イタリア紀行

永遠の都ローマ

 疲れていたのか七時半のモーニングコールで起され朝食もそこそこに済ませて早速ローマ市内観光に出発した。

 バスの車窓から眺めるローマの街は古びた四~五階建ての建物が立ち並び、道路は石畳で電柱が無く如何にも古都を感じさせる佇まいであった。

 ガラスとコンクリートで造られた近代的な?日本の都市とは趣を異にし落着いた情緒が感じられた。

 バスは文化財級の古色を帯びた裁判所の前を通り、星形の壕を巡らしたサンタンジェロ城を左に見てサン・ピエトロ大聖堂を正面に見る広い道路を走り広場の手前の道路脇に停車した。

 イタリアに来て最初に訪れたのはサン・ピエトロ大聖堂であった。道路の先にサン・ピエトロ広場が有り一本のロープが張られていた。

 この一本のロープがイタリア国とヴァチカン市国を隔てる国境であった。(サン・ピエトロ大聖堂については後述する)

 サン・ピエトロ大聖堂を見学して再びバスに乗りテヴェレ川を渡ってトレヴィの泉に向かった。

 車窓から右に左に古代ローマの遺跡が見え、街全体が博物館の様な遺跡の街、ローマを実感した。

 通りでバスを降り、古色を帯びた建物が立ち並ぶ石畳の路地を抜けると其処にトレヴィの泉が有った。 後ろ向きになってコインを投げ入れると再びローマを訪れる事が出来ると云う伝説の泉、トレヴィの泉は観光客でごった返していた。 イタリア、トレヴィの泉

 この泉は一四五三年、教皇ニコラウス五世が古代ローマの水道技術者アグリッパが築いた水道を約千年ぶりに復活させた。

 しかし、甦った泉に上水の設備が無く人も馬も共に使い乙女の泉には程遠かった。現在見る美しい泉に変身したのは一七六二年、泉の傍に教皇の宮殿としてポーリ宮殿が築かれ、宮殿の壁面に彫像を配し泉と宮殿を一体化させ上水設備として噴水を備えた泉に一変させた。

 泉の底には白大理石が敷き詰められ水の色は淡い緑の色調を帯び乙女の泉に相応しい清らかな泉であった。ポーリ宮殿の壁面を飾る白大理石の円柱と神話に登場する人物やさまざまな寓意像の彫刻が泉の背景となり、淡い緑の泉と見事に調和していた。

 トレヴィの泉は水位の関係か深く掘り下げた泉で、泉の周囲は数段の石段が巡らされ上から見ると巨大な水盤の様に見えた。

 暫く観光客が立ち去るのを待って石段を下り、郷に入っては郷に従えの喩えも有り、後ろ向きにコインを投げ入れた。

 映画「ローマの休日」で可憐なオードリ・ヘップバーンがトレヴィの泉でアイスクリームを頬張るシーンが有り、ヘップバーンが買い求めたと云われる店が泉の直ぐ横に有った。その店はオードリ・ヘップバーンにあやかって買い求めるのか大繁盛で女性客の長い行列が出来ていた。妻もツアーの仲間と共に列に並びアイスクリームを買い求めていた。

 トレヴィの泉からバスに揺られ市の中心に位置するヴェネチア広場に入った。車窓からヴェネチア宮殿、ヴィットリオ・エマヌエーレ二世の記念堂を眺めた。

 ヴィットリオ・エマヌエーレ二世は百十年ほど前、日本の明治維新とほぼ同じ頃、分裂していたイタリアを統一し初代イタリア国王となった。

 国王の偉業を称え白大理石で築かれた巨大な記念堂は白亜に輝き正面に国王の騎馬像が有った。 ヴェネチア宮殿はヴェネチア共和国の政府代表機関が置かれていた建物である。 

 ファシスト党の党首となり政権を獲得したムッソリーニはヴェネチア宮殿を執務室として利用し、広場に面したテラスから演説して若者を熱狂させ独裁者の地位に駆け上った場所でも有る。

