皇位争乱
第一話 神武東征
東征の旅立ち
狭野命は積年の懸案であった熊曾を薩摩に封じ込め、日向(宮崎県)に平安の日々が訪れたある日、東の空に瑞雲が見え何の兆しであろうかとお考えになった。思案したが何の兆しか思い浮かばず昔の事を良く知る古老の塩土翁を高千穂宮(皇宮神社(宮崎神宮の元宮)宮崎県宮崎市下北片町)に召し、瑞雲の意味をお尋ねになられた。
塩土翁は「東の空に現れた瑞雲をご覧になられましたか。あの瑞雲は数百隻の軍船が東に向かう姿でございます。これは忘れられていた瑞穂国に向かへとの神の暗示でありましょう。」
狭野命は「瑞穂国とは何か」とお尋ねになられた。塩土翁は代々語り継がれてきた物語を語った。「皇祖、瓊瓊杵尊は南朝鮮の小国の皇子であらせられた。ある日、夢枕に高皇産霊尊と天照大神が降臨し汝に瑞穂国を授ける。天神の御子の証として天梔弓(櫨の木で作られた弓 古代は丸木弓であった。)、天羽羽矢(蛇の呪力を負った矢)、歩靫(徒歩で弓を射る時に使う矢を入れる道具)、頭槌剣(大刀の柄頭が塊状をしている剣)を授けるゆえ速やかに瑞穂国へ向かへと仰せられた。瓊瓊杵尊は神器を携え天忍日命(日臣命、後の大伴氏の祖)と天津久米命(大久米命、後の久米氏の祖)を従え、数十人の兵と共に南朝鮮を出帆し対馬から筑紫に向かわれました。しかし、筑紫は出雲の素戔嗚尊が支配しており、海戦の末に敗れた瓊瓊杵尊は肥前(佐賀県、長崎県)、肥後(熊本県)、薩摩(鹿児島県西部)、大隅(鹿児島県東部)と南へ、南へ追い落とされて、辿り着いたのが日向でした。しかし、日向は熊曾が君臨する蛮地でありました。瓊瓊杵尊は熊曾と激しい戦いを繰り広げて日向を制し、戦力を整えて筑紫に攻め上ろうと考えましたが、熊曾は頑強に反攻し、しばしば背後を脅かされ日向を離れられませんでした。二代、彦火火出見尊(山幸彦)は帝位を巡り兄の火照命(海幸彦)と争われました。彦火火出見尊は海神の助けを得て火照命を制し、帝位に就きましたが熊曾との戦に明け暮れ瑞穂国は忘れ去られ幻となりました。三代、鵜葺草葺不合尊も熊曾に苦しめられ天孫の一族は日向の地を離れられず今日に至りました。狭野命が帝位に就き五瀬命(長兄)の戦略が功を奏し熊曾を薩摩に封じ込めやっと平安が訪れました。そして、昨日奇しくも瑞雲をご覧になり、老翁を召して「瑞雲は何の兆しか。」とお尋ねになられました。これは天神が皇孫の帝に神代の頃に命じた瑞穂国に向かう時が来たとの啓示かと思われます。」
狭野命は「ならば瑞穂国とは何処にあるのじゃ」とお尋ねになった。塩土翁は「お尋ねの瑞穂国の中心は東に有り、その国は青山が廻りを取り囲み一筋の川が海と結んでいる豊穣の地、中つ国と思われます。しかし、中つ国は天孫の饒速日命が御子の天香具山尊、と屈強な三十二人の将士を従え、天磐船に乗って天降り、筑紫を治めた後、東に向かい中つ国を治めていると聞き及んでおります。しかし、帝が見た瑞雲は天神が定めた瑞穂国を治める時節が到来した証でありましょう。帝は須らく天神のご意志に従って速やかに船を出し、諸国の豪族を従わせ、饒速日命に替わって瑞穂国を治めよとの天神の啓示であると思われます。」と語った。
狭野命は同席していた同母兄の五瀬命(長兄)と稲飯命(次兄)、三毛入野命(三兄)に「塩土翁の申す事いかがであろうか、東征の軍を興すべきや否や。」とお尋ねになった。
五瀬命は「民を養うにはこの地は狭すぎる。いずれこの地を後にして沃野が広がる地に都を遷すべきと考えておりました。塩土翁の申す中つ国は青山に囲まれた広い土地が有り一筋の川が海と結んでいるとの事。その地こそ天神から授けられた豊穣の地、瑞穂国で有ろう。我ら天孫の一族は積年の想いを忘れ日向に長く留まり過ぎた。宿敵の熊曾を討った今、塩土翁が申す中つ国の広い天地を求めて東征の軍を興す時を天神がお示しになったと思われます。」
稲飯命と三毛入野命も賛同し、狭野命と三人の兄は東征の途上に在る争乱の地を全て平定し、皇祖に授けられた瑞穂国を求めて東征の旅に出る事を誓い合った。
稲飯命は船の匠と共に赤江川(大淀川)を遡って山に分け入り樟の大木を切り倒し筏に組んで川に流し、赤江川の河原で軍船の建造に取り掛かった。
二年の時を費やして多数の軍船の建造を終え、五瀬命と三毛入野命は日向を駆け巡って兵を募り、武器を集め、水と食料を蓄えた。
東征の準備が整い各地で集めた兵を招集して船に乗せなければならない。狭野命は五瀬命と語らい、五瀬命は陸路を行って兵を集め、狭野命は海路を進み、富田浜、蚊口浦に停泊し耳川の河口、美々津(宮崎県日向市美々津町)で落ち合う事とした。
いよいよ東征の旅に出立する日となり狭野命と二人の兄それにまだ幼い長子の手研耳命も船に乗り込んだ。后の吾平津媛と次子の岐須美美命は日向に留まった。
庚戌(西暦五〇年)の冬十一月(注一)五日、船の纜が解かれ狭野命は不退転の決意を秘めて日向の赤江川河口を出帆した。船が岸を離れると一斉に歓声があがり、乗船した兵とその家族も未知の地に思いを馳せ期待に胸を膨らませていたが、この旅が苦難に満ちた旅に為る事を誰も予想だにしなかった。
