北京・西安・上海 駆け足の旅
大雁塔
大雁塔
西安は北京に比べて高層建築が少なく遠くからでも大雁塔を臨み見ることが出来る。道幅百メートルはあろうかと思える広い道路の正面に鐘楼が高く聳え、その先に大雁塔が屹立していた。西安のシンボルタワー大雁塔は西安の東南郊外慈恩寺境内にある。
玄奘三蔵法師(六〇二~六六四年)ゆかりの慈恩寺に至り、拝観料の値段を見ると以外に高く十元(一五〇円)であった。
故宮博物院の入場料が中国人と外国人で異なっていた事を思い出しガイドに尋ねるとここは同一料金との事、中国の物価水準から見て以外に高い拝観料に驚いた次第。
訪れた慈恩寺は境内に大雁塔が聳える有名な寺ゆえ壮大な伽藍と東大寺の南大門の如き大きな門を想像していたが予想に反し、意外にも末寺の寺門の如き小さな門であった。慈恩寺の小さな門をくぐると石畳の先に西安のシンボルタワー大雁塔が聳え建っていた。
慈恩寺は六四八年、唐の高宗(三代皇帝)が母である文徳皇后の供養のために建立した寺で、かつては大慈恩寺と呼ばれた。
建立の当初は現在の敷地の七倍程度有り、諸殿が建ち並んでいたが戦乱で焼け落ち、現在は山門、鐘楼、鼓楼、大殿、二殿、大雁塔を残すのみとなった。
有名な大雁塔は玄奘三蔵法師が沙漠を渡り、ヒマラヤを越えて釈迦の故郷、天竺(インド)に仏法を求めて旅し、苦難の末に持ち帰った仏像と経典を納める為、唐の第三代皇帝高宗(六二八~六八三年)に願い出て建立された搭である。
二十六歳の玄奘三蔵法師(六〇二?~六六四年 法相宗の始祖)が国禁を犯して密かに西安の西の城門をくぐり仏法を求めて天竺(インド)に旅立ったのは貞観三年(六二九年)秋八月であった。(日本に法相宗が伝わったのは六五三年に法興寺(元興寺)の道昭が入唐して玄奘に師事して日本に伝えた。奈良の興福寺、法隆寺、薬師寺、西大寺、京都の清水寺が法相宗である)
玄奘が国禁を犯してまでも沙漠を渡りパミールを越えて釈迦誕生の地、天竺を目指したのは原典を求める旅であった。
中国に初めて仏教が伝来したのは、後漢の明帝(在位五七~七五年)の時代であると云われている。その後、鳩摩羅什(三五〇~四〇九年)によって般若経、維摩経、法華経、阿弥陀経、等々の主要な大乗経典が漢訳された。
玄奘が仏教修学を志した頃、中国では独自の仏教が形成され、仏教が最も盛んな頃であった。しかし玄奘は漢訳経典を学んで様々な疑問に突き当たった。それは漢訳の折り、訳者の主観が入り込み解釈が異なっていた。
仏法の真理をより深く知りたいと考えた玄奘は原典を探し求めた。しかし原典は中華思想の影響か漢訳を終えると原典は用済みとなり散逸して求められなかった。
仏法の本質を知りたいと一途に思い詰めた玄奘は意を決し、国禁を犯して天竺に旅立つ事を決意した。
天竺を目指した求法僧は玄奘だけではなく玄奘より二三〇年前、法顕(三三七~四二二年)がインド巡礼を果たした。
法顕は六十余歳の老齢の身でヒマラヤを越えて北インドに入り、インド各地の仏跡を辿る求法の旅に出た。インドの仏跡を巡り遠く海を渡りセイロンまで仏跡を尋ねて旅し十五年の後、海路中国に帰り着いた。
玄奘も法顕も原典を求める求法の旅であったのか共に苦難を覚悟して釈迦誕生の地インドの仏跡を尋ねる巡礼の旅であった。
玄奘が旅立った貞観三年は唐の二代皇帝太宗の時代で「貞観の治」と呼ばれるほど太宗が善政を布いた時代であったが、唐は突蕨と対立しており出国を禁止していた。
許可を求めたが得られず玄奘は西の城門(シルクロードの起点)の守衛に賂を贈って長安の都を出奔したが涼州(今の甘粛省武威県)で捕らえられた。
しかし、涼州の法師が玄奘の意気に感じて密かに脱出させ、玄奘は涼州から瓜州の玉門関に至った。
瓜州にも玄奘を送還せよとの通達が届いていたが役人の計らいで国境の玉門関を越え伊吾に至り、伊吾から天山南路をとり、出発から半年後にトルファン(高昌国、現在の中国・新疆ウイグル自治区)に至った。