 バスはヴェネチア広場を一周してコロッセオに向かった。バスを降りて暫く歩くと前方に巨大な凱旋門が見えた。 イタリア、コンスタンティヌス帝の凱旋門

 この凱旋門は紀元三一五年、西ローマ帝国の副帝であったコンスタンティヌス帝が正帝のマクセンティウスに戦いを挑み、勝利を記念して建てたと伝えられる高さ二十一メートル幅二十五・七メートルの壮大な門であった。表面の浮き彫り装飾は他の建造物から剥がしてこの門に取りつけたと云われている。

 コンスタンティヌス帝の凱旋門をくぐってコロッセオ(円形競技場)に向かった。広場に立って巨大な石を積み上げて築いたコロッセオの全景を眺めその威容に圧倒された。

 美しいアーチを巡らしたコロッセオは紀元七二年、ヴェスパシアヌス帝が着工し息子のティトゥスが後を引き継ぎ壮大な石造りの競技場を完成させた。

 往時は四階建で五万人収容出来たとの事。コロッセオは今も三万人収容のコンサート会場として利用されているとガイドが説明していた。 イタリア、コロッセオ

 この巨大な競技場の建設を可能にしたのは石と石を接着するセメントの発明と優れた石造建築技術であるが、それにも増して壮大な建築を可能ならしめた絶大な富と権力に驚嘆した。

 美しいアーチを巡らしたコロッセオは築年代が異なるのか、一階のアーチはドーリア式、二階はイオニア式、三階はコリント式との説明を受けたがその違いは充分に理解出来なかった。

 往時のコロッセオは内壁と外壁が有り、外壁の高さは四十八メートルも有り内壁と外壁を強固に結合させる為、鉄の棒が挿し込まれていた。

 中世、コロッセオは無用の長物となり手頃な石切り場と化した。競技が行なわれた床の石は石材として持ち去られ、外壁と内壁を結合する鉄棒を抜き取る為に、外壁は切り崩され抜き取られた鉄の棒の跡が無数の穴となって我々の目に触れている。

 今、外壁は一部を残すのみとなり我々が目にしているのは内壁であるが往時の巨大さを知るには充分である。

 往古、このコロッセオで生死を賭けた闘いが毎夜繰り広げられ、流れ出る血に酔いしれたローマ人の跡を見て映画ベンハーのワンシーンを思い出した。

 コロッセオから見える小高い丘が古代ローマの七つの丘であろうか発掘された古代ローマの遺跡群が建ち並んでいた。二千年の歴史の跡を見て永遠の都ローマを実感した。

 午後の自由行動は添乗員の案内で地下鉄に乗りスペイン広場に出かけた。スペイン広場の名称は十七世紀この地にスペイン大使館が有ったことから名付けられた。 イタリア、スペイン広場

 映画「ローマの休日」での可憐なオードリ・ヘップバーンが石段を駆け下りるワンシーンを思い浮かべて広場に立ったがトリニタ・デイ・モンティ教会に至る通称スペイン階段は座りこんだ外国人の観光客で埋まっていた。

 広場の前には船をかたどったパルカッチャの噴水が有り、階段を見上げるとトリニタ・デイ・モンティ教会の二つの鐘楼が青空に聳えていた。

 スペイン広場に通じるコンドッティ通りには一流ブランドショップが軒を連ねていた。ローマを訪れた観光客が一度は立ち寄る通りと聞かされ我々もウインドーショッピングを楽しみ、路地を巡り歩いてノーブランドの掘り出し物を探したが気に入る物は無かった。

 コンドッティ通りでとある店のウインドウを覗き込んでいると中から若く美しい女店員が現われ是非にと招き入れられた。店に入ると男性の店員がさり気なく入り口のドアを施錠する音が聞こえた。

 ひと通り商品を見て礼を云いドアに近づくとすかさず男性の店員がキーを取りだしドアを開けてくれた。イタリアは泥棒が多く用心を怠るなと忠告されて来たが有名店は用心の為ここまで徹底するのかと驚かされた。この後もローマ、フィレンツェ、ヴェネチア、ミラノと各都市で同じ様な経験をした。


次のページ ヴァチカン


objectタグが対応していないブラウザです。