赤江川河口の城ヶ埼を発った船団は日向灘を北に針路を取った。海は穏やかに凪ぎ波がきらきらと光輝いていた。仰ぎ見れば空には一点の雲も無く吸い込まれる様な紺碧の空が果ても無く続いていた。帆は風を孕んで波を切り裂き、飛ぶが如く、跳ねるが如く、舳先に打ち付ける波をものともせず船団は一筋の帯となって北を目指した。五瀬命も船出を見送り数十人の兵を率いて日向街道(国道一〇号線)を北に向かった。
北方に二十四キロほど航行して一ツ瀬川の河口、富田浜に停泊し五瀬命の到着を待った。この間、狭野命は温泉が湧き出ていると聞き湯之宮(湯之宮神社 宮崎県児湯郡新富町 往古は温泉が湧出していた。)へ出かけて湯浴みし、小憩の時に梅の枝を折って地に突き立てた。その後この枝が芽を吹き元木となって座論梅(地を這うように成長する梅)の梅園となった。
五瀬命が新田原(宮崎県児湯郡新富町)、西都原(宮崎県西都市)で集めた兵を乗船させて富田浜を出航した船団は小丸川の河口、蚊口浦(鵜戸神社 宮崎県児湯郡高鍋町蚊口浦)、名貫川の河口、甘漬(甘漬神社 宮崎県児湯郡川南町大字川南)、都農川の河口、都農(都農神社 宮崎県児湯郡都農町川北)と入津して兵を乗船させ、再び船出して耳川の河口、美々津(宮崎県日向市美々津町)に至った。
数日後、五瀬命も集めた兵を引き連れ美々津に到着した。集まった兵を加えると予想以上に多くの兵が集まり新たに軍船を建造せねばならなくなった。軍船の建造に数年を要するので神の井に行宮(八坂神社 宮崎県日向市美々津町新町)を設け船出までの住まいとした。
稲飯命は船の匠と共に耳川を遡り山に分け入って樟の大木を切り出し筏に組んで川に流し河口近くの匠ヶ河原で軍船の建造に取り掛かった。数十艘の船の建造に二年を費やした。
余談ですが、一九四〇年(昭和一五年)皇紀二千六百年祭(注二)の行事の一つとして美々津は神武天皇東征の船出の地との伝承があり、その伝承にちなんで軍船「おきよ丸」が建造され神武東征の航海が再現された。「おきよ丸」は西都原古墳群から出土した船型埴輪をモデルに耳川の河口近くの匠ヶ河原で起工式を挙げ、約半年掛けて建造した。
船は長さ二一m、幅五・四m、二人漕ぎの櫓が二十四挺、速力は帆と併用すれば凡そ五ノットが出せた。(一ノットは毎時一、八五二m)この船で美々津から神武天皇の航跡をたどり一二日間で大阪中の島に到着したそうである。
軍船も完成し新たに加わった兵に水軍の訓練も終え出発の準備も整った。五瀬命は権現山の山頂から凧を揚げて風向きを調べ、沖に船を出して潮の流れを調べて八月二日を出航の日と決め、潮の流れと風向きの見張りを立てた。
八月一日の未明、見張り番から潮の流れも風向きも今が一番良いとの報告を受け一日早く出航する事となり、法螺貝を吹き鳴らして兵に出航を告げたが、兵は寝入っていたので「起きよ、起きよ」の声が美々津に響き渡った。(旧暦八月一日に美々津で行わる「おきよ祭り」の由来)
秋八月一日(五二年)未明、狭野命は船出の時を迎え河口の先端に立ち海の神に祈りを奉げて航海の安全を神に託して船出した。(立磐神社 宮崎県日向市美々津町)
北に針路を取り航行していると鯨の群れに遭遇した。又とない大きな獲物であり沿岸に追い立て巨鯨に鉾を突き立てて捕獲し、鯨を曳いて塩見川の河口、伊勢ヶ浜に停泊し鯨を砂浜に引き揚げて解体する事とした。
翌日、狭野命は鉾島(宮崎県日向市細島 現在は陸続きになっているが当時は島であった。)に渡り巨石の神座(神が宿る場所 御鉾神社 大御神社 宮崎県日向市)に立ち大海原に向かって武運長久と航海の安全を祈り、巨鯨を仕留めた鉾を突き立てた。
鯨の解体処理に数日を要し、塩漬けにした鯨肉を船に積み込んで伊勢ヶ浜を出帆して再び北に向かった。櫛津(宮崎県延岡市土々呂)で潮待ちしていると櫛津の豪族、天櫛津大来目命(櫛津神社の祭神 宮崎県延岡市土々呂町櫛津)が一族を率いて是非、東征の軍に随行したいと願い出て一行に加わった。
船団は櫛津を発ち五ヶ瀬川の河口(宮崎県延岡市延岡港)、北浦古江(宮崎県延岡市延岡港北浦町古江)に寄航して兵を募り、蒲江(大分県佐伯市蒲江)に停泊して兵を集めた。
翌朝、蒲江を出航してしばらくすると雲行きが怪しくなり嵐となった。急いで入津湾の江武戸鼻を廻り畑野浦(大分県佐伯市蒲江大字畑野浦)に避難した。
数日で嵐がおさまり出航したが米と水が不足していた。米水津(大分県佐伯市米水津大字小浦)に停泊し米と水を求めたが大量の水は得られなかった。
狭野命は神に祈り弓矢で砂浜を穿つと真水がこんこんと湧き出した。この井戸を「居立の神の井」と呼ばれるようになった。米水津を発ち大入島(大分県佐伯市佐伯湾に浮かぶ島 この島にも「神の井」の伝説有り)に停泊し四浦半島を迂回して津久見(大分県津久見市)、臼杵と投錨を重ね速吸之門(豊予海峡)の難所を前に佐賀関(大分県大分市大字佐賀関幸の浦)で風待ち、潮待ちのために船団を留めた。翌朝、潮の流れを確かめ佐賀関を船出すると一人の漁夫が巧みに小船を操り狭野命の御座船に近づいた。侍臣(そばに仕える家臣)が名を問うと珍彦と名乗りこの地に棲む国津神であると応じた。
