イタリア紀行

ファッションの街ミラノ

ファッションの街ミラノ、大聖堂、イタリア  イタリア最大の商業都市で有りイタリア・ファッションの発信地、ミラノを訪れた。在ミラノ日本総領事館の広報によれば、「北イタリアは、フランス、スイス、オーストリアなどと国境を接し、これらの諸国との経済、文化交流が活発に行われており、豊かな文化とその活発な商業活動、そしてそれを支える伝統が根付いています。

 中でも、ミラノは、文化・芸術の中心地であり、オペラの殿堂、スカラ座を中心として各種音楽会が頻繁に開催されている他、絵画・彫刻等の展覧会も年間を通じて数多く開催されております。他方、イタリア随一の商業都市で、金融、保険、サービス産業の中心地でもあります。

 ミラノを首都とするロンバルディア州は、イタリア経済の「機関車」と呼ばれ、経済面でも最も先進かつ活動の活発な地域となっており、イタリア全土の約五〇%の企業が集中し、総輸出額の七〇%を占めています。」と冒頭に記してあった。そして、ミラノを訪れる日本人の数は、年間五〇万人とも記していた。

 イタリア第二の都市ミラノは、古くは西ローマ帝国の首都であった。三一三年西ローマ帝国の副帝であったコンスタンティヌス帝は西の正帝マクセンティウスに戦いを挑み、勝利して「ミラノ勅令」を発布し、其れまで迫害を受けていたキリスト教を公認した地でもある。

 西ローマ帝国が滅びミラノも他のイタリア諸都市、ヴェネチア、フィレンツェと同じく自治都市となった。

 その後、フィレンツェがメディチ家に支配された如く、ミラノも一二五七年、オットー・ヴィスコンティがミラノの大司教となってヴィスコンティ家が台頭した。

 オットーの跡を継いだ甥のマッテオ・ヴィスコンティはミラノで最も有力なトッリアーニ家との抗争を経てミラノ支配を確立した。

 ヴィスコンティ家が専制君主の地位を固めたのはジョヴァンニ・ヴィスコンティであった。彼はミラノ大司教であったがミラノ領主の跡も継ぎ、左手に十字架を持ち、右手に剣を握って北イタリアに領地を拡大し教皇からも皇帝からも独立した君主国家を樹立した。

 ジョヴァンニは死に際し領地を甥のマッテオ、ベルナボ、及びガレアッツォの三兄弟に分け与えた。以後、ヴィスコンティ家はミラノ支配者の地位をめぐって暗殺と陰謀が繰り返された。

 ミラノ領主の跡を継いだマッテオは総領の甚六で快楽にふけりボローニャの反乱も鎮圧出来なかった。ヴィスコンティ家の危機を感じたベルナボ・ヴィスコンティはガレアッツォと謀ってマッテオを殺しヴィスコンティ家の領地を二人で分けベルナボがミラノを支配した。(ベルナボの妻がレジーナ・デッラ・スカーラ)

 ベルナボは領土拡張の野望に燃え、近隣を攻め戦争に明け暮れていた。一方のガレアッツォはパヴィアを居城とし争いを好まず、文化、芸術の理解者として著名な文化人を招聘し、ベルナボとは異質な支配者であった。

 一三七八年、ガレアッツォが没し、跡を継いだ嫡子のジャン・ガレアッツォは物静かな青年であった。野心家の戦士ベルナボはジャン・ガレアッツォが引き継いだ領地を奪い取る計画を進めていた。

 ベルナボの陰謀を知ったジャン・ガレアッツォは妻のイザベラが亡くなったのを機会にベルナボの娘、カテリーナ(レジーナ・デッラ・スカーラの娘)を後添えとした。

 ジャン・ガレアッツォはベルナボが思い込んでいた物静かな青年では無く、冷徹を内に秘めた非情さも兼ね備えていた。

 絆を強めたかに装ったカテリーナとの結婚も彼の深慮遠謀な考えに基づくものであった。ジャン・ガレアッツォは敬虔なキリスト教の信者を装い、ベルナボの陰謀に感付いている事をおくびにも出さなかった。

 一三八五年、ジャン・ガレアッツォは巡礼の旅に出るので後事を托したい、ついては旅の途中で是非お会いしたいとベルナボの元に使いを遣った。

 物静かな青年と信じ込んでいるベルナボは疑いを差し挟む事無く、遂に野望を成し遂げる時が来たと息子達を引き連れ、ジャン・ガレアッツォの指定した場所に向かった。

 ベルナボは巡礼の旅にしてはガレアッツォが引き連れる護衛の兵士が多いのに驚いたがまさか陰謀を企てているとは露ほども疑わなかった。

 ベルナボの到着を知ったジャン・ガレアッツォは敬意を表し馬から飛び降り、地に膝を屈して出迎えた。それが合図であった。護衛の兵士は一斉に剣を抜き放ち、ベルナボと付き従って来た息子達に斬りかかった。

 こうして、ジャン・ガレアッツォはベルナボとその息子達を殺害しヴィスコンティ家の全ての領地を握った。

 専制君主となったジャン・ガレアッツォはミラノに君臨し、ベルナボに恩顧を受けた領主が企てる反逆を次々に鎮圧し、捕らえた領主は見せしめとして残忍極まりない方法で処刑した。領主はガレアッツォを恐れミラノは強力な中央集権国家となった。

 他国から見れば暴君のガレアッツォだが政策は開明的でこの君主の元でミラノは北イタリア最大の都市となり商業が栄え市域は二倍に広がった。

 ジャン・ガレアッツォの妻、カテリーナに男子が誕生しジョヴァンニ・マリーアと命名した。建築に熱心なジャン・ガレアッツォは後継者の誕生に感謝し、一三八六年ミラノ大聖堂(ドゥオモ)の造営を命じた。

