叡山千日回峰行一日体験記

一隅を照らす

根本中堂  大阿闍梨に付き従って急坂を喘ぎ喘ぎ登り切ると緩やかな登りとなり、杉の巨樹の間から堂宇が見えた。広場の先に休憩所である「一隅を照らす会館」があった。

 世話役の僧から「ここでしばらく休憩を取ります。」と告げられ、会館に入るとお茶の用意がされていた。まだ五時前の早朝にもかかわらずお茶の用意をして巡拝の労をねぎらう婦人達に驚かされた。

 「一隅を照らす会館」前の広場から石段を下ると延暦寺で最も重要な根本中堂が有り、広場から根本中堂の豪壮な甍が見えた。(天台宗は日本仏教の根本であるとの考え方から延暦寺の本堂を根本中堂と称したのであろうか? 因みに天台宗を開いた伝教大師(最澄)を根本伝教大師とも尊称している。)

 広場の片隅に天台の教えである「一隅を照らす」と刻まれた大きな石碑があった。「一隅を照らす」とは最澄の教えで「山家学生式さんげがくしょうしき」に次の様に記されている。

 「国宝とは何者ぞ、宝とは道心(菩提心)なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人の言わく、径寸けいすん十枚これ国宝にあらず。一隅を照らすこれ則ち国宝なりと。古哲又言く、く言いて行うことあたわざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国のゆうなり。能く行い能く言うは国の宝なり。三品さんぽんの内、唯言うこと能わず行うこと能わざるを国の賊と為すと。すなわち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。」

 (国宝とは何であろうか?、宝とは仏道を求める心、菩提心である。その心ある人を国宝と名付ける。それ故に、古人(斉の威王)が云うように径寸十枚(直径が一寸もある宝石が十個)は国宝とは云えず、一隅を照らす人こそ国宝である。古の哲人(後漢の牟融ぼうゆう)もまたこう云っている。良く説くが行動しない人は国の師である。良く行動するが、説く事の出来ない人は国の働き手である。良く行動し、良く説く人は国の宝である。上中下の中で説くことも出来ず、行うことも出来ない者を国の賊と云う。すなわち、菩提心のある仏弟子を西(インド)では菩薩といい、東(中国)では君子と云う。人のいやがる事は自分が引き受け、人の好むことは他人にゆずり、自己の利害、損得を忘れて、他人のために尽くすことが最上の慈悲である。)

 叡山は社会的な実践運動の根幹に「一隅を照らす」と云う、この言葉を据え一九六九年から「一隅を照らす運動」を続けている。そして、「悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。」つまり、「忘己利他もうこりた」も天台宗の重要な精神である。

 叡山のホームページを開くと

 「一隅」とは今あなたのいるその場所のことです。お金や財宝は国の宝ではなく、家庭や職場など、自分自身が置かれたその場所で、精一杯努力し、明るく光り輝くことのできる人こそ、何物にも代えがたい貴い国の宝である。一人ひとりがそれぞれの持ち場で全力を尽くすことによって、社会全体が明るく照らされていく。自分のためばかりではなく、人の幸せ、人類みんなの幸せを求めていこう。「人の心の痛みがわかる人」「人の喜びが素直に喜べる人」「人に対して優しさや思いやりがもてる心豊かな人」こそ国の宝である。そう伝教大師(最澄)はおっしゃっています。そして、そういう心豊かな人が集まれば、明るい社会が実現します。「一隅を照らす運動」は、伝教大師のご精神を現代に生かし、一人ひとりが自らの心を高めて豊かな人間になり、明るい社会を築いていこうということを目的に、一九六九年より始まりました。あなたが、あなたの置かれている場所や立場で、ベストを尽くして照らして下さい。あなたが光れば、あなたのお隣も光ります。町や社会が光ります。小さな光が集まって、日本を、世界を、やがて地球を照らします。「一隅を照らして下さい。」 と記載されていた。この言葉に接し天台の精神を真摯しんしに受けとめたいと思った。

 「一隅を照らす会館」で二~三十分の休憩の後、師の先導で文殊堂に拝礼して真言と般若心経を唱えお堂を一巡した。

 当初の文殊堂は貞観八年(八六八年)慈覚大師が常座三昧ざんまいの修行を行う道場として建立された。この文殊堂も信長の叡山焼き討ちによって焼失し、現在の文殊堂は寛永十九年(一六四二年)徳川家光によって再建された建物である。

 そこから、相当急な石段を下って叡山で最も重要なお堂である根本中堂こんぽんちゅうどうに至った。現在の根本中堂は文殊堂と同じく寛永十九年、徳川家光によって再建された建物で奈良の東大寺大仏殿、吉野の蔵王堂に次いで日本で三番目に大きい木造建築である。

 この根本中堂が延暦寺の中心をなしており比叡山に延暦寺と名の付く堂塔どうとうは無く、一山を総称した呼び名である。

 大阿闍梨、叡南俊照師も十五歳で比叡山に上った頃、延暦寺が何処に有るのか先輩の僧に聞くに聞けず一年ほど比叡山の山中に有る堂塔をくまなく巡り延暦寺と名の付く堂宇を探し廻ったとの事。


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