珍彦は「日向の天孫が東征の軍を興した事を風の便りで知り、水先案内のお役に立ちたいと思い参上いたしました。」と申し述べた。狭野命はためらわず棹を差し出し珍彦を御座船に乗せ水先案内を任せた。
速吸之門の速い潮の流れに船は翻弄されたが珍彦の巧みな操船に救われ無事に杵築の守江(大分県杵築市大字守江)に入港した。
狭野命は守江に上陸すると直ちに珍彦を召して功を称えこれより以後、椎根津彦と名乗り東征の軍に随行せよと命じた。
船の点検と補修に数日守江に留まり、これから先の航路について椎根津彦に問うと「一つはこのまま北に向かい国東半島を回って周防(山口県東部)、安芸(広島県西部)、吉備(広島県東部、岡山県)、播磨(兵庫県南西部)と瀬戸内の北の航路を取るか、二つ目は守江から東に向かい伊予(愛媛県)、讃岐(香川県)、播磨と瀬戸内の南の航路を取るか、どちらの航路も未知の領域でありますが周防まで行った経験が有ります。」と語った。狭野命は三人の兄と語らい航路は椎根津彦に委ねる事とした。
椎根津彦は瀬戸内の北の航路を選び、守江から国東半島の海岸線沿いに航行し、半島を廻り周防灘に面した竹田津(大分県国東市国見町竹田津)に停泊して数日疲れを癒す事とした。
狭野命は「波静かな瀬戸内に入りいよいよ東に向かう港に着いた。ここから対岸の周防(山口県東部)の防府三田尻に渡り、安芸、吉備と東に向かおう。」と三人の兄と語り合っていた時、控えの者が「申し上げます。菟狭(大分県宇佐市)の豪族、菟狭津彦が命に拝謁したいと訪ねて参りました。いかが致しましょうや。」と告げた。狭野命は「ここに連れて参れ。」と申し付けた。
菟狭津彦は数人の従者を伴って現れ、「日向の天孫が東征の軍を興し、竹田津に留まって居ると聞き及び、我ら一族、命の配下にお加え頂きたく急いで参上いたしました。東征の軍に従う兵を集めますので是非、菟狭にお立ち寄り願いたい。」と申し述べた。
東征の軍にとってこれから安芸、吉備での戦を考えると菟狭の軍団が加わるのは大歓迎であった。そして、菟狭は周防灘の制海権を握り寄航出来る港に精通していた。狭野命は菟狭津彦の申し出を喜び翌日、竹田津を出帆して菟狭に向かう事となった。
船団は菟狭津彦の先導で菟狭に向い豊国(大分県全域、福岡県東部)の和気(柁鼻神社 大分県宇佐市大字和気)に上陸した。現在の和気は内陸になっているが当時は菟狭川(駅館川)と寄藻川が合流した河口で大きな湾を形成していた。
菟狭の豪族、菟狭津彦は現在の宇佐神宮の地に館を構えていた。館は湾を見下ろす高台にあり湾には狭野命の船団数十艘が砂浜に乗り上げて係留されていた。
菟狭津彦は狭野命と三人の兄、それに主だった将士を景勝の地に建つ別邸に招いた。この館、足一騰宮(大分県宇佐市拝田)は菟狭川に大きく迫り出しまるで川の中に建っているような館であった。この館で菟狭津彦は狭野命に大御饗(天皇に献る御膳、服従を示す)を献じて東征の前途を祝した。
宴たけなわになった頃、菟狭津彦は妹の菟狭津姫を招きよせ狭野命に「この妹をなにとぞ侍臣のお一人に娶って頂きたいと思います。」と申し出た。狭野命は申し出を快くお受けになり菟狭津姫を天種子命(中臣氏の祖)に娶あわされた。
菟狭津彦は菟狭の兵を乗せる船の建造に取り掛かり、兵の召集に奔走した。五瀬命は船の建造を終えるまで菟狭に留まり兵の鍛錬に明け暮れる積りであった。一方、菟狭津彦は狭野命の力を借りて筑紫の宗形の勢いを削ぎたかった。筑紫の宗形は玄界灘から響灘の広大な海域を支配し筑紫で絶大な力を持つ海洋豪族であった。
菟狭も周防灘の制海権を握る海洋豪族であり、お互い領分を侵さず平穏に暮らしていたが近年しばしば筑紫宗形の船団が周防灘に現れ菟狭と諍いを起こしていた。宗形は軍事力で勝り菟狭は劣勢に立たされていた。
ある日、酒を酌み交わしながら菟狭津彦は狭野命に語った。「すでに隣国、筑紫の宗形も命が多数の軍船を擁して菟狭に留まっている事を承知していると思います。筑紫宗形の祖は吾田片隅命で饒速日命が中つ国を目指して東に赴く時、筑紫の支配を吾田片隅命に託しました。それ故、吾田片隅命の子孫である宗形は命の船団が何処へ向かうのか多分何処かで監視していると思われます。命が中つ国を目指して東に向かうと知れば、阻止せんとして周防灘で海戦を仕掛けてくるかも知れません。筑紫の宗形を帰順させ後顧の憂いを断って東に向かうのが良策かと思います。」
菟狭津彦は兵を集める為にも筑紫の豪族宗形を帰順させて旗下に加え軍船と兵を出させるべきであると熱心に説いた。五瀬命も「菟狭津彦の申す通り、これから先、どの様な戦が待ち構えているか計り知れない。兵は多いに越したことはない。この兵力で東に向かうよりは西の筑紫で兵力を増強し鉄製の武器を調達するのが得策かも知れぬ。」こうした軍議を重ね、菟狭の船団を合わせて筑紫に向かう事とした。
菟狭の和気を出航した船団は御木川(山国川)の河口、中津(大分県中津市)、長狭川と今川が合流する河口に浮かぶ簑島(福岡県行橋市大字簑島 今は陸続きになっている。)と寄航し、早鞆の瀬戸(関門海峡)の潮待ちで田之浦(北九州市門司区田野浦)に停泊した。
