イタリア紀行

イタリア雑感

 ジプシー

 イタリに着いた翌朝ローマ市内観光に出発した。ガイドは簡単な挨拶の後、イタリアの泥棒事情について語り始めた。

 「一流のホテルでも注意を怠っていると、バッグから手を離した隙に持ち逃げされた事例もあります。BAR(バール)でくつろいでいても少女が寄り添って来たら彼女達は盗みを働くジプシーと思ってほぼ間違い無いので用心して下さい。街でジプシーの少女や少年に声を掛けられても相手にしないで下さい。立派なスーツを着こなした紳士に声を掛けられ応対していると何時の間にかスリに変身し財布をスラれた事件も度々耳にしております。泥棒の身なりは一見しただけでは解かりません。特にジプシーには気を付けて下さい。うら若き数人の少女が近寄り話し掛けて来たら一瞬の内に分散して隠し持ったお金も盗まれます。一人は見張り役で犯行を隠す様に新聞を広げ、三人の少女の六本の手がズボンのポケットから上着のポケットの中まで時にはズボンの中に手を突っ込まれパスポートまで盗まれた被害者もおります。親切で金持ちで無用心な日本人観光客は彼女達の格好の標的になっております。特に狙われるのは観光地を徒歩で移動中、列が長くなり途切れ途切れになった時、談笑しながら後方を歩いている方に狙いを定めて近寄って来ます。ジプシーが近付いて来たら大声を上げて下さい。」等々。

 ジプシーの盗みの手口を、事例を交えて語り、車窓から道路に佇むジプシーを見つけると「あの人達がジプシーです、道路の角に佇んでいるグループもジプシーです良く覚えていて下さい」と我々に注意を促した。

 トレヴィの泉の見学を終え、ガイドに促されてバスの待つ大通りに向かって石畳の路地を歩き始めた時、突然、ガイドが後ろを振り向き「ジプシーが居るから気を付けて」と大声で叫んだ。

 添乗員から何度もジプシーの事は聞かされていたが佇んで居たのはまだ年端も行かぬ二~三人の少女であった。

 語学に堪能でその上イタリアの歴史、地理、生活様式に明るくその博識に感心させられた添乗員もジプシーの事になると吐き捨てる様な蔑視の言葉を口にし非常に気になった。

 多分、豊かな教養を身につけた添乗員はジプシー(ロマ民族)の辿った歴史をご存知と思うが、過去にツアー客がジプシーに被害を受け大変な目に遭った経験を消し去る事が出来ないのかその話し振りは偏見と差別の数々が言葉の端々に滲み出ていた。日本人の現地ガイドも添乗員に輪を掛けてジプシーに嫌悪の眼差しを向けていた。

 話を聞き終えたツアー客の一人、Mさんが 「少々、ジプシーの事を云い過ぎでは無いだろうか?、話に聞くアメリカでは通りすがりにナイフやピストルを突き付けて脅し有無を云わせず金品を強奪し、日本では手向かう力の無い老人や主婦をターゲットにバイクで背後から襲って金品を奪う、時には徒党を組んで路地に連れ込み殴る蹴るの暴力を振るって金を奪う悪質な犯行が日本でも横行している。其れに比べて何ともかわいい手口と思いませんか。年端も行かぬ娘達に声を掛けられ油断した隙に金品をスリ取られる。凶器も持たず暴力を振るわず騒げば逃げ散る、中々、かわいい泥棒ではないか。多分、娘達もスリ易い相手を観察しターゲットを決めて擦り寄って来るに違ない、スリ取られる方にも油断が有り、娘達にも盗みを働かねばならない其れなりの事情が有るのであろう。彼女達の生活を思うと物乞いをせず究極の手段として盗みを働く健気さに却って哀れを感じる。出来る事ならズボンの後ろポケットに二~三千リラの紙幣を忍ばせ施しのつもりでスリ取らせて遣りたいと思うほどである。添乗員サンの話し方どう思われますか?」と話し掛けてきた。

 妻は路上で新聞を売り歩き、車の窓を拭いてチップをねだる幼い子供達に哀れを感じておりMサンの話に大いに賛同し、生まれがジプシーであるが故に受け入れない社会に問題が有り、彼女達も止むを得ず盗みを働かざるを得ない境遇に有る。

