北京・西安・上海 駆け足の旅
西安
西 安
早朝五時に起床し五時半朝食、六時にホテルを出発して七時三十分の飛行機に乗り、北京からおよそ二時間弱で西安に着いた。空港に降り立つと出発前にインターネットで調べた通り西安の天気は曇り空であった。
西安は北京の南西九百キロ、上海の西千二百キロに位置し、北に渭水、南に秦嶺山脈を望む、海抜およそ四二四メートル、関中平原の中心に位置している。
西安はおよそ三千年の歴史を誇る中国屈指の古都であり、陜西省の省都でもある。西安市は八区五県を管轄し、総人口およそ七一五万人、そのうち市内人口はおよそ三百万人、中国中西部の大都市でもある。
西安は唐の時代、長安と呼ばれ、先進的な中国の文化を求めて遣唐使が往来し、歴史好きの日本人には馴染み深い街である。
西安が、歴史に登場するのは紀元前一一〇〇年頃、西周の文王の時代に鎬京(現在の西安近辺と云われている)を都城と定めたと史記に記されている。
以来、約二千年間に亘って西周、秦、前漢、新、晋、前趙、前秦、後秦、西魏、北周、隋、唐と歴代十二王朝の都が置かれた。
西安を都とした最初の王朝、西周は十二代、約三百年続いたが紀元前七七一年、第十二代幽王の時に亡んだ。
幽王は褒姒を寵愛して国を滅ぼしたと伝えられている事から、褒姒は傾国の美女と称されている。史書に拠ると褒姒は笑うことを好まなかった。幽王はなんとか褒姒を笑わそうと色々な事を試みたが一向に笑わなかった。
ある時、衛兵が理由も無く誤って狼煙をあげてしまった。狼煙は危急の知らせであった。諸侯は危急の知らせと思い城に馳せ参じたが何事もなく、諸侯は茫然とした。(狼煙は狼火、烽火とも書く。狼の糞を入れて火を焚くと風が吹いても煙が真っ直ぐに登るところから、狼の糞を乾かして燃やした。)
その有り様を見た褒姒は余ほど可笑しかったのか大いに笑った。幽王は悦んで、褒姒を笑わせる為に度々、狼煙をあげさせた。その都度、諸侯が馳せ参じた。その後、諸侯は狼煙を信じなくなり狼煙が上がっても馳せ参じなくなった。
そして幽王は正妃の申后と太子を廃し褒姒を后とし、褒姒の子の伯服を太子とした。申后の父、申候は皇帝の裁可に怒り、犬戎(後の匈奴と云われている)と連合して鎬京に攻め入った。幽王は驚いて狼煙を上げて兵を徴集したが一兵も集まらなかった。
かくして幽王は酈山の麓で殺され西周は亡んだ。もとの太子、宜臼(平王)が即位し、犬戎を避けて都を洛陽(東周)に遷したが周王室は衰微し替わって諸侯が強大となった。
諸侯は互いに覇を競い合い春秋の五覇と称される覇権を争う戦乱の世となった。斉の桓公は鮑叔牙、管仲を重用して最初に覇を唱えた。次ぎに覇者となったのは十九年の亡命の末、六十二歳で晉の君主となった文公(重耳)であった。重耳は晉の献公の公子であったが献公が傾国の美女の一人に数えられる驪姫を寵愛した事から内乱となり、重耳は国を出奔して十九年の後に帰国した。
その後も、秦の穆公、宋の襄公、楚の荘王、呉の闔閭、越の勾践が覇者たらんとして覇を競い合った。
春秋時代がおよそ三百年続いた後、晉国が韓、魏、趙の三国に分裂し、諸侯は周王室を見限って王を称し秦、楚、斉、燕、趙、魏、韓、の七雄が覇を競いあう戦国時代が到来した。
戦国時代は晉が三国に分裂した紀元前四〇三年から秦王政が統一を果たした紀元前二二一年までおよそ二百年間、戦乱の世が続いた。