翌朝、船団は椎根津彦の操船で川のように流れる早鞆の瀬戸を抜け、洞海湾を航行して貞元の菊竹ヶ浜(北九州市八幡西区黒崎 当時洞海湾と遠賀川は繋がっており黒崎は海岸であった。)に碇を降ろした。貞元一帯は熊手と称し熊族の熊鰐が支配する地であった。熊鰐は数十艘の船団を見て驚き、直ちに参上して恭順の意を示し狭野命に館を提供した。この館を岡田宮(一宮神社 北九州市八幡西区山寺町)と称し筑紫平定の拠点とした。
五瀬命は狭野命、稲飯命、三毛入野命と主だった将士を交え宗形君を攻略する軍議を開いた。貞元(黒崎)から遠賀川を渡河して宗像の本拠地田島(福岡県宗像市田島)まで陸路を進んでもさほどの距離はないが戦う相手は海洋豪族の宗形君、船で海に逃れるであろう、ここは海戦を仕掛けて屈服させる以外に方法はないであろうと決し、狭野命が自ら数十艘の軍船を率いて遠賀川を下り芦屋浜から響灘を西に航行し黒崎鼻、鐘ノ岬を廻り玄界灘に注ぐ釣川に向かった。
鐘ノ岬にさしかかると狼煙が上がり釣川に近づく頃には宗形の軍船が待ち構えていた。数に勝る狭野命の船団は宗形の軍船を撃破して海上を封鎖し宗形の本拠地田島に迫った。
宗形君は釣川を臨む高台に居館を構えていた。数十艘の軍船が川を埋め尽くし、味方の船は一艘も見当たらなかった。宗形君は逃げる事も抗する事も適わず狭野命に拝謁して恭順の意を示し、兵と舸子の従軍、それに軍船の建造と鉄製の武器の提供を約束した。
こうして筑紫、宗形君を帰順させた狭野命は宗形と菟狭が同盟し、菟狭は宗像の三女神を勧請して祀る事を誓わせた。(宗像の三女神・・宗像大社では田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神 宇佐神宮では多紀理姫命、多岐津姫命、市杵嶋姫命)
狭野命は再び船団を率いて西に向かい那珂川の河口、娜大津(博多港)に上陸し椎根津彦と数百の兵を従えて筑紫を巡幸する事とした。
宗形が帰順した事は風の便りより早く各地に伝わっていたのか娜大津に上陸すると早速、土地の豪族の長が現れ狭野命を館に招き入れて恭順の意を示した。
翌朝、狭野命は南を目指して軍を進め蚊田(福岡県糟屋郡宇美町)の豪族も恭順の意を示して一行を歓待した。
筑紫大野(福岡県大野城市)に至り、乙金山、四王寺山(大城山)に朝鮮式の山城を築く豪族の田中熊別が狭野命を出迎え、稽首(頭を地に着くまで下げてする礼)して「願わくば、しばらく臣が茅屋に軍をお留め願いたい。」と申し出た。
狭野命は願を入れ田中熊別の四王寺山の館に向かった。館では早速、歓迎の宴が催され狭野命はこれから向かう地の状況をお聞きになった。田中熊別は道案内を申し出ると共にこれから向かう山家(筑紫野市山家)には根智山(大根地山)に城を築き通称「打猿」と呼ばれている土蜘蛛(盗賊)が居り、近隣を襲い狼藉の限りを尽くしていると語った。
山家は長崎街道(江戸時代に整備された街道で小倉から長崎に通じていた。)と薩摩街道(山家で長崎街道から分岐して薩摩に至る街道。)を結ぶ交通の要衝であり、狭野命はこのまま土蜘蛛を放置して置くわけにはいかないと思い椎根津彦に数百の兵を授け打猿誅伐を命じた。
打猿は椎根津彦の来襲を知り根智山の城に籠り迎え撃ったが適わぬと見るや尾根伝いに敗走した。椎根津彦は一人残らず殺せと命じ逃げ惑う賊を斬り殺し打猿を追って米ノ山峠から吉木郷(筑紫野市大字吉木)、阿志岐(筑紫野市阿志岐)と追い牛頸(大野城市牛頸)で捕えて首を刎ねた。
狭野命は田中熊別の案内で筑紫大野から大宰府に至り、筑紫の霊峰、竈門山(宝満山)に登り山頂の磐座で武運長久と東征の成功を神に祈った。
大宰府から吉木郷(筑紫野市大字吉木)、山家と行く先々の豪族は恭順の意を示し、山家から難所の冷水峠を越えて内野(飯塚市)に至った。内野は江戸時代、長崎街道の宿場町として栄えたがこの頃は山間の村であった。
内野は打猿に収穫を奪われ長年苦しめられていた。打猿を誅伐した狭野命が来ると知った村の長は村境で出迎え、村を挙げてもてなした。
内野から筑前大分、高田、伊岐須(飯塚市)と進軍し伊岐須郷では土地の豪族、八田彦が一族を率いて現れ「命のお越しをお待ち申し上げておりました。是非、我が館にお越し頂きたい。」と出迎えた。
数日、伊岐須郷に滞在し八田彦の案内で伊岐須から鯰田(飯塚市)に向かう事とした。途中、片島で遠賀川を渡る事になったが川幅は広く泥流が流れ、船が無いと渡れない様に感じた。その時、八田彦が郎党を従えて遠賀川に入り、瀬踏みして浅瀬を探し携えていた鉾を突き立てて目印とした。
こうして狭野命の軍は無事に遠賀川を渡り鯰田に向かった。鯰田から佐輿(飯塚市)、直方(直方市)と進軍し岡田宮に帰還した。
冬十月、宗形君から船の建造を終えたとの知らせが届き、狭野命は宗形の使者に「合流地は早鞆の瀬戸(関門海峡)の潮待ちで停泊する彦島の福浦津(山口県下関市彦島福浦町)とする。立ち返り直ちに出帆せよ。」と命じた。そして、菟狭に使者を遣わし「菟狭の船団とは早鞆の瀬戸を抜けた田之浦(北九州市門司区田野浦)で合流して周防に向かう。直ちに出帆せよ。」と命じた。