 国庫から莫大な資金を拠出しフランス、ドイツから技術者を集め、サン・ピエトロ大聖堂(紀元三二二年、コンスタンティヌス帝が建てた大聖堂)を凌ぐ最高のゴシック建築を計画した。それは無数の尖塔を林立させた壮大な大聖堂であった。

 他方、ジャン・ガレアッツォは領土を拡大し北イタリアを統一する中央集権国家の樹立に意欲を燃やしていた。

 その為に戦略に長けた優秀な傭兵隊長をミラノに招き軍備拡張を進めた。(ミラノも当時のイタリア自治都市と同じ様に軍隊は傭兵に頼っていた)

 丁度、その頃、ヴェネチアと友好を結ぶパドヴァの領主ダ・カッラーラ家と、ミラノと姻戚関係に有るヴェローナ領主デッラ・スカーラ家が互いに私領拡大を目指して争った。

 ジャン・ガレアッツォはこの紛争を領土拡張の好機と見て両者の争いに介入した。ジャン・ガレアッツォの取った行動は冷徹であった。

 スカーラ家とは姻戚(妻カテリーナの母レジーナ・デッラ・スカーラはスカーラ家の出)にも関わらずジャン・ガレアッツォはスカーラ家に加勢するかの如く装ってヴェローナに軍を差し向け、いきなりヴェローナに襲い掛かった。ミラノに攻められるとは思ってもいないヴェローナは腹背に敵を受け、瞬く間に敗走した。

 ヴェローナを奪ったジャン・ガレアッツォは時を置かずパドヴァに軍を向けた。パドヴァの領主も軍を向けられて始めてジャン・ガレアッツォが何故ヴェローナを襲ったかの真意を知ったが、時すでに遅く瞬く間にパドヴァは包囲され已む無く降伏を願い出た。

 こうして、ジャン・ガレアッツォはパドヴァの領主を追放して領地を広げ、ヴェネチアに程近いヴィチェンツァやトレヴィーゾも支配下に治めた。

 一三九五年、ロンバルディア州の統治を目論むジャン・ガレアッツォは神聖ローマ皇帝に働き掛け、ミラノ公爵の世襲称号を得てロンバルディア総督となった。

 大義名分を得たジャン・ガレアッツォは本格的な統治に乗り出し、ロンバルディア州に飽き足らず、トスカーナを支配するフィレンツェに矛先を向けた。

 ピサを屈服させ、抵抗するシエナの領主は謀略をもって殺害し、ジェノヴァやルッカも圧力に屈しミラノの支配下に入った。

 一三九七年、ボローニャを屈服させ、トスカーナ地方を席捲し、ペルージャも占領した。こうしてミラノの長年の宿敵フィレンツェはボローニャ、ペルージャ、アッシジ、シエナ、ピサとフィレンツェを中心にした環状の都市を全て、ミラノに支配され敵地の中に孤立する状況に立ち至った。

 軍事力で劣るフィレンツェの命運も尽きたかに見えたが一四〇二年、ジャン・ガレアッツォが疫病に罹りあっけなく病死してフィレンツェの危機は去った。

 ジャン・ガレアッツォが没し、遺言によりミラノ公国は幼い三人の息子達に分け与えられた。十四歳の嫡子、ジョヴァンニ・マリーアがミラノ公を継承し、十一歳の次男、フィリッポ・マリーアがパヴィアの領主となり、ガブリエレ・マリーア(庶子)にはピサが与えられた。

 幼い息子達に広大な領地を統治する力は無く気丈なジャン・ガレアッツォの妻、カテリーナ(ベルナボの娘、ジャン・ガレアッツォの従妹)が摂政として振舞った。

 しかし、ジャン・ガレアッツォに仕えた将軍達は承服せず互いに争って領地を略奪し私領とした。こうして、ジャン・ガレアッツォが築き上げたミラノ公国は崩壊し領地は四分五裂して将軍達の私領と化し、近隣諸国はミラノの弱体に付け込み領土は次々に奪い返された。

 ボローニャ、ペルージャ、アッシジは教皇に奪われ、ジャン・ガレアッツォが没して勢いを得たフィレンツェは一四〇六年にピサを攻略し奪回した。

 ヴィスコンティ家にとって不幸な事に、ミラノ公を継承した嫡子、ジョヴァンニ・マリーア自身も近親結婚(ジャン・ガレアッツォの妻、カテリーナはベルナボの娘でジャン・ガレアッツォの従妹に当たる)の弊害か精神を病み、しばしば、摂政として振舞う母カテリーナと衝突を繰り返した。

 ボローニャ、ペルージャ、アッシジと領土は次々に奪われ遂に、ジョヴァンニ・マリーアは母のカテリーナをミラノから追放した。その後カテリーナは何者かによって毒殺された。

 パヴィアの領主となった十一歳のフィリッポ・マリーアも側近によって事実上パヴィアの城に幽閉され、パヴィアもジャン・ガレアッツォに仕えた将軍の私領となった。

 ミラノもカテリーナが摂政として振舞っていたが実権はファチーノ・カーネ将軍に握られていた。将軍はジャン・ガレアッツォの信任が厚くジョヴァンニ・マリーアの後見を托されていた。

 カテリーナに仕え、領地を守る事に腐心したが精神を病むジョヴァンニ・マリーアがカテリーナを追放するに及んで自ら実権を握り実質的にミラノを支配した。

 ジョヴァンニ・マリーアは興奮すると残虐な性格をむき出しにして見境も無く剣を振りまわして人を傷つけ罵声を浴びせた。自尊心を傷つけられ、傷を負わされた貴族の一人が報復に及びマリーアを刺し殺した。