高昌国は麹氏が統治する漢族王朝の時代であった。玄奘は国王の麹文泰の歓待を受け、二ヶ月ほど滞在した。
国王の麹文泰からこのまま高昌国に留まる事を強く要請されたが、玄奘は求法の旅を強く望んだ。国王は留まらなければ唐に送還すると強要したが、玄奘はあくまで求法の旅を続ける事を望んだ。
国王は玄奘の意志の強さに負けてこれから向う二十四ヶ国の国王に宛てた紹介状を授け、旅の資金を援助した。そして帰路、必ず高昌国に立ち寄り三年間留まる事を約させた。
玄奘は国王の紹介状を得てトルファンから亀茲(天山山脈南麓のオアシス都市)に至った。亀茲は法顕と同時代に生きた鳩摩羅什の故郷でもある。
鳩摩羅什は般若経、維摩経、妙法蓮華経(法華経)、阿弥陀経、等々主要な大乗仏典を漢訳し本格的な大乗仏教を中国に伝えた。鳩摩羅什の漢訳が素晴らしくその後の中国で大乗仏教が華を開き、ひいては日本仏教に大きな影響を及ぼした。
玄奘は仏教国の亀茲に二ヶ月ほど留まり、雪解けを待って亀茲から天山を越えて、中央アジアのウズベキスタンの首都タシケントに至り、タシケントからサマルカンド(ウズベキスタン)に至った。サマルカンドは既に仏教は廃れていた。
玄奘はサマルカンドからバーミヤーン(アフガニスタンのオアシス都市)、カブール(アフガニスタンの首都)、ガンダーラ(パキスタン)を経て釈迦誕生の地インドに入った。
玄奘はインドをほぼ一周して念願の仏跡を巡礼し、仏像と膨大な経典を数十頭の駱駝の背に乗せて六四一年の秋、帰国の途についた。
法顕は海路をとって帰途に就いたが、玄奘は高昌国王との約束を違えず陸路をとった。インダス河を遡ってガンダーラからカブールに至り、パミール高原の四千メートルを越える二つの峠を越えて天山南路と西域南道の岐路カシュガル(新疆ウイグル自治区)に至った。
玄奘はカシュガルから天山南路をとって高昌国に立ち寄る予定であったが、この地ではじめて高昌国が唐に滅ぼされたことを知った。
高昌国に行く必要がなくなった玄奘は予定を変更し、カシュガルから北にタクラマカン沙漠が広がる西域南道をとってヤルカンド、ホータン(共に新疆ウイグル自治区のオアシス都市)を経て敦煌を目指した。
パミールの山中では盗賊に襲われ、多数の経典を失い、タクラマカン沙漠では「上に飛鳥なく、下に走獣なく、また水草もなし。」と「玄奘伝」に記されている過酷な旅を経てホータンに到着した。
玄奘はホータンにしばらく滞在して失った経典を補充した。そして、許可を得ず出奔した罪は免れず、唐の朝廷の了解を取るべく上表文を隊商に託した。
太宗は大歓迎で玄奘を許し、玄奘が再び西の城門をくぐって長安の都に帰り着いたのは出発から十七年後の貞観十九年(六四五年)一月であった。その旅の様子を「大唐西域記」としてまとめた。
帰着した玄奘は大慈恩寺に入り数百人の僧を指揮して持ち帰った経典の漢訳に取り組んだ。有名な般若心経も六四九年に玄奘が漢訳したと伝えられている。
そして玄奘はこれらの膨大な経典を収蔵する塔の建立を太宗に願い出て、建設されたのが大雁塔である。玄奘、自ら設計に携わり籠を背負って煉瓦を運び、六五二年に大雁塔は完成した。
当初の大雁塔は玄奘の建議を入れ、インドの塔婆を真似て方形五層であったが七〇四年、則天武后(六二三~七〇五年 高宗の后で中国史上唯一の女帝)の時代に大改造を行い十層になった。しかし、その後の戦乱で上部が崩壊し七層の建物として再建された。
現存する煉瓦作りの搭の高さは六十メートル、基壇の高さが四メートル有り、通高では六十四メートルも有る。現代のビルと比較すると二十階建のビルの高さに相当し、十層となれば約九十メートル、三十階建のビルの高さに相当する。どの様に煉瓦を積み上げたのかその技術と労力に唯々驚くばかりである。
大雁塔を仰ぎ見ると最上層に人が見えガイドに尋ねると、内部に螺旋階段が有り十五元の入塔料を払うと登る事が出来るとの事。最上層まで登ると西安の市街が一望出来るとの事であった。