そして、狭野命は熊手の熊鰐を館に招きいよいよ出帆の日が明後日に迫った事を告げ、岡田宮におよそ一年滞在した礼を述べた。熊鰐は狭野命と主だった将士を館に招いて東征の門出を祝す酒宴を催し、別れを惜しんだ。
出帆の日となり兵を招集して碇を揚げ貞元の菊竹ヶ浜を出帆した船団は洞海湾を西に進み遠賀川を下って崗之水門(福岡県遠賀郡芦屋町)に停泊し翌日、彦島の福浦津に向かった。福浦津に着くとすでに停泊していた宗形君の船団と合流し田之浦を目指して早鞆の瀬戸を乗り切る事になる。
早鞆の瀬戸は一日に四回潮の流れが変わり見張りを立てて潮待ちした。潮の流れが東に変わったとの報せを受け直ちに帆を張って出帆した。川のような速い流れの潮に乗り、船団は一筋の帯となって早鞆の瀬戸を乗り切り菟狭の船団との合流地、田之浦に錨を降ろした。
冬十一月(五三年)、菟狭の船団と合流し、いよいよ東に向かう事となった。田之浦を出帆した大船団は潮流に乗って周防灘を東に進み宇部(山口県宇部市)、阿知須(山口県山口市)と寄航し周防の佐波川の河口、佐婆津(山口県防府市佐波)に停泊した。佐婆津までは菟狭の影響力が及ぶ地であり何の問題もなく航行してきたがこれから先は未知の領域であった。
佐婆津から大島の津(山口県周南市由加町櫛ヶ浜 徳山港)に入港すると多数の小舟が近づき行く手を阻んだがそのまま突き進み櫛ヶ浜に碇を降ろした。
そして、五瀬命は戦の準備を命じて大島の津の長に使者を遣わし「戦を仕掛ける積りは無い我らは東征の途上にあり水と食料を積み込めば立ち去る。」と告げさせた。
大島の津は熊毛豪族の西の拠点であった。熊毛豪族は熊毛ノ浦(山口県熊毛郡平生町)を本拠に現在の岩国市から周南市にかけての地域を支配していた海洋豪族であった。大島の津の長は湾を埋め尽くした大船団に驚き恭順の意を示して了承し、直ちに早馬を仕立てて熊毛豪族の本拠地、熊毛ノ浦の館に使いを走らせた。
東征軍の船団は大島の津に数日留まり水と食料を補給して出帆し島田川の河口に停泊し田布施川の河口、熊毛ノ浦を目指した。
熊毛ノ浦は熊毛半島(室津半島)の西の付け根に位置し、今は陸続きであるがこの頃の熊毛半島は大きな島であった。そして海岸線もJR山陽線辺りまで後退し田布施川の河口は大きな熊毛湾であった。熊毛豪族は熊毛湾を見下ろす城山の地に防塁を巡らした居館を構えていた。
熊毛の元に大島の津から狭野命の大船団が東征の途上にあり熊毛ノ浦に向かっているとの知らせが届いていた。熊毛は梶取岬で狼煙が上がるのを見て大船団が熊毛ノ浦に近づいている事を知り、しばらくすると館からも大船団が見えた。
数百艘の大船団が一筋の帯となって熊毛ノ浦に入港し軍船が湾を埋め尽くした。五瀬命は小舟を出し、熊毛に使者を遣わした。熊毛は争いを好まず熊毛ノ浦には瀬戸内を航行する船がかならず寄港し交易で潤っていた。
熊毛は使者の口上を聞き、自ら狭野命の上陸地に赴き、丁重に出迎えて恭順の意を示し、仮宮としてお使いくださいと館を提供し、熊毛半島の付け根、熊毛水道(柳井水道)を通り柳井から熊毛一族の東の拠点、麻里布の浦(山口県岩国市麻里布町)までの水先案内を約束した。
熊毛ノ浦に数日滞在した船団は水先案内の先導で熊毛水道を航行し柳井津から遠埼(山口県柳井市遠崎)に至り、大島の鳴門(大畠瀬戸)の潮待ちで停泊した。潮の流れが変わり船団は潮流が速く渦を巻く大島の鳴門を乗り切り由宇川の河口、由宇(岩国市由宇町)に停泊した。
由宇を出航した船団は一路、岩国の錦川の河口、麻里布の浦(山口県岩国市麻里布町)を目指した。麻里布の浦も熊毛豪族の支配地であり熊毛から知らせが届いていた。
碇を降ろした狭野命はこの地で数日を過ごし、兄の五瀬命、稲飯命、三毛入野命とこれから向かう阿岐(安芸 広島県西部)での作戦を話しあった。
阿岐は阿岐津彦が治める地であった。阿岐津彦は饒速日命に付き従った三十二人の将士の一人、天湯津彦の子で饒速日命が瑞穂国を制した後、阿岐を治める事を命じられた。
五瀬命は「阿岐を避けて伊予、讃岐、摂津を経て大和の瑞穂国に向かう事も出来るが阿岐を放置すると背後から襲われる恐れがある。ここは一戦を交えて阿岐を制するまで先に進めない。」と語り阿岐に向かう事となった。
冬十二月、麻里布の浦を出帆した狭野命の船団は大野瀬戸に差し掛かった頃から天候が悪化し冬の海は荒れて嵐となった。
狭野命の船団と菟狭の船団は大野瀬戸を抜け何とか地御前有府之水門(広島県廿日市市地御前)に辿り着いたが、宗形の船団は激しい嵐を避けて厳島(宮島)に避難し嵐が過ぎ去るのを待った。
宗形の君は船団が無事であったのは神の加護であると感じこの地に宗像の三女神を勧請して祀り、この島を神の島(厳島神社 広島県廿日市市宮島町)と崇めた。
宗形の船団も地御前有府之水門に到着し狭野命の船団と合流した。宗形は狭野命の船団と菟狭の船団も無事であったのは神の加護であると感じ地御前(地御前神社 広島県廿日市市地御前)にも宗像の三女神を勧請して祀った。
