格好の標的となり、ボローニャは捕らえたエンツォに苛烈極まりない拷問を加え一二四九年、エンツォを死に至らしめた。
皇太子のハインリヒを失い、次子のエンツォを失った皇帝は悲しみを憎しみに変えて、鬼神の如く戦場を駆け巡り冷酷なまでに殺戮を繰り広げた。教皇も矛を収めず戦いは何時果てるとも知れず続いた。
一二五〇年、イタリアを統一しドイツと統合して大帝国を樹立する夢を追い求めた皇帝も戦場で暮らす日々に疲れを覚えたのか突然、病に罹り五十六歳の若さで没した。
巨星、フリードリヒ二世が倒れても戦いは収束せず、フリードリヒ二世の息子、シチリア王マンフレディとフリードリヒ二世の孫、ドイツ王コンラディンは皇帝の遺志を受け継ぎ戦いを繰り広げていた。
教皇派にホーエンシュタウフェン王家を倒す力はなく、むしろ教皇派が劣勢に立たされていた。ついに、教皇は戦局の打開を図るべく、イギリスを破り西欧の強国にのし上がったフランスに介入を促し派兵を要請した。
フランス王弟シャルル・ダンジューが三万の軍勢を率いてイタリアに進攻し、シチリア王マンフレディ率いる皇帝軍と対峙した。
一二六六年、ベネヴェントの戦いでマンフレディは戦死し、駆け付けたドイツ王コンラディンは捕らえられてナポリの広場で斬首された。
こうしてイタリアの内乱は終息しホーエンシュタウフェン王家は滅亡した。教皇の要請に応じてイタリアに進攻したシャルル・ダンジュー(シャルル一世、アンジュー家)はシチリア島と南伊を支配し、首都をナポリに置きナポリ王国となった。
しかし、南伊に平和が訪れた訳ではなかった。フランスの支配となった十六年後の一二八二年、シチリアで晩鐘の時刻を期して、市民が一斉に蜂起しフランス兵を殺戮して反乱を起こした。
反乱は瞬く間に全島に広がりシャルルは艦隊を派遣して鎮圧に臨んだ。 反乱軍は頑強に抵抗を続けたが所詮、フランス軍に敵うはずは無くしだいに追い詰められ、窮した反乱軍はスペインのアラゴン王家に救いを求めた。
こうして、シチリアの反乱はフランスとスペインの国際紛争に発展し、戦いは一三〇二年の和解まで続いた。
ナポリ王国は分割されフランスのアンジュー家がナポリを領有し、スペインのアラゴン家がシチリアを領有する事となった。
一四四二年、ナポリ・アンジュー家に後継者が絶え、シチリア王国のスペイン・アラゴン家がナポリ王国を併合してスペインが南伊の支配を確立した。
しかし、フランスは認めず、一四九五年、フランス王シャルル八世は大軍を動かしイタリアを縦断してナポリを攻め、ナポリ王はシチリアに逃れた。
教皇アレクサンデル六世はシャルル八世の大軍を前にイタリア諸国は抗する術もなく易々と南下を許しナポリを征服したフランスの軍事力に驚愕し、このままではイタリアはフランスに支配され、教皇の権威は失墜し教皇領も奪われると感じた。
教皇権の危機を感じた教皇はイタリア全土の諸侯に檄文を発し、フランスの脅威を訴えフランスに対抗する連合軍を呼び掛けた。
こうして連合軍が結成されイタリア全土を敵に廻したシャルル八世は已む無くフランスに撤退し、帰国後程なく失意の内に没した。
跡を継いだルイ十二世は再び軍を率いてイタリアに攻め込みミラノを蹂躙してナポリに向け進撃した。ナポリ王はスペインに救援を求め南伊は二大強国の戦場と化した。
一五〇四年、両国は紛争を終結しナポリ王国はスペインの直轄領となり、フランスはミラノを得た。 その後もナポリは列強の争いに翻弄された。
一七一三年、十年に及ぶスペイン王位継承戦争の幕が下り、ナポリ王国は列強に翻弄されオーストリアのハプスブルク王家の支配となり、シチリアはイタリアのサヴォイア公国の領地となった。
