熊野古道 中辺路
熊野古道雑感
我々が歩いた中辺路は滝尻から本宮まで尾根筋につけられた険路であるが故に、幸いにも国道、県道に寸断される事なく古道は生活道として生き延びてきた。
しかし、我々が辿った古道は明治に入ってから大規模な植林が行われ大半の山も谷も杉と檜の人工樹林に覆われていた。
和歌山県庁の統計を調べてみると林野面積の内、人工林が占める割合は全国平均が四一%であるのに対し熊野古道が通る中辺路町の人工林率は七八%、本宮町は六六%と驚くほど高い数値であった。
この数値から見ても熊野の山々は遠目には緑豊かであるが、過度に植林が進み杉、檜の針葉樹林の緑一色に塗りこめられた単色の山々である。
吉野の植林の歴史は古くおよそ五〇〇年前に始まったと云われている。以来、長年にわたって植林が進み次々に原生林は姿を消しかわって杉、檜に代表される吉野美林を育ててきた。
僅かに残った原生林の象徴が那智の滝の右手に広がる那智原始林である。この森は那智大社の神域として立ち入る事も樹木を伐採する事も禁じられていたために乱伐からかろうじて残った原生林である。
国は貴重な照葉樹林の森として面積およそ三十二ヘクタール(東京ドーム(4.7ヘクタール)6.8個)を保存の対象として国の天然記念物に指定した。
因みに「熊野古道中辺路」が通る中辺路町と本宮町の森林面積を合計すると約三八、四〇〇ヘクタールである。保存の対象となった和歌山県下唯一の原生林は僅か〇・〇八%である。明治神宮の森(約七二ヘクタール)の半分にも満たない僅かな面積である。それでもこの森が熊野の原生林が失われた象徴でもある。
今、熊野の山々の大半は保水力の劣る杉、檜の単相林に覆われ、国は鉄砲水を恐れて熊野川水系に砂防ダムや貯水ダムを建設してきた。その為か否か定かでは無いが那智の滝の水量は細り大瀑布のイメージからほど遠かった。
平安、鎌倉の人々が見た那智の滝は豊かな水量に恵まれ、轟々と流れ落ちる勇壮な滝の姿に神を感じたと思っても不思議ではない。
南方熊楠の書簡集を読むと、明治政府が明治三十九年十二月に発令した神社合祀令によって産土神は廃され同時に貴重な神社林が伐採された。
樹齢数百年の樹林が僅かな金で次々に伐採され、かろうじて残ったのが高原熊野神社の樟であり、野中の一方杉である事が記されている。
南方熊楠は那智の滝の水量が細ったのも、熊野本宮大社を押し流した大水害を引き起こしたのも、熊野のいたる所で自生していた熊野権現の御神木梛の木が姿を消したのも、全てが森林の乱伐であると断じている。
そして、神社合祀令によって産土神が宿る鎮守の杜から神は追い遣られ、魂の抜けた神社林は一瞬にして神域ではなくなった。
村の象徴として連綿と守られてきた樹齢数百年の大樹も注連縄を外されると格好の良材となった。こうして僅かな金で大樹が伐採され鎮守の森が姿を消した。
この法令によって九十九王子社も大きな影響を受け大半の王子社は廃され他の神社に合祀された。
田辺の出立王子から熊野本宮大社までの中辺路には二六の王子社があったが、社が有るのは滝尻王子、大門王子(社は平成四年に復元。)、継桜王子(近野神社に合祀されていたが戦後もとに復した。)、湯川王子(近年、小社殿が再建された。)発心門王子(近年社殿が建てられた。)、伏拝王子(石造の小祠が祀られている。)、祓戸王子(石造の小祠が祀られている。)、湯峰王子の八社に過ぎない。
明治政府の神仏分離令、廃仏毀釈、神社合祀令、修験道廃止令と熊野は苦難の道を辿った。熊野古道を歩いて本宮大社に詣でる事も忘れ去られ、熊野古道は荒廃し、熊野の山々の原生林も失われ、保水力の劣る杉、檜の人工林に姿を変えた。
杉林の中では野鳥の鳴き声を聞くこともなかった。そして、吉野美林は輸入木材に押されて手入れを放棄し、間引きを怠り、枝打ちもなされず荒れ果てたまま放置された杉林を数多く見掛けた。
時代の流れとは云え、忘れ去られていた熊野古道を観光資源として見直し、古道の復元、改修、維持、等々の整備に取り掛かったのは近年の事で平成二~四年頃からである。
その後、和歌山県は観光客の誘致を目指して熊野博(平成十一年四月二十九日~九月十九日迄)を催し古道のイメージを全国に喧伝し修験道の山として一躍全国に知られる事となった。
こうして明治以降、生活道であった熊野古道は甦り平安から江戸時代にかけての信仰の道から古代のロマンを辿る観光の道に再生された。
しかし、我々が歩いた熊野古道と平安貴族が詣でた古道は同じ道筋ではあるが景観が大きく変わり、昔の古道の趣きを失っている。
熊野古道のパンフレットには「古の人の想いを踏みしめて苔むした石畳の道をたどって・・・」と表現しているが中辺路にはそのような苔むした石畳の道の記憶はない。(熊野那智大社に向う大門坂と大雲取・小雲取の熊野古道最大の難所には見事な石畳が敷かれている。)
平安の頃の古道は我々が辿った薄暗い杉林とは趣を異にし、山々は那智原生林に面影を残す照葉樹林の森であった。巨木が天を覆い野鳥が飛び交い、獣が出没する鬱蒼とした樹林の中に付けられた道で有ったと思われる。
部外者が景観を云々し古の自然林に戻す事を願ってもそれは難しい事と思うが、熊野古道は鬱蒼とした自然林の中にあってこそ古道であり、せめて古道の道筋だけでも自然林に戻せないであろうか。
因みに熊野の山林の大半は民有林が占め、熊野古道が通る中辺路町、本宮町の林野面積の内、民有林が占める割合は中辺路町が九三%、本宮町が八二%である。山林地主の賛同が得られなければ実現しえない難問である。
最後に熊野古道中辺路を歩き、「梁塵秘抄」に記されている二句を書き添えたい。(梁塵秘抄とは後白河法皇(一一二七~一一九二年)が当時、流行した歌謡を集め編纂したもの。)
「熊野へ参るには、紀伊路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、
広大慈悲の道なれば紀伊路も伊勢路も遠からず」
「熊野に参らんと思えども徒歩より参れば道遠し、すぐれて山きびし、
馬にて参れば苦行ならず空より参らむ、羽給べし若王子」
この詞を誇張ではなく実感として体感した。そして、古人が鬱蒼とした原生林の中に付けられた難路を厭はず、苦行を楽しむが如く何度となく熊野本宮を目指して歩んだ古道はやはり今も癒しの道であった。
完
平成十二年五月一四~一六日
参考文献
「訓読 明月記」第一巻 今川文雄訳 河出書房新社
「南方熊楠全集」平凡社
「日本書紀」宇治谷 孟著 講談社学術文庫
「日本の原郷 熊野」梅原 猛著 新潮社
「日本の歴史」中央公論社
湯峰王子から熊野那智大社 |