戦乱を制したのは秦王政であった。秦が強国となり秦王政が親政を初めてからおよそ十年で戦乱を制した。秦が強兵であったのは鉄製の武器を用いたとの説もあるがいずれにしても中国史上初めて全国を統一し戦国の世を制した。
秦王政(始皇帝、前二五九~前二一〇)は統一王朝の「秦」(前二二一~前二〇七年)を建国し、渭水の北、咸陽(現在の西安の西北、西安空港がある)を都と定めた。
そして秦王政は従来の尊号である王を廃し皇帝という呼称を用い、朕という一人称の使用を禁じ皇帝専用の言葉とした。以来、朕とは皇帝の一人称となり、かつては日本の天皇の一人称でもあった。
秦の初代皇帝となった始皇帝は永遠に秦王朝が続くと信じ「朕を始皇帝とし後世は逐次、代数を数えて二世皇帝、三世皇帝から千万世に至るまで、之を無窮に伝えん」と王命を下した。
始皇帝は紀元前二百十二年、現在の西安市西郊外に想像を絶する大規模な阿房宮を建設した。史記に拠ると前殿の規模は東西五百歩、南北五十丈も有り、殿上に一万人が座れ、殿下には五丈(約十四メートル)の旗を立てる事が出来たと史記に記されている。
現存する世界最大の木造建造物と云われる東大寺は高さ四十九メートル、間口五十七メートル、奥行き五十メートルである。間口、五百歩は五九五~六九〇メートル、奥行き五十丈は一三九メートルである。殿下には五丈の旗を立てる事が出来たとなると一階の天井はとほもなく高く十四~五メートルも有った事になる。事実なら想像を絶する巨大な建物である。(一歩は五尺との説も有るが史記に拠れば一歩は六尺、一歩の長さは一一九・四センチ若しくは一三八・五センチ、一丈は二・七七メートルと云われている。)
現在、阿房宮の発掘調査が行なわれているが遺跡には東西一三〇〇メートル、南北五〇〇メートル、高さ二〇メートル、総面積六十万平方メートルの土台が残っているとの事。
この壮大な阿房宮も秦末、楚の項羽によって焼き払われた。火は三ヶ月間消えなかったと史記に記されている。
秦末、陳勝と呉広の乱を切っ掛けに各地で叛乱が起こり、瞬く間に戦乱の世となった。戦乱を決したのは楚の項羽(前二三三~前二〇二年)と漢の劉邦(前二四七~前一九五年)との戦いであった。
両雄は垓下(長江の北、徐州近辺)で決戦し、四面楚歌に囲まれた楚の項羽が敗れ漢の劉邦が中国を統一した。
勝利した劉邦(高祖)は「漢」を建国し、当初、洛陽を都としたが長安に長楽宮を造営して遷都し、その後、未央宮を造営した。(長安に都を置いたのは「前漢」(前二〇六~九年)、後漢(二五~二二〇年)は洛陽を都とした)
漢の平帝の時、大司馬(軍事を司る長官)であった王莽(前四五~二三年)が平帝に毒を盛って殺害し、皇位を簒奪して「新」(西暦八~二三年)を建国した。「新」は長くは続かず漢王室に繋がる劉秀が王莽の新を滅ぼして漢室を再興(後漢)し洛陽に都を遷した。
後漢は光武帝(劉秀)から献帝まで十四世、西暦二五~二二〇年まで続いたが後漢末の一八四年に勃発した黄巾の乱によって勢威は衰え、魏、蜀、呉の三国が鼎立して覇を競い合う三国時代となった。
魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権、が互いに覇を競う三国時代はおよそ六十年間に亘り戦乱が続いた。
蜀を滅ぼし、呉を降して戦乱を制したのは魏の元帝から禅譲を受けて帝位に就いた司馬炎(二三六~二九〇年)であった。司馬炎は「晋」(西晋、二八〇~三一六年)を建国し長安を都とした。
