北京・西安・上海 駆け足の旅
故 宮
故宮
八達嶺の長城の景色を堪能し再びバスに揺られて北京市内に戻った。最初に訪れたのは天安門広場であった。
天安門は中華人民共和国のシンボルであり、一九四九年十月一日午後三時、毛沢東(一八九三~一九七六年)はこの天安門の壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言した。
天安門は紫禁城とも呼ばれる故宮の南大門である。赤紫に塗り込められた高い城壁の上に、朱塗りの柱に象徴的な黄色の瑠璃瓦で葺かれた巨大な門が広場を見渡している。城壁の中央には巨大な毛沢東の肖像画が掲げられ、天安門の楼上には紅旗がはためいていた。
天安門の前の広い道路は並木の分離帯もなく一直線に延び、有事の際は滑走路に使用出来ると思えるほどに道路の整備が行き届いていた。
至る所に軍服を着た兵士が一団となって行きつ戻りつ、警戒に当っていた。ここでは軍服を遠慮してかひつこい物売りも影をひそめ、地方から観光に訪れたのか大勢の中国人が記念撮影に興じていた。
天安門を正面に見て左手にテレビで見た事が有る人民大会堂が威容を誇り、広場の周囲には人民英雄記念碑、毛沢東祈念堂が有った。
訪れなかったが毛沢東祈念堂は一九七六年に建立された毛沢東の陵墓である。祈念堂の正面玄関ロビーの裏の部屋に水晶で作られた棺の中に中国国旗に包まれた毛沢東の遺体が安置されているとの事。
天安門広場は驚くほど広く面積およそ四十万平方メートル、百万人が集会出来ると言われる世界で最も広い広場の一つである。(因みに甲子園球場の面積は三九六〇〇平方メートル、実に甲子園球場の十倍の広さがある)
度々、新聞、テレビに登場する天安門広場に立って周囲を眺め、さすがに広いと実感した。この広大な広場に百万人の人々が赤旗を振りかざして集まり歓声をあげる。実際にその光景を眺めれば底知れぬ凄まじいエネルギーに怖さを感じるであろう。
広場から地下道を通り天安門前の広い道路を横切って、高々と聳え立つ天安門をくぐり故宮(紫禁城)に入城した。
紫禁城の名の由来は中国古代の天文学に拠っている。天の中心に有る紫微垣(北極星)は天帝の居住する所であり紫微宮と呼び、天帝に対応して地上を司る皇帝の皇宮を紫禁城と称した。(皇帝以外紫色の使用を禁止した。日本では聖徳太子が冠位十二階を定め、位階を冠の色で表わした。冠位の色は紫、青、赤、黄、白、黒、と定め、紫を最上位とした。)
明の第三代皇帝である朱棣(永楽帝)は帝位を奪ったのち明の永楽四年(一四〇六年)北京に遷都することを決め(明を建国した朱元璋(洪武帝)は南京を都とした)、紫禁城宮殿の建設を始めた。十四年の歳月の後、明の永楽一八年(一四二〇年)にこの宮殿が完成した。
天安門をくぐって広場を突き切ると故宮の正門、牛門に至る。故宮には東西南北に門が有り牛門は南の門で子午の方向にあるところから牛門と呼ばれた。此の門は故宮参観者の入口でもある。北の門が神武門で出口になっている。東の門が東華門、西の門が西華門である。
牛門には三つの入口が有り、中央の大きな入口が皇帝の入口、左右の入口は皇后と高級官僚の入口である。牛門も巨大な建物で遠くからでも見上げるほどの高さであった。
牛門をくぐると野球場ほどの広さが有る方形の広場の正面に奈良の大仏殿の様な大きな建物が見えた。方形の広場の中央を横切るように湾曲した金水河と呼ばれる掘割があり、白玉石造りのアーチ橋が五つ架けられていた。
中央の石橋は皇帝のための石橋で有ろうかひときわ幅も有る立派な橋であった。橋を渡ると高さ一メートルほどの白玉石の回廊が有り、林立する石柱の全てに精巧な彫刻が施されていた。石橋を渡った正面に巨大な太和門その両側に召徳門と貞度門が有り入城を拒むが如く広場を塞いでいた。
太和門の扁額を見ると漢字のみしか書かれていないが清代には漢字と満州族の文字が併記されていた。満州族の文字を削り取ったかすかな痕跡が見えるが、これは溥儀を退位させた袁世凱が外朝宮殿の扁額から満州文字を削り取ったと伝えられている。門の東西には巨大な門にふさわしく大きな銅製の獅子の像が据えられていた。