 ファチーノ・カーネ将軍はこの時、病の床に伏せていた。ジョヴァンニ・マリーアが暗殺され、ヴィスコンティ家を継ぐのはパヴィアの城に幽閉されているフィリッポ・マリーアであった。

 フィリッポ・マリーアはジャン・ガレアッツォが没した時、十歳であったが、この時二十歳の青年に達していた。

 余命幾ばくも無いと悟ったファチーノ・カーネはまだうら若い最愛の妻、ベアトリーチェ・ディ・テンダの行く末を案じた。

 座して死を待てば虎視眈々とミラノ支配を狙うベルナボの息子達やかつての将軍達、それに近隣の諸国がミラノ争奪の戦いを繰り広げミラノは戦場となり、ベアトリーチェにも不幸が襲い掛るであろうと思った。ミラノとベアトリーチェを救う為に最後の望みをフィリッポ・マリーアに托そうと決断した。

 ベアトリーチェを病床に呼び入れフィリッポ・マリーアとの結婚を承諾させ、軍をパヴィアの城に差し向け、フィリッポ・マリーアを救い出してミラノに呼び寄せた。

 そして、ファチーノ・カーネはフィリッポ・マリーアにベアトリーチェとの結婚を条件にミラノの領地と軍の指揮を委ねると告げた。これが遺言となりファチーノ・カーネは日ならずして没した。

 ファチーノ・カーネの予想通り、ファチーノ・カーネの死を待ち焦がれていた如くベルナボの息子達(フィリッポ・マリーアの叔父)が復権を果たす好機と見てミラノに乗り込んで来た。

 ベアトリーチェは遺言に従い、フィリッポ・マリーアと結婚して公爵夫人の地位を手に入れ、フィリッポ・マリーアはベアトリーチェを妻に迎えた事によって、ミラノの領地とファチーノ・カーネの軍隊を手に入れた。(ベアトリーチェは六年後、不貞の罪を捏造され処刑された)

 ファチーノ・カーネの軍隊を継承したフィリッポ・マリーアは軍を率いてミラノに入城し、直ちにベルナボの息子達(叔父)を捕らえ、立つことも、横になることも出来ない地下牢に閉じ込めた。

 ミラノの領主となったフィリッポ・マリーアは公国を私領する将軍達を服属させ、或いは攻め滅ぼしてヴィスコンティ家の旧領を奪回した。

 ロンバルディアにミラノ公国を再興し公爵を継承したフィリッポ・マリーアは隣国と条約を取り交わした。

 ヴェネチアとはヴェローナとヴィチェンツァの放棄を条件に条約を結び、フィレンツェとも互いの領土を尊重する事で決着を付けた。

 条約を結んだがフィリッポ・マリーアも父の血を受け継ぎ、北イタリアを統一する父の野望を忘れた訳ではなかった。ミラノ公国の内政を固めると父と同様に軍備を増強し、優秀な傭兵隊長を高給で迎え入れた。

 しかし、フィリッポ・マリーアは血筋なのか、幼少の頃から幽閉された心の歪みなのか、父に劣らず冷徹で猜疑心が強かった。

 彼らに信頼を置かず敵に寝返る事を恐れて彼らの妻子を人質とした。カルマニョーラも高給で迎え入れられた傭兵隊長の一人であった。

 戦いで数々の戦功を挙げフィリッポ・マリーアに認められて貴族の娘を妻に迎え入れたが、冷徹なフィリッポ・マリーアに馴染めず妻子を残して逃亡しヴェネチアの傭兵隊長となった。

 一四二四年、フィリッポ・マリーアはフィレンツェと取り交わした条約を反古にしてトスカーナに攻め入った。

 フィレンツェの傭兵部隊は緒戦に敗れ、敗退を繰り返してフィレンツェに危機が迫った。フィレンツェのジョバンニ・デ・メディチは急遽、大使としてヴェネチアに赴き同盟と参戦を要請した。

 ヴェネチアもジャン・ガレアッツォの再来と見てヴィスコンティ家の膨張を恐れていた。フィレンツェが陥落すれば北イタリアにロンバルディアとトスカーナを領有する強大な国が出現し、ヴェネチアも脅威に曝される。

 ヴェネチアに異存は無く参戦を承諾し両国は同盟を結んでミラノに対抗した。ヴェネチアは傭兵隊長のカルマニョーラに出陣を命じたが妻子をミラノに残しているカルマニョーラは病と称して出陣に応じなかった。

 ヴェネチア首脳はしばらく様子を見たが一向に出陣する気配も見せないカルマニョーラに業を煮やし、賃金の支払差し止めも辞さずと執拗に出陣の強請を繰り返した。

 傭兵の身に出陣を拒む理由は無く、意を決っして出陣したカルマニョーラは一四二七年秋、マクロディオの野でミラノ軍と激突した。

 ミラノの内実を知り尽くし戦略に長けたカルマニョーラはミラノ軍を翻弄し、奇襲を受けたミラノの傭兵部隊は命を惜しみ武器を捨てて敗走した。

 これが引き金となってミラノ軍は崩壊し全軍が我先にと敗走した。この戦で一万を超えるミラノ兵が捕虜となりヴィスコンティ家の軍旗は踏みつけられ、多量の兵器が戦利品としてヴェネチアに渡った。

 マクロディオの野で大敗を喫し、フィリッポ・マリーアの北イタリア統一の野望は潰え去った。反撃する戦力を失ったミラノはヴェネチアにベルガモを割譲し、フィレンツェとは不可侵条約を結んで両国と講和した。