しかし、晋の時世も長くは続かず、匈奴の劉淵が自ら漢王室の後裔と称して漢(前趙、三〇四~三二九年)を建国した。(漢は匈奴に苦しめられ和平を維持する為、度々、後宮の女性を公主と偽って匈奴王に差出していた。それゆえ漢王室の姓劉氏を名乗ったのであろう。)
劉淵は幾度と無く晋に攻め入り洛陽に迫ったが果たせず病没した。劉淵の子、劉聡の時、洛陽を陥落させ、三一六年には長安を攻めて晋の第四代皇帝愍帝を降して西晋を滅ぼした。そして劉聡は国号を趙と改め長安を都とした。
一方、江北(揚子江の北)の地を胡族に奪われた晋は江南(揚子江の南)に逃れて東晋(三一七~四二〇年)を樹立し胡族と対立した。
こうして江北では五胡十六国の時代を迎え互いに攻めぎ合い亡んでは又、新たな国が興る興亡を繰り返した。(五胡とは、匈奴、羯、鮮卑、氐、羌 各族を指し、匈奴の劉淵が漢を建国した三〇四年から北魏が江北を統一した四三九年の間に十六の国が興亡を繰り返した。)
なかでも氐族によって建国された前秦(三五一~三九四年)は江北に大帝国を築きあげた。前秦を建国したのは氐族の符健であった。符健は後趙の滅亡に乗じて長安に拠り、自立して前秦を建国した。
符健の死後、跡を継いだ苻堅(符健の甥)は前燕を滅ぼし、東晋の梁、益二州を奪い、前涼を併呑し、西域諸国を討って、江北に大帝国を築きあげた。
苻堅は天下の統一をめざして三八三年八月、東晋討伐の軍を起こした。苻堅は百万の大軍を率いて長安を出発した。一方の東晋軍は僅か八万の兵力に過ぎなかった。両軍は淝水で対峙した。
前秦軍の中にかつて東晋の将軍であった朱序がいた。朱序は渡河すると見せ掛けて途中で撤退すれば必ず東晋軍は追撃して来る、追撃を見て軍を反転させて東晋軍を撃滅すれば一気に健康(南京)まで攻め上れると苻堅に建言した。そして、この作戦を成功させるには秘密裏に行なう事が肝要であると付け加えた。
朱序は東晋に内通していたが苻堅は少しも疑わず朱序の作戦を採用し諸将に作戦を明かさなかった。前秦軍が淝水の半ばに達した時、苻堅は全軍に撤退の命令を下した。
苻堅の作戦を知る東晋軍は撤退する前秦軍を見て一斉に追撃を開始した。この時を待っていた苻堅は反撃せよと合図を出したが兵は反転せず雪崩のように退却した。
苻堅が反撃せよと大声を発して叫んだが、朱序が馬を馳せ各陣営に敗れた、退け、退けと大声で駆け回り、自身は東晋軍に駆け込んだ。
こうして、苻堅は朱序の謀略に敗れ一合も矛を交えず、百万の大軍が八万の軍に大敗を喫し退却を余儀なくされた。これが歴史に残る淝水の役であった。
苻堅はやっと十万の兵を掻き集めて長安に戻った。長安を発して僅か三ヶ月後、苻堅の帝国は瓦解した。
前秦に統合されていた諸族は苻堅が東晋に敗れ敗走して長安に戻ったと知り、再び自立した。鮮卑族の慕容垂は一族に推されて後燕(三八四~四〇七年)を建国し、西域に遠征していた氐族の呂光も引き返して後涼(三八六~四〇三年)を建国し、苻堅に仕えていた羌族の姚萇は容赦なく苻堅を攻め、自殺に追い込んで長安を奪い、後秦(三八四~四一七年)を建国した。
苻堅は諸族を糾合し一視同仁の理想主義を掲げて、降る者は拒まずの寛容の精神で受け入れ、才ある者は異民族も優遇し、大帝国を築き上げた。