地御前を出帆した船団は北に針路を取り広島湾に入った。当時の佐東川(太田川)下流域(現在の広島市の大半)は海中にあり、広島湾は深く湾入し天然の良港であった。
東征軍の船団は湾を北上し古江(広島市西区古江)に差し掛かった頃、阿岐津彦の軍船、数十艘が攻撃を仕掛けて来たが海戦に慣れた菟狭、宗形の船団が立ち向かい撃破して全て焼き払った。
古江の樽ヶ埼(広島市西区古江)に船団を留め上陸して様子を窺っていると阿岐津彦の一族と思われる豪族が襲来して来た。五瀬命は船団を沖に退かせ数百の兵を率いて行者山(広島市西区田方 草津緑地)に陣を張り豪族と交戦した。豪族は果敢に攻め戦は数日間続いたが討ち果たした。
再び船団を北上させ敵の軍船を次々に撃破して湾の最深部、佐東川の河口付近(広島市西区新庄町)に停泊した。五瀬命は上陸を急がせたが戦闘態勢を取る前に阿岐津彦が数百の兵を率いて攻め寄せて来た。
五瀬命は船団を沖に退かせ上陸した兵を率いて宗箇山(三滝山 標高三五六m)に逃れ、陣を張った。阿岐津彦は安芸長束(広島市安佐南区長束)の地に陣を構え狭野命の上陸を阻み宗箇山の陣に激しい攻撃を加えた。日没とともに阿岐津彦は兵を引いたが五瀬命は夜襲に備え夜も見張りを立てた。
翌早朝、阿岐津彦が再び数百の兵を率いて攻め寄せて来た。盾を並べて飛来する矢を防ぎ、鉾を翳して突撃を繰り返したが地の利に勝る阿岐津彦の兵は巧みに逃れ、再び戦列を調えて攻め寄せて来た。こうして阿岐での本格的な戦が始まった。兵数に劣る阿岐津彦は地の利を生かして波状攻撃を仕掛け戦は一進一退を繰り返し、日暮れと共に互いに兵を引き翌日また戦が繰り広げられた。
五瀬命は山に籠っていては守勢にまわり船団の上陸も阻まれている。一方、阿岐津彦の軍団は豪族が駆け付け日に日に軍勢が増している。このまま山に籠っていては阿岐津彦を撃破出来ない、次に攻撃を仕掛けて来たら全軍で追撃すると命を下した。
翌朝、阿岐津彦は再び攻め寄せて来た。五瀬命は全軍に命じた。「迎撃して敵が引けば全軍で追撃する。」こうして五瀬命は全軍を率いて山を下り敗走する阿岐津彦の軍を追撃した。
海上から戦を遠望していた狭野命は直ちに上陸を命じて船を走らせた。これを見た阿岐津彦は逃れて本拠地、武田山の麓、青原の館に逃げ込んだ。
館は両側から山が迫る狭隘の地に二重の環濠を巡らし、敵の侵入を防ぐ柵が設けられ、左右に物見櫓が建っていた。そして背後は最後の砦、武田山(標高四一〇m)であった。
援軍が続々と到着し五瀬命は館の前に陣を張ったが狭隘な地形で攻めることが出来ず、阿岐津彦も門を閉ざして守りを固めていた。戦は膠着状態のまま数日が経過し、劣勢を悟った阿岐津彦は白旗を掲げて降伏し狭野命に帰順を誓った。
佐東川の河口で停泊する船団は火山(広島市安佐南区山本 標高四八八m)に狼煙が上がり阿岐津彦の降伏を知った。
阿岐津彦は兵を率いて狭野命の軍に加わり、船団を天神川の河口、江の湊(広島県安芸郡府中町)に案内した。
江の湊に近付くと茶臼山に狼煙が上がり阿岐津彦と配下の豪族が出迎え狭野命に仮宮として館を提供した。この宮を多祁理宮(多家神社 広島県安芸郡府中町)と称し、この宮を拠点に周辺の刃向う豪族を討ち果たし、帰順した豪族から兵を募り新たな軍を編成して阿岐平定の軍を差し向けた。
狭野命と稲飯命は一軍を率いて阿岐の北方に向かった。現在の芸備線に沿って北に進軍し、下深川近辺で稲飯命は三篠川に沿って(芸備線)国道三七号線を北に進軍し、狭野命は北に向かい可部街道(国道五四号線の旧道)に沿って進軍し安芸高田で落ち合う事とした。
狭野命が可部に至ると行く手を阻むように、土地の豪族が佐東川(太田川)と三篠川の中州に兵を伏せて待ち構えていた。狭野命は飛来する矢を盾で防ぎ佐東川を渡渉して反撃に転じ、豪族を追って亀山から遠坂峠まで追撃して豪族を捕え首を刎ねた。
こうして、可部の両延神社(広島市安佐北区亀山)の地に数日留まり周辺の豪族を帰順させて先に進んだ。可部の豪族が討ち取られた噂が広まっているのか行く先々で豪族の出迎えを受け戦もなく安芸高田に近づくと狼煙が上がり、戦闘態勢を取って進軍した。
土地の豪族が可愛川の対岸に布陣して待ち構えていた。河原に近づくと盛んに矢を射掛けて来たが構わずに盾を構えて突撃を命じた。兵は盾を構え、剣を振り翳し喊声を上げて川を渡り敵陣に斬り込んだ。勢いにのまれた豪族の兵は散り散りに逃げ散った。
豪族は館に逃げ込み、白旗をかかげて降伏を申し出て館を明け渡した。この館を可愛宮と称しこの宮に滞在して稲飯命の到着を待った。
合流した二人は可愛川に沿って出雲往来(国道五四号線)を北に進み甲立、上川立、志和地と足跡を残し豪族を帰順させて三次に至った。三次は可愛川、馬洗川、西城川、神之瀬川が合流し江の川となって北西、出雲(島根)に流れる盆地である。古代の三次は出雲との交流が盛んで砂鉄を原料に鉄を作るタタラ集団が江の川を遡って三次に至り、この地に定着して鉄を作っていた。狭野命の巡幸の目的は各地の豪族を服従させると共にここ三次で武器を調達する事であった。
三次の豪族と戦になる事を覚悟して進軍して来たが阿岐津彦が降伏した噂がここまで広まり三次の豪族も抵抗する事なく帰順し館を提供した。