 盗みは悪事では有るが、ジプシーの悲惨な生活を思うと精一杯生きる娘達が哀れでならないとの思いを強く抱いた様である。

 ジプシーとは差別的で侮蔑を込めた蔑称である。彼らはインド北西部発祥のロマ民族である。八~九世紀頃インドを出たロマ人は一五世紀前半にはスペインに入り、定住の地を捜し求めたが、彼らは異教徒として差別と迫害を受け、中世の領主は国外追放令を発し捕らえたロマ人を極刑に処した。

 彼らは自らの命を守る為に国から国へと移り住み欧州各地に散らばった。しかし、安住の地は得られずキャンピングカーで暮らす漂泊の民となった。

 差別に苦しみ抑圧されたロマ民族は歌に托して哀しみや喜びを語り継ぎ、己を鼓舞する演奏と踊りで心の傷を癒したのか、いずれにしてもスペインのフラメンコはアンダルシア地方でジプシーの音楽に強い影響を受けて発展してきた。

 華麗に見えるフラメンコもどこか物悲しい雰囲気を感じるのはジプシーの抑圧された哀しみを内に秘めているからで有ろうか。

 それにタロット占いも彼らが伝えたと云われている。タロット占いに用いられたカードがトランプに発展していった。(余談だがカードに描かれたスペードは剣の変形で、軍閥・王侯を、ハートは洋盃で僧職を、ダイヤは貨幣で商人を、クラブは棍棒で農民を象徴しているとの事である。)

 彼らロマ人は十五世紀以来、人として認められずヨーロッパ各地で迫害を受け流浪の歴史を辿った。最も悲惨な迫害はユダヤ人と同様に第二次大戦中、ナチスに大量虐殺された少数民族でもある。

 強制収容所に送られたロマ人は三十万人とも五十万人とも云われている。少数民族としての保護もなく、福祉の対象から外され、教育を受ける権利を与えられず、社会的蔑視が恒常化して正業に就く機会も奪われている、等々あらゆる面で迫害に苦しみ、社会的差別を受け続けている。

 ロマの子供達も自らの生活を支える為に路上で新聞を売り、赤信号で停車した車の窓を拭いてチップを要求し、時には無防備な観光客を狙って盗みを働く生活を余儀なくされている。

 添乗員の話ではジプシーも大人になると盗みは働かないとの事、ヨーロッパで内戦が勃発すると一転して政府は彼らを利用する。

 彼らはヨーロッパ中からうとまれているが自由に各国を往来し流浪の旅の間に数カ国の言語を身に付け、仲間がヨーロッパ各地に散らばっている。政府は彼らを情報収集のスパイとして活用しているとの事。

 添乗員が語った言葉が印象的であった。「ジプシーは政府に取っても必要悪であり厳しい取り締まりは差し控えている」事実か否かは別として差別を肯定する発言に驚きを感じた。


 イタリアの街路

 イタリアの街路には電柱も街灯の柱も無く、街中の車道も歩道も一〇センチ画ほどの敷石を敷き詰めた石畳の道が大半であった。

 聞くところによれば夏の強烈な日差しでアスファルトが溶ける為に敷石にしているとの由。慣れない我々には少々歩き難い道であったが石畳の感触がそこはかとなく靴底から伝り異国の道を歩いている実感を味わった。

 街路の両側に立ち並ぶ五~六階建のビルも古い外壁を残し街全体が古色を帯び落ち着いた佇まいを感じさる。

 ローマでは景観を守る為に建物の新築、改築には様々な規制が設けられ、洗濯物も人目に曝す事を禁じている。

 日本のガラスで覆われた潤いの無い街並みに慣れ親しんだ目には古い佇まいが一層、新鮮に感じられた。

 街灯は街路を挟んで向かい合ったビルとビルの間にケーブルを張り、みすぼらしい街灯が吊り下げられているに過ぎない。

 夜の街は暗くショーウインドウの無い街路は暗く足元に注意を払って歩かねばならなかった。


 BAR(バール)

 夜のローマを散策すると道にテーブルとイスを並べたBAR(バール)でビールを片手に談笑する人々を其処ここで見かけた。

 小生も添乗員からBARの利用方法(最初にレジで購入する品目を告げ代金を払ってレシートを受け取りカウンターでレシートを見せて品物を受け取る)を聞いて妻と昼食に立ち寄った。

 混雑を避け時間をずらして十三時半頃BARに入ったが、十四時には大半のレストランが閉まる為か大変な込み様であった。

 カウンター形式のウインドウの前は人だかりで戸惑いを感じたが勇を鼓して人波に分け入った。 ウインドウに並べられた料理に品名は表示されておらずカウンターの上にメニューも無かった。