 ミラノを出奔したカルマニョーラに北イタリア統一の野望を打ち砕かれたフィリッポ・マリーアは彼をミラノに呼び戻すべく密書を送った。

 密書には破格の条件を提示して仕官を促すと共に、妻子の近況が書き記され、命に従わねば不幸が待ちうけていると脅迫し、懐柔と恫喝をな綯い交ぜて帰国を迫る内容であった。

 しかし、カルマニョーラは誘いに応じなかったが、この密書が災いとなってカルマニョーラは疑いを掛けられ反逆の罪で首に斧が振り下ろされた。

 フィリッポ・マリーアの膨張政策の影に傭兵隊長として迎えられたフランチェスコ・スフォルツァがいた。フィリッポ・マリーアにとってスフォルツァは野心を遂げる為に無くてはならぬ人材であった。

 しかし、スフォルツァもミラノに迎えられてから数々の戦功を立てたが所詮、傭兵隊長で有りカルマニョーラと同様に何時、敵に寝返るか油断も隙もならなかった。

 一度、敵方についた時はフィリッポ・マリーアは苦戦を強いられ彼を呼び戻した経緯があった。スフォルツァはミラノに復帰するに当たり一族として遇する事を要求した。

 スフォルツァを失うのを恐れたフィリッポ・マリーアは彼の要求を入れ、三十一歳の将軍に七歳の娘ビアンカを嫁がせ、スフォルツァをミラノに呼び寄せた。

 一四四七年、フィリッポ・マリーアが没しヴィスコンティ家に男子の継承者が絶えた。ミラノの市民は自治都市復活を叫んで蜂起し、王宮を襲い革命を起こした。

 隣国はミラノの混乱を見逃さずヴェネチアはすかさずミラノに攻め入り包囲した。自治都市の首脳は成す術を知らずミラノは陥落の危機を迎えた。

 しかし、スフォルツァは兵を集めて反攻に転じヴェネチア軍を撃退し、共和国首脳が籠る王宮を包囲した。 共和国首脳は屈辱を忍んでスフォルツァを迎え入れミラノ公の地位を奉げた。

 ミラノ公を継承したフランチェスコ・スフォルツァはヴィスコンティ家の居城(スフォルツァ城)に入りヴィスコンティ家の旧領を回復してミラノ公爵を継承した。

 一四九四年、フィレンツェのピエロ・デ・メディチはミラノを警戒してナポリと同盟を結び、この同盟にヴェネチアも賛同して加わった。

 三国同盟が結ばれた事を知った教皇アレクサンデル六世は半島中部にフィレンツェ、ヴェネチア、ローマ、ナポリを糾合した教会国家の樹立も夢ではないと思いこの同盟を歓迎した。

 一方、孤立したミラノは半島の外に同盟者を求めざるを得なくなった。時のミラノ公、ジャンガレアッツォ・スフォルツァは国の実権を叔父ルドヴィーコに委ねていた。

 イル・モーロ(黒人)とあだな綽名され実質的にミラノを支配していたルドヴィーコはフランスと同盟を結び、フランス王シャルル八世に元々フランスの所領であったナポリ遠征を進言した。

 シャルル八世はルドヴィーコの思い付きに等しいナポリ遠征に強い関心を示した。シャルル八世はフランス王ルイ九世が二度に亘り十字軍を率いて聖地奪回を目指した事に強い憧れを抱いていた。

 成せるならフランス騎士団を率いて遠征し、ルイ九世も成せなかった聖地奪回を成し遂げて見たいとの思いを胸に秘めていた。

 ルドヴィーコはシャルル八世がその様な憧れを抱いていたとは露知らず、同盟して敵対するイタリア諸国にフランスの力を見せつけたいと世辞の積もりでナポリ遠征をシャルル八世に進言した。まさか、シャルル八世が言を入れ、イタリア遠征を敢行するとは思っても見なかった。

 一四九四年、シャルル八世は旧領の回復と南伊を聖地奪回の基地にと考え、五万の大軍を率いてイタリアに侵攻した。

 フランスの侵攻を知ったアルノ河口の港湾都市ピサはフィレンツェからの独立を代償に戦わずして降伏し、フランス軍はフィレンツェに迫った。

 フィレンツェのピエロも交渉に赴いたがフランス軍の威容を見て驚嘆し干戈を交える事無く降伏した。シャルル八世は行軍するが如くイタリア半島を南下し、フランス軍の接近を知ったナポリ王はシチリアに逃れ、シャルル八世は難無くナポリ王国を征服した。

 易々とイタリアを南下しナポリを征服したフランス軍の威容を知った教皇はこのままではイタリア全土がフランス一国に支配されると感じた。

 フランスの支配下になれば東ローマ帝国皇帝が東方正教会の大主教を任命した如く、教皇もフランス王に膝を屈し、王の指図を仰がねばならない事態を想像した。教皇領も失い、王に超越した権威も失墜する。

 教皇権の危機を感じた教皇はイタリア全土の諸侯に結束を呼び掛ける檄文を発し、フランス王シャルル八世の野望を阻止する反仏神聖同盟に動いた。

 各国も一国では太刀打ち出来ないフランスの軍事力に脅威を抱き、危機感を募らせていた。各国は教皇の呼び掛けに応じて大同団結し反仏神聖同盟を結成した。

 ミラノはフランスとの同盟を尊重して反仏神聖同盟と敵対するかフランスとの同盟を反古にするか態度を決せねばならない事態となった。

 敵対すればナポリに駐留するフランス軍が駆け付ける前にミラノは陥落するであろう、苦渋の決断を迫られたミラノはフランスとの同盟を反古にしてこの反仏神聖同盟に加わった。

 一四九五年、ナポリに駐屯するシャルル八世はイタリア全土が教皇の呼び掛けに応じて大同団結したと知らされ、この同盟にミラノの摂政ルドヴィーコも加わったと知って愕然とした。イタリア全土を敵に廻す事態に直面し已む無く撤退を決意した。