しかし、小国のサヴォイア王家も列強の圧力に屈し、涙を飲んでシチリアを手放しサルデーニャ島との交換に応じ、シチリアはハプスブルク王家が領有する所となった。
一七四〇年、オーストリア皇帝継承戦争が勃発し講和の結果、ナポリ、シチリアはスペイン・ブルボン王家の支配下に入った。
一七九六年、ナポレオンがイタリアに侵攻しナポリ王国は降伏し、フランスの支配となった。
一八六〇年、イタリア統一に立ちあがったジュゼッペ・ガリバルディ(ナポリ中央駅前のガリバルディ広場にその名を留めている)が義勇軍を組織してシチリアに攻め込み、難無くシチリアを制圧した。
シチリアを制したガリバルディは海峡を渡りナポリに駐留するフランス軍を攻めたがフランス軍はナポリを捨て、戦線を立て直してガリバルディ軍に反撃を加えた。
苦戦を強いられ窮地に立たされたガリバルディはイタリア統一を目指して南下したサルデーニャ国王ヴィットリオ・エマヌエーレ二世に軍団の指揮を委ね、合流した軍はフランス軍を敗走させた。
こうしてエマヌエーレ二世はイタリア統一に踏み出し、南伊のナポリ、シチリアは九世紀以降、千年以上に亘り、他国に支配された歴史に終止符を打った。
ナポリ湾の素晴らしい景色に見とれていたが添乗員に急がされバスに乗り込んだ。バスは再び曲がりくねった坂道を下りナポリの街に入った。
街は活気に満ち、狭い道路には人と車が溢れかえっていた。整然として落ち着いた佇まいのローマの町並みとは異なりナポリは喧騒と雑然とした印象を受けた。
ローマでは洗濯物を人目に曝す事を禁じているが此処ナポリでは堂々と空に翻っていた。それも下町に行くと道路を挟んで向かい合ったアパートの四~五階では道路を跨いで空中にロープを渡しそのロープに洗濯物がぶら下っていた。
バスから通り過ぎる路地を注意して見るとあちこちのアパートにロープが渡されているのが見えた。 ガイドは気取らないナポリの下町事情を洗濯物に托して語り、時にはパンティーやブラジャーが堂々と空にはためいている事も有ると面白おかしく話していた。
ナポリの下町の風情を垣間見てバスは混雑の激しい交差点に差し掛かると突然、路面電車の後に付いて軌道上を走りはじめた。
停留所に差し掛かるとバスは強引に車道に割り込んだ。ナポリで車を運転するには割り込みに怒らず割り込まれない様な運転技術が要求される様である。
そしてナポリでは車が通れる所は早い者勝ちで車を乗り入れ、車間距離も取らずひしめき合って走る反射神経が要求される。
混雑した交差点で良く見る光景に右折するバイクの大半が歩道に乗り上げ歩道を走って右折していた。(イタリアでは、車は右側通行)
ナポリ観光は車窓からに始終した。ガイドの説明ではイタリアで最も危険な街との事。イタリアマフィアの本拠もナポリに有り、山口組もイタリアマフィアと親交を持っているとの噂が有ると話していた。日本の旅行会社もナポリ宿泊と自由行動は避けているとの事。
車窓からサンタ・ルチア港の海上に浮ぶ卵城が見えた。卵城は十二世紀、ノルマン王によって建てられた城で、城を築くとき基礎部分に卵を埋めこみ、卵が割れた時、ナポリは危機に陥るとの伝説が有る。城の正式名称はカステル・デローヴォだが通称卵城と呼ばれている。
巨大な塔が聳え立つカステル・ヌオヴォ城、この城はフランス、アンジュー家のシャルル一世が築城しスペイン、アラゴン家のアルフォンソ一世が全面改築して三つの塔と凱旋門を完成させた。
カステル・ヌオヴォ城の隣りに有る王宮は十七世紀スペイン統治下に建てられ以降、歴代のナポリ王の居城であった。
十九世紀末に建築されたウンベルト一世のガレリア(ガラス天井のアーケード)等を車窓から眺めてバスはナポリの街を後にしてポンペイに向かった。