門の入口に掲げられていた日本語の説明文(原文の通り)に拠ると、「故宮は紫禁城とも呼ばれ、明、清二代の皇宮であった。明の永楽四年から同十八年(一四〇六~一四二〇年)にかけて造営した。故宮の建築は外朝と内廷の二つの部分に大別される。外朝は太和殿、中和殿、保和殿の三大殿を中心に、左右に文華殿と武英殿を配する。ここは皇帝が重要な儀式を行うところである。内廷には乾清宮、交泰殿、坤寧宮、御花園、養心殿と東西六宮がある。皇帝の日常の政務を処理するところであり、后妃達の居住した区域である。外朝、内廷の諸宮の他に外東路にある太上皇としての宮殿群、皇子の住んだ南三所及び外西路の皇太后のための宮殿もある。故宮は、我が国に現存する最大、最も完備し、古代建築芸術の優れた伝統と独特な風格をもった古代建築群である。一九六一年、国務院に「全国重点文物保護単位」と一九八七年、ユネスコに「世界遺産」と指定された。明の三代目の皇帝である朱棣(永楽帝)が北京に遷都して以来、明、清両代の二十四人の皇帝がここに居住した。一九一一年、辛亥革命が清朝の統治をくつがえし、封建王朝の皇宮としての紫禁城の歴史は終焉を告げた。一九一四年、外朝は古物陳列所となり、さらに一九二五年十月十日、故宮博物院が成立した。中華人民共和国の成立後、故宮博物院の面目も一新され、宮殿の修繕のみならず、文物の整理、征集、修復、保管事業に積極的に取り組み、各種の陳列展覧も開催されている。三大殿、後三宮、養心殿及び西六宮などは宮廷史蹟の現状が維持され、当時の帝后の生活用品や宮廷内の装飾物が陳列してある。その他の宮殿は若干の専門館を開設し、宮廷コレクションの珍宝、絵画、青銅器、陶磁器、工芸品及びからくり時計などの稀品を展示してある。これらのすべては、中国が悠久の歴史をもつ偉大な国家であることだけでなく、光輝ある文化を持つ文明国家であることを生き生きと物語っている。」と記されていた。
太和門をくぐると広大な広場の先に巨大な建物が有った。故宮の宮殿の中で最も高く最も大きい建物、太和殿であった。
太和殿は明代の永楽一八年(一四二〇年)に創建された。現在の建物は清朝三百年の基礎を固めた名君、康熙帝によって康熙三十四年(一六九五年)に再建されたものである。
宮殿の高さ三十五メートル、面積二三七七平方メートル、七十二本の巨大な柱が宮殿を支えている。宮殿は三層の台座上に有り、台座には漢白玉石の欄干をめぐらせていた。
太和殿に昇る中央の石段は皇帝専用の「御路」と称し、巨大な石に海浪と流雲を背景に竜が彫られている。
石段の両脇には十八基の巨大な銅製の鼎式香炉があり、壇上には東西に巨大な銅製の鶴と亀が有る。他の宮殿にも据え置かれていたが火災に備えてこれもまた巨大な銅製の水瓶が置かれていた。
この宮殿で重大な行事が執り行われる日、太和殿から天安門まで儀仗が並び、文武百官が官位別に御道の両側に立ち並んだ。皇帝が太和殿に着くと、午門にある鐘と太鼓が一斉に打ち鳴らされ、楽隊が相次いで演奏した。
そして、この巨大な香炉で香木を焚き、この広い太和殿の広場にお香の煙がたなびき宮廷内外に微香を漂わせたと云う。どれほどの香木を焚いたのか想像を絶するスケールの大きさに圧倒された。
中央左の石段を登り、一段高い太和殿の壇上から見渡すと視界を遮る木々の緑もなく黄金に輝く故宮諸殿の甍が幾重にも重なり合っていた。
国民性の違いであろうか京都御所を代表とする木々の緑と庭園を配した日本の建築様式とは大きく異なり、赤紫の塀に囲まれた故宮の太和殿、中和殿、保和殿の三大殿を中心とした外朝には一木一草もなく、ただ建物だけが際立っていた。
太和殿の薄暗い内部を見ると、柱は雲龍文様を漆で盛り上げて金箔で覆った金柱であった。そして宮殿の中央に皇帝の玉座があった。最難関の科挙の試験に合格するとこの宮殿に昇り床に平伏して、玉座に坐す皇帝の謁見を受けたと云う。
故宮の広さは南北九百六十メートル、東西七百五十メートル、総面積七十二万平方メートル(東京の皇居は約二十二万平方メートル)、故宮全景図を見ると中軸線上に南から牛門、太和門、太和殿、中和殿、保和殿、乾清門、乾清宮…と南北に連なる宮殿が配置され、その外側に左右対称に宮殿群が建てられている。
宮殿の甍は黄金色に輝く黄色の瑠璃瓦で統一され、周囲を赤紫に塗り込められた高さ十メートルの城壁で囲み、四隅に角楼が有る。
城壁の外に幅五十メートルの掘りを廻らし、堀を穿った土を神武門の北に積み上げて景山を作ったと伝えられている。