 レジ係りを呼ぼうと振りかえるとレジには七~八人の行列が出来ていた。レジに並んでもイタリア語で品目は言えずメニューもなくウインドウの前は人だかりでレジから品物を指差す事も出来ない状況であった。

 戸惑いを感じたが空腹も手伝い再びカウンターに引き返し身振り手振りで食べてみたい料理を指差した。コックは理解したのか指差した料理を皿に盛りレジを指差してニッコリと微笑んだ。料理を盛った皿を両手にレジに並び代金を払った次第。

 BARは街のあちこちに有り手軽で安く妻と二人でビール片手に軽食を楽しんだ。BAR(バール)は日本のコンビニと同じ様にイタリアの街角のあちこちに有った。


 

 ローマもナポリもミラノもイタリアの街中は車で溢れ返っていた。因みにイタリアの車の普及台数を調べて見た。

 人口一〇〇〇人当たりの乗用車普及台数はイタリアが五三四台、日本は四〇〇台であった。中世の面影を残すイタリアの狭い道路と車社会を想像しなかった古い建物、これでは道路に車が溢れ出るのは当然の帰結である。

 道路の左右はびっしりと駐車の車で埋め尽くされ二重駐車は当たり前、時には三重駐車も見掛けた。前後左右を塞がれた車はいったいどうやって出るのであろうか?。我々の常識では計り難い光景であった。

 そして、街中を走る車のほとんどが一度も洗車した事が無いのではないかと疑いたくなるほど穢れていた。日本の様にピカピカに磨かれた車に一度もお目に掛からなかった。バンパーは縦列駐車から抜け出す為に前後の車にぶつけるのか大半の車のバンバーは傷ついていた。

 道路にはほとんど信号機が無く我々には傍若無人としか思えない程、強引に車を割り込ませ己が道を突き進んでいた。

 ナポリで我々の乗ったバスが交通整理に合いなかなか左折出来なかった。するとバスの運転手は交通整理のポリスに何か大声で怒鳴っていた。

 運転手は何を怒っているのかガイドに聞くと、ポリスが交通整理をするから車がスムースに流れない交通整理を止めて道路脇に引っ込んでいろと怒鳴ったそうである。

 運転手とポリスは二言三言怒鳴り合ってポリスが道路脇に引っ込み、その後直ぐにバスは発進し強引に左折を敢行した。

 日本の道路では考えられないそれは強引な運転に驚いたがどの車もクランクションを鳴らさずクレームの声も聞かなかった。

 イタリア人は心底、F1レースが好きなのか、道路を走っていても常にレースを思い浮かべて走っているのでは無いかと思わせるほど巧みな運転である。

 レースでは抜き去るチャンスを狙って車間距離を詰めコーナーで鮮やかに抜き去る如く、街中の道路でも隙あらば常に前の車を抜こうと割り込みのチャンスを窺っている様に感じた。

 常日頃から運転技術を競い合い隙あらば次々に割り込み、その割り込み方も凄まじくこれで良く事故が起きないものだと感心させられた。

 面白い事に強引な割り込みにもクランクションを鳴らす車は無く苦情を言う風も無い。それは道を譲るのでは無く運転技術を競うが如く互いに攻めぎ合うレースの様相を呈している様に感じた。

 イタリアの道路にはほとんど信号機が無く車の流れをコントロールする為に主要な交差点にしか設置されていない様に見うけた。

 信号に慣れた我々には当初、車道を渡るのが一苦労であった。日本は左側通行だがイタリアは右側通行の為、習い性はなかなか抜け切らない事を痛感した。

 うっかり右を見て渡り始めると左から車が猛烈な勢いで迫って来た、はっと思った時、車は何事も無かった如く五十センチほどの所でぴたりと停車した。周りのイタリア人を見ていると大半の人達は左右も確認せず平気で道路を横切る姿に驚きを感じた。

 車は横断を予想していた如くクランクションも鳴らさず一メートルか五十センチの所でぴたりと停車するのには驚きを感じた。

 道路は人が最優先になっているのかそれとも慣れているのか平気で横断する姿に感心させられた。時には赤信号で車が迫っていても堂々と横断する人を時折見掛けた。

 これで人身事故が起きないのが不思議でならない。よほどイタリア人の運転技術が素晴らしいのかそれとも天性の反射神経が成せる技か運転技術はお見事と云う他無い。

 その上にイタリアの車の九五%はマニュアル車との事、驚きは信号で停車した車に新聞を売り歩く少年を所々で見かけた。

 バスから眺めていると信号待ちで停車した車に少年が新聞を売り歩いていた。購入した人は左手でハンドルを握り右手で新聞を見ながら運転している。ギアーチェンジはどうするのであろうか。