 シャルル八世の軍は粛々と北上しイタリア諸侯も敢えて戦闘を交えずシャルル八世は何の為の遠征であったかと苦悶しつつフランスに帰国し、帰国後程なく病を得て失意の内に没した。シャルル八世の遠征は失敗したがこの遠征が傭兵に頼るイタリアの軍事的無力を全欧に露呈した。

 シャルル八世の跡を継いだルイ十二世は父の死期を早めたミラノの裏切りに憤りを感じていた。一四九九年、ルイ十二世は父の怨念を晴らすべく大軍を率いてイタリアに攻めこんだ。

 この頃、レオナルド・ダ・ヴィンチはフィレンツェを去り、ルドヴィーコの庇護を得て一四八二年からミラノに移り住んでいた。

 一四九五年、ルドヴィーコの依頼を受け改築したサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の壁に三年を費やして「最後の晩餐」を描き終え、引き続いて大騎馬像の制作に当たっていた。

 傑作となるであろう鋳型が出来あがった頃、ルイ十二世のフランス軍がミラノに押し寄せてきた。レオナルド・ダ・ヴィンチは制作を中断し難を逃れてフィレンツェに戻った。

 ミラノに入ったルイ十二世はフランスを裏切り、シャルル八世を死に至らしめたミラノの摂政ルドヴィーコを捕らえて獄に繋ぎ、フランス騎士団にミラノ蹂躙を命じた。軍律を解かれた兵士は野に放たれた野獣の如く手当たり次第に略奪暴行を欲しい侭にして市民を恐怖に陥れた。

 捕らえたルドヴィーコには積年の恨みを晴らす激しい拷問が加えられた。拷問は日の出から日没まで休む事無く加えられ、ルドヴィーコは拷問に耐え切れず獄死した。レオナルドが制作を中断した大騎馬像の鋳型はフランス兵の格好の標的となり粉々に打ち砕かれた。

 ミラノを蹂躙したフランス軍はイタリアを南下したが、フィレンツェを始めイタリア諸国は手も足も出せずルイ十二世の軍が早く領地を過ぎ去るのを黙って見送った。

 フランス軍の進攻を知ったナポリはスペインに救援を求めイタリアは二大強国の角逐の場となった。結局、両国は講和を結び、ミラノはフランスの領土となり、ナポリはスペインの直轄領となった。

 一五一九年、父方からドイツ・オーストリア皇帝を、母方からスペイン王位を受け継いだハプスブルク家の皇帝カール五世が即位し、巨大な国の出現に脅威を感じたフランスは一五二一年、先制攻撃を仕掛けイタリア戦役が勃発した。

 戦場となった北イタリアでいつ果てるとも知れない戦いが繰り広げられ北イタリアは両軍の馬蹄に蹂躙された。

 フランス王フランソア一世は自ら陣頭に立ちロンバルディアの古都、パヴィア奪回作戦を指揮し包囲したが背後から皇帝軍の強襲を受け全軍が壊滅し、自身も捕虜となった。

 こうしてカール五世はイタリアの覇権を握り、スフォルツァ家のフランチェスコ二世(ルドヴィーコの次男)をミラノ公に復帰させたが所詮はかいらい傀儡政権であった。

 一五三五年、フランチェスコ二世が没し、ミラノは皇帝の直轄領となった。一七三四年、栄華を極めたメディチ家も最後の大公ジャンガストーネが没してメディチ家は滅びトスカーナも列強が支配する地となった。

 列強のイタリア支配が強まる中、ピエモンテ州を領するサヴォイア王家とヴェネチア共和国の二国、が辛うじて独立を保っていた。

 一七八九年、階級制度の矛盾と重税に苦しむフランス市民は絶対王政の打倒を叫んで立ちあがりフランス革命が勃発した。

 市民はバスティーユ牢獄に繋がれていた政治犯を解放し「人権宣言」を採択して共和国政府の樹立に走った。

 一七九一年、憲法が制定され立法議会が開かれ穏健派は立憲君主制を主張したが入れられず紆余曲折を経て議会は王政廃止を決議しフランス共和国が誕生した。

 政府は国王ルイ十六世を法廷に引き摺り出し裁判に掛けて死刑を宣告し、一七九三年フランス王ルイ十六世を処刑した。さらに王妃マリー・アントワネットも国費を浪費した罪で処刑した。

 一七九六年、革命政府はナポレオン・ボナパルトをイタリア方面軍司令官に任命しイタリア侵攻を開始した。ナポレオンはフランス革命軍を指揮してイタリアに雪崩れ込んだ。傭兵に頼るイタリアの国々は圧倒的なフランス軍に抗する術も無く領地を明渡した。

 ピエモンテ州を領しトリーノ(州都)に居城を構えるサヴォイア王家も国を捨ててサルデーニャ島に逃れ、ミラノもナポレオンに占領された。ヴェネチアもナポレオンの軍靴に踏みにじられて共和国千年の歴史に終止符を打った。

 イタリアに駐留するオーストリア軍も敗北を重ね、ナポリのブルボン王家もシチリア島に逃れた。イタリア半島を制圧したナポレオンは反転してオーストリアの首都ウィーンに迫った。

 一七九七年フランスとオーストリアは和睦しミラノはフランス領、ヴェネチアはオーストリアの直轄領となった。

 一八〇四年、ナポレオンがフランス皇帝となり、イタリア半島全域がナポレオンの私領となった。辛うじて命運を保っていたのはサルデーニャ島に逃れたサヴォイア王家とシチリアに逃れたナポリのブルボン王家のみであった。

 皇帝に就いたナポレオンは戦争に憑かれた如く全欧を席巻し各国を震撼とさせた。

 一八一五年、ナポレオンは五十万の軍隊を率いてロシアに大遠征を敢行したがロシアの冬の寒さに勝てず敗退し、帰還したナポレオンを待ち受けていたのはクーデターであった。ナポレオンは地中海のエルバ島に流されたが脱出し皇帝に帰り咲いた。

