大峯山峯入紀行
龍泉寺宿坊~大天井ヶ岳
午前七時、水筒にお茶を入れ昼食の握り飯を手渡され、宿坊を後にして吉野に向った。三十三度峯入記念の石碑が林立する道を過ぎ、尾根道を行くと巨木が強風にあおられて倒れたのか扇の様に根を広げていた。地表から五十~六十センチで岩盤なのか巨木の根は横に張り出していた。
再び、「西の覗」に至った。昨日は濃霧に覆われて周囲の景色は何も見えず、高さも感じなかったが、今日は昨日とは打って変わって快晴で遠く葛城、金剛の山並みが見え、「西の覗」の先端に進むと右手に谷を隔てて切り立った鷹巣岩の絶壁が見え、遥か下に洞川の集落が見えた。
「日本霊異記」に拠ると、役行者は金峰山(山上ヶ岳)と指呼の内に見える葛城山の間に岩橋を架けようと思い立った。そこで鬼神を使役する法力を持っていた役行者は諸国の神々を使役してこれを実現しようとした。
しかし、葛城山にいる一言主の神は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主の神を折檻して責め立てた。耐えかねた一言主の神は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴した。
天皇は役人に捕縛して連れて参れと命じたが、役人は捕らえる事が出来なかった。そこで役人は役行者の母親を人質にして脅し、やっと役行者を捕縛し、天皇の命で役行者は伊豆大島へ流刑となった。
こうして、架橋は沙汰やみになったという。役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて渡り富士山に登っていたとも言われている。
「西の覗」の切り立った絶壁の上に立つと、その時の名残の橋桁のようにも思えた。
この日も早朝ゆえか平日の為か、「突き出し屋さん」はやはり居なかった。覗き岩の突端まで歩を進めたがさすがに下は覗けなかった。
「西の覗」から尾根道をしばらく歩き「鐘掛け岩」「油こぼし」の行場(登り専用)を避けて巻き道を通り、再び急な木梯子を下り、洞辻茶屋に至った。
洞辻茶屋は大峯奥掛け七十五靡きの一つ、六十八番「浄心門」が有ったとされる場所である。ここから吉野まで六十九番「二蔵宿」(避難小屋有り)、七十番「愛染の宿」(吉野金峯山寺奥の院(安禅寺、幕末まで堂塔が有った)、七十一番「金峯神社」、七十二番「水分神社」、七十三番「吉野山」(銅の鳥居や金峯山寺蔵王堂)と靡きをたどる事となる。
来た道を振り返ると山上ヶ岳のなだらかな山容が見え、山頂近くにへばり付くように建つ龍泉寺の宿坊が見えた。
洞辻茶屋を通り抜けた所に標識が有り「吉野まで二十四キロ」と記されていた。吉野への道は洞川道と異なり潅木の中に一筋の道が有り、道の両側にはヒメザサが生い茂って洞川道とは比較にならない細い道が尾根筋を縫う様に続いていた。
右に緩やかな三角形の美しい山容の大天井ヶ岳(一四三九メートル)が見え、左に勝負塚山(一二四六メートル)が見える快適な尾根道がしばらく続いた。
昔、吉野へ下った時の行程は山上ヶ岳から吉野まで道中は長いが尾根道の快適な下りであったと記憶していた。記憶とはいい加減なもので、この時はまだ吉野への道筋が登り下りの連続とは思いもよらなかった。
尾根道を快適に歩いていると突然、道は崖の上に出た。見ると下まで十五~六メートルは有ろうか、鎖が垂れ下がっていた。
迂回路も見当たらずやはり吉野道も行場であった事を思い知り、鎖を掴んで下に降りると岩棚が有り、そこからもう一条の鎖が下ろされていた。
ようやく下に降り立ち、林の中をさらに下ると杉木立の中に 冠木門が見え、「五番関」に至った。
五番関は大天井ヶ岳と山上ヶ岳を結ぶ尾根の一番低い所で、五番関のいわれは付近の岩盤に碁盤の目のような模様があることから「碁盤石」、それがなまって「五番関」になったとされている。
「五番関」には大きな錫杖が突き立てられていた。傍に洞川の清浄大橋で見た看板と同じ様に「昨年(一九九七年)、新聞に女人禁制が解禁されたような記事が載ったが、あの報道は間違いで相変わらず大峯山は女人禁制である。うんぬん」の大きな立て看板と大峯山は女人禁制である旨、日本語と英語で記した看板があった。
冠木門の脇には「從是女人結界」と刻んだ石柱が有り、門は近年建て替えられたのか門の横木には墨跡も鮮やかに「從是女人結界」と記されていた。
吉野から大峯に向かう時の「女人結界門」は、古くは七十番「愛染の宿」に有った。この女人結界門が大天井ヶ岳を越えた「五番関」に移されたのは昭和四十五年である。
五番関の下にトンネルが通じ洞川から川上村に道路が開通し、この道路を利用して五番関から大峯に登れる様になったので、五番関から女人が入山する事を恐れた修験三本山は女人結界の範囲を狭め「女人結界門」を五番関に移した。
大峯登山のルートは四つ有り各々のルートに「女人結界門」がある。一つは我々が登ってきた洞川の清浄大橋、二つ目は吉野から大峯に至る五番関、三つ目は稲村ケ岳から大峯に至る山上が辻、四つ目は大普賢岳から大峯山に至る六十六番の靡き小篠の宿に「女人結界門」と看板が設置されている。
大峯を女人禁制の山として守るために並々ならぬ苦労が忍ばれる。
五番関に下る途中、古道を調査する二人の調査員に会った、聞けば五番関から入ったと云っていた。確かに、五番関に女人禁制の看板が無ければよからぬ女人が入山するかも知れない。
大峯も女人結界の範囲が道路の開通と共にじりじりと狭められている。これ以上、狭められない事を願いたい。
「五番関」で新道と古道に分かれていた。さして気にも留めず古道の言葉の魅力に惹かれ古道の矢印に導かれて歩き始めた。
細い道でもあり数百メートル進んだ所で念の為、H氏が持参した地図を確かめたが六年前に発行された古い地図には古道の道筋は記されていなかった。
地図を見ると「五番関」から右に道を取り大天井ヶ岳のピークを巻いて百丁茶屋に至る道筋が示されていた。
我々が歩いている道は「五番関」から左に道を取り大天井ヶ岳に向っている様であった。
古道の標識も有り宿坊の主人が話していた、吉野往還百日の荒行を成し遂げたドイツ人も間違い無く古道を歩いたで有ろうと推測し、標識を信じて古道を歩く事にした。
大天井ヶ岳までは長い登りであった。途中で登りも終わり頂上かと思ったがそのピークは小天井ヶ岳であった。
そこから少し下って又登りが始まった。三十数年前の記憶ゆえ不確かだが長い登りの記憶は無く、あの時は新道を歩いたのであろうか。
頂上直下に標識が有り見ると左、大天井ヶ岳山頂と記されていた。登りの苦労を覚悟して折角ここまで来てピークを確かめない手は無いと、そこから頂上を目指し再び登った。
大天井ヶ岳の山頂には二等三角点が有り一四三九メートルと記されていた。三角点からの眺望は素晴らしく登った甲斐があった。
山上ヶ岳は林に阻まれ見えなかったが緑の色も鮮やかな吉野の山々が畳々と連なり遠くに金剛、葛城の山並みが見えた。