 我々の乗ったバスの運転手も横を向いてガイドと長いお喋りを楽しみながら運転していた。ツアーの仲間、Yさんはハラハラしながら前方を注視し遂に我慢ならず「日本語で話しても通じないと思うが運転手さん頼むから前を向いて運転してくれませんか」と叫んだ。

 その時、前方数メートル先を突然横断する人が眼に入り、はっとしたが運転手は平然とブレーキを踏み数十センチ手前でバスは停車し、何事も無かった如く運転手はバスを発進し再びガイドとお喋りを始めた。

 とにかく、バスに乗っていても運転の荒っぽさにはらはらさせられた。高速道路はまさにレース場さながらである。

 我々の乗ったバスも一〇〇キロを優に超えるスピードで走っていたが疾走する乗用車に次々と追い抜かれた。

 それも一四〇~一五〇キロを越えるスピードでレースの如く数メートルの車間距離を保って疾走していた。バスの運転手も前に遅い車が道を塞ぎ車線変更がままならない時は盛んにクランクションを鳴らし窓を開けて速く走れと怒鳴っていた。

 帰国して制限速度と夜のローマの街中で車のライトが点いていなかった事も気になり調べてみると、イタリアの高速道路の制限速度は一三〇キロ、郊外の幹線道路は九〇キロであった。

 夜間街中ではよほど視界が悪い時で無い限りスモール燈のみに規制されていた。ライトの光に眼が眩む事も無く中々粋な規制だと感心した。

 そして、イタリアのドライバーも日本と同じく二〇キロオーバーで走行しているのだとガッテンした。

 北のミラノはイタリアを支える商業の大都市で外国人も多く南のナポリに比べれば比較的運転マナーも良く適当な車間距離を取って(それでも日本では考えられないくらい接近している)走行していた。

 ローマから南に下るにつれ運転は荒っぽくなりナポリでは電車の軌道も道路代わりとなり時には軌道の上を逆走してくる車にも出くわした。走れる所は何処でも走る感じでバイクは歩道もお構いなしに疾走していた。

 もう一つ、イタリアには面白いルールが有る事を知った。フィレンツェのホテルに向かうべく、ホテルの取り付け道路に差し掛かった時、バスの運転手は前のバスに向かって盛んにクランクションを鳴らした。

 何故、何度も鳴らすのかと添乗員に聞くと、前のバスのナンバープレートを見るとフィレンツェ( トスカーナ州)の車では無い、イタリアでは道路の優先権はその州の車に有るとの事。

 前のバスはクランクションを無視してホテルの玄関先の駐車場に入り、乗客を降ろし始めた。すると我々の乗ったバスの運転手は邪魔だとばかり再びクランクションを何度も何度も鳴らし始めた。

 前のバスは観念したのか乗客を降ろし終わらずにホテルの玄関先の駐車場を我々のバスに譲った。

 翌朝、ホテルを出発する時もクランクションを鳴らして他州のバスを待たせ追い抜いて行った。イタリア観光ではその州のバスを利用しないと運の悪い時は駐車場で随分待たされるとの事。又、フィレンツェであったと思うが、観光バスに限り市内乗り入れに通行税を課していた。


 喫煙

 喫煙に関しイタリアは本当にアバウトのお国柄だと感じた。まず空港でノー スモーキング エリアと表示されていてもトイレで平気で喫煙して吸殻を便器に投げ捨てていても係員は何の咎めもしない。

 街中も咥えタバコで闊歩し吸殻は道路にポイ捨てが罷り通り、歩道のあちこちに吸殻が投げ捨てられていた。

 レストランも喫煙OKの店が大半であった。中にはNOの店も有ったが喫煙したいと告げると喫煙場所を用意するから暫く待てと告げられた。喫煙には非常に寛大なお国柄と感じた。


 地下鉄

 ローマでは地下鉄に乗ってスペイン広場に出掛けた。ローマの地下鉄は二路線有り一五〇〇リラで切符を購入し改札口に有る機械に切符を読み取らせて時刻を刻印すると七五分間地下鉄は勿論、バスも軌道電車も乗り放題との事。改札も出札口も名ばかりで係員も居らず大半の乗客は改札口を素通りしてホームに向かっていた。