 イギリスを始め欧州の各国はナポレオンの復権に危機感を募らせ連合軍を組織してナポレオンに戦いを挑んだ。

 ナポレオンも十余万の軍隊を組織しワーテルローで英国軍と決戦に及んだが敗退し、セントヘレナの孤島に幽閉され五年後に病死した。

 ナポレオン体制が崩壊しイタリアも旧に復し亡命していた君主達は帰り咲いた。サルデーニャ島に逃れサルデーニャ王国として命運を保っていたサヴォイア王家も旧領を回復しピエモンテに復帰した。

 しかし、ヴェネチア、ジェノヴァ、ルッカの三共和国は復元されず、イタリア半島は再びオーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン王家が支配する時代に逆戻りした。

 イタリアの旧領主は復権を狙ってナポレオンに代わりイタリアの支配権を掌握したオーストリアに取り入ろうと暗躍し、祖国統一を夢見る若者は秘密結社を組織し地下活動に邁進した。

 一八四八年、全欧に革命の嵐が吹き荒れその年の二月、フランスで市民が蜂起し王政を打倒して共和制が宣言された。(フランスの二月革命)

 革命の波はウィーンを襲いオーストリアも呑みこまれ王政は崩壊した。この波はイタリアにも波及し祖国統一と共和制をスローガンに市民を立ち上がらせ、ミラノでは武装蜂起した市民がオーストリア軍と衝突し流血の騒ぎを起こした。

 同じ頃、ヴェネチアでもマニンの呼び掛けに応じて市民が決起しオーストリア軍を撤退に追い込んでいた。

 シチリアのパレルモでも市民が蜂起し、シチリア国王は市民の要求に押されて憲法を発布した。トスカーナ大公国もサルデーニャ王国も市民の要求に押されて立憲君主制の憲法を発布した。

 反乱は各地に広がり、ミラノでは激しい市街戦となり各地から義勇軍がミラノに押し寄せた。オーストリア軍は膨れ上がる義勇軍に押され遂にミラノから撤退した。この勝利にイタリア中が沸き返り、一挙にイタリア統一運動に発展していった。

 この機を逃さずサルデーニャ国王、カルロ・アルベルトはオーストリアに宣戦布告した。群小の領主も市民の蜂起を恐れて自国をサルデーニャ王国に併合する決議を採択しカルロ・アルベルトに援軍を送った。教皇ピウス九世も義勇軍を募り援軍を送った。こうしてサルデーニャ国王カルロ・アルベルトはイタリア統一の希望の星となった。

 しかし、国内の混乱を収束したオーストリアは反撃に転じサルデーニャ王国軍を打ち破りカルロ・アルベルトは撤退に次ぐ撤退を繰り返しミラノに退却したが支えきれず已む無く講和を申し出た。

 しかし、講和は決裂しカルロ・アルベルトは五万の兵を率いて再びオーストリアと対峙したが激闘の末に敗れ、王は和を請い、退位して我が子のヴィットリオ・エマヌエーレ二世に王位を譲った。

 サルデーニャ王国の宰相に就任したカヴールは王国の再建に奔走し富国強兵を推し進めた。フランスの混乱を収束したナポレオン三世とも密約を結びサヴォイア王家発祥の地サヴォイアとニースをフランスに割譲する事も辞さなかった。

 フランスと同盟したサルデーニャ王国は連合軍を組織しミラノに攻め入り、オーストリア軍はトスカーナから撤収しヴェネットに撤退した。

 ニースに生まれ船員から祖国統一の革命に身を投じたジュゼッペ・ガリバルディは生まれ故郷がフランスに割譲されたと知り義勇軍を組織してブルボン王家の領地、シチリアを制圧し海峡を渡ってナポリに駐留するフランス軍を敗走させた。義勇軍は勢いに任せローマに進撃を開始した。

 サルデーニャ王国の宰相カヴールはガリバルディに征服したシチリア、ナポリをサルデーニャ王国に併合する様に再三再四説いたが共和制の信奉者であるガリバルディは聞き入れなかった。

 意を決したカヴールはヴィットリオ・エマヌエーレ二世に出馬を仰ぎ、王は三万の軍勢を従えて南下した。王国軍は疾風の如くウンブリア州、マルケ州を制圧しナポリ領に進撃した。

 一方のガリバルディはナポリを捨てガエータで戦線を立て直したブルボン王家軍に苦戦を強いられていた。

 王国軍が迫り窮地に立たされたガリバルディはサヴォイア王家のもとでイタリアの統一を成し遂げるか、あくまでも共和制にこだわり同志を死に追い遣るか思い悩んだ。

 局面を打開するには共和制を捨て祖国統一を選ばざるを得ないと悟ったガリバルディは信念を曲げエマヌエーレ二世の軍門に降る決意を固めた。

 ガリバルディは王が駐留するテアーノに赴き拝謁して征服した全ての地を献じ、軍団を王の指揮に委ねた。

 ヴィットリオ・エマヌエーレ二世はガリバルディの軍を合わせ、全軍を率いてガエータのブルボン王家軍を敗走させナポリに入城した。

 こうしてヴィットリオ・エマヌエーレ二世はイタリアのほぼ全域を制圧し残るはオーストリア軍に守られたヴェネト州(ヴェネチア)とフランス軍に守られたラツィオ州(ローマ)のみとなった。

 戦いを挑んでも簡単に勝利は得られないと判断したエマヌエーレ二世は一八六一年三月十七日トリーノ(ピエモンテ州の州都)でイタリア王国の創立を宣言した。

 一八六二年、プロイセン国王ヴィルヘルム一世によって首相に就任したビスマルクは就任直後の議会で「ドイツの現在の大問題は,言論や多数決では定まらない。これを解決するのはただ鉄と血である」と演説し軍備拡張を強行した。

