イタリア紀行
古代遺跡ポンペイ
ナポリからおよそ二十五キロ、標高一二八一メートルの雄大なヴェスヴィオ火山の裾野を縫ってポンペイに向かった。
ポンペイはナポリ湾に面したソレント半島の付け根に在り、海抜およそ四十メートルの丘陵に位置している。
ローマと同様に古い歴史を持ち、紀元前八世紀頃、イタリア先住民のオスクがヴェスヴィオ火山の古い溶岩台地の上に街の原型を建設しポンペイと名付けた。
往時はイタリアの南北を結ぶ中継地として栄え、一方、交通の要衝で有るが故に数々の侵略にも遭った。最初にポンペイを支配したのはギリシャの都市国家クーマ、その後エトルスキが支配したが紀元前五世紀の終わり頃、サムニウム族の侵攻を受け征服された。
街は征服者サムニウム族によって拡張され、縦に二本、横に二本の主要道路を中心に九つの区画に分けられ街の面積は六十六ヘクタールにも及んでいた。紀元前三一〇年、サムニウム族もローマとの戦いに敗れポンペイはローマの同盟国となった。
紀元前八九年、ポンペイはイタリアの諸侯と共にローマに反旗を翻したが敗れ完全なローマの植民地となった。
ポンペイを征服したローマは街の拡張を規制し街の整備に重点を置いた。道路は敷石で舗装し車道と歩道は区別され排水溝を整備し、雨水に頼っていたポンペイの街に鉛管の水道を引いた。貴族や富豪は邸宅の内に水道を引き込み中庭に噴水を配した。
そしてローマに倣い神殿や二万人収容出来るコロッセオ(円形劇場)、公衆浴場、公衆便所、等々を建設しポンペイの都市基盤を整えた。
紀元六二年、突然ヴェスヴィオ火山が噴火し一瞬の内に街は破壊され瓦礫の山となったが生き残った市民が街を再建し以前に増して栄えた。
しかし、災害が忘れ去られた紀元七九年八月二四日正午頃、突然ヴェスヴィオ火山が噴火して大爆発を起こし山上を吹き飛ばした。
火柱が天に立ち上り、巨大なきのこ雲が厚く空を覆い太陽も隠された。灼熱の溶岩が濁流の如く流れ天からは熱い火山礫、火山灰が降り注いだ。
屋根は崩れ落ち逃げ場を失った人々は降り注ぐ灼熱の火山灰に埋もれ命を落とした。想像する事さえ忌まわしい大惨事であった。
火山礫、火山灰は三日間降り注ぎポンペイの街は厚さ六メートルに及ぶ火山礫、火山灰で人も街も覆い尽くされた。
二度の災害を被ったポンペイは再建される事なく厚い灰に埋もれ、街は忘れ去られていた。
それからおよそ一六〇〇年後に遺構が発見されたが厚い灰に阻まれ発掘には至らなかった。ポンペイの遺跡が発見されて一五〇年の後ブルボン家の援助を得て発掘が行なわれたが遺品の発掘に留まり、逆に遺跡を荒らす結果となった。
一八六〇年ジュゼッペ・フィオレッリによって部分的ではあるが本格的な発掘が開始され街の遺構が姿を現した。
その後、組織的な発掘が行なわれ街の全貌が明らかとなり発掘は現在も続けられている。発掘の途上、堅い火山礫の中に出来た無数の空洞に疑問を抱いた一人の研究者がその空洞に石膏を流し込み型を取って見るとそれは動物や植物それに被災した人々が降り注ぐ灼熱の火山礫に閉じ込められて死に絶えた空間であった。
ポンペイの遺跡の出土品と共に石膏を流し込んで当時の被災者を再現した生々しい数々の遺体?が展示されていた。
うつ伏せになった遺体、膝を折り曲げた遺体、子供を抱きかかえて覆い被さっている遺体、惨劇を目の当たりにして目を覆いたくなる様な被災者の石膏像であった。
往時、ポンペイにはおよそ二万人の人々が住んでいたと推定されている。これだけ多くの人々が一瞬の内に灼熱の灰に埋もれて亡くなった。
ポンペイと同じ様にナポリ湾に面したローマ時代のリゾート地ヘルクラネウムもヴェスヴィオ火山の噴火によって火山灰の下に埋没した。
ヘルクラネウムの遺跡も一九三八年に発見され盗掘の後、最近になって発掘が本格化した。発掘が進むにつれリゾート地に相応しい大豪邸や図書館を始め、大衆浴場、コロッセオの跡が良好な状態でほぼ往時のままの姿を現したと伝えられている。
訪れたポンペイは空に雲一つ無く紺碧に澄み渡り、真夏を思わせる暑い日差しが眩しいほどに降り注いでいた。
舗装された急な坂道を登ると城壁が連なり、丸天井の二つの門が有った。往時、左の門は歩行者用、右の門は荷馬車用であった。この門をくぐり二千年前にタイムスリップしてポンペイの街に入った。
大通りには凱旋門が高々と聳え、通りの両側には崩れた塀と邸宅の跡と思われる石柱が立ち並んでいた。荷馬車用の石畳の道を歩くと敷石に轍の跡が深々と刻まれていた。
往時、この道を何万台もの荷馬車が轍の跡を踏んで行き交ったのか、轍の跡は磨かれた様に滑らかで驚くほど深く刻まれ初めは雨水の排水溝かと思った。
豪邸とおぼしき門構えの家には水道の導管が往時の姿で道に埋設されていた。狭い路地に入ると通りには居酒屋が有り、喫茶店が有り、パン屋が有り、路地の奥には売春宿もあった。
二千年前にも男の欲望を癒す歓楽の裏通りがあった事に驚かされた。売春宿に入ると入り口の壁には巨大な性器を露出した男性のフレスコ画が描かれ、通路の壁面にはエロティックな性戯を描いた色鮮やかなフレスコ画が有り、往時の繁栄を物語っていた。
富貴な家の中庭には噴水が有り大理石のテーブルはついこの間まで使われていた如くであった。中庭を巡る回廊の壁面には二千年の歳月を経たとは思えないほど色鮮やかなフレスコ画が描かれていた。
ポンペイの遺跡の一部を見たに過ぎないが、本質的には現代社会とさほど変わらぬ生活が想像できる。街は広い道路で区画され道に上下水道が埋設され、神事を執り行う神殿が有り、娯楽の為の円形競技場、劇場が有り、公共広場には公共建造物と思しき大理石の石柱が立ち並んでいた。邸宅には噴水が有り、壁にはフレスコ画が描かれ往時は優雅な生活を楽しんでいた事が想像出来る。
二千年前のポンペイは商業で栄え、よほど裕福であったのかそれともこの時代の一般的な都市であったのか、壮大な神殿、豪壮な邸宅、生気溢れるフレスコ画、色鮮やかなモザイク、想像を超える遺構を見て、栄光のローマ時代に改めて驚嘆した。
ポンペイは時代と共に移り変わり打ち捨てられた街では無く一瞬の災害で埋もれた街で有る事を訪れる全ての人々が知っている。
街は静まりかえり観光客以外、人影も無く、青く澄み切った南国の空がいっそう荒涼とした廃墟を浮き立たせていた。
今も人が住んでいるかの如き生々しい庶民の住居跡、中庭が有り噴水を施した贅沢な貴族の館、白大理石の円柱が建ち並ぶ神殿、二万人の人々が一瞬の災害で亡くなった石膏像、等々二千年前、繁栄を謳歌したであろう遺跡を目の当りにしても飛鳥の発掘でロマンを掻き立てられる様な感動とは異なり、何かしら寂寥とした感じを覚えた。