故宮には大小六十以上の楼閣が建ち並び九千近くの部屋数が有る。建築総面積は延ベ一六万三千平方メートルに達し、明代には九千人の宮女、宦官十万人が住んでいたと云われている。
この様に故宮はとてつもなく広く奈良の大仏殿の様な大きな建物がいったい幾つ有るのか壮大な建築群にまず驚かされた。
太和殿の大きさに驚きながら先に進むと中和殿、保和殿と連なり、巨大な三殿がセットで建ち並んでいた。
中和殿は皇帝が太和殿に赴いて行事を行なう前の休息の場であり、朝拝を受ける場所であったとされる。保和殿は三年毎に行なわれた「殿試」と呼ばれる科挙制度の中で最難関の「進士」試験を実施した場所と伝えられている。
巨大な建物群に圧倒されて少々疲れを感じた頃、ガイドはトイレ休憩を兼ねて一棟の建物に案内した。
そこは土産物店であったが少し様子が違っていた。普通若い女性の売り子がいるのにその店には数名の青年と店主しかいなかった。
入口を入って右に書が飾られ、その前に禅僧の如く作務衣姿の初老の紳士が端正な姿で椅子に深々と座っていた。
店内を見渡しお茶の接待を受けてくつろいでいると年配の店主が現れテーブルの脇に立って流暢な日本語で話し始めた。
「右手に御座りのお方は清朝に繋がる愛新覚羅寿古先生です。寿古先生は国際書畫学会の学術委員、中国王義之芸術研究会の研究員、世界芸術家連合会の理事、東方詩・書・畫・印函研学会の理事、等々要職を歴任し現代中国を代表する書家のお一人です。日本にも馴染みが深く、日本の皇室とも親しく、元首相の竹下登氏が中国を訪問された時、寿古先生の書を進呈致しました。日本の東京でも個展を開き、その時は一字三~四万円、一幅の掛け軸を二~三十万円で頒布致しました。本日は寿古先生が故宮の維持管理に充てる費用の足しになればとボランティアで当所にお越し頂きました。本日は寿古先生がボランティアでお越し頂いておりますので特別に条幅は三万円、二分の一の条幅は二万円、でお譲り致したいと思います。正面の四幅の掛け軸は展覧会に出品した作品ですので値段はご相談致したいと思います。」日本人と告げられても疑えないほど流暢な日本語を話し思わず聞き入ってしまった。
寿古先生は店主が説明する間も泰然自若として身じろぎもせず着座していた。お茶を頂いた後、壁に掛けられた掛け軸を眺め、日本では表装するだけでも二万円以上はすると思った。
まして高名な中国の書家の書が表装込みで二~三万円と聞き、我家の床の間に飾るのに良いかも知れぬと思いつつ書を眺めていた。
すると店主が近付き「お客様のお好みの字句が有ればこの場で寿古先生にしたためて頂きます。」と声を掛けられた。
思わぬ誘いに乗り、和と書かれた掛け軸の讃に「家和萬事興」の字句を見つけ、この字句を二分の一の条幅に仕上げて欲しいと依頼した。
店主は「文字数から見て二分の一の条幅ではバランスが悪く難しい、一間の床の間なら是非、条幅になさったら如何ですか」と条幅を勧められたが、予算が無いので寿古先生に伺って欲しいと頼むと、先生は書けるとおっしゃったとの事。この様な経緯から一幅の書を購入する事となった。
寿古先生は皆が見守る中、筆を下ろしたが一枚は字句のバランスが思わしくなく反古にされた。二枚目は見事に書き上げ、おもむろに落款を押印した。
先ほどの店主が「作品を囲んで寿古先生と記念撮影をなさったら如何ですか」と勧められ作品を寿古先生が掲げ我々夫婦が横に並んで記念写真に納まった。
代金を払い送り先を書くと申し出ると店主は「今夜遅く九時頃、ホテルに届ける」と応えたので、表装がそんなに早く出きるはずが無い、通常一週間はかかると反論すると、店主は「中国でも手作業で表装すればおっしゃる通り一週間ほどかかります。しかし表装する機械を日本から輸入しているので、この機械を使えば裏打ちから乾燥まで四~五時間で可能です」との返事。
急いでガイドに相談すると「この店は信用出来ます。ご注文なさったのなら責任を持って届けます。」との返事が有り、安心した次第。
それにしても表装の機械が有ったとは驚きであった。購入した掛け軸は今、我家の床の間に飾られている。
土産物店を辞し、珍宝館の入場券売り場がある錫慶門の前で靴の上から前と後ろにゴム紐がついたスリッパ(なかなかのアイディアだと思った)を履き珍宝館にむかった。