しかし、理想に反し寛容が徒となって漢族の朱序に裏切られ、異族の姚萇に国を奪われて前秦は滅んだ。(一視同仁とは唐の時代の詩人韓愈の言葉。塞外の異民族や庶民はいうまでもなくどんな人も同じように愛する事。戦前の日本も一視同仁の名の下、朝鮮を支配した。)
三九六年、新たに台頭した鮮卑族の北魏(三八六~五三四年)が後燕を破り、後秦を破り、北燕、北涼を滅ぼして五胡十六国時代に終止符を打った。
江北を統一した北魏は平城(現在の大同)から洛陽に都を遷し、江南に拠った漢族の東晋と対立する南北朝時代を迎えた。
江南の建康(現在の南京)を都とした東晋は約百年続いたが内紛が起こり、宋(四二〇~四七九年)、斉(四七九~五〇二年)、梁(五〇二~五五七年)、陳 (五五七~五八九年)と王朝が交替した。
江北を統一した北魏も内紛によって東西に分裂し洛陽を都とした東魏(五三四~五五〇年)、長安を都とした西魏(五三五~五五六年)となった。
東魏は王朝が北斉(五五〇~五七七年)に替わり、西魏も王朝が北周(五五六~五八一年)に替わった。北周は北斉を滅ぼして再び江北を統一し漢族の陳と対峙した。
五胡十六国の時代から南北朝の対立までおよそ二八五年間続いた戦乱の世を終わらせ、中国を再統一したのは北周の武将、楊堅(文帝、五四一~六〇四年)であった。
楊堅は北周の外戚の地位に有り、幼い静帝から禅譲を受けて隋(五八一~六一七年)を建国し、新たに現在の西安市に大興城を築いた。隋の都、大興城は南北に十一本、東西に十四本の大通りが通じた左右対称の都であった。(隋は西安を西都、洛陽を東都と称した。)
楊堅は中央集権的な国家体制を目指し貴族の権力を弱め、皇帝の権力を強めるため官僚の任用制度を改めた。
その制度は家柄、門閥に関係なく学科試験の成績によって官吏を任用する科挙制度の採用であった。科挙の制度は隋以降の王朝にも受け継がれ官吏任用の制度となった。
科挙制度は宋の時代に充実し以降の王朝も宋に倣った。宋の科挙制度は解試、省試、殿試の三次試験を突破してはじめて「進士」という称号が与えられる。最終段階の殿試には皇帝自ら謁見して審査に当ったと伝えられている。
皇帝自ら謁見して審査した殿試の制は清朝にも受け継がれ、清朝では紫禁城の保和殿で三年毎に皇帝自ら謁見して科挙制度の最難関である殿試が行なわれた。
そして隋は万里の長城を修築し、物資の輸送を一変させる運河の開削を行なった。五八四年、江南の米をはじめ、物資を運ぶために従来から有った運河を結び長安と黄河を結ぶ広通渠の開削を始めた。五八七年には淮水と長江を結ぶ刊溝を開通させた。
この運河をさらに発展させたのが隋の二代皇帝煬帝(五六九~六一八年)であった。煬帝は土木工事を好み二百万人を使役して洛陽に東都を造営し、楊堅が開削した運河の拡張工事を行なった。
六〇五年、河南の民衆百万を動員して黄河と淮水を結ぶ通済渠を開削し、すでに開通している刊溝を通って黄河と長江が結ばれることとなった。
六〇八年には、河北の民衆百万を動員して黄河から北京に至る永済渠の開削、さらに六一〇年には長江と杭州を結ぶ江南河を開削した。
運河の全長はおよそ千五百キロ、幅三十~五十メートルの大運河である。隋の楊堅、煬帝が開削した運河によって華北と江南が結ばれ、以後の中国経済に大きく貢献する大動脈となった。
楊堅(文帝)が中国を統一して十一年後の推古天皇の八年(六〇〇年)、日本書紀に記載は無いが日本から隋に使者を派遣した。