狭野命と稲飯命はこの地にしばらく留まり豪族に命じて鉄製の武器を大量に調達した。巡幸の目的も達したのでこの地を最後に帰還する事とした。食糧と大量の武器を運ぶ軍馬を調達し帰還の準備をしていると三次の豪族が現れ「是非、庄原の神の磐座にご案内したい。」と申し述べた。
申し出を受けた狭野命は帰還の準備を稲飯命に任せ、十数名の兵を従え豪族の案内で庄原の本村に向かった。本村の豪族、蘇羅彦が村境で一行を出迎え、館に案内してその日は酒宴が開かれた。
翌早朝、蘇羅彦の案内で日本のピラミッドと称される葦嶽山に登り山頂の磐座で神に武運長久と東征の成功を祈り、尾根伝いに鬼叫山に登り屏風の様に立ち並ぶ巨石(神武岩)の上で神に祈りを奉げた。
狭野命と稲飯命は三次を発ち、豪族の反抗もなく国道三七五号線を南下し宿営を重ねて西条に至り、西条から国道二号線を西に進軍し八本松、瀬野と宿営を重ねて多祁理宮に帰還した。
一方、多祁理宮に残った五瀬命と三毛入野命は南と西に軍を進めて刃向う豪族を鎮圧した。五瀬命は西に軍を進め瀬野川に差し掛かると対岸で土地の豪族が叛旗を翻して布陣していた。
五瀬命は軍を進め、瀬野川を挟んで陣(広島市安芸区瀬野の生石子神社の辺り)を敷いた。兵数に勝る五瀬命は兵を三軍に分け川下と川上から渡渉させ、挟み撃ちにして敗走させた。豪族は館に逃げ込み白旗を掲げて降伏し帰順を誓った。
三毛入野命は海岸線に沿って国道三一号線を南に向かい海田、矢野、水尻、天応、吉浦と豪族の反抗もなく軍を進め、呉で阿賀(広島県呉市阿賀)の村民が賊に襲われたと聞き、阿賀に駐留して賊の探索に兵を差し向けた。賊は休山を根城にしていると聞き討伐の兵を差し向け、賊を射殺し根城を焼き払った。
こうして、多祁理宮に二年留まり阿岐を平定して武器を補充し、阿岐の兵を加えた狭野命はいよいよ阿岐を発つ事となった。進むべき道は二つ有り、吉備を避け四国寄りの航路を取って播磨を目指すか、戦を覚悟して吉備に向かうか。
吉備国は現在の広島県三原市から岡山全県、兵庫県高砂市(加古川)にまたがる広大な地域で旧国名では備後、備中、備前、美作の四ヶ国が吉備国であった。そして、吉備は製鉄の原料である砂鉄と鉄鉱石を産し、出雲から流入したタタラ集団によって出雲と並ぶ製鉄技術を保持していた。又、瀬戸内沿岸では塩を生産し、鉄と塩の交易によって富を蓄え瀬戸内の制海権を握っていた。
饒速日命は吉備の勢力を避け、四国寄りの航路を取って中つ国に向かい、中つ国を制した後、摂津、播磨と勢力を拡大したが吉備は従わなかった。
軍議を開き五瀬命は「吉備を制しなければ後顧の憂いとなるであろう。激しい戦を覚悟して吉備に向かう。」他の三人も吉備を避けて中つ国に向かう事は考えておらず五瀬命に賛同し吉備に向かう事となった。
春一月十日(五五年)五瀬命は船団を率いて江の湊(広島県安芸郡府中町)を出帆し江田島の西を航行して呉に寄航し江田島と倉橋島の海峡、早瀬の瀬戸を抜けて長門の浦(広島県呉市倉橋町桂が浜 倉橋島)に停泊した。
長門の浦を出帆した船団は制海権を握る吉備の軍船と遭遇する事を避け四国寄りの海域を航行し大崎下島を目指したが天候が悪化し強い風にあおられて狭野命が乗っている船の舵が折れ、船は上蒲刈島に漂着した。
船を修理し大崎下島で合流した船団は大三島の南岸を航行して生口島の名荷(広島県尾道市瀬戸田町名荷)に停泊して数日滞在し、いよいよ吉備に向かう事となった。
船団を指揮する五瀬命は吉備の西の拠点、松永湾の高須(広島県尾道市高須)を目指して出帆したが途中で天候が急変して嵐となり因島の大浜(広島県尾道市因島大浜町)に緊急避難し嵐の過ぎ去るのを待った。
嵐は鎮まらず狭野命は寒風と激しい雨に打たれながら寒崎山(斎島神社 広島県尾道市因島大浜町)に登り、祭壇を設えて嵐が鎮まることを天神に祈った。
やっと嵐が去り因島の大浜を出帆した船団は向島の東岸を航行して松永湾の高須を目指した。高須で豪族の来襲を警戒した五瀬命は着岸すると数百の兵を率いて下船し、狭野命は船団を率いて湾の対岸の柳津(広島県福山市柳津町)に向かった。
案の定、高須に上陸した五瀬命に豪族が襲い掛かってきた。五瀬命は磐座のある岩屋山(標高一〇二メートル 大元神社 広島県尾道市高須)に陣を敷き豪族を撃退して帰順させ陸路、柳津に向かった。
柳津に碇を降ろした狭野命も上陸を阻む豪族の来襲を受け数百の兵を率いて御陰山(竜王山 標高二二一メートル)に登り陣を構えて対峙していた。そこに五瀬命の軍が姿を現したので豪族は驚いて兵を引き帰順を誓った。狭野命の軍団はこの地に二ヶ月ほど留まり、近隣の豪族も大軍に抗する事も出来ず恭順の意を示した。
春三月六日、狭野命は柳津を出帆して浦崎、田島に寄航し芦田川河口付近の田尻で潮待ちして神島(岡山県笠岡市神島)から高梁川の河口、多麻の浦(岡山県倉敷市玉島)に停泊した。