錫慶門をくぐると広場の先に皇極門がありその先に珍宝館がある。今は故宮の宝物を展示する珍宝館と称しているが、この宮殿は乾隆時期に改築され大上皇の宮殿で皇極殿と呼ばれていた。
今回の旅では時間的なゆとりもなく珍宝館のみの見学に止まったが故宮の宝物は太和殿、中和殿、保和殿及び后三宮、西六宮などに往時のまま展示されている他、珍宝館をはじめ青銅器館、陶磁器館、工芸美術品館、絵画館、鍾表館などに展示されている。
故宮の宝物は一九一一年の辛亥革命の後、中華民国政府によって故宮の収蔵品の詳細な調査が行なわれた。この時の調査では宝物の総数は百十七万点を超え、古代玉器、唐・宋・元・明各時代の書と絵画、宋・元代の陶磁器、七宝、漆器、金銀器、金・銅製の佛像、織物、装身具、家具、大量の図書典籍、等々まさに天下の珍宝が集まっていた。
一九二五年、紫禁城は国家的宝物として管理、保管、修復、公開を目的に故宮博物院と改称し一般に公開された。
その後、満州事変、日中戦争が勃発し故宮博物院は重要な収蔵品を略奪から護る為に南方に疎開する事とした。この時、南京、上海に一三、四二七箱と六四包の文物が移送された。
第二次世界大戦後、国民政府と中国共産党との内戦が激化し、劣勢になった国民党を率いる蒋介石は故宮の宝物を台湾に運ぶ事を指示した。
一九四九年、国民政府が共産党に敗北するまでの間に、南京の倉庫から文物を選んで二、九七二箱を台湾に運んだ。全体の三分の一、とも四分の一とも言われる約七十万点の宝物が台湾へ運び出された。 移送に際しては特に文化的価値の高い宝物を優先して台湾に送った。その為、重要な宝物の大半は台湾に有ると云われている。(台湾の故宮博物院が収蔵する約七十万点は特に人気の高い常設展示品を除き、約六千点を三ヶ月毎に入れ替えている。全ての収蔵品を見るにはおよそ三十五年かかると云われている。)
故に、故宮の宝物を見るには台湾と云われているが、案内のガイドは「故宮の宝物はこれらの古代建築群の中に展示されてこそ故宮の宝物である」なるほど至言であると思った。
北京の故宮博物院は壮大な建築群が連なる紫禁城そのものを博物館にしており、博物院には文物およそ百万点が収蔵されている。一九八七年、故宮はユネスコの世界文化遺産に登録された。
珍宝館に入ると見事な収蔵品が展示されていた。金製品、宝玉を散りばめた衣装、絶対に色が褪せない孔雀の羽で織った衣装、等々重要な宝物の大半が台湾に持ち去られたとは云へどれも逸品の数々であった。
この旅では時間もなく故宮博物院の一館を見たに過ぎなかったが宝物の一端を見て、その凄さを実感した。明、清両代の二十四人の皇帝が収蔵したコレクションとはいったいどれほどの逸品が有ったのであろうか。中国皇帝の巨大な権力と悠久の歴史を垣間見た。
珍宝館を出て両側を赤紫の高い塀に囲まれた内西路を随分歩いて故宮の北門、神武門に至った。神武門も又、巨大な建物であった。門に掲げられた巨大な扁額を見ると満州文字と漢字が併記されていた。広い通りをしばらく歩き振り返って神武門の全貌を眺めた。
故宮の堀に沿ってガイドの案内で北京でも有数の茶寮に向った。景山前の広い道路を歩いていると故宮を紹介する書籍を売る物売りが千円、千円とひつこく付き纏ってきた。
ガイドから相手にするなと教えられていたが余りの熱心さにほだされ書籍を手にとって開いて見ると中国語と英語で書かれた書籍であった。日本語の本なら買っても良いと伝えたが言葉が通じずその後もひつこく付き纏とわれた。
茶寮に至る門をくぐると付き纏とっていた物売りも諦めたのかテリトリー外なのか忽然と姿を消した。
茶寮では流暢な日本語で中国式茶道の説明を受け、種々の中国茶を試飲したが、飲みなれない為か微かな香りの違いを感じたに過ぎなかった。
茶寮を辞して色とりどりの花が咲き乱れる景山公園を通り掛ると老女が敷き瓦に文字を書いていた。見ると長い棒の先に付けたスポンジに水を含ませ、筆に仕立てて文字を書き連ねていた。どうやら漢詩の一節らしく感心させられるほど達筆であった。
しばらく眺めていると日本人の旅行者と気が付いたのか両手に例の筆を持ち、驚いた事に日中友好と右手で正字、左手で逆字を書いた。流石は文字の国、大道芸として路上に文字を書き連ねるパフォーマンスに感心した。