 一八六六年、プロイセンはオーストリアに宣戦布告した。この時、エマヌエーレ二世はヴェネト州を奪回する好機と見てプロイセンに加担しオーストリアに宣戦布告した。

 戦いはビスマルクが推し進めた富国強兵が効を奏しプロイセン軍は破竹の勢いで進撃しオーストリアを圧倒した。

 参戦したエマヌエーレ二世はヴェネトに駐留するオーストリア軍を攻め、オーストリアの敗北と共にイタリア王国は漁夫の利を得てヴェネト州を併合した。

 一八七〇年、プロイセンとフランスが戦火を交えた。この時もエマヌエーレ二世はラツィオ州を併合する好機と見てプロイセンに加担し、ビスマルク率いるドイツ軍はフランスに勝利してドイツ統一を成し遂げた。

 フランスはドイツに敗れてローマから撤退し、替わって一八七〇年九月、エマヌエーレ二世がローマに入城した。

 十月、ラツィオ州を併合しイタリア統一を成し遂げたエマヌエーレ二世はローマ教皇とヴァチカン不可侵協定を結び、首都をローマに移した。

 日本では一八六八年、戊辰戦争が始まり翌年諸藩が版籍奉還して明治政府が発足した。日本とイタリアはほぼ同じ頃から近代化が始まった。

 一九二九年二月十一日、ラテラン条約によって一八七〇年のローマ併合以来始まった「ローマ問題」に終止符を打ちヴァチカン市国が誕生した。

 一九四六年六月二日、君主制か共和制かを選択する国民投票が行われ、共和制支持が五四・三%、王政支持が四五・七%で共和制が選択された。

 イタリア共和国はサヴォイア国王家を追放し国会は憲法の経過規定を設定した。規定ではサヴォイア王家の一族とその子孫の選挙権を剥奪しイタリア領土で公職に就く事を禁じ、サヴォイア家前国王家と配偶者それに男子子孫の入国、滞在を禁じ、全ての財産を国に移管すると定めた。

 ミラノ市内観光で最初に訪れたのはヴィットリオ・エマヌエーレ二世の名を冠したガラス張りのアーケードであった。 ファッションの街ミラノ、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世アーケード イタリア

 アーケードは有名なスカラ座の前の広場から幾つもの尖塔を持つドゥオモ(大聖堂)までおよそ二〇〇メートルほどの長さであった。

 この豪奢なガラス張りのアーケードはイタリアの統一を成し遂げたヴィットリオ・エマヌエーレ二世の命で一八六五年から七七年に掛けて建設された。

 アーケードは太い大理石の柱とアーチが連なる四~五階建の建物の上にガラス張りの屋根が架かっていた。

 アーケードは十字路になっており、中心部の十字路の天井には四大陸を表す象徴的なフレスコ画が描かれていた。

 広い路面は淡い色調の大理石のモザイクが敷き詰められ、両側に建つ建物の装飾も統一されていた。通りの両側には有名なブティックやカフェ、大型書店が軒を連ねかの有名なプラダの本店もこのアーケードに有った。

 アーケードを抜けると圧倒的な迫力で天に聳える尖塔を林立させたドゥオモ広場であった。

 ドゥオモは一三八六年、ミラノ領主、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの命によりローマのサン・ピエトロ大聖堂(紀元三二二年、コンスタンティヌス帝が建てた大聖堂)を凌ぐ壮大な聖堂の建築を命じた。

 以後、費用が集まれば建設を開始し費用が無くなれば中断する事を繰り返し五〇〇年の歳月を掛けて一八八七年に完成した、イタリア最大のゴシック様式(高い天井と尖塔が特徴)の建造物である。

 白大理石を積み上げて建設された聖堂は一三五本の尖塔が林立し、外壁は二二四五体の彫像で飾られ壮麗さと共に圧倒的な迫力を感じた。

 最も高い尖塔は一〇八.・五メートルも有り、先端に黄金のマリア像が据えられている。建物は幅九一メートル・奥行き一五七メートル・面積一一、七〇〇㎡有る。

 内部は巨大な柱と高い天井、大理石の床はモザイクで彩られ、石の透かし彫りには美しいステンドグラスが填められていた。

 薄暗い堂内を巡ると世界で二番目に大きい巨大なパイプオルガンが有り、聖人を描いたレリーフが有った。何とも、重厚で重々しい雰囲気を味わって堂内を一周した。

 改めて広場の正面から聖堂を眺めると幾つもの尖塔が高々と聳えその巨大さと共に圧倒的な迫力を感じた。


 スフォルツェスコ城  ファッションの街ミラノ、スフォルツェスコ城 イタリア

 高い城壁を巡らし正面には高々とフェラレーテの塔が聳え立つスフォルツェスコ城を訪れた。城は広大なセンピオーネ公園の一角に有り、如何にも古城の風格を備えた茶褐色の堂々たる城塞であった。

 この城は一四世紀にミラノを支配したヴィスコンティ家が居城として建て、一五世紀にミラノの支配者となったスフォルツェスコ家が城塞として改築した。

 改築にはレオナルド・ダ・ヴィンチやブラマンテも携わり、正面のフェラレーテの塔を中心に城壁の様な回廊が巡らされていた。城内には博物館が有り塔の下が美術館になっていた。

 美術館にはミケランジェロの遺作となった未完の作品「ロンダニーニのピエタ」の像が回廊の角に据えられていた。ミケランジェロは死の三日前までこの像の制作に励んでいたと伝えられている。