翌早朝、多麻の浦から吉備の盟主、岐備津彦の本拠地を目指し吉備の穴海を航行し、岐備津彦との戦を避けて児島の北岸、宮浦(岡山市南区宮浦)に船団を留めた。この頃、児島湾は高梁川に繋がり児島半島は大きな島であった。岡山市、倉敷市の大半は海の底で山陽本線の辺りが海岸線であった。この本土と児島の間の海を吉備の穴海と称していた。その後、高梁川、旭川、吉井川の三大河川からの土砂の流入と干拓事業によって児島は半島となった。
吉備の穴海は岐備津彦のお膝元であり海戦を覚悟して戦闘態勢で航行したが敵船は現れなかった。柳津から報告が届いたのであろうと思い船団を率いる五瀬命は児島の宮浦に留まり岐備津彦からの連絡を待った。
数日の後、一艘の小舟が白旗を掲げて近づいて来た。岐備津彦の使者と称し「会談の地まで水先案内に参上いたしました。」と告げた。五瀬命は承知し船団は小舟に導かれて北上し旭川の河口付近、龍ノ口山の南麓、高島(岡山市中区賞田)に碇を降ろした。
三毛入野命と稲飯命は船に留まり、狭野命と五瀬命は数百の兵と共に上陸した。使者は環濠を巡らした豪壮な館に案内した。壕の内には屈強な兵が詰め、開け放たれた門の内にも槍を構えた兵が居並んでいた。
狭野命と五瀬命は使者の案内で兵を従え門の内に入ると東西に床几が置かれ東面して軍装の岐備津彦が座していた。狭野命の来訪を知ると立ち上がり自ら門に近付いて出迎え、館の広間に案内し兵を退かした。
岐備津彦は平伏して狭野命のお言葉を待った。五瀬命に促され狭野命が「我らは天神が皇祖、瓊瓊杵尊に授けた中つ国、瑞穂国を求めて日向を発ち東征の途上にある。菟狭も筑紫も我に従い阿岐も戦に敗れて我に従った。戦は好む所に非ず、吉備も我に助力を。」と切り出した。
岐備津彦は「どの様な助力をお望みか」と応じた。五瀬命が「兵と船と武器それに糧食と水」と応えた。
吉備は温暖で実り豊かな土地であった。沿岸部では塩を造り、内陸部では豊富に産する砂鉄から農機具と武器を造り近隣を圧する力を備えていた。五瀬命も戦となれば苦戦を免れないとの思いが強かった。何とか戦わずして結びたかった。
岐備津彦も東征軍の兵力と実戦で鍛えられた戦闘能力に恐れを抱いていた。互いに戦を避けたい思惑もあり岐備津彦は五瀬命の要求を呑み東征に助力する事とし盟約を交わした。盟約が成りその夜は盛大な宴が催され、互いの兵も酒を酌み交わした。
翌朝、岐備津彦はこの館を差し出し、自身は兵を従えて吉備中山の麓の居館に引き揚げた。館は高島宮(高島神社 岡山市中区賞田)と称し三年滞在した。
吉備の助力を得た狭野命は遠く吉備まで付き従った筑紫宗形の船団と菟狭の船団を故郷に帰還させた。そして、稲飯命は残った船を砂浜に引き揚げ椎根津彦に船の傷みを調べさせた。
椎根津彦は日向で建造した船を子細に調べ、「長旅の波浪に洗われ、傷みがひどく船を換えなければ東に進めない。」と進言した。狭野命は暫しこの地に留まると命を下し、東征の船を建造し、軍備を整える事とした。
稲飯命は船の匠を集め、旭川の上流で大木を切り出して川に流し、瀬戸内の水軍の船に倣い堅固で船足の早い船の建造に着手した。狭野命は糧食を確保する為に新田を開発して稲作の技術を教え、狩りをして兵を鍛え獲物は吉備の豊富な塩を用いて干し肉にして蓄えた。
そして、狭野命と五瀬命は塩土翁に告げられた中つ国の情報を集めた。吉備の豪族の話しでは吉備の東に針間(播磨)の国が有り、その東に河内の国が有り、その東に青山に囲まれた大和の国が有ると語った。狭野命は塩土翁が申した中つ国とは大和の事で有ろうと思い至った。
船の建造と軍備を整えるのに三年を要し、いよいよ東に向かう事となった。
注一
旧暦では一月、二月、三月が春 四月、五月、六月が夏 七月、八月、九月が秋 十月、十一月、十二月が冬
注二
紀元二千六百年(一九四〇年)奉祝の事業として、「神武天皇聖蹟調査委員会」による推考、答申にもとづいて神武天皇東征の聖蹟を顕彰するために石碑が建てられた。顕彰碑は、橿原宮・竈山の聖蹟以外の地、計一九個所の聖蹟が選定された。
1 | 菟狭顕彰碑 | 大分県宇佐市大字南宇佐 |
2 | 崗水門顕彰碑 | 福岡県遠賀郡芦屋町 |
3 | 埃宮、多祁理宮顕彰碑 | 広島県安芸郡府中町宮の町 |
4 | 高嶋宮顕彰碑 | 岡山県岡山市宮浦字高島 |
5 | 難波之碕顕彰碑 | 大阪府大阪市中央区天神橋二丁目 |
6 | 盾津顕彰碑 | 大阪府東大阪市日下町六丁目 |
7 | 孔舎衛坂顕彰碑 | 大阪府東大阪市日下町八丁目山中 |
8 | 雄水門顕彰碑 | 大阪府泉南市男里 |
9 | 男水門顕彰碑 | 和歌山県和歌山市湊北町一丁目 |
10 | 名草邑顕彰碑 | 和歌山県和歌山市広原 |
11 | 狭野顕彰碑 | 和歌山県新宮市佐野三丁目 |
12 | 熊野神邑顕彰碑 | 和歌山県新宮市阿須賀町 |
13 | 菟田穿邑顕彰碑 | 奈良県宇陀市菟田野区宇賀志 |
14 | 菟田高倉山顕彰碑 | 奈良県宇陀市大宇陀区守道高倉山頂 |
15 | 丹生川上顕彰碑 | 奈良県吉野郡東吉野村小 |
16 | 鵄邑顕彰碑 | 奈良県生駒市上町 |
17 | 磐余邑顕彰碑 | 奈良県桜井市吉備 |
18 | 鳥見山中霊畤顕彰碑 | 奈良県桜井市桜井 |
19 | 狭井河之上顕彰碑 | 奈良県桜井市茅原 |