 駅のホームは薄暗く到着した電車の車両は落書きだらけでちょっと危険を感じた。乗車して扉の近くに陣取り乗車中は緊張しながらスペイン広場の有る駅に向かった。

 車内は比較的すいておりジプシーの少年がアコーデオンを弾き語り、少女が「ざる」を持って乗客に小銭をねだる姿を見掛けた。

 少女はただ黙って「ざる」を差し出すだけであったが乗客から邪険に扱われていた。妻は二人が近付いて来たら小銭を「ざる」に入れて遣りたいと呟いた。ツアーの仲間も二人の様子を眺め同じ思いを抱いていた様で有った。

 少女が我々に近付くのを待っていると彼女が差し出した「ざる」を払いのけて一人の中年男性が座席から立ち上がり二人に何やら怒鳴り散らした。

 少年はアコーデオンを弾くのを止め、少女も「ざる」を差し出すのを止めてすごすごと次の駅で前の車両に移っていった。二人がジプシーで有るが故かさげすまれ邪険に扱われても忍従する少年と少女の姿に言い知れぬ悲憤を感じた。

 スペイン広場でツアーの仲間と別れ散策の後、再び地下鉄で帰路についた。七十五分間有効の往路の切符が使えるか時計を見ると、ほんの少し散策した積もりであったがすでに二時間以上も過ぎていた。

 再び千五百リラの一回券(B・I・T)をTABACCHIで購入し駅に向った。路線図を確かめ駅員が一人もいない改札を抜けてホームに下りると、そこは薄暗く風体の怪しい数人の男性が佇む閑散としたホームであった。何となく不安を覚え比較的明るい階段の近くで電車を待った。 

 到着した電車は無残な落書きが一面に施された映画で見るニュヨークの地下鉄さながらであった。往路と異なり時間帯が悪かったのかラッシュ時なのか日本と変わらず満員であった。

 車内を見ると背広姿のサラリーマンを一人も見掛けなかった。一瞬、不安を覚え乗車を躊躇ためらったが何事も起こらないことを願って乗り込んだ。

 車内は満員にも関わらず日本の通勤電車と同じ様に余り話し声は聞こえなかた。乗客は突然乗り込んで来た異邦人に好奇の眼差しを向け、何か場違いな場所に居合せたような違和感を覚えた。


 ローマの泉

 ローマの広場には必ずと云っていいぐらい噴水か泉が有るのに驚かされた。帰国してガイドブックを調べてみると、スペイン広場のパルカッチャの噴水、共和国広場のナイアディの噴水、バルベリーニ広場のトリトーネの噴水、蜂の噴水、トレヴィの泉、ナヴォーナ広場の四大河の噴水、ムーア人の噴水、ネプチューンの噴水、サン・ピエトロ大聖堂の二つの噴水、パオラの泉、等々、観光客が立ち寄る泉、噴水の多さに驚かされた。

 名残惜しいイタリアの旅であったがいよいよ帰国の途に付く事となった。バスで空港に向かい出国手続きを終え、数枚のコインを記念に残し免税店で手持ちのリラを使い果たした。

 帰路もロンドン乗り継ぎであったが待ち時間は三十分程度であった。僅かな時間の合間に慌しく立て続けに二・三本の煙草を吸い再び長い長い禁煙の時間が始まった。

 規則を破り我慢仕切れずトイレで喫煙する輩が居るらしく関空に向う間、二度ほど注意するアナウンスが流れた。

 帰路は夜間でも有り、又、疲れていたのか眠っている時間が長かったのかさほど長くは感じなかった。喫煙も往路で経験しておりなんら苦にならなかった。

 関空に降り立ちイタリア旅行の余韻を楽しみながら家路についた。


 平成十二年十月九日~十九日
 ミラノ・フィレンツェ・ヴェネチュア・ローマと南イタリアの旅


 参考にした多岐に亘る文献を全て列挙すべきであるが、一々書き連ねるのも煩雑である。年代を始めイタリア中世の歴史を記述する上で特に参考になった「物語イタリアの歴史」藤沢道郎著、と「ヴェネツィア史」クリスチャン・べック著 仙北谷茅戸訳、並びに「わがまま歩きイタリア」実業之日本社、を挙げるに留めたい。


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