 広い中庭から眺めた塔は入城を拒むが如く威厳に満ちて黒々と聳え立っていた。

 スフォルツェスコ城を出ると緑豊かなセンピオーネ公園が広がっていた。公園で巨大な犬を連れ鎖も付けずに散歩する老人に出くわした。

 余りの大きさに驚きカメラを向けるとその犬は老人の指示に従い我々に近寄ってきた。その犬は巨体に似合わず従順で人懐こく頭を撫でられるのを喜んでいる様で合った。早速、妻を犬の横に立たせ写真に収めた。

 旅も終わりに近付いてきた。名残惜しいがミラノ発十六時二十五分のアリタリア航空にてロンドン経由帰国の途に付く日を迎えた。朝食を終え、ツアーの仲間達と一四時までの自由時間を利用して何処に行くか相談した。

 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会を訪ね、食堂の壁に描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの名画「最後の晩餐」を見に行く案も有ったが、添乗員に問い合わせると十五~二十人の入れ替え制で予約が無ければ並んでも多分無理であろうとのアドバイスも有り断念した。

 他に、ブレラ美術館の案も有ったが夫人達の発案で有名なオペラの殿堂を見学する事に意見がまとまりスカラ座を訪ねる事になった。

 添乗員から路面電車に乗る事を勧められたが地図を見ると大した距離でもなくミラノの街並みを散歩しながら行く事になった。

 朝が早かったせいか商店はまだ店を閉ざし、ローマで余り見掛けなかった背広姿のサラリーマンが出勤を急いでいた。古い石造りの建物を眺め、石畳の道を歩いておよそ二十分でスカラ座前の広場に着いた。

 スカラ座前の広場はイギリスのエリザベス女王の来訪に備え昨日とは見違える様に生まれ変わっていた。

 広場に立つ彫像は洗い清められ、何時の間に植えたのか木々が植栽され、芝生が張られていた。広場はちり一つ無く見事に清掃され、痛んでいた敷石は徹夜で工事したのか広場も道路も新しい敷石に取り替えられていた。

 市庁舎の各階に有るテラスには前日見掛けなかった植木が並べられ、周りのビルも脚立を取り出し清掃に取り掛かっていた。

 女王はスカラ座でオペラを鑑賞する予定が有るのか昨日の夕刻この広場を訪れた時は工事の真っ最中であった。

 女王の来訪は急に決まった事なのか、それとも直前まで放置していたのか、前日になって急いで工事に取り掛るイタリア人気質に驚きを感じた。

 昨日見た時は工事の半ばも終わっていなかった様に思うが一夜にして生まれ変わった広場に感嘆した。


 スカラ座 ファッションの街ミラノ、スカラ座 イタリア

 オペラで有名なスカラ座はミラノ領主、ベルナボ・ヴィスコンティの妻、レジーナ・デッラ・スカーラ(ヴェローナの領主、スカーラの娘)の名に因んで付けられた。

 スカーラは八人の子を産んだが全て女子であった。九人目に初めて男子を授かり、長男の誕生を感謝してサンタ・マリア・デッラ・スカーラ教会を建てた。

 時代が下り一七七七年、時のミラノ公フェルディナンドは教会の敷地にオペラ座を建てヴィスコンティ家の妃スカーラに因んでテアトロ・スカーラの名称を冠した。

 スカラ座は一七七八年に竣工したが第二次世界大戦で焼失し、現在見るスカラ座は設計図を基に戦後復元した建物である。

 スカラ座は壁面に何の装飾も無い素っ気無いほど地味な建物であった。訪れた時刻が早かった為か休館中であったのか正面の扉は閉ざされていた。

 建物を半周してスカラ座博物館を探したが見つからなかった。たまたま守衛を見付けたので博物館の入り口を訪ねると、建物の横に通用口があり階段を上った二階にスカラ座博物館の入り口が有ると教えられた。

 我々が訪れたのは九時を少々過ぎた頃であり、他に見学者もなく係員に案内されてスカラ座の舞台をボックス席から眺めた。劇場の内部は落着いた深紅を基調にし、クラシックで華やかな世界が広がっていた。

 ガイドブックに拠るとオペラ劇場の客席のしくみは、一階中央の席をプラテアと云い料金が最も高く、プラテアを囲む席をパルコと云い次ぎに高く、パルコの上、二階席以上をガレリアと云うボックス席が複数階の層になっており上に行くほど料金が安く、ガレリアの上をロッジョーネと云い、天井桟敷で料金が最も安いとの事である。

 ロビーには大理石のカウンターを設けた立派なバーが有った。幕間にはこの広いロビーでワイン片手に談笑を楽しむのかロビーはかなりの広さが有り、贅を尽くしたソファーが幾つか置かれていた。

 ロビーの周囲にはスカラ座ゆかりの著名な音楽家の胸像が有り、楽譜が展示されていた。

 再び訪れる事が出来るか否か、世界の桧舞台オペラ座を拝見して重厚にして華麗な劇場に感嘆した。ツアーの仲間Hさん夫妻は大のオペラフアンとの事、小生、オペラを見たことは無いがこの劇場を見て、一度はこのスカラ座でオペラを観劇したいと願う気持ちが理解出来る。

 我々が訪れた十月から翌年の六月までがオペラのシーズンで有り、オペラフアンのHさん夫妻はもう一晩ミラノに滞在しスカラ座でオペラを鑑賞したいと添乗員に相談したそうである。

 しかし、ホテルの手配、入場券の入手、帰りの飛行機の手配等々、煩雑な手続きとイタリア語を解さない不安から断念したとの事であった。

 スカラ座博物館には著名な音楽家ゆかりの楽譜、当時の舞台衣装、小道具の品々が展示されていた。その中に混じって階段の壁面に有るガラスケースの中に誰かが寄贈したのか日本人形や能面が収まっていたのには驚いた。


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