この時は答礼の使者もなく記録に留めなかったのか定かでは無いが、日本書紀に拠ると七年後の推古天皇の十五年(六〇七年)秋、鞍作福利を通訳として小野妹子を大唐(隋)に遣わしたとある。
この時、聖徳太子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と記した親書を小野妹子に託した。時の隋の皇帝、煬帝は激怒したが翌年、小野妹子に伴って答礼の使者として裴世清を日本に遣わした。
隋の皇帝、煬帝は相当の檄文を裴世清に托したのか小野妹子は百済で奪われたと奏上し、親書を見せなかった。この後、遣隋使は都合、四度派遣された。
煬帝は国庫を省みず、大土木工事を敢行し国力が疲弊しているにもかかわらず高句麗に三度も出兵を強行したがいずれも失敗に終わった。
民衆は不満を爆発させ各地で叛乱が起こった。煬帝は叛乱を軽視し風光明媚な江都(江蘇省揚州市)の離宮に移って奢侈と酒色にふけっていた。
隋末、隋王朝の楊家と同じく北周の軍閥で太原留守に任ぜられていた李淵が混乱に乗じて挙兵し瞬く間に長安を陥落させた。それでも煬帝は北帰しなかった。江都の将士は不満を募らせ、離宮で酒色にふける煬帝を殺害した。こうして隋王朝は二代、三十六年で亡んだ。
二代皇帝煬帝は楊堅(文帝)の次男で本名は楊広、兄の揚勇を廃嫡させて皇太子となったが、文帝が再び揚勇を皇太子に立てようとしたので機先を制して父、文帝を毒殺し揚勇を殺して即位した。
煬帝は後世に残る運河を開削し、現代もその運河の恩恵に浴しているにも関わらず暴君の烙印を押され、煬帝と諡された。煬とは「天に逆らい、民を虐げる」との意味が有る。又、帝を帝と読むのも歴代皇帝の中で煬帝唯一人である。
隋帝国を滅ぼした李淵(初代高祖)は国号を唐(西暦六一八~九〇七年)と改め、唐王朝も大興城を引き継ぎ、名を長安城と改めた。
唐王朝も建国後まもなく後継者争いとなった。皇太子の李建成は建国の最大功労者であり声望も有る次男の李世民(五九八~六四九年)を妬み四男の李元吉と謀って李世民を殺そうとした。
陰謀を知った李世民(太宗)は六二六年、長安の玄武門(北門)において皇太子であった李建成と李元吉の兄弟を殺害し父、李淵を幽閉して二代皇帝に即位した。
そして年号を貞観と改め、広く人材を登用し官制を整え、後世に「貞観の治」と称揚される善政を布いた。(北条政子、徳川家康が愛読したと云われている。有名な「貞観政要」は太宗と侍臣との政治問答を記した帝王学の書である。「創業と守成いずれが難きや」この言葉も貞観政要に由来する。)
唐の六代皇帝玄宗の頃、長安の都には百万を超える人々が暮らし世界最大の都であった。そして、長安は遠くローマに通じるシルクロードの東の起点でもあった。街には紅毛人が闊歩し東西の世界文化が交流する国際都市であった。
日本から第一次遣唐使が派遣されたのは李世民(太宗)が皇帝となった四年後の六三〇年であった。日本書紀によると、舒明天皇の二年(六三〇年)秋八月五日、犬上君三田耜を正使として大唐に遣わしたとある。
遠く日本から訪れた使節に対し、唐は返礼の使者として高表仁を遣わした。第一次遣唐使が高表仁を伴って難波津に帰り着いたのは舒明天皇の四年冬十月であった。
日本書記に拠ると、天皇は大伴連馬養を遣わして、難波津に旗幟を飾った船三十二艘を浮べ、船上で鼓を打ち、笛を吹いて唐の使者を迎えさせた、と記している。
舒明天皇の五年(六三三年)春一月、短い滞在であったが高表仁は唐に帰国した。以後、遣唐使は三度の中止を含め十八度まで派遣された。
最盛時には四隻の船に分乗して正使、副使と随行員、それに留学僧、留学生を含め五百人から六百人もの人員が唐に渡ったと記されている。
遣唐使も新羅との関係がよかった初期の頃は朝鮮半島沿岸の航路をとって山東半島に上陸し陸路、長安を目指した。
その後、新羅との対立が生じ、朝鮮半島沿岸の航路をとる事が出来なくなり以後の遣唐使は東シナ海を直接横断する航路を選ばざるを得なくなった。
当時の遣唐使船は長さ十五丈(四十五メートル)、幅一丈(三メートル)と伝えられている。この船に百五十人が乗船して東シナ海を無事に航行するのは至難の業であり、必然的に遭難が相次ぎ多くの人命が失われるようになった。
それでも唐の先進的な文化を求め、危険を顧みず、五百人から六百人もの派遣使節が四隻の船に分乗して唐に渡った。
想像するに遣唐使に任命された人々は悲喜こもごもで有ったであろう。それでも国策として遣唐使を派遣し唐から諸制度や技術を持ち帰り、唐の制度に習って律令国家体制を築いていった。
その最たるものが大化改新の詔と唐の永徽律令(六五一年、唐の高宗のときに制定された)を手本に、大宝元年(七〇一年)六月に公布した大宝律令ではなかろうか。(律とは刑罰法規で現在の刑法、令とは行政法規で現在の民法にあたる)
年号も唐に習い大化の改新に始まったが大化・白雉以後は天武朝の末年に朱鳥としただけで久しく途絶えていた。大宝律令では唐に習い常に年号を定める事を規定し、この制度は大宝以来、現在まで続いている。
役所の官名(大蔵省、刑部省、兵部省、等々)も大宝律令で定めた官名が明治初年までほぼ存在し、位階は戦前まで存続した。和銅元年(七〇八年)に始まった平城京の造営も唐の長安に倣って建設された。
この様に文化の先進国、唐から遣唐使がもたらした文化、技術はその後の日本文化に多大な影響を与えた。一方、無事に唐土にたどり着いたが帰国出来ず唐土で客死した遣唐使も多かった。有名な阿倍仲麻呂(六九八~七七〇年)も唐土に骨を埋めた一人であった。
七一七年(霊亀三年)三月、第八次の遣唐使の留学生の一人として当時二十歳の阿倍仲麻呂(六九八~七七〇年)が派遣された。仲麻呂は無事、唐に着き、中国の大学に学び、最難関と云われた科挙の試験にも合格し唐朝に仕えた。
七三五年(天平六年)第九次遣唐使の帰国に際し、在唐十八年の仲麻呂は大使の多治比広成に帰国を願い出たが許されず長安に留まる事となった。帰国するには何時来るかわからぬ次回の遣唐使の入唐を待たねばならなかった。
多治比広成の一行は四隻(遣唐使船は通常四隻であった)の船に分乗し蘇州から出発したが暴風雨に遭い多治比広成の乗った船は遠く崑崙国(マレー半島)に流された。
乗員百十五名の内、九十余人は熱病に罹って死に、あるいは賊に殺され、唐の本土にかろうじて逃げ帰ったのは多治比広成と水手三人だけであった。
多治比広成は仲麻呂の伝で玄宗皇帝の許可を得、渤海経由で帰国の途に着いたが再び暴風雨に遭い出羽の国に漂着した。広成は蘇州を出帆してから四年後の七三九年十月入京した。
唐に留まった仲麻呂はそれから十八年の歳月が過ぎ、七五三年(天平勝宝五年)、第十回遣唐使が入唐した。在唐三十六年になる仲麻呂は大使の藤原清河に帰国を願い出て許された。
この帰国の船に五度も渡日に失敗し盲目となっていた鑑真(六八八~七六三年)と普照の二人も乗船を許された。
仲麻呂は大使の藤原清河と共に第一船に乗船し、鑑真は副使の大伴古麿と共に第二船に乗船して渡日の途についた。
日本へ向かった船団は途中暴風雨に遭って難破し、仲麻呂の乗った第一船は遭難して安南(ベトナム)に漂着した。同船者百七十余人の多くが殺され、藤原清河と仲麻呂ら十数人が何とか難を逃れ再び唐の都、長安に戻ることが出来た。
吉備真備が乗船した第三船は沖縄に漂着し、船を修理して奄美諸島を目指したが風に翻弄されて黒潮に乗り、船は漂流したが幸いな事に紀伊田辺に漂着した。
鑑真が乗船した第二船は沖縄に漂着し、船の修理を終えて奄美諸島を経て屋久島から、十二月二十日、薩摩国坊津に帰り着いた。第四船も翌年の四月、薩摩国坊津に帰り着いた。鑑真が平城京に入ったのは天平勝宝六年(七五四年)二月、孝謙天皇の時世であった。
鑑真を招聘した大安寺の僧普照と唐土で客死した興福寺の僧栄叡は天平四年(七三三年)に派遣された遣唐使の一行に学問僧として随行し唐土に渡った。二人は元興寺の僧、隆尊(七〇六~七六〇年)から唐に渡って伝戒の師を招聘する特命を受けていた。
この頃、日本では僧として守るべき規範も定まっておらず、課役を免れるために百姓は争って出家し流亡していた。
百姓の出家を取り締まる法律を次々に発布したが効果は上がらず、仏徒を取り締まるには法律よりも唐より優れた戒師を招き正式な受戒制度を布く必要があった。
こうして特命を受けた二人は学問僧として遣唐使の一行に加わった。途中、暴風雨に遭い船は流されたが無事、蘇州の海岸に漂着した。
長安で学び在唐七年となった二人は揚州に赴き、大明寺で高僧として名を成していた鑑真に会い伝戒の師の推薦を依頼した。しかし、三十数人の弟子の中で応じる者はいなかった。
鑑真は「法の為である。たとえ滄海が隔てようと、命を惜しむべきではない」と弟子を諭し、自身が渡日する決断を下した。
鑑真が日本渡航を決意したのは七四三年、五十五歳の時であった。この頃、唐では許可無く渡航する事は禁じられていた。
たとえ願い出ても許されるべきはずもなく、鑑真一行は密かに船を仕立てて密航を企てたが密告され官憲に捕らえられた。同年、再び揚州から船を出したが嵐に遭い船は大破した。
それでも鑑真の決意は変わらず、三度目の渡日を決行したがやはり嵐に遭い船は大破した。四度目の七四四年は密告により渡航を指し止められた。
七四八年、五度目の渡航を実行したが嵐に遭い海南島に漂着し、陸路、揚州に帰る途中で栄叡は亡くなった。
七五三年、第十回遣唐使の帰国に際し、普照は大使の藤原清河、副使の大伴古麿、吉備真備に鑑真の渡日を願い出て長安を発ち、揚州に向った。
遣唐使節は玄宗皇帝に鑑真の招聘を上奏し、玄宗も鑑真の渡日に反対しなかったが、鑑真の渡航に許可は出さなかった。
長安を発った遣唐使の一行は乗船地の黄泗浦に向う途中、藤原清河、大伴古麿、吉備真備、阿倍仲麻呂の四人が揚州延光寺に鑑真を訪ね渡日を願い出た。
既に盲目となっていた鑑真は唐朝の不許可を承知の上で、五回海を渡って日本へ向ったがいずれも失敗した。こんどこそ、日本の船で本願を果たしたいと答え渡日を承諾した。
こうして、七五三年十二月十六日、不帰の決意で旅立つ鑑真と在唐二十年の普照は第二船に乗船し、蘇州黄泗浦を発った。
遣唐使船は東シナ海で嵐に見舞われたが、鑑真が乗船した第二船は沖縄に漂着し、奄美諸島を経て屋久島で風待ちし、十二月二十日、薩摩国、坊津秋目浦に着岸した。
一行は時を置かず出発し、大宰府を経て難波に至り、勅使の出迎えを受けて奈良の都に入った。
この様な苦難の末、鑑真が渡日を果たしたのは七五四年、渡日を決断して十一年の歳月が過ぎ、鑑真は六十六歳に達していた。
四月、東大寺の盧舎那仏の前に戒壇を設け、聖武上皇は鑑真を導師として菩薩戒を受け、光明皇太后、孝謙天皇も登壇受戒した。続いて皇族、諸僧が登壇し、次々と戒を受けた。
翌七五五年、天皇の詔を賜った鑑真は東大寺に戒壇院を設けた。国中から鑑真の高徳にあやかりたいと願って修行僧が東大寺を訪れ鑑真は伝法の師として戒律を授けた。
鑑真は渡日を果たしてから十年後の七六三年五月六日、結跏趺坐(座禅を組んだ時の姿勢)して、享年七十六歳で示寂(僧侶の死)したと伝えられている。(唐招提寺金堂は、鑑真が他界した翌年に建立された。)
一方、再び長安に戻った仲麻呂は名を晁衡と改めて唐の玄宗皇帝に再び仕え、唐の詩人李白(七〇一~七六二年)や王維(六九九~七五九年)とも交友を持った。藤原清河も名を河清と改め次回の遣唐使節が来るまで唐朝に出仕することとなった。
しかし、次回、宝亀八年(七七七年)の遣唐使節が着いた時、二人はすでに世を去っていた。在唐五十四年の阿倍仲麻呂と藤原清河は同年代であったのか、二人は七七〇年(宝亀元年)、七十三歳で客死し長安の都に骨を埋めたとある。
百人一首の中に望郷の思いを抱いて詠んだ、仲麻呂の一首、(乗船地の黄泗浦で催された別れの宴の席で詠んだと云われている)
天の原 ふりさけ見れば 春日なる
三笠の山に 出でし月かも
八〇四年(延暦二十三年)第十六次遣唐使節に空海と最澄が留学僧として随行し唐に渡った。二人が持ち帰った仏教がその後の日本仏教に決定的な影響を与え、現在の日本仏教に引き継がれている。
八九四年(寛平六年)、長らく途絶えていた遣唐使節を六十年振りに派遣することとなり菅原道真が正使に選ばれた。しかし、道真は航海の危険と衰退する唐から最早学ぶものは無いと、中止を建議し宇多天皇に認められて二百六十年余に及ぶ遣唐使節の派遣は終わりを告げた。
この様に長安(西安)は日本に馴染み深い古都であり、規模は比較にならないが奈良の平城宮、京都の平安京も長安を手本にして造営された。
訪れた西安の街は北京と同様に自転車で溢れ、バイクも自動車も無謀な運転に驚かされた。それと車の直ぐ前を横断する無謀な歩行者、その度にバスは急ブレーキを踏み、ひやりとさせられる事がしばしばであった。
西安の街路は長安の都の名残であろうか碁盤の目に整備され道幅も広く整然とした街並みであった。街路には大きく成長した街路樹が枝を広げ緑のトンネルを形作っていた。
西安に生まれ育ったガイドの職さんの話によると、街路によって植えられている樹種が異なり、西安の人々は樹木の名前を相手に伝えれば、どの街路に居るか解かるそうである。
中国は街路樹を植える事に力を注いでいるのか八達嶺に向う高速道路にも延々と街路樹が植えられていた。又、北京市内を巡る高架の高速道路にも箱型の大きな植木鉢が置かれ草花が植えられていた。北京市内のどの道路も西安と同様に並木で縁